森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


私へのご批判は残しておきます
No.701 森島恒吉    1999/07/27 (火) 21:03 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[○○○さんの私へのご質問]
森島さんは御自分で、「教える」「伝える」専門で、教えられることは何も無い方なのですか?
人に意見するだけで、意見されるのは許さない…というお考えですか?
何故、他人から意見されることを嫌うのでしょうか?
意見すればいいのに、何故しないのですか?

[私のお答え]
○○○さんは、まず私のことを良く知ってから、私のことについて、ご質問するべきでしょう。
この掲示板の過去のログをすべてお読み下さい。「他人から意見されることを嫌う」とあなたはご自分の
勝手な判断で決めつけているようですが、私へのご批判は、宝物のようにありがたく頂戴して、ほとんど
記録に残してございます。将来、たくさんたまりましたら「森島恒吉へのご批判集」として、同じインタ
ーネットに、この掲示板とは別に独立させて、世界に常時放送する予定で、楽しみにしております。

大麻についての広告宣伝のような文章は、五井先生の教えとも、私の宗教観とも関係なく、くだらないの
で削除しましたが、○○○さんの私へのご批判は、わかりやすい文章でよくまとめられていて、私自身に
対するご批判の文章なので、ありがたく感謝して頂戴した次第です。ありがとうございます。

「意見すればいいのに、何故しないのですか?」というご質問ですが、私は自分の意見を、何度もすでに
申し上げております。しかし、あなたは一方的にお話しするばかりで、私を少しも理解しようと努めて下
さいませんでした。あなたにご理解いただけなかったので、これ以上、あなたに何を意見しても無駄だと
判断して、意見することをやめたのです。

私へのご批判をいただき、誠にありがとうございました。
あなたの天命が完うされますように


「世界平和の祈り」の中心者として祈るのみ
No.706 森島恒吉    1999/07/28 (水) 01:28 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ブブネコさん、こんばんは。(^_^)

[ブブネコさんのコメント]
多くの閲覧者にとっても、森島さんにとっても大事なこと、多分それは"我即神也の宣言"(これに"
印"を含めても構いませんが。。。)の解釈についてだと思うんです。
白光誌上に掲載された文章を題材にしてお話をされるなら、みなさんも森島さんの御意見を理解すること
が出来るのではないでしょうか?(以前もされていたようにね。。。。)
今年の6月号に、西園寺昌美氏の「我即神也と願望成就」という打って付けの文章があります。
これを森島さん流に読み解くとどうなりますか?
もしもご解説いただけるなら、森島さんがどんなお考えで、どんな思想をお持ちなのか、多くの方にご理
解頂けるのではないでしょうか? そうすれば、また多くの方々と、五井先生のみ教え、森島さんのお考
えについて意見の交換ができるのでは? よろしくお願いいたします。m(__)m

[私のお答え]
白光誌については、もちろん毎月読んでおります。その感想文については、はっきりと何月号について、
と附記するときもありますが、附記しないで、その内容について、私の感想を述べたり、批判する場合は
さりげなく批判しております。過去のログには、そうしたことが書いてあるはずです。

ただ、最近は批判することも少々アキアキしてきたのです。なぜかというと、昌美先生の教えのパターン
が固定化されてしまって、他の宗教者の本からの引用をのぞけば、毎月、同じことしか書かれていないか
らです。昌美先生の教えは、真理に把われた「我即神也」と、三界の因果法則の「心の法則」と、最近で
はマンダラのお話しかありません。そのほかには、「地球世界感謝行」とか、「光明思想徹底行」などが
ありますが、それらについては、すでに私の意見は書き終えました。

「我即神也と願望成就」についても、すでに何度も、私は自分の感想を書いておりまして、過去の私の文
章を読んで下されれば、それで充分なはずです。それを読んでも、わからない人は、なんど説明してもわ
かってもらえないでしょうから、あきらめるしかありません。今生で五井先生の教えを理解できる人と、
来世になってから、ようやく五井先生の教えを理解できる人がいるものなのです。ある程度、相手とお話
をして、相手が五井先生の教えを理解するには早すぎるようでしたら、「世界平和の祈り」を一応話して
おいて、五井先生のみ教えをもっとよく理解できる人を相手に、み教えを伝えたほうがよいのです。

昌美先生の教えについての批判は、私はすでに充分に言い尽くし、語り尽くし、書き尽くしました。そし
て今は、「世界平和の祈り」を実行するだけの段階に、私たちは入ったのです。「世界平和の祈り」が、
昌美先生の提唱されている「我即神也」よりも、はるかに優れていることは、何度も申し上げております
し、同じく「願望成就」よりも、「世界平和の祈り」の祈りによって、守護の神霊から、天命を完うする
ために必要なすべてのものを授けられる生き方のほうが、はるかに優れていることも、私はすでに説き終
えました。これだけ言ってもわからない人は、何度言っても、わからないでしょう。

今は、私はただ「世界平和の祈り」を祈っているだけで良いのです。「世界平和の祈り」の中心者として
私はただ静かに祈っていれば、それで良いのです。これからは多くの人々と意見を交換する必要は、もう
ありません。私は、充分に語り尽くしました。論議は語り尽くされたのです。「世界平和の祈り」は最高
の祈りである、これが私の出した結論なのです。それが理解できぬ者は、他の行法を、お好きなように、
おやりになったらよろしいでしょう。私は「世界平和の祈り」の中心者として祈りつづけるのみです。

世界人類が平和でありますように
世界人類が平和でありますように
世界人類が平和でありますように


正直光明思想
No.712 森島恒吉    1999/07/28 (水) 16:30 富士宮市
世界人類が平和でありますように

高橋さん、ありがとうございます。
「世界平和の祈り」を祈って、感謝の気持ちがわいてきた、というご体験は、素晴らしいですね。

>嫌だから消したいは、エゴなのですよね。まずは、その『嫌だ』という思いの方を消してしまえば、そ
>れがあってもなくても、あまり気にならなくなりますよね。そうすると抵抗が無くなって、執着が消え
>て嫌だった現象が本当の消えて行く姿になるんですよね。

業想念を嫌って、「業想念をなくそう、消そう」といういう想いは、エゴの業想念ではなく、これは本心
からくる想いなのです。清らかな本心が、汚い業想念を嫌うのは、当然のことであるのです。また、嫌う
という感情には、「本心を嫌う業想念」というのもあるのです。業想念は、本心の光明を嫌って、本心を
攻撃し、自分がやった悪いことを他人にもするようにそそのかす人がいるものです。

嫌な他人や嫌な事柄に関して、「嫌だ」という想いを自分の意思力で消すことは、そう簡単なことではあ
りません。味噌もクソも一緒に見て、すべてを美しい、と無理に思い込むのではなくて、美しいものは美
しい、汚いものは汚い、好きなものは好き、嫌なものは嫌だ、と見てよいし、思ってもよろしいのです。

そのほうが自分に嘘をつく必要がなく、自分の気持ちに正直でしょう。嫌なものは、正直に嫌だと思って
いいから、次に「ああ、これは消えてゆく姿だ」と思って、自分では消せないから、守護の神霊にその嫌
なものを「世界平和の祈り」の中に入れて消し去っていただくのです。そうすると、時間が経過するにつ
れて、嫌な現象も自分の目前から消えてゆくということになるのです。

これが五井先生の「消えてゆく姿」の教えであり、正直光明思想(中庸光明思想)であるのです。

あなたの天命が完うされますように


空観の方法について
No.720 森島恒吉    1999/07/28 (水) 22:37 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[高橋荘介さんのご質問]

本心(真我)の意識というものは、良いとか、悪いとか、好きだとか、嫌だという価値判断や感情と言う
ものは存在せず、すべてが、そのまま、ありのままで大調和していると思うのであります。
ですので、『嫌だから消そう』という事ではなくて、『許し、受け入れ、愛して、包み込むような意識の
中で、もう必要無いから手放す』というのが、真我の意識なのではないでしょうか? その対象に対して
『嫌だから消そう』という不快な感情、忌み嫌う意識というものは、あくまでも、肉体自我の想念だろう
と思うのであります。五井先生のおっしゃった、すべてのすべては、大調和の大光明の神様の御心の中に
存在している、というお話が、ここでつじつまが合うように思えてなりません。
いかがでしょうか?

