森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


観音信仰と仏画仏像について
No.603 森島恒吉    1999/07/18 (日) 16:26 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[質問1]
観音様の掛け軸を、祈りの対象として、統一をしても、よろしいのですか? また、観音様の掛け軸等を
本物の観音様等と考えて、祈り(信仰)の対象にしてもよろしいのですか?

[お答え1]
観世音菩薩さまとは、衆生の救いを求める声(音)を観じると、ただちに救済の手を差し伸べて下さる働
きを持ち、観自在菩薩ともいわれるように、千変万化の相を表して人々を導き、大きな慈悲(大慈)を行
なう菩薩さまです。この観音信仰は、中国、日本で古くから広く大衆の間に信仰されていて、「観音経」
には三十三身にお姿を変えて衆生を救うとあることから、基本形の聖(しょう/正)観音像のほかに、変
化(へんげ)観音像があります。この三十三身の他に、五井先生の働きとされる「夜明(よあけ)観音」
(正しくはケモノ偏に夜と書く)のように、仏典にはなく自在に名前をつけられた観音像もあります。

故・斉藤秀雄氏(白光真宏会二代目理事長)は、「世界平和の祈り」を祈っているうちに、絵の才能が突
如現れてまいりまして、五井先生も称賛される素晴らしい観音さまの絵を描くようになったのです。私も
斉藤氏から、観音さまを描いた色紙を頂戴したおり、「この観音さまのお名前は、なんとおっしゃるので
すか?」とお尋ねしましたら、「平和観音です」とお答え下さいました。仏典の三十三身の観音さまのお
姿の中には、平和観音という名前の観音さまはいませんから、これも世界平和を祈る人の願いに応じて自
在にお姿を現した観音さまといえます。

さて、ご質問のお答えですが、観音さまの掛け軸を統一の対象とすることも、掛け軸の絵を本物の観音さ
まと考えて信仰の対象とすることも、大変結構なことです。姿形が何も無い神仏を拝むというのは難しい
ので、人間は自然に仏画や仏像を製作して、信仰の対象にするようになってきたのです。観音さまの絵や
仏像を拝むことによって、観音さまに正しく感応することになり観音さまに救われることになるのです。

但し、その観音さまを描いた画家や、仏像を彫った仏師の心境の高低によって、その前で統一する人の心
境も変化してきますから、観音さまの絵ならば誰が描いた絵でも構わない、というわけにはいきません。
新聞の広告で大量販売している、現世ご利益を売り物にした観音さまの絵や、低俗な宗教団体が信者獲得
のために頒布している観音さまの絵などには、うっかり手を出してはいけません。人々の現世利益の欲望
に乗じて、動物霊が観音さまのふりをして、その絵に憑依していることがあるからです。ふつうの人に、
この見分けができませんから、少なくとも誰が描いたのか、はっきりとわかっていて、清らかな感じのす
る絵や掛け軸を、壁にかけるべきでしょう。

[質問2]
観音さまの掛け軸に向かって、そこに守護霊さまがいらっしゃるものと考えて、統一しているときに、何
となく(掛け軸の方から)暖かな感じなどがしたときには、どのように考えればよろしいのですか?「霊
的な事は全て否定しなさい」とのお言葉があったと思うので、幽界からの波動と考えて無理に否定すると
悪を意識してか心が暗くなってしまいます。「霊的なことは全て消えてゆく姿」とのお言葉もあったかと
思いますが、何がどのように消えてゆくのかが、いまひとつ理解ができません。

[お答え2]
「何がどのように消えてゆくのか」と申しますと、統一行をしますと、霊界へと昇ってゆく途中で、幽界
の波動圏をどうしても通るのですが、その時に、急に暗い気持ちになったり、怒りっぽくなったり、嫉妬
心、物質欲、権力欲など、日常生活では抑えている様々な業想念欲望が噴き出してきたり、また守護神の
試みとして、神仏の姿が見えたり、聴こえてきたりすることがあるのです。そこで、どのような想いが出
てきても、「消えてゆく姿」と否定して、守護の神霊のみ心の中に入りこんでおりますと、黒雲が消えて
青空が見えてくるように、心が澄んで平静になってくるのです。そこで「消えてゆく姿」の教えは、統一
行に成功する秘訣である、というのです。

正しい観音さまを拝んでいても、観音さまとの統一を妨げる業波動が襲いかかってくる場合もありますか
ら、幽界からの波動を感じたからといって、観音さまの絵が悪いのだ、と考える必要はありません。ご質
問者の場合、観音さまの掛け軸から「あたたかな感じがした」そうですから、そうした良い感じがするな
らば、幽界の波動と考える必要はありません。しかし、霊界からの波動なのか、幽界からの波動なのか、
一般には区別することは難しいことなので、霊的に感じた善悪すべての想いを、一度は消えてゆく姿とし
て、把われないようにすることが必要なのです。幽界の波動だけでなく、たとえ霊界の波動であっても、
神界の波動であっても、消えてゆく姿として、全否定しなければなりません。神霊界からの正しい波動で
あるならば、消えてゆく姿と何度否定しても、消え去ることはありませんから、ご心配いりません。

[質問3]
観音様像は、本物の観音様がやどっているものと考えても、よろしいのですか? それとも、ただの有り
難い造形物と考えて、あまり気にしないほうがよろしいですか?

