森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


愛の祈りの力
No.9 森島恒吉    1998/08/30 (日) 02:02 静岡県

新聞やテレビなどのマスコミは、一時期の事件事柄だけを取り上げるので、
ちょっと以前にあったインドやパキスタンの核実験については、もはや話題
にものぼりません。次々と起こる毎日の事件事柄を伝えることが精一杯で、
一つのテーマについてじっくりと検証してゆくことは、経営的にも難しいわ
けです。新聞やテレビで核実験のことが取り上げられなくなると、それを見
ている一般の市民たちもまた、核実験について反対も反応も少なくなってし
まいがちです。

日本政府は、国内の経済問題に直面している現在、他国の紛争について考え
る余裕はありませんから、「核実験反対声明」を出しましたが、それっきり
で、外務省だけが、ほそぼそと他国の紛争を解決するように働きかけている
のが現実です。

それならば、国連に「なんとか世界を平和にしてくれ」と言いたいところで
すが、国連にしても、国連があまりにも強い権限を持ち過ぎて、国連の一部
の人の誤った独断で、国連平和維持軍を勝手に動かされても困ります。国連
は、あくまでも国と国との話し合いの場、調整の機関であって、国連という
機関が、どこかの国を支配する、ということはできません。

ですから、マスコミや政府や国連に、「世界を平和にしてもらおう」と期待
しても、どの機関も、世界を平和にする部分的な働きはできても、根本的に
平和にする役目としては、事実上期待できないのです。

では、いったい誰が世界を平和にすることができるのか、といいますと、そ
れは「あなた」なのです。あなたが働いてくれなくては、世界を平和にする
ことは不可能なのです。

次に、どうしたら平和にできるのか、と考えますと、これはすでに答えが出
ています。五井先生が「世界平和の祈り」という世界平和実現法を発見して
下さったのですから、それを素直に実行したらよろしいのです。素直に実行
できない人は、五井先生の教義について、何度も何度も疑っていいから、本
当に正しいかどうかを、頭が痛くなるほど考え抜いたらいいのです。

五井先生の提唱されている「世界平和の祈り」のほかに、世界を平和にする
方法はない、と思い定めたら、今度は、「世界平和の祈り」に全身全霊をか
けるのです。私は、自分の一生を、「世界平和の祈り」一つに賭けました。
ですから、他の人達が、「世界平和の祈りよりも、もっといい方法がある」
とどんなに言ってきても、私は心を動かされることは全くないのです。

核実験をやめさせる方法、核兵器をなくす方法について、先日NHK主催によ
る討論会が放送されていましたが、日本の有識者たちも、海外の有識者たち
も、「核兵器は、どこに、どのくらい保有されている」とか、「核兵器を削
減するシナリオを作成し、現実的に削減してゆくことが大事だ」と、当たり
前のことを発言しているだけで、具体的に効果的な核兵器削減方法を説いて
いる人は、一人もいませんでした。テレビに出演するくらいですから、一般
の人よりはその方面に詳しいはずなのですが、それでも、「核兵器を無くす
には、こうしたらいい」と自信を持って発言する人は、皆無なのです。

核兵器を無くすには、人間の本質や感情想念というものに着目しなくては、
根本的な解決とはなりません。核兵器の発射ボタンを押すのは、ロボットで
はなく、感情をもった人間であるのです。なぜ、核兵器を作り、なぜ核兵器
の発射ボタンを押すのかというと、自己保存の本能と、それからくる相手国
への恐怖と憎悪と敵意の感情によるのです。

いいかえると、人間の心から、相手国への恐怖、憎悪、敵意が消えれば、核
兵器の発射ボタンを押すことはなくなり、核兵器の存在そのものも消滅して
ゆくことになるのです。ところが、日本国内、世界の有識者の多くが、「人
間というものは、争うようにできているのだ」「人間の心から、争う想念を
なくすことなんて、できっこない」という固定観念の上に立って論議してい
るのですから、世界を平和にするいいアイディアが浮かぶはずがないのです。

現在の人間には、恐怖や憎悪や敵意という感情が確かに存在しておりますが、
こうした感情というものは、じつは時間がたてば消えてゆく雲のような存在
にすぎないのです。もし人間の心から、永遠に憎しみが消えないとしたら、
もし人間の本質が不完全な心であるならば、世界平和運動をしても無駄です
から、私もやる気がおきません。そんな不完全な人間であり、そんな不完全
な宇宙であるならば、こんな世界に、私は未練はありません。人を殺したり、
他国を侵略してまで、自分を守らなくてはならない、そんな不完全な人間だ
としたら、こんな宇宙など滅びたらいいのです。

しかし、ありがたいことに、不完全な想念は消えてゆくのであり、消えてゆ
くにしたがって、人間の本質である完全な神性が顕現されてくるのです。そ
の神性を早く顕現する方法として、「世界平和の祈り」が生まれたのです。
今や、答えは見つかったのです。「どうしたら、世界を平和にしたらいいの
か?」と考えたり、「どうしたら、核兵器を無くせるのか?」と思い悩む必
要はないのです。

深い愛の心に満たされている人が、なんで核兵器の発射ボタンを押すでしょ
うか?

一億以上の日本国民が、心を一つにして、諸外国に対して「あなたの国を愛
しています」といい、「あなたの国が平和でありますように、あなたの国の
人々が幸せでありますように」と祈っているならば、一体どこの国が、日本
に核兵器を打ち込む大義名分がつけられるでしょうか?

人類に必要なものは、愛の祈りの力なのです。愛の心こそが、核兵器を無く
す最強の力となるのです。愛には敵はありません。愛には争いはありません。
愛の力は、いかなる武器にも勝る強い力なのです。世界の核兵器を含むすべ
ての軍事兵器は、愛の力の前に消えてゆく運命なのです。

NHKの「核兵器をなくすにはどうしたらいいか?」という討論会で、一度も
「愛」という言葉が、出演者の方々の口から出てこなかったのは、人間の本
質というものを深く考えていないからなのです。

「私たちはインドを愛しています」
「私たちはパキスタンを愛しています」
「私たちは核兵器を持っている国々をも愛しています」

と、なぜ日本人の出演者は発言しないのか?

このような現状を見ますと、先に述べた通り、やはり、世界を平和にするた
めには、私たちはNHKやマスコミに頼っていては駄目なのです。私たちみず
からが、進んで世界平和の祈りを祈り、世界を平和にしてゆく強い勇気を持
たねばならないのです。

どうか皆さん、「自分一人働いたところで、この世界はどうにもなりゃしな
い」と思わないで下さい。あなたの「世界平和の祈り」の一言一言が、世界
を平和にしてゆくのです。あなたの一言の祈りが、世界を平和にする大きな
推進力となるのです。

この掲示板に何も書くことがなかったら、「世界人類が平和でありますよう
に」と一言書いて下さい。ほかに何も思いつくことがなかったら、「世界人
類が平和でありますように」と一言書いて下さるだけでいいのです。そのく
らいは、難しくないでしょう。そのあなたの愛の行為が、世界平和のために
大きな力となってゆくのです。ぜひ、世界を一日も早く平和にするために、
「世界人類が平和でありますように」の一言を、ここに書いて下さるように
お願いする次第です。
ありがとうございました。

あなたが幸せでありますように  




Iさんに、お答えします。
No.17 森島 恒吉    1998/09/01 (火) 22:55 静岡県
Iさんへ

世界人類が平和でありますように
お手紙をありがとうございます。最初にIさんからいただいた、ご質問ご提言ご要望を分けて載せ、それ
に対する私の考えを申し述べることにしたい、と思います。

Q1.
「消えてゆく姿で世界平和の祈り」が唯一無二の存在ならば、「我即神也」の宣言や印なども、いずれは
消えてゆく姿である、とお思いになりませんか?

A1.
おっしゃる通りです。「我即神也」の宣言や印は、消えてゆく姿である、と私も思います。

Q2.
「世界平和の祈り」のみが、唯一無二の真理である、と私も確信いたします。

A2.
「世界平和の祈り」は、真理を顕現する唯一無二の行法である、と私も思います。

Q3.
ただ、こんな業生の固まりのような時代だからこそ、新しい精神文明の世紀へ向かって、一刻も早く、一
人でも多くの人に、人間が神の光の波動そのものである、という真理に気づいてもらわねばならない、
「その真理へつなげるための、一つの動作」(「光明をつかむ」p66)として、自分が「神そのもの」で
あると表現することも、何ら五井先生の教えを後退させるものではない、と思います。

A3.
先程、「我即神也の宣言や印などは消えてゆく姿である」「世界平和の祈りは唯一無二の真理である」と
おっしゃったばかりなのに、なぜ、ここにきて、「我即神也の宣言や印はやはり必要であって、消えてゆ
く姿ではない」「我即神也の宣言や印も真理であり、世界平和の祈りだけが唯一無二の真理ではない、真
理は二つあるのだ」という意味のことを、おっしゃるのでしょうか? 矛盾しているではありませんか?
もともと異なっている五井先生の教えと、昌美先生の教えを、無理に同一の教えと見ようとするから、そ
のような矛盾した分裂思考になってしまうのです。

Q4.
「我即神也」「人類即神也」などという宣言も、「消えてゆく姿」という言葉すらも、今のこの物質文明
の時代の終わりとともに、それこそ消え去ってゆくものである、と思います。

A4.
「我即神也」「人類即神也」という宣言行法は、消えてゆく姿である、と私も思います。

Q5.
いつまでも宣言や印なるものを背負って(坊主の川渡りの話ではありませんが)おられない方がよろしい
かと存じます。

A5.
「我即神也」「人類即神也」の宣言も印も、私は初めからしておりません。ですから「いつまでも宣言や
印なるものを背負っておられない方がよろしい」と私に説くのは、相手を間違えていませんか? 背負っ
ているのは、あなたではありませんか?

Q6.
形だけの宣言や印ならば、ない方がよい、しかし、この時代に真理を広めるためには、形から入るのもや
むを得ない。昌美先生は、その狭間で苦慮されているのではないでしょうか。

A6.
「形だけの宣言や印ならば、ない方がよい」と思っていたら、あなた自身、宣言や印をやめたらいいで
しょう。また、狭間で苦慮するほど迷っている心境ならば、「世界平和の祈り」以外の行法を新しく考え
出そうとしないで、「世界平和の祈り」を素直に信じきることです。

Q7.
一刻も早く、昌美先生の下で、一人でも多くの人に、五井先生の真理・真意・真髄を伝承していただきた
く、切に望みます。興味や好奇心だけで、言葉や形にこだわる信徒が増えつつある今日、真理(基本)を
しっかり学ばれておられる森島氏のようなお心の方こそ、「会」は必要としているのではないでしょう
か。少なくとも私個人は、白光真宏会講師としての森島氏の存在を熱望しております。  

A7.
白光真宏会から、正式に「ぜひ講師になって下さい」と要請があれば、いつでも私は喜んでお受けいたし
ます。「少なくとも私個人は、白光真宏会講師としての森島氏の存在を熱望しております」と、嘘ではな
く、あなたが本当に心の奥底から熱望しているならば、その旨を昌美会長、瀬木理事長に伝えて下さい。

Q8.
私の尊敬する五井昌久先生の教えを伝承する会は、一つであって欲しい。一枚岩であって欲しい。

A8.
あなたは、「五井先生の教えと昌美先生の教えは同一である」という認識の上に立っているのに対して、
私は「五井先生の教えと昌美先生の教えは異なっている」と認識しているのです。現在の白光真宏会は、
昔の五井先生の教えと、それに加わった昌美先生の新しい教えとが、混在しているわけです。

あなたは、五井先生の教えと昌美先生の教えが、本質的に同一であり、時代が変わったので、昌美先生
が、現在の時代に合った教え方をしているだけなのだ、と解釈なさっているようですが、そこが私の見解
と違うところなのです。

「世界平和の祈り」の行法による神性顕現法と、「私は神である、私は完全である、人類は神である、人
類は完全である、世界は平和である」という宣言行法による神性顕現法とは、まるで異なった行法である
のです。

あなたは、「神の分霊である我々が『我即神也』と宣言することは、そもそも自分の神性を否定している
ものである、という理屈も、よくわかります」とお書きになっていますが、ちょっとその点を誤解されて
いるようですから、補足説明しましょう。
神の分霊である本質を完全に発揮した人は、すでに神の分霊であるのですから、「私は神の分霊である」
と正々堂々と宣言しても構わないのです。そこに嘘はないからです。

しかし、まだ神の分霊の本質を完全に現していない心境の人が、「私はすでに神の分霊として完全であ
る」と無理に真理を宣言するところに無理があり、その無理が偽善となり、かえって、神性顕現をさまた
げてしまうのだ、と私は説いているのです。心の奥底では、「私はまだ神の分霊ではない」と思っている
のに、口先だけで「私はすでに神の分霊として完全である」と嘘の宣言しておりますと、種々の変な想念
癖がついてくるのです。 これを、「真理へのとらわれ」と五井先生は説いて、修行者の陥りやすい欠陥
として、私たちに注意を促しているのです。

そこで、「高い真理を宣言する」という、生長の家でやっている「神想観」のような無理な行法をとらず
に、守護の神霊に全託して、自然に自己の神性を顕現していただく行法を、五井先生は選んだのです。そ
れが、法然、親鸞からつづいている他力易行道であり、念仏を現代化した「世界平和の祈り」なのです。

白光真宏会は、五井先生の教えも引き続きやっていますが、昌美先生の教えも加えた行事になっておりま
す。したがって、現在、五井先生の教えを伝承している会は、私どもの唯一会だけです。

以上、Iさんのご質問ご提言ご要望に、お答えいたしました。Iさん、ありがとうございました。

Iさんの天命が完うされますように





世界平和の祈りは永遠なり
No.22 森島恒吉    1998/09/04 (金) 15:05 静岡県
世界人類が平和でありますように

Iさんやミホさんのように、同じ白光の会員であっても、皆さん、それぞれに微妙に教義についての解釈
が異なっていることが、白光の会員以外の人から見ますと、よくわかると思います。その人その人の心境
によって、同じ信仰を持っていても、ずいぶんと違うものなのです。

私などは、昌美先生を熱烈に信仰している人から見たら、まったくの異端者に見えるようです。
「森島さんは、昌美先生に反逆するダイバダッタだ」とののしられたことが、何度あったことか。自分で
言うのもおかしいかもしれませんが、本来ならば、五井先生の教義を正しく伝えている私に対して、感謝
しても感謝したりないほどなのに、逆に誤解して敵意をむき出しにしてくるのですから、現在の人間はつ
くづく凡夫である、と思います。

昌美先生は、「人即神也」と宣言するように教えておられるのですから、私に対しても「森島さん即神
也」と言ったらいいのに、と思うのですが、「それはできない」とその人は言うのです。それでは、その
人自身、昌美先生の教えを守っていないではないか、と私は言いたいのです。自分が昌美先生の教えを守
らず、自分に都合のよいところだけを使って、私を「ダイバダッタ」と言うのは、はなはだ矛盾してい
る、と思うのです。宗教に敵があってはなりません。少なくとも、私には敵はありません。

ところで、前に「素直な生き方」という問題があったので、それに対してお答えしておきましょう。
「白光真宏会で決まったことに対しては、それに従うことが、素直な生き方だ」と、Iさんは、五井先生
のお言葉を例にして、ご説明されていました。
五井先生がご在世中に、会で決めるようなことは、五井先生の教義に関する根幹的な問題ではなくて、会
の組織としての運営のあり方や、行事に関する枝葉の問題なのです。いくら会で決まったからと言って、
「五井先生、このたび、世界平和の祈りよりも、もっとすぐれた祈り方や方法が見つかりましたので、会
としては、それをしたいと思います。五井先生もしたがって下さい」と理事長が五井先生に言ったら、即
座に「何を考えているんだ。バカヤロウ!」と五井先生に一喝され、「駄目だ」と否定されるでしょう。

素直と服従とは、似てはいますが、まったく違う意味なのです。
旦那さんが妻に「これから、オレは泥棒に出かけてくるぞ」と言ったら、「それでは、支度しなくちゃ、
いけませんね。あなた、大風呂敷にしましょうか? それとも小風呂敷にしましょうか?」と妻が答え
た、そのように、妻が夫にしたがうことが、素直な生き方である、とまじめに説いている宗教者がいます
が、こんな妻の行為が、素直な生き方であるわけがありません。
そんな時には、必死で、夫が泥棒に行かないように注意し、警察にかけこんででも、夫の誤った行為を止
める、というのが、真実の素直な行為といえるのです。それが真実の愛でもありましょう。

ですから、会の言うことを、なんでもかんでも、無批判に受け入れて、自分の頭で判断せずに、そのまま
したがうことが、素直な信仰だ、と思っていたとしたら、大変な誤りなのです。そうした誤った信仰が、
社会で事件を起こす邪教集団を作ってゆくのです。五井先生の教えは、信者を無批判にさせ、各自の判断
力を失わせ、盲従服従を強要するような教えではなく、人々を自由にさせる宗教なのです。
「昌美先生の教えが正しい」と信じるのは、その人の自由ですが、「会で決めたことには素直に従いなさ
い」と、なんの理論的な説明なしで、他人に説得したところで、知性的な人々が、納得するはずもありま
せん。「ただ信じなさい」と言ったところで、そんな無理論の宗教が、広まるはずがありません。
素直とは、「真実に直くあれ」ということで、「業想念に妥協しろ」という意味ではないのです。

ミホさんは、「世界平和の祈りも、我即神也の印も、人類即神也の印も、今の時代には必要なもの、と信
じております。将来的には、みんな消えていくものと思っております。」とおっしゃっていますが、少し
私の見解と異なっている点を申し上げましょう。

それは、「世界平和の祈りは、消えてゆく姿ではない」ということです。
「世界平和の祈り」は、地球史上で、最初で最後の真の祈り、であるのです。神の御心でないものは、す
べて消えてゆきます。しかし、神の御心は永遠に消えることはありません。ですから、神の御心である
「世界平和の祈り」は、この地球が平和になったら、消えるものではなくて、地球が平和になった後も、
永遠に唱えられる祈りであるのです。

「(百年後に)世界人類が平和になりますように」という祈り言であったら、世界が平和になったら、そ
の祈り言は不要な言葉になります。しかし、「世界人類が平和でありますように」とは、「(今から永遠
に)世界人類が平和でありますように」という意味を含んだ祈り言なのですから、地球が平和になった後
も、地球人類は「世界人類が平和でありますように」と永遠に祈り続けるのです。
地球よりもずっと前に平和な世界を実現させ、今では地球を天空のはるかかなたから見守っている宇宙人
たちも、空飛ぶ円盤の中で「世界人類が平和でありますように」と祈っているのです。

とにかく、常に思うことは、「皆さんに、五井先生の本を、もっとよく読んでいただきたいな」というこ
とです。五井先生の本をすべて読んだくらいで、すでにわかったつもりになってはいけません。何度も何
度も、五井先生の本がボロボロになるまで読んで、ボロボロになったら、また新しく本を買い換えて、そ
の本もまたボロボロになるまで、繰り返し繰り返し、読んでもらいたいものです。
そして、わからない点があったら、ご遠慮なく私にどんどん尋ねて下さい。できるかぎり、わかりやす
く、やさしく、五井先生の教えを、私が解説してあげましょう。私は、その為に存在するのですから。

あなたが幸せでありますように






信仰を選択する自由があるべきです
No.26 森島恒吉    1998/09/09 (水) 07:51 静岡県
世界人類が平和でありますように

驚いたなあ!そこまで私のことを知っている会員さんは、最近いませんから。白光真宏会の青年部
が発行する「青空」に『HELP』というユーモア小説を書いたのは大分前ですし、また、合気道の師
匠の言葉をまとめた私の本も読まれているのですから、あなたは相当古い会員さんか、幅の広い大
変な勉強家ですね。それに、とても謙虚な方ですね。

ご質問をお寄せいただき、ありがとうございました。お答えさせていただきます。

Q1.
私も五井先生と昌美先生の教えは異なっていると思います。現在は行が複雑化され念力的になって
いるのではないでしょうか。
そこで森島さんに質問ですが、森島さんは白光真宏会から講師になるよう要請があれば…

(1)昌美先生の指導する教えと、森島さんが指導する五井先生の教えと、
  二つの教えどちらでも好きな方を会員は学べばいい。

(2)昌美先生の教えは間違っているので本来の五井先生の教えに改める
  よう会の人に指導する。

どちらですか?

A2.
白光真宏会の会長は、昌美先生です。白光真宏会の内部組織の運営や教義に関する、すべての採択
権限は、昌美先生にあります。その講師になった以上、教義の解釈や方法について、昌美先生に意
に従わねばなりません。これは一つの組織を維持する上で、常識的なことです。

以前、私は昌美先生に「昌美先生は、光明思想のここが誤解されていると思いますから、せんえつ
ですが、光明思想徹底行は、おやめになったほうがよろしいかと思います」と進言したことがあり
ました。しかし、何度、昌美先生に進言したところで、聞き入れては下さらなかったのです。
そんなことがあって、「これはもう、いくら話しても駄目だな」とあきらめたのでした。

つまり、「昌美先生の教えは間違っている」と言ったところで、聞き入れてはもらえないし、昌美
先生にさえ改めてもらえないのですから、まして会員に、五井先生の教えに改めるように指導した
ところで、徒労に終わるだけでなく、かえって会員から反発をくらってしまい、無駄な争いが生じ
てしまいます。

一番いいのは、白光真宏会が、「世界平和の祈りと我即神也のどちらでも、お好きなほうをやって
下さい」と寛容な態度を見せてくれればいいのです。海外ではWPPSを一方でやっているのに、
なぜか国内では、「世界平和の祈りと我即神也は、ワンセットだ。世界平和の祈りしかやらないや
つは、昌美先生への反逆者だ。森島さんは危険人物だから、森島さんに近寄るな。森島さんと話す
な」とごく一部の職員ですが、教えているのですから、矛盾はなはだしいのです。

「世界平和の祈りと我即神也は同じでしょう?」と言う人がいますが、現実には同じではないので
す。その証拠に、「世界平和の祈り」だけをやっている会員は、講師にはなれませんし、集会とし
ても認めてはもらえません。「我即神也」をしなければ、講師にはなれないし、集会としても認可
されないのです。皮肉にも、五井先生さえも、白光真宏会の講師にはなれない、ということです。

この事実から、「世界平和の祈りと我即神也は同じだ」と口では言っているのですが、「世界平和
の祈りよりも、我即神也のほうが、より高い行であり、より重要な行なのだ」と本音では思ってい
るわけです。もし、本当に「世界平和の祈り」と「我即神也」が等しく同じ行であるならば、「世
界平和の祈り」だけをしている会員も、等しく講師になれるはずだし、集会として認められるはず
だからです。昌美先生が「我即神也」を「世界平和の祈り」よりも高い位置に置いているのは、こ
うした会の運営から見て、明らかな事実なのです。

したがいまして、私が白光真宏会から講師を要請されることは、現在のところ無いと思います。
では、もし「森島さんのご自由に教えてかまいません」という条件つきで、講師になったとした
ら、私はどうするか?
その場合には、(1)と(2)を融合したような指導法になるでしょうね。

昌美先生の教えと、五井先生の教えのどちらでも、好きなほうを、会員は選べばいいのです。
そうした選択の自由があるべきです。昌美先生の教えが好きだったら、昌美先生の教えをとことん
信じてやったらいい。そのかわり、五井先生の教えを信じる自由も、与えるべきなのです。会員側
で、どちらでも、選択できる自由があるべきなのです。

ところが、現在の白光真宏会では、会員にそうした選択の自由を与えていないのです。「世界平和
の祈り」だけをやっている会員は、昌美先生への反逆者とみなすのですから、「無限なる寛容」と
は口先だけで、狭量この上ないのです。

私がもし講師になったら、というご質問に戻りますが、会員に自由に選ばせて、「五井先生の教え
を学びたい」と私のところに来た人だけを対象に、私は五井先生の教えを解説するつもりです。
「求めよ、さらば与えられん」というキリストの言葉のように、五井先生の教えを求めてこない人
に、無理に改めさせようとしても、無理だと思います。それに、私は昌美先生の教えに対して、積
極的に「反対運動」をするつもりはありません。

「光明思想徹底行」を発表してからすでに約8年、「我即神也」を発表して、すでに数年がたちま
した。今さら、「あれは間違っていました」と簡単に前言をひるがえすわけにはいきません。です
から、もはや、昌美先生にお考えを変えていただくように期待するのは難しい、と思うのです。

そこで私は、「流れに逆らうことはせずに、別の新しい流れを作るべきだ」と思うのです。
その新しい流れが、白光真宏会会員有志の「唯一会」であるのです。私たちは、白光真宏会に会費
を納めていますし、寄付もしております。それに少なくとも「世界平和の祈り」をしている以上、
白光真宏会としては、私どもの活動に「反対」はできません。「世界平和の祈り」に反対するとい
うことは、教祖五井先生に反対することになるのですから。

五井先生の教えが、多くの人々に本当に理解されるようになるまでには、深い愛と忍耐力が必要で
あり、まだまだ時間もかかるのです。それまで、細々とでもいいから、五井先生の真実の教えを、
後世に継承するグループが必要なのです。それが私たちの天命であるのです。

他のご質問については、項を改めてお答えすることにいたします。




世界平和の祈りは完全である
No.27 森島恒吉    1998/09/09 (水) 10:06 静岡県
世界人類が平和でありますように

引き続き、A.Kさんのご質問にお答えします。

Q2.
五井先生の教えを長く学んだ人が、先生がなくなられると何故、まるで異なった行法にかわってし
まうのでしょうか? なぜ、いろんな考え方に分裂するのでしようか?

A2.
五井先生の教えを長く学んでも、五井先生の教義の真意を理解できなかったために、自己流の解釈
にとどまってしまい、五井先生が教えた行法とは異なった行法をするわけです。それだけ、五井先
生の教えは、入り口はやさしいのですが、奥は深く、むずかしい、といえます。

五井先生の教義を真実に理解していないと、周囲の思想の影響をいろいろと受けてしまうのです。
どうしても、世間の流行本に、目も心も奪われてしまうんですね。
たとえば、アメリカの「積極思想」の本を読んで、「これは五井先生の光明思想と同じだ」と安易
に解釈してしまったり、「我は神なり、完全円満、病気無し」の本を読んで、「これは五井先生の
消えてゆく姿の教えよりも、高い教えだ」と錯覚してしまう、ということがあるのです。また、そ
の人その人の心境によって、五井先生の教義の解釈が異なるために、いろいろな考え方に分裂して
しまうのです。

しかし、今のように間違ったままではいけませんから、五井先生の教義を正しく伝えるために、五
井先生は、私を働かせて下さっているわけです。そして現在の事態も、「消えてゆく姿」なので、
いずれは、五井先生の教義が、誰にも明確に理解できるようになり、異なった行法も消え、分裂も
消え、「世界平和の祈り」に、すべての人々の心が統一される日がくるのです。

Q3.
現在の白光会を、救世の大霊団の中におられる五井先生は、どう見ておられるのでしようか?

A3.
昌美先生が、五井先生の教えとは違った教えを説いてしまっていて、一見、神様の失策のように見
えますが、じつはこれには深い意味があって、昌美先生は「試みのお役目」をなさっているので
す。「天と地をつなぐ者」という五井先生の自叙伝をお読みになれば、おわかりのように、守護神
というのは、人間の心境を高める時に、「厳しい試み」を行なうのです。
守護神って、「嘘をつかない」とふつう思うでしょ。ところが、その人の心境を高める時に、わざ
と「嘘八百」並べる時があるんですよ。それに気づかなくては駄目なんです。

五井先生は、厳しい目で、会員さんを試みているのです。
「どれだけの人が、私の教えを理解しただろう? 私は世界平和の祈りが最善の祈りである、と説
いたが、どれだけの人がわかったかな?」と試みているのです。ところが、あれほど五井先生が
「世界平和の祈り以上の行法はない」と口をすっぱくして説いたにもかかわらず、大半の人が、五
井先生の教えを忘れて、神様の試みに落第してしまったのです。
モーセが、民衆に数多くの神の奇蹟を見せながら、モーセがちょっと姿を隠すと、モーセの教えを
忘れ、モーセを疑い、邪教に陥る民衆の愚かさが聖書に書かれています。それと同じことが、今起
きたのです。そこで五井先生は、私を通して、改めて教義をわかりやすく説くことにしたのです。

五井先生は「世界平和の祈りが最高の行である」と今でも説いておられますし、「世界平和の祈
り」をする人々の所に働かれ、愛の光明を与えておられます。

Q4.
地上天国はいつ現われるのですか?
宇宙人・神霊の肉体化は?
宇宙子波動生命物理学の発表は?

A4.
いずれも、西暦3000年以降になると、私は見ています。 

Q5.
白光真宏会がこのようになっていて、「世界平和の祈り」は、ほんとうに力があるのでしょうか?

A5.
「世界平和の祈り」は、永遠に光り輝いており、今も真実に大光明力を発揮しています。ただし、
その人の祈り方や信念の違いによって、「世界平和の祈り」の効果も異なってくるのは事実です。

たとえば「世界平和の祈りだけをやっていたのでは駄目だ。別の行法もやらなくてはいけない。世
界平和の祈りは不完全だ」とあれこれ思いながら、「世界平和の祈り」を祈っていても、そこには
「世界平和の祈り」に対する不信の念があるのですから、その不信の想いがあるだけ、「世界平和
の祈り」の効果は薄れるのは当然です。白光真宏会の会員が、どんなに熱心にやっても効果が現れ
ないのは、「世界平和の祈り」を「完全な祈り」と信じていないからなのです。

「世界平和の祈り」は、それ単独で祈った時、本来の最高の光明力を発揮するのです。「世界平和
の祈り」一つに全託した時、はじめて最大の光明力を発揮し、安心立命を得ることができるので
す。「世界平和の祈り以外に、私は何も必要ない」という安心しきった境地に到達できるのです。
「世界平和の祈り」に全託することは、「世界平和の祈りは完全です」と神様に宣言することです
から、「世界平和の祈り」の持つ完全な光明力が、自己の上に発揮されてくるのです。これは理屈
ではありませんから、本人に体験していただく他はありません。

「世界平和の祈り」は、その力を失うことはありません。「世界平和の祈り」だけを祈りつづけて
いる私を中心にして、救世の大光明は、今も力強く輝いております。

以上、ご質問にお答えさせていただきました。ありがとうございました。
あなたが幸せでありますように




神の試みについて
No.29 森島恒吉    1998/09/10 (木) 05:32 静岡県
JUSTさんへ
 
世界人類が平和でありますように

見方によっては、私の言っていることは、「すごい無茶苦茶」に思えるかもしれませんね。私とし
ては、昌美先生を擁護するために、昌美先生をできるかぎり、かばって「試みのお役目」と言って
いるつもりなのですが、昌美先生を素直に信じている、あなたの目から見れば、私の言葉は「すご
い無茶苦茶」に聞こえるかも知れません。確かにショッキングな事だと思います。

あなたは、私の言葉を信じる必要はありません。私の言葉は、「間違いだ」と思って結構です。
これからも今まで通り、昌美先生の教えを信じて、信仰の道を歩んでいって下さい。
貴重なご意見をありがとうございました。

あなたが幸せでありますように




消えてゆく姿の教えの真髄
No.36 森島恒吉    1998/09/25 (金) 16:29 静岡県  
世界人類が平和でありますように

まだパソコンが直らないのですが、私の法話を読みたいとのご要望が多いので、プロバイダのパソコンを
お借りして書くことにいたします。私はふだんは親指シフトキーボードを使っているのですが、今はJI
Sキーボードを使っております。やはり親指シフトのほうが断然速いですね。

法友のKさんから、ご質問をいただいたので、それにお答えいたします。

Q1.
森島さんは、五井先生のことを全て理解されているそうですが、つまり、すでに大安心を得ておられると
いうことですか?

A1.
はい、その通りです。私は五井先生に全託し、五井先生に救われて、私は大安心を得ております。

Q2.
そうすると、日常的には、消えて行く姿は、やはり現れるのでしょうか?例えば病気をしたりとか、仕事
上のトラブルとか、あるのでしょうか?あっても、それをとらえる心境が違うのでしょうか?病気にして
も、個人的なカルマの消えて行く姿ではなく、人類のカルマを浄めるためにされたりするのでしょうか?

A2.
現在の私は、どこから見ても不完全な人間です。現在の私は、神性を肉体界に顕現する過程にあります。
どこまで心境が向上しても、どこまで偉くなっても、完全になるまでは、不完全であるのです。私にも個
人的な業想念が残っておりますし、その業想念が現れては消えてゆきます。ですから、私も病気になるこ
とはありますし、常に完全な健康体であるわけではありません。しかし、私には五井先生から教えていた
だいた解決法「消えてゆく姿で世界平和の祈り」がありますから、深刻に悩むことはありません。

完全な人間ならば、「消えてゆく姿」の教えは、必要ないのです。不完全な人間だからこそ、「消えてゆ
く姿」の赦しの教えが、必要となってくるのですし、守護の神霊の加護が必要となってくるのです。
病気にしても仕事上のトラブルにしても、ふつうの人々は「いつまでも存在する」と思っているのです
が、私は「これは実在ではないから、時間がたてば消えてゆくのだ」と知っているわけです。ふつうの
人々が、未来への不安と恐怖にさいなまれるのに対して、「消えてゆく姿」の教えを知っている人は、
「もう少し耐えれば、あとは必ずよくなるのだ」と希望が湧いてきて、明るい心境でいられるのです。
そしてもちろん、心境だけでなく、守護の神霊に祈らない人々より、ずっと早く自己の業想念が消滅さ
れ、現実の病気が消えてゆき、不幸災難にあうこともなくなってくるのです。

業想念が消えるまでの期間については、個人個人によって業想念の厚さが違いますから、一概には言えま
せん。今生で消える小さな業もありますし、民族紛争のように何生もかけて消えてゆく根深い業もあるの
です。しかし、「消えてゆく姿」の教えを真実に理解した人にとっては、業想念消滅の時間が、短かろう
と長かろうと、もはや時間は問題ではなくなってくるのです。

「個人的なカルマだけではなく、人類的なカルマを浄めたりすることはあるのですか?」というご質問に
ついては、個人人類同時成道ですから、個人のカルマと人類のカルマを特に区別することはありません。
大げさに力んで、「これより人類のカルマを浄めるぞ」というような行事はいたしません。私は他力道で
「守護の神霊に浄めていただく」という方法をとっておりまして、肉体の自我意識で人類のカルマを浄め
ようとは思っておりません。空になっている私の体を使って、神様が人類を浄めているのは事実です。

外見的には、私も普通の人間なのです。ただ普通の人とちがうのは、世界平和の祈りの中に、いつも入っ
ていることです。ですから、安心感がありますし、必要な知恵がスーと出てくるのです。地球の裏側に住
んでいる乞食の運命など、必要のないことはわかりませんが、五井先生の教えについては、すべてがわか
るのです。釈尊の同時代に、市井にありながら、釈尊と同じ悟りの境地で、自由に行動していたユイマ居
士のように、消えてゆく姿があっても、守護の神霊のご加護によって、日常生活を崩さずに、誰でも悟る
ことができるのです。「消えてゆく姿で世界平和の祈り」という中庸光明思想の教えは、無理なく自然
に、個人も人類も同時に救い、地上に真理の大光明を現してゆくのです。

ありがとうごさいました。


T.F.さん、ありがとうございます。
No.38 森島恒吉    1998/09/28 (月) 17:53 静岡県  
世界人類が平和でありますように

T.F.さん、ありがとうございます。このHPは、あなたのような方に、ぴったり合っている、と思い
ます。「世界人類が平和でありますように」という合言葉を一言書いて下されば、どのようなご意見で
も、どなたでも、ご自由にご発言できます。これを機会に、末永くお付き合いのほど、お願い致します。

すでに他界された講師の小坂さんについては、私もよく存じております。とてもご熱心にご活躍されまし
た。会員が多くなりますと、自然と気の合った者同士のグループができるものですが、小坂さんにも多く
のファンがいました。そのファンの中の一人に、私の親しい法友Aさんがいました。

小坂さんが他界された後、そのAさんは白光をやめたのですが、「なぜ、白光をやめたの?」と電話で尋
ねましたら、開口一番「昌美先生が悟っていないから…」という返事がかえってきたのです。
その頃は、私は合気道の指導で海外にいて忙しかったために、白光の活動は何もしておらず、白光誌も読
まず、聖ヶ丘にも行かず、白光内部で、地殻変動がひそかに進行していることを知りませんでした。

Aさんが熱心に「世界平和の祈りのステッカー」を各家に貼って歩いたり、聖ヶ丘統一会にいつも欠かさ
ず参加していたことを思い出しながら、私はAさんに言いました。
「昌美先生が、たとえ悟っていなくても…五井先生の教えは正しいんだし、世界平和の祈りは正しいんだ
から、なにもやめることは、ないんじゃないの?」
私の明るくのんきで楽天的な言葉に、一瞬とまどったAさんは、再び深刻な声で答えました。
「もう…私は昌美先生についていけないんです」
「そうか、それじゃ仕方ないなあ。ところで喜多郎のチケットがあるんだけど、コンサートに行きません
か?」とあいかわらずノンキな私は言う。
「喜多郎も一時期、白光に来ていたでしょう。私は、白光に関する人も物も、すべて縁を切りたいんで
す。だから、せっかくですけど行きたくない」とAさんの態度は硬い。
「エー?そんなに白光のことが嫌いになっちゃったの?」
「悟っていない昌美先生には、私どうしてもついていけない!」
Aさんとの会話で、そんなやりとりがありました。

五井先生の他界後、昌美先生がとどこおりなく後継者となられて、昌美先生はじめ多くの職員や講師が、
教えを説いています。「私のような能力のない者に、白光で働く余地はない。皆さんにお任せしよう」と
白光の活動の第一線から退いていた私は、そのAさんとの会話がきっかけとなり、再び白光誌を読むよう
になり、昌美先生の法話を久しぶりに読むようになったのです。その時、白光内部でおきている異変に、
私は気づきました。昌美先生の教え方が、五井先生の教えから少しずつズレてきてしまったことに、直観
的にすぐに気づいたのです。

「これは大変なことになった!」と私は思いました。
それからの私は、誰にでも理解できるように、五井先生の教えを整理して、昌美先生の教えと比較表を作
り、昌美先生の誤りを、はっきり浮き彫りにさせました。理事長も副理事長も、昌美先生の誤りに気づき
ません。会の講師や会員の中にも、昌美先生のことを批判している人もいますが、直感的に批判している
だけで、そこには理論的なものはありません。批判しているだけでは、悪口と変わりありません。批判に
は、正しい理論の裏付けと、深い愛の祈りが、欠かせないのです。このような経過があって、「世界平和
の祈り」を最高の祈りとする、五井先生の教えを忠実に守り継承する唯一会を、私は創立したのです。こ
の唯一会は、五井先生の御心により生まれたのです。

現在のような昌美先生の教え方では、早晩、TFさんのように、「自分は落ちこぼれてしまった」とか、
昌美先生から指示されたように実行できないことに、もがき苦しむ人たちが出てくるのは当然です。
先日、高橋副理事長が「このところ、毎年1000人もの会員がやめている状況で、大変困っています」
と訴えて、「会員を増やすように、皆さんご協力をお願いします」と頭を下げていましたが、「なぜ会員
がやめてゆくのか?」という根本的な原因を探求せず、謙虚に反省もしないで、ただ「会員を増やしてく
れ」とお情けに訴えるだけでは、誤りが正されていないのですから、会員が増えるはずがありません。

現在の昌美先生の教えは、アメリカの自己啓発の教えと、生長の家の教えが、入り混じったものですか
ら、救われを感じる人がいないのです。「苦悩の終焉」という新しい本のタイトルにしても、谷口雅春氏
著「苦からの解放」の序文の一句「苦の終焉」にきわめて似ています。そのほか生長の家の出版社である
「日本教文社」発行の本からの引用が、あまりにも多すぎます。「無限なる光明」の「光明思想徹底行」
は、生長の家の「神想観」と同じですし、「非光明思想消滅行」は、生長の家の「浄心行」と同じです。
少し言葉は違っていますが、原理は同じです。こんなありさまでは、五井先生の教えが、真実に生きるは
ずがありません。

TFさんのように、私のHPをご覧になって、力が湧いてくるのは、私が五井先生の教えを、そのまま伝
えており、私の文を通して、五井先生の光明を感じるからなのです。ですから、力がモリモリと湧いてく
るのです。「世界平和の祈り」は真実の祈りであり、これ以上の行法は永遠に現れません。
どんな教えを聞いても、どんな神示を受けても、一度はすべてを「消えてゆく姿」として、「世界平和の
祈り」の中に入れてしまうのです。そうしていれば、本物でない教えや神示は、消えてゆき、行為として
現れてはこないのです。もし本物であるならば、「消えてゆく姿」と否定しても、自然とその人の行為と
なって現れてくるものなのです。

TFさん、元気を出して、「世界平和の祈り」に全託して下さい。
ありがとうございました。


「祈りの中に入る」とはどういう意味ですか?
No.39 森島恒吉    1998/09/29 (火) 16:11 静岡県  
世界人類が平和でありますように

Kさんから、次のようなご質問をいただきましたので、お答えしたいと思います。
Q.
五井先生のお言葉でよく出てくる「世界平和の祈りに入る」と言う表現が、私にはどうもよくわからない
のですが、他の言葉で言い換えると、どうなるのでしょうか? 大事なことだと思うのですが・・・
「祈りに入る」の意味は「祈る」と同義でしょうか?
ただ祈れば、祈りに入っている、といえるのでしょうか?
それとも人が入れる、目に見えない祈りの空間ができて、それに入ると言うことでしょうか?

A.
Kさんのこのご質問は、小さな問題に見えますが、実は宗教の核心をついた一番大事な問題なのです。
「祈る」ということと、「祈りの中に入る」というのは、厳密に申しますと違うのです。
「祈る」というのは、生命の宣言という深い意味のほかに、ふつうは祈りの言葉を唱える動作をあらわし
ますが、「祈りの中に入る」というのは、業想念波動圏の世界から抜け出て、世界平和の祈りの光明波動
圏の世界に、その人の想念が真実に入りこんでしまう、ということなのです。

その心境になりますと、肉体を持ち、肉体界にいながらにして、業想念を感じる神経は持っているのです
が、業想念の波にとらわれず、明るく、穏やかで、感謝に満ちた日々を送れるようになるのです。
「業想念の波にとらわれない」ということは、ふつうの人と同じく喜怒哀楽を感じるのですが、いつまで
も滞ることがなく、想念がスーッと消えてゆくのを観じることができる、ということです。
それはちょうど、天と地をつなぐ霊波動でできている柱があって、電気掃除機でゴミが吸い込まれてゆく
ように、地上の業想念がつねに天へスーッと吸い込まれてゆくのです。いいかえると、その時、肉体の中
は空になっているわけです。

肉体を持ちながらも、光明波動圏内に入りこみますと、業想念に左右されることがなくなり、不動心を得
て、いつも気持ちが明るく、爽やかでいられるのです。その境地を、五井先生は「祈りの中に入る」と説
いているわけです。五井先生は、このほかにも「祈りの中に投げ入れる」という表現も、よく使われます
が、やはり同じ意味です。

では、どうしたら、「祈りの中に入る」ことができるのでしょうか?
それには、「祈り方」を知らねばなりません。私がこの「祈り方」に気がつくまで、20年もの歳月がか
かったのです。その方法については、皆さんの考えるべき重要な公案として残しておき、ここでは教えな
いことにいたします。いくら考えてもわからず、「どうしても学びたい」という強い熱意のある人は、私
の主宰する塾においでください。直伝でお教えいたします。

ありがとうございました。


「世界平和の祈り」は現代の全託行
No.42 森島恒吉    1998/09/30 (水) 17:41 静岡県  
世界人類が平和でありますように

SNさん、お久しぶりです。私もSNさんとお話できて、とてもうれしく思います。
ここは皆様の楽しい交流の場ですから、これからも、なんでもどんどん書き込んでくださいね。
さて、SNさんのご質問にお答えいたします。

Q1.
なぜ、全託が必要なのでしょうか?
A1.
神の分霊としての力を、すでに完全に発現している人ならば、もはや全託する必要はありません。
人間は本来、神の分霊です。ですから、「私たちは神の分霊である」と言ってよろしいのですが、正確に
申しますと、五井先生が「本来」という言葉をつけているように、「本来、私たちは神の分霊であって、
業生ではない」のであって、「現在の私たちは、内部に神の分霊を蔵しつつも、業想念に取り囲まれてい
て、神の分霊としての真価を充分に発揮していない状態」であるのです。

そこで、どのようにしたら、業波動から超越し本来の人間が持っている神性を顕現できるか、と古代から
種々様々な修行方法が編み出され、その中から悟る者、聖者賢者が現れ、各自の体験をもとにした宗教が
現れるに至ったのです。

その修行方法を大きく分類すると、自分の強い意志力で自分の想念行為をコントロールして、内部神性を
発現してゆく自力行と、「肉体人間の自分は罪悪深重の凡夫なり、自分は何事も為し得ぬ凡夫なり」と自
己を見て、守護の神霊のご加護を信じて、守護の神霊に自己のすべてをお任せし、守護の神霊の力によっ
て、人間本来の神性を現していただこう、という他力行の二つに分けられるのです。前者を自力門、自力
難行道、後者を他力門、他力易行道とも言います。

自力行の代表的な人物は、禅宗の道元禅師、白隠禅師、ヨガの聖者などで、他力行の代表は、浄土宗の法
然聖人、親鸞聖人です。五井先生の守護神である役の行者は、修験道の祖で自力行の代表的な指導者でし
たが、霊界に移行してから、まだまだ奥深い計り知れないほど高い神霊の世界があるのを知り、自力行の
限界を悟り、神様に他力した瞬間、大悟できたのでした。そうした経緯から役の行者は、五井先生の指導
にあたり、初めから五井先生に他力行を勧めたのです。五井先生の指導法が、他力道であるのは、そのよ
うな霊的な事情があったからです。

仏教で一番初めに他力門を説いて、自ら実行したのは誰かと申しますと、その人は阿難尊者であります。
また、イエス・キリストの教えも、「神の御心のままになさしめたまえ」と全託の祈りを祈るのですか
ら、当然、他力行の教えです。神道でも、人間は神の子としており、ことあげせずと言って、決まった行
はないことになっておりますが、実際には「守りたまえ」という祈りをあげていますから、他力行といえ
るのです。

全託というのは、そうした他力行の方法でありまして、守護の神霊のみ心の中に、自己の全想念を投入し
てしまう行為をいうのです。「守護霊様、御心のままになさしめたまえ」と自己を守護の神霊の光明の中
に全託してしまいますと、それまで存在していた自己の業因縁が急速に浄められて、本心本体のすなわち
神人の自分が無理なく現れてくるのです。このように神の分霊の自分が完全に現れきるまで、守護の神霊
への全託行は、必要であるわけです。

その全託行の祈りを、個人人類同時成道の祈りに広げて、幼児からお年寄りまで誰でもわかりやすく、実
行しやすくした、現代の全託行の祈りが、五井先生の提唱されている「世界平和の祈り」なのです。
「世界人類が平和でありますように」と祈っているとき、あなたは、守護の神霊の御心の中、大神様の御
心の中に全託しているのです。そして、「世界平和の祈り」をくりかえしているうちに、しだいに大光明
波動に同化してゆき、完全円満な神の分霊のあなたが、そこに忽然と顕現されてくるのです。

Q2.
全託してしまうと、今まで「世界平和の祈り」をして積み上げてきた善行が、すべて消えてしまうような
気がします。よい行いや、よい言葉を発すること、よい想念は、結局無駄なのでしょうか。
A2.
「世界平和の祈り」は、肉体人間の私たちの善なる想念力で世界平和を創造する、というのではなくて、
「私たちの力ではもうどうしようもありませんから、神様、世界を平和にして下さい」という気持ちで祈
るのものであって、「世界平和の祈り」そのものが、すでに神への全託の祈りであり、善行なのです。で
すから「世界平和の祈り」をすることによって、悪業因縁は消えてゆきますが、善行が消えてしまうこと
はありませんから、ご心配はいりません。

また、善い行ないをしたり、善い言葉を話したり、善い想念を発することは、もちろん正しい行為ですか
ら、無駄になるはずがありません。ただし、ここで気をつけなくてはならないことは、そうした善想念行
為が、口先だけの形式的なものであったり、偽善的なものであってはならない、ということです。本心か
らあふれ出た、自然な善想念行為でなければ、かえって、その人の神性を覆い隠してしまう結果となるの
です。以前よりも人格が劣ったり、一般の人々から見て、「あの人は、偽善者だ」と嫌われてしまうこと
があるのは、真理の言葉、善なる言葉にとらわれて、正直でなくなるからなのです。

人間は、本来、神の分霊であるのですから、「善い想念行為をしよう」と力まなくても、自然に神の行為
そのものの善い想念行為をするように、本来はできているのです。その本心の現れを邪魔しているのが、
本心の周囲を取り巻く業想念ですから、「世界平和の祈り」の大光明波動によって業想念が消え去れば、
おのずと、あなたは神の分霊として、「善行為をしよう」とことさら念じなくとも、無為にして善行為が
できるあなたに成っているのです。これを光明思想というのです。

そうした原理をもとに、私は「世界平和の祈りだけを行じていればよい」と簡単に説いているのです。
ありがとうございました。


不完全でもいいから始めよう
No.45 森島恒吉    1998/10/01 (木) 14:56 静岡県
世界人類が平和でありますように

エレナさんとご近所の方、コメントをありがとうございます。
「世界平和の祈り」一念になりますと、救世の大光明力が充分に発揮されるので、余計な行をやっている
時よりも、守護の神霊との一体感が深まり、深い安心感を得て、心が穏やかになってゆくのです。
(尚、ここで「一念」という言葉を使っていますが、この場合は念力の意味ではありません)

ところで、エレナさんのパソコンのお勉強のほうは、進んでいますか? せっかく高いお金を出して、パ
ソコンをお買いになったのに、自宅のパソコンが眠ったままでは、もったいないです。エレナさんは、な
んでも一人でやろうとする完全主義者なので、実行するのがおっくうになってしまうのです。

1.どこでもいいから、まずプロバイダを決める。
これはパソコンスクールとか、インターネットカフェで教えてもらいます。電子メールアドレスがもらえ
ます。しばらくして、もっと良さそうな他のプロバイダに移りたくなったら、その時に考えればいい。

2.お持ちのPHSと携帯パソコンをつなぐ。
これは接続部品を買ったパソコンショップの店員さんに頼めば、喜んでやってくれます。

3.唯一会のホームページと電子メールの設定をする。
これもパソコンショップの店員さんか、プロバイダの社員に設定してもらいます。

これだけで、もうどこからでも、インターネットが楽しめます。人に助けてもらえるところは、人に助け
てもらって、自分を進歩させればいいのです。そうすれば、世の中がそれだけ進歩するのです。

お好きな枚方公園の観覧車から、コーヒーのおいしい喫茶店から、旅行先から、エレナさんがアクセスし
てくるのを楽しみに待っております。
あなたが幸せでありますように


世界平和の祈りの大光明力
No.49 森島恒吉    1998/10/04 (日) 05:04 静岡県
世界人類が平和でありますように

毎日のようにアクセスして下さる方々、ありがとうございます。
私が初めて「世界平和の祈りだけを祈る会を創りたい」と思った時、私はたった一人でした。
「世界平和の祈り」しかなかった五井先生のご在世の頃ならば、なにも目新しいことではないのですが、
「世界平和の祈り」以外に多くの行法ができた現在では、私の発想は、あまりにも独創的な発想に見えた
ようです。そのため、白光真宏会の中で、私の発想を理解して下さる方は、一人もいなかったのです。
「聖ヶ丘道場の中で世界平和の祈りを祈る統一会がないのは、おかしいのではないか?」と理事長に私が
話した後、それから1年ほどして、特別統一会のほかに「世界平和の祈りを中心にした統一会」がつくら
れたのです。私の提言した通りになったのでした。しかし、「世界平和の祈りを中心にした集い」「世界
平和の祈りを祈る集い」と書いてあっても、実際には「大調和の印や様々な行法をする集い」なのです。

入会案内には「本会は、五井昌久先生の提唱される世界平和の祈りによって、世界人類の完全平和実現を
目的とする団体であります」と書いていながら、実際には入会すると「世界平和の祈りだけをしていては
だめだ」「世界平和の祈り以外の行をしなくてはならない」と教えるのですから、入会案内の通りに教え
方を変えるか、あるいは入会案内のほうを、現状の教え方に合わせた文面に書きかえるべきでしょう。今
のように、矛盾をごまかしていても、いずれはその矛盾が表面に露呈し、自ら崩壊する時がくるのです。

誰一人、私の発想を理解してくれなくとも、五井先生の教えのすべてを悟った私の心は、磐石で少しもゆ
るぎませんでした。「五井先生の消えてゆく姿で世界平和の祈りの教えは、最高の祈りであり、最高の行
である」という私の信念は、日ごとにますます強くなっていったのです。ところで、なぜ、私が「世界平
和の祈りは、最高の祈りであり、最高の行である」と、いつもこんなくどい言い方をするのかと申します
と、「世界平和の祈りは、行ではない」と誤解している人がいるからなのです。「世界平和の祈りは行で
あり、世界平和の祈り以外の行は、五井先生の教えの中に一つもない」と私は言いたいからです。

正月元旦の統一会から年末の統一会まで、先祖の霊をまつる「みたままつり」の時も、五井先生のご指導
は、常に「世界平和の祈り」一本槍だったのです。「世界平和の祈り」以外の祈りをされたことは、一度
もありませんでした。「世界平和の祈り」に始まって、「世界平和の祈り」に終わっていたのです。
ですから、「先祖を供養する時には、どのように祈ったらいいでしょうか?」と質問された時は、「世界
平和の祈りの中に、ご先祖さまを供養する祈りも含まれているのですから、いつものように世界平和の祈
りを祈ればよろしいのです。しかし、それだけでは自分の気持ちがすまなかったら、『ご先祖様の天命が
完うされますように』と祈るか『ご先祖様、ありがとうございます』と感謝すればよろしいのです」と私
はお答えしているのです。

「世界平和の祈り」の中に、人類のすべての願望が含まれているのですから、たとえば「人類を飛躍的に
進化させる平和な科学を神様に教えていただきたい」という願いも、「家族ともども幸せに暮らしたい」
という願いも、「貧乏や病気からなんとか脱却したい」という願いも、「よい仕事を得たい」という願い
も、「人間関係を改善したい」という願いも、すべて「世界平和の祈り」の中に投入すればよいのです。
「おのが幸願う想いも朝夕の世界平和の祈り言の中」という五井先生のお歌の通りなのです。

先に述べた通り、「世界平和の祈りだけを祈る」という私の独創的な発想は、白光の中でさえ、最初は誰
にも理解されなかったのですが、今では、多くの方々が、私の生き方に賛同して下さり、共に祈って下さ
るようになりました。日本国内どこでも、白光の会員の間では、すでに唯一会と私の名前が口コミで広ま
り、「世界平和の祈りを唯一の行としている人がいる」と知られるようになりました。そして、五井先生
の本が読み直され、五井先生の「世界平和の祈り」が改めて見直されるようになってきたのです。

「世界平和の祈り」と、他の行法を、霊的に見比べてみますと、「世界平和の祈り」が大光明を放ってい
るのに対して、他の行法はなんの光明も放っていないのですから、真実の霊視能力のある人が見れば、一
目瞭然なのですが、こればかりは科学的に証明できないので、直観的に感じ取っていただくしかありませ
ん。「世界平和の祈り」は、絶大な光明力を持っているのです。したがって、「世界平和の祈り」の効果
を直観的に感じ取った人々から、「世界平和の祈り」は次第に広まってゆくにちがいありません。

そういえば、「ソサイエティが、アメリカにあって、日本に無いのはおかしい。日本にもソサエティ支部
を創るべきだ」と数年前に、私は白光の理事職員に言ったことがありました。その時、その職員は「日本
の人は、世界平和の祈りは五井さんのところの宗教だと思っているから、日本にソサエティをつくっても
無駄だし、つくる必要は無い」と答えていましたが、この9月から、ソサエティ日本支部が設立されまし
た。やはり、私の言った通りになったではありませんか。すべてが、私の言った通りになるのです。

今に見ていてごらんなさい。「世界平和の祈り」を支持する人々が圧倒的に増えて、「世界平和の祈り」
以外の行法は、誰もやらなくなり、消えてゆきますから。五井先生の教えは、今でも永遠の未来までも、
最高のみ教えなのであり、五井先生の提唱された「世界平和の祈り」は、史上最高の行であるからです。
「世界人類が平和でありますように」の祈りの中に全託している皆さんは、無駄な回り道をしなくてもい
いのですから、ほんとうに幸せな人々なのです。神々は、「世界平和の祈り」に全託した皆さんの体を通
して、今も世界に、救世の大光明を放射しつづけているのです。

あなたが幸せでありますように


「世界平和の祈り」の中にすべてがある
No.51 森島恒吉    1998/10/06 (火) 01:52 静岡県
世界人類が平和でありますように

南無阿弥陀仏という念仏は、もっとも短い祈り言の一つです。他力易行道で、短い祈り言であったからこ
そ、浄土宗と浄土真宗は日本で最大の信者数をかかえるようになったのです。僧職についている人は、朝
から晩までお経を唱えていることはできますが、家族をかかえ、食べるために仕事に追われる民衆にとり
ましては、長いお経を唱えている時間的精神的余裕はありません。
その南無阿弥陀仏にしても、「ナムアミダ」「ナマミダブ」「ナマンダブ」「ナンマイダ」と短く唱えら
れるようになり、さらには「ナムアミ」「ナイダ」と唱える人もいました。民衆が、いかに短い祈り言を
求めているかが、よくわかります。

ダラダラとした長い祈り言や、難しい行法などは、それが良いことであるとわかっても、民衆は、そうし
た祈り言や行法をやっている暇がないのです。宗教指導者は、そうした民衆の立場を深く思いやって指導
することが大切なのです。多くの民衆に受け入れられなくては、そのお説教がどんなに立派であっても、
実際に役に立たないのですから、机上の空論となってしまいます。

「世界平和の祈り」は現代の念仏といえるもので、短く簡単で、しかも英語フランス語ドイツ語など、外
国語に翻訳しても、祈り言の効果はありますから、世界の人々に理解されて、世界に大きく広まってゆく
可能性があるのです。仏教の一部では、外国でも日本語のお経をそのまま発音するように教えている宗教
団体がありますが、そうしたやり方ではいずれ行き詰まることになるでしょう。「世界平和の祈り」も、
もし日本語だけで世界の人々に発音させようとしたら、世界に広まることはないでしょう。

伝教大師最澄が開いた比叡山は、日本仏教の発祥の地として有名です。密教を含む幅広い仏教の集大成が
保存され研究され伝えられているのですが、比叡山からは浄土門の法然聖人、親鸞聖人、法華経に帰依す
ることを説く日蓮聖人、禅宗の道元禅師など、総合仏教のすべてをやるのではなく、膨大な仏教教典の中
から、自分に合った一つの修行方法を探し出し実行し、その体験で得た教えを民衆に伝えたのでした。
このように歴史的に見ても、一つの短い祈り言へと、しだいに集約されてゆく様子がわかります。

「世界平和の祈り」は、やさしく簡単な言葉でありながら、神のみ心の奥深くへとつながっている、美し
く高い気品のある言葉です。現代の人類にふさわしい祈り言です。「世界平和の祈り」の中には、すべて
の宗教の教えがつまっているのですし、人類の神性を顕現させる力と、地球の平和を実現する力が秘めら
れているのですから、何も行法を付け足す必要はないのです。それがわかりますと、「世界平和の祈り」
一つに想念がピタッと統一して、「あの行もしなくてはならない、この行もしなくてはならない」という
煩わしさが消え去り、心がスーッと軽くなり、晴々としてくるのです。

「一つの祈り言だけを唱えていれば救われる」という教えは、あなたの日常生活を非常に楽にします。
「世界平和の祈り」に統一したシンプルな生活は、心がすっきりして、明るくなってきます。私の教えを
聞いて、実行した人々は、「世界平和の祈り一つに統一したら、自分でも驚くほど明るくなった」と異口
同音に体験を話しています。「ラジオ体操が体にいい」とわかっていても、毎日つづけている人は少ない
ですし、一生つづけている人は、そうはいないでしょう。それと同じように、長い祈り言や、難しい行法
などは、一時期は熱中してできても、しだいに疲れてきて、なかなか長続きするものではないのです。
「世界平和の祈り」には大光明の力がありますし、短く簡単で疲れませんから、長続きできるのです。

「世界人類が平和でありますように」と祈れば、人間は自然に神性を顕現できるようになるのです。
「世界人類が平和でありますように」と祈れば、人類は自然に平和を実現できるようになるのです。

朝の目覚めの時から、夜寝るまで、眠りに入ってまでも、いつでも「世界平和の祈り」が鳴りひびいてい
る幸せは、体験した者でなければわからない幸せです。「世界人類が平和でありますように」と祈ってい
る時、私たちは神様のみ心の中に入っているのです。ですから、この上ない深い安心感を得るのです。
「世界人類が平和でありますように」の中に、私たちの望むすべてがあるのです。


安心立命への最善の道
No.55 森島恒吉    1998/10/08 (木) 07:25 静岡県
世界人類が平和でありますように

晶さんから、次のようなご質問をいただきましたので、お答えさせていただきたいと思います。

Q.
多くの資産を持ち、友人にも恵まれ、また自らも世の中のために尽くしている人がいます。
こういう人は端から見ても輝いていて、とてもすばらしく見えるのですが、こういう人も安心立命してい
るといえるのでしょうか。「徳が高い」ということと、「安心立命」とは関係ありますか?

A.
外見だけで、その人が安心立命しているかを判断することはできません。
外見がいかに素晴らしく見えようと、安心立命しているとは限りません。安心立命とは、この世の幸福感
だけでなく、永遠の幸福を得ることですから、神仏につながって、神仏との一体感を得なければなりませ
ん。ですから、いかに多くの資産を持ち、友人に恵まれ、世の中に物質的に尽くしている人も、人間の本
質を知り、守護の神霊の存在を知って、永遠の生命を得る方法を知らなければ、いつかはその徳も減って
ゆき、不幸な境遇に陥る時がくるのです。

宗教の話はまったくせず、宗教心のまったく無い人に見えても、多くの資産を持ち、友人にも恵まれ、ま
た自らも世の中のために尽くしている人は、家に帰ると、案外、仏壇に手を合わせて、毎日先祖に感謝し
ている人が多いものです。守護の神霊の加護があるからこそ、輝いて見えるのであり、とてもすばらしく
見える、とも言えるからです。守護の神霊の加護がなければ、多くの資産を持てませんし、友人に恵まれ
ませんし、世の中にも尽くす気持ちにもなれないからです。
また、現在、宗教にまったく関心を示さず、金儲けに懸命になって大金持ちになった人の中にも、過去世
では宗教修行に励み、清貧の環境で人々のために力を尽くした、という人も多いのです。ですから、今生
だけのその人の生活を見て、その人が偉いとか偉くないとか、判断することはできないのです。

ではどうしたら安心立命を得ることができるのか、と申しますと、守護の神霊の存在を知り、守護の神霊
に加護を祈ることです。「守護霊様、ありがとうございます。守護神様、ありがとうございます」と守護
の神霊に感謝してゆくことが、安心立命を得るための最も良い方法であるのです。「守護の神霊によって
私は守られているのだ。守護の神霊に私は導かれている」という安心感ほど、深い安心感はありません。

守護の神霊につながりますと、自己の天命を完うするために必要なすべての物が、無限に永遠に供給され
るのですから、これほど心強いことはありません。この世の中がいかに不況であろうと、銀行や大会社が
次々と倒産しようと、守護の神霊と一体化した人は、必要な物が与えられて、安全に悠々と生きてゆける
のですから、何も怖いものはありません。しかも、この無限供給は、今生だけではなく、あの世に行って
も、どこへ行っても、いつまでもつづくのですから、これほどありがたいことはありません。

「神様、ありがとうございます。というただ一言の祈りだけでもいいんですよ。神様、ありがとうござい
ます。神様、ありがとうございます。とただそれだけを祈っていてもよろしいんです」と五井先生は度々
おっしゃっていました。五井先生のその時のお声が、今でも私の心に残っています。一生病気が治らなく
ても、一生貧乏のどん底にあっても、一生不幸な境遇にあっても、「神様、ありがとうございます」と感
謝できる人は、業生の世界に住みながら、業生を超えているのです。ちょっと祈っただけで、効果が現れ
ないと、すぐに祈ることをやめてしまう人がいますが、それでは唯物論者と変わりありません。たとえ、
一生恵まれない生活であっても、「私は神様に感謝します」と覚悟を決めてしまうのです。

自分が安心立命を得ますと、人々への愛がほとばしりでて、人々の不幸や世界の悲惨な姿に、じっとして
いられなくなるものなのです。神我一体観を得た人が、「悟っているのは我一人」と超然として、人々の
不幸を見て見ぬふりをしているわけがありません。神我一体観を得た人は、生命の一体観を持っているの
ですから、当然、自他一体観を持っているのであり、愛あるゆえに他人の悲しみや痛みを人一倍感じて、
「我は業生に関せず」と冷たく真理のほうだけを見ていることはできないのです。

その深い愛の心が、「世界人類が平和でありますように」という世界平和の祈りの形になったのです。現
代は、個人だけの幸福などというものはありません。また、自分が真実に安心立命を得た人は、自然に
人々の幸福を祈るものであり、世界人類の平和を祈らずにはいられないものなのです。ですから、「世界
平和の祈り」は現代における最も最適な祈りといえるのです。そして、「世界平和の祈り」が完成された
祈りであるがゆえに、この祈り言以上の祈り言は、永遠に現れないのです。

自分の安心立命のためにも、世界の平和のためにも、「世界平和の祈り」を祈り続けてゆくことが必要な
のです。今の自分が病気であっても、今の自分が不幸な境遇にあっても、今の自分がどんなにみじめな生
活であっても、そうした運命は消えてゆく姿であると知り、「世界平和の祈りは、最高の祈りである」と
知ったならば、その人は、真実の安心立命を得た人であるのです。言いかえますと、「世界平和の祈り」
を知りながらも、「もっとほかに良い方法があるのではないか?」と思って、「世界平和の祈り」以外の
行法をやっている人々は、真実の安心立命をまだ得ていない人々と言ってよいのです。

「世界平和の祈り」に全託しなさい。自分の力だけで自分の運命を良くしようと、もがかないで、守護の
神霊にすべてを任せてしまいなさい。守護の神霊は、あなたが全託してくるのを、手を差し伸べて、今か
今かと、待っておられるのです。自分の力だけで運命を創ろうとしないで、「世界平和の祈り」に自己の
願望のすべてを捨ててしまい、神様に運命を創っていただき、神様から改めて命をいただき直すのです。
「神様、もう私の力では、どうしようもありませんから、すべてを神様にお任せいたします」と守護の神
霊に全託して「世界人類が平和でありますように」と祈りつづけるのです。
「世界平和の祈り」一つに全託することこそ、現代における安心立命への最善の道なのであります。

あなたが幸せでありますように 


自然法爾
No.57 森島恒吉    1998/10/09 (金) 18:33 静岡県
世界人類が平和でありますように

Osamuさん、ありがとうございます。喜んでいただき、私も大変うれしく思います。お母さんの心のモヤ
モヤがとれてよかったですね。お母さんのように、五井先生に直接指導を受けた古い会員の人達や、五井
先生の本を真剣に読んでいる人から、「このホームページを読んで、人に話せなかった悩みと疑問が解け
ました。自分が直感していたように、世界平和の祈りがやはり一番いい方法であると、確信が持てるよう
になりました。五井先生のみ教えは他力易行道であることを改めて知って、心が明るくなりました」とい
うご感想が多く寄せられています。そのような皆さんからの温かいコメントに、私も励まされ勇気づけら
れています。これからも末永く、よろしくお願いいたします。

個人が自由に自分の意見を言えたり、自由に発表できる、ということは、人類を進化させる上において絶
対に必要なことで、このホームページも、個人の本音を発表できる場として、大いに役立てて下さい。最
近はなくなってしまいましたが、私へのご批判や悪口も、大歓迎です。(その著作権も、私にあります)
「世界人類が平和でありますように」という合言葉を、一言書き添えて下されば、すぐに削除しません。

「個人の自由な意見を権力で封殺したり、思想や主義を一方的に押しつける」ということは、もう時代遅
れのやり方で、日本の政府も国民に対して、そんなことはできませんし、マスコミの情報を操作して権力
を維持しよう、という気持ちも政府にはありません。公務員でも思想の自由がありますし、まともな会社
ならば、会社の社長も部長も、社員の思想を束縛することはありません。

このような今の時代に、宗教団体であっても、何から何までトップダウン式に「こうしなさい、こうしな
ければいけない」と会員に様々な行を押しつけることは、会員を馬鹿にしたやり方で、もはや時代遅れの
やり方なのです。自由に生きることを教えるべき宗教団体が、会員の自由を束縛することは、あってはな
らないことです。宗教団体だからこそ、より自由に生きることを、人々に教えるべきなのです。

ここで問題になることは、「神示」ということです。人間からの命令ならば、常識に反することや、自分
にできそうもないことはやらないのですが、「神示」という形で、神様から「こうしなさい」と言われる
と、信者としては弱いんですね。神様からの絶対的な命令ならば、神様を信仰する立場の自分たちは、や
らないわけにはいきません。この理由から、心から納得しなくても、多少無理なことであっても、自分の
反発する気持ちを抑えたり、自分をだましてでも、「神示」を実行しようと努力するわけです。そうする
ことによって、自己の信仰心を満足させるわけです。

しかし、ここで知らなければならないことは、「神示」と言いましても、本物と偽物がありまして、実際
には、「偽物の神示が多い」ということです。「神示」というのは、そう度々あるものではありません。
「私には霊能力があって、守護神の声を聞くことができるのです。私の神示を聞いた人は、みな恐れ入っ
て聞いています。私の守護神が、森島さんについて、これこれしかじかと伝えてきた。どうです?みごと
に当たっているでしょう」と私に偉そうに言ってきた人がいました。

「それは間違っています。それは守護神の声ではありません。あなたの潜在意識にある、こうであってほ
しいという想念が、あたかも守護神が言っているかのように、聞こえてくるのです。真実の霊能力がない
のに、霊能力があるふりをして、人にあがめ立てまつられたいという、つまらない欲望で、そんなことを
言って歩いても、見る人が見れば、嘘だとわかってしまうのですから、恥をかくだけです。人の心を覗い
て見るような、当てもの屋になっては、本心開発が遅れます。そんな暇があったら、人々の幸せを祈り、
世界平和の祈りを祈ったらどうでしょうか?」
と、私がはっきり言いましたら、相手の人はカンカンに怒って、去って行きました。

皆さんの中には、神様の姿を見たり、声を聞いたりして、教え導いてもらいたい人が、かなりいると思い
ます。ところが、真実そうなるためには、その人の心境がよほどすぐれてきていないと、非常に危険な状
態に陥ることがあり、かえって、自己の運命を損ない、他人の運命をも傷つけてしまうことが多々あるの
です。その人の潜在意識が、神霊の心のような状態で、声で、いろいろなことを、その人に教えたり、命
令したりすることが多いのです。それが真実の神霊の声と入り混じって聞こえてくるので、その判断をす
ることが実に難しいのです。神示といっても、ほとんどが、自己の潜在意識であったりするのです。

一人の人を判断するのでも、潜在意識がその人に悪意を持っていれば、その人が事実は立派な人であって
も、そのお告げは「あの人は悪い人である」というように出てまいります。また、実際にはやらなくては
ならぬことでも、潜在意識でやりたくない場合には、「やらなくともよい」という命令になります。それ
が自分だけの生き方であるのならば、損をしても自分だけのことですが、これを他人の指導に用いた場合
には、他人の運命を狂わせることになってしまいます。

やたらに神の声を聞きたがることは、無謀なのであります。守護の神霊は、守っていることを、いちいち
声で聞かせて 知らせるようなことはいたしません。肉体人間の何気ない一挙手一投足の間に、その使命
を遂行してゆくのであります。たとえば、「その人に会ったほうがよい」という有益な人には、何気なく
会わせたり、知らないうちに、傷害や過ちを防いでくれたり、日常生活の中の一言が、相手の運命を開く
言葉になったり、あらゆる面で、目に見えないところから、守護霊守護神は、肉体人間を守ってくれてい
るのです。ですから、声でささやかれたり、目で見たりする必要は毛頭ないのです。目で見たり、声に聞
いたりすると、かえってそのことに把われて、潜在意識で自他の運命を危うくしてしまうことがあるので
す。ただ、常になさねばならぬことは、守護霊守護神への感謝なのであります。

五井先生が伝えている大神様からの神示は「世界平和の祈りは、地球を救う唯一無二の方法である。世界
平和の祈りを祈るところに、救世の大光明を輝かすから、世界平和の祈りをしなさい。世界平和の祈りを
祈っていれば、地球は滅亡することなく、必ず完全平和を実現できる」という神示です。

「世界は平和になる」という神示以上の大きな神示は、どこにもありません。「世界は平和になる」とい
うことは、「あなたも幸せになり、あなたの家族も幸せになる」ということです。この神示さえ知れば、
もうこれ以上、何も神示はいらないではありませんか。「世界は平和になる」のですから、「今日は右に
行きなさい」とか「明日は、こうしなさい」という細々とした神示は、一切必要ないのです。あなたがど
こへ行こうと、あなたが何をしようと、何をしようとしなくても、世界は平和になる、に決まっているの
です。そこで「消えてゆく姿で世界平和の祈り」をまねて、「世界は平和になる信念で世界平和の祈り」
と私は説いているのです。

それでは、もし、神様から声が聞こえてきたり、神示を聞いたら、その時にはどうしたらよいか?
その時は、五井先生の「消えてゆく姿」の教えを思い出して下さい。その神様が、仏菩薩であろうと、宇
宙人であろうと、宇宙神であろうと、五井先生のお姿であっても、すべての神示を一度「消えてゆく姿」
にしてしまうのです。五井先生からお聞きしたお話を例にして、具体的に書いてあげましょう。

宇宙神「あなたもお金がなくて困るだろうから、金を与える。これから浜松町駅で降りて、その降りた右
    側に四十位の女性が宝くじを売っているから、その人から××××番の宝くじを買いなさい」
あなた「これは消えてゆく姿だ。世界人類が平和でありますように」
宇宙神「今、目の前の広い道路には、たくさんの車が猛スピードで行き交っているが、神はあなたを守っ
    ているから、神の無限なる力を信じて、安心して、目を閉じて、向こう側まで歩きなさい」
あなた「これは消えてゆく姿だ。世界人類が平和でありますように」
宇宙神「あなたは神より選ばれた偉大な人間だ。今まで誰にもできなかった大菩薩の仕事をするのだ」
あなた「これは消えてゆく姿だ。世界人類が平和でありますように」
宇宙神「あなたの願いをすべてかなえてあげよう。あなたの願いを強くイメージしなさい」
あなた「これは消えてゆく姿だ。世界人類が平和でありますように」
宇宙神「あなたは役立たずで、もう使い物にならないから、世界平和の祈りもやめなさい」
あなた「これは消えてゆく姿だ。世界人類が平和でありますように」
宇宙神「今は、時代が進んだので、世界平和の祈りよりも、もっと素晴らしい方法があるのだ」
あなた「これは消えてゆく姿だ。世界人類が平和でありますように」

このように、すべての神の声を「消えてゆく姿」にして「世界人類が平和でありますように」の祈りの中
に入れてしまうのです。そうしますと、偽物の神示は、すべてきれいに消え去ってしまいます。本物の神
示である場合には、否定しても、自然と行為となって現れてきますから、ご心配はいりません。本物か偽
物かは、判断がつきかねるのですから、一度すべてを「消えてゆく姿」として否定してしまうことです。
神示を「すべて本物である」と鵜呑みにして、「消えてゆく姿」と否定しないで、その神示を実行するこ
とは、非常に危険ですし、神の子としての自分の尊厳を失う、無批判無判断の隷属した立場に立っていて
は、いつまでたっても神の子の神性は現れてはまいりません。「消えてゆく姿」と否定し、「世界人類が
平和でありますように」の祈りの中に入れる日まで、いつまでも神の試みは続けられるのです。

私のように神様の試みに合格した者は、神様はもう何も干渉してこなくなります。私は答えを知っている
のですから、神様は私を試みる必要はもうないのです。ですから、皆さんが神示の通りに種々様々な行法
を行なっている時も、私一人は無為の境地に在って、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」をやっておりま
した。「世界平和の祈り」以外に、私は何もしておりません。

何を言われても、何を指示されても、何を命令されても、「ハイ、ありがとうございます。世界人類が平
和でありますように」とまるで馬鹿のように答えていましたから、講師たちから「森島さんは、古い世界
平和の祈りに把われている。あんなふうになっちゃ、いけませんよ。あの人は把われているんです」と集
会所や講演会で、さんざん笑いものにされたものです。イエスキリストが、真理を知らない民衆によって
十字架にかけられたように、五井先生の教えをろくに知らない者が、五井先生の教えを正しく実行してい
る私に向かって、見下した目でけなしてくるのです。「世界平和の祈り」を祈っている私を侮辱すること
は、五井先生に対して侮辱することと同じである、ということも知らず、気の毒なことです。

「世界平和の祈り」だけをやっとけば、大丈夫なのです。安心して下さい。真理の言葉に把われず、神示
に把われず、因縁因果に把われず、想念の法則(心の法則)に把われず、念力に把われず、現世利益に把
われず、光に把われず闇にも把われず、すべてを消えてゆく姿として、「世界平和の祈り」の中に投げ入
れてしまうことです。「世界平和の祈りに把われてはいけない」と言う人がいますが、「形に把われては
いけない」という言葉はあっても、「世界平和の祈りに把われてはいけない」という言葉は、五井先生の
教えの中には、どこにもありません。安心して「世界平和の祈り」に統一して下さい。
「世界平和の祈り」を祈っていさえすれば、「ああしよう、こうしよう」「こうしなければならない、あ
あしてはいけない」といちいち思わなくても、神のみ心が自然法爾のうちに、あなたの行為となって現れ
てくるのであります。

ありがとうございました。


世界平和の祈りに欠陥は無い
No.59 森島恒吉    1998/10/12 (月) 04:29 静岡県
世界人類が平和でありますように

朝から晩まで眠っても、祈り言はただ一つ、「世界人類が平和でありますように」という一つの行だけを
すればよい、と定まっておりますと、想念があちらこちらへと移ったり分裂することがなく、守護の神霊
への統一が楽にできます。守護の神霊のみ心と常に心を一つにしておりますと、静かな湖面のように心が
穏やかになり、秋空のように爽やかに心が澄んできて、無邪気な明るい微笑みがあふれてくるようになり
ます。これが真実の祈りの効果なのです。

五井先生の教義は、宗教理論としてすでに完全の域に達しており、五井先生の提唱されているたった一つ
の行である「世界平和の祈り」は完全な祈りなのです。完全な祈りであるからこそ、「世界平和の祈り」
には、もう何も付け足すものは無いのです。「世界平和の祈り」は、この現代だけに通用する祈りではあ
りません。これから百年後も、一千年後も、一千万年の後も、人類史上最高の祈りとして唱えられる祈り
であるのです。

「世界平和の祈り」は完全である、ということを、論理数式にあらわしてみましょう。
「世界平和の祈り」をS、その他の行法をエトセトラのE、完全をパーフェクトのPとします。

「世界平和の祈り」の行法は、それのみで完全な行法である、という五井先生の論理数式は、
S=P …(1)
となります。

それに対して「世界平和の祈り」に他の行法を付け足して、完全な行法となる、という論理数式は、
S+E=P …(2)
となります。
この場合には、二つを足して完全となるのですから、
S≠P(世界平和の祈りそれのみでは、完全ではない) …(3)
E≠P(付け足した行法それのみでも、完全ではない) …(4)
となります。

(1)と(3)の論理は、明らかに矛盾してしまうことから、この二つの論理は、まったく正反対の異
なった原理であることがわかります。もし、(2)の数式を正しいと肯定すれば、(3)を認めることに
なり、そうなれば五井先生の(1)の教えを否定しなくてはなりません。
ゆえに、(1)を肯定するならば、(2)を否定しなくてはなりません。

また、「世界平和の祈り」も「他の行法」も共に形は異なるが完全である、という論理数式(5)は、
S=E=P …(5)
となります。
この数式は、(3)(4)と矛盾し、論理数式(2)と矛盾します。
ゆえに、(2)を説いたら、(5)は否定しなくてはなりません。(5)を肯定するならば、(2)を説
いてはいけないのです。

ところが、現実には(2)と(5)の論理数式を、思考内部に持っている人が意外と多いのです。
このように論理数式に示せば、明らかに論理の矛盾が露呈するのですが、「世界平和の祈りと、私は神で
あると宣言する行は、究極の真理です。世界平和の祈りと、私は神であるという宣言行の唯一無二の究極
の真理を実行してまいりましょう」という言い方や書き方をすると、論理に矛盾がないように見えてくる
のですから、奇妙なものです。

実際には、唯一の行法ではなく、二つの行法なのに、「唯一の行法」という言葉のレトリックで粉飾され
ているために、「世界平和の祈り」と「私は神である」という異なった二つの行法が存在していること
に、気づく人が少ないのです。もしも、「世界平和の祈り」と「私は神である」という二つの行法が、と
もに同一の究極の真理であるならば、「世界平和の祈り」だけでもいいのですし、「私は神である」とい
う行法だけでもいいことになります。
ところが、「両方をやらなくてはならない」という言葉を使っていなくても、現実に両方を勧めているこ
とは、「二つの行法を合わせて完全になる」ということを暗に意味しており、それは「世界平和の祈りだ
けでは不完全である」と言葉に出してはいなくとも、暗に説いていることになるのです。
「世界平和の祈りは不完全である」と潜在意識で思いながら、世界平和の祈りをしていては、その想念が
邪魔をして、世界平和の祈りの効果が充分に発揮されるわけがありません。

「私は神である、世界は平和である」という真理の宣言行をするならば、徹底して、真理を行じることで
す。その人の心の中には、悪人も病気も不幸も天変地変も、もはや存在しないはずです。神である完全な
人が、不完全なものを見るはずがないからです。それなのに、「私は神である、世界は平和である」と真
理を宣言している人が、因縁因果の想念の法則を説いて、「真理に外れた者は、悲惨な目にあうのです」
と悪の存在を肯定し、人々に恐怖感を与えているのは、はなはだ矛盾しているのです。真理の言葉を口に
することはたやすくとも、行ないとして真理に徹することが、いかに難しいかが、よくわかります。

真理を実行することは、至難なことであるのです。「隣人を愛せよ」という言葉は、真理です。しかし、
人相の悪い見知らぬ男が、突然自宅に訪問してきて、「一晩泊めてくれ」と頼まれた時、その真理を実行
できる人が、いったい何人いるでしょうか?
「すべての人を神の子として拝みなさい」という言葉は、真理です。しかし、自分の家族を殺した犯人に
対して「あなたは神様です」と拝める人が、何人いるでしょうか? 殺されるほどでなくとも、自分の子
供を、アザができるほどポカポカと殴りつけた乱暴者に対して「子供の業因縁を消して下さって、ありが
とうございます。あなたは神そのものです」と感謝できる人が、いったい何人いるでしょうか?
しかし、「私は神である」と宣言した人は、そうした真理を実行できなくてはならないのです。真理を実
行する、ということは、そういうことなのです。

そこで五井先生も私も、「真理をそのまま実行することは、現在においては難しいのだから、無理に真理
を行じようとする必要はない。あたりまえに善は善、悪は悪と現実の存在を直視して、しかしそれらは実
在ではないのだから、すべてを消えてゆく姿と見て、世界平和の祈りを祈りつづけなさい。世界平和の祈
りを祈りつづけてゆけば、自然に真理を実行できるようになってゆくのです」と説いているのです。

この真理と現実を結ぶ中庸の「世界平和の祈り」ことが、私たちにとっては、完全な行法であるのです。
「私は神である」という行法は、真理の言葉でありながら、行法としては現実には実行しえないのですか
ら、真理を地に現す正しい行法とはいえず、理想偏重の不完全な行法と言えるのです。
どんなに真理の言葉を口に出しても、その真理を実行できなくては、正直な人は自己を責め苦しめること
になり、正直でない人は偽善者になって本心を覆い隠し、真理を頭ごなしに説いて他人を責める冷酷な人
間になってしまうのです。真理を無理に実行すると、こうした様々な欠陥が生じてくるのです。

「消えてゆく姿で世界平和の祈り」という五井先生の勧める行法は、「人間神の子、完全円満。悪は無
い、病気は無い、不幸は無い、肉体は無い、過去は無い」と真理を高らかに宣言する行法よりも、一段低
い教えであるかのように見えますか、実は真理と現実を結ぶ中庸の位置にくらいする教えであって、最も
無理のない最良の行法であるのです。お風呂に入るにも、ちょうどいい温度というものがあります。高過
ぎたら火傷をしてしまいます。それと同じように、高過ぎる真理を無理に実行しようとすることは、現在
の人間にとって至難なことであり、時には危険を伴うことすらあるのです。

「人間は本来、神の子であって、業生は消えてゆく姿である」という五井先生の中庸の教えだけを聞いて
いた人が、「人間は神である、業は無いのだ」という力強い真理を宣言する行法を初めて知りますと、
「五井先生の教えよりも、真理を力強く宣言している、こちらの教えのほうが、より高い教えであるので
はないか」と、その教えに新鮮さを感じて、うっかりそう思うことがあるのです。

五井先生ご自身が、「人間は完全円満な神である、業は無いのだ」という観念的実相論をさんざん実行し
てみて、その欠陥を体験的に知り、「業は消えてゆく姿である」という中庸の教えを発見し、真理をいき
なり実行しようとすることはやめて、守護の神霊の助けを借りて真理を顕現する他力易行道の「世界平和
の祈り」を提唱されたのですから、五井先生の教えのほうが一段低く見えても、五井先生の「世界平和の
祈り」のほうが、欠陥の全くない、完成された行法といえるのです。
真理を無理に実行しようと、焦ってはいけません。真理を発表することは結構なことですが、理想に偏っ
た、行き過ぎた真理の行法は、かえって人々を苦しめる結果となってしまう事実を知らねばなりません。
「世界平和の祈り」は、自然に人々の心を光明化させてゆく、完成した行法であるのです。


あなたも悟れます
No.60 森島恒吉    1998/10/12 (月) 07:11 静岡県
世界人類が平和でありますように

AKさん、ご質問をいただき、ありがとうございます。
Q.
五井先生から直接指導をうけ「消えてゆく姿で世界平和の祈り」だけを長年されてきた昌美先生や講師の
方々が、今では五井先生の教えとは違う方向にいってしまっている。昌美先生は悟っていないということ
であれば、私のような凡夫は永久に悟ることはできないでしょう。
このような現実をみて「世界平和の祈り」はほんとうに力があるのでしょうか。
100年、1000年先の結果を信じて祈りつづけなければいけないのでしょうか。
「誰でも無理なく自然に悟れる道」
「世界平和の祈りは最高の行である」
ということを理論ではなく、白光真宏会の今日までの歴史から事実をとうして教えてください。

A.
「理論ではなく、歴史から事実を通して教えて下さい」という意味がよくわかりませんが、私の理解した
範囲でお答えしたいと思います。

「五井先生から直接指導をうけ『消えてゆく姿で世界平和の祈り』だけを長年されてきた昌美先生や講師
の方々が、今では五井先生の教えとは違う方向にいってしまっている。昌美先生は悟っていないというこ
とであれば、私のような凡夫は永久に悟ることはできないでしょう」
と謙虚におっしゃっていますが、自力行で悟ることは難しくとも、他力行で悟りを得ることは、そう難し
いことではありません。それに、昌美先生や講師の方々よりも先に、あなたが悟ってもよろしいではあり
ませんか。

「消えてゆく姿で世界平和の祈り」を実行されてきた方々は、大悟とは言えなくとも、少なくとも小悟の
悟りは得ていたのです。「昌美先生は悟っていない」という人もいますが、最近の白光誌十月号のソサエ
ティの記事をご覧になればわかるように、昌美先生は「メイピースプリベイルオンアース」だけを発表さ
れていて、海外のソサエティ活動では、国内のように「我即神也」「人類即神也」の教えを、ほとんど説
いておられません。「世界人類が平和でありますように」と祈っている時の昌美先生は、神のみ心をその
まま現している立派な宗教指導者であって、申し分ありません。

ただ、残念なことに、五井先生に教えられたままに、「世界平和の祈り」一本槍で通せばよかったのに、
生長の家の教えを取り入れて、真理の宣言行や想念の法則までも取り入れて、加えてしまったところに、
昌美先生の大きな失敗があるのです。したがって、現在の昌美先生の法話には、神のみ心にかなった正し
いお話もあるのですが、同時にご自身の潜在意識からくる間違ったお話も入り混じってしまっているので
す。その点を修正する役目として、私がいるのです。

小悟は得ても、大悟を得ることは非常に難しいのです。悟りにも数えきれない段階があり、五井先生の宗
教理論を完全に理解していない、小悟の段階では、途中で他の思想の影響を受けて、横道に外れてゆく危
険があるからです。五井先生から直接ご指導を受けている時は、なんの問題もなかったのですが、五井先
生が他界されて、目の前から指導者がいなくなりますと、誰しも不安になり、自己流の解釈に陥ったり、
他の思想の影響を受けてしまいがちです。

昌美先生の責任たるや、大変な重圧であって、毎月法話を発表しなくてはならない、という義務感から、
たくさんの本を読まねばならず、ついつい急ぐあまり、他の著者の本の文章をそっくりそのまま丸ごと引
用して、それに気づいた読者から指摘されたことも幾度もありました。しかし、昌美先生のそうした行動
を見ても、昌美先生なりに一所懸命に努力されているのですから、責める気持ちにはなりません。昌美先
生のその誤りを修正し、五井先生の教えをよりわかりやすく説いて、人々を悟らせるために、神様から私
が派遣されたわけですから、「世界平和の祈り」の力に悲観する必要はありません。
それに昌美先生は、「我即神也」「人類即神也」という行をやっていますが、「世界平和の祈り」を忘れ
たわけではありません。他の行法が中心となり、付け足しで「世界平和の祈り」をやっているにしても、
「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆけば、次第に本心が開発されて、真実のことがわかってくるのです
から、私は楽観的に見ております。

皆さんには信じられないことでしょうし、私自身も思いがけないことだったのですが、私は昌美先生より
も一足お先に悟ってしまったのです。ですから、「自分のような凡夫は、永久に悟れない」と思っている
あなたも、いつ悟るか、わかりません。今日、悟れるかもしれません。そこで、私の体験からアドバイス
したいことは、「自力行を捨てて、他力行に徹せよ」ということです。

若いときに、私は五井先生に、こんな質問したことがありました。
「私のような凡夫は、何生くらいかければ、悟れるでしょうか?」
「君は、今生で悟れるよ。もうすぐです」
五井先生のこのお言葉は、私への単なる励ましのお言葉として、その時は聞こえました。あまりにも、
あっさりとおっしゃったからです。周囲の人たちも、そう思っていたことでしょう。最近になりまして、
その時の五井先生のご法話のテープを聞いた人がいまして、「森島先生がこんな質問をして、五井先生が
『君はもうすぐ悟れるよ』とお答えになっていました。やはり、五井先生はわかっていらしたんですね」
と感心していました。五井先生の予言された通りに、私は今生で真実に悟れたのでした。

「誰でも無理なく自然に悟れる道」
「世界平和の祈りは最高の行である」
これらは、五井先生の教えの根本であると同時に、私自身の体験からきたものです。私がまず自分で直覚
的に体験事実として悟り、細かい理論は、後から生まれたものなのです。私が理論的なことを申しますの
は、この世の中には、直感的に神様の中に飛び込んでゆける人たちだけでなく、石橋をたたいて渡るよう
に、理論的に納得できないと実行できない人がいまして、その人たちを救わねばならないので、理論的な
ことも話しているのです。直感的に神様を信じることができて、神様のみ心にそのまま飛び込める人は、
私の説明を聞く必要もないのですから、大変幸せな人なのです。但し、直感的な人は、とかく飛び込む先
を間違えることも多いので、最低限の理論的知識を持つべきだ、というのが私の考えです。

「世界平和の祈り」によって、私は安心立命を確かに得ました。「世界平和の祈り」には確かに力がある
のです。そして、私の教える通りに、「世界平和の祈り」を実行している人は、次々と悟っているのも、
体験的な事実です。ただ、その悟った人たちが、奥ゆかしくて、今は表面に出ないで、目立っていないた
めに、「世界平和の祈り」にまるで力がないように見えるだけなのです。

今後は、白光真宏会の組織よりも、ワールドピースプレイヤーソサエティのほうが、はるかに巨大な集団
になってゆくと思います。それにつれて、「世界平和の祈り」の圧倒的な力が、いやでもおうでも人々に
認められる時期がくるはずです。その時に至って「五井先生の提唱された世界平和の祈りは最高である」
と白光真宏会内部でも、改めて見直されることになるのです。私はその先駆けとして、「世界平和の祈り
が最高の行である」と説きつづけているのです。

ありがとうございました。


愛と勇気
No.63 森島恒吉    1998/10/14 (水) 03:02 静岡県
世界人類が平和でありますように

前回「柔よく剛を制す」の話をしましたが、「剛」という字を名前に持っている人が、身近に多いので、
その人たちの心を傷つけてはいけませんから、今回は「剛のよさ」を話しましょう。(^。^;) アセアセ!
「柔」の長所については、五井昌久著「老子講義」P441を、お読み下さい。

カラテで有名な極真会館の大山倍達先生に、カラテを教えたのは剛柔流カラテの曹寧柱先生です。この曹
先生の先生が、剛柔流宗家、山口剛玄先生(故人)なのです。私はこの山口剛玄先生と直接お目にかかっ
たことがあり、息吹(いぶき)をはじめ、カラテについて、いろいろと教えていただいたのです。
「山口先生は怖いですと、大山君に会った時、そう言っていたよ」と山口先生は私に話して下さいました
が、私は山口先生に非常な親しみを感じました。合気道の先生よりも親しみを感じたのは、不思議です。

今は手元にカラテの本がないので、詳しく覚えていないのですが、その剛柔流の名前のいわれは、次のよ
うであった、と記憶しています。
「柔よく剛を制す、というが、その後に、剛よく柔を断つ、という言葉もある。そのように技も心も、剛
だけであってはならないし、また柔だけであってもならない、剛と柔の調和した姿が、もっとも強いので
ある。その剛柔の調和した境地を目指して修行に励むことが肝心である。これが剛柔流の由来である」

武道の剛柔を、宗教的にいいかえますと、「愛と勇気」ということになります。いくら優しくても、勇気
が欠けていたら、強い業波動におおわれたこの世の中を、より良くすることはできません。また、勇気が
あっても、それが単なる蛮勇や度胸だけで、その勇気の根底に、相手をいたわる深い愛がなければ、多く
の人々の協力を得られません。このように、愛の力と勇気の力が、世界平和には絶対に必要なのです。

神様、愛深い私にならしめたまえ
神様、勇気ある私にならしめたまえ

五井先生は、そのような祈り方を教えて下さっています。思いやりのない人は愛の祈りを、臆病な人は、
勇気の祈りを、それぞれ祈ったらよろしいでしょう。「世界平和の祈り」の中に、愛の祈りも勇気の祈り
も、含まれているのですから、「世界平和の祈り」を知っている人は、「世界平和の祈り」を祈っており
ますと、自然と愛と勇気が湧いてくるのです。

誰もが、愛と勇気に満ちた行為ができますように

私はそう祈っております。


神様のみ心のままになさしめたまえ
No.65 森島恒吉    1998/10/16 (金) 23:55 静岡県
世界人類が平和でありますように

「自分の思う通りに生きたいと思うならば、その想いを捨てることだ」という五井先生のお言葉がありま
すが、自己の本心のままに生きるためには、一度、欲望に満ちた業想念の自分を捨てることです。業想念
の自分を捨てるということは、「私は成功できる、と念じて目標を達成する」というような方法を捨てる
ということなのですが、これがわかっていない人が、案外多いのです。
「神様のみ心のままになさしめたまえ」と神への全託の祈りをしながら、その一方で「私は何事もなし得
るのだ。私にできないことは何も無い。なせばなる」と自力の念を出していては、完全他力ではなく中途
半端なのですから、祈りの効果は現れてはこないのです。

自分の思う通りにならないと、すぐにふくれっ面をしたり、自分の思う通りに相手が動いてくれないと、
すぐに相手に対して文句を言う。これでは、神に全託しているとは言えません。神への全託ということ
は、どのような状況にあっても、不平不満の想いを出さない、ということですから、自分の思う通りにな
らないからといって、すぐに心を乱すようでは、神に全託しているとはいえません。

「自分の思うままに生きる」という道を選んだら、自分の力で自分の運命を切り開き、自分の運命をつく
り上げてゆけばよろしいでしょう。しかし、「神様のみ心のままになさしめたまえ」と神への全託の道を
選んだら、自分の欲望をすべて捨てなければなりません。自分の道を、まずはっきりと定めることが必要
です。中途半端ということが、いけないのです。

自分の思う通りに生きようとしても、現実には、自分の思う通りにならないことのほうが、ずっと多いの
ですから、自分の思う通りに生きようとする人には、たえず不平不満の種がつきまとうようになります。
それに対して、神様のみ心のままに生きている人には、自分の想いがもともと無いのですから、自分の思
う通りにならない、という不平不満の想いは出てきません。世の中が波乱に満ちていても、その波を超越
して生きてゆけるのです。そこで私は、神への全託行を勧めているのです。

「神様のみ心のままになさしめたまえ」と神に全託したら、自分の想いがなくなり、不平不満は一切なく
なるのです。それでもなお、不平不満の想いがあるということは、まだどこかに、神様に任せきっていな
い自分、神様の愛と全能の力を信じていない自分があるからなのです。五井先生の教えを、知識として知
るだけではだめです。実際に、不平不満がなくなるまで、神への全託の祈りを、実行しなくてはなりませ
ん。一度で全託するのは難しいでしょうから、何度も何度もくりかえし、神に全託することです。

空即実相というのは、想念を無にし、空の境地になりますと、その瞬間に本心の自分が現れてくるという
意味です。それに対して「何も念じないで、何も考えずに、目標を達成できるわけがない。だから、強く
欲する目標を念じなさい」というのが、アメリカの自己啓発の考え方です。祈りながら、片方で念力成功
法を使っていては、中途半端になってしまいますから、どちらかに定める必要があるのです。

自分で強く念じた成功よりも、神様に全託して、神様から与えられる成功のほうが、はるかに大きな成功
を得られるのですから、神への全託を選んだ人は、途中で迷わずに、神の愛を信じて、神への全託をなし
つづけてゆくことです。「神様のみ心のままになさしめたまえ」という気持ちで世界平和の祈りの中に、
自分のすべての運命を投げ入れて、生命をいただき直すのです。「世界人類が平和でありますように」と
いう祈りの中から、あなたの新しい運命が開けてくるのです。
「他力行に徹しなさい。世界平和の祈りに全託しなさい」と五井先生は皆さんに強く勧めているのです。


心がかよいあう温かい会話とは
No.67 森島恒吉    1998/10/20 (火) 11:01 静岡県
世界人類が平和でありますように

富士山は、一年のうち秋から冬にかけての季節が、もっともよく見える時期
ですが、昨日は、天高く馬肥える秋、という言葉どおりの秋空で、富士山全
体が一望に見渡せました。夕方はうろこ雲がたなびい、黄金色の太陽が、空
を赤く染めてゆきました。美しさを感じさせる一瞬です。こんなふうに、
挨拶するときには、季節の挨拶が一般的です。大阪では「儲かりまっか?」
「ボツボツでんな」と挨拶しますが、毎日こんな挨拶をしているのですから、
商売にうまくなるはずです。(^_^)

毎日の挨拶について、五井先生は次のような法話を説いています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「お早うございます、今日は寒いですねえ」と挨拶されたら、
「そうですね、寒いですね」とふつう挨拶します。
「今日は雨が降っていやですね」
「そうですね、雨は湿っぽくていやですね」
「今日は暑くて大変ですね」
「そうですね、暑くて大変ですね」と私は答えます。

そういう一見無駄のようにみえる会話、たいした話ではない会話が、人の心
と心を温かく通わすのです。寒いとか暑いとか雨だとか、いやだとか、そん
な言葉なんか、ほんとうはどうでもいいんですよ。そんな言葉をかわすこと
によって、奥の心と心を通わしているんです。心と心が交流しているんです。

「寒いですね」と挨拶されたら、「寒いですね」と答えれば、お互いの心が
通うでしょう?だけど、「寒いですね」と挨拶されて、「いや、おれは寒く
ない。涼しくて気持ちいい」と答えたら、お互いの心と心が通わないじゃあ
りませんか?
「お暑いですね」
「いや、おれは暑くない。心頭滅却すれば、火もまた涼しだ」
「今日は、体がちょっとだるくて…」
「それはあなたの気持ちが、たるんでいるんだ。病は気からというではないか」
「私はあの人のことが、憎くて憎くてたまらないんです」
「それはあなたが真理に目覚めていないからです。神の子と思えば、誰でも
神の子に見えるのです」と答えられたら、話しかけたほうが、もう二度と、
その人に話しかける気がなくなります。こんな具合に、真理に把われていた
り、心の法則に把われている人は、いわゆる宗教的な臭みが出て、ふつうの
人と、当たり前の話ができなくなるんです。それでは、だめなんです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

真理に把われるというのは、実相論に把われるということで、「人間神の子、
完全円満、悪無し、病気無し、不幸無し」という真理の言葉に把われて、自
分だけが高見に立って、現実を直視せず、現実を無視した考えをすることで
す。真理に把われた話をする人は、ふつうの人からは、「あの人は立派なこ
とを説いているけれど、私らにはとてもついてゆけない」と思われてしまう
のです。高過ぎる真理の言葉を、そのまま説きますと、非常に冷淡に聞こえ
ることがあるので、注意しなくてはなりません。

心の法則とは、仏教的にいえば因縁因果を、新しい言葉で言い換えたにすぎ
ませんが、心の法則に把われるとは、「善を想えば、善が現れる、悪を想え
ば悪が現れる。だから、善なる言葉のみを使い、悪の言葉を絶対に使っては
いけない。恐れるものは、みなきたる。だから、不安恐怖を持ってはいけな
い」という教えを聞いて、「悪い言葉、失敗の言葉、不可能の言葉、マイナ
スの言葉を使うまい、聞くまい」とするあまり、世間の人と当たり前の会話
ができなくなることです。また、ちょっとでも不安を持ったら、即座にその
不安が現実に現れてくるのではないか、と恐怖におののくことです。他人に
使いますと、相手を責め裁く道具として使われてくるのです。心の法則を応
用した指導には、このような欠陥があるのです。

以上のように宗教者の中には、「真理に把われている人」と「想念の法則に
把われている人」の二種類の人がいるのですが、もう一つ更に、これらの両
方共に同時に把われている人もいるのです。両方に把われた状態を、五井先
生は「二重の把われ」「二重に把われた人」と呼んでいるのです。五井先生
の教えを、このようにシスティマタイズ(Systematize)体系化しますと、
よく理解できるようになると思います。

講師の中には、「相談者からマイナスの否定的な言葉を聞きたくない。自分
の潜在意識が汚れてしまう」と思って、「マイナスの話をしてはいけません」
と一方的に説いている講師がいます。その結果、個人相談の時でも、誰もそ
の講師にマイナスの話をしなくなりますと、「最近の皆さんは、非常に心境
が高くなりました」と褒めている講師がいますが、それは皆さんの心境が高
くなったわけではなく、悩みを隠すようになっただけなのです。それでは悩
みが真実に消えたわけではないのですから、隠しただけ、悩みがよけい深ま
ってしまうのです。人々の悩みを聞くのが、宗教者の一つの役目であるのに、
それを拒否するのですから、そういう人は宗教者としての天命がない人なの
でしょう。

人々は、自分の気持ちを理解してくれる宗教者を求めているのです。人々は、
自分と同じ立場に立って、悩みを聞いてくれる宗教者を求めているのです。
真理に把われず、想念の法則にも把われず、相手の立場に立って、心と心が
温かく通い合う会話ができるようにならなくてはなりません。それでいて、
その宗教者のそばにいると自然に心が浄まってゆき、不平不満を言わなくな
り、いつの間にか神への感謝が湧いてきている、というような宗教者こそ、
本物の宗教者といえるでしょう。

「世界平和の祈り」の日常生活には、「真理への把われ」や「想念の法則」
という、そうした把われというものが一切ありません。ふつうの人と当たり
前に世間話ができて、正直に自己の心の底を打ち明けることができて、嘘を
ついたり、虚栄をはったりする必要がありません。ですから、気楽にのびの
びと生きられるのです。それでいて周囲を、自然と明るく調和したものにし
てゆく力があるのです。


歩きながらの世界平和の祈り
No.66 森島恒吉    1998/10/18 (日) 04:32 静岡県
世界人類が平和でありますように

ふつうの人々の日常生活では、皆さんは別にして、朝は眠い(\(~O~)/ネムイ)
目をこすりながら、ご飯もろくにとらず学校へ行ったり、会社に出かけてゆ
く人が、結構多いのではないかと思います。駅の小さなカフェで軽食をとっ
ている人が多いのが、何よりの証拠です。夕方は、学生はクラブや勉強で忙
しく、主婦は夕食の買い物や料理で忙しく、会社員は残業、飲み会で忙しそ
うです。

このようなあわただしい現代で、生活にゆとりのある人は別にして、正座し
て静かに統一する時間をつくり出すのは、容易ではありません。大きな会社
でも倒産したり、人員削減されて、一家をかかえた働きざかりの中年が、職
を求めて東奔西走している姿も多く見受けられます。このように忙しい日常
生活の中で、五井先生のご本を静かに読んだり、宗教心をつちかってゆくこ
とは、なかなか難しいことだと思います。私の小さな塾に学びに来る人も、
今は定年を過ぎて時間的にも経済的にも、生活にようやくゆとりのできた人
ばかりです。

そこで忙しい日常生活の中で、どうしたら祈れるかと考えますと、残ってい
る「歩いている時間に祈る」ということになると思います。歩きながら祈る
祈り方は、五井先生がなさっていたように「神さま、神さま、神さま…」と
神さまを呼ぶ祈り方が、もっとも簡単です。これだけで納得できる人は、こ
れだけでも良いのです。もちろん、この場合には、守護霊、守護神を総称し
て、「神さま」と呼んでいるのであり、宇宙神の意味ではありません。「宇
宙神さま」と呼びかけても、そう簡単に、宇宙神が応えるわけではなく、宇
宙神の働きは、必ず守護霊を通して働くので、守護霊を通さずに何かを伝え
る、ということは決してありません。いいかえると、肉体波動の身近にいる
守護霊に波長を合わせていると、しだいに守護霊から守護神、守護神から宇
宙神へとつながってゆくのですから、「宇宙神さま」と呼ぶ必要はないので
す。

禅では座禅のほかに、時々、歩きながらお経をよんだり、臍下丹田に統一し
て歩く経行(きんひん)という行があります。また比叡山の常行堂では、九
十日間、阿弥陀仏像の周りを歩きながら念仏を唱える不断念仏行があります。
五井先生の場合は、先ほど書いたように「神さま、神さま、神さま…」と唱
えながら歩く行をなさっていました。五井先生は、お元気な頃は、慣れない
人は聞き取れないほどの早口でお話なさっていましたが、晩年に至りますと、
少しずつゆっくりとした口調で話されるようになりました。

そんなある日の講話で、「ゆっくりと、せか〜い〜じん〜るい〜が〜、と祈
るとよろしいですよ」と五井先生が話されたのです。「世界平和の祈り」を
唱える時間の長さは、集団で祈る場合には、おのずと平均的な長さに定まっ
てくるものですが、この時間内で祈らなければならない、という定まりはあ
りませんから、個人で祈る場合には、早く祈ろうとゆっくり祈ろうと、自由
であるのです。五井先生は「言葉よりも想念のほうが早いから、世界人類が
平和でありますように、の『せ』と言った瞬間に、もう神さまにつながって
いるんです」とおっしゃっていました。かといって、「せ」と一言だけ言っ
ただけで、横着をして「うん、これで今日のお祈りはもう充分だ」と済ます
わけにもいきません。(^_^)

「ごいせんせい」と唱えながら歩く、という方法は、白光真宏会内で一番初
めに私が実行し、五井先生から、「非常に統一が深まった」とたいへん褒め
られたものです。それが後に広まりましたが、五井先生の「ゆっくりと祈る
といいですよ」のお話をヒントにして、私は「歩きながらの世界平和の祈り」
も新しく発案しました。その方法を、具体的に書いてみましょう。

左足、右足、左足、右足、左足、右足、左足、右足、左足、右足、左足、右足。
せか、い〜、じん、るい、が〜、へい、わで、あり、ます、よう、に〜、〇〇。

このような調子で、歩きながら繰り返し唱えるのです。最後の右足の〇〇は
無言で、息を整えます。この歩きながらの世界平和の祈りは、私がふだんか
ら実行している方法であり、習慣となっておりますから、いつでもどこでも、
歩きだすと、「世界人類が平和でありますように」と自動的に唱えるように
なっています。歩いている時には、どこかへ行くという目的のほかには、仕
事はないし、何も考えていないのですから、祈るのに絶好の時間ですし、時
間を最大限に有効に生かす祈り方と言えるでしょう。

声の大きさについては、自分だけに聞こえるような小さな声で充分です。平
和行進のような時には、大きな声を張り上げても一向にかまいませんが、日
常生活の中での個人の祈りですから、周囲の人々に奇異に思われることのな
いように、周囲に人がいるところでは、声に出さずに、心の中で唱えます。
とにかく長続きしなくては効果がありませんから、声帯を痛めるほど声を出
す必要はありません。日常生活の中で、どのように「世界平和の祈り」を祈
ればよいのかと模索している方々に「歩きながらの世界平和の祈り」がもっ
とも易しい方法であると、私の体験からお勧めするしだいです。


神智を授かる
No.68 森島恒吉    1998/10/23 (金) 04:18 静岡県
世界人類が平和でありますように

宗教の話をする場合、神の子の立場に立って話す話し方と、肉体人間側に立
って話す話し方があります。たとえば、「世界を平和にする」と話す場合は、
神の子の立場に立って話しており、「神さまに平和にしていただく」と話す
場合には、肉体人間側に立って話している時です。人間は本質的に神の子で
あり、私たちは肉体という衣をまとっている神の子ですから、どちらの表現
も正しいのです。

宗教の中でも、他力行は消極的な生き方のように見られがちですが、他力行
がいつまでも他力行のままでいるわけではなく、他力行の末に神我一体の境
地に至りますと、想念波動変換原理によって、消極的とか積極思考という相
対的な力を超えた強い絶対力が現れてくるのです。そうなりますと、自分個
人の救われだけを目標にしてきた人でも、「世界を平和にしよう」「人々の
ために尽くそう」「世界平和の祈りを広めよう」というような気持ちがふつ
ふつと湧いてきて、自然と世界平和のために働くようになるのです。

したがって、「世界平和のために知恵を出す」と言ってもかまわないのです
が、「神の知恵を肉体界に降ろす」という表現については、私は賛成しかね
るのです。どこが賛成しかねるかといいますと、「降ろす」という表現です。
「おろす」と言いますと、上の棚から本を下ろすとか、車から積み荷を地面
に下ろす、というように使われます。こうした物を下へおろす動作と、神さ
まからの知恵をいただくことを、同じように「おろす」と言うことは、私の
感覚としては神への不遜に聞こえてならないのです。そこに傲慢さを感じる
のです。それに身ごもった子供を堕胎したときにも「おろす」と言います。
宗教者の口から「おろすのです」という言葉を聞くたびに、堕胎した経験の
ある女性は、どんなにか深く心を傷つけることでしょう。そうしたことを配
慮して、「神界から肉体界に神の知恵をおろす」という言葉は、私は決して
使わないのです。

神棚に供物を上げる時には「ささげる」という言葉を使いますし、供物を下
げる時には「いただく」と言うように、「神さまから知恵をいただく」「神
さまから知恵を授かる」と言うべきなのです。「知恵をおろすというのと、
知恵を授かるというのは、同じ意味ではないか、そんなに気にすることはな
い」と言う人もいますが、「それでは、子供をおろすというのと、子供を授
かるというのと、はたして同じ意味になるのでしょうか? まるで反対の意
味になるではありませんか?」と私は問いかけるのです。

私の弟子にも、過去の癖でついつい「神示がおりた」「光がおろされた」
「光をおろす」というような傲慢な表現を使うことがありましたが、そのた
びに「神さまの知恵について、おろすという言葉を使ってはいけません。授
かるという美しい言葉があるのですから、授かるという言葉を使いなさい」
と私は根気よく幾度も注意しておりました。最近はようやく、その癖がなく
なりましたが、一度ついた想いの癖を直すのはたいへんなことです。

神我一体になったからといって、神の子の立場に立ったからといって、傲慢
になってもいい、ということではありません。どんなに偉くなっても、人間
は謙虚さと反省を忘れてはいけません。私たちは、神さまから生命をいただ
いたのですが、今では守護の神霊の助けがなくては、一歩も前に進めない状
況になってしまいました。戦争の問題も、資源不足の問題も、環境破壊の問
題も、もはや肉体人間の力だけでは、どうにもなりません。神さまから知恵
を授かりながら生きてゆくほかに方法はないのです。

「神の知恵をおろすのだ。私は何年までにおろしてみせる」という傲慢な言
葉からは、神智は授かりません。「神さま、世界人類が平和でありますよう
に、知恵を授けたまえ」という謙虚な祈りを捧げてこそ、神智が授かるので
す。「世界平和の祈り」の中に、私たちの全運命を託して、神さまから生命
をいただき直し、運命をいただき直し、神智を授けていただき、私たちは世
界平和実現の道を歩んでゆくのです。


真理の言葉にひそむ欠陥
No.74 森島恒吉    1998/10/25 (日) 20:00 静岡県
世界人類が平和でありますように

生長の家の会員でいた人が、白光の会員になり、「五井先生のシンプルな教えに救われた」という人が多
いのですが、その一方、白光の教えだけで長くやってきた人の中にも、「私は真理に目覚めた」と生長の
家の教えに惹かれてゆく人もいるのです。これは一体、どうしてなのでしょうか?

どこの宗教へ誰が流れてゆこうと止めませんし、他の宗教について非難するつもりはありませんが、白光
で長い間やっていた人が、他の宗教に流れてゆくのは、五井先生の教えを伝える側に、五井先生の教えを
解説する努力の不足があるからだと思うのです。私も、五井先生の教えを伝える一人として、この問題に
ついては責任を感じざるをえません。名目上は白光の会員であっても、実質的には五井先生の教えから離
れてゆく人を見るたびに、五井先生の教えを正しく伝えなければならないと、私は責務を感じるのです。

たとえば、五井先生は「罪は消えてゆく姿」と説いていますが、生長の家では「原罪無し、罪本来無し」
と宣言するように説いております。白光の教えだけでやってきた人にとって、この生長の家の真理の教え
に初めて触れた時、非常に新鮮に感じ、「原罪無し、罪本来無し」と宣言する生長の家の教えのほうが、
五井先生の教えよりも、なんとなく高い教えであるように思ってしまう場合があるのです。

五井先生は、生長の家の講師でした。しかし、五井先生はその生長の家の講師をやめて、新しく教えを創
りました。なぜ、五井先生は生長の家の講師をやめたのでしょうか? なぜ、五井先生は生長の家のよう
に、真理の言葉を宣言する、という行法を、会員に説かなかったのでしょうか?

それは、なぜかと申しますと、生長の家の真理の教えには、欠陥があったからなのです。五井先生は、真
理の言葉をそのまま教えることの欠陥に気がついたからなのです。生長の家では、今も数十万人もの多く
の会員を抱えていますが、その会員の人たちは、いまだに生長の家の教えの欠陥に気づいていないから、
生長の家の会員となっているわけで、教えの欠陥に気づくまでには、時間のかかることなのです。それを
五井先生のおかげで、苦労せずに、より優れた教えを学びながら、五井先生の教えの長所を理解せず、欠
陥のある真理宣言論へと逆戻りしてしまうことは、五井先生に申し訳ないことです。

「罪本来無しと宣言する行法」について、五井先生はどのように説いているのか?
「続宗教問答」の中から、それに関する文を、次の項目で紹介しますので、お読み下さい。
真理の言葉には、思わぬ欠陥がひそんでいることに、一日も早く気づいて下さい。


「罪本来無し」真理宣言行の欠陥
No.75 森島恒吉    1998/10/25 (日) 21:13 静岡県
「続宗教問答」五井昌久著(白光真宏会出版局)より一部抜粋(P116)

〔問〕私はもっか「罪悪の問題」で混迷中です。生長の家では、「罪本来無しと悟れば、罪無きなり」と
いっていますが、実際に、過去一切の我々の罪悪が滅尽するのでしょうか? それとも「観念論」にすぎ
ないのでしょうか? 教えて下さい。

〔答〕「罪本来無しと悟る」ということは、口や筆では楽に言えますが、実際問題としては、なかなかど
うして悟れるものではないのです。

「罪本来無し」という悟りに至るためには、「肉体身として神のみ心を離れてあるように見える人間は、
実は消えてゆく幻影のようなもので、実在しているものではないのだ。実在として在るのは、神そのもの
であり、神の光明の一筋一筋である神の子の生命があるのみだ。だから、肉体身として在る自己の全想念
は、すべて神のみ心の現れである、という体得がなければならないのだ」というところまで来ないと駄目
なのです。

ただいたずらに、「罪本来無し」「肉体無し」「病気無し」等と言っているのは、あなたの言うように、
「観念論」ということになるのです。深い真理をやさしく説くことはよいのですが、あまりに、現実から
飛躍してしまいますと、言葉としては易しく聞こえるが、実際としては手が届かなくて、その中間に立っ
て、上にも下にも自己の居場所が無くなってしまうような心の状態になってしまうのです。

「罪本来無し」ということは、全く真理なのです。神の完全性の中から、不完全な人が生まれるわけがな
いからです。しかし、これはあくまで、「本来無し」「本質として無い」ということでありまして、その
本来性、本質が、この地球界に現れるためには、或るこの世的な時間経過が必要になってくるのです。

現在の地球界の様相は、どう見ても、「罪本来無し」の様相ではありません。罪も不幸も充満しているよ
うに見えます。こうした現在の姿は、いくら眼を閉じて見ないようにしようとしても、見えてくるし、聞
こえてもくるわけです。自分自身の心の問題でも、その大小はありますけれど、同じように、完全な現れ
方はしていないのです。そこで、どうしても、神の本質のすっかり現れきるまでの、想念の在り方、心の
状態の在り方というのが問題になってくるのです。

「罪本来無し」「病気無し」「貧乏無し」と言っても、自己の奥底の心からそう想わなければ、その罪も
病気も貧乏も消えてはゆかないのです。いくら自己に言い聞かせたところで、単に自己の想念をごまかし
ているだけで、本質が開いてきているわけではないのです。そこで真理を知ると、かえって自己の心が、
(真理を)知らない時以上に、悩んだり苦しんだりしてしまうのです。「自分は駄目だ」「自分にはでき
ない」という具合にです。

私はこうした真理の道に入りきるまでの、人間の想念の経過を、自己も体験して知っておりますので、神
のみ心、神の本質、神の子の真実の姿が現れるまでの掛け橋として、「消えてゆく姿」という言葉を中に
はさんだのであります。神のみ心は不完全なものでありようがないのだから、その分生命である神の子人
間にも、不完全な姿があるわけがない。しかし、この地球界に、神の子の光明がすっかり現れきるまでの
途中経過としては、途中経過としての当然なことである、完成されていない現実が現れ出ているので、そ
の不完全のように見える姿は、あくまで、神の子の完全性が現れるために、次第に不必要になってきてい
る、あらゆるものごとの消えてゆく姿なのだ、と説いているのであります。

そして、その消えてゆく姿を、肉体的存在としての個人や人類を苦しませぬ、消えてゆく姿にするために
は、「肉体人間として存在する以外の、神の光明のみ働きである守護の神霊への加護を願って、守護霊、
守護神への感謝行の中に、すべての消えてゆく姿的物事事柄を投げ入れてしまえ」と説くのです。

その上、自己の想いとしても、人類の真実の姿である大調和した世界を築き上げる一役を買う、という実
際の方法として、「世界人類が平和でありますように」という「世界平和の祈り」をお勧めしているので
あります。この「世界平和の祈り」は、守護の神霊の大集団である、救世の大光明の働きの場から、働き
かけてきている祈り言なのですから、この祈り言をやることによって、自己の想いも自然に「世界人類の
平和」という大きな根本的な生き方につながってゆくし、実際的にも、救世の大光明の光が、自己の肉体
身の場を通して、世界中に広がってもゆくので、個人と人類が同時に深まってゆき、その本質を現すのが
楽にできるようになるのです。

ですから、「真理の言葉」だけにつかまっていて、その「真理の言葉」に自由を失ってしまうようなこと
をしていないで、実際に神との交流が日常茶飯事の中でも行なわれる、「世界平和の祈り」のような祈り
言の中に、あなたの想念を入れきって、「世界平和の祈り言」の中から、正しい日常生活、平常心是道の
生活をしてゆけばよいと思います。

どんな「よい言葉」でも、その言葉だけに把われていると、真理が消えてしまいます。何事何物にも把わ
れぬ、生命の自由ということ、自由自在心というのが、悟りの根本のことなのですから、どうぞ、そのお
つもりでご精進下さい。                       (以上、五井昌久先生の文)


真理宣言行と世界平和の祈りの比較
No.76 森島恒吉    1998/10/25 (日) 22:27 静岡県
世界人類が平和でありますように

「原罪無し、罪本来無し」と真理の言葉を宣言する行によって、「罪を消そう」とする方法には、どのよ
うな欠陥があるのか?「罪本来無し」という真理宣言行と、「世界平和の祈り」の守護の神霊への他力行
とは、いったいどちらが良いのか? 五井先生の教えを、わかりやすく箇条書きにまとめてみましょう。

1.「罪本来無し」ということは、口や筆では楽に言えるが、実際問題としては、思えるものではない。

2.現在の地球界の様相は、どう見ても「罪本来無し」の様相ではない。罪も不幸も充満しているように
見える。いくら眼を閉じて見ないようにしようとしても、見えてくるし、聞こえてくる。

3.したがって、「罪本来無し、病気無し、貧乏無し」と、いくら自己に言い聞かせたところで、単に自
己の想念をごまかしているだけで、自己の奥底から想えるわけではなく、本質が開いてこない。

4.「罪本来無し」といくら自己に言い聞かせても、「ああ、悪いことをしてしまった」と自己の行為に
罪悪感を持ってしまい、「私には罪は一切無い」とはとても自分には想えないし、人にも宣言できない。

5.「罪本来無し」といくら自己に言い聞かせても、「あいつはなんて悪いやつだ」と他人の行為の中に
罪を認めてしまい、「あの人には罪は一切無い」とはとても自分には想えないし、人にも宣言できない。

6.その結果、「罪本来無し」の真理宣言行をするほど、「自分にはできない」「ほかの人たちは、楽々
やっているのに、なんて自分は駄目なんだ」と自分をますます責めて、暗くなってしまうことになる。

7.現実には、罪も不幸も病気も貧乏も充満しているのだから、「罪本来無し、病気無し、貧乏無し」と
真理を宣言して本質を現そうとする真理宣言行は、難しくてできるものではない。そこで「罪は消えてゆ
く姿、病気は消えてゆく姿、貧乏は消えてゆく姿」と思いなさい、と五井先生は説いている。

8.その消えてゆく姿を、個人や人類を苦しませぬ消えてゆく姿にするために、実際にできる方法として
「罪本来無し」と真理の言葉を宣言する行よりも、守護の神霊の加護を願い、「世界平和の祈り」の中に
すべての消えてゆく姿を投げ入れてしまえ、と五井先生は勧めている。

9.「世界平和の祈り」は、「罪本来無し」という真理の言葉の宣言行のように、嘘をついたり、虚栄を
張ったり、不自由になったり、自他を責め裁くことはない。

10.「世界平和の祈り」の中から、自然に正しい日常生活が現れ、自然に神の子の本質が現れてくる。


イメージ想念法は、真実の祈りではない
No.77 森島恒吉    1998/10/28 (水) 00:56 静岡県
世界人類が平和でありますように

「神智を地上におろす、とは言わず、神智を授かる、という言い方をしなさい」と、私は教えていること
を前に書きました。五井先生の教えを真実に理解していないと、自己の心境で教義を説明することになり
ます。そのために、少しずつ五井先生と違った言葉づかいをするようになってしまうのです。言葉が少し
違うだけで、その内容が大きくずれてしまうことがありますから、五井先生と異なった言葉を使う場合に
は、慎重になってほしいものです。

先日の富士ワールドピースフェスティバル98'でも、司会者の青年の話を聞きながら、「ああ、この言葉
も間違っている。五井先生の教えから、大きくずれてしまっている。これはどうしても、修正しておかね
ばならない」と思ったことがありました。今日は、その言葉について申し上げましょう。

フェスティバルの最後に、参加者の皆さんが手をつなぎ、輪になって、世界平和の祈りを一緒に祈る時の
ことです。司会者の青年が、マイクでこう話したのです。

「皆さん、目を閉じて、心の中で『平和』をイメージして下さい。『平和』をイメージしましょう。そし
て、世界平和の祈りを祈りましょう」

どこが間違っているか、おわかりですか? ここで私は、皆さんに、はっきりと申し上げておきます。

五井先生は、世界平和の祈りを祈る前に「平和をイメージして下さい」と教えたことは、一度もありませ
ん。世界平和の祈りの前に、五井先生が常におっしゃったことは「守護霊さま守護神さまに、すべてを任
せて、力を抜いて下さい」とおっしゃっていたのであって、「平和をイメージして、祈って下さい」とい
う教え方は、一度も教えておりません。

皆さんに、ぜひ知っていただきたいことは、五井先生の教えは、自己のイメージの力、すなわち念力で、
世界を平和にするという教えではない、ということです。五井先生の教えは念力の教えではありません。
五井先生の教えは、イメージの力(念力)を使って、自己の運命を善くしたり、世界を善くしてゆく、と
いう教えではありません。五井先生の教えは、「世界平和の祈り」を通して、守護の神霊のみ心の中に、
自分の想念のすべてを託してしまう教えでありまして、想念力で平和を念じる行ではなく、自分勝手な成
功のイメージを念じる行でもありません。イメージを無くしてしまう行が、真実の祈りの行なのです。

イメージトレーニングで、スポーツの運動能力が上がった、という話がありますが、70歳の人が、イメー
ジトレーニングでオリンピックで優勝した、という話は聞いたことがありません。つまり、イメージの力
には限界がある、ということなのです。体力が衰えてくれば、念力も衰えてきます。若い時はイメージの
力を使っている人も、としをとってくるにしたがって、念の力が弱まってきて、自己のイメージの通りに
は、ならなくなる時がくるのです。そうなりますと、とたんに心が動揺してきて、一時の安心感などは吹
き飛んでしまうのです。イメージトレーニングで、神性を顕現することは、絶対にできません。

ですから、イメージの想念力による運命改善法では、真実の安心立命は得られないのだから、そんな念力
による現世利益に酔いしれていないで、真実の祈りの道に入りなさい。その道は、想念を空にする道なの
だ、その具体的な方法は、「世界平和の祈り」なのだ、と五井先生は説いているのです。
五井先生の教えは、念力行ではありません。想念の力を使ったイメージ法ではありません。催眠術でもな
ければ、暗示でもないのです。そうした想念の力を使うのではなく、想念の無くしてしまい、空の境地に
なることが、五井先生の教えであり、真実の祈りであるのです。

念力行には、自己の力だけがあり、そこには守護の神霊の存在がありません。「平和をイメージして、平
和にする」という言葉には、「守護の神霊に頼らずに自己の力だけで、平和にしてみせる」というような
奢りと力みが感じられます。その想い方に、五井先生の教えとは異なった感じ、違和感を感じるのです。
精神科学者が念力を研究したり、医者が暗示療法を研究することは結構なことですが、宗教者はあくまで
も守護の神霊の存在を知らせ、真実の祈りを教える行為に専念するべきであって、真実の祈りと念力を、
混ぜ合わせて教えるべきではないのです。聞いている人が、祈りと念力の区別がつかなくなるからです。

「世界は平和である」と肉体人間がどんなにイメージしても、そのイメージの念力では、世界を平和にす
ることができないから、「神さま、世界を平和にして下さい」と守護の神霊に祈るのです。
「私は自分の力で世界を平和にすることができる」という想いのある人は、守護の神霊に全託する気持ち
にはなりません。「肉体人間には何事もなし得ない」という肉体人間の力への全否定があってこそ、守護
の神霊の力を全肯定できるようになるのです。

「私は何事もなし得ない」と思っている人が、今更「自分の念力で平和をイメージしよう」と思うはずが
ありません。もし「自己のイメージの力で平和にしよう」と思っているならば、その人は「私は何事もな
し得ない」と心底では思っていない証拠なのです。

守護の神霊に他力していないならば、守護の神霊の力は全面的に働けないのです。守護の神霊に全託する
ということは、もともと難しいことではあるのですが、「世界平和の祈り」だけを祈るということによっ
て、守護の神霊に全託することが容易になるのです。それを「平和をイメージする」とか余計なことを考
えるから、守護の神霊への全託ができなくなるのです。

皆さんは「平和をイメージして、世界平和の祈りを祈りましょう」などと、自力と他力を混ぜ合わせたよ
うな教え方は、絶対になさらないで下さい。「守護の神霊にすべてを任せて、力を抜いて、世界平和の祈
りを祈りましょう」と五井先生が教えて下さったように、人々にそのまま伝えて下さい。
五井先生の教えは、他力易行道の教えであるのです。自力行や念力の教えではありません。多くの若い人
たちに、五井先生の真実の教えを正しく後世に伝えていただきたいと、願っております。


どうしたら神人になれるのか?
No.80 森島恒吉    1998/10/30 (金) 05:18 静岡県
世界人類が平和でありますように

「私は神の子である」と唱えていても、そう簡単に神の子にはなれないことは、いつも申し上げておりま
すが、世の中には面白い人がいるもので、「私は五井である」と唱えていれば、五井先生と同じようにな
るだろうと考えて、自分の姓を「五井」と改名してしまった人がいるのです。そして五井先生と同じよう
に髭をはやし、五井先生のように教えを説いているのですが、その人は五井先生になれたのでしょうか?

「私は五井である」と名乗っている人の話を噂に聞いたので、「面白いなあ」と思い、その人の説いてい
る教えを取り寄せて読ませてもらったのですが、五井先生の教えに非常に酷似しているものの、やはり真
似の域を抜け出てはおらず、五井先生の教えに自己流の教えを足して説いていることがわかりました。

本物と贋物は、どこかが違うものです。五井先生の真似をしようとしても、真似がそう簡単にできるもの
ではありません。「私は五井である」と言って、少し霊能力のあるふりをすれば、知性に欠けた人をだま
すことは容易にできますが、少し批判力を持った知性的な人をだますことは不可能です。五井先生に憧れ
をいだいている人は、五井先生の真似をするものですが、真似しようとしても、五井先生と同じ心境にな
らなければ、五井先生と同じような教えを説くことはできません。心境が違えば、話す内容も、どこかが
異なってくるものなのです。

皆さんは、白光真宏会の幹部や多くの講師から法話を聞いていると思いますが、五井先生の教えと全く同
じひびきを感じさせる法話はないと思います。似ている部分はあるのですが、どこかが違う気がします。
五井先生の教えを真似して、五井先生のように教えを説く、というのは、簡単なようでいて、なかなか容
易なことではないのです。なぜならば、五井先生と同じ心境になっていなければ、五井先生と同じように
教えを説くことができるはずがないからです。私の場合は、五井先生の真似ではなく、すべてがわかって
説いているのですから、読む人の心に五井先生の光がひびいてゆくのです。

「私は神の子である」と言っても、神の子にはなれませんし、「私は五井である」と言っても、五井先生
のようにはなれません。これは法則として、なれないように、なっているのです。なれない法則があるの
ですから、いつまで唱えても、なれないのです。「神」という名前を先祖代々から使っている人も結構い
ますが、その人たちが、真実に悟っているかというと、悟っていませんし、神そのものの行為をしている
わけではありません。このように「私は神の子である」と念じても、思い通りに簡単に神の子になれない
ことは、残念なことのようですが、これは反面、ありがたいことであるのです。

日本人の名前には、「下駄さん」「瓦(かわら)さん」、「子鹿さん」「蜂さん」「猪熊さん」というよ
うなお名前を持った人が、たくさんいます。そうした名前を名乗っているうちに、ある朝、目覚めて鏡を
見たら「私は下駄になっていた」「私は瓦になっていた」ということになっては、困ります。(^_^;)
「私は子鹿です」と言っていた人が、ほんとうに子鹿になってしまったり、人間が蜂の姿になってブ〜ン
と飛んでいったり、きれいな女性がある朝、イノシシや熊の姿に変身して隣のベッドに寝ていた、という
ことになったら、驚いてしまうでしょう?(^_^;)

では、どうしたら、神人になれるのかと申しますと、いつも申しておりますように、神のみ心に想念の波
長を合わせればいいのです。神のみ心は、愛であり、「世界人類よ、平和であれ」と思われているのです
から、「世界人類が平和でありますように」と祈れば、神のみ心と合致して、その人は神の子の姿を現す
ことができるのです。「世界人類が平和でありますように」と唱えていれば、人間は自然に神性を顕現で
きるのですから、「世界平和の祈り」のほかに何かを付け足す必要はないのです。

「世界平和の祈り」の生き方には、無理に背伸びをして踵を上げるように、「私は神の子である」とこと
さらに真理を宣言する必要はありませんから、疲れることがありません。現実を無視して「悪や病気や不
幸は無い」と無理に業想念を否定する宣言も不要ですから、ふつうの人々と、当たり前の世間話ができま
す。「世界平和の祈り」の生き方は、正直に当たり前に生きられて、自他の心を責め裁かずに生きられま
す。それでいて、自然に神のみ心にかなった正しい生き方ができてくるのですから、ありがたいのです。

「世界人類が平和でありますように」と祈っている時、おのずと、あなたは神我一体となっているのであ
り、神人として救世の大光明を輝かせているのです。「世界平和の祈り」は完全な祈りであるのです。


愛の祈りはすべてを癒す
No.82 森島恒吉    1998/11/01 (日) 08:24 静岡県
世界人類が平和でありますように

神には、宇宙の法則としての働きと、愛の救済の働きの二つの働きがあります。
「宇宙の法則のままに生きなさい」と教えられても、宇宙の法則から外れた人間が、自己の力だけで宇宙
の法則に戻すことは、なかなか容易なことではありません。現在の肉体人間は、宇宙の法則から外れてし
まったので、宇宙の法則に合わせて生きなければならないことは充分に承知していても、肉体人間のみの
力では、宇宙の法則に合わせて生きることが難しいのです。そこで、神の働きの一つである愛の救済の働
きをする、守護霊守護神の力によって、宇宙の法則に乗せていただく必要が、どうしてもあるのです。
「法則論」を説くのは結構なのですが、「法則論」を説く人は、おおむね「守護の神霊による救済論」を
説かずに、「法則論」に傾き終始する人が多いようです。

「法則論」のほかに、「守護の神霊に頼るな」という「自力論」を教える宗教者もいます。
人間には、内在する神として分霊を持ち、外部の神として守護の神霊を持っているわけですが、内部神性
を顕現するためには、外部神性である守護の神霊の力を借りなくてはならないのです。守護の神霊の力が
加わって初めて、人間は分霊としての内部神性を完全に発揮できるようになっているのですが、この場合
も、内部神性の力を強調するあまり、守護の神霊に頼ることを拒絶する教えを説く宗教者がいるのです。
「守護の神霊に頼らず、自己の内部神性の力を発揮して、自分の力で自分の運命を切り開け」と教えるの
ですが、健康で経済的にも家庭的にも恵まれている人はともかく、病気や貧困で苦しむ人々にとっては、
このような教えは、少しも救いにはならないのです。

「法則論」や「自力論」は、目に見えない守護の神霊への祈りが無いので、インテリ向きの教えではある
のですが、一般民衆にとっては、「法則論」は氷のように冷たく感じる教えですし、「自力論」は立派な
話には違いないが、自分たちには実行不可能の教えのように思えるのです。人々に冷酷さを感じさせる
「法則論」や「自力論」では、人類は救われません。民衆の心は、自分の力だけではどうにもならないと
思うから、守護の神霊にすがろうとするのです。その気持ちを無視するような宗教論を説いても、多くの
民衆はついてきません。民衆は、何か大きな力に救われたいのです。絶対的な力を持つ神に愛されたいの
です。そうした民衆の心を無視した「観念論的宗教」は広まることはありません。

自分の力だけで、自分の身を守ることはできません。守護の神霊に守られてこそ、安全に生きることがで
きるのです。「守護霊さま、お守り下さい」と守護の神霊に加護を祈る気持ちは、自然な感情であって、
そうした自然な感情を無視して、「自分の力で自分を守れ」と言われても、一般民衆の心は納得しないの
です。どんなに真理の言葉であっても、どんなに立派な教えを説いても、納得できない、実行できない教
えというものは、実際の役には立たないのです。そうした役に立たない教えを「観念論」というのです。

五井先生の教えは「守護の神霊による救われ」を説いているのですから、「法則論」でもなく「自力論」
でもありません。「自力で宇宙の法則に乗れ」と五井先生は説いているわけではありませんし、「あなた
は神の子なのだから、守護の神霊に頼らずに、自分の力で運命をよくしなさい」と説いているわけでもあ
りません。「守護の神霊にお任せすれば、おのずとあなたの内部の神性が開いてきて、知らないうちに、
宇宙の法則に乗って生きることができるようになるのです」と五井先生は説いているのです。
守護の神霊に救われるという「他力論」は、神の愛を感じさせ、温かさを感じさせます。すべての人が救
われるには、守護の神霊による救われを説く「他力道」しかありません。個人人類同時成道の他力道の
「世界平和の祈り」こそ、世界中のすべての人々に受け入れられて、実行される教えであるのです。

守護の神霊を抜きにして、「世界人類が平和でありますように」と祈るのではありません。
「世界人類が平和でありますように」と祈る対象は、愛に満ちた守護の神霊であるのです。
「あなたは、あなた自身で、運命を開け」というような教え方は、私たちはいたしません。
「あなたが幸せでありますように」と守護の神霊の方々に、私たちは祈りつづけるのです。
「法則論」をいくら説いても、人は癒されません。愛の祈りこそが、すべてを癒すのです。


美を感じる直観力を生かそう
No.83 森島恒吉    1998/11/03 (火) 06:21 静岡県
世界人類が平和でありますように

富士山の姿を仰ぎ見たとき、直観的に「ああ美しい」とか「ああ尊い」と思
いますが、それは直観的に美を感じるのであって、理論ではありません。理
論的なものは、すべて後からのものであります。宗教の本や自己啓発に関す
る本をたくさん読み、宗教知識が豊富になってきますと、しだいに理論を重
視するようになり、すべてが理論づくめになってきて、直観力が失われ、間
違った宗教理論のために、かえって神との交流がすみやかにはいかなくなっ
てくる、ということがあるのです。

私のことを「理論的な人だ」と言う人が多いのですが、私の宗教理論は、直
観的な悟りの後に現れてきた理論でありまして、直観よりも理論が先、とい
うことではないのです。私は五井先生の教えについて、詳しく理論的に解説
しておりますが、その理論は、直観力から出てきているのです。したがって、
私は理論的な人間というよりも、むしろ直観的な人間なのであります。

文章を書く基本的なきまりとして、新聞の書き方のように「だ。である」体
にするか、話し言葉のような「です。ます。であります」体にするかを、著
者はまず決める必要があります。たとえば、五井先生は「序文」「随筆」は、
「だ。である」体で統一されていて、一般の法話は「です。ます。でありま
す」体の文体で統一されています。法話の内容がどんなに優れていても、こ
のように文体が統一されておりませんと、文の流れのリズムが狂い、文章全
体の調和が乱れて、その内容も読者の心に響いてゆきにくくなるのです。一
つの文章の中で「だ。である」体と「です。ます」体が混在しますと、文章
が非常に汚く感じるようになってしまうのです。

「世界平和の祈り」の祈り言を見る時、富士山の美を賛嘆する時のように、
私は直観的に「ああ美しい」と感じます。これは直観的なものであって、理
論的なものではありません。

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように

この三つの言葉は、一つの文体に統一されていて、美しさを感じます。

守護霊さま ありがとうございます
守護神さま ありがとうございます

という感謝の言葉も、文体が統一されていて美しく感じます。前半は神への
願いごとを昇華した祈りであり、後半は神への感謝の祈りです。個人人類同
時成道の祈りであり、往相即還相の祈りでもあります。

ところが、「世界人類は平和である」というのは真理であり、生命の宣言で
あるのだから、「世界平和の祈り」に付け加えたら、もっと効果が現れるだ
ろう、と肉体の頭の理屈で考える人々がいるのです。

世界人類が平和でありますように
世界人類は平和である
世界人類が平和でありますように
世界人類は平和である

その人たちは、こう祈っている人もいるのですが、もし「世界人類は平和で
ある」という言葉を付け加えたほうが良いのであれば、五井先生は最初から、
その言葉を付け加えているはずです。「世界人類は平和である」という言葉
を五井先生が付け加えなかったのは、「そうした言葉を付け加える必要は無
い」と思われたからであり、五井先生の智恵が欠如していたためではないの
です。

「世界人類は平和である」などと、五井先生の提唱されたお祈りに、何かを
付け足して祈っている人は、「自分は五井先生よりも進歩した人間である」
とひそかに思い上がっているにすぎないのです。神の完全な智恵から生まれ
た「世界平和の祈り」に対して、「不完全」と思ったり言ったりしているの
ですから、とんでもない思い上がりであり、神への不遜であるのですが、当
人はその事に気がついていないのです。

「世界人類が平和でありますように」という言葉と「世界人類は平和である」
という言葉は、文体として同じである、と皆さんは思われるでしょうか? 
祈願形と断定形とは、その意味が異なるのであって、文体が異なるのです。
こんなに文体が異なる祈り言を、神が人類に授けるはずがないではありませ
んか。

さあ、そこで大切なのは、直観力なのです。
「真理の言葉」とか「真理の宣言」とか「心の法則」とかいう理屈を、一度
捨てて下さい。
そして、直観的に考えて下さい。

世界人類が平和でありますように
世界人類は平和である

というような祈り言が、直観的に美しく感じるか否か、を…。

私の直観力では、この二つの言葉を重ねることには、非常な違和感を感じま
す。不自然に感じます。それはまるで、ようやく出来上がった美しい絵の上
に、絵の具をぶちまけてしまったように、せっかくの美しい「世界平和の祈
り」を台無しにしてしまったように感じるのです。これが、私の直観力から
きた感想です。美しく感じるひびきは、神のみ心であり、汚く感じるものの
中に、真理はありません。

さて、あなたの直観力は、どう感じるでしょうか?


「神と人間」英訳改訂版に期待する
No.84 森島恒吉    1998/11/05 (木) 06:35 静岡県
世界人類が平和でありますように

高木俊介氏訳による"GOD AND MAN"がすでにありますが、英文"BYAKKO"で
「神と人間」の全文改訂版が進んでいます。部分的な改訂ではなく、全面的
な改訂で、日本語の原文により近づいた訳になっています。

たとえば、

「ひたすらに神を想いて合わす掌のそれさえ消えてただに青空」

という五井先生の短歌は、高木訳ではこのようになっていました。

"When I commune with God
With hands joined in prayer
My body disappears,
Only the azure sky remaining."

同じ歌が新訳では、次のようになっています。

"While thinking only of God,
Even my joined hands
Vanished in prayer,
Leaving only the blue sky."

これだけ読んでも、英語にもいろいろな表現があるものだと思います。高木
訳が、内容をわかりやすく解説調で訳しているのに対して、新訳では原文の
表現をそのまま生かすように努めている配慮がうかがわれます。日本語を英
語に翻訳する場合、日本語にはない主語を、英語翻訳では必ず入れる、とい
うのが翻訳の基本であるわけです。もし、主語を入れないで翻訳すれば、学
校の英語教師に注意されるでしょう。高木訳では、その常識通りに訳してい
るのですが、新訳では、原文のままに主語を省略しています。それに新訳で
は、口ずさみやすいようになっています。

つづけて、五井先生の次の短歌を読んでみましょう。

「天地(あめつち)のひびきひとつに海鳴りとなりしところゆ陽は出でにけり」

高木訳/
"The sun has emerged
At the horizon of the roaring sea
Where Heaven and Earth merge
Admist the echoes of the rolling waves."

新訳/
"Where the vibrations of Heaven and Earth
United, and became
The roaring of the sea,
The sun rose."

どうです? 全然、訳し方が違うでしょう。高木博士の翻訳も卓越した素晴
らしい翻訳ですが、内容はともかく、新訳の表現のほうが、原文の雰囲気に
ずっと近いのがわかります。これを見ても、新訳にかける翻訳スタッフの並
々ならぬ意気込みが感じられます。

五井先生が紹介している次の詩についても、それぞれ翻訳文を書きましょう。

日本語原文(作詩・更科源蔵)/

「真理の眼玉よ 降りて来い
 おまえがあんまり高すぎるから
 世の中は暗いのだ」

高木訳/
"Come down, Oh Eye of Truth,
To enlighten the world.
You stay too high
For the peaple to reach."

新訳/
"Eye of truth, come down.
Because you are so high
This world is dark."

新訳は、高木訳よりもずっとやさしい表現を用いながら、原文の色彩とかリ
ズムを重視していて、文学的にも味わい深い英文になっています。新しい英
文訳"GOD AND MAN"は、まさに「現代の聖書」にふさわしい素晴らしい本と
なることでしょう。翻訳スタッフのご努力に感謝し、今後も期待しております。


業因縁の輪廻の法則を超える法
No.85 森島恒吉    1998/11/09 (月) 22:52 静岡県
世界人類が平和でありますように

「今、夜遊びして親を心配させている若い娘たちがいるけれど、将来自分が母親の立場に立った時、今度
は自分の娘が昔の自分と同じことをして、気苦労させられる立場に立たされるんです」
と五井先生がお話しされたことがありました。テレビのワイドショーで、芸能人たちの離婚騒ぎを見ます
と、五井先生がおっしゃたように、因果の法則が肉体界に厳然として作用していることがわかります。

皆さんもご存じのように、有名な俳優Mさんの妻であるA子さんが、結婚20年目にして離婚するかもしれ
ない、という話題が、最近雑誌やテレビで報じられています。A子さんが離婚したくなった原因は、夫の
俳優Mさんが若い女性と不倫をしていて、妻としてそれに耐えられないというものですが、今からさかの
ぼること20年前、B子さんとすでに結婚していた俳優MさんとA子さんが不倫関係にあり、その後、正妻
のB子さんと別れさせて、A子さんが妻の座についたのでした。その時、B子さんに味わわせた悲しみ憤
り苦しみを、それから20年後の今、A子さんは同じように味わうことになってしまったのです。誰かを悲
しませる不倫の末の結婚は、結果的に幸福にはなれないのです。

因果のサイクルというのは、「親の因果が子に報う」ということわざがあるように、だいたい20年から
100年ほどのサイクルでぐるぐる回っているのです。もちろん、もっと早く今生で現れてくる因果もあり
ますし、孫や曾孫の代になって現れてくる遅い因果もあります。すぐに原因が結果となって現れてくる
と、「悪いことした」とすぐに反省できるのですが、数十年もたって結果が現れてくると、自分がその原
因を作ったことをすっかり忘れているので、今の結果しか見えず、自分が過ちをおかしたことを知らない
ままに、悲嘆の涙にくれてしまうのです。しかし、悲しみを味わうことによって、表面では気づかなくと
も、心の奥では自分のおかした過ちを反省することになり、その業因縁が消えてゆくことになるのです。

かといって、因果サイクルが瞬間的なほど早すぎますと、反省する暇もなく、次々と苦難に見舞われるこ
とになります。なぜならば、人間の幽体に蓄積された想念は、善念よりも悪念のほうが圧倒的に多いから
ですから、少しくらい「善いことを思おう」としても、潜在意識には悪念がいっぱいつまっていて、怒濤
のようにその悪念の波が押し寄せてきて、どうしてもその悪念の強い波に巻き込まれてしまうからです。
幽界の地獄とは、このように悪因果が輪のように循環されている所なのです。この世の中では、あまりに
苦痛がひどいときには気絶し、気絶しますと、その瞬間だけでも痛みや苦しみから逃れることができるわ
けですが、「死んだら苦しみが消える」と勘違いして自殺した人は、自殺した後の幽界では、気絶するこ
ともできず、意識を持ったまま、暗闇の中でうごめきながら苦痛に喘ぎつづけなければならないのです。

ですから、人を悲しませたり、人を傷つけたり、神から与えられた自己の生命を粗末にするということ
は、決してしてはいけないことなのです。この因果の法則を知ることによって、正しい行為をしなければ
いけない、と人間は自己の行為を反省することになるのです。ところが、この因果の法則を知っただけで
は、人間は真に救われないのです。なぜかと申しますと、業因縁の転回があまりにも強すぎて、その業因
縁の渦から自力で脱出することが容易ではないからです。そのために、「こんな悪いことをしてはいけな
い」と思いながら、悪いことをしてしまうのです。幽界では、たとえば「あのやろう、殺してやる」と思
いますと、次の瞬間に憎い相手を殺してしまっている、と結果が現れて、自己の想念を修正している余裕
が全くといってよいほどないのです。ですから、「思ったことが、そのまま現れる」ということは、都合
のよいように思えますが、悪因縁が蓄積されている人間にとっては、「悪いことばかりが現れる」という
ことになり、因果の法則は恐怖の法則と写り、その苦悩の渦から抜け出ることがむずかしいのです。

肉体を持つということが「人身得難し」といわれるのは、肉体界は、幽界よりも因果の転回がゆっくりと
しておりますから、このゆっくりとしていることが幸いして、幽界から肉体界に結果が現れる前に、運命
を修正することができるチャンスが与えられているからです。因果の法則だけならば、業因縁におおわれ
た地球人はとっくのとうに滅亡しております。事実、地球人類は、過去において或る程度の高い文明を築
きながらも、何度か滅亡したことがあったのです。因果の法則だけでは救われないので、この因果の法則
を超える方法として、大神様は守護霊守護神を遣わして下さったのです。そして、守護の神霊方が日夜を
分かたず肉体人間を守護しているのです。どのように守っているかというと、守護の神霊は、悪い運命が
肉体界に現れてこないように、被守護体の幽体を浄めているのです。そのおかげで、悪いことを思って
も、すべてが現れてこないで、なんとか無事に生活していられるのです。
   
「心の法則」によって、自己の運命を変える、という方法を教えている人もおりますが、「心の法則」
「想念の法則」「成功の法則」と表現が異なっても、もともとは仏教の「因縁因果」を新しい言葉に言い
なおしたものにすぎず、「心の法則」だけでは人類は業因縁の転回を阻止することができず、真実の幸福
を得ることはできないのだ、ということを、まず知らねばなりません。それが悟りへの一歩なのです。そ
の次に、業因縁の転回を止め、業の輪廻から解脱するには、守護の神霊の助けがどうしても必要なのだ、
ということを学ぶ必要があります。

法則という言葉に惑わされて、「心の法則」を超えることができる、ということを思いつかない人が多い
のですが、「心の法則」とは「本心の法則」ではなくて「業の法則」であることを知らねばなりません。
「業の法則」の中で真実の幸福は得られませんし、「業の法則」を超えるために、宗教があり、守護の神
霊への祈りがあるのです。たとえば、リンゴが木から地面に落ちるというのは重力の法則のためですが、
鳥が空から落ちないで、空を自由に飛翔できるのは、なぜなのでしょうか。それは重力の法則を超える、
空気の浮力の法則を利用しているからです。同じように「業の法則」はあるのですが、「業の法則」を超
える法則も実在しているのです。その「業の法則」を超える法則が、「空の法則」であるのです。

地球人類は、業の輪廻をどこかで断ち切らねばなりません。「業の法則」を「空の法則」で超えねばなり
ません。その具体的な方法が、「世界平和の祈り」であるのです。「世界平和の祈り」を祈ることによっ
て、悪因悪果の「業の法則」を超えることができるようになるのです。「業の法則」には善因善果もあり
ますが、善業に未練を持たず、すべての善業も一度は、「世界平和の祈り」によって守護の神霊のみ心の
中にお返しして、浄めていただく必要があります。そして、守護の神霊から、本心そのままの現れである
「本来因果」を頂き直すのです。「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆくことによって、過去からの悪因
縁は消えてゆき、本心の正しい行為ができるようになり、真の幸福が得られるようになるのです。守護の
神霊にすがり、「世界平和の祈り」によって業因縁の輪廻の法則を超えて生きてまいりましょう。

あなたが幸せでありますように


「真理の眼玉よ」更科源蔵の詩/原文
No.86 森島恒吉    1998/11/14 (土) 02:50 静岡県
世界人類が平和でありますように

五井先生は「神と人間」の中で、「いかに真理の言葉であっても、聴く人の
心が、その真理の言葉に遠い境界にあったり、空腹に喘いでいる人に、高遠
な理想を説いても、ほとんど効果はあるまい」と説かれた後、「真理の眼玉
よ、降りて来い」という更科源蔵の詩を紹介されています。今日は、更科源
蔵のその詩の原文(旧漢字・旧仮名遣いのまま)を、皆さまに紹介しますの
で、よくよく深く味わって下さい。

〔梟(ふくろう)〕更科源蔵作詩(土曜美術社)

夜の世界
紫の昔が還って來て夢の上に止る時
萬物が樹氷の犬歯の中で黙る時
闇が世界を屈伏しようとする時
どなりつけるのだ
山でも咳拂いをしたかのように

或る晩
光暈をグルッと一廻轉させ
遠い星をにらみつけてどなった

−トホイ リソウノメダマヨ
 オリテコイ
 オマヘガ タカスギルカラ
 ヨノナカハ コンナニサムクテクライノダ−

そしていまいましさうに嘴をパチパチいはせ
翼をバサバサ動かし

光の世界では静かに目をとぢ
腹の底に向って呪文をとなへる

−嘴に捕へても清濁は合せて呑まぬ
 毛骨は地に還って鼠となれ!
 ゲッ!−

〔私の解説〕
・光暈(こううん)…闇夜の中で光るふくろうの目を表現している。
・リソウノメダマ…五井先生はこの部分を「真理の眼玉」と言いかえている。
・ゲッ…呪文の中の言葉なので、仏力を讃える「偈(げ)」の意味。


世界平和の祈りの詩
No.87 森島恒吉    1998/11/15 (日) 21:38 静岡県
世界人類が平和でありますように

朝から晩まで眠ってもいつでも「世界平和の祈り」に明け暮れて
一年中「世界平和の祈り」に統一できる私たちは真実に幸せです
個人人類同時成道の「世界平和の祈り」に勝る祈りはないのです

いかなる邪悪も消えてゆく姿
いかなる病気も消えてゆく姿
いかなる不幸も消えてゆく姿
いかなる災難も消えてゆく姿
いかなる貧困も消えてゆく姿
いかなる悲痛も消えてゆく姿
いかなる苦悩も消えてゆく姿

私たちの神性を開発する最善の方法は「世界人類が平和でありますように」
私たちの現世利益を得る最善の方法は「世界人類が平和でありますように」
私たちが完全健康を得る最善の方法は「世界人類が平和でありますように」
私たちが真の幸福を得る最善の方法は「世界人類が平和でありますように」
先祖のみたまを供養する最善の方法は「世界人類が平和でありますように」
戦争や紛争を消滅させる最善の方法は「世界人類が平和でありますように」
人類の神性を開発させる最善の方法は「世界人類が平和でありますように」
世界を真実に平和にする最善の方法は「世界人類が平和でありますように」

五井先生はすべての祈り言を、一つの祈り言に単純化されました
五井先生を信じて、単純素朴に「世界平和の祈り」を祈るのです

世界人類が平和でありますように
世界人類が平和でありますように
世界人類が平和でありますように


天下無敵の世界平和の祈り
No.88 森島恒吉    1998/11/16 (月) 18:28 静岡県
世界人類が平和でありますように

白光真宏会の中で、「世界平和の祈り」を唯一の行とする「唯一会」を創っ
た当時は、私たちを異端視する人もありましたが、私たちが「世界平和の祈
り」一本槍で純粋に生きていることが理解されるにつれて誰一人として、私
たちを問題視したり、非難する人はいなくなりました。「私へのご批判も大
歓迎」と以前書きましたが、半年たった今、私へのご批判も、さっぱり消え
て無くなってしまいました。「どこで我即神也の印を習えますか?」という
ご質問を、見知らぬ人からメールでいただくことがありますが、私はそのた
びに白光真宏会の本部支部の住所や、印を組む場所などを親切に教えており
ます。その人たちに対して「印を組むな」とは、一言も申しません。そうし
た愛一念の私たちの姿勢が認められたのでしょう。先日も、ワールドピース
プレイヤーソサエティのマネジメントをしている松橋隆一さんから、「感謝
のお手紙」を頂戴しました。この事実は、私たちが「世界平和の祈り」一念
で生きていることが認められるようになった証拠でもあるのです。

私たちは「世界平和の祈り」一本槍で貫いているのです。私は、どこの団体
をも、誰をも、一人として敵視しているわけではありませんから、「世界平
和の祈り」一本槍で生きている私に反対したり敵視する人が現れないのは、
当然のことです。「世界平和の祈り」を祈る私たちは、真実に天下無敵であ
るのです。「争わずして勝つ」には、初めから敵を持たないことです。敵が
いなければ、争いもなく、争いがなければ、永遠に負けることがありません。
平和運動には、反対者があったり、敵対意識があってはならないのです。
「世界平和の祈り」を馬鹿にしたり、無視する人はあっても、積極的に反対
する人はいないのですから、「世界平和の祈り」の運動こそ、真実の平和運
動であるわけです。

「世界平和の祈り」の効果が、人類の大半にはっきりと理解されるまでには、
まだまだ時間がかかります。私たちはその日の来るまで、「世界平和の祈り」
をしっかりと守ってゆく天命を持っているのです。業因縁の法則に把われず、
真理の言葉に把われず、五井先生から受け継いだ「世界平和の祈り」を祈り
つづけてゆくことが、私たちの天命なのです。いかなる屈辱にもめげず、い
かなる敵意をも、消えてゆく姿として、私たちは「世界平和の祈り」を祈り
つづけてゆくのです。「世界平和の祈り」の中心として働く天命を授けて下
さった五井先生に、私は深く感謝する日々であるのです。「世界平和の祈り」
一念で生きられる私たちは、言葉では言い表せないほどの至福の喜びに満た
されているのです。


五井先生、ありがとうございます。
No.94 森島恒吉    1998/11/22 (日) 20:06 静岡県
世界人類が平和でありますように

「五井先生のお誕生日」に合わせて、「五井先生への感謝のお祈り」をご一
緒にしていただいた皆様、誠にありがとうございました。五井先生への感謝
をこめて、「世界平和の祈り」が最善の方法であることを改めてわかりやす
く解説しましょう。

「業因縁の法則による運命改善法」には、自他を責め裁くようになる、とい
う欠陥があります。「真理の言葉の宣言法」には、真理を無理に行じさせて
偽善者を生む、という欠陥があります。「むずかしい行法」には、日常生活
の中で多くの人々が行じられない、という欠陥があります。

「世界平和の祈り」には、自他を責め裁く欠陥がなく、自他を赦せて明るく
生きられます。
「世界平和の祈り」には、偽善者を生む欠陥がなく、無理がなく正直に楽に
生きられます。
「世界平和の祈り」には、難しいという欠陥がなく、すべての人がやさしく
実行できます。

したがって、「世界平和の祈り」は、何一つ欠陥の無い完全な方法である、
というのです。完全であるからこそ、「世界平和の祈り」には、何一つとし
て付け足す必要がないのです。「世界平和の祈り」は、個人の幸福を得るこ
とができると同時に人類を平和にするのです。「世界平和の祈り」は、人類
史上における最初で最後のただ一つの真の祈りであるのです。

五井先生、ありがとうございます。
私たち一同、五井先生に感謝の祈りを捧げます。


正しい信念の言葉
No.98 森島恒吉    1998/11/28 (土) 01:51 静岡県
-新約聖書(マルコ伝第十一章23-24節)-
「神を信ぜよ、まことに汝らに告ぐ、人もしこの山に『移りて海に入れ』と言ふとも、その言ふところ必
ず成るべしと信じて、心に疑はずば、その如く成るべし」
「すべて祈りて願ふ事は、すでに得たりと信ぜよ、さらば得べし」

イエスのこの言葉を引用して、「『〜になりますように』『〜が得られますように』『〜してください』
『〜でありますように』というような弱々しい祈り方では少しも効果がないのだ、『世界はすでに平和に
なった』と完了形で強く念ずれば、世界は平和になる」と教える人がいます。クリスチャンが多いアメリ
カの自己啓発研究者には、この聖書の言葉を引用する人が多いのです。その教え方の影響を受けて、日本
でも「世界は平和になった」という言葉を自分の教えの宣言文として提唱している宗教者がいるのです。

「私は百万ドルをすでに手に入れた」
「私は理想の家をすでに手に入れた」
「私はすでにあの車を手に入れた」
「私はすでにあの大学に入学した」
「私はあの女性(男性)とすでに結婚したのだ」
「私はすでに会社社長(なりたい地位)になったのだ」
「私はすでに完全な健康体になったのだ」

というように、自分の欲望を「自分はすでにそうなったのだ」という完了形で宣言し、強くイメージすれ
ば、その希望は叶えられる、という教えなのです。「求めよ、さらば与えられん」というイエスの言葉も
そうですが、このようにイエスの真意を外れて、外道的な念力を、聖書の権威を利用して、あたかも正し
い教えであるかのように、すり替えてしまっている人が多いのです。祈っても現世利益を得られないと、
祈りや守護の神霊に不信感を持つようになり、宗教者でさえ、念力に傾いてゆく人がいるのです。
ですから、まず祈りと念力を、はっきりと区別する智恵が必要なのです。祈りの行を主体にした信念なら
ば、それは正しい信念といえますが、祈りの伴わない信念だけの言葉というのは無いのです。いいかえれ
ば、神への祈りがない願望成就完了形の言葉は、念力であり、それは祈りとはいえないのです。

次に「必ず成る」という信念と、「すでに得たり」という信念のどちらが適当か、という問題になります
が、「すでに得たり」という信念の方法は、あまりにも高すぎて、真理の言葉であっても、現実に実行す
ることは困難なことである、と私は思うのです。現在、重い病気にかかっている人が、「病気はすでに無
い。自分はすでに健康になったのだ」と思い続けることは容易なことではありません。また、「世界はす
でに平和になったのだ」と口先で宣言することは、たやすくできますが、現実には、「世界はまだ平和に
なってはいない」のですから、真理と現実とのギャップがあまりにもありすぎて、そうした表現の言葉を
広めようとしても、世間一般には納得してはもらえないことでしょう。したがって、そのような方法では
とても広まることはない、と私は思うのです。

そう考えますと、もう一つの「必ず成る」という信念のほうが、未来形ですから、自然で無理がなく容易
に実行できると思うのです。「業想念は必ず消えてゆく」「自分の天命は必ず完うされる」「私たちは必
ず幸せになる」「世界は平和になる」というような信念の持ち方のほうが、最も自然で効果的な信念の持
ち方であるのです。もちろん、先ほども申しましたが、祈り言を忘れて、信念だけを唱えていても駄目で
す。あくまでも、祈り言が主であるのです。そこで「世界は平和になる信念で世界平和の祈り」という生
き方を、私は皆さんに勧めているのですが、これは五井先生の「消えてゆく姿で世界平和の祈り」という
教えと全く同じ原理であるのです。