森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


仏典についてのご質問に対するお答え
No.504 森島恒吉    1999/06/18 (金) 03:08 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ご質問をいただき、ありがとうございます。ご質問の内容は、仏典に関する重要な問題であ
り、多岐にわたっておりますから、一つ一つ分けて、あいまいなことのないように明瞭にお答えします。

[質問1]<大乗経典は本物の訳書か創作か?>
日本仏教界最高の碩学である中村元博士や水野弘元博士による研究では、上記の『五時の教判』は誤りで
あり、事実はいわゆる阿含(agama『伝承』)といわれる原始経典(『長阿含経』『雑阿含経』等、漢訳
もありますが原典はパーリー語・サンスクリット語で書かれているらしい)のみが、『実際に釈尊が説か
れた教え』をもっとも純粋な形で含んでいるらしいのです。その他の大乗経典(『大般若経』『法華経』
『観無量寿経』』『般若心経』『観音経』等)は、創作経典であると言うのです。

[お答え1]<大乗経典は本物の訳書>
私の資料としている本は、岩波文庫「浄土三部経」中村元・早島鏡正・紀野一義訳註で、「まえがき」は
中村元氏が書いていて、1990年1月付となっています。私は、サンスクリット原文、チベット訳には興味
がなく、早島鏡正氏の確定している漢訳原本である「康僧鎧(こうそうがい)」訳を参照しております。

ご質問のように、最近の研究では、中村元博士のような碩学が「大乗経典(『大般若経』『法華経』『観
無量寿経』『般若心経』『観音経』等)は、創作経典である」と言っているとの事ですが、創作とは、何
も無かった話を何者かが空想で勝手に書いた、という意味に解釈すれば、これは大問題です。

しかし、私は宗教学者ではありませんから、釈尊の説いた法話をまとめた本物であろうと、他の誰かが書
いた創作であろうと、書かれている内容が釈尊の教えに一致しているならば、五井先生の「創作阿難」の
ように、どちらでも良いと思います。霊覚を持った後世の人が、釈尊に霊的に指導を受けて書いた経なら
ば、釈尊が直接話したことではないけれども、それは釈尊の教えでありますし、現実に書いたのは別の人
物なのですから、別人物の創作と見ることもできます。宗教学者は、「後世の人が、釈尊からの霊的指導
によって書いた本」は、釈尊の法話とは認めないわけですから、少しでも歴史的事実と異なっているなら
ば、創作経典と発表しても、宗教学上それはそれで意義のあることだと思います。

私の霊覚では、大乗経典(『大般若経』『法華経』『観無量寿経』『般若心経』『観音経』等)は、釈尊
の説いた教えに間違いありません。

[質問2]<浄土三部経の時期は?>
今回、森島先生が紹介して下さった『浄土三部経』(『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』の三
部経)は、どの時期に属する経典でしょうか?

[お答え2]<釈尊は繰り返し説いていたから、時期を特定できない>
浄土三部経は、阿難が出てくることから、釈尊の晩年の25年間に説かれたことは、確かな事です。時期
的には、その初めから涅槃にいたるまで、釈尊は他力易行道の教えをくりかえし説いていたのです。とこ
ろで、お話に出てきた龍樹菩薩は、実在した人ですけれども、偉い人ですね。龍樹菩薩は、「仏法に無量
の門あり。世間の道に難あり、陸道の歩行はすなわち苦しく、水道の乗船はすなわち楽しきがごとし。菩
薩の道も、またかくのごとし。あるいは勤行精進するあり。あるいは信の方便をもって易行にして、はや
く不退転地に至る者あり」と、すでに難行道と易行道の二つに分類しています。

[質問3]<最新の学説では、浄土三部経は釈尊の教えではない、とされているが?>
仏教経典のオリジナリティについても、最新の学説に基づいて理解するべきではないのでしょうか?

[お答え3]<浄土三部経は、釈尊の説いた教えに間違いはない>
仏教経典は、ご承知のように後世の人々が、膨大な仏典の中から、好きな仏典を選んで各国語に翻訳した
お経をまとめたものですから、釈尊の教えがそのまま伝わっているわけではなく、翻訳者の心境によって
は、プリズムのように屈折して伝わっている部分も多いと思います。そこで、その膨大なお経の中から、
正しいと信じられるお経を選び、自分に合った道を選んで、信仰してゆけばよろしいと思います。ご質問
の「最新の学説」とは、「浄土三部経が釈尊の教えではない」という学説ですが、私の霊覚では、「私は
確かにそのように説いた」と釈尊は話されています。

[質問4]<釈尊が解脱した方法とは?>
五井先生の『釈迦とその弟子』の420頁には、『仏陀はその美しく澄んだみ声を終始曇らせることなく、
四念処・四正動・四神足・五根・五力・七等覚支・八正道の三十七菩提分法によって、ご自分が最正覚を
成就したことを、諄々として説かれ、、、』の一文があります。ここに釈尊が解脱されるに至った階梯・
修行法が、五井先生のお言葉により書かれております。いわゆる有名な三十七菩提分法です。三十七菩提
分法の説明を求めるには、『阿含経』に求めるしかないのではないでしょうか?

[お答え4]<釈尊は、金星の光(守護の神霊の光)を見て悟った>
三十七菩提分法とは、釈尊が菩提(さとり)を成就したといわれる行法ですが、五井先生は詳しく説明さ
れていませんので、私がわかりやすく解説しましょう。

四念処観(しねんじょかん)とは、(1)肉体物質は消えてゆく。(2)肉体感情は消えてゆく。(3)
肉体想念は消えてゆく。(4)肉体世界は消えてゆく。ということを観ずる行。
四正勤(しょうごん)とは、(1)悪を新たに起こさないように努めること。(2)してしまった悪を二
度と起こさないように努めること。(3)まだ生じない善を生じるよう努めること。(4)生じた善をさ
らに増大させるように努めること。という四つの努めるべき行。
四神足(しじんそく)とは、(1)欲(2)精進(3)心(4)智慧をもとにした超自然的な不思議な能
力、と普通は訳しますが、これだけでは何のことかわかりません。これは、肉体界・幽界・霊界・神界の
四つの世界を自由に行き来できるように努めるという意味で、あらゆる霊視、霊聴に把われない行。
五根とは、信根・勤根・念根・定根・慧根の五つの働き、五力とは、信力・勤力・念力・定力・慧力で、
五根五力は、諸悪をしりぞける働きと力をいいます。五力をさらに詳しく説明すると、本心を信じる力、
本心を現わすように努める力、本心のままに正しく念じる力、本心のままに禅定する力、本心のままに正
しい智慧を出す力をいいます。四正勤と似ていますが、この五根五力は本心の能力を開発するための行。
七等覚支(しちとうかくし)とは、悟りに到達するために役立つ七種の修行法で、(1)定慧を明記する
念覚支(2)法の真偽を選択する択法(ちゃくほう)覚支(3)正法を行じる精進覚支(4)心に正法を
得て歓喜を感ずる覚支(5)虚偽・煩悩を除いて、心身の軽安を感ずる軽安(きょうあん)覚支(6)禅
定に入って妄想を起こさない定覚支(7)執着を遠ざける捨覚支の総称。

仏教の特色は、教えを数字を使って分類整理している点ですが、どんな天才でも、これらの三十七もの行
法を一度にできるはずがありません。釈尊は、これだけの行をして悟りを得た、というのですから、大変
な精進苦行であったと思われますが、釈尊は「これらの行を、今生の一代でなしえた」とは説いてはおり
ません。事実は、幾たびもの転生をくりかえしながら、このような行を少しずつ行じていったのです。

しかし、釈尊が最終的に悟れたのは、これらの行をしただけで悟れたのではなく、釈尊を援助する守護の
神霊の力が働いていたからなのです。「阿難」のP22(私の本は古い本なので前後しているかもしれま
せん)にあるように、「長い難行苦行の末、菩提樹の下で座禅をしていて、暁に輝く金星の姿を見た時、
その金星の光が眸を徹して、魂の奥底にしみわたり、魂の奥にある本源の光と交流して、……直覚した」
のでした。

釈尊はもともと金星人で、金星から地球を救いに来て肉体をまとい、改めて肉体への執着を解脱しようと
修行していたのですが、釈尊を加護し導いている守護の神霊も金星人であって、修行中もたえず金星の光
明と交流していたのです。そして、修行の末に、金星から送られてくる光と、心の奥底にある魂の光が交
流して、心を完全に浄められて、釈尊は一瞬にすべてを直覚しえたのです。釈尊とて、このように金星人
の守護の神霊の他力によって、導かれ守られ、悟らされたのです。ですから、釈尊の法話に、たくさんの
仏菩薩が説かれているのは当然のことなのです。もともと浄土宗と禅宗は、中国では浄禅一致といって、
念仏を唱えながら座禅をしていたものでした。釈尊の頃の修行法も、心に仏菩薩を念じ、静かに仏菩薩の
名を唱え、禅定していたものと、私は思います。

[質問5]<最高の経典は法華経なのか?>
釈尊は人々の機根が成長するに応じて説こうと決意され、低い段階の『阿含経』から、しだいに高い教え
にうつり、『般若経』を説くまでになったとします。このようにして、人々が成長し、機根が高まり、つ
いにふたたび最上の真理を説くべき時が到来したので、第五時で『法華経』を説かれたというのでありま
す。このように、この『五時の教判』に基づきますと、悟りの直後に仏の立場からただちに最上の真理を
説かれたという『華厳経』はどちらかといえば生(なま)の真理であり、人々の低いレベルに合わせた
『阿含経』はもっとも幼稚な教えであり、最後に説かれた『法華経』が最高の教えであるということにな
ります。つまり、『法華経』こそ仏が説かれた最高の経典(?)ということになります。

[お答え5]<法華経だけが最高の経典ではない>
その説については、五井先生から伺ったことがあります。「相手の機根に応じて、教えを説く」というの
は必要なことでありますけれども、「弟子たちの本心が開発され成長し、最上の真理を説くべき時が到来
したので、最後に法華経を説くことになった」と釈尊が説いたというお話は、はっきり申し上げて誤りで
す。法華経を信仰する宗教者が、自己の信仰の都合の良いように解釈した説と思われます。また、同じく
「法華経以前に説かれた教えは、すべて方便なのだ」とも言われていますが、釈尊ほどの霊覚者が、方便
のためとはいえ、ありもしない、でたらめの嘘をつくはずがありません。(←五井先生談話)釈尊が霊覚
を得てからの教えは、すべてが正しい教えであり、どれが一番高い教え、と言えるものではありません。
無量寿経も般若経も法華経も、表現が異なっているだけで、根本の教えは同じであり一つであるのです。

[質問6]<浄土三部経は光を発しているか?>
森島先生の霊覚では、『浄土三部経』にこそ、釈尊ご自身の教えが説かれており、『阿含経』に説かれて
いる教えは、光明を発しておりませんでしょうか?実際、その可能性もありますし、私も必ずしも学者の
説が正しいとは言えないとも思います。

[お答え6]<浄土三部経には光がある>
「浄土三部経」は、魅力的で私の心を強く引きつけますね。釈尊ご自身の教えが説かれているか否か、と
いうよりも、「浄土三部経」は、他力易行道をわかりやすく説いている経典ですし、私の本心が納得しま
す。たとえ、釈尊が直接説いたものではなくとも、私は「浄土三部経」に書いてあることを信じます。 

[質問7]<阿含経の解説について>
じかに釈尊のお言葉に触れるために、大乗経典だけではなく、もし仏教経典を説かれるのであれば、ぜひ
とも『国訳一切経』の『阿含経(全九冊)』のご解説も、して頂けないものでしょうか?或いは、それは
森島先生の天命ではないのでしょうか?

[お答え7]<検討します>
阿含経は、一つの完結した経典ではなく、インド各地に多数存在した部派のうち、分別部派が北伝して漢
訳されたもので、数千に及ぶお経の集大成です。歴史的な資料としては、釈尊の時代に近いわけですが、
「彼岸(悟り)へ至れるのは、厳しい修行を積んだ出家者だけである」という内容のため、一般の人々に
は、あまりなじみがないのではないでしょうか。ご要望がありましたので、改めて阿含経を読み直してみ
ますが、阿含経について解説するかどうかは、神さまのみ心次第です。


愛して愛して愛しぬこう
No.507 森島恒吉    1999/06/19 (土) 01:54 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ありがとうございます。

「世界平和の祈り」を皆さんと一緒に祈るのは、ほんとうに楽しいです。
五井先生のお歌に、「世界平和祈るは神のみ心のひびきにあれば祈る楽しさ」という短歌がありますが、
「世界平和の祈り」を共に祈ることは、言葉では言い尽くせない魂の深い喜びを感じます。一人で祈るの
も楽しいけれども、二人で祈ったほうが楽しいし、多くの人と一緒に祈るのは、もっと楽しいですね。
気持ちの合った仲間と、同じ祈り言を共に祈ることによって、信仰心も高まります。一人だけで祈りつづ
けるのは、孤独に打ち勝たねばならず、大変な勇気が必要ですが、仲のよい法友と一緒に祈りつづけてい
れば、信仰心を保ちつづけることが容易になってきますし、楽に祈ることができます。それば湿って燃え
にくくなった木材の一片も、赤々と燃えている大きな焚き火の中に放り込めば、再び燃えるようになるの
と同じです。集団で祈ることによって、一人一人の弱い信仰心も、熱く燃え上がるようになるのです。

「世界平和の祈り」は、なんという大きな愛なんでしょう。一人の人間を愛するときも、心に明るい光が
灯るのですから、世界人類を愛するときには、太陽のように明るい光が、私たちの心に灯るのです。私た
ちは、世界の紛争情勢を常に注目しておりますが、中東地域はいまだに戦争状態が続いておりますし、日
本近海の北朝鮮と韓国の間でも、先日は銃撃戦があって死傷者が出たように、依然として緊張状態が続い
ているのです。このように現在の地球人は、まだまだ神の子とは呼べない動物に近い状態で、地球は平和
にはなってはいないのです。私たちは、地球を平和にするために生まれてきたのですから、自分自身の幸
福と共に、常に世界の平和を考えねばなりません。世界の平和がなくては、個人の幸福も成り立たないの
であることを認識しなくてはなりません。

私たちの平和運動は、怒りや憎しみで、拳を天に突き上げて、デモをする必要はありません。愛一念の明
るく穏やかな表情で、人類に愛の祈りを叫びつづけていればよいのです。私たち一人一人の心が、愛と調
和に満ちた心境でいなくては、世界を平和にすることはできません。私たち一人一人の愛の心が、愛の光
明が、世界を照らし、世界を光明化し、世界を平和にしてゆくのです。私たちは、どんなことがあって
も、人を愛してゆきましょう。憎んだり怒ったりしたら、消えてゆく姿にして、神さまに赦していただ
き、愛して愛して愛しぬいてゆきましょう。人に愛されなくても、私たちは人を愛してゆきましょう。

世界人類が平和でありますように


「天と地をつなぐ者」整理の方法3
No.508 森島恒吉    1999/06/20 (日) 22:02 富士宮市
世界人類が平和でありますように

五井先生の自叙伝「天と地をつなぐ者」を読みますと、生長の家の教えを、熱心に信仰していた五井先生
が、しだいに疑問を感じて、生長の家の教えの欠陥を悟り、五井先生ご自身の新しい教えを発見してゆく
過程が描かれているのがわかります。それでは引き続き、「天と地をつなぐ者」から、その教えを抜粋し
てゆくことにいたしましょう。

・「悪はある(存在する)のだが、消えてゆく姿なのだ」とそう意気ばらずに軽く言ったほうが、『喝』
にはならないが、求道者を苦しめたり、偽善的にならせなくてすむのだがなー」と私は少しずつ思うよう
になっていった。

→「消えてゆく姿」の発見。
生長の家の実相論では、高い真理をそのまま実行させようとして「悪は無い」と言い切っているのです。
「私は神である。悪は無い」と真理を宣言すると、いかにも自分が実相だけを見ている偉い人間になった
感じがします。「悪は消えてゆく姿」と言っていた頃の自分よりも、一段高くなった気がするのです。そ
のために「自分を偉く見せたい」という欲望が少しでもあると、この真理に把われてしまうのです。五井
先生が、真理は真理として置いておいて、現実の業の存在を認めつつも、その業は時間的経過によって消
えてゆくというふうに、教えを変えてゆく様子がうかがわれます。

・横の心の法則論では、過去の想念の過ち、すなわち悪を認めさせて、現象の不幸を消そうというのであ
るから、余程頭が良いか、悟っているかしないと、実相論と現象論がゴタゴタになってくる。…実相の人
間、現象の人間と二つに分けてあって、「実相だけがあって、現象は無いのだ」というのであるけれど、
実相の神と一体の人間というものは、なかなかわかりにくいので、やかりやすくしかも興味のある「心の
法則」という現象のほうの教えに、知らぬ間に重点を置いてしまう。そして、「あなたの心がこんなだか
ら、肉体の世界、運命の世界で、こんな不幸が現れたのだ」という式に、つい人を裁き自己を裁いてしま
うことになる。そして「完全円満の実相人間」というものが、いつの間にか姿を隠してしまうのである。
結局、人間は善なのか、悪なのか、わからなくなってしまう。「生長の家の教えというのは、一般大衆と
いうものを、すべて菩薩級の人、心をクルリクルリと、善の方向に転回できる人ばかりであるように、錯
覚しているのではなかろうか?」とはっきりした疑いを持てなかった、その頃の私を、今さらのように思
い起こしている現在の私なのである。

→生長の家の「実相論」と「心の法則論」の二元論の矛盾を突いている重要な一文。
現在の白光真宏会の会員の皆さんに、ぜひとも、この箇所を読んでもらいたいものです。「実相論」と
「心の法則論」が、なぜ、矛盾するのかを、とっくりと考えていただきたい。

実相論では、「人間は神の子であり、人間は完全であり、人間は不完全ではない。人間には、病気も不幸
も悪も無い」と言い切っているのです。それに対して、心の法則論では、このように人を説くのです。

「あなたの誤りは、あなたの心が、内なる無限なる能力を否定したからなのだ」
「あなたが内なる能力を発揮できないのは、あなたに疑惑と不信があるからだ」
「いつまでたっても自分自身の力を信じることができずに、他からの力に頼るのは、あなたが、いまだレ
ベルの低い段階にいるからなのだ」
「もし自分の欲する望みが叶えられなかったら、それはあなたの心に不信感や疑いがあるからだ」

一見すると、人を責め裁かないように見えるこれらの教えも、暗にこう言っていることになります。

「あなたの心には、内なる無限なる能力を否定する悪が存在するのだ」
「あなたの心には、能力を発揮させない疑惑と不信という悪が存在するのだ」
「あなたはレベルの低い不完全な人間なのであり、あなたが神の子なんて、とんでもないことだ」
「あなたの心には、望みを叶える邪魔をする、不信感や疑惑という悪が存在するのだ」

同じ一人の宗教家が、一方で「私は神である、と宣言しなさい」「あなたは神であるのです」「人は誰で
も、神であると宣言しなさい」と説きながら、他方で「あなたの運命が悪いのは、あなたの心の持ち方が
悪いのだ」と説いているのです。「あなたは完全であって、悪は無い」と説きながら、「あなたは不完全
であって、悪は存在している」と説いているのですから、私の目から見れば明らかに矛盾しているのです
が、業想念の雲に覆われた人には、この二つの原理を矛盾とさえ感じないのです。