[お答え3]
仏像は、供養を怠りますと、かえって霊障を生じることがありますから、お寺でもないのに、個人がご利
益を願うあまり、やたらに仏像を、家の中や、商店の中や外に安置するべきものではありません。もし、
お客をたくさん呼び寄せて、商売繁盛を願う気持ちで、招き猫の置物のように、安易な気持ちで観音さま
の仏像を安置したとしたら、とんでもない誤りです。

ご質問者の場合には、観音さまの仏像は、観音経を唱えて入魂の儀式をなさったと思いますが、仏像を安
置した以上、本物の観音さまが宿っていると考えて、丁重にあつかい、感謝のお祈り(供養)を日々続け
なくてはなりません。観音信仰に熱心な人が他界した後は、どうしても供養(お祈り)を忘れがちになり
ますから、家族に供養を続けるように、しっかりと伝えておかねばなりません。

他の仏像については、観音さまの仏像であるからでといって、必ずしも観音さまの霊が宿っているとは限
りません。誰も供養をせず、野ざらしに放っておかれた仏像には、供養を受けて成仏したいと願う迷った
霊魂や低級な動物霊が入りこむことがあります。その場合は、触らぬ神に祟りなし、の諺のように、やた
らに信じて拝むようなことはしてはいけません。

あなたの天命が完うされますように


仏像のお浄めのしかた
No.607 森島恒吉    1999/07/19 (月) 07:28 富士宮市
世界人類が平和でありますように

子羊さんの質問のつづきに、お答えします。

[質問4]
観音像に、変なものがついているかどうかは、どのようにすればわかりますか?

[お答え4]
現世利益を願う人間の欲望波動に合致した幽界の生物が、仏像に入りこんで人間をもてあそぶ、というこ
とがあります。幽界の生物が仏像に憑依しているかどうかは、「守護霊さま、守護霊さま」と守護霊さま
を念じてみて、仏像から清らかな感じがしたら憑依霊がついていない、と判断していいのですし、もし、
仏像からいやな感じを受けるようでしたら、邪念がついているかもしれない、と用心することです。

[質問5]
観音像に、もしも変な物がついている場合には、どのようにすれば、お祓い(お清め)は、できますか?
観音像の入魂儀式をしたのが、前出の漫画家の方だと聞いているので、変なものが付いていないか(漫画
家の先生ゴメンなさい)、少し心配です。

[お答え5]
守護霊さまを念じてみて、もしも嫌な感じがするようでしたら、仏像とその周囲に塩をまき、清らかな水
をかけて洗ってから、きれいな布で拭き取って、合掌して、守護の神霊に、このように祈ります。

「守護霊さま、守護神さま、どうぞ、この仏像をお浄め下さい」

そして、仏像の施主であるお兄さまが、慣れないたどたどしい言い方でも構いませんから、観音さまをお
呼びして、「観音經」を読経した後、こう祈り、改めて仏像に入っていただけばよろしいのです。

「観世音菩薩さま、どうぞ、この仏像にお入りくださって、私たちをお守り下さい」
「観世音菩薩さま、ありがとうございます」
「世界人類が平和でありますように」

これで、だいたいは大丈夫だと思いますが、万一、以上の行為をしても、なお嫌な感じが抜けないようで
したら、その時は思い切って、お寺で処分してもらうほかありません。

あなたの天命が完うされますように


観音さまへの供養のしかた
No.608 森島恒吉    1999/07/19 (月) 11:00 富士宮市
世界人類が平和でありますように

子羊さん、ありがとうございます。ご質問にお答えさせていただきます。
[質問1]
観音様の供養は、どのようにすればよろしいのですか?
「世界平和の祈り」を祈る人と、祈らない人、それぞれの人用に、教えていただけると、有り難いです。
また、供養を実施すると、どのような、効果(?)があるのですか?

[お答え1]
仏教では、もともと礼拝の対象となる偶像は持たなかったのですが、釈尊の入滅後、やがて仏像が造られ
て仏像を礼拝するようになったのです。供養の形は、インドの習俗が仏教に取り入れられ、それが中国か
ら日本へと伝わるにつれて、現在のような形になったのです。仏、菩薩に供物(くもつ)を捧げる供養は
「香(こう)・華(け)・灯(とう)・飲食(おんじき)」が基本で、すなわち「お香を焚く・花を生け
る・明かりを灯す・浄水と仏飯(ぶっぱん)を供える」ことです。

「世界平和の祈り」を祈る方は、観音さまは守護神さまのお一人なのですから、「世界平和の祈り」を祈
るだけで良いのですが、それだけでは物足りないと思う方は、守護霊さま、守護神さまへの感謝のお祈り
の後に、「観音さま、ありがとうございます」と観音さまへの感謝の祈りを加えたらよろしいでしょう。