[私のお答え]

おっしゃるとおり、本心と感情とは違いますね。本心の中に、感情想念は存在しません。本心は完全円満
で大調和しておりますから、悪も嫌なものも、そうした不完全なものは、一切存在しておりません。しか
し、完全な世界になる過程の段階にある現在の肉体界には、長いトンネルを掘っているときに、たくさん
の泥が出るように、悪も嫌なものも、たくさん存在しているわけです。肉体人間の想念の中には、聖者を
のぞいて、ふつうの人々の幽体(潜在意識)には、過去世からの善悪含めた感情想念が多く蓄積されてい
るのです。悪が存在していると申しても、感情想念が蓄積されているといっても、それらは実在ではない
のですから、いずれは消えてゆくのですが、現在では確固として存在しているように見えるわけです。

その業想念の消えてゆく姿に対して、昔から多くの聖者賢者が、どうしたら把われないで、大調和してい
る本心だけを見つめていられるか、といろいろと自分で工夫したり、守護の神霊から自分に合った修行法
をインスピレーションで授かって、業想念の渦から解脱して真我を発見することに成功し、その道を弟子
に伝えたのです。それが世界の各宗教となって、数千年と連綿として、今に伝わっているわけです。

つまり、真我を現わすには、種々の道、方法がありまして、『すべてを許し、受け入れ、愛して、包み込
むような意識の中で、もう必要無いから手放す』というようなあなたのやり方でも、それで真我を現わす
ことが可能ならば、その方法で行じても結構なのです。

真我を見つめている人は、相手を許すも許さないもないし、相手を受け入れようという意識も、愛してあ
げようという意識もないし、相手を包みこんでやろうという意識も持たずに、相手を愛することのできる
心境の人なのです。そうした心境の人にとっては、相手の業想念を手放してあげよう、という人為的な意
識さえもなく、自他一体観の境地にあり、自分一人高見に立ったような意識さえも、すでに無いのです。

すべての業想念に把われず,本心である真我をひたすら見つめてゆく方法は、釈尊の説いた空の行法であ
り、その空になる行法にも、大きく分けると自力行と他力行の二つの道があるのです。あなたのお考えの
その方法は、自力で空の境地にいたる方法で、座禅の修行法と同じやり方であるのです。その方法は間違
った方法ではありませんから、その方法がご自分に合っていると思ったら、その道をお進みになったらよ
ろしいのです。過去世で座禅修行をなさった方は、この世においても、また同じ形式の修行法をやりたく
なるもので、そうやって何代もかけて、自分に合った一つの道を精進してゆくものなのです。

但し、そのような方法は、あなたにはできることであっても、誰でもできることではありません。大半の
一般衆生は、「良いとか、悪いとか、好きだとか、嫌だ」という価値判断や感情というものが存在してい
て、「本心は大調和している」とは思えないし、本心を信じることさえもできないのです。多くのふつう
の人々は、他人を許せないし、愛せないし、受け入れることはできないし、包み込むこともできないし、
相手の悪を手放すこともできないのです。上根(じょうこん・生まれつき魂の高い人)をのぞいて、下根
(げこん・生まれつき魂の低い人)のふつうの人々は、不快な感情を持っているし、忌み嫌う意識を持っ
ている凡夫であるのです。「すべてのすべては、大調和の大光明の神様の御心の中に存在している」とは
思えない心境の人々ばかりなのです。

そうした下根の凡夫の人々には、何よりも難しい方法であっては救われません。悪も不完全な姿も、真実
は存在しないものなのです。実相からいえば、悪は無いものなのです。しかし、そんなことを言っても、
ふつうの人々には理解できません。そこで五井先生は、理想と現実を結ぶために、悪がこの世に存在して
いることを一度は正直に認めつつ、時間の経過とともに、すべての悪や不完全な現象は消えてゆくのであ
る、と業想念を漸次否定してゆく方法を発見されたのです。しかし、こうした中庸の業想念否定論も、こ
れだけでは未だ一般衆生には難しく、現実の日常生活における苦悩を解決する手段とはなりえません。

そこで五井先生は、法則としての神のほかに、愛の働きとしての神である守護の神霊による救われの道、
他力易行道を説かれたのです。その具体的な方法が、守護の神霊の加護を願う祈りの道、個人人類同時成
道の「世界平和の祈り」の道であるのです。この「世界平和の祈り」を祈りつづけておりますと、すぐに
高い心境に行けるわけではありませんが、無理なく自然に楽に苦しまずして、いつの間にか、誰でも聖者
と同じ立派な境地へと導かれてゆくのです。

以上のことを知って、あなたに合った方法で、空観の修行をなさったらよろしいと思います。また空観を
する場合、善き指導者につかないと憑依霊につかれる危険がありますから、空観は一人でなさらないで、
善き指導者を見つけて、その師について空観修行をなさることです。いずれのやり方にしましても、守護
霊さま、守護神さまのご加護を祈った上で、空観修行することが大事です。

あなたの天命が完うされますように


心を明るく清らかに澄ますには
No.727 森島恒吉    1999/07/29 (木) 16:08 富士宮市
世界人類が平和でありますように

子羊さん、ありがとうございます。子羊さんのご質問に、お答えします。

[質問1]
欲望の想いに把われているとき等に、守護霊様(神様)にすがりつき、守護霊様を "強く"念じた時に
心がスーッと澄んだように感じて、欲望等が消え去ってしまったように感じる時があります。このような
場合には、どのように考えれば、よろしいのですか?
五井先生は「神様は、神様がしたとわかることは、しない」「"波"にとらわれないで、波は全て消えて
行く姿と思いなさい」等と、教えてくださっていますが...