実相論では、悪を全否定しておきながら、心の法則論では悪の存在を認めているのですから、実相論と心
の法則論を合わせると、ゴタゴタになってしまい、いったいどちらが真実なのか、わからなくなってしま
うのです。二つの行を、同じ時間だけ、同じ割合で行じる、というのは、できそうで、できないのです。
人間の行動には、リズムがあって、二つの行を同じ割合で行じているつもりでも、続けてゆくうちに、自
然と強弱強弱とのリズムが出てきて、どちらかに重点を置くようになり、他の行法が軽んじられるように
なってゆくのです。「実相論」と「心の法則論」の二つの行法をやっておりますと、どちらかに重点置く
ようになるのです。

五井先生によれば、「実相の神と一体の人間」という実相論は、わかりにくいので、わかりやすい現象の
「心の法則」に重点を置くようになり、いつの間にか「完全円満の実相人間」が姿を隠してしまうという
のです。「自己の内なる無限なる能力を疑うな」と言ったところで、無限なる能力を疑うのが一般大衆の
心なのです。自分の意思力で、自分の想念を、クルリクルリと、善想念へ善想念へと、転回できる人ばか
りではないのです。そうした一般大衆の心を無視した心の法則論は、自他を責め裁く道具と化すのです。

こうした法話は難しいかもしれませんが、重要な箇所なので、生長の家の教えには、実相論と心の法則論
があって、その二つは矛盾した二元論であることだけでも、少なくとも理解していただきたいものです。
「あなたは神である」と説いた、すぐその後で「あなたは神ではない」と説いているのと意味は同じなの
ですが、心の法則という別の言葉と表現で説いているために、実相論と心の法則論の二つの思想が矛盾し
ていることに、なかなか気づかないわけなのです。まず、この二つの矛盾に気づくことが、五井先生の新
しい実相論を知るための一つの大きなステップであるのです。


「天と地をつなぐ者」整理の方法4
No.509 森島恒吉    1999/06/22 (火) 01:02 富士宮市
世界人類が平和でありますように

「あなたは神である」と実相論を説いても、「あなたが不完全なのは、あなたの心が悪いのだ。あなたの
心を直しなさい」と心の法則論を説いてしまったら、結局、聴いている信者のほうは、「私は神である」
のか「私は神でない」のか、わからなくなってしまうのです。信者は、一方は「私は神である」と宣言し
ながら、他方は「私は神ではない」とも思っているわけです。これは明らかに矛盾しているのですが、無
批判の信仰と、心の法則という言葉に惑わされて、矛盾しているようには感じていないのです。

少し頭の進んだ信者は、「実相は、私は神である」「本心は、私は神である」と宣言し、そのように宣言
しつづけてゆけば、「神になることができる」と信じているのですが、口に出さなくとも、潜在意識では
「現実の私は、神ではない」と叫びつづけているのですから、いつまでも本心が現実に現れることはない
のです。そこで、「今、私は神になった」「今の私は神である」と自己暗示して自分の潜在意識を納得さ
せようとするのですが、すると今度は、潜在意識は「それは嘘だ、あなたは嘘つきだ」と負けずに叫ぶの
です。その声は耳を澄ませば聴こえてくるはずなのです。

しかし、その声をごまかしては「私は神である」と嘘をつき続けます。そうしているうちに、嘘つきの想
念で塗り固められた、信用できない、うさん臭い人間ができあがるのです。神我一体の心境になっていな
いで、「私は神である」と宣言している人々は、みんな嘘つきなのです。そんな嘘つきが、神になれるは
ずが、ないではありませんか。「正直な頭(こうべ)に神宿(やど)る」という諺の通りなのです。

それでは「神と人間」から、引き続き、五井先生の教えを抜粋してゆきましょう。

・もし自己欲望によって霊能を望んだとしたら、その人は、けっして真の霊覚者には、なり得ない。なぜ
ならば、自己欲望という低い想念の波をつけたままでは、到底高い霊界、神界までは昇り得ないからであ
る。この世界には、厳然たる法則があるのであり、確然とした段階があるのであって、自己欲望の放棄い
かんが、その順位に非常な関係があるのである。従って、ある種の霊力をもって、「人に優越してみた
い」とか「偉く見せたい」あるいは「地位を持ちたい」「金を儲けたい」とかいう自己欲望で、霊能を得
る修行をしたとするならば、それと同種類の欲望を持った幽界の生物たちが、神をよそおって憑依してく
るのである。

→「願望成就法」を説く宗教者は誤りである。
「あなたの望みを叶えてあげるから願望を強くイメージしなさい」と「願望成就法」を教える宗教者は、
五井先生によれば、邪教の宗教者であって、真の霊覚者ではないことがわかります。「自分を偉く見せた
い」「自分を神に見せたい」という自己欲望を持つと、幽界の生物たちが「われは神なり」と、神をよそ
おって憑依してくるのですから、幽界の生物たちにだまされないように気をつけなくてはなりません。

・守護霊、守護神なくしては、この地上世界に、宇宙神の理念は絶対に実現しないことを、私は実に、は
っきり知っているのである。

→守護霊、守護神を無視して、自己の内なる神性が顕現することはない。
守護霊、守護神を無視して、「私は宇宙神と対話している」と説く宗教者がいますが、それは「自分を偉
く見せたい」という欲望の現れなのです。

・ひとたび法則をはずれた歩みに入った人が、自分だけで、また元の法則の上に自分を還すことは、ほと
んどでき得ないと思われるほどの難事である。

→守護霊、守護神の応援なくして、自分の意思力だけで、宇宙の法則に自分を還すことはむずかしい。

・私はすべて守護神、守護霊という救いの力を中心にして、業因縁はすべて消えてゆく過去として、とり
あつかってしまったのである。

→五井先生の教えは、守護神、守護霊という救いの力を中心にしている。

・実相として「完全円満」を宣言しても、現象として「心の法則」をもってくれば、せっかくの完全円満
が消えてしまうのである。

→二元論の矛盾。
「心の法則」を説けば、「私は神である」という完全円満論は、消えてしまうのです。

・人間に不安や恐怖をもたせたままで、ただ単に、心や行ないを直させるような教えをしても、それはそ
の場限りの我慢になってしまって、本当にその人の習慣の心(業カルマ)を消し去ったことにはならな
い。どんな高邁な理論も、頭ではかなり認識しても、感情として行ないとして、実行するとなると、でき
ない。できがたいばかりでなく、かえってその知識が、自己の心を責める材料になって、いわゆる小さな
狭い善人になり、面白からぬ生活を送ってゆくことになる。

→高過ぎる実相論の欠陥。
高邁な理論である実相論を説いても、実行することはできない。

・「大丈夫でもないこと」を、ただ慰めるために、「大丈夫だ」と言うようなことでは、いけない。言葉
だけで安心を与えようとしても、それは駄目である。「できないこと」を、さも「できる」ように言って
も、駄目である。感情的にもでき、行ないとしてもできる、安心立命の道でなければならない。それに
は、やはり、自分はつねに神によって守られているのだ、ということを信念づけることが第一である。

→安心立命の道は、他力の道。
「大丈夫、大丈夫と思いなさい」と説いている宗教者がいますが、五井先生は「言葉だけで、大丈夫と言
っても駄目である」と説いているのです。実際には大丈夫ではないことを、軽く見ますと、大怪我をする
ことになりますし、単に自分の不安をごまかしているだけで、真実に安心することはできません。感情的
にも行ないとしても、誰でもできる安心立命の道は、自力ではなく、他力の道であるのです。


世界は平和になる信念で世界平和の祈り
No.511 森島恒吉    1999/06/23 (水) 02:30 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ありがとうございます。
守護霊さまに、一切をお任せして落ち着いた生活を暮らしているようで、私もうれしく思います。守護霊
さまにお任せしますと、肩から力みがなくなり、全身がリラックスして、手足がポカポカと温かい状態に
なります。頭も冴えてきます。そして、心の中から安心感がフワーッと湧いてくるものです。守護霊さま
に全託する練習を重ねてゆくと、そうした肉体に現れる微妙な変化を、だんだんと覚えてゆくものです。

さて、ご質問にお答えすることにしましょう。

[質問1]
- 物心ついた頃から、この現実世界としっくり来ない感覚というか、存在ということに本質的に伴う寂し
さ・苦というか、この世の喜びを素直に満喫できないような感覚があったのですが、これは、私も金星出
身者だからでしょうか?それとも、単に私がそういうタイプだからでしょうか?

[お答え1]
あなたも、やはり過去世からの宗教縁が深くて、普通人のように、肉体の欲望を満足するだけでは物足り
ず、本心の開発を求めずにはいられないタイプの方なのです。ところで過去世の出身が金星であったかど
うか、というご質問には、自分の守護霊の名前は誰かという質問と同様にお答えすることができません。
もし、どうしても過去世を知りたいという人は、「守護霊さま、み心ならば私の過去世を教えて下さい。
でも、み心でないならば、教えて下さらなくてもかまいません。守護霊さまのみ心のままになさしめたま
え」と祈ることです。「過去世は知らないほうがよい」と、神さまの深い智慧でお考えになって、肉体界
に生まれてくる時に、人間は過去世の記憶を消されているのです。過去世はどうあれ、守護霊に全託し、
「世界平和の祈り」を祈り始めた今のあなたは、すでに神の子であるのです。

[質問2]
- この現実世界は、睡眠時にみる夢と同じ構造で出来ており、我々が霊界にいくと、この現実世界で起
こった出来事を夢のように思い出すのでしょうか?(眠らされたまますぐ同次元の現実世界に転生した
り、苦の世界に行く魂は別として、、、)

[お答え2]
現世の出来事は、幽界や霊界に行っても、私たちは覚えております。現世で善いことをたくさんしておけ
ば、霊界に行っても楽しい気分でいられますし、現世で悪いことをすると、それを思い出しては後悔の念
にさいなまれ、高い霊界へと昇れずに幽界の地獄へと転落してしまうのです。

「人間神の子、完全円満、病気無し、悪無し、不幸無し」と、宣言することを教えた宗教教団の教祖さえ
も、嘘をついて神を冒涜したとしたら、地獄へと転落してゆくのですから厳しいものです。実際に完全な
神の子になってもいないのに、「今の私は神である」と宣言したら、それは嘘になります。言いかえれば
神を自分の低い心境にひきずり落としたことになり、それは神を汚し冒涜したことになるのです。ちょう
ど、見栄っ張りの人が、自分を少しでも偉く見せようとして、実際に通ってはいないのに、私は外国の有
名大学を卒業した、と嘘をつくようなものです。

「私は神である」と宣言しても、現世では嘘をつけます。しかし、あの世に行きますと、そうした嘘は、
すべてさらけだされて、神界には行けずに、その人の常時想念の位置に止まり、嘘つきの人は、お互いに
嘘をついている、嘘つきばかりが暮らしている世界に行くのです。その世界は、みんな「私は神である」
とお互いに唱えているのですが、実際には一人も神になっている者はおらず、「私は神である」という言
葉に把われて、虚構の世界から、それ以上昇れないでいるのです。

それに対して、「世界平和の祈り」を祈っている私たちは、現世に居る時に、すでに神界に住んでいるよ
うなものですから、霊界に行っても「ああ、世界平和の祈り一念に生きられて、幸せだったなあ」と深い
満足感で、霊界の生活を楽しく暮らすことができます。それに五井先生が、あなたの本心の座に一度連れ
て行って下さり、「こんな素晴らしい所に、あなたは住めるんですよ」と見せて下さるのです。ですから
同じ霊界で修行をするのでも、自分の行く場所がわかっているから、はるかに楽しく修行できるのです。

[質問3]
- この現実世界も睡眠時にみる夢も脳が知覚している映像に変わりはないという理論からすれば、もし、
仮にこの現実世界が人類意識が共通してみている夢だとしたら、全人類が「空」を認識すれば、この現実
世界は消滅するのでしょうか?

[お答え3]
この現実世界は、実在しているわけではありませんが、存在していることは確かです。全人類が、宗教的
な境地である空を認識しますと、この現実世界から不完全な姿は消え去ります。しかし、現実世界、肉体
世界が消滅することはありません。波動のゆるやかな肉体世界でありながら、しかも神界に近い調和した
平和な世界になるのです。

[質問4]
- 「目ざめる」というのは、まさに現実世界という夢から覚めることであり、 その感覚というのは、目
覚めた人にしか分からないものであり、未だ夢の中にいるものが、「目覚めよ!」とか「我即神也」とか
やっているのも、まさに夢の中の1シーンにしか過ぎない感覚があるのですが、どうでしょうか?

[お答え4]
霊覚者とは、業想念の迷いから本心に目覚めた人という意味で、神我一体の境地になった人をいいます。
しかし、実際に本心に目覚めていない者が、他人に向かって「目覚めよ」と言ったところで、自分自身が
目覚めていないのですから、効果のあるはずがありません。同じく、実際に神我一体になっていない人が
「我即神也」と宣言したところで、それは嘘なのですから、夢まぼろしのような行為なのです。

[質問5]
- このようなものの考え方(現実世界も夢に過ぎない)を深めていくと、少なくとも、「この現実世界は
永続する強固なものであり、そこで自分は何かを成し遂げなければならないんだ」等と考えるよりは、私
の場合、楽に生きられるのですが、、、それゆえ、どんどんこのような観想法(「現実世界は夢であり、
いずれ必ず消えてゆく、それゆえ、一切のこだわり、とらわれを放棄しよう、ただ守護霊様に一切をお任
せしよう」)という方向性に、自分の想念をもっていってよいでしょうか?

[お答え5]
この肉体世界は、確かに現在は業想念の消えてゆく姿の世界ですが、未来は輝かしい本心が現れてくる姿
の世界になるのです。本心が現れる前に、業想念の消えてゆく姿があるわけです。今は、何が本心の現れ
で、何が業想念の現れか、ということは判りませんので、一度すべてを消えてゆく姿と観じるのですが、
業想念が消えてゆきますと、今度は新たに本心の素晴らしい姿が、次々に霊界から肉体界に映ってくるの
です。すべてを一度は消えてゆく姿と観じますと、業想念は消えても、本心は永遠に実在していて消え去
ることはないのですから、本心の現れだけが、しだいに強固な形になって現れてくるわけです。具体的に
いえば、未来には、地球人類を調和する科学力が現れてきて、地球は愛に満ちた楽園になるのです。

現実世界を、どのように観想したらよいかと申しますと、「現実世界は、業想念が消えてゆくとともに、
本心が現れてくるのだ」と空即是色の観想をするのが良いのです。すでに高い心境にある人は、それだけ
でスーッと悟ってしまうのですが、しかし、ふつうの人は、そう簡単に安心できません。
そこで、守護霊さまにこう祈るのです。

「守護霊さま、業想念を一日も早くお消し下さって、現実世界に本心を現わしめたまえ」

このように祈っておりますと、「私たちの運命は必ず善くなる」「世界は必ず平和になる」という信念が
自然に湧いてくるのです。そこで五井先生の「消えてゆく姿で世界平和の祈り」という教えを、私はより
明るい言葉を用いて、「世界は平和になる信念で世界平和の祈り」と説いているのです。私は、五井先生
の教えを忠実に再現しておりますが、これだけは、他のどこにもない、私独自の新しい教えと言えます。

この新しい教えを、自画自賛するのは恥ずかしいので、誰かほめてくれないものでしょうか。(^_^)


ご霊紙をどう扱うか。
No.515 森島恒吉    1999/06/23 (水) 23:19 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ケントさん、五井先生のご法話を紹介して下さって、ありがとうございます。

経典解釈については、五井先生のおっしゃる通りですね。

ご霊紙については、私も最初の頃は、五井先生のおっしゃることを信じて、ほかの会員さんがやっていた
ように、ご霊紙をヤギのように食べたり、肌につけたりしました。五井先生のお浄めで霊光の入ったご霊
紙を食べれば、私の肉体も心も浄まる、と信じてやっていたのです。しかし、ヤギのようにムシャムシャ
食べても、おいしくないんです、和紙ですから。おいしくないから、すぐにやめてしまいました。

青森県の石岡さんという医師が、ご霊紙の「ブドウ状球菌の発育阻止の効果」について立証した、という
お話が紹介されましたけれども、その後の実証試験や治療の臨床例を聞いておりません。これだけでは、
残念ながら世間の人を納得させるだけの力とは成り得ません。五井先生は、石岡さんの報告を過大と思え
るほど高く評価されていますけれど、その内容よりも、私は五井先生の素直さに感動させられるのです。

五井先生のご法話は、ご法話として尊重して保存しておかねばなりませんが、唯一会としてご霊紙を復活
することは、私は現在考えておりません。なぜかといいますと、宗教団体が病気治療を行なったり宣伝し
たりすることは、日本の国の法律で禁止されているからです。それに、病気が治るという宣伝によって、
ご霊紙で信者を集めるというやり方は、私の美学からいって、どうにもやる気が出ません。それよりも、
「世界人類が平和でありますように」と書かれたステッカーやピースポールを広めるほうが、カッコイイ
と私は思います。現在、白光真宏会は、「我即神也・人類即神也」に夢中になっていますが、唯一会とし
ては、「世界人類が平和でありますように」のステッカーやピースポール建立を勧めたいと思います。

私は、「世界人類が平和でありますように」の細長いプラスチックでできたステッカーを、近所の文房具
店で特別注文した金色の額に入れて、壁に飾っております。これは実にいいです。世界中の家々で、この
「世界人類が平和でありますように」の額を、祈りのご本尊として祈りの対象にするのが、一番良いと思
うし、いずれはそうなる、と私は思っております。


「天と地をつなぐ者」整理の方法5(最終回)
No.516 森島恒吉    1999/06/25 (金) 06:34 富士宮市
世界人類が平和でありますように

「天と地をつなぐ者」は、五井先生の自叙伝ですが、生長の家の教えの欠陥と、五井先生がその欠陥をど
のように変えたのか、という一つのテーマにしぼって、これまで抜粋してきました。いわば、あちらこち
らに埋まっていたダイヤモンドの原石を、ひろい集めたようなものです。次になすべきことは、同じ教え
について一つにまとめ、分類することです。分類の後は、比較してみましょう。すると、そこに五井先生
の教えが、はっきりと浮きでてくるのです。

これまで多くの人が、五井先生の教えを理解したつもりでいても、真実に理解できなかった原因は、枝葉
ばかりを見て、根本である五井先生の実相論と生長の家の実相論の比較をしなかったことにあるのです。
そう、多くの人は、枝葉の言葉ばかりを見ているのです。いいかえると、五井先生の根本の教えさえ理解
できれば、枝葉の言葉など、まったく知らなくても良いのです。それでは、これまでに抜粋した五井先生
の根本の教えを分類し、さらにそれらを煮詰めて、3項目ずつにまとめましょう。

【生長の家の実相観(神想観)の欠陥】

(1)実際問題としては、実相を現実に現わすことは実に至難なことである。
(2)偉い人間になったように思い上がり、高慢になる。
(3)反省なき偽善者(嘘つき)になり、正直に生きられなくなる。