「世界平和の祈り」を祈らない方は、「観音經(かんのんぎょう)」といわれている「妙法蓮華經普門品
(みょうほうれんげきょうふもんぼん)第二十五」を、月に一回は読経します。月のうち、いつでもよい
のですが、観音信仰者の間では、十八日を観音さまの縁日として、供養をする人が多いようです。空海に
よって始められた観音供養は、宮中で「観音供(かんのんぐ)」として、毎月十八日に行なわれたことか
ら、この日を観音にゆかりのある日、観音の縁日とされているのです。毎日、観音經を読経しても、もち
ろん良いのですが、長いお経文を読経するのは時間がかかることなので、平日は、「南無観世音菩薩」
(なむかんぜおんぼさつ)と心をこめて一言唱えれば、それだけで充分に観音さまへの供養となります。

こうした供養を致しますと、どのような効果があるかと申しますと、それは「観音經」に詳しく記載され
ているのですが、簡単にいえば、観世音菩薩は、「南無大慈観世音菩薩」とも唱えられるように、衆生を
諸々の苦悩から大慈悲をもって救って下さる、というご利益があるのです。

観世音菩薩の神力(じんりき)は、それはそれは驚異的な超能力であって、たとえば、観世音菩薩の名を
称える者は、大火にあっても焼かれない、大水にあっても溺れない、自分に危害を加えようとふりあげた
悪人の刀は折れてしまう、縛られていた紐も鎖もことごとく壊れてしまう、という具合に、常に安全で自
由の身になれる、というのです。また、観世音菩薩を礼拝供養することで広く知られている功徳は、福徳
智慧の備わった男の子や、端正で美貌の女の子を授かるということで、すぐれた子供を授かりたいと願う
夫婦が、観音さまにお参りに行く、という風習があります。

その他にも、観世音菩薩を供養すると、使い切れないほどの莫大な富を授かる、という功徳もあることか
ら、実業家にも観音信仰者が多いのです。カメラやコピーなどの精密器械で大企業となったCANON
(キャノン)という会社は、会社の創立者が観音をあつく信仰していた人で、自分の創立した会社の名前
まで、観音(カンノン)を英語読みにした社名にしてしまいました。そうしたことから、この会社は珍し
くありがたいことに、観音さまが守護神となって、会社や社員を守っているのです。

ちょっと話題がそれますが、先日、東芝のビデオデッキを買ったお客が、規格に合わないビデオテープを
使ったせいで、画面がよく映らないということで、東芝にビデオデッキの修理について苦情の電話をした
ところ、逆に、苦情処理係から、「苦情ばかりをいうクレーマー」とののしられて腹を立て、その会話テ
ープをインターネットにのせた、というニュースがありました。このような出来事が起きるのは、東芝を
創立当時から苦労して大きくした社長の霊や、会社を愛して誠心誠意働いた社員の霊が、会社の社員の行
為をつぶさに観察していて、大切なお客様に対する社員のあまりの無礼な態度に、怒ったからなのです。
会社の発展のためには、ここで社員を強く反省させたほうがよい、と会社霊が判断して、お客の一人を動
かして、会社に注意を促したわけです。大きな会社は、このように知らないうちに、多くの善霊によって
守られていることがあるのです。

ご質問者のお兄さまは、観音さまを素直に信仰している大変純朴で良い方ですから、今のように観音さま
を供養しつづければ、ご家族は日々安泰に過ごすことができて、お仕事も順調に発展することでしょう。
なお、国道沿いに新しくお店を開いたのは、お兄さまの守護霊が、商売の発展のために導いたことですか
ら、なんのご心配もいりません。ご家族の皆さまの益々のご多幸をお祈りいたします。

[質問2]
観音様の絵は、描く人の心境の高低によって、その前で統一する人の心境が異なってくる、とのことなの
ですが、そうすると、やはり五井先生のお写真で統一するのが、一番よろしいのでしょうか?(もちろ
ん、統一時には、五井先生の霊笛のCDはいつも使用しています。)

[お答え2]
正しい神霊を対象に、正しい祈り言を祈るならば、それで充分です。あとは祈る人の一番納得する方法で
祈れば、よろしいのです。あなたの場合は、「観音さまの絵を対象にして祈りたい」と思われているので
すから、その方法でお祈りになれば、それで結構なのです。ご自分の心境にぴったりと合った宗教を選ん
で、ご自分のもっとも納得する形式で統一行をなされば良いのです。

[質問3]
観音様の掛け軸(絵)も、当然、仏像と同じように供養したほうが、よろしいのですか?
(掛け軸の前で「世界平和の祈り」の統一行を実施すれば供養になる?)
また、供養しないのならば、観音様の掛け軸(絵)は掛けないほうが、よろしいのですか?

[お答え3]
観音さまの絵が描かれている掛け軸も、仏像と同じように供養するべきです。供養と申しますと、仏教用
語ですから、ふつうはお香を焚いたり、花を生けたり、お経を唱えることですが、「世界平和の祈り」を
祈ることで、立派な供養となります。「世界平和の祈り」の救世の大光明の中には、釈尊も阿弥陀如来も
観音菩薩さまもいらっしゃって、現代の人々に「世界平和の祈り」を勧めているのですから、「世界平和
の祈り」を祈ることは、最高の供養になるのは当然のことです。

また、日頃供養をせずに、観音さまの掛け軸を書庫にしまっておいたとしても、少なくとも三カ月に一度
くらいは書庫から取り出して飾ってあげますと、観音さまが喜んで下さいます。観音さまの絵は、霊のや
どる宗教画でありまして、単なる美術品とは違いますから、粗末に扱うわけにはいきません。掛け軸とし
て飾る以上は、放置せずにきちんと供養する必要があります。

あなたの天命が完うされますように


私たちはあいまいな他人批判はいたしません
No.612 森島恒吉    1999/07/20 (火) 19:41 富士宮市
世界人類が平和でありますように

隠れ信者さん、ありがとうございます。
[コメント1]
 "信者が毎年1000人前後もやめており、高橋先生がそれを嘆いている。"
 "信者は会から次々と課せられる課題をこなすのに苦労している。"
 "しかし、それらをこなさないと次の段階に進めない。"
 "駅の改札口でカウンターを持って立ち、700人以上に「目覚めよ」と念を送っている。"
 "信者は願望を書かされ、それを実現させるために一生懸命にイメージをしている。"
 "女性をレイプした講師がいる。"
 "昌美先生を嫌って離れていく人が多い。"
 "昌美先生の話し方はヒステリックであり、時として聞くに耐えないことがある。"
 "昌美先生は大言壮語である。"
 "昌美先生の保証にも関わらず、焼身自殺をする人など、会員の苦悩は消えていない。"
 "昌美先生は悪い予言をされる。"
 "昌美先生は五井先生の思い出話をされるのを好まない。"

 こうしたあいまいな他人批判をインターネット上に掲載することは、光明思想と相容れないのではない
かと恐れます。それにしても、これが「いい人の集まり」であり「魂の古い人の集まり」であるはずの白
光真宏会の現実なのでしょうか。
………………………………………………………………………………………………………
[お答え1]
隠れ信者さん、私たちは白光真宏会を愛するゆえに批判しているのであり、根も葉もない事実をでっちあ
げて、白光真宏会を陥れようという気持ちは、毛頭ありません。以上の出来事は、すべて事実です。

 "信者が毎年1000人前後もやめており、高橋先生がそれを嘆いている。"
 "信者は会から次々と課せられる課題をこなすのに苦労している。"
 "しかし、それらをこなさないと次の段階に進めない。"
 "駅の改札口でカウンターを持って立ち、700人以上に「目覚めよ」と念を送っている。"
 "信者は願望を書かされ、それを実現させるために一生懸命にイメージをしている。"
 
これらについては、一人だけでなく、会員の多くの人々が見聞きしている事実です。
「信者が毎年1000人前後もやめており、高橋先生がそれを嘆いている」ということも、高橋元副理事
長が正直に、会員の前で告白なさったことで、特に秘密にされていることではありません。
他のことは、白光真宏会の会員であるケントさんが、詳しく知っていることなので、ケントさんにあらた
めて事実を話していただきましょう。ケントさん、白光真宏会の事実を話してあげて下さい。

五井先生の説く光明思想とは、事実に無批判になって、きれいごとばかりを言うことではありません。
事実を直視して、反省し、「消えてゆく姿」として、「世界平和の祈り」の中に入れることです。
………………………………………………………………………………………………………
[コメント2]
 私は、今日のように新興宗教が良くも悪くも実生活に大きな影響を及ぼしている以上、その実態を様々
な角度からある程度自由にしかも匿名で批判する場がぜひ必要であると考えています。特に、新興宗教を
脱退した人は普通その理由を明かさないため、実際に入会してみないとその真実が分からず、悲劇が何回
も繰り返される危険があります。そして、これは個人的には残念なことですが、白光真宏会もその自由な
批判にさらされるべきときが来たということでしょう。
………………………………………………………………………………………………………
[お答え2]
あなたのおっしゃる通りだと、私も思います。
………………………………………………………………………………………………………
[コメント3]
 この掲示板の本来の目的は、五井先生の教えを確認し、人生を前向きに生きることにあるのだ、と考え
ています。決して、他人の批判をすることが目的ではないことは、よく分かっています。
 ただ、唯一会の場合、白光真宏会が仮に昔の姿に戻れば、その存在意義はなくなる、という相対的な関
係にあるのですから、今後とも、白光真宏会の動向を、率直に取り上げていただきたい、と思います。
 その際、昌美先生や信者の発言内容や行動、奇跡物語の真偽といったことにも期待しています。なぜな
ら、宗教団体を評価するには、教義の良し悪しだけでは現実には不十分(または無理)で、現象面からの
評価を欠かすことはできないと思うからです。
………………………………………………………………………………………………………
[お答え3]
おっしゃる通り、今後も白光真宏会の動向を、一般の新聞記事やテレビニュースのように、事実をありの
ままに正直に取り上げ、現実を直視して、客観的にほめるべき所は大いにほめ称賛して、批判すべき所は
率直に批判してゆきたいと思います。また、昌美先生の教えについての称賛や奇蹟物語がありましたら、
この"PEACE NIFON"に自由に書いていただいており、昌美先生称賛の文章は一切削除しておりません。
ぜひ、また貴重なコメントを下さい。ありがとうございます。

あなたの天命が完うされますように


南無妙法蓮華経について
No.625 森島恒吉    1999/07/22 (木) 20:34 富士宮市
世界人類が平和でありますように

子羊さん、ありがとうございます。

[コメント1]
最近は、白光誌を見ると、「なになに神人」とか「なんとか曼陀羅」とかが出てきて、白光真宏会も、普
通の"新興宗教"になってしまったな、と感じています。M先生の御法話も、(ふだんは、ほとんど読み
ませんが、あえて読んでみると)悪い意味で神がかってきている、ように感じています。実は私は、最近
の白光誌は、恥ずかしくて、人には見せられないのです。
以前は、「世界平和の祈り」の新聞や「白光誌」を配ることで、世界平和の祈りを、多くの人に知っても
らうことが、できたのですが、今はどうすれば、よいのやら??どなたか、良い方法を知っている方がい
らっしゃいましたら、教えていただけませんか?

[お答え1]
あなたのご意見に、私たちも同感なのです。「世界平和の祈り」を多くの人に知ってもらいたい、と思う
のですけれども、「白光誌」には余計なことが載っているからあげられないし、道場集会に連れてゆけ
ば、「世界平和の祈り」以外の変な行法をしているので、恥ずかしくて新しい人を紹介できないのです。

新しくできた五井平和財団は、ノーベル平和賞をもらうのは当然だと思うくらい、私も期待をしておりま
すが、財団のほうは浅く広くというやり方で、これはこれで必要だし、大事であると思うのですが、守護
霊守護神への祈りが省略されているだけに、物足りなさも残ります。

そこで、現在の状況としては、こうしたら良いと思うのです。
五井先生のご著書は、あなたもお持ちでしょう。五井先生のご著書を友人に贈っていたら、大変な出費と
なりますから、無理のないやり方として、ご自分のお持ちのご著書を友人にお貸しするのです。そして、
友人の読書感想を聞いて、「もっと深く学びたい」という熱意を示したら、「五井先生のみ教えを実践し
ているグループとして、唯一会というのがあって、それはインターネットで見られるし、もっと興味があ
れば集会もありますよ」と友人に教えてあげたら良いのです。お貸しする五井先生のご著書に、唯一会の
存在を書いた紙を一枚はさんでおくだけでもいいでしょう。このほかにも、良い方法を、思いついた方が
いらっしゃいましたら、ここでご提案して下さるように、お願いいたします。

[コメント2]
ところで、最近は白光会の会員さんに、ガンや難病が多いとのお話を読んで、ふと五井先生の御講話のな
かの、あるお話を思い出しました。それは、「南無妙法蓮華経」のお題目は、"自分は神なり"(少し表
現は違っていますが)と唱えているので、迷っている霊魂等が救ってもらおうとすがりついてきて、お題
目を唱える人には、災難が多い、とのお話です。「我即神也」と「南無妙法蓮華経」のお題目の、意味の
類似性を考えると、「我即神也」の宣言文は、唱えてはいけない、禁断の宣言文のような気が、私にはし
てきました。

[お答え2]
その通りなのです。「南無妙法蓮華経」とは、「我は仏なり、救ってやるぞ」という意味であると、五井
先生は説かれています。ですから、生命をかけて世界を救うという気迫のない者や、真実に悟っていない
者が「我は仏なり」とか「我は神なり」と安易に唱えますと、それは「救ってやるぞ」と宣言しているこ
とになりますから、迷った霊魂が救いを求めて、唱える人にすがってくるのです。しかし、実際には自分
は、ほんとうの仏でもないし神でもないのですから、迷った霊魂を浄めることができず、次々と憑依され
て、感情がひどく不安定になったり、急に威張り出したり、平気で嘘をついてだますようになったり、不
幸災難に次々と見舞われることになるのです。

「南無妙法蓮華経」というお題目には、このような大変な危険があることを、私たちは知っておかねばな
りません。そこで五井先生は、「南無妙法蓮華經と唱える場合には、守護霊さま、守護神さまの加護を願
ってから唱えなさい」とご指導されたのです。同じお題目を唱える法華経宗派の中でも、「妙法蓮華經観
世音菩薩普門品」を読経し、「南無観世音菩薩」を併せて唱えている場合や、「南無十方仏(なもしほう
ふ)」とあらかじめ四方の守護仏をお呼びして唱えている場合には、なんの霊障も受けることはありませ
ん。古くからの経文には、深い意味があって、省いてはいけないところもあるわけです。


正しく強い信念は世界平和の祈りから生まれてくる
No.627 森島恒吉    1999/07/22 (木) 21:04 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ひきつづき、子羊さんからのご質問にお答えします。

[質問]

「人間と真実の生き方」のなかで、「...消え去るのであるという強い信念と、今からよくなるのであ
るという善念を起こし...」と、あります。悪い方へ考えてしまうような時に、消え去るのであるとい
う"強い信念"を、念力的にならずに、起こすには、どのようにすればよろしいのでしょうか?
また強い信念とは、どのようなものをいうのでしょうか? どうぞ、教えてください。

[お答え/信念と念力について]

信念と念力は、なかなか判別が難しいのです。「信念の魔術」という場合の信念とは、念力のことであり
まして、五井先生のいわれる信念ではないのです。信念とは、もともとは宗教の用語で、神の大愛を信じ
る念の意味で、信念を持つことは正しい宗教の行為といえるのですが、最近は信念という言葉が、宗教と
切り離されて、念力の同義語として、多くの自己啓発の本に使われるようになってしまったので、信念と
いう言葉を読んだときには、正しい信念の意味で用いられているのか、念力の意味で用いられているのか
を、しっかり見分ける目を持たねばなりません。

また、自己の本心を信じて運命を切り開いてゆくという意味で、「自己の信念をつらぬく」という言い方
もありますが、これは正しいのですが、ともすれば神のみ心とは切り離されて「自己の我欲をつらぬく」
という意味に使われることもあり、やはり念力と間違うこともあるので、信念とは「守護の神霊の大愛と
絶対力を信じる想い」という他力的な意味に解釈しておきます。

教義の「人間と真実の生き方」では、五井先生は「である」体を用いていますが、「いかなる苦悩も消え
去るのである」という文は、「いかなる苦悩も消し去る」という意味ではなく、「いかなる苦悩も消え去
ることになる」という意味であり、「今から善くなるのである」というのは、「今から善くなる」という
文を、「である」体に直したものなのです。つまり、「私はやるんだ」という言い方をせずに、「守護の
神霊のお力によって成る」という言い方をしますと、力もうにも力めなくなり、力みがとれて、念力とは
ならず、神を信じる信念となるのです。

[業想念否定形信念と本心肯定形信念]

信念には、二つの形式がありまして、業想念を否定する業想念否定形信念と、本心を肯定する本心肯定形
信念があるのです。この二つは表現が正反対であるだけで、意味は同じなのです。

業想念否定形信念の具体例は、「いかなる苦悩も消え去ることになる」という言葉で、守護の神霊によっ
て、いかなる苦悩も消し去っていただき、いかなる苦悩も消え去ることになる、という意味であり、それ
は自力で何も為さずとも、無為にして、神はからいで成るのですから、念力にはならないのです。

本心肯定形信念の具体例は、「今からよくなる」という言葉でありまして、これは自力で今から善くする
のではなく、守護の神霊に自己の運命を委ねて、守護の神霊の大愛によって、自己の運命を善くしていた
だくことで、今からよくなるのですから、「なる」という言い方をすれば、念力にはならないのです。

「人間の苦しみは永劫に消えないものだ」とか「世界は永遠に平和にはならないさ」という考えを持って
おりますと、業想念の存在をいつまでも認め、本心の現れを否定しているのですから、その人から苦悩が
消え去ることはないし、その人はいつまでたっても平和な世界に住めないのです。「いかなる苦悩も消え
てゆくのだ」と業想念を否定することによって、その苦悩は消えてゆくのですし、個人的には「必ず自分
の運命は善くなる」と本心の現れを肯定し、人類的には「必ず世界は平和になる」と本心の現れを肯定し
てこそ、個人の運命は幸福となり、世界は平和になることができるのです。

業想念を否定しただけでは弱いですし、本心を肯定しただけでも弱いので、業想念を否定するとともに本
心を肯定することによって、信念としては最大の力を発揮できるようになるのです。そこで五井先生は、
「いかなる苦悩も消え去るのである」とまず業想念を否定する信念の言葉を書いてから、その後に「今か
ら善くなるのであるという善念を起こす」と、本心の善を肯定する信念の言葉を書いているのです。

[正しく強い信念を起こすには]

さてそこで、「悪い方へ考えてしまうような時に、『消え去るのである』という"強い信念"を、念力的
にならずに、起こすには、どのようにすればよろしいのでしょうか?」というご質問にお答えすることに
しましょう。

五井先生から「いかなる苦悩も必ず消えるものである」と教えられて、素直にその言葉を信じられる人は
幸いな人ですが、そうした素直な人はめったにいるものではありません。現実に病気はつづいているし、
貧困の生活もつづいているし、苦しみや悩みがつづいているし、不幸な環境から逃れることができない、
という人は、どうしても悪いほうへ悪いほうへと考えがちで、「今の苦悩は消え去るのだ」という言葉
を、自分にくりかえし言い聞かせても、強い信念を持ちつづけることは、容易なことではありません。

そこで、正しく強い信念を持つには、いったいどうしたらよいのか、という問題になってきます。その正
しく強い信念を持つには、やはり守護の神霊への祈りが必要であり、守護の神霊への祈りから、自然に正
しく強い信念がうまれてくるものなのです。正しく強い信念を持てるようになるためには、このように祈
ればよろしいのです。五井先生が教えて下さった祈り方を紹介しましょう。

[業想念否定の祈り](次の中から、お好きな祈り方を選んで下さい)

守護霊さま、不安な想いをお消し下さい。
守護霊さま、悪いほうへ考えてしまう想いをお消し下さい。
守護霊さま、○○○の想いをお消し下さい。
守護霊さま、○○○の想いが消えますように。
守護霊さま、○○○の想いを消し去りたまえ。
守護霊さま、○○○の想いが消えますように、お願いします。
守護霊さま、浄めたまえ。

[本心肯定の祈り]

守護霊さま、今から私の運命が善くなりますように。
守護霊さま、今から善くなりますように。
守護霊さま、私の運命を好転せしめたまえ。
守護霊さま、私の天命を完うせしめたまえ。
守護霊さま、神の子としての完全円満を現わしたまえ。
守護霊さま、私の本心を一日も早く現わしたまえ。
守護霊さま、明るく愛深い私にならしめたまえ。

[業想念否定と本心肯定を合わせた祈り]

守護霊さま、業想念を一日も早くお消し下さって、私の天命を完うせしめたまえ。
守護霊さま、業想念が消えて、本心が現れますように。

[世界平和の祈りから正しく強い信念が生まれてくる]

このように祈っておりますと、「ああ、守護霊さまによって、不完全な業想念は、浄められてゆくんだな
あ。業想念は、いつしか必ず消え去るものなんだ」と強く実感できるようになります。「業想念は消え去
るんだ、消え去るんだ」と暗示のように自分に無理に言い聞かせなくとも、このように守護霊さまに祈っ
ていれば、正しく強い信念が自然と湧き起こってくるのです。

「神さまは大愛であるのだから、神さまにお任せしている私を、決して悪いようにはなさらない」と神さ
まの大愛を信じることが根本であるのですが、神さまの大愛を信じる信念も、守護霊さまにこのように祈
っているうちに自然に身についてくるものです。「今から善くなるのである」という善念も、守護霊さま
に本心肯定の祈りを祈っているうちに、自然に湧き起こってくるのです。

「強い信念とは、どのようなものをいうのでしょうか?」というご質問にお答えしますと、こうした祈り
から生じてくる正しい信念は、鉄に磁力が帯びるように、私たちの全身に、強い信念の磁場を作り出して
ゆき、周囲の人々にまで、その信念の磁場が伝わってゆくのです。「必ず善くなる」という強い信念が、
しだいに高まってゆきますと、現実には不完全な世界にいても、自分の心は「必ず善くなる」という心境
を超えて、「私はすでに完全円満な世界に住んでいる」という理想郷に住めるようになってくるのです。

「世界平和の祈り」を祈っておりますと、「業想念は必ず消え去るのである」いう強い信念も、「今から
善くなるのである」という善の強い信念も、自然に持てるようにもなります。「世界平和の祈り」を祈っ
ておりますと、「世界は平和になる」という信念が生まれ、次に「世界は平和になる」という信念をもっ
て「世界平和の祈り」を祈っておりますと、いつのまにか「世界は平和である」という絶対的な境地に到
達している自分を発見するようになるのです。そこで「世界は平和になる信念で世界平和の祈り」と私は
提唱しているのです。教義の最後に「世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も真の救いを体
得できるものである」とありますが、私も真の救いを体得できた一人であるのです。


世界平和の祈りの詩
No.630 森島恒吉    1999/07/23 (金) 09:57 富士宮市
世界人類が平和でありますように

隠れ信者さん、ありがとうございます。

世界平和の祈りは、永遠にいつまでも最高の祈りであるのです。
世界平和の祈りは、史上で最初で最後の真の祈りであるのです。
世界平和の祈りは、なんの欠陥もない完全な祈りであるのです。
世界平和の祈りは、神のみ心と一つになれる祈りであるのです。
世界平和の祈りは、世界を平和にする唯一の祈りであるのです。
世界平和の祈りは、人類を愛する最大の愛の祈りであるのです。
世界平和の祈りは、理想と現実を結ぶ中庸の祈りであるのです。

真理の言葉に把われず、三界の因果に把われず、世界平和の祈りを祈って下さい。
世界平和の祈りを祈っている時、あなたは神我一体となって大光明を放っているのです。

あなたの天命が完うされますように


五井先生の短歌の紹介
No.668 森島恒吉    1999/07/24 (土) 10:37 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ねこりんさん、隠れ信者さん、おはようございます。

今朝は、五井先生の短歌を紹介しましょう。(一部は旧かなづかいのままになっています)
[詩集いのり]五井先生著(白光真宏会出版局)より

天(あま)照らす真(まこと)の光地に呼ぶと我が祈り言(のりごと)は平和の祈り

ひとひとの心ひらくと祈るなり世界平和は神の祈り言

世界平和祈る忽ち祈(の)り人の姿光りにつつまれてあり

人間智超えし光につながらむ世界平和を祈る人々

世界平和祈る忽ち自(し)が想ひ神の光にとけて入るべし

人の世のすべて安けく生くる日を神こそ願ふひた祈れ子よ

幼きも老いも無心に唱へいる世界平和の神の祈り言

迷ひ心迷へるままに先づなさめ世界平和を祈る神言(かみごと)

世界平和世界平和と祈り言しつつしあれば生活(たつき)安けし

世界平和祈れば天つ神(あまつかみ)国つ神(くにつかみ)人の世蔽(おお)ふ雲消しくるる

世界平和祈れば世々を蔽(おお)ひ来し欲の想ひのいつか消ゆべし

※天ツ神、国ツ神の「ツ」とは、漢字では津と書き、「〜の」という意味で、いろいろな解釈があるが、
天津神とは天界にいる神のことで、国津神とは地上界で働いている神と解釈してよい。日本の神、アメリ
カの神、中国の神というふうに、各国の守護神を国津神と解釈する人もいるが、それは誤りで、国津神の
国とは、一つの国のことではなく、地上のすべてをさすのである。各国の守護神をさす場合には、国土神
(こくどかみ)という言い方が正しい。(森島註釈)


五井先生のタバコについてのお話
No.670 森島恒吉    1999/07/24 (土) 22:39 富士宮市
世界人類が平和でありますように

隠れ信者さん、タバコをやめる決断をなさって良かったですね。五井先生が、タバコについて、こんなこ
とを教えて下さったことを思い出したので、非常に参考になりますから、書いておきましょう。

【五井先生の法話】(タバコの業について)

「タバコを吸う人は、自分の中に業(ごう)があるわけですね。自分の中にある業が、業であるタバコを
引きつけるんです。タバコを吸う業が自分の中にあるから、業であるタバコを吸いたくなるんです。業が
業を引き寄せるんです。自分の中に業がなければ、タバコを吸わないのです。タバコを吸っている人は、
それは業なんだから、おやめなさい。

『世界平和の祈り』を祈っておりますとね、今までタバコを吸っていた人も、神さまの光明に浄められて
業が消えるから、自然にタバコをやめてゆくんです。でも、『これぐらい、タバコくらい、いいだろう。
みんな吸ってるんだから、べつに悪いことはないんだ、いいんだ』と業を肯定してしまいますと、なかな
か業が消えてゆかないんです。業の存在を肯定しているんだから。

だから、タバコを吸いたくなったら、『ああ、これは消えてゆく姿だ』と思って、業を否定しなくてはい
けません。反省しなくてはいけないのです。そして『世界平和の祈り』を祈っていれば、自分の中にある
業は消えて、タバコはやめられるのです。『どうせ、消えてゆくんだから、何やったっていいんだ』と思
うのは、消えてゆく姿の教えがわかっていない人。消えてゆく姿の教えには、反省があるんです。反省し
て、業を否定して、お祈りの中に投げ入れてしまう。それではじめて、業が消えてゆくんです。」


悪業に妥協してはいけません
No.673 森島恒吉    1999/07/25 (日) 07:38 富士宮市
世界人類が平和でありますように

一休さん、はじめまして。
私は、これからでかけるところなので、短くお答えしますね。
一休さんは、いいですか。惑わされてはいけませんよ。

「現在、日本の法律で栽培も使用も禁止されている、大麻を吸引することを、日本の法律でも認めよ」と
いう考えの持ち主の彼らに対して、私は反対したんですよ。その私に対して、彼らは批判したんです。
「大麻を吸って、何が悪いか。大麻を吸わないで、批判できるか。大麻には、こんな良い効果がある」と
彼らは主張しているのです。その主張に反対している私を、彼らは批判しているのですよ。

彼らが、私を批判するのは、結構ですが、「麻薬である大麻を吸うことを認める」わけには、いかないで
しょう。わかりますか。大麻を吸うことを、私は許しませんし、五井先生だって許しません。日本の法律
だって、許してはいませんよ。そうした常識的なことがわからず、「大麻を吸うことを認めろ」とくりか
えししつこく主張してくるならば、これは許すわけにはいきません。それで削除したんですよ。

大麻を吸うことを認めることが、寛容だなんて、馬鹿なことを言っちゃあ駄目だよ。それは業に妥協する
ことであって、真の調和に反することなんです。「私への批判を許さない」のではなく、「悪業を許さな
い」のです。いいですか。それをはっきりとご理解下さい。

あなたの天命が完うされますように