[お答え1](消えてゆく姿の後に現れるもの)
「神様は、神様がしたとわかることは、しない」という言葉の意味が、私にはサッパリわかりません。そ
れは五井先生が教えて下さったとの事ですが、私にとっては、初めての言葉です。いったいどこに書いて
ある言葉で、どういう意味なのでしょうか? 私の知る範囲で、お答えしてゆくことにいたします。

守護霊さまに祈って、欲望が消え去り、心がスーッと明るくなり清らかに澄んでくる感覚がしたならば、
「守護霊さまに統一できた」と判断して結構です。「すべてを消えてゆく姿と思いなさい」と教えており
ますのは、霊的な人は、統一中に様々な神仏の姿が見えてきたり、神仏の声が聴こえてきたりすることが
ありまして、神仏から「あなたは歴史上かつてない大聖者となるのだ」とおだてられたり、「あなたの心
境が進んだから、世界平和の祈りの次に、これをやりなさい」と神示らしき言葉を受けたりすることがあ
るのです。あるいは逆に、「おまえみたいな駄目なやつは、いない」とケチョンケチョンにけなされて、
失意のどん底に突き落とされる、ということもあります。

しかし、立派な神仏の格好で出てきた霊的な存在が、必ずしも本物の神仏とは限らないのですし、「これ
は宇宙神からの神示だ」と言われたからといって、それが本物の神示とは限らないのです。また霊的な声
が聴こえてきて、さんざんけなされたとしても、本物の守護霊が、そう思っているとは限らないのです。
ですから、霊が見えたり、霊の声が聴こえてしても、いったんは「すべて消えてゆく姿」と想い、「世界
平和の祈り」を祈りつづける必要があるのです。そして、何も見えたり聴こえたりしなくても、心が明る
くなり、清らかに心が澄んでくるならば、それが正しい統一と判断して良いのです。

明るい清らかな澄んだ想念は、実在の本心から流れてくる想念ですから、「消えてゆく姿」と否定しても
消えることはありません。すべての想念を否定したら、善悪の業想念は消えてゆくのですが、実在である
本心波動まで消えるわけではないからです。無念無想で終わりではなく、無念無想になった瞬間に、空即
是色といいまして、本心の光明波動が出現してくるわけです。

[質問2]
私は、自分の心が、澄んだように感じたり、澄んでいないと感じたりすることが、あります。このような
時には、どのように考えればよろしいのですか? 五井先生は、「澄んだように感じるのが、本当の自分
である」と、教えてくださっていますが、自分の心が、澄んだように感じる時にも、幽界や霊界から
の、"澄んだように感じる波動"(?)を勘違いしている時は、あるのですか? これらの、感じ(波
動)を、消えて行く姿と感じて、とらわれなくなる方法や、常に自分の心を、澄ませておく方法等を御教
授していただけたら、幸いです。

[お答え2](常に心を清らかに澄ませておく方法)
幽界からは、「明るく清らかに澄んだ波動」というのは流れてはきません。幽界から流れてくる想念波動
とは、不安、恐怖、嫉妬、怒り、憎悪、不平不満、焦り、病念、怠惰、色情因縁などの低級な暗黒想念で
す。本心からの光明波動なのか、幽界からの暗黒波動なのかは、たいていの人にも判ると思いますが、難
しいのは、喜びの想念なのです。喜びの想念には、本心からの波動と幽界からの波動の二つがありまして
どちらなのか判別することは、これはなかなか難しいのです。

現世利益を願ってばかりおりますと、その欲望波動に合致した幽界の生物が憑依してまいりまして、幽界
の生物なのに、その人が聞いただけで信用してしまう名前、たとえば宇宙神のような神仏の名前をかたっ
て「汝の願望を叶えてあげるぞよ。汝の祈りはすでに叶えられたり」と、あなたを非常に喜ばす甘い言葉
で誘ってくることがあります。そして、願望が成就したような非常な喜びの感情を、ダーッと滝のように
流してくるのです。これは本心からの歓喜と違って、有頂天(うちょうてん/幽界でも下のほうの階層世
界)の喜びにすぎないのですが、たいていの人は、ついこの喜びの感情にすっかりだまされてしまうので
す。こうした幽界の暗黒波動に把われなくなるには、「消えてゆく姿」と否定して、「守護霊さま、守護
神さま」と守護の神霊を呼びつづけるか、「世界平和の祈り」の中に入りこんでいることです。

欲望が少しでもありますと、幽界の生物の餌食にされ、おもちゃにされてしまいますから、よほど注意し
なくてはなりません。「お金が欲しい」「地位が欲しい」「名誉が欲しい」という現世利益は願わない人
でも、「霊能力が欲しい」「超能力が欲しい」「神のように人から崇められたい」「神人と呼ばれたい」
というような宗教的な名誉欲、権力欲、優越欲のような願望を持っている人も、形は違っても、それは自
分勝手な欲望の変形にすぎないのですから、幽界の生物に欲望を増長され、自分の意思力で自分の思うよ
うに自分の運命をつくっているつもりになっていても、陰では、幽界の生物に運命を支配されているので
す。幽界の生物や低級な動物霊が肉体を支配しますと、一時期は非常に幸運になったり、お金がもうかっ
たり、良い想いをしたり、自分の願うままに成功したりするのですが、それは幽界の生物から借金を重ね
ているようなもので、後になって前世からの徳がなくなると、大変な借金苦を抱えたり、家庭が突然破壊
されたり、仕事も何をやっても失敗ばかりするようになったり、人間関係が崩れたりして、不安と恐怖に
おののく人生へと転落してゆくのです。この世で成功したように見えていても、他界してから地獄へと転
落してゆくのです。それははっきりとしているのです。

「願望成就をイメージして念じる」という念力の方法は、真実の宗教の道ではなく、邪道であるのです。
この世で大宗教教団をつくり上げた新興宗教の教祖が、祈りと念力の違いを知らず、念力による願望成就
を指導したために、地獄へと転落していった例は、たくさんあるのです。真実の祈りをしていれば、何も
強く念じなくとも、天命を完うするために必要な物質や環境は、守護の神霊によって自然に授けられるの
です。あなたが「あれが欲しい、これが欲しい」と願望を念じなくても、あなたに何が必要かは、大智慧
である神は、とっくにすべてご存じなのです。念力による利益に酔いしれることなく、守護の神霊の大愛
を信じて、地道に真実の祈りをしてゆくことが、真実の幸福と安心立命を得る最良の方法であるのです。

[質問3]
「白光への道」39ページに、「自分の容貌、才能、のような肉体的自信だけに頼って結婚するのは、危
険なことだと思います。」との記述があります。容貌や才能や家柄等が、人より優れている人は、この言
葉をどのように、受け止めればよろしいのでしょうか?この、お言葉に、あまりとらわれると、女性に対
して、かえって(自信を否定するために)自信のない接し方になってしまい、うまく行くものも、うまく
行かなくなってしまう可能性があると思うのですが。(勿論、これは、私の話では、ありませんよ)

[お答え3](善き配偶者を見つける方法について)
結婚というのは、男女がお互いに好きになって、深く愛しあうようになって結婚するわけですが、過去世
の因縁をぶつけ合うために結婚する業因縁による結婚と、魂がぴったり合った守護霊に祝福された結婚が
あるのです。そうした霊的なことは、ふつうはわかりませんから、「ただ好きだから、結婚する」という
のは、直観力の優れた人の場合はうまくいきますが、たいていは表面的な容貌や才能や家柄だけで判断し
て結婚するために、結婚してからうまくいかなくなってしまうことが多いのです。

「結婚するまでは、とても優しい男性だったのに、結婚したとたん、豹変したように夫から暴力を受ける
ようになった」という話をよく聞きますね。また逆に、「優しかった妻が、夫を毎日殴るようになったが
それでも夫のほうは、怖くて逃げるに逃げられない」という情けない夫の話もあります。それは過去世か
らの業因縁が、初めは隠れて潜んでいるのですが、結婚して逃げられない立場になってから、消えてゆく
姿として一挙に表面化してくるからなのです。

似た者夫婦という言葉がありますが、類は類を呼ぶで、良い配偶者を得たいと思ったら、まず自分の人格
を磨かなくてはなりません。たとえば、自分が怒りっぽい性癖を持っているのに、妻や夫にはおおらかな
性格を求めても、そうした人は近づいてはきません。業因縁の作用として、自分の心境に合った人が引き
つけられてくるものです。どうせなら、善業と善業が引きつけ合うほうがよいでしょう。いつも明るくま
じめに仕事をして、人々のために親切に尽くしていれば、あなたにふさわしい配偶者が現れてきます。