【心の法則論の欠陥】

(1)自分を責めるようになり、恐ろしい傷痕を信者の心に刻みつけてしまう。
(2)人をしきりと責めたてるようになり、人を地獄へ叩き落としてしまう。
(3)赦しの心、愛の心に非常な雲がかかってしまう。

【生長の家の実相観と心の法則論の二元論の欠陥】

(1)人間はいったい善なのか、悪なのか、どちらが真実なのか、わからなくなってしまう。
(2)心の法則論を説くと、「人間神の子完全円満」の実相論が消えてしまう。
(3)実相論による偽善と、心の法則論による責め苦という二重の把われに苦しむようになる。

以上の生長の家の教えに対して、五井先生は新しい実相論を提案しています。それが次の実相論であるの
です。生長の家の実相論と区別するために、五井先生の実相論を、私は「中庸実相論」と名付けました。

【五井先生の中庸実相論「消えてゆく姿」の教えの要点】

五井先生の中庸実相論とは、「悪はあるのだが、消えてゆく姿なのだ」「業因縁的存在は、すべて消えて
ゆく姿であり、消えてゆくと共に、本体の光が現れてくる」という教えです。

(1)「喝」の効き目はないが、求道者を苦しめることがなくなる。
(2)偽善者にならせなくてすみ、正直に生きられる。
(3)現実に矛盾せず、しかも理想を肯定しているので、「心の法則論」が不要となり一元論となった。

【五井先生の教える具体的な行法】

(1)業因縁はすべて消えてゆき、消えてゆくと共に、本体の光が現れてくる、と信じる。
(2)守護霊、守護神という他力による救われを中心とする。
(2)個人人類同時成道の「世界平和の祈り」を唯一の行として勧めている。

以上の五井先生の教えの根本を理解し、実行すれば、五井先生の教えをすべて理解したと言えるのです。
ほかのお話は、すべて枝葉なのです。「天と地をつなぐ者」をお読みになった方は、ぜひとも五井先生の
根本の教えを理解していただきたい、と思います。

なぜ、今さら生長の家の教えを持ち出したか、と申しますと、五井先生の著書をお読みになっていても、
生長の家の教えとの比較が、明確になされておりませんと、途中で思わぬ試練を受け、転落してしまう危
険があるからです。たとえば、あなたにとって、ハワイに行くことが楽しい夢で、ハワイに行くという夢
が、ついに実現したとします。あなたは、青く透き通る海で存分に泳いだり、プライベートビーチの白い
砂浜でバーベキューをしたりして、日々を楽しく暮らします。ところが数日たちますと、あなたはハワイ
に初めて到着した時のような感動が薄れてくるのを感じます。

このように夢の目標を達成した後、初めの感動がだんだんと薄れてくるように、五井先生の教えを信仰し
はじめて数年たちますと、入門当時のような新鮮な感動が薄れてくるのです。ちょうどその頃、生長の家
の教えの実相論のような、真理をずばりと宣言する教えに初めて触れますと、「これは素晴らしい!この
教えこそは、五井先生の『消えてゆく姿』の教えよりも、さらに高い教えだ!一歩進んだ教えなのだ!」
と勘違いしてしまい、せっかく学んだ五井先生の中庸実相論を捨てて、過去の低い教えで、重大な欠陥の
ある理想偏重実相論へと逆戻りし、転落してゆくケースがあるのです。

最近になって、私はこのように転落してゆく人々を頻繁に見るようになったので、五井先生のご著書であ
る「天と地をつなぐ者」を抜粋し、改めて五井先生の教えと、生長の家の教えを比較して、生長の家の実
相論には、これこれしかじかの欠陥が潜んでいるのだ、と五井先生ご自身の文章で、改めて注意を促して
いるのです。五井先生の文章をいちいち書き出すよりも、私の自由に書いたほうが楽なのですが、「五井
先生の文章ならば信じる」という人がいるので、面倒でも五井先生の教えを書き出したわけです。

白光真宏会の会員の皆さん、「私は神である」「人は神である」「人類は神である」というような無理な
宣言をするよりも、「世界平和の祈り」をするほうが、はるかに五井先生のみ心にかなった行為であるこ
とに一日も早く目覚めて下さい。人間が本来、神の分霊であることは、教義「人間と真実の生き方」にす
でに書いてあることであり、人間が本来、神の分霊である、という真理は、私たちには、すでに頭では判
っていることなのです。問題は、いかにしたら、神の分霊である本体を現わし得るか、ということなので
す。そのためには、「私は神である」と宣言していても、そう簡単には、神の分霊である本体を現わし得
ることはできないのです。その難しさを、そこに潜む欠陥を、知らなくてはなりません。

五井先生は、生長の家の講師の時代に、「私は神である」という宣言法の欠陥を、すでに知ったのです。
そこで、そうした宣言法(実相観)を捨てて、守護の神霊による救われという他力の道を発見し、新しい
祈り言を確立したのです。それが「世界平和の祈り」であるのです。この「世界平和の祈り」には、生長
の家の理想偏重実相論のような欠陥はありませんし、心の法則論もありませんから、自他を責め裁く欠陥
もありません。喝のような効き目はありませんが、欠陥が一つもない完全な方法であるのです。

「世界平和の祈り」を祈っていれば、人間は誰しも神の分霊である本体を、自然に現わし得るようになり
ますし、世界人類の神性が開発され、個人だけではなく世界が平和になってゆくのです。人類の誰でもが
無理なく正直に楽に生きられる信仰の道が、「世界平和の祈り」の道であるのです。「世界平和の祈り」
がいかに高い神智から生まれた祈り言であるかを、改めてご理解していただき、五井先生の提唱される
「世界平和の祈り」を、私たちと一緒に祈って下さるように切に願い、この講を終えることに致します。


「世界平和の祈り」への全託法
No.519 森島恒吉    1999/06/28 (月) 07:01 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ねこりんさん、ありがとうございます。

ねこりんさんは、五井先生の教えについて深く勉強されていますね。ねこりんさんのおっしゃるとおり、
五井先生は、行法としては「世界平和の祈り」を中心に教えているのですが、教えの記述の表現としては
多種多様の言い方をなさっています。なぜかというと、一つは文学的な理由で、美しい文章にするために
は、同じ言葉を何度も重ねて書くと、くどくなるので、同じ言葉を重ねて書くことを極力避けているため
です。もう一つの理由は、多くの読者の心境に合わせために幅広い表現になるわけです。しかし、その配
慮や親切が反面、一人の読者の立場に立ちますと、教えの幅が広過ぎて一つの行法に単純化できず、どう
したらよいのかわからない、ということになってしまうこともあります。

五井先生はお答えのしかたとして「それは、どちらでもいい」というふうに、お答えになることもありま
す。どちらをやっても大差がないので、自由にやらせたくて、そうお答えになるわけですが、自由にやり
たい人は、そう聞いてうれしくなるのですが、自信のない人は、五井先生に一つに決めてほしいわけなん
ですね。ところが、五井先生が一つに定めてしまうと、今度は「五井先生が説いた教えだ」ということに
なり、固定化されてしまって、誰にでも、その固定化された方法をあてはめよう、と把われてしまうこと
になりかねなません。五井先生の立場としては、いろいろな角度から多様な表現で教えを説く必要がある
のですが、聞く立場としたら、聞けば聞くほど、どれがよいのか、わからなくなってくるわけです。

「世界平和の祈り」を例にしますと、「世界人類が平和でありますように」の祈りが基本になっています
が、五井先生は、時には「世界人類が平和になりますように」と言ったり、「地球人類が平和であります
ように」と言ったり、「世界人類が幸せでありますように」と言ったりされる時もあります。守護の神霊
に感謝する時にも、「守護霊さま、守護神さま、ありがとうございます」と言うだけでなく、「守護霊さ
ま、ありがとうございます、守護神さま、ありがとうございます、神さま、ありがとうございます」と言
ったり、「宇宙神さま、ありがとうございます」と言うこともあります。また「神さま、お願いします。
世界人類が平和でありますように」と教えて下さったかと思うと、別の日には「世界人類が平和でありま
すように、神さま、お願いします」と言ったり、「神さま、ありがとうございます。世界人類が平和であ
りますように」という順序で言ったりされたこともありました。

こんな具合に、五井先生のお話は、各人が自由にやりやすいようにと、多様な表現を用いて配慮して下さ
っているのです。私たちの個人的な立場としては、選択肢の幅が広いことはありがたいことで、いろいろ
な表現の中から、自分にぴったりした自分の好きな祈り方を、自由に選べばよいのです。しかし、「自由
にやっていいよ」と言われても、どれを選択したらよいのか、わからないという人もいるので、ねこりん
さんのようなご質問も出てくるわけです。また、個人の祈り方の形式は、自由であるのですが、仲間と一
緒にグループで祈る場合には、一つの祈り方に統一化しておく必要があります。世界の人々が集まって祈
る時には、「グローバルスタンダード(世界統一基準)の祈り方」を定めておく必要もあります。前置き
が長くなりましたが、ご質問にお答えしましょう。

[質問]
非常に基本的なことですが、世界平和の祈りについて、わかりやすく説明していただけないでしょうか。
それはどのような事かというと、五井先生は祈りに関して、多様な解説をしてらっしゃいます。

例えば、次のような解説があります。
(1)「世界平和の祈りは、『世界人類が平和でありますように』という言葉自体が、神様の御心である
ので、特に祈りの対象というものはなく、祈り言葉そのままが本尊である」(この記述が多い)
(2)「各自の信じるあらゆる神仏に、真剣に世界人類の平和を願う、世界平和の祈りを実践してゆく
時、この世は次第に明るくなり、地球の危機は遠のいてゆくことになるのである」
(3)「真の祈りとは、生命を完全にひびきわたらせることである」

「五井先生の祈りに関する多様な解説は、本質的には皆同じだ」と直感的にはわかるのですが、実際、世
界平和の祈りを祈る時、どのような思い方で祈ったらよいのでしょうか?
私自身は、(1)の「祈りの対象がない」という思い方ができにくいので、
  (神様(救世の大光明、守護霊様、守護神様、五井先生)おねがいします)、
   世界人類が平和でありますように
という感じでやってやっていますが、それでよろしいのでしょうか。

[お答え]
結論から申しますと、あなたのそのやり方で、よろしいのです。そのやり方が、最もやさしく神我一体の
境地になれる方法であるのです。私自身も、あなたと同じ祈り方をしております。この"PEACE NIFON"
の過去のログをお読みになれば、あなたと同じ祈り方を、私も推奨していることを発見されるでしょう。

五井先生の教えを解説しますと、このようになります。
(1)祈る時には、必ず祈る対象が必要となってきますから、祈る対象なくして祈ることはできません。
五井先生が、このとき説いた「特に祈りの対象がない」というのは、いわゆる過去からの宗教と比較した
場合で、これまでの宗教には、祈りの対象として、固有名詞のついた神仏の名前が必ずありまして、自分
の信仰する神仏の一つが自分を救って下さる、という形であったのですが、「世界平和の祈り」の場合は
祈りの対象として固有名詞のついた神仏がなく、神棚も仏壇も必要とせず、無名の守護の神霊を含めた救
世の大光明霊団と無名の宇宙神を対象にしておりますから、「固有名詞の名前のついた神仏という祈りの
対象はない」という意味で説いたのです。五井先生の教えの本尊は、宇宙神なのですが、その宇宙神のみ
心と一つに合う祈り言が、「世界人類が平和でありますように」であるので、この祈り言を本尊と考えて
もよいわけです。もともとは、本尊と言った場合は、信仰している守護神の仏像をさすことが多いのです
が、浄土教では「南無阿弥陀仏」という六字の名号(みょうごう)を本尊と讃えているように、「世界人
類が平和でありますように」という祈り言が本尊である、と五井先生も説いているわけです。

(2)「各自の信じるあらゆる神仏」というのですから、これは世界の宗教者の人々に向けた教えです。
五井先生の教えでは、祈りの対象は、守護霊、守護神、と定めておりますが、世界の宗教には、多くの神
仏の名があり、その神仏を信仰している人々がたくさん存在しているのですから、「今までの神仏の名を
唱えずに、これからは守護霊、守護神だけを唱えなさい」と教えたところで、無理な話です。世界の宗教
者の皆さまは、各自の信じる神仏を対象にして、「世界平和の祈り」を祈っていただければ、それで結構
であると思います。それに「世界人類が平和でありますように」という祈り言には、「宇宙神さま、あり
がとうございます」という意味も含まれているからです。

(3)「真の祈りとは、生命を完全にひびきわたらせること」というのは、「祈りとは、生命(イノチ)
を宣(ノ)るから、イノリといい、生命の宣言なのである」という教えと同じで、この教えは、祈り言を
唱えることによって、神の生命が充分に発揮される、という祈りの効果を説明したものです。確かに生命
が自由に生き生きとしてこないのは、真の祈りとはいえないのです。

この教えから、「祈りは生命の宣言であるのだから、『私は神の子である』『世界は平和である』と宣言
することが、真の祈りである。守護の神霊に対して『何々して下さい』と願うような形式の祈り方は、真
の祈りではない」と説く宗教者が現れてくるのですが、守護の神霊への祈りを否定し、真理(理想)を宣
言しても、現実には真理がそうやすやすと現れてはまいりません。人間が守護の神霊と一体化することに
よって、はじめて人間本来の神の子の神性が発揮されてくるように、法則ができているからです。真理を
現わすためには、順序としてその前に必ず、守護の神霊に祈ることが必要で、守護の神霊と一体化するこ
とによって、生命の力が生き生きとみなぎってくるのです。その具体的な祈り言が、「世界平和の祈り」
であるのです。何事も、順序が必要なのです。

そこで「世界平和の祈りを祈る時、どのような思い方で祈ったらよいのでしょうか? 」というご質問に
改めてお答えしますと、「神さま、お願いします。世界人類が平和でありますように〜」という思い方で
祈るのが、最もやさしく最も効果的な祈り方であるのです。

「世界人類が平和でありますように」は、省略された祈り言であるのです。何が省略されているからいう
と、「神さま、お願いします」という言葉が省略されているのです。元の祈り言は、「神さま、世界人類
が平和でありますように、お願いします」という祈り言であるのです。「神さま、お願いします」という
のは、わかりきったことですから、その言葉を省略して「世界人類が平和でありますように」だけにした
のです。ところが、そのわかりきったことが、わからないために、「世界平和の祈りの中に、すべての想
いを投げ入れるとは、どういう意味なのか?」ということもわからず、「世界平和の祈り」の中に飛びこ
めず、「世界平和の祈り」に溶けこむような神我一体観も得られない人が多いのです。

「神さま、お願いします」という意味が、充分に心に染みこめば、その後はもう省略して「神さま、あり
がとうございます」という感謝の祈りだけでよろしいのですが、初心者は、「神さま、お願いします」
(守護霊さま、お願いします)と声に出して祈ったほうが良い、と私は自分の体験から思います。簡単に
祈るならば、「神さま、お願いします」と言った後、「世界平和の祈り」を唱えればよいのです。親切丁
寧にもっと具体的に、「世界平和の祈り」の祈り方について書いてあげましょう。

[世界平和の祈り・パターン1](五井先生が法話の中で最も多く用いた表現で、筆者も用いる)

神さま、お願いします。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様、ありがとうございます
守護神様、ありがとうございます

[世界平和の祈り・パターン2](丁寧な言い方)

守護霊様、お願いします
守護神様、お願いします
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様、ありがとうございます
守護神様、ありがとうございます

[世界平和の祈り・パターン3](これも丁寧な言い方で、上記と順序が異なる)

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様、お願いします
守護神様、お願いします
守護霊様、ありがとうございます
守護神様、ありがとうございます

[世界平和の祈り・パターン4](五井先生ご在世中、信者の皆さんがなさっていた方法)

五井先生、お願いします
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様、ありがとうございます
守護神様、ありがとうございます
五井先生、ありがとうございます

以上のような祈り方で「世界平和の祈り」を祈りますと、本来の大光明が発揮され、霊性開発に最も効果
的なのです。「世界平和の祈り」を唱える前に、まず「守護霊さま、お願いします。守護霊さま、お願い
します。守護霊さま、お願いします。…」と守護霊さまに全託する祈りを唱える練習をなさって下さい。
初めはまだ「世界平和の祈り」を唱えなくてもかまいません。「守護霊さま、お願いします」という全託
の祈り言だけでよろしいですから、朝から寝るまで、寝ている間も、これだけを唱えつづけるのです。

しばらくして(数週間から数カ月)、守護霊さまのみ心の中にスーッと入ってゆけるような霊的な統一感
覚を得られるようになったら、「守護霊さま、お願いします」という言葉を声に出さなくとも、心の中で
唱えても、スーッと統一できるようになります。さらにその後、「守護霊さま、お願いします」という想
いが少しも出てこなくなり、「守護霊さま、ありがとうございます」という感謝の祈りだけになります。

宗教者によっては、「守護霊さまに決してお願いしてはいけない」と説いている宗教者がいますが、そう
いう思い方をしていては、たとえ「世界平和の祈り」のような祈り言をしたとしても、いつまでたっても
守護の神霊との間に隙間ができて、守護の神霊との完全な一体観が得られません。

「お願いします」という言葉は、確かに現世利益の願い事と同じ言葉です。そこから、「神さま、お願い
します」は願い事であって真の祈りではなく、「神さま、お願いします」と祈ってはいけない、と主張す
る宗教者がいるわけですが、しかし、私の説く「守護霊さま、お願いします」という全託の祈りは、欲望
を満たすための願望成就の願い事ではありません。「お願いします」という言葉を用いてはいても、その
内容は個人的には「守護霊さま、み心のままに私をお導き下さいますように、お願いします」という全託
の祈りであり、人類的には「守護霊さま、世界人類が平和でありますように、お願いします」という世界
平和の祈りと同じ意味内容を含んでいるのです。「世界平和の祈り」の前に、「神さま、お願いします」
と祈るとき、私たちは「世界平和の祈り」に真実に全託できるようになるのです。この教えは、五井先生
が幾度も説いていることであり、五井先生も私も、この方法ですべてを悟ることができたのです。


白光誌1999年7月号への感想1
No.524 森島恒吉    1999/06/29 (火) 13:11 富士宮市
[白光誌1999年7月号への感想1]

世界人類が平和でありますように

●「"即"の真義」(黄容成氏著)への私の感想

ケントさんのご感想に、私もまったく同感です。
「神を引ったくり出す」という黄容成氏の解釈の言葉は、彼自身の積極的な気持ちを現わしたものでしょ
うが、私たちから見ると、非常に高慢に見えますし、あまりにも言葉が汚くて、神への冒涜としか思えま
せん。黄容成氏は、自分を神以上の存在と思っているのでしょうか。こんなに神を冒涜する論文を、白光
誌に載せる編集者は、頭がイカレポンチになっているからなのですが、尤も頭がマトモだったら、とても
矛盾だらけの白光誌の編集者は勤まりませんが、結局、「我即神也」を強く支持する論調で書かれている
ために載せたのでしょう。

「我即神也」という言葉は、五井先生の教えではなく、昌美先生の教えなので、私が解釈する必要もない
のですが、昌美先生は、白光誌で明確に「我即神也とは、我は神なり、私は神である、という意味です」
と書かれています。即という字をどう解釈しようと、提唱者が「私は神である」と意味を定義しているの
ですから、黄容成氏が今さら「我即神也は、我は神也とは違う意味である」と主張しても駄目なのです。

