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 心をひとつに世界平和の祈り  このサイトは、全託道場に併設した別院サイト☆過去ログ道場です。
 五井先生の光明思想は従来の光明思想とは一線を画した完成された光明思想です。新旧の光明思想を比較し、五井先生の光明思想の特徴が分かりやすく述べられた五井先生の文章を森島先生が抜粋・編集された文章をUPしました。
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過去ログ道場トップ 森島恒吉先生☆執筆編集録[総目次] 新しい光明思想
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 五井先生の光明思想の具体的な実践法とは「世界平和の祈り」を祈ることであり、「世界平和の祈り」以外に光明思想の行法は不要であり、「世界平和の祈り」が神の子の本体を顕現する最も効果的な方法であるのです。
(森島恒吉先生の法話より)
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新しい光明思想


五井昌久


守護霊様守護神様お願い致します
世界人類が平和でありますように




   〔光明思想とは〕

 光明思想というのは、神のつくり給うた世界に悪や不幸があるわけがない、神の世界は光明燦然とした世界であるというのであり、人間はみな完全円満なる神の分生命(わけいのち)なのである、という思想なのであります。
 常に善いことのみを思い、明るいことのみを思い、悪や不幸のほうに想いを把われないようにすることが大事なのである。実在としては悪や不幸は無いのだ、というのです。


   
〔古い光明思想の欠陥1. ――「悪や不幸は無い」とは思えない〕

 私はその「無い」というところが、この現象世界に生活している人々にとって、無理に思わなければ思えないところなので、「消えてゆく姿」というように順次光明思想に変えてゆこうとして、消えてゆく姿の行き先を、「世界平和の祈り」 という、神の人類救済の大光明である 「祈り言」 のなかに定めてしまったのであります。

   
〔古い光明思想の欠陥2. ――心が苦しくなる〕


 なんでもかでも、善いほうに善いほうに思おうとするのは、実によいことだとは思うのですが、無理に心が納得しないのに、「善いことだ善いことだ」 と心に押しつけていたり、「悪い人だ悪い人だ」と、自然の想いのほうでは思えてくるのに、「善い人だ善い人だ」と無理に思おうとしたりしていると、なんだか心が苦しくなって、体を悪くしたり、反動的に身近な者に当たりたくなったりしてしまいます。

   
〔古い光明思想の欠陥3. ――偽善者になる〕

 体が悪いのに病気でないように見せたり、人に対する憎しみの想いや、嫌悪の想いがあるのに、そんな気持ちは少しもないように、「あの人も善い人で、この方も立派な人で」とやっていると、ついそれが習慣性になってしまって、人ばかりか、自分の心をもいつの間にか騙してしまう、いわゆる偽善者になってしまって、正直な感情を出せない人間になってしまって、他の人から見ると、何か奥歯にはさまっているような、何か本物ではない、正直でない人という印象を受けるようになってしまうのです。


   
〔古い光明思想の欠陥4. ――無理な説教になる〕

 ここが光明思想の道に入った人の陥りやすい欠陥でありまして、このやり方が、他人への説教として現された場合には、説教されているほうが全くたまらなくなるくらい、できそうにもないことを、すぐにもできるように説教してくるのです。
 実際に病気であるものを、病気でないように思おうとしたり、現実に悪いことをしている人を善い人と思おうとしたり、汚いものをきれいだ、と思おうとしたりすることは、実にむずかしいことでありまして、人間の感情がなかなかそうは思わせないものなのです。


   
〔新しい光明思想1. ――「無い」を「消えてゆく姿」にする〕

 人間の習慣の想いというものは大変なもので、いくら 「悪が無い」 「不幸が無い」 「病気は無い」といっても、現在目の前で幾多の事例を見せつけられていますと、理論としてはわかるが、実際には思えない、ということになり、心から湧きあがってくる信念的想念にはならないのです。
 「この世の人々は、みんな神の子で善い人ばかりなのだ」と思おうとしても、現実に騙されたり悪い行ないの人を見たりすると、「みんな善い人」 とは思えなくなってくるのです。また病気や不幸な出来事に会うと、「不幸や病気は無いのだ」という気持ちが揺らいできてしまうのです。
 そういう心の動きを、私は多くの人の体験で知っておりますので、「無い」 という言葉を使わず、「病気も不幸も災難も、あなたの間違った想念も他人の悪い想念も、みんな過去世からの業因縁の消えてゆく姿であって、消えるに従って本心の姿、善なる真なる神のみ心が現れてくるのですよ」 といって、「世界平和の祈り」 のなかに、すべての想念行為を投入させるように、人々を導いているのであります。


   
〔新しい光明思想2. ――「完全円満」を「世界平和の祈り」にする〕

 神のみ心は確かに完全円満であり、悪や不幸や不調和のない世界でありますが、肉体人間として生まれてきたこの物質的地球世界には、まだ神の完全性はその全貌を現しきっていない過渡期なのでありますので、この地球人類の世界には、悪や不幸も病気も災難も存在することは事実なのです。
 そこで、どうしても、現在の悪や不幸の消え去ってしまう期間だけは、人間の苦悩の生活はなくならないので、その苦悩の期間が一日でも短くなるように、守護の神霊への加護を願って、心から 「世界平和の祈り」を唱えつづけてゆこう、というのです。


   
〔新しい光明思想3. ――自然に光明体に還元してゆく〕

 世界平和の祈りを唱えていれば、自然とそれが習性となって絶え間なく、光明波動が心身に入ってきて、知らぬうちに、心の底から、世界人類の平和を願う、世界平和の祈りになってくるものなのであります。
 悪い物事は悪い物事として認め、嫌なことは嫌なこととして認めつつ、世界平和の祈りの中にすべての想念行為を投入して、神の大光明のなかで、常に自己の心を洗い浄めていただきつつ、日々の生活をするのであります。
こういたしますと、無理なく自然に、業波動と光明波動の転換ができて、無理無理に「病気なし、病気なし」  と思おうとしてみたり、「悪や不幸はないのだ」 「光明燦然、光明燦然」 と思ってみたりしなくとも、自然な心の姿で、人間が光明体の本質に還元してゆくのであります。
 無理があると、どうしても長続きしませんし、かえって不正直な人間になってしまったり、心の底で人を嫌がったり、さげすんだりする陰性な人になってしまったりするものです。


   
〔新しい光明思想4. ――自然に光明思想に変えてしまう〕

 普通の人との話合いができるように、悪も不幸も普通の人と同じように認めることができる、ということは、光明思想の新しい行き方でありまして、「悪いものは見るな」 「悪い言葉は聞くな」 式の、狭い光明思想では、やがては行き詰まってきてしまいます。
 当たり前の生活を当たり前にして、しかも悪にも不幸にも病気にも少しも把われず、世界平和の祈り一念で生きられることの幸福は、やりつづけてきた人でなくてはわからない境地ですが、誰でも、短期間でこの道の法悦境はそれとなくわかってくるのです。
 わかりやすくいえば、闇の思想をやさしく、自然に、光明思想に変えてしまう生き方が、消えてゆく姿で、世界平和の祈りの生活なのであります。
五井昌久先生著『宗教と平和』「光明思想の新しい生き方」 より抜粋

(1992年7月20日  森島恒吉 編集)



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