五井先生が「肉体的な自信だけに頼って結婚するのは危険です」と説いたのは、「過去世からの因縁を知
らずに結婚するのは危険です」と、結婚の背後にある霊的なことを言っているわけですが、ふつうの人に
は、相手の過去世の因縁もわからないし、二代前、三代前の先祖がどのような行為をしたか、という因縁
もわかりませんから、それではどのように相手を選んだらよいのか、ということになります。そこで、幸
せな結婚を望む男女のために、五井先生は、このようなお祈りを勧めているのです。

「守護霊さま、私の天命が完うできますように、善き配偶者をお授け下さい」

このお祈りを毎日することによって、あなたにふさわしい配偶者は、あなたの目の前に、必ず現れます。
あなたにふさわしい女性(男性)が現れるまでは、あなたは自信の無い態度で、終始することでしょう。
どの女性(男性)と会っても、あなたはデートに失敗し、相手の女性(男性)とうまく交際できません。
しかし、あなたにとって、一番ふさわしい女性(男性)が、あなたの目の前に現れた時には、それまでの
自信のないあなたは消えてしまって、あなたは積極的に相手の女性(男性)に結婚を申し込むことになる
でしょう。何もすべての女性(男性)に好かれる必要はありません。たった一人の女性(男性)に愛され
れば、それで充分なのですから、それまでは恋愛に失敗するようになっているのです。

「『あなたの天命が完うされますように』とお互いに祈りながら、男女が仲良く手をつないで歩く姿は、
いいねえ…」と五井先生は、しみじみとおっしゃっていました。そんな明るく爽やかな恋愛ができる男女
のカップルを、唯一会の会員の皆さんから、つくってゆきたいものです。(^_^)

皆さんが幸せでありますように


虚栄のない生き方
No.740 森島恒吉    1999/07/31 (土) 01:44 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

聖書に出てくる、高い真理の言葉を聴きますと、深い感動を与えられ、心が洗い浄められる気がします。
前にも書きましたが、聖書マタイ傳福音書第五章から、イエスの言葉を再度紹介しましょう。

………………………………………………………………………………………………………
【文語体新約聖書】<マタイ傳福音書第五章38節〜48節より>

「目には目を、歯には歯を」
と云へることあるを汝ら聞けり。
されど我は汝らに告ぐ、
悪(あ)しき者に抵抗(てむか)ふな。
人もし汝の右の頬(ほほ)をうたば、左をも向けよ。
なんぢを訴ヘて下衣を取らんとする者には、上衣をも取らせよ。
人もし汝に一里ゆくことを強(し)ひなば、共に一里ゆけ。
なんぢの請ふ者にあたへ、借らんとする者を拒むな。

「なんぢの隣(となり)を愛し、なんぢの仇(あた)を憎むべし」
と云へることあるを汝等きけり。
されど我は汝らに告ぐ、
汝の仇(あた)を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。
これ天にいます汝らの父の子とならん為なり。
天の父は、その日を悪(あ)しき者のうへにも善き者のうへにも昇らせ、
雨を正しき者にも正しからぬ者にも降らせ給(たま)ふなり。

なんぢら己(おのれ)を愛する者を愛すとも
何(なに)の報(むくい)をか得(う)べき、
取税人(しゅぜいにん)も然(しか)するにあらずや。
兄弟(きょうだい)にのみ挨拶すとも何(なに)の勝(まさ)ることかある、
異邦人(いほうじん)も然(しか)するにあらずや。
さらば汝らの天の父の全(まった)きが如く、
汝らも全(まった)かれ。
………………………………………………………………………………………………………

イエスの深い愛が、私たちの心にしみてまいります。なんという深い愛でしょう。イエスの説くこのよう
な愛の行為こそ、神の子の行為であるのです。しかし、感動した後に、「このような真理の行為を、はた
して自分もできるか?」と考えてみると、「自分には、とてもできない」と思わざるをえません。

短剣で自分の目を無惨にえぐり出した相手を、私は赦せるだろうか?
自分のアゴを砕かれ乱暴に歯を抜いた相手を、私は赦せるだろうか?
自分が悪くもないのに、いきなり右の頬を叩かれて、それでも私は相手に左の頬も向けられるだろうか?
強盗に自分の着ている洋服を取られて、なお私は宝石や時計をも喜んで、相手に与えられるだろうか?
見知らぬ人から「この荷物を持って歩け」と言われて、私はその人の後について歩いてゆけるだろうか?
「あなたの家が欲しい」と請う者に、私は自分の住む家を与えることができるだろうか?
「百万円を貸してくれ」と借金を頼みにきた者に、私はお金を貸してあげることができるだろうか?

こうして自問自答しますと、どの答えも、「私はできません」と、私は答えるしかありません。ところが
「私は完全な神の子であり、真理を実行できる」と宣言する人は、このような愛の行為が実際にできなく
てはなりません。口先で「私は真理を実行できる」と言うことは、誰でもできます。しかし、真理の言葉
を口先で言えただけでは、真理を実行できたとは、言えないのであります。真理を実際に実行できないの
に、口先だけで「私は真理を実行できる」と言えば、それは偽善者となって神の子にはなれないのです。

ですから、どんなに真理の言葉に深く感動しても、真理そのものを行為することは、ふつうの人々にとり
ましては、難しいどころではなく、ほとんど不可能な行為と言ってよいのです。しかし、だからといって
「真理はどうせ実行できないのだから、欲望のままに生きよう」と業に妥協した生き方をしたり、神の子
になる、という理想を失ってはいけないのです。けっして、私たちは理想を捨ててはなりません。もし、
現実ばかりを見て、理想を捨てたら、私たちの地球は滅びることになるからです。

そこで私たちは、どのような生き方をしたらよいかと申しますと、高い真理の言葉は、理想として置いて
おいて、高い真理の言葉を無理にすぐに実行しようとしないで、「できることはできる、できないことは
できない」と正直に自分の能力を見つめて、理想に向かって一歩一歩自分にできる範囲で、理想への道を
歩んで行ったらよいのです。

イエスは、現代の私たちのために、次のような教えも残されています。

………………………………………………………………………………………………………
【文語体新約聖書】<マタイ傳福音書第五章9節より>

幸福(さいはひ)なるかな、平和ならしむる者、その人は神の子と称(とな)へられん。
………………………………………………………………………………………………………

平和ならしむる者とは、「世界平和の祈り」を祈る私たちのことであるのです。現在の私たちは、社会を
動かすだけの財力も無く、権力も無く、地位も無く、名誉も無い、非力な人間であり、イエスが説いた真
理の言葉を、そのまま実行できるほどの心境の持ち主でもありません。しかし、それでも私たちは、不完
全ながらも「世界平和の祈り」を祈ることは実行できますから、神の子と称えられるのです。

五井先生が「この世界平和の祈りを祈り続けてゆけば、必ずあなた方は神性を完全に開発でき、神の子の
本来の姿を顕現できるようになり、同時に人類を平和にすることができるようになるのです」と説いてい
るのですから、理想を今すぐに無理に実行しようとしなくても、今の不完全な心境のままで、容易に実行
できる「世界平和の祈り」を、私たちは祈ればよろしいのです。