「我即神也」は、合氣道の植芝盛平先生が説いた「我即宇宙」と、生長の家の谷口雅春教祖が神示として
説いた「我は神なり」の両方の言葉を、昌美先生がミックスして作った言葉であるのです。この場合の即
とは、「同一」という意味であり、「私は神と同一である」という意味で使われているのです。いつも申
しますように、「我は神なり」という真理に対して、私は反対しているわけではありません。まことに真
理は、人間は神の子であり、神そのものである、と言ってよいのです。それは真理であるのです。

しかし、その真理を頭で理解して、「我は神なり」とどんなに唱えても、現実に人間の神性を顕現するこ
とは不可能である、とその方法論の誤りを、私は指摘しているのです。「私は神である」と宣言すること
は、自力でもなくて他力でもなく絶対力である、と生長の家では説いているのですが、絶対力の言葉であ
っても、まだ絶対力の心境になっていない人間が、守護の神霊に頼らずに、その言葉だけを唱えて「神に
なろう」とするわけですから、これは力んだ自力行となってしまうのです。

「私は神である」と、何万回、何億回唱えようと、その人は、神になることはありません。それは、しば
らくやってみれば、よほどにぶい人でも何生かかけてやってみれば、いつかわかってくることです。私た
ちが「こんなことをしても無駄だよ」と愛情をもって教えてあげても、わがままな子供と同じで、ある程
度失敗して痛い目にあわなくては、自己の誤りに気づかないのです。ですから、間違っていることでも、
本人の気の済むまでやらせてみて、「我即神也と宣言してみましたが、この方法では、自己の神性を顕現
できませんでした。五井先生の教えを教えて下さい」と泣きついてきたら、「ほら、私の教えたとおりだ
ろう。だから、世界平和の祈りが一番良いんだよ」とその時に改めて教えてあげればいいのです。高慢な
想いのあるうちは、五井先生の教えが理解できません。高慢な想いを捨てて、謙虚になった時、はじめて
五井先生の真実の教えが、その人の心の奥底へと入ってゆくのです。


白光誌1999年7月号への感想2
No.527 森島恒吉    1999/06/30 (水) 07:51 富士宮市
[白光誌1999年7月号への感想2]<念力による願望成就法は、真の宗教ではない>

世界人類が平和でありますように

●67頁「明日へのガイド」への感想

子羊さんの言うとおり、「明日へのガイド」(願望を成就させるには)の回答者・井上輝繁氏の説いてい
ることは、五井先生の教えから外れた「念力による願望成就法」です。しかし、彼としては、昌美先生が
教えていることを信じて書いているわけですから、彼だけの責任とは言えません。指導者の昌美先生に、
その大半の責任はあるのです。「願望を成就させるには、どうしたらいいか?」という質問そのものが、
初めから「願望成就」を宗教の正しい在り方と、当然のごとく認めているように感じられます。昌美先生
が、ご自分の教えとして「願望成就」を発表して、祈りと同等の地位に持ち出して、認めているのですか
ら、こんな変な質問が出てくるのも、無理からぬことです。

昌美先生の説く「願望成就法」とは、特にアメリカで自己啓発(セルフヘルプ)として説かれていること
を真似したものに過ぎません。すなわち、ノーマン・V・ピール、ナポレオン・ヒル、ベン・スウィート
ランド、ハロルド・シャーマン、ポール・J・マイヤーの人たちが説いている成功哲学、成功心理学の思
想を真似して取り入れただけで、昌美先生独自の新しい教えではありません。この自己啓発の思想内容は
念力による願望成就を教える思想であって、真実の宗教ではありません。この自己啓発の願望成就法を、
宗教と同等に説くことは、神への冒涜であり、信者を迷わすことになります。宗教の祈りによる無限供給
と、念力による願望成就法は、まったく違うものであり、区別しなくてはいけないと、五井先生が著書
「白光への道」で詳しく書かれているので、それをぜひお読みいただきたいと思います。

念力による願望成就法を教える宗教者は、真実の宗教者とはいえません。皆さんは、そんな甘い誘惑に引
きずられて行ってはいけません。欲望を増長させますと、その欲望波動に合った幽界の生物が憑依してく
る危険があるからです。「天命を完うするために必要な物は、願わなくとも神から与えられる」という教
えが宗教の教えであって、願望を念じさせて「すでに自分の願いは叶えられたのだ、と強くイメージしな
さい」という念力の教えは、宗教ではないのです。宗教は、あくまでも我欲を捨て去ることにあります。
といっても、欲望をすぐに捨てることはむずかしいことですし、肉体生活を楽しんではいけない、と言っ
ているわけではありません。そこで五井先生は、「欲望を祈りの中に投げ入れて、欲望を純化しなさい」
と説いているのです。

「なくてならぬものは、神から与えられる」という教えが宗教の真理であるのですが、この真理も、なか
なか信じられない、というのが多くの一般民衆の本音のようです。「何も欲してはいけない」と説いても
欲望をなくすことは難しいことですし、「念力によって引き寄せた物質よりも、真実の祈りで神から与え
られる報酬のほうが、はるかに大きい」と説いても、神を信じられない人々は念力に走ってしまいます。
現世利益を無視した教えでは、多くの人々はついてはこないのです。かといって、一般大衆にこびて、本
心開発を後回しにして、現世利益を大々的に宣伝すると、低級な宗教団体となってしまいます。

現在の宗教は、本心開発を中心に教えながら、各人の本心開発が進むにつれて、現世利益をも与えるよう
にしてゆかないと、人類すべてに教えを普及することはできません。本心開発も与えられ、天命を完うで
きるだけの現世利益も与えられる、という教えが、五井先生の「世界平和の祈り」の教えであるのです。
「これが欲しい、あれが欲しい、こうなりたい、ああなりたい、こうしたい、ああしたい」という欲望が
あってもよいから、そうした欲望や目標や計画をすべて、「私たちの天命が完うされますように」という
一つの祈り言の中に投げ入れてしまうのです。そう祈りますと、自分勝手な欲望が消え去ってゆき、自己
の天命を完うするために必要な物質や立場や人間関係が、自然に授けられるのです。欲しい物を一つ一つ
を力んで強く念じる必要はないのですから、この祈りによる天授の方法は、少しも疲れず、はるかに楽な
のです。しかも、念力による物質の横取りよりも、はるかに莫大な利益を授けて下さるのです。

「私たちの天命が完うされますように」という祈りの「私たち」とは、自分と家族や縁のある友人知人だ
けではなく、自分の祖先と祖先にまつわる霊人、自分に救いを求めてきている迷った霊魂などが含まれて
います。自分の運命は、他の霊人からの波動の影響により、運命を大きく左右されることがあるのです。
そうした自分に関係のある霊魂たちが浄まることによって、霊魂は守護の力を持てるようになり、霊界側
から今度は自分を助けて下さるために、自己の運命が急速に上昇することになるのです。どんなに強い肉
体人間よりも、霊界からの霊力で加護してもらったほうが、自分の運命をずっと上昇させることができる
のです。おもしろいのは、それでいて守護霊は、肉体人間からの感謝の祈りの有無によって、加護力のパ
ワーが強くなったり弱くなったりするのです。私たちにとって、守護霊の力は必要不可欠でありながら、
それが一方的ではなく、守護霊もまた、私たちの祈りによって、霊界での活躍が存分に発揮できるように
なるのです。そういう理由があるので、「私の天命が完うされますように」ではなく、「私たちの天命が
完うされますように」と唱えたほうがよろしいわけです。

「我即神也」については、子羊さんのご指摘のように、「私は神である」という意味なのに、昌美先生は
じめ白光真宏会の会員の多くは、宗教上の一つの目標として設定しているようです。これはじつにおかし
なことで、まじめに考えると、頭が痛くなってしまいます。白光真宏会の会員の多くは、「私は神である
と唱えていれば、いつかは神になる」と信じているわけです。しかし、今の自分は神ではない、のですか
ら、「私は神である」と唱えることは嘘になるわけです。その点を指摘すると、「本心(実相)の私は神
である、と私は思っていますから嘘ではありません」と言う人がいます。それだったら、「本心の私は神
である」と言うべきです。頭でわかっているからといって、「本心の」とか「本来は」という言葉を省略
してはいけないのです。「本心の」という言葉を省略したら嘘になり、嘘から真は生まれません。

またある人は、早く自分の神性を顕現しようと焦るあまり、「今、私は神である」「今、私はすでに神に
なった。今の自分は神そのものである」と未来を先取りして、イメージしている人もいます。それでいて
「今はまだ、私は神ではない」と無意識のうちに思っているのです。その証拠が、「我即神也を目標とし
ている」という言葉に現れています。目標としている、ということは、自分がまだその目標に到達してい
ない状況を示しています。つまり、「我即神也を目標としている」という人は、「私は神であるという心
境に、私はまだ到達してはいない」と公表していることになります。

「私は神である、と念じていれば、いつかは私も神になれるだろう」と推測して、そのように念じている
わけで、その方法で神になれた人は、じつは今まで一人も存在してはいないのです。昌美先生は、白光真
宏会の会員の皆さんに「我即神也を宣言していれば、あなた方は神になれます」と教えているけれども、
昌美先生ご自身が、その方法によって、神になれたわけではありません。「我即神也」の提唱者である昌
美先生も、まだ神人にはなってはいないのです。すでに他界された前理事長の瀬木庸介さんや前副理事長
の高橋英雄さんは、昌美先生から「神人」の称号をもらいましたけれども、ご本人たちは「私はふつうの
人間です」と正直に告白しています。「神人」という称号は、実際にご本人が神人になったから差し上げ
たのではなく、名誉職の一つにすぎないのです。提唱者である昌美先生ご自身が、神我一体になった体験
から、「我即神也」を会員の皆さんに教えているわけではなく、「我即神也と唱えていれば、たぶんいつ
かは、神になれるはずだ」という推測で、教えているにすぎないのです。

それに対して「世界平和の祈り」は、「神さま、ありがとうございます」という祈りで神我一体になった
五井先生が、私たちのために、同じ苦労をさせまいとして、私たちに授けて下さった祈り方で、「世界平
和の祈りを祈りつづけてゆけば、誰もが必ず神人になることができ、自分ばかりでなく、世界が平和にな
るのです」と約束して下さった祈りです。その教えを信じて、私は「世界平和の祈り」を祈りつづけまし
た。その結果、まず私が五井先生に救われて、皆さんより一足お先に、安心立命を得ることができたので
す。そして、「世界平和の祈り」によって救われた実例の人間が、今、ここで、この世に実在していて、
「世界平和の祈りは最高の祈りなのです。世界平和の祈りを祈りましょう」と常に大きな声を出して伝え
ているのですから、皆さんから見れば、他の方法よりも「世界平和の祈り」のほうが、ずっと信じやすい
し、ずっと実行しやすい、と思うのです。

実際に神人になった人というのは、五井先生もそうでしたが、毎日百回も千回も「私は神である」と、こ
とさらに唱えることは、しないものなのです。「私は神である」とことさらに唱えるということは、その
人がまだ神になっていない証拠を示しているのです。本当の金持ちは、「私は無限の富を持っている」と
唱えることはしないし、健康な人は「私は完全な健康体である」と数えるように唱えることはしません。

それと同じように、真実に神人になった人は、「私は神である」と、ことさらに唱えることはしないので
す。言いかえれば、ことさらに言う人は、まだ、そうなっていない事実を、発表していることになるので
す。つまり、「私は神である」と毎日ことさらに唱えている人は、全員、神になっていない人であり、悟
っていない人であるのです。真実の目から、そういう人を見ますと「私は神であると、こうして毎日唱え
ておりますが、恥ずかしながら、私はまだ神になっておりません。今の私は神ではありません。今の私は
神ではありません。今の私は神ではありません。…」と唱えているように聞こえてくるのです。

「世界人類が平和でありますように」と祈ることは、その行為がすでに神の子の行為であるのですから、
ことさら「私は神である」と自分や他人に言い聞かせる必要はありません。高慢にもならず、卑下するこ
ともなく、自分や他人に嘘をつく必要もなく、現実に対して正直にありのままを話せますし、不完全な自
分の行為はすべて消えてゆく姿と思い、消えてゆくと同時に完全な自分の本心本体が現れてくる、と思い
ますから、心が非常に明るくなるのです。現実の悪に矛盾せず、未来において悪の存在を否定し、未来の
理想の善にも矛盾しない「消えてゆく姿」の教えは、現実と理想を一つにつなぐ重要な言葉です。

現実の悪の存在を一度認め肯定して、しかも未来の世界における悪の存在を否定する、その現実と理想の
両方のどちらにも矛盾しない言葉は、「消えてゆく姿」という言葉しかないのです。五井先生の提唱され
ているこの「消えてゆく姿」の教えが理解できれば、ことさら「私は神である」と唱える必要はないでは
ありませんか。私たちの業想念はすべて消えてゆく姿であるのです。未来に進むにつれて、業想念はしだ
いに小さく消えて行って、ついには業想念は完全に消滅し、同時に、私たちは神の子になるのです。

「私は神の子になる」とわかっていれば、焦ることはないではありませんか。「私は神の子になる」と本
当に信じれば、何も焦って「今、私は神である」と唱える必要はないではありませんか。それなのに「私
は神である」と唱えるのは、「私は神の子になる」という理想を信じていないからです。「私は神の子に
なる」ということを疑うから、「私は神である」と唱えずにはいられないのです。「世界は平和になる」
という理想を信じないから、神の大愛と智慧を信じないから、自力であれこれやろうと力むのです。

「私は神の子になるんだ。世界は平和になるんだ」と信じて、「世界平和の祈り」の行にひたすら励んで
いれば、私たちの神性は、自然に無理なく現れてくるのです。私たちのなすべきことは、ただ一つ「世界
平和の祈り」だけでよいのです。ほかは何もいらないのです。他の行法はすべて捨てて、「世界平和の祈
り」一本に、切り換えてしまうことです。「世界平和の祈り」は、世界を救う唯一のものです。世界を救
うのに必要なことは、「世界平和の祈り」一念だけです。その他の行法は、何もいらないのです。


五井先生のご指導方針は慈愛の心
No.529 森島恒吉    1999/07/01 (木) 02:05 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ありがとうございます。ケントさんのお立場から、唯一会の様子を描いて下さると、読者の
皆さんは、とっても安心されると思います。前回の唯一会を終えた後、私もケントさんたちと一緒に歩い
て帰ろうと思っていたのですが、新宿駅まで着いて後ろを振り返ったら、ケントさんたちの姿が見えなか
ったので、ケントさんとウブちゃんの二人で二次会にでも行ったのか、と思ったのです。そうでしたか、
私の歩くスピードが速すぎたんですね。すみません。もちろん、前にお話ししたとおり、私も女性と一緒
に歩くときには、女性の歩くスピードに合わせて歩きますよ。(^_^)それから、人込みの中で、なぜ速く
歩けるかというと、手刀の指先の先端から氣を出して、前に歩いている人と人の間にスッと指先を差し出
すと、スイカが二つに割れるように、自分の前の道が開けるために速く歩けるんです。(・_-)

ケントさんのご質問に先にお答えしますと、私はその現場におりませんでした。私もテープでお聞きしま
した。五井先生が法話で叱っているテープは希少価値があるので、法友同志でテープをダビングしてたび
たび聞いたものでした。五井先生に叱られますと、テープであっても、だらだらに緩んでいる身が、滝の
水をかぶったようにキュッと引き締まって、まじめに信仰しよう、という気持ちにさせられますね。雷が
落ちた後のように、スカッと爽やかになります。暑いときは、クーラーのかわりにしたりして。(^_^)

五井先生がお叱りになるというのは、ふつうの人が自己の不平不満から怒鳴りちらすような感情からくる
怒りではなくて、強いお浄めのためのお叱りなんですね。怒りは業想念の感情からくるもの、お叱りは本
心から業想念を浄めるために現れてくる光です。厚い業想念の壁を打ち破るには、時には烈しい愛の叱り
が必要な時があるのです。なまぬるくやっていると、本人のためにならない時があります。そんな時には
相手のために烈しく叱る必要もあります。それは相手の本心を開かすためであり、相手を生かすための強
い光であるわけです。しかし、それを意識的にやるんじゃ、だめなんです。神のみ心のままに、ある時は
春風のように穏やかになぐさめ、ある時は雷の落ちるがごとく烈しく叱り、それでいて湖面に月が映るが
ごとく心が静かに澄んでいる、という自由自在な心境で行為できなくてはなりません。

「道元禅師や白隠禅師は、立派な弟子をつくりましたね。それは師匠が厳しかったからですよ。私は、今
まで柔和で優しい教え方をしてきたけれども、これからは、時には厳しく指導しようと思っています」と
ある時、五井先生は説いていましたが、厳しく指導するというのは難しいんですね。気の強い人ならば、
叱っても平気だけれど、気の弱い人に向かって叱ると、ヘナヘナヘナと倒れてしまいます。それに今の社
会では、若い人は、叱られた経験のない人が多く、ちょっと厳しい口調で教えると、すぐにふくれっ面を
して文句を言い返し、学びに来なくなるのです。

私なんか、憎くて叱っているんではないんです。愛情だけで叱っているんだから、「森島先生に、たとえ
どんなに叱られても、バカヤローと怒鳴られても、出て行けと言われても、おれは、しがみついてでも、
森島先生についていってやる!」というぐらいの強い気迫を持ってほしいな。私なんか、こう見えても、
優しすぎるんです。五井先生の働きは、慈愛の働きであって、もともと観音菩薩さまのような優しさにあ
ふれた働き方をなさるんです。ですから、優しすぎるほど優しくて良い、と私は思います。愛情がないの
に、自己の不平不満の感情から怒鳴ったり、人を責めておきながら、五井先生の真似をして「これは神の
お浄めのお叱りなんだ」と、へたな言い訳をする人が出てくると、困るからです。優しくするのも、厳し
くするのも、自力で考えてやることではなく、自然法爾に行為することが大事なのです。

さて、今週土曜日に行なわれる第二回統一会には、新しい方がお見えになる予定ですが、初めて統一会に
ご参加されるには、大変勇気が必要だと思います。まして、今まで白光真宏会の集会へ行ったことがなく
宗教をやったこともなく、私という人物を知らず、この"PEACE NIFON"をお読みになっただけで来られ
るのですから、大変な勇気が必要だと思います。そこをなんとか勇気を出して、足を一歩前に踏み出して
下されば、あなたの人生は大きく変わるのです。ぜひ、ご一緒に「世界平和の祈り」を祈って下さい。

集会の実際の内容は、各自好きなお茶を飲みながら、あるいはクリームパフェやあんみつを食べながら、
五井先生の教えについて話し合い、「世界平和の祈り」を祈る、という内容ですから、何も厳しい行はあ
りません。2時間、畳の上で正座しているわけではなく、8時間も立って祈り続けるわけでもなく、柔ら
かい椅子にゆったりと腰かけているだけです。楽なものです。
ですから、どうぞご安心して、統一会にご参加下さいますようお願いいたします。

皆さまが幸せでありますように


陸奥さんへ
No.531 森島恒吉    1999/07/01 (木) 20:34 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[お答え]
ご家族にとっては、無責任な父親と見えるでしょうが、お父さまは会社でホトホト疲れてしまったのでし
ょうね。あなたのお父さまのお好きなようにさせてあげて下さい。数年後には、お父さまは他界すると覚
悟して、もうお父さまを頼るのはやめましょう。お父さまは、もうすでに充分、あなた方ご家族を守って
くれたのです。これからは、お父さまを頼らずに、あなた方が力を合わせて、下のお子さんを助けてあげ
て下さい。大学の授業料は、学生のために利息なしで学費を貸してくれる制度を利用したり、アルバイト
をすれば、大学を卒業することはできるはずです。生まれた時から父親がいないで、母親一人に育てられ
たお子さんたちに比べれば、あなた方は、まだまだ恵まれているほうではありませんか。

お父さまがなさっていた「世界平和の祈り」の積徳の結果は、あなた方が結婚し、子供が生まれたとき、
お父さまから見れば、孫にあたるお子さんの時代になってから、必ず幸福な運命となって現れてきます。
あなた方のお子さんたちが成長したら、こう話してあげて下さい。「おまえたちが、こうして幸せに暮ら
せるのは、おまえたちのおじいさんが、一生懸命に世界平和の祈りを祈ってくれたおかげなんだよ」と。

皆さんが幸せでありますように


聖ヶ丘道場の土地売却について
No.542 森島恒吉    1999/07/05 (月) 01:04 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ご質問をありがとうございます。
うぶちゃん、「?c」の漢字があることを教えて下さって、ありがとうございます。私は富士通ファンなの
で、環境設定では富士通拡張漢字を使っていたのですが、変換コードで、「IBM拡張漢字を使う」か、
「Microsoft標準」にすると、「?c」の文字が出ましたので、早速、「?c修庵」を漢字登録しました。

[質問1]
聖跡であるイク修庵や宇宙子科学研究所を跡形もなく壊す、という発想が、いかに五井先生の遺徳を守ろ
うとする意識と逆行するものであるか、ということがよ〜く分ります。森島先生、どうなんでしょうか?
さて、聖ヶ丘道場の建物はすべて壊され音楽学校になる、ということは、まさに聖跡の破壊であり、その
復旧の責任が、唯一会に回ってくることになってしまいます。ひょっとしたら、唯一会も佐々井さんのよ
うに、五井先生を顕彰すべく、聖跡の復旧活動やることになるのでしょうか?

[お答え1]<聖ヶ丘道場売却についての私の感想>
ケントさん、ご質問をいただき、ありがとうございます。
私も、最初「聖ヶ丘道場を売りに出す」と聞いたとき、まったく信じられない思いでした。聖ヶ丘道場は
まだしも、五井先生が今生の最後に昇神された、記念すべき?c修庵の場所をまさか売るなんて、信じられ
ませんでした。そうしたウワサは、だいぶ前から聞いてはいましたが、本気にしませんでした。

そうしたウワサを、だいぶ前から聞いたとき、「そりゃあ。嘘だろう。いくら昌美先生だって、そこまで
やらないだろう。もし、売るんだったら、その土地を唯一会で買い取り、唯一会として?c修庵を、永久保
存したい」と人に話していました。ところが、私たち会員に昌美先生が報告した時には、すでに他の人へ
売った後で、私が?c修庵の土地を買い取るつもりであったのに、一言、会員に対して「どなたか、会員さ
んで買いたい人はいませんか?」と声をかけてくれたらよかったのにと、非常に残念に思いました。

霊的に見れば、そうなることを予感していても、私の肉体感情としては、そうなることを否定したい気持
ちが強かったのは事実です。外国の聖地を買ったり、富士聖地に新しい建物を建設したり、職員を富士聖
地に住まわせるための住居の補助をしたり、財団法人の設立と発展のために、多額の費用が必要だったと
は思いますが、いくらなんでも信仰の聖地であり、記念すべき五井先生の昇神の地を、他人に売るまでし
て、無理に外国の土地を買う必要はなかったのではないでしょうか。

しかし、すでに聖ヶ丘道場は、他人に売却されて音楽学校が新たに建設される、ということなので、私と
しては聖跡の復旧をしたい気持ちはありますが、今となっては、どうしようもできません。土地を買い戻
すには、おそらく売った価格の二倍以上の金額は必要となるでしょうし、それだけの金銭的な余裕は、私
にはありません。唯一会としては、五井先生の昇神の地は、千葉県市川市中国分五丁目26番地27であ
った、と記録にとどめておくしかありません。

五井先生が、8月17日の朝、?c修庵で昇神されるために安らかな眠りについた時、ちょうどその日は日曜
日で聖ヶ丘道場の統一会があり、私は、五井先生が他界されたことを知らされずに、?c修庵の隣の大道場
にいてお祈りしていたのです。五井先生のお体が、まだふとんの中で横たわっているときに、すぐそば
で、何も知らされずに、私は世界平和の祈りを祈っていたのでした。

私としては、どんなことがあっても、「聖跡破壊」というような、昌美先生を破壊者とし悪者にするよう
な言い方をしてはいけないし、たとえ、聖ヶ丘道場がどうなろうと、どう破壊されようと、自分の心を乱
して、憤るようなことがあってはいけない、と思います。「神さまが、きっと一番良いようにして下さる
にちがいない」と信じて、聖跡復旧のことは神さまのご計画にお任せして、私たちは心を乱さず平和な心
で「世界平和の祈り」を祈り続けてゆきましょう。

[お答え2]
実は、森島先生の他にも、五井先生から、霊的なコンタクトを受け、教えの継承を依頼されたということ
を著書に書いている人物がおられます。ここでは、これ以上触れませんが、興味のある方は、次の書籍の
47頁の最後の行をお読みください。白光真宏会会員にとって驚愕すべき事実が書かれています。
[岩根和郎著「今からでも遅くはない 人間やりなおし」(超越思考シリーズ第三巻)献文舎]

[お答え2]
岩根さんについては、昔から知っていますよ。最初は、白光の会員で五井先生を信じていた人ですが、よ
く知りませんが、悟り(?)を開いたようで、白光から離れていった人です。だいぶん前でしたが、白光
の若い人たちの中で、岩根さんを信じて、北海道に行った人が数人いたようです。その頃、白光の若い人
を勧誘する人がいまして、岩根さんの法話らしきビデオを、私も誰かの家で見せてもらった記憶がありま
すが、それを見ても、私には何も感動らしいものはありませんでした。

現在、合気会の北海道支部長をしている合気道師範のAさんも、岩根さんを信じてついて行った一人でし
たが、数年前に聖ヶ丘道場で会ったので、帰りがてら昼食を一緒にして聞いたら、「岩根さんのところを
やめて、再び白光に戻りました」と答えてくれました。岩根さんのところをやめた理由は、何も話しては
くれませんでした。

「霊的なコンタクトによって五井先生の教えの継承を依頼された」と岩根さんはご自分で話しているよう
ですが、現在の岩根さんは「世界平和の祈り」を祈ってはいない、と私は思います。「世界平和の祈り」
を祈らない者が、五井先生の教えの後継者であるわけがありませんから、岩根さんの高慢な想いに同調し
た幽界の生物が、五井先生のふりをして、岩根さんをだましているか、錯覚しているのでしょう。「世界
平和の祈り」を祈っている人ならば、私も一緒に祈りたいとは思いますが、「世界平和の祈り」を祈らな
い人には、興味がありません。私は、岩根さんのその本を読んではおりませんが、「驚嘆すべき事実」と
は気になりますね。ケントさん、その部分を紹介してくださいませんか?


聖ヶ丘道場閉館の「神示」について
No.543 森島恒吉    1999/07/05 (月) 01:26 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[ケントさんのコメント]
No.176の森島先生の書き込み(下記参照)で確かに、「神示により」と書かれています。本当の神示か否
かは分りませんが、森島先生は「本当の神示である」とは思っておられないと思いますが、、、

[お答え]
あのときのニュースは、白光真宏会の発表による記事を、そのまま紹介したものです。もちろん、私とし
ては、聖ヶ丘道場を売却するような行為を、神示とは思っておりません。白光真宏会が、神示として発表
した理由は、多くの会員さんを納得させるためであると、私は思います。神霊側としても、聖ヶ丘道場を
聖地として保存しておきたかったのです。しかし、今となっては、私たちには、どうしようもありません
から、神霊の深いご計画にお任せして、心を乱さず「世界平和の祈り」を祈りましょう。いつか再び、私
たちの手で、新しい「聖ヶ丘道場」を創ろうではありませんか!


五井先生の「結婚問題に失敗した」とは?
No.545 森島恒吉    1999/07/05 (月) 02:09 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[白ウサギさんからの質問]
森島先生、教えて下さい。
「天と地をつなぐ者」の中で、五井先生が「私は過去において結婚問題に失敗した」と書いてあるところ
がありましたが、これはどういうことなのでしょうか??

[お答え]
白ウサギさん、毎日この"PEACE NIFON"を見て下さっているようで、ありがとうございます。白ウサギ
さんは、五井先生のご本を、注意深く読んでいらっしゃって、感心します。それではお答えしましょう。

ご指摘のその箇所を読んで、会員さんによっては、五井先生は過去に一度結婚したことがあり、離婚した
のではないか、とまことしやかに語っている人もいますが、「過去において結婚問題に失敗した経験があ
る」というのは、「一度結婚して別れた」という意味ではなく、「過去において、結婚したいと思って、
おつきあいした女性はいたが、ある事情で結婚するまでには至らなかった」という意味です。

そのお相手の女性のことや、なぜ結婚までにいたらずに別れたのか、というその別れた原因については、
私たちにとっては野次馬的に興味のあるところであり、どうにでも憶測することはできますが、守護の神
霊からいえば、後に五井先生の伴侶としてふさわしい美登里奥さまと結ばせるために、その女性と別れさ
せた、と言えるのです。結婚というのは、本人同志の好き嫌いだけで決まるものではなく、その背後には
守護の神霊の力が働いているものなのです。

ですから、もし仮に、あなたが好きな男性と何かの原因で別れたとしても、メソメソといつまでも泣くこ
とはありませんよ。守護の神霊が、あなたにふさわしい、もっとステキな男性に会わせようと、今の彼と
の恋を壊してしまった、と考えればよいのです。守護霊さまに、いつも感謝していれば、失敗のように見
えるようなことがあっても、それは、より大きな成功のための一段階となっているものなのです。
私は、あなたの幸せをお祈りしております。あなたは、きっとステキな彼と結婚できますよ。

あなたにとってふさわしい彼と結婚できますように
あなたが幸せでありますように
守護霊さま、どうぞお導きください。
守護霊さま、よろしくお願いいたします。


力強い霊的パワーがみなぎってくる統一会の祈り
No.547 森島恒吉    1999/07/05 (月) 04:55 富士宮市
世界人類が平和でありますように

先日、7月3日(土)に開かれた統一会について、少し私の感想を書いておきましょう。
当日の参加者は、唯一会のメンバーと、ニックネームしか知らない氏名不記載のPeace Prayer Familyの
メンバーに、私の知人が加わりまして、私を含めて計7名の参加者がありました。ご多忙の中をご参加下
さった皆様方、ほんとうにありがとうございました。

統一会は、「世界平和の祈り」による統一と、五井先生の著書「天と地をつなぐ者」について私が解説す
る、という内容でしたが、前回(第一回)は、一般の喫茶室の店内でしたから、他のお客様もおられる関
係から、声を出してお祈りすることはできなかったのですが、今回は個室のおかげで、声を出してお祈り
することができて、過去の聖ヶ丘道場の統一会に近いものになりました。午後2時から4時までの二時間
が、あっという間で、お店のほうから「継続しますか?」と内線電話がきたほど、充実した時間が過ごせ
ました。統一会の最後に歌う予定だった「世界平和の祈りの歌」を歌う時間もありませんでした。

ご参加下さった皆さまは、十年以上、二十年以上と、五井先生の教えを長く学ばれている方が多く、また
コータさんのように、五井先生のご本は読んでいても、他の宗教団体や白光の集会に出たことが一度もな
く、初めから唯一会に興味を持っていただいて、ご参加下さった方もいらっしゃいます。私はお一人ずつ
に個人的にお話をしてさしあげたいのですが、時間に限度がありますから、ケントさんやうぶちゃんは、
白光については相当古く詳しいのですから、私の代わりに先輩として、コータさんのような方の面倒を、
よく見てあげてくださいね。

それから、私は前に「3年以内に唯一会の講師をつくりたい」と書いた件で、それに対してコータさんか
ら、「講師になるのかと思うと、気が重いです」とご感想がありました。「3年以内に、五井先生のみ教
えを完全に理解し、人に伝えられるだけの実力を持ってほしい」という意味で、私は申し上げたのです。
統一会に参加した全員を、無理やりに唯一会のメンバーに勧誘したり、唯一会の講師にしたりすることは
致しませんから、ご安心下さい。ご本人の自由な意思を、私は尊重いたします。

ねこりんさんご夫妻のように、"PEACE NIFON"に書き込んだことのないご家族やご友人でも、ご一緒に
「世界平和の祈り」を祈って下さる方がいたら、ご遠慮なくお連れ下さい。なお、今回は、個室の使用料
とドリンク代で、お一人さま千円の出費となりましたが、今後も毎回この程度の費用で、ご参加いただけ
るように努めてゆきたい、と思っております。

先にも書きましたが、次回からは毎月一回ずつの割合で、東京で統一会を開催してゆきたいと思います。
ケントさんに、会場のお手配を頼んでありますが、皆さまの中で、安く借りられる広い会場をご存じの方
は、ケントさんに教えて下さい。

私たちの統一会は、素晴らしい霊的なパワーを授けられます。「世界平和の祈り」をご一緒に祈る時、救
世の大光明が、個人で祈る時よりも数倍も強く輝き、私たちの神性が開発され、世界人類に向かって平和
の波動が強く放射されてゆくのです。個人の運命が、知らないうちに守護の神霊によって良い方向へと修
正されるようにもなります。統一会にご参加されることによって、五井先生の深い慈愛、五井先生の完全
な宗教理論、そして五井先生の優れた神秘力を、私たちは授かるのです。

今回の統一会を終えた後、私は全身全霊に、救世の大光明が満たされ、力強いパワーがみなぎってくるの
を感じました。「みんなで、世界平和の祈りを祈ることは、ほんとうに素晴らしい!」と実感しました。
参加して下さった皆さまも、「世界平和の祈り」を祈って、今までにない深い霊的な充実感、法悦感を、
味わったことでしょう。これこそ「世界平和の祈り」だけを唯一の行として祈った時のパワーなのです。
次回も、私たちの統一会に、より多くの方のご参加を、お待ちしております。ありがとうございました。

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊さま ありがとうございます
守護神さま ありがとうございます
五井先生 ありがとうございます


霊現象に把われず、「世界平和の祈り」を祈れ。
No.549 森島恒吉    1999/07/06 (火) 00:30 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ありがとうございます。
なんでも正直に自分の言いたいことを、お互いに言えて、それでいて仲がよい、という親友がいるのは、
ありがたいですね。ケントさんのご親友の天命が完うされますように。

会場の使用料の余った分については、ご面倒をおかけしますが、ケントさんが預かっておいて、次回に回
して下さい。統一会の開催日の天候によっては、台風の日や雪の日のように人数が少なくて、赤字になる
こともあるかもしれませんから、その日のためにとっておいてください。

岩根さんは「大宗教家五井昌久師が亡くなられたその数時間後に、師ははるか数100キロ離れた私の前に
突然現れ、私にご自身の跡継ぎを依頼されたことがありましたが、その当時の私が、その依頼をどうして
も素直に受け入れられなかった」と本に書いているそうですが、岩根さんの所に現れた五井先生は、ほん
ものの五井先生ではありません。子供のおつかいじゃあるまいし、たとえ岩根さんが優秀な宗教指導者で
あったとしても、「依頼を受け入れられない」ということを、神が予見できないはずがありません。

岩根さんは、五井先生のことを「大宗教家」と持ち上げて見せながら、「自分はその大宗教家である五井
先生の依頼をも断るほど偉いのだ」と、暗に「五井先生よりも自分のほうが偉いのだ」と人に見せている
のです。「自分を五井先生よりも偉く見せたい」という自分の強い欲望が、「五井先生が自分の前に現れ
て、跡継ぎを依頼された」というような幻覚を感じさせたのです。

強い自信を持ち、五井先生をも見下ろすような態度をとっている宗教指導者は、いかにも偉そうに見えま
すから、その自信ある態度にひかれていく人々がいるのですが、しょせん「自分を偉く見せたい」という
欲望に動かされているにすぎないのですから、その指導者に従う人々も、真に立派な人格を得ることはで
きないのです。真実に悟っていないで、悟ったふりをしている指導者は、必ずどこかに嘘があるもので、
誰でも心を澄ましていれば、不正直な嘘くさい匂いが、直感的に感じとれるはずなのです。

岩根さんのほかにも、五井先生の真似をしている宗教指導者はいますが、五井先生の教えと、どこかが違
っているものです。五井先生と同じ心境にならないと、どんなに五井先生の物真似をしようと、五井先生
と同じように教えを説くことはできないようになっているのです。五井先生の物真似をしながら、それで
いて「自分は五井先生の教えよりも、すぐれた教えを説いているのだ」と自分を偉く見せて、五井先生の
中心の教えである「世界平和の祈り」を、なんやかやと理屈をつけて祈ろうとしないのです。

「世界人類が平和でありますように」と祈らない偽宗教者には、私は興味はありません。現代において、
「世界人類が平和でありますように」と祈らない宗教者は、本物の宗教者とはいえないのです。神霊の姿
が見えるとか、神霊の声を聴くことができる、というような不思議な霊能力があるというだけで、その宗
教指導者を「正しい」と信じてはいけないのです。「世界人類が平和でありますように」という祈り以上
に、霊性を開発できる良い方法などというものは、決して存在しないのです。今後も「我は神なり」とか
「我は五井先生なり」と宣伝する偽宗教者が次々と現れるでしょうが、一度すべてを消えてゆく姿である
と思って、霊視霊聴や霊現象に把われず、「世界平和の祈り」の中に入りこんでいることです。

世界人類が平和でありますように
世界人類が平和でありますように
世界人類が平和でありますように

このように「世界平和の祈り」に徹した人こそ、五井先生のお心を理解した、五井先生の真の後継者であ
るのです。五井先生の後継者とは、一人だけではありません。人類すべてが、五井先生の教えの後継者と
ならねばなりませんし、人類すべてが「世界平和の祈り」の後継者とならねばなりません。自分一人を尊
しとする、思い上がった宗教者は、いずれ誰にも相手にされなくなり、消えてゆく運命であるのです。


唯一会会員と"Peace Prayer Family"の違いについて
No.555 森島恒吉    1999/07/07 (水) 02:50 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ねこりんさん、ありがとうございます。

[ご質問1]
Peace Prayer Familyと唯一会の会員の一番本質的な差というのは、何なのでしょうか?

[お答え1]
唯一会の会員とは、「世界平和の祈りは最高の祈りであると信じ、世界平和の祈りを唯一の行とする」と
いう主旨に賛同し、氏名、住所、生年月日、電話番号などの個人的データが、登録された方をさします。
但し現在は、会費はなく、会員証も発行しておりません。

それに対して、"Peace Prayer Family"とは、インターネット上のニックネームとメールアドレスだけ
が登録され、氏名、住所、生年月日、電話番号などの個人データは不要で、「世界平和の祈り」を私たち
と一緒に祈って下さっているメンバーのことです。現在も今後も会費をいただくつもりはありません。
いずれも、いつでも自由に入会、退会ができます。

お尋ねのPeace Prayer Familyと唯一会の会員の「一番本質的な差」とは、"Peace Prayer Family"
は、「世界平和の祈り」を合言葉にして集まった家族のような一員であるのに対して、唯一会の会員は、
私の正式な弟子となり、唯一会の維持発展のために尽くす意思を持った方のことです。

たとえば、唯一会の集会である「統一会」のお誘いは、"Peace Prayer Family"にもお知らせしており
ますが、私自身のごく個人的な「五井先生のお墓参り」は、唯一会の会員だけにお知らせしています。

正直申しまして、本名も住所も隠したままの相手に対して、私は生命をかけて五井先生の教えを伝え指導
する気持ちにはなれません。また、学ぶ側からすれば、真実に道を学びたい気持ちがあれば、自分の素性
を師に明らかにするのが、これは当然の礼儀ではないでしょうか。しかし、私という人間を知らないで、
私と一度も会ったことがないのに、インターネットの唯一会の記事だけを読んで、私の弟子になるという
方は、よほど直観力のすぐれた方であって滅多にはいませんし、多少不安もあることでしょう。

ですから、最初の段階として"Peace Prayer Family"に入ってみて、統一会で私に直接会ったり、統一
会の雰囲気を知って、ご自分の宗教信念にピッタリと合っていると感じ、もっと深く私に接して学びたい
と思ったら、唯一会の会員として登録されればいいですし、「まだ、よくわからない」と思ったら、しば
らくそのままでいて、慎重にお考えになってから結論を出したらよろしいと思います。

【参照/唯一会の将来の方針について】
現在の唯一会は、白光真宏会の会員有志を中心にした同好会のようなグループですが、将来は白光真宏会
とは別に、唯一会が新しい宗教法人として独立し、経済的に維持運営してゆくための会費をいただくよう
になるかもしれません。「南無阿弥陀仏」や「主の祈り」のように、同じ祈り言でも別の宗教法人が認可
されているように、「世界平和の祈り」と「教義」は白光真宏会と共通していても、現在の白光真宏会の
ほとんどを占めている、昌美先生の教義は実践してはいないのですから、別の宗教法人として設立できる
はずです。しかし、白光真宏会が、元のように五井先生の教え一色に戻り、白光真宏会と唯一会が自然に
同化してゆき調和するならば、唯一会を宗教法人化する必要もなくなります。そこで「世界平和の祈り」
を祈り続けてゆく、という唯一会の目的は確固としておりますが、会の形態としては、その時々の状態に
応じて、水の動きのように臨機応変に対処してゆきたいと思います。

[ご質問2]
森島先生に、いくつかのパターンのお祈りの仕方を教えていただきましたが、

神さま、お願いします。
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様、ありがとうございます
守護神様、ありがとうございます
五井先生、ありがとうございます

というかたちが、私には一番しっくりくるのですが、それでもいいでしょうか。

[お答え2]
ねこりんさんがお選びになった「お祈りのパターン」は、五井先生がご法話の中で度々教えて下さってい
る基本的な正しい祈り方のパターンで、もちろん結構です。「神さま、お願いします」という祈り言は、
短くシンプルですけれど、もうこれだけで個人的な救われとしては充分なんですね。ねこりんさんは、幸
いに五井先生の教えの核心を、しっかりとつかみましたね。後は実行あるのみです。おめでとう!


霊性開発試験問題「神と人間」編
No.556 森島恒吉    1999/07/07 (水) 06:17 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ケントさんから、「課題がほしい」とご希望がありましたので「神と人間」の試験問題を作成しました。
「神と人間」を読めば、答えが書いてありますが、まずご自分の頭でじっくりと考えて、紙にお答えを書
いて下さい。その後、「神と人間」を再び読んで、答えを探して、正しい答えを紙に書いて下さい。
すべて正しく解答できれば、100点となります。自己採点をして下さい。自分の霊性段階がわかります。

【神と人間】霊性開発試験問題

Q1.覚者(かくしゃ)とは、どんな人か?                       (3点)

Q2.「人間は因縁因果の世界から抜けきれぬ」と説く宗教家がいるが、その教えは正しいか?(3点)

Q3.「各分霊だけの力で業の因縁を越えることはできる」という教えは正しいか?     (3点)

Q4.「人間の世界は思う通りになる世界である」「悪を想えば悪を生じ、善を想えば善を生ず」という
念の法則、心の法則の教えには、どのような欠陥があるか?                (3点)

Q5.「その人の想念のままの環境が現象に現れる」という業因縁の法則は、一回の肉体世界だけの想念
をいうのか? それとも、何年間くらいの以前の想念の蓄積が、果となって現れてくるのか? (3点)

………………………………………………………………………………………………………

Q6.「心の法則を知れば、守護霊に頼る必要は無い」と説く宗教家がいるが、その教えは正しいか?
                                           (3点)
Q7.守護霊の生前の氏名を知って、その名前で呼んでくれるほうが、守護霊にとって働きやすいか?
                                           (3点)
Q8.守護霊にとって、一番働きやすく守りやすい肉体人間とは、どんな心の状態の人間か? (3点)

Q9.守護霊にとって、守りにくくて仕方がない肉体人間とは、どんな心の状態の人間か?  (3点)

Q10.守護霊が被守護体の人間を守る場合、他の人に送念して、他の人からの注意や、助太刀をしてもら
うことがあるのか? それとも、他人に頼らせず、あくまでも自力だけで運命を開かせるのか?(3点)

………………………………………………………………………………………………………

Q11.人間が、自己の運命を改善し、幸福になりたいとするならば、どうすればよいのか?  (3点)
                                           
Q12.神への全託とは、どうすることなのか?                      (3点)

Q13.もし迷う事柄があったら、どのように解決したらよいか?              (3点)

Q14.人間の病気や不幸などの苦しみは、永遠に存在し、続いてゆくものなのか?      (3点)

Q15.「肉体は仮相(かそう)であって、実相(じっそう)ではない」という肉体生活の利害を無視した
教えで、一般大衆は救われるだろうか?                         (3点)

………………………………………………………………………………………………………

Q16.肉体界において、守護霊、守護神の助けがあるように、幽界においても、守護霊、守護神のお導き
があるのだろうか?                                  (3点)

Q17.幽界の生物は、どんな心境の人間に対して、「我は何々の神であるぞ」と現れて、種々と肉体世界
の出来事の予言をするのか?                              (3点)

Q18.幽界の生物につかれた教祖や宗教家は、どんな態度をとったり、話し方をするか?   (3点)

Q19.幽界の生物にとって、肉体を自由に使いにくい人とは、どんな人であるか?      (3点)

Q20.「自己の内に神があるのだから、他の誰の教えを受けなくとも良いのだ」の教えは、正しいか?
                                           (3点)
………………………………………………………………………………………………………

Q21.「内部の神性とは、常に守護霊、守護神を含めたものである」という教えは、正しいか?(3点)

Q22.因縁因果の法則は、想念の法則、心の法則、業因縁の法則、業生の法則と同じ意味か? (3点)

Q23.「真理の眼玉よ降りて来い、おまえがあんまり高すぎるから、世の中は暗いのだ」という詩を五井
先生は紹介しているが、五井先生はこの詩を通して何を訴えたいのか?           (3点)

Q24.神はすでにその人その人に対して天命を授けているのか、それとも私たちは自己の意思力で神示を
降ろすべきなのか?                                  (3点)

Q25.我(が)の祈りや欲望願望の念力は、どんな霊魂に感応しやすいか?         (3点)

………………………………………………………………………………………………………

Q26.不安の心多き人、暗い心の人たちは、どんなことを実行したらよいか?        (3点)
 
Q27.次の祈りに関する記述のうち、正しい宗教観のほうに○を記しなさい。        (3点)

[  ]ア…祈りとは、まず自分の心を空っぽにすることである。それまでの自分をひとまず捨てて、神
      だけを自分の心に住まわせることである。願いごとは、すべて後回しにすることである。神
      だけを自己に住まわせれば、その人に必要な願いごとは、すべて叶うのである。

[  ]イ…祈りとは、まず自分の心に願望をイメージすることである。それまでの自己限定の想いを捨
      てて、自分は無限の力を持った神であると宣言するのである。紙に自分のすべての願望を書
      き出して、私はできる、私はやる、私はやってみせる、私はすでに成功したのだ、とイメー
      ジすることによって、自分の願い事は叶えられるのである。

Q28.次の守護霊に関する記述のうち、正しい宗教観のほうに○を記しなさい。       (3点)

[  ]ア…守護霊に祈っても、守護霊は沈黙していて、何も答えてはくれないし、導いてもくれない。
      自分の人生は、守護霊に頼らず、自分で努力してゆくしかないのだ。

[  ]イ…守護霊に祈れば、必ずなんらかの方法で、その人の問いに答え、あるいは導いてくれるので
      守護霊の注意や指導に素直にしていれば、必ず人間の道を全うする。

Q29.神我一体の境地に入る一番の早道とは、どんな方法か?               (4点)

Q30.次の五井先生の文を読んで、?@〜?Eの空白欄に、ア〜コから適当な言葉を選んでうめなさい。
                                      (各2点×6計12点)
今日の世界は、もはや?@□□の人々の動きでは、どうにもならぬ時代となってきているのです。どうして
も、多くの?A□□の力が必要になってくるのです。?A□□の力を総動員できる、?B□□なる、世界平和実
現の道が、どうしても、なければならないのです。なんらの?C□□を伴わずに、やさしく入れる世界平和
への道が、絶対に必要になってくるのであります。自他の利害を区別せず、自然に?D□□□□□が確立で
きる方法、その方法が必要なのです。それが?E□□□□の祈りなのです。個人の生活が平和になると共に
人類世界の平和達成に大きな役割を果たす、?E□□□□の祈りこそ、現在世界中において、最も必要な善
事であろうと思います。

(ア)究極の真理(イ)容易   (ウ)世界平和 (エ)大衆   (オ)神人
(カ)我は神也 (キ)少数   (ク)苦労   (ケ)普通   (コ)自他一体観      

?@(  )?A(  )?B(  )?C(  )?D(  )?E(  ) <試験問題/「神と人間」編 完>
………………………………………………………………………………………………………


ケントさん、百点満点ですよ(^_^)
No.558 森島恒吉    1999/07/07 (水) 19:39 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ケントさんは、もう、問題を解いてしまったんですね。速いなあ。ケントさんのお答えは、すべて正しい
ですよ。ケントさんは、もともと五井先生のみ教えを深く知っていた方ですから、龍を描いて最後にひと
みをかき加えたら天に昇って行った、という画龍点睛(がりょうてんせい・睛の字はJIS第2水準)の故
事のように、「五井先生の世界平和の祈りは最高の祈りなんだ」という一言を、私に教えられたことによ
って、五井先生のみ教えについて、はっきりと確信が持てるようになったんですね。素晴らしいですね。
ケントさんに、百点満点をあげましょう。おめでとうございます!

ケントさんが立派にお答え下さったので、蛇足になりますけれど、皆さんのために、模範解答とは別に、
少し解説を補っておきましょう。

Q19.幽界の生物にとって、肉体を自由に使いにくい人とは、どんな人であるか?

A.幽界の生物は、「批判力の強い人」を使いにくいのです。教祖や指導者の言うとおり、何も判断力を
使わずに、何も疑わずに、うのみに信じるタイプの人は、幽界の生物にとって、自由にあやつりやすいの
です。いいかえると、幽界の生物につかれた教祖や指導者は、やたらに「私の教えを疑うな、疑ってはい
けない!」とやたらに説くものなのです。霊性が開発されてくると、正しい批判力も自然に備わってくる
もので、常識的な批判力を失わせるような宗教は、誤れる宗教といえます。

Q22.因縁因果の法則は、想念の法則、心の法則、業因縁の法則、業生の法則と同じ意味か? 

A.ケントさんは、言葉のニュアンスの違いまで細かく解説されていますが、そこまで深く考えなくても
いいんです。五井先生は、ご自分でこのような種々の表現をお使いになっていますが、結局は同じ意味と
理解して良いのです。因縁因果は仏教的な表現であり、心の法則や想念の法則は現代的な表現ですが、同
じ三界の法則を、別の言い方で言ったにすぎません。
なぜ、この問題を出したかというと、昌美先生が「心の法則」(想念の法則)という言葉を、最近頻繁に
お使いになるようになったんですね。それで、「心の法則は、宇宙の法則である」というように絶対的な
法則であリ、心の法則は絶対に超えられない、と説いているのですが、心の法則とは、因縁因果の法則と
同じであり、三界の輪廻の世界での法則でありまして、この心の法則の世界を超えるために、宗教がある
のです。昌美先生は、「心の法則」を絶対視するあまり、「心の法則」を超越できることを知らず、超越
するために宗教があり、お祈りがあることをご存じないのです。ですから、昌美先生は、「心の法則論」
をいつまでも捨て去ることができないのです。

Q23.「真理の眼玉よ降りて来い、おまえがあんまり高すぎるから、世の中は暗いのだ」という詩を五井
先生は紹介しているが、五井先生はこの詩を通して何を訴えたいのか?

A.真理の言葉を説いても、聴く人の心が、その真理の言葉に遠い境界にあったり、空腹に喘いでいる人
に高遠な理想を説いても、ほとんど効果はない、と五井先生は訴えたいのです。さらに具体的にいえば、
「私は神である」「あなたは神である」「人類は神である」と高い真理の言葉を説いても、ほとんど効果
はないし、この教えでは、人類を救うことはできない、と五井先生は教えてくださっているのです。その
後は、ケントさんのようなお答えでよろしいのです。

以上で、もう補うことはありませんね。また、ケントさんのために課題を考えようかしら。(^_^;)
うん、それではケントさんのために、新しい課題をあげましょう。

【課題】
「神と人間」の中で、五井先生が書いている対話形の祈り言を、すべて書き出して並べなさい。


宣命の祈りと奏上の祈り
No.570 森島恒吉    1999/07/08 (木) 22:49 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ありがとうございます。ケントさんほどの人が、どうして、見つけられなかったんだろう、
おかしいなあ。「神と人間」のP54にありますよ。ほかに、P102にも祈りといえる言葉があります。
それらすべてをまとめると、次のようになります。(^_^)

[「神と人間」に出てくる祈り言]

・守護霊さん、ありがとうございます。
・守護神さん、ありがとうございます。
・神さま、ありがとうございます。
・神様、どうぞ、社会人類のために、私のいのちをおつかい下さい。私に授けられた私の使命を一日も早
 くなさしめ給え。
・神様、どうぞ私の心に愛を充実せしめ給え、どうぞ、私を愛深い私にならしめ給え。
・人類平和、人類繁栄のために、自国が、自国の本質を発揮して、立派な働きができるように。

以上の祈り言だけが、白光真宏会創立当初の基本的な祈り言であったのです。「神と人間」が著作された
時代は、まだ「世界平和の祈り」が生まれていなかったことがわかります。「神と人間」に書かれている
祈り言は、先日ケントさんが書き出してくれた「愛の祈り」と、この「守護霊、守護神への感謝の祈り」
だけであったのです。それだけ、五井先生の祈り言の基本がわかります。

「天と地をつなぐ者」の自叙伝には、「生長の家」という名称が出てきて、「生長の家」の教えの欠陥を
明確に指摘しておりますが、この「神と人間」には、「生長の家」の教えについての批判は出てくるもの
の、「生長の家」という名前が、本文には一言も出てまいりません。この本は、神と人間についての詳し
い関係が述べられているのが特色です。

なお、「対話形の祈り」というのは、神さまを対話の相手として祈る形式をいい、「私は神の子である」
という宣言する祈りの形式を、「宣言形の祈り」と私は名付けました。「宣言形の祈り」は、五井先生の
説かれている「生命の宣言」のことですが、但しこの祈りは自然に出てくる祈り言であって、ことさら唱
える行為ではありませんから、五井先生も私も、それを唱えるようには教えてはいないのです。

日本古代の祈り言には、詳しく言いますと、「宣命体の祈り」と「奏上体の祈り」の両方があるのです。
宣命(せんみょう)とは、天皇が国民にあてた命令であり、奏上(そうじょう)とは国民から天皇に申し
上げることです。それと同様に、神が人間に与えた命令、たとえば「世界よ、平和であれ」という祈りは
宣命の祈りといい、人間が神に向かって申し上げる「世界人類が平和でありますように」という祈りを、
奏上の祈りというのです。

宣命体と奏上体の二つの表現を、現代的にわかりやすくして、私は「宣言形の祈り」と「対話形の祈り」
と名付けたのです。このように祈り言には、二つの形体があることを知っておきますと、五井先生の法話
を読んでいるときにも、「ああ、五井先生がここで説いている祈りとは、宣命の祈りのことを意味してい
るんだな」と混乱しないで読むことができるのです。私たちは、肉体を持った人間ですから、奏上体の祈
りである「世界人類が平和でありますように」という祈り言だけに、心を統一していればよいわけです。


大きく強く声に出して祈ると、業が吹っ飛んでゆく。
No.574 森島恒吉    1999/07/09 (金) 16:23 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ありがとうございます。
ケントさんが、祈る時の声の大きさについて、五井先生の講話を紹介して下さいましたが、最近の白光誌
7月号(といっても、実際の記録は昭和38年3月25日です)の講話では、「世界人類が平和でありますよ
うに、と大きく強く言えば、業のほうは吹っ飛んでしまいます」とあります。それも合わせて紹介してお
きましょう。私たちが時々困惑するのは、五井先生の二つの矛盾したような発言があるからで、片方しか
聞いていないと、それだけに把われて、かたくなになってしまいますから、こうして二つ並べておくと、
「ああ、なるほど、つまり五井先生は、その時その場に合わせて自由にやってよい、とおっしゃっている
のだな」とわかってきます。この講話の前は、声に唱えず、心の中で、「世界平和の祈り」を祈っていた
時代で、この講話を境にして、現在のように統一の前に、声を出して祈るようになったのです。

【五井先生の講話】(昭和38年3月25日)/白光誌1999年7月号

祈りにくい時、なかなか祈りが出てこない時は、ことばで祈ったほうがいい。声に出して「世界人類が平
和でありますように」と言えば、声につられて、自分が燃え上がってきます。声に出してもいいと思う。
声に出しても恥ずかしくない時代です。内緒でこちょこちょやらなくても、「世界人類が平和であります
ように」と声に出して唱名してもいい時代です。業想念などが来ている時に、祈りができないことがある
んですよ。そういう時には、それを吹っ飛ばすために、「世界人類が平和でありますように」と大きく強
く言えば、業のほうは吹っ飛んでいきますよ。


世界に大きく愛を広げよう
No.576 森島恒吉    1999/07/09 (金) 21:04 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ありがとうございます。
自分の幸福だけに眼を向けるのでなく、世界の困窮した人々の生活に想いを広げることは、愛の働きであ
り、具体的にどうしたら救えるか、と考えることは大事なことです。そうした話題をテーマにして話し合
うことは、世界平和運動をしている私たちにとって、ふさわしいことでもあります。
ぜひ、皆さんでそうしたテーマについて語り合って下さい。私も楽しみにしております。


他力易行道6.阿弥陀仏・観世音菩薩・大勢至菩薩
No.578 森島恒吉    1999/07/10 (土) 05:21 富士宮市
世界人類が平和でありますように

観無量寿経から、つづけて釈尊のお言葉を書き出してみましょう。経典そのままではなく、必要なところ
だけを抜き出しております。また、読み方は、仏典独特の読み方に準じておりますので、ご了承下さい。
釈尊は、ここで西方を観想することを勧めています。

☆仏、告げたもう「汝および衆生、まさに、専心に、念を一処(いっしょ)に繋(か)けて、西方(さい
ほう)を想うべし」

釈尊は、阿弥陀仏の極楽浄土を「西方」と位置づけて説いております。なぜ、西の方角なのでしょうか。
なぜ、西の方角に定めたのかは、経典にはその理由が書かれてはおりません。五井先生は、その点を、
「浄土を観想するのに、一つの方向を定めておいたほうが、観想しやすかったからで、特別に西でなくと
も、東でも北でも南でもよかったのです」と大胆な解説をされています。

「西におられる阿弥陀仏を拝む」という教えが、仏像を家屋の室内の西側に置いて、人間が西側に向かっ
て拝む、という習慣になり、仏像の顔が東を向くようになったのですが、仏像の立場に立ちますと、東側
に窓があれば、毎朝、生命エネルギーをいっぱい蓄えた朝日を眺めることができて、仏像を拝む人を守護
するパワーが強くなりますから、阿弥陀仏の住む方角を西方に定めたのは、何の意味もなく定めたわけで
はなく、やはり深い意味のあることではないか、と私は思っております。

次に、釈尊が無量寿仏(阿弥陀仏)の霊体について述べている箇所を読んでみましょう。

☆仏告げたもう「無量寿仏の身、百千万億の夜摩天(やまてん)の閻浮檀金(えんぶだごん)の色のごと
し。仏身の高さ、六十万億那由他(なゆた)、恒河沙由旬(ごうがしゃゆじゅん)なり。眉間(みけん)
の白毫(びゃくごう)、右に旋(めぐ)りて婉転(えんでん)し、(大いさ)五つの須弥山(しゅみせ
ん)のごとし。仏眼(ぶつげん)、四大海水のごとく、青白分明(しょうびゃくふんみょう)なり。
身、もろもろの毛孔(もうく)より、光明を演出し、(大いさ)須弥山(しゅみせん)のごとし。かの仏
の円光、(広さ)百億の三千大千世界のごとし。(その)円光の中において、百万億(のく)那由他(な
ゆた)、恒河沙(ごうがしゃ)の化仏(けぶつ)あり。一々の化仏(けぶつ)にも、また衆多・無数の化
菩薩(けぼさつ)ありて、侍者(じしゃ)とす。
(また)無量寿仏、八万四千の相(そう)あり。一々の相(そう)、おのおの八万四千の随形好(ずいぎ
ょうこう)あり。一々の好(こう)、また八万四千の光明あり。一々の光明、あまねく十方世界(じっぽ
うせかい)を照らし、念仏(ねんぶつ)の衆生(しゅじょう)、摂取(せっしゅ)して捨てたまわず。」

ここでは阿弥陀仏の霊体の大きさや姿を説いているのですが、阿弥陀仏の霊体は、想像を絶する程とてつ
もなく大きく、その円光もまた、無限に広く光り輝きわたっている、というのです。霊体とは、光明をあ
まねく照らす存在であることが、昔から知られていたことが読みとれます。

そして、そんな頼もしい阿弥陀仏が、念仏を唱える人々を、一人残らず救いとって下さるのだから、安心
しなさい、と説いているのです。「念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」という一文は、衆生に非常に安
心感を与え、衆生の信仰心を力づけるありがたい言葉です。「南無阿弥陀仏」と唱える人々は、必ず阿弥
陀仏によって救われるのです。その約束が、ここに明記されているのです。

「光明遍照(こうみょうへんじょう)」という五井先生の書がありますが、それはこの経典の「光明あま
ねく十方世界を照らす」という箇所からとった言葉なのです。
「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨(せっしゅふしゃ)…」
 阿弥陀仏の明るい大光明が心に深くひびいてくる、味わい深い、じつに良い言葉です。

この後に、釈尊は、阿弥陀仏の左右で脇侍として働かれている観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)と大勢至
菩薩(だいせいしぼさつ)の二菩薩について、説いています。観世音菩薩については、「妙法蓮華経(み
ょうほうれんげきょう)観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)普門品偈(ふもんぼんげ)」に詳しい働きが載
っていますが、観無量寿経では、釈尊は観世音菩薩について、簡単にこう説かれています。

☆「もろもろの禍(わざわい)に遇(あ)わず、業障(ごつしょう)を浄除し、無数劫(むすうこう)の
生死(しょうじ)の罪を除かん。かくのごときの菩薩、ただその名を聞くすら、無量の福を獲(う)」

観世音菩薩の名を唱えれば、すべての災禍を未然に免れるし、自己の周囲の霊障が浄まり、過去世からの
長い輪廻の間におかした罪さえも消え去る、というのです。さらに観世音菩薩という名を、自分で唱えず
とも、他人から聞いただけでも、はかりしれない無限の幸福を得ることができる、というのですから、観
世音菩薩の霊力は驚嘆すべきもので、昔から観世音菩薩への信仰者が多かったのも、うなずけます。

阿弥陀仏の一方の脇侍である大勢至菩薩については、このように釈尊は説かれています。

☆「この菩薩の身量・大小、また観世音のごとし。…挙身(こしん)の光明、十方の国を照らすに、紫金
色(しこんじき)をなす。有縁(うえん)の衆生(しゅじょう)、みな、ことごとく(これを)見ること
を得(う)。(またさらに)ただ、この菩薩の一毛孔(いちもうく)の光を見れば、すなわち、十方無量
の諸仏の浄妙の光明を見る。このゆえに、この菩薩を号して、『無辺光(むへんこう)』と名づく。(ま
た)智慧の光をもって、あまねく一切を照らし、三塗(さんず)を離れしむるに、無上力を得(え)たま
えり。このゆえに、この菩薩を号して、『大勢至』(だいせいし)と名づく。」

三塗(さんず)は、三途(さんず)とも書き、地獄は、猛火に焼かれる処だから火途(かず)、餓鬼は
刀・杖で迫害される処だから刀途(とうず)、畜生道は互いに食む処だから血途(けつず)といい、この
三つを合わせた三悪道(さんまくどう)の意味です。この菩薩は、光明や智慧を具え、それによって衆生
を地獄から救い出し、衆生救済の大勢力を発揮する菩薩の意味から、大勢至菩薩と呼ばれているのです。
                                          (つづく)


あなたの心が愛の光で輝いていますように
No.582 森島恒吉    1999/07/12 (月) 06:10 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ありがとうございます。
ケントさんを見ていると、本人も言っているように、友人を相手にしても、どうも小さなことでムカッと
きたり、腹を立てているようですね。なんとかその性癖を直さないと、せっかくの友人との人間関係も、
こわれるかれしれないし、将来、大きな働きができなくなってしまいますが、充分に自己反省していて、
お祈りしているようですから、ケントさんの性格は、これからきっと良くなってゆくことでしょう。

今の日本は、戦争をしていないのですから、一般には平和と言われていますけれど、ミリタリーバランス
の上で成り立っている危ういもので、真実に平和な日本になった、とは言えるものではありません。戦争
が無いだけでなく、病気や貧困や争いが一切無く、すべての人が安心して暮らせるのが真実の平和である
のですから、現在の日本は、まだまだ平和になっているとは言えません。

かといって、友人との酒の席で、「日本は平和だ〜」と友人がしみじみと言ったからといって、ムカっと
腹を立てて怒ってしまっては、自分が平和を乱してしまうことになるのですから、そのくらいのことで怒
ったりしてはいけないんですね。ケントさんの友人の場合は、心の広い人で、ケントさんの主張を聞いて
くれたようですし、ケントさんも、また友人の天命の完うを祈ったようですから、仲が悪くならずにすん
でよかったですね。

五井先生の教えを学び、真実のことがわかってくるにしたがって、ともすると真実を知らない他人を見る
と、愚かしく見えてきたり、「なんで、こんなことがわからないのか!」と怒りたくなってしまいます。
しかし、そこが大事なところで、「平和な心が平和な世界を創るのだ」と思って、自分の心を乱さないよ
うに、守護の神霊に、自分の乱れる想いを放り込んでしまわねばなりません。

友人が「日本は平和だなあ」と言ったら、「そうだね。日本は平和だね」と、まずあいづちをうっておい
て、「でも、外国を見ると、まだ戦争をしている国があったり、病気や貧困で苦しんでいる国がたくさん
あるから、できたら、あなたも世界の平和を一緒に祈ってくれよ」と軽く答えればいいのです。それを短
気になって、怒ってしまって、「ケントさんは、いつも世界平和の祈りを祈っているらしいけど、あいつ
の心は、少しも平和になっていないな。あいつはいつも怒っているから、世界平和の祈りも、大して役に
立たないのだろう」と友人に思われたら、よけい悔しいことでしょう。

「世界平和の祈り」を私たちが広めてゆこうとする先には、幾多の屈辱的な発言を浴びせられたり、侮辱
を受けることがあるかもしれません。それらの業想念の動きに対して、少しでも怒ってしまったら、私た
ちの負けなのです。どんな言葉を言われても、自分の心を乱してはいけません。そのためには、守護の神
霊のみ心の中に、「守護霊様、愛深い私でありますように」という祈り言によって、深く入りこんでいな
くてはなりません。ちょっとでも、祈りにスキがあると、グラグラッと業想念に乱されてしまうのです。

ケントさんのように、古い会員さんの場合は、もうすでに、五井先生の教えの理論は、かなりわかってき
ているのですから、あとは、日常生活の中で、五井先生の教えを常に実行することにかかっています。
五井先生の教えとは、愛と感謝を実行することですから、業想念の波に自分の想いをさらわさそうになっ
たら、すかさず、「世界平和の祈り」を実行し、愛と感謝のひびきの中に入るようにすることです。これ
も練習ですから、ケントさんも、いつしか腹を立てない愛深い人になってゆくに違いありません。

皆さんの心が、いつも明るい愛の光で輝いていますように


人に好かれる話し方
No.586 森島恒吉    1999/07/13 (火) 03:41 富士宮市
[人に好かれる話し方]

1.相手の立場に身を置く。

従順に相手の言葉を拝聴し、「よくわかりました。要するに、あなたのお考えは、要約しますと、つぎの
ようなことになると思えるのですが…」とこう言いながら、その中に自説を織りこめばいい。

2.他人の悪口を言わない。

「他人の悪口を言うことによって、自分自身の品位を落としているのだ」ということを、はっきりと知る
べきである。「書いて署名できないことは、人にしゃべるな」

3.相手の魅力的なところをほめる。

たとえば、「ケントさんの五井先生を尊敬する態度は、立派だね」とほめる。(^_^)

4.主張をせずに、あなたの考えを巧みな質問の形に変えて、相手の意見を尋ねる。

「あなたのご意見は、いかがでしょうか?」と尋ねる。

5.相手の自尊心を尊ぶ。

「あなたほどの方ならば、この事については、よくご存じでしょうが…」といった言い方をする。

6.相手の成果をたたえる。

相手が成果をあげたら、ほんの小さなことでも、相手をたたえることだ。

7.あなたと一緒にいる相手に、全然緊張させないような、心安らぐ人間になる。

そのためには、あなたの心が、いつも穏やかで安らいでいなくてはならない。

8.微笑みとユーモアのある人間になるように心がける。

相手に会ったときは、必ず微笑むことだ。ユーモアは、相手の警戒心をほぐし安心感を与える。

9.自分も完全な人間ではなく、欠点の多い、間違う人間である、と相手に知らせること。

「私は、こう思うんだけど、間違っているかもしれない…」と言うこと。そうすると、相手はあなたの意
見をそのまま受け入れて、あなたを説得しようとかかるだろう。「これはきっと、私どもの間違いかと思
いますが…」と相手の気持ちをほぐしておいてから、自分の立場を説明する。
五井先生でさえ、「私は、よく間違えます」とおっしゃっているのだ。

10.批判の目的は、相手をやっつけることではなく、相手を生かすことにある。

批判しなければならないときは、批判のほんとうの目的は、相手をやっつけることではなく、相手をより
立派な人にしてやることであり、相手の運命をより良くしてあげることである、と思うこと。

11.イエス・バット(Yes,But)法

「はい、その点につきましては、いかにもおっしゃるとおりですが、しかし、こういった見方もできるの
ではないでしょうか?」と、相手の意見に理解を示した後で、自分の意見をさりげなく述べる。

12.失敗を責めず、失敗を直してやる。

他人の失敗を見たら、責めたり、あざ笑ったりせずに、失敗を直してあげようと助けてあげることだ。

13.相手の苦情を吐き出させること。

「なるほど」「おっしゃるとおりで…」「ごもっとも」という合いの手を、時々入れること。たとえば、
昌美先生を信じている人が、「世界平和の祈り」一念の私たちの生き方に、意見を言ってきたら、その人
たちの意見を、全部吐き出させてあげればよい。"PEACE NIFON"に、その人たちの意見を記録しておい
てあげれば、同じ意見は、二度と来なくなる。

14.細かいことは、相手に譲ってやること。しかし、ポイントとなるところは、決して譲らないことであ
る。あなたが、ほんとうに「イエス」を得たいのは、この大きな一点だけなのである。

「お考えは、みな、ごもっともです」と相手に譲ったあとで、「私も、それをする別なやり方を考えてみ
ました。これをどうお考えですか?」と、あなたのたった一つのプランを話すことだ。

15.第三者の考えとして、あなたの考えを話すのもよいし、有名人を引合いに出して、その人の言葉とし
て、あなたの考えを話す、という手もある。

私は、昌美先生の教えの誤りを指摘する場合、たびたび、自分の考えを五井先生の言葉として話している
が、それは昌美先生の自尊心を傷つけたくない、という配慮からである。

16.それが相手の利益になることを示さなければならない。

「世界平和の祈り」を勧める時には、それが相手にとって、どんな利益があるのかを話すべきだ。

17.相手に賛成して、共通のつながりをつくる。

相手と自分との間に共通のつながりをつくる。たとえば、こんな具合に賛成すればよい。

「私は五井先生の教えが好きなんです」
「私もですよ」
「私は世界平和の祈りが好きなんです」
「私もですよ」
「私は東京に住んでいるんです」
「私もですよ」

自分を賛成してくれる人を、私たちは好きになる。自分に反対する人は、好まない。どんな小さいもので
も、賛成できるところを見つけたら、相手に賛成してあげることである。

18.「ありがとうございました」という感謝の言葉を忘れないこと。

どんなに小さなことにも、相手に対する感謝の言葉を出し惜しみしないことである。

19.親しみのある態度で話し終えること。

「これだけ話したから、二度とくりかえすな」と説教せずに、微笑みを浮かべて「あなたの将来に対して
期待しているからね」と言って終えるのである。

20.自分から進んで、多くの人と友情を結びなさい。

相手から声をかけてくるのを待たないで、自分から進んで自己紹介をすることで、友情を結ぶこと。

………………………………………………………………………………………………………


問題の解決を神にゆだねよう
No.587 森島恒吉    1999/07/13 (火) 03:49 富士宮市
世界人類が平和でありますように

五井先生は、「人に好かれる話し方と問題解決の方法」について、こう教えて下さっています。

素直な生き方ということは、(1)一度は従順に相手の言葉を拝聴し、(2)不審な点があったら柔らか
な穏やかな言葉態度で、その点についての説明を求め、(3)それでもどうしても相手の考えに誤りがあ
ると思えたら、より謙譲な態度で自分の考えを、「私はこのように考えておりますが、いかがでございま
しょうか?」と進言してみるとよいのです。(4)それで相手が自分の言葉を受け入れなかったら、その
時はそのまま引き下がって、(5)その解決を神にゆだねてしまうのです。
                                    (「宗教問答」より)


人に愛されるようになる愛の祈り
No.588 森島恒吉    1999/07/13 (火) 04:20 富士宮市
世界人類が平和でありますように

成功者には大きく分けると二つのタイプがあって、一つは人並みすぐれた自己の能力を発揮することによ
って成功するタイプと、多くの人々に好かれ、多くの人々の支持を得て成功するタイプがあるのです。

人に好かれるには、自分が人を好きにならねばなりません。人に愛されるには、人を愛することです。
「私は、あなたを愛しています」という言葉は、率直な言い方ですけれども、これは万人向けではありま
せん。男である私が、男に言ったら、変な意味に受け取られますし、人妻に言ったら、誤解されてしまい
かねません。ですから、この言葉は、うっかり、言えるものではありません。

相手を愛していることを、相手に伝える良い言葉はないものか、と私は考えて、その結果、人を愛する具
体的な方法として、私は「あなたが幸せでありますように」という愛の祈りを思いついたのです。この愛
の祈りならば、誰に対しても使えます。ただ、「あなた」という言い方は、目上の人には使わないので、
「あなたさま」か「○○さま」というふうに言いかえればよいと思います。

「○○さんの天命が完うされますように」という祈りは、一般の人には、まだなじんでいないので、愛の
祈りのほうが、わかりやすいと思います。人に好かれる方法を、いろいろと書き出しましたが、人を愛す
る愛の祈りを、常に発していることが、人に愛されるための一番やさしい方法であると、私は思います。

あなたが幸せでありますように

この「愛の祈り」を祈ることによって、私は多くの人たち(女性も)から、愛されているのです。


唯一会の入会に関して
No.590 森島恒吉    1999/07/13 (火) 10:36 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[ご質問]
唯一会の入会に関してお尋ねいたします、世界平和の祈り、五井先生、森島先生に賛同し、会員登録した
いとは思うのですが、御教えを広める運動等(森島先生の思ってらっしゃる事は)、今の私にはできそう
もありませんので、見合わせた方がいいと思われるのですが、どうでしょうか?
(住所、氏名の登録をすることに関しては違和感はありません)

[お答え]
私の書き方が積極的だったために、よけいなご心配をおかけしてしまったようで、申し訳ありませんでし
た。唯一会の会員になっても、五井先生のみ教えを広める運動を、無理にやらせるつもりはありませんか
ら、ご心配はいりません。私たちの平和運動は、唯心論的平和運動であって、各自の生活はそのままで、
「世界平和の祈り」を祈って下さることが、私たちの平和運動の基本なのです。

唯一会の会員には、お一人お一人が、五井先生のみ教えとお心を完全に理解していただき、人々を指導で
きるだけの実力を持ってもらいたい、と強く願っておりますが、それはあくまでも、私の希望でありまし
て、積極的にみ教えを広めなくても、人々を指導なさらなくても、かまいません。そして、これは前から
申していることですが、「新しい会員を何月までに何人集めなさい」というようなノルマを課すことは、
私は大嫌いなことですから、過去も今もしておりませんし、将来も絶対にそういうことは致しません。
「世界平和の祈り」を熱心に祈る気のない人を、無理に集めてもしかたがありません。

アメリカのニューヨークを中心に、「世界平和の祈り」を祈る人が増えておりますが、五井先生の教えと
昌美先生の教えの違いを知っている人は、現在は皆無と言ってよいでしょう。しかし、唯一会の存在が知
られるにつれて、将来的にはアメリカの国連関係者やヨーロッパの人々から、私どもに、数多くの問い合
わせが来ることが予想されます。その時、欧米人に対して、英語や各国語で、五井先生の教えをきちんと
教えるだけの実力を持っている人材が、どうしても必要になってくるのです。現在、日本の白光真宏会の
会員さんの中から、唯一会に関心を持つ人がしだいに増えてきて、多くの質問が寄せられているのですか
ら、世界に唯一会の存在が知れ渡った時、その対応に追われることは目に見えています。

そうした時に、各国語で五井先生のみ教えを正しく伝えることのできる人材が、私は欲しいのです。私が
外国へ指導に行った時も、日本でしっかりと私の代理として留守を守ってくる人も欲しいものです。とに
かく、私一人では、この大事業を行なうことは不可能ですから、どんな形でもいいから、協力者が欲しい
のです。だからといって、唯一会の会員を、すべて唯一会の講師として無理に働かせる、という強制は致
しませんから、ご心配はいりません。唯一会の会員には、地方にお住まいの方もいらっしゃいますし、小
学生や中学生の女の子もいます。その人たちに対して、私はなんの強制もしておりませんし、課題の行法
も通達してはおりません。まったくの自由なのです。

但し、将来、唯一会が大きくなるにつれて、法人化したり、維持会員として会費をいただくようになるか
もしれません。その時は、もちろんお知らせしますが、その時点においても、退会はご自由です。唯一会
の会員になっていただくことは、「世界平和の祈り一念の人が、どれだけ増えたか」というバロメーター
となり、白光真宏会に対しても、対外的にも、それだけ大きな影響力を持つことができるようになるので
す。ところが、ニックネームだけの"Peace Prayer Family"のメンバーでは、どこの誰だかわからない
のですから、「世界平和の祈り一念の人が、現在、これだけおります」と明確に言うことができません。
「世界平和の祈り」を唯一の行としている人々が増えれば、それだけ影響力が強くなる、という意味は、
五井先生のみ教えに戻る人が増えるということで、世界平和実現が早まるということになります。

白光真宏会の会員であっても会員でなくとも、唯一会の会員になることができます。また、唯一会の会員
になるために、白光真宏会の会員をやめる必要は全くありません。むしろ、白光真宏会の会員として、古
くなって、集会の壇上に立つ機会に恵まれたら、「私は世界平和の祈り一念でやっています」と正々堂々
と発言してほしいと思います。そうした発言が多くなれば、会としても無視することはできなくなるから
です。もちろん、そんな目立ったことをしたくない人は、黙っていてもかまいません。

唯一会は、「世界平和の祈り一念のグループ」です。その唯一会に自分の名前を登録することによって、
自分の宗教的な生き方が、明確になり、「私は世界平和の祈り一念でやってゆくのだ」という強い自覚が
生まれます。唯一会の会員が増えることは、「世界平和の祈り」を祈る人が、それだけ増えたことであり
何もしていないように見えても、大きな働きをしていることになるのです。また、自分が唯一会の会員で
あることをひそかにやりたい人は、白光真宏会の友人に知らせる必要もありません。唯一会の会員名簿は
公開しませんから、その点もご心配はいりません。

唯一会は、WPPSのグローバルリンクの祈りに、毎年参加しており、富士聖地の本部の壁に「唯一会○
○人」と紙に張り出されましたし、わずかながら寄付もしており、ニューヨークのWPPS本部からお礼
の手紙も、私は受け取っているのです。ですから、白光真宏会に感謝されることはあっても、敵視される
ことは全く無いのです。しかし、自分が唯一会の会員であることを、絶対に知られたくない人は、唯一会
の集会にも出席せず、"Peace Prayer Family"としてひそかに祈るのも一つの生き方であるでしょう。

唯一会は、現在は、私の個人的な「ファンクラブ」と考えてよいと思います。私のことを好きになった人
は、入会すればいいし、さほど好きにはなれなかったら、離れたらよろしいのです。もし、入会に迷うよ
うでしたら、決断を先に伸ばすことをお勧めします。ねこりんさんの場合は、入会するかどうかは、もう
少し先に、数年後先に伸ばされたらよろしいか、と思います。統一会の集会に参加することは、唯一会の
会員でなくとも参加できますから、お好きな時に参加なさって、入会したい時がきたら、入会されたら、
よろしいでしょう。そうした慎重な人がいることは、むしろ、ありがたいことでもあります。

ねこりんさんの天命が完うされますように


クリシュナムルティについて
No.591 森島恒吉    1999/07/13 (火) 12:15 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[ご質問]
昌美先生にはクリシュナムルティ的な発言(引用?)が多いです。これについての森島先生の御意見はい
かがでしょうか(五井先生の御著書にはさすがに言及がありませんから)?

[お答え]
クリシュナムルティは、本がたくさん翻訳されていますが、私は高く評価してはおりません。宗教者とい
うよりも、彼は哲学者というべきで、その言葉は難解で、私には哲学的な思考を楽しんでいるだけのよう
に見えるのです。すべてを読んだわけではないので、一概には言えませんが、「願望の力を持たねばなら
ない」とか「瞑想」という言葉から、クリシュナムルティの思想は、自力であるようです。クリシュナム
ルティの信者や愛読者は多いようですが、私には宗教的な指導者としての魅力を少しも感じません。もし
クリシュナムルティから学ぶべき長所を知っている人は、ここで紹介していただきたいと思います。


業より離れる方法は守護霊さんを呼ぶこと
No.595 森島恒吉    1999/07/14 (水) 22:50 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[質問]
如是我聞のNo.218に「業より離れるには、自分の中の光のみを見つめること」とありますが、「光のみを
見つめる」とは、具体的に、どうすればよろしいのですか?
以前、白光の講師の方に、「人と話す時は、その人の守護霊様と話すようなつもりでお話ししたらよろし
い」とご指導を受けたことはありますが、これは相手の光明を見ることと、どんな関係がありますか?

[お答え]
霊視能力が少し開いている人は、瞑目して統一しますと、守護霊の放っている丸い光明が見えてくるので
す。その守護霊の光明を見つめておりますと、業想念の波はスーッと消えてゆき、心が明るくなってくる
のです。しかし、ふつうの人は、霊視能力がないのですから、「光のみを見つめる」とは、「光である守
護霊さんを呼ぶこと」と解釈してよいのです。「守護霊さまのお光で、私の心を浄めてください」と祈る
意味で、「守護霊さま、守護霊さま」と守護霊さまを呼び続けるのです。神さまを呼ぶことが、一番短い
祈り言なのです。五井先生が説いている神さまとは、もちろん守護霊さま守護神さまを含めた総称です。

白光の講師の方のお話については、その方に直接伺ったほうがよい、と思います。
相手の方の背後にいる守護霊を尊敬しなければなりませんが、かといって、目の前にいる肉体人間を必ず
しも尊敬できるとは限りません。嫌いな人を無理に好きになることは容易なことではありませんし、悪人
を善人と見ようとすることは無理なことです。そうした無理な指導の仕方は、五井先生はとっておりませ
ん。また、相手の光明を見るには、このような祈り言をすればよいのです。
「守護霊さま、あの方の業想念が消えて、本心の光が現れますように」
「実相の人間は神の子であるのだから、誰をも神の子として拝め」という方法は、五井先生の指導法では
ありません。「守護霊さまにお任せする」というのが、五井先生の指導法であるのです。自力的なやり方
はとらずに、いつでもなんでも祈り言を通して守護霊に全託してまいりましょう。

子羊さんの天命が完うされますように


「世界平和の祈り」が広まりますように
No.597 森島恒吉    1999/07/15 (木) 02:18 富士宮市
世界人類が平和でありますように

OSAMUさん、ご質問をいただき、ありがとうございます。お元気そうで、なによりです。
[ご質問]
世界平和の祈りの同志は、祈りをすることによって、自分が救われると共に、祈りの同志を増やさなけれ
ばいけない、というような義務が、神様からの天命としてあるのでしょうか?自分が祈っていれば、何も
言わなくても、相手から寄ってきて、長く付き合ううちに、自然と祈りの同志になる、という方法では、
世界人類を平和にするには、時間がかかりすぎるのでしょうか? 五井先生が「世界は平和になるに決ま
っている」とおっしゃっておられるのですから、僕はそれを信じてマイペースで行こう、と思いますが、
それでよろしいでしょうか?

[お答え]
結論から申しますと、OSAMUさんは、そのマイペースの生き方で、よろしいのです。安心して下さい。
「世界平和の祈り」の同志だからといって、「祈りの同志を増やさなければいけない」ということは全く
ありません。本心から「これをしなければならない」という想いが自然に湧いてきたのならば、それは結
構ですが、自我意識で「これをしなければならない」と思いますと、それは不自由な行為となってしまい
ます。本心から「祈りの同志を増やしたい」と思っている人は、他から強制された感じはなくて、内側か
ら自然に湧き上がってくる力があって、「これをしなければならない」と思った時は、すでに行動に移っ
ているはずなのです。祈りの同志を増やすことは、もちろん神のみ心であり、誰にとりましても天命であ
るのですが、無理に嫌々「増やさなければいけない」と思ってやる必要はないのです。一人静かに祈って
いても、「世界平和の祈り」を祈ることは、祈りの同志を増やす行為をしていることになるからです。

各人には天命がありまして、積極的に「世界平和の祈り」を広めてゆく天命のある人と、OSAMUさんのよ
うに、積極的に「世界平和の祈り」を口に出して広めることはないけれども、相手から寄ってきて、長く
付き合ううちに、自然と祈りの同志にならせる、という天命の人もいるのです。「世界平和の祈り」を広
める天命のない人は、一人もいません。但し、その広め方にも、積極的に広める人と、黙っていながら、
光明を発して、間接的に祈りの同志をつくってゆく人の二つのタイプがあるのです。

「世界は平和になるに決まっている」のは、確かにその通りなのですが、「世界平和の祈り」を積極的に
広める天命を持っている人は、ジッとしてはいられないものなのです。祈っておりますと、生命が生き生
きと躍動してきて、「世界平和のために実際行動をしたい」という気持ちが、フツフツと湧いてくるもの
なのです。祈れば祈るほど、愛と勇気と行動力が、全身全霊にみなぎってくるのです。そういうタイプの
人は、神智の流れを自分で止めないで、「世界平和の祈り」を広める良いアイディアが出てきたら、失敗
してもよいから、どんどんと行動に現わしていったらいいのです。

「世界平和の祈り」が一日も早く世界に広まりますように


守護霊さまへの祈り方
No.599 森島恒吉    1999/07/16 (金) 11:28 富士宮市
世界人類が平和でありますように

子羊さん、ご質問をいただき、ありがとうございます。

[質問1]
神様(守護霊様)は、どこにいらっしゃるのですか?
人間の内部に、神様(守護霊様)がおわす、とのお話もありますし、もしも外部にいらっしゃるのなら、
どの辺にいらっしゃるのでしょうか?神様を思う時に、想いをどこへもっていけば、よいのか、常々疑問
に思っています。

[お答え]
神を宇宙創造神とすれば、神はどこにでもおわす、ということになります。守護霊に限定すれば、霊界に
いながら、被守護体の肉体人間を常に見守る位置にいるのです。人間の内部神性とは、守護の神霊を含め
たものですが、その内部とは、肉体の身体の皮膚の内側という意味ではないのです。肉体とは別の霊界の
分霊の内に守護霊が存在している、という意味であるのです。

したがって、守護霊は肉体人間の外部にも内部にも働いている、と言ってよいわけですが、祈る時の対象
として、守護霊のいる位置を、どこか一カ所に定めなくては、心が落ち着きません。そこでどう祈ったら
良いかと申しますと、正座しても立っていても、守護霊に祈る場合、目線の高さよりやや上の前方に、
「守護霊さまがいらっしゃる」と思って祈るとよろしいのです。
「五井先生のお写真」「五井先生の色紙」「世界平和の祈りの額」などを、お祈りの対象としている時に
は、そうした物に守護霊が宿るのですから、正座した時に、目線よりも上に置いて祈ることです。座った
位置の目線よりも下に、守護霊や神仏を置いてはいけません。

[質問2]
「守護霊様おねがいします」といつもお願いしていると、守護霊様の負担にはならないのですか?
守護霊様に想いがかかりすぎて、守護霊様が私の思いを払うのに、"一苦労"などということにならない
かと心配です。

[お答え]
そのご心配は、いりません。「守護霊さま、お願いします」といつも全託していると、守護霊の負担には
なりません。むしろ、守護霊にとっては、守護霊のほうを向いていてくれる人間は、とても守りやすいの
です。被守護体の人間の運命を導き、悪い憑依霊がとりつかないように守るのが守護霊の仕事なのですか
ら、守護霊に常に想いを向けていることが大事なのです。

守護霊は、肉体人間の業波動を身に受けて浄めますが、あまりの業波動に汚れるような時は、守護神に助
けを求めまして、守護神の光明を浴びて自らの霊体を浄めるのです。五井先生は講話の中で「私が皆さん
の統一指導をして浄めている間に、守護霊さんは(霊界にある)滝を浴びに行ってくるんです」というよ
うなお話をなさっていましたが、私たちが守護霊に浄めてもらうように、守護霊は守護神に浄めてもらえ
るので、少しも心配はいらないのです。

但し、余計な想いを出すと、守護霊は苦労をします。「世界平和の祈り」だけを祈っていれば、守護霊は
楽なのに、真理の言葉に把われて「我は神なり」と唱える行をしたり、心の法則論に把われて、欲しい物
をイメージして念じたりしますと、そうしたよけいな業想念の想いまでも浄めなくてはなりませんから、
お仕事が二倍三倍にも増えて、毎日夜まで残業するように、守護霊も大変苦労をすることになるのです。
ですから、守護霊によけいな苦労をかけたくなかったら、「世界平和の祈り」一念に、徹することです。
そして、守護霊に感謝の祈りを捧げていることが、守護霊に活躍していただく最良の方法であるのです。

[質問3]
聖書講義に、「洗礼のヨハネは人間の女性の生んだ最高の人間であるが、天使(守護霊様?守護神様?)
には、全然かなわない」との記述がどこかにあったと、記憶しています。これが、私にはどうしても理解
ができません。守護霊様は、人間一人に最低1体ついているので、現在では地球上に数10億体いらっし
ゃることになります。これに比較して、洗礼のヨハネは、彼がいなければ、キリスト教自体が、存在しな
かったとの話もありますので、働きまたは霊力的にいっても、守護霊様より、洗礼のヨハネのほうが、上
だとおもうのですが...(守護霊様ごめんなさい!神様を上下比較するのは、間違っていることは存じ
ていますがぜひ教えてください)。洗礼のヨハネは、肉体界を救うためにこの肉体界に出ていらっしゃっ
た方なのでしょうから、多分、もともと守護神様クラスの方なのでしょう?

[お答え]
あなたのおっしゃるように、神さまは、もともとは一つなのであり、守護の神霊として分かれても、その
働きが異なるだけで、どちらの神さまが上だとか下だとかと、比較することは、無意味なことであるので
す。洗礼のヨハネは、イエスにキリストを自覚せしめた偉大な先覚者でありますが、そのヨハネを背後か
ら指導しているのは、やはり守護の神霊なのですから、ヨハネと守護の神霊を比較するならば、器として
のヨハネよりも、守護の神霊のほうがより偉大なる存在と見るべきでしょう。
聖書には、こう書かれています。

【新約聖書ルカ伝第7章26節〜28節】(マタイ伝第11章11節にも似た文があります)

我(われ)なんぢらに告ぐ、預言者(よげんしゃ)よりも勝(まさ)る者なり。
「視(み)よ、わが使(つかひ)を汝の顔(かほ)の前(まへ)につかはす。
かれは汝の前になんぢの道(みち)をそなへん」
と録(しる)されたるは此(こ)の人なり。
われ汝らに告ぐ、女(をんな)の産(う)みたる者の中(うち)、ヨハネより大(おほい)者はなし。
されど神の國にて小(ちひさ)き者も、彼(かれ)よりは大(おほい)なり。

この聖書の記述を読めばおわかりのように、「洗礼のヨハネは、天使には、全然かなわない」という意味
で、イエスは洗礼のヨハネのことを述べているのではありません。イエスは、洗礼のヨハネの天命と、自
分の天命は違うものであると、言いたかったのであります。すでに多くの民衆から尊敬され信仰されてい
るヨハネは偉大な預言者であるが、洗礼のヨハネの場合は、あくまでも神霊から伝えられてくる声を民衆
に伝える役目であって、自らが神としての権能を持ったイエスとは、まるでその働きが異なるのだ、とイ
エスは明確に説いたのです。イエスは、洗礼のヨハネのように神霊の声を聴いて動く霊能者ではなく、自
らが神霊としての立場で神の教えを説いていたのです。

洗礼のヨハネなくして、イエスはキリストにはなれなかったわけですから、その意味からいえば、洗礼の
ヨハネとイエスは光の兄弟であり、同等の人格であって、その働きが異なるだけといえますが、「洗礼の
ヨハネがいなければ、キリスト教が存在しなかった」からといって、「守護の神霊よりも、洗礼のヨハネ
のほうが上である」とは言えないのです。

守護の神霊が、洗礼のヨハネをイエスのために道開きの役目として結果的に選んだのでありまして、ほか
に適当な人がいれば、別の人を選んだわけです。天命を授け、天命にふさわしい人を選ぶ采配は、あくま
でも守護の神霊の側が司っているのでありまして、肉体人間側が、自分勝手に守護の神霊を選んだり、神
の仕事を選ぶことはできないのです。たとえ、洗礼のヨハネが多くの民衆から尊敬されていたとしても、
神の眼から見て、この仕事にふさわしくない、と判断したら、ヨハネは即座にその役目からはずされて、
神に使われることはなかったでしょう。

神さまからのメッセージを伝える霊能者は、あたかも神のごとく、人々からは尊敬されるものですが、し
かし、霊能者はあくまでもメッセンジャーであって、まだ神との距離があるわけですから、神の子そのも
のとは言えないのです。イエスは、洗礼のヨハネのような神の声を伝えるメッセンジャーではなく、自ら
話す言葉が、神の子としての言葉であり、自ら行なう行為が、神の子の行為となっているのです。神の声
を預かって民衆に伝える霊能者よりも、自らの声が神の声であり、神の国から来たイエスのほうが偉大で
あるのは当然なことです。

その事実を洗礼のヨハネも知っていて、「自分は救世主キリストではない。ただ、主の道を切り開いてゆ
く者だ」と謙虚に自分の天命を説き、「イエスに従ってゆくように」と自分の弟子たちにも、しきりに勧
めていたのです。肉体人間は、どんなに偉い人でも、あくまでも守護の神霊の声を伝える器であり、守護
の神霊の加護なくしては働けないのですから、守護の神霊を、肉体の器よりも下に見てはいけません。

私たちに、どの神霊がつくかは、守護の神霊側の判断によるのでありまして、私たちは高級神霊に愛され
守られるように、常に自己の行為を反省して、神を尊び、神に祈りつづけてゆく必要があるのです。ちな
みに、洗礼のヨハネは、現在、救世の大光明の聖者の一人として、イエスと共に働いておられます。