真理の言葉を実行しようとしましても、それは不可能に近いくらい無理なことですし、どうしても周囲の
人々を偽るようになり、心苦しい生活をしなくてはならなくなります。「私は真理を実行できる」という
ように無理なことを言ったり、理想をすぐに現実に現わそうとする必要はありません。「私は真理を実行
できる」と説いている著書自身が、自分の書いたことを、日常生活の中で実際に実行できているとは限ら
ないのです。自分を実力以上に偉く見せるために、虚栄心から自分を高く見せようとして、自分でも実行
できないのに、あたかも誰でも実行できるように理想の言葉を書いている著者が、非常に多いのです。立
派な本を書いている著者だからといって、必ずしも実際行動は、立派な人とは限らないのですから、本の
内容を鵜呑みにしてはいけないのです。

私たちは、真理を現わそうと努力してゆくことは必要ですが、理想をすぐに実行しようと焦ってはいけま
せん。真理の言葉にひっかかって、無理に背伸びをすることを、真理に把われた人というのであります。
一度、真理に把われて、虚栄を満たす快感を味わってしまいますと、虚栄想念を剥がすのに非常に苦労し
まして、真理の把われから、なかなか抜け出せなくなってしまうのです。といって、イエスが真理に把わ
れているわけではなく、イエスは自ら説いた真理を実行できた、偉大なる聖者であったのです。その大聖
者の真似を、凡夫の私たちが、いきなり実行しようとしましても、それは無理であるというのです。

五井先生は、私たち凡夫が、真理を実行することの難しさを理解して下さって、「消えてゆく姿」という
教えによって、現在の不完全な自分の行為を否定し、「世界平和の祈り」という、いつの間にか現実から
理想へと近づくことのできる、やさしい祈りの方法を教えて下さったのです。私たちは、人に対して自分
を偉そうに見せることなく、見栄をはらずに、「私はこれだけの人間です」と正直に生きてまいりましょ
う。真理を現実に実行できないギャップは、神さまに赦していただきながら、「世界平和の祈り」を祈り
つづけてゆくことが、虚栄をはることなく、現在の私たちに実行できる最良の真理の実践であるのです。

世界人類が平和でありますように


業想念が消え去った後には、輝ける本心が残ります。
No.752 森島恒吉    1999/07/31 (土) 23:22 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[高橋荘介さんのコメント]
自己凝視・意識浄化の行とは、この心の中の壁を、自分で認識出来る、こちら側から解除し、抑圧された
感情や価値判断などを浄化・開放して行く作業なのであります。

[高橋さんへの私のお尋ね]
その浄化解放してゆく作業とは、具体的に、どうするのですか? 
"How To Do" を書いて下さい。

[むくちゃんからのご質問]
自分にとって"良い"とされる感情は残しておいて、"悪い"とする感情だけが消えて行くのではないで
すよね? それでは自分勝手ですよね? 私はそう思いますが、いかがなものでしょうか?

[私のお答え]
何が良いのか、何が悪いのか、肉体人間には判断できないことが多いんです。本人が「良い」「幸福」と
思ったことでも、神の目から見たら「悪い」「不幸」なことかもしれません。また逆に、本人が「悪い」
「不幸」と思ったことでも、神の目から見たら、善くなる喜ばしい前兆かもしれません。
ですから、善悪の感情すべてを一度は「世界平和の祈り」の中に入れて、浄めていただくとよろしいので
す。すると、悪は消えてゆきますし、古い小さな善は消え去ってゆき、より大きな善となって現れてくる
のです。善想念を神さまに消していただいたら、幸せが消えてしまうのではなくて、より大きな幸せが現
れてくるのですから、神さまにすべてを消していただいても、少しもご心配はいらないのです。本心は永
遠に消えないのです。不完全な姿が消え去った後、最後に残るのは、神の真・善・美・愛が残るのです。

また、なんでもご遠慮なくご質問してくださいね。

皆さんの天命が完うされますように


人に迷惑をかけずに、自分を生かす道はある!
No.761 森島恒吉    1999/08/01 (日) 15:34 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

皆さん、ありがとうございます。BnQさん、はじめまして。よろしくお願いします。
ブブネコさんは、ずいぶん変わりましたねえ。「世界人類が平和でありますように」の合言葉を必ず書い
て下さるようになったし、ユーモアを忘れずに、しかも言葉も上品になって、うれしく思います。

ソレイユさんの書いたことで、一つ気になったのは、「『人に迷惑をかけちゃいけない』という想いに把
われていた」という言葉です。ソレイユさんの知人が、「『人に迷惑をかけてはいけない』と思うのも把
われだ」と言ったそうですが、ソレイユさん、そんな変なことを言っている知人とおつきあいするのは、
おやめなさい。そんな変なことを言う人とは、遠ざかることです。

「人に迷惑をかけてはいけない」というのは、これは正しい常識でありまして、わがままに自分勝手に傍
若無人なふるまいをすることは、人間として誤った行為です。我(が)を強くするような、そんな誤った
ことを教える人の言うことを、まともに聞いてはいけません。あなたは気が弱い人で、他人の言うことに
すぐ左右されてしまいやすいので、祈りが深まって気が強くなるまでは、そうした変なことを話す知人と
は遠ざかったほうがよいのです。人に迷惑をかけずに、人を傷つけずに、自分の目的を達成する方法が必
ずあるのです。自分を生かし、人を生かす、そうした道を発見してゆくことを学んでゆきましょう。

皆さんの天命が完うされますように


それは自力行ではなく他力行です
No.763 森島恒吉    1999/08/01 (日) 17:17 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

高橋さん、ありがとうございます。ソクラテスの問答のようで、何度もお手数をおかけしました。

[高橋さんのコメント]
世界平和のお祈りをして守護霊様、守護神様、そして五井先生に、お渡しさせて戴くような気持ちで、手
放してしまうのであります。

[私の感想]
高橋さんは、ご自分の「自力行」について、今まで長々とご説明なさっていたのですけれど、高橋さんの
お出しになった上記の結論は、私たちの申している「他力行」のことなのです。それは「自力行」ではな
いのです。但し、「完全な他力行」ともいえません。「少し自力の想念が入っている他力行」といえるで
しょう。最初から、「完全な他力、完全な全託」の絶対他力の境地になることは非常に難しいので、高橋
さんのようなやり方や、晶さんのように「半分自力・半分他力」でも良いから、「世界平和の祈り」を祈
りつづけてゆけばよろしいのです。私は、皆さんの魂の生長を、温かく、長い目で見守っております。

皆さんの天命が完うされますように


凡夫のための中庸光明思想
No.767 森島恒吉    1999/08/01 (日) 22:14 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[ブブネコさんのご質問1]
ソレイユさんのコメントに登場する御友人は、私にはソレイユさんへの愛念から助言されているようにし
か判断が出来ません。このことからも、肉体想念でことの善悪を腑分けする、ということは、大変難しい
ことのように思われるのです。
また、仮に間違った助言であったにせよ、御友人がこの助言をされたのはやはりソレイユさんへの愛念な
のでしょうから、そうした相手の気持ちを損なうような形では、"人を傷つけ、人を生かさない"結果に
しかならないのではないでしょうか?

[お答え1]
自分を守り自分を傷つけないために、相手と別れることによって、相手の気持ちを損なうこともあります
が、そのマイナス分は、ソレイユさんが、その知人のために、「○○さんの天命が完うされますように」
と祈ってあげれば、それでマイナス分は消えますし、知人のためにもなりますから、知人を傷つけるので
は、というご心配全くいりません。相手のために祈ることが、相手を生かすことになるのです。

[ブブネコさんのご質問2]
五井先生は"逃げてはいけない"ということを、再三おっしゃっておられましたよね。逃げるのではな
く、すべてを丸抱えで受け止めて、消えてゆく姿として、包み込んで溶かしてしまいなさいと。。。。
イヤなものとして、ヘンなものとして対象をとらえてしまうことで、あらたな"とらわれの想い"を生み
出すようなことになるのでは?

[お答え2]
五井先生のお言葉の一つだけしか知りませんと、私もそうでしたが、どうしても不自由な考え方になって
しまいます。私も、「如是我聞」のこの言葉だけを読んで、若い頃に「逃げまい」として、人にどれだけ
ひどく傷つけられ、人にどれだけ苦しめられたかしれません。これは五井先生の責任でもあるんですね。
そこで私は、皆さんが誤解のないように、五井先生の教えの両面を必ず説くようにしているのです。

以前にも、この"PEACE NIFON"に詳しく書いておきましたが、如是我聞には五井先生はの言葉として、
「逃げてはいけません」と書いてあります。しかし、これは高橋さんが印象に残った言葉が、特に書かれ
たものでありまして、高橋さんにとっては「逃げてはいけない」という五井先生の言葉が強くひびいたの
ですね。高橋さんにとっては、非常に有益な言葉であったのです。

しかし、五井先生は他の人には「逃げなさい」とたびたび説いているのです。「車が向こうから来たら早
く逃げなさい」とおっしゃっていましたし、「この土地は悪いから、あっちの土地に逃げなさい」ともお
っしゃっていました。夫に暴力をふるわれている奥さんでしたが、「逃げなくちゃ駄目だ。なぜ逃げない
んだ。バカヤロー、早く逃げてケガの手当てをするために病院へ行きなさい」と五井先生がおっしゃった
こともありました。五井先生ご自身の体験としても、「道を歩いていると、向こうから嫌な男が近づいて
きたから、空の境地で私は反対側の道に逃げたのです。そしたら、私の後ろを歩いていた人が、お金をそ
いつに巻き上げられているんです」とお話下さいました。このように五井先生だって、逃げるんです。

ですから、何がなんでも、嫌なことにぶつかってゆかねばならぬ、ということはないのですよ。それを、
五井先生のご本の一部だけを読んで、片寄った固定観念を持ってしまうんですね。ですから、いろんな角
度から読む必要があるんです。そうしないと、非常に不自由な観念を作ってしまい、コチコチの固い頭に
なってしまって、「五井先生が、こうおっしゃったでしょ」と相手を責めてしまうのです。

「ある時には逃げて、ある時には逃げない」と自然法爾にできればよいのですけれど、それほどの境地に
なれる人は少ないのですから、「自分を傷つけられないように逃げなさい」と私は無理のない生き方を説
いているのです。自分の身を傷つけず守っておいて、相手の天命の完うを祈ればよいのです。

嫌なものは「嫌なもの」と認めて良いのです。嫌な人は「嫌な人」と認めて良いのです。そして、そうい
う想いを消えてゆく姿として、「世界平和の祈り」の中に投げ入れてしまえば良いのです。そういう無理
のない、誰にでもできる、やさしい生き方が、五井先生の説く中庸光明思想であるのです。

なお、五井先生の光明思想と、昌美先生の光明思想とは、まるで異なるものです。私は五井先生の光明思
想について述べているのでありまして、昌美先生の光明思想を信じている人は、昌美先生に質問して下さ
い。昌美先生は「人即神也」と宣言しておりまして、「誰をも神の子として拝まなくてはいけない」と説
いています。五井先生や私は、そんなに難しいことは説かないのです。嫌な人は、嫌な人と認めておいて
把われたら把われたでよいから、「消えてゆく姿」として、「世界平和の祈り」の中に入れてしまえば良
い、と説いているのです。これが凡夫のための易しい中庸光明思想であるのです。


「世界平和の祈り」は唯一最高の祈りである
No.768 森島恒吉    1999/08/01 (日) 22:44 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[BnQさんからの質問]
素朴であり、「これがわかればすべて良し」という質問をさせていただいて、よろしいでしょうか?
あなたにとって、人間とは何なんでしょうか?
森島先生の深い深い人生体験にもとづいて、御説明いただけないでしょうか?

[私のお答え]
ウ〜ムムム〜。(^_^;) 「人間とは何か?」というあなたのご質問は、わかる人には一言でわかるんです
けれども、わからない人には何万言ついやしてもわからない、という難しいご質問なのです。(◎_◎;)
「人間とは何か?」という問題は、「教義」にも答えがありますし、五井先生のご著書「神と人間」には
詳しく書かれています。どうぞ、五井先生の「神と人間」をお読み下さい。

「これがわかれば、すべて良し」という教えは、「世界平和の祈りが唯一最高の祈りである、とわかれば
すべて良し」です。しかし、私にしても、この真理を知るまで、20年以上もかかったのです。この簡単な
一言がわからない人が、いかに多いことか!

あなたの天命が完うされますように


私は逃げたい時に逃げます
No.771 森島恒吉    1999/08/01 (日) 23:41 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ソレイユさん、ありがとうございます。

[私のコメント]
「人に迷惑をかけてはいけない、というのも把われだ」という言葉に対して、私は納得しなかったので、
ソレイユさんのことを思いやって書いたのですが、ソレイユさんが、知人に対して、そのように好意的に
思っているならば、私は何も言うことはありません。

ブブネコさん、ありがとうございます。

[私のコメント]
ブブネコさんは、何に対しても逃げずにいたら、よろしいでしょう。私に強要しないで下さい。
私は五井先生から「逃げていいよ」と言われたから、私は逃げたい時には逃げます。

皆さんの天命が完うされますように


こどもに教えること
No.774 森島恒吉    1999/08/02 (月) 00:00 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

如是我聞に、五井先生のこんな言葉があります。

こどもに教えること。
(1)人に迷惑をかけない。
(2)自分のことは自分でする。
(3)余った力で人の手助けをしよう。

皆さんの天命が完うされますように


非常識・常識・超常識
No.783 森島恒吉    1999/08/02 (月) 12:10 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

晶さん、今度はわかりやすい文章でしたね。ありがとうございました。(^_^)

子羊さん、ご質問をありがとうございます。お答えするのに時間がかかるので、しばらくお待ち下さい。

ANANさん、「常識」のコメントをありがとうございました。
たしかに、日本の常識というのは、世界の常識ではありません。常識は国によって異なりますし、時代に
よって刻々と変化しています。今の常識は、百年後には非常識になっているかもしれませんし、今の非常
識が百年後には常識になっているかもしれません。同じ日本でも、家柄によってもずいぶん異なります。

この掲示板に出てくる日本人の皆さんの常識に、長い間海外生活を体験されたANANさんが、違和感を
持たれるのは無理もないお話で、日本と外国は自由に交流しているものの、日本と外国とでは、まだまだ
常識が一つになっておりません。日本の常識が、外国においては通用しないことが、まだまだたくさんあ
ることでしょう。おっしゃるとおり、外国の常識を知らなくては、世界を相手にできないですね。反対に
外国からいえば、日本で商売をする場合、日本の常識に合わせる必要があるわけで、アメリカの自動車メ
ーカーも、初めは左ハンドルばかり売っていたのですけれど、それでは日本で売れないということで戦略
を変えて、日本の常識に合わせて、日本では右ハンドル車を作って売るようになりました。

常識という言葉は、もともとは現在のような意味ではなくて、常とは永遠に変化しない法則を意味してお
りましたが、今では常識といえば、その国の法律や風習や人々の思想を意味するようになって、本来は宇
宙の法則のように変化しない常識が、時代によって変化する意味になってしまったのです。そこで、一般
にいわれている、時代や国によって変化する常識と、宇宙の法則に合った真実の常識を区別して考えねば
なりません。その宇宙の法則に合致した未来の理想世界の常識を、私たちは超常識と呼んでいるのです。

「世界平和の祈り」を祈っている私たちは、現代の常識にはない、守護霊、守護神を信じているのですか
ら、それだけを見たら、私たちは常識人ではないわけです。しかし、私たちは「世界平和の祈り」をお祈
りして、馬鹿にされることはありましても、人々に迷惑をかけているわけでもありませんし、国の政治や
体制に反対しているわけでもありませんし、犯罪をおかしているわけでもありませんから、非常識ではな
く、常識を超えた人、超常識人と言ってよろしいのです。

今の常識は、間違っているものが多いものです。こんな常識に縛られずに行動できれば、どれだけ自由に
なれるか計り知れません。たとえば日本の社会では、いまだに男女差別の非常識が残っておりまして、先
日もある会社に長年勤めていた女性社員が、学歴も実力も男性とたいして変わらないのに、同期に入社し
た男性よりも昇進が遅れたのは男女差別だ、と裁判所に訴えて、勝訴した判決がありました。このような
非常識と思える現在の常識は、時代が進歩するにつれて消えてゆくに違いありません。こうした誤った常
識は、国民の一人一人が変えてゆかねばなりません。

国をよくするには人に迷惑をかけない範囲で、少しずつ常識を広げていったらよろしいのです。この世の
中は、自分一人で生きているわけではありませんから、自分一人常識を超えた生き方をしようとしても、
社会の中では、どうしてもある程度常識に制約されてしまうことが多いものです。そこで、もし日本の常
識が、自分の常識感覚に合わないと思ったら、自分の常識感覚に合う国に行って生活することが、一番良
いと思います。私なども、イギリス、ドイツ、フランスが住みやすいので、仕事がなくなったら、外国に
定住したいと思っています。あなたのお好きな所に住んだら、よろしいのです。

交際している相手の思想や考え方や常識を変える、ということは、大変難しいもので、一生努力しても相
手の思想を、自分と同じ思想に変えることは難しいのです。ですから、ケンカばかりして争っている夫婦
は、さっさと離婚して、自分にあった異性を見つけたほうが良いのです。交際相手の友人も、自分とは合
わないと思ったら、やはりさっさと別れて、自分の気に合った友人を探すことです。

もしあなたが、この掲示板に出てくる人たちの常識感覚に違和感があって、どうしても好きになれないな
らば、無理に好きになろうとしないで、自分にぴったりした感覚の友人を探すとよいのです。しかし自慢
ではありませんが、白光真宏会の会員の間で、この"PEACE NIFON"ほど、正直に本音が言えて自由に論
議できる掲示板は、ほかにはありません。ですから、最もアクセスが多い、人気のある掲示板なのです。

このことは、白光真宏会の年中行事や各集会にご参加されたら、よくわかると思います。すべてが上から
下に命令されるだけの封建主義で、私のように同じテーブルで代表が答えることもありません。白光真宏
会の集まりの中で、この"PEACE NIFON"のように、あなたが自由に発言できる場は、ありません。です
から、この"PEACE NIFON"が一番自由に発言できる場であると思うのですが、それでもこの掲示板に出
てくる他の人の常識感覚が気に入らないというのであれば、その人たちを変えるのは難しいことですから
無理に交際しようとしないで、あなたの常識感覚に合った友人と交際すればよいのです。

私の希望としては、あなたのように英語ができる人には、"PEACE WORLD"で、五井先生の教えを英語に
正しく翻訳していただき、世界の友人に伝道してもらいたい、と期待しているのですが、私たちの常識感
覚が、あなたの常識感覚に合わなくては、それもあきらめるしかありません。

皆さんの天命が完うされますように


あの人の天命が完うされますように
No.787 森島恒吉    1999/08/02 (月) 15:56 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[子羊さんからのご質問]

[ご質問1]
有頂天の心境へは「必要な物は必要な時に神様が与えてくださる(無限供給)」と考えながら、世界平和
の祈りのみを行じている場合にも、至ることはありますか?

[お答え1]
「神さまは、私の天命を完うするために必要なすべてを与えてくださる」と神の大愛を信じて、「世界平
和の祈り」を祈り続けていれば、幽界の一段階である有頂天で止まることはありません。「世界平和の祈
り」を祈っていて、ふつうに仕事をし努力していて、自然に授かった現世利益は無限供給なので、安心し
て享受して結構なのです。

[ご質問2]
感謝の想念なども、潜在意識や幽界等からの波によって、湧き起こることも、ありますか?私は、お祈り
等をしていて、時には、感謝の気持ちがわき上がることがあるのですが、感謝の気持ちが、わき起こるこ
とについても、少し疑問をもっています。(他の方については、素直に信用できるのですが...)有頂
天以外にも、私たちが、気をつけなければならない、心境があるとするならば、教えてください。

[お答え2]
「神さま、ありがとうございます」という神さまへの感謝の想念が、悪いはずがありません。ところが、
感謝の想念といっても、「動物霊さま、ありがとうございます」と人間よりも低い格の幽界の生物に、ご
利益が与えられたことを感謝するのは、みずからの神の子としての人間の尊厳を傷つけることになります
から、やたらと祠(ほこら)や見知らぬ動物霊の石像などに向かって、拝むものではないのです。

たとえば、狐や猫の姿をした石像に向かって、神さまのように拝む人がいますが、動物霊は神さまとは違
うのですから、絶対にしてはいけません。お狐さまの動物霊にアブラアゲを奉納して合掌しておりますと
お狐さまは喜びまして、予言を与えられたり、商売が急に繁盛するようになったりと、現世利益をいろい
ろと与えてくれるのです。その時は非常な喜びを感じるものですが、与えてくれた相手は、なにせ感情霊
ともいわれるお狐さまなのですから、手を合わせて拝んだり、アブラアゲをあげるのを忘れたりしますと
ご機嫌が悪くなって、今まで繁盛していた商売が、突然閑古鳥が鳴くようになったり、家族に次々と不幸
が襲ってくるようになるのです。

現世利益は、あくまでも守護の神霊から、自分に必要なものを授けていただくものでありまして、「おれ
は金儲けのためなら悪魔とも手を組む」と平然と言っている人がいますが、どんなに苦しいからといって
幽界の生物や動物霊と手を組んではいけません。では、幽界の生物や動物霊に対して、どのように対処し
たらよいかと申しますと、「世界人類が平和でありますように」と祈ることです。そうしますと、救世の
大光明によって、幽界の生物や動物霊は浄められて消滅してゆきます。

[ご質問3]
外出したとき等に、心を守護霊様に統一している時には、周りの人の幸せ(天命のまっとう)等を素直に
神様にお祈りしている時が、あります。その時は、「自分は、現在特に困難に面しているわけではないの
で、自分に余裕があるから人の幸せを祈れるのだろうな。自分で自分に少し酔っているかな?(自分に酔
うと進歩が止まってしまうのですよね)。これも、幽界等からの波か潜在意識により、自己満足している
のかもしれないなー。自分が、そんなに立派な筈はないものなー。」などと考え、少し疑問に感じます。
もしも、潜在意識等により、自分に酔っているのでしたら、自己陶酔からの、脱却方法等を教えていただ
けると、嬉しいです。

[お答え3]
自己陶酔というのは、「おれほど偉い人間はいない」とか「私はみんなから崇められるべき神である」と
いうような高慢でうぬぼれた状態をいうのでありまして、絵が上手に描けた時に、自分で「おお、今日は
うまい絵を描けたなあ」と自画自賛したり、ピアノを上手に弾いて「ああ、なんて今日はうまく弾けたん
だろう」と満足している状態は、ごく自然な喜びの感情でありまして、悪い感情ではありません。「私は
完全な神である」というような高慢な想いが出たら、「あっ、今、自分の心境は下がったナ」と思えばよ
いのですし、謙虚な想いが出たら、「あっ、今、自分の心境が上がったナ」と思えばよいのです。

人々の幸せを祈る時にわき上がってくる喜びは、自己陶酔のように感情からくる想念ではなくて、自分の
本心が喜んでいるからなのです。また、人の幸せを祈っておりますと、相手の守護霊が、こちらに対して
感謝の想念を送ってくることもあるのです。それで喜びを感じることもあるのです。人々の幸せを祈って
いて、悪い波動を受けることはありませんから、安心して人々の幸せをお祈り下さい。

[ご質問4]
会社などで働いているときに、ふと、家の床の間の"観世音菩薩"の掛け軸を、思い浮かべるたりする時
があります。すると、思い浮かべただけで、心が、スッーと澄んだように、感じることがあります。これ
は、どのように理解すれば、よろしいのですか?これも、観音菩薩(守護神様?守護霊様?)に、正しく
統一していると、考えてもよろしいのですか?  

[お答え4]
観音菩薩さまを思い浮かべている時には、観音さまのみ心とつながっていると、判断してかまいません。
しかし、自動車を運転しているときは、運転に精神を集中し、お仕事をしている最中は、そのお仕事に精
神を集中してくださいね。観音さまをイメージすることばかりやっていると、お仕事ができなくなってし
まいます。思い出したときに気楽に「世界平和の祈り」を祈ればよろしいので、お仕事や勉強を犠牲にま
でして、形式的にお祈りする必要はありません。

[ご質問5]
観音菩薩の掛け軸を前にして、統一(お祈り)を実施している時に、最近疑問に思っていることが、あり
ます。観音様は、守護神様と同じと考えてよいと思いますが、もしも、観音菩薩の掛け軸に、観音様(守
護神様)が、宿っていると考えると、観音様(守護神)を祈りの対象として、お祈り(統一)してよろし
いのですか?掛け軸などに、守護霊が宿る、と教えていただきましたが、掛け軸に、観音様がいらっしゃ
ると考えると、守護霊様は、どこに、どのように、いらっしゃると、考えればよろしいのですか?守護霊
様と、観音様(守護神様)の、どちらを統一の対象として、お祈りをしたほうが、よろしいのですか?

[お答え5]
あなたは、観音さまがお好きなのですから、観音さまをお祈りの対象として、お祈りなさったらよろしい
でしょう。守護霊さまと守護神さまは、観音さまと一体化して、あなたをお守り下さいますから、観音さ
まを統一の対象として、お祈りなさっていればよろしいのです。

なお、これはどなたにもいえますが、宗教信仰に熱心な人は、観音さまのような高級神霊ばかりに目が行
くものですが、もっと大事なことは、ご自分の先祖霊に感謝することです。多くの有名な神仏に祈ってば
かりいて、かんじんのご自分の先祖の霊を卑しめて粗末にしている人が案外多いのです。そういう人は、
神仏に祈っても、少しも幸福にはなれません。ご先祖の霊を、第一に優先して大事になさって下さい。

[ご質問6]
守護霊様にたいして、「だれだれ様の天命がまっとうされますように」とお祈りすると、どのようにして
(HOW TO)、祈りは聞き届けられるのですか?守護霊様は、個人の幸せ(天命の全う)の為に、お
付きくださっていると、思うのですが、守護霊様に、他の方を幸せにするお力はあるのですか?守護神様
には、間違いなく、そのようなお力があると、思うのですが?また、五井先生は、他の方の天命のまっと
うを、守護霊様に対してお祈りするように教えてくださっているのですか?

[お答え6]
「誰々さまの天命が完うされますように」とお祈りしますと、その愛の光明が、相手の業想念を浄め、相
手の本心を開き、相手の天から授けられた使命が、業波動に妨げられることなく、完全に果たされること
になるのです。たとえば、誰しも、病気になることが天命であるわけがありません。健康であることが天
命であるのです。また、天命の仕事があるならば、その天命を完うするためには、病気を治さなくてはな
りませんし、お金が必要でもあります。

そこで、天命の完うを祈れば、わざわざ細かく「健康になりますように」「富が得られますように」と考
えて祈らなくても、病気は治りますし、天命を完うするために必要な財産も授けられるというわけです。
「私たちの天命が完うされますように」と祈れば、私たちの天命を完うするために必要なすべてのものが
授けられるわけですから、いちいち細かく欲しいものを紙に書き出して、欲しいものを頭でイメージする
必要はないのです。

あなたの守護霊さまは、あなたを助けるだけでなくて、あなたに縁の深い人を助けたり、幸せにする能力
があるのです。だから、人のために尽くしておくと、良いですよ。人のために尽くしてあげると、その人
の守護霊さまが、あなたの善行を覚えていて下さって、あなたの困った時に、今度はパーッと駆けつけて
くれて、あなたの守護霊さまと協力して、あなたを助けてくれるのです。

「守護霊さま、あの人の天命が完うされますように」という他人の天命の完うを祈る祈り方は、五井先生
が私たちに教えて下さった愛の祈り言の一つです。ぜひ、「世界平和の祈り」と共にお使い下さい。

皆さんの天命が完うされますように


いつまでも謙虚に生きて下さい
No.788 森島恒吉    1999/08/02 (月) 20:30 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ソレイユさんからのご質問にお答えします。

[質問1](自信と慢心について)
私はどうも、自ら謙虚でなくてはいけない、という思いがあります。慢心という思いが、怖いのです。慢
心な心を持つと、自分の欠点が見えなくなり、成長を抑えるような気がしてならないのです。
だから、私は自分が、他人にしてあげた良いこと、成功したことは「これは全部、守護霊様・守護神様
が、私のためにして下さったことなのだ。」 と思い、すぐ忘れるような生き方をしているのです。
逆に自分が他人にしてしまった過ちは、「ああ、これが自分の欠点なのだと、守護霊様、守護神様がお教
えくださったのだ。直さなきゃいけない。」という思いになり、努力してしまいます。
最近では、こんなことを、いつまでもしていても、自信欠落になるだけのような気がしていますが(^^;、
自信と慢心のボーダーラインの引き方で、良い方法がありましたら、お教えくださいm(__)m

[お答え1](今のまま謙虚に生きて下さい)
ソレイユさんのお話を聞いていて、私は「なにか、変だなあ?」と感じるものがあるのです。ソレイユさ
んご自身は、元々まともなお考えだったのに、誰か変な人に、変な思想を、催眠術のように吹き込まれ、
あやつられているような暗い雰囲気を感じるのです。

謙虚に生きて、何が悪いのですか?
人間は、どんなに高い地位に立っても、謙虚でいるべきです。
慢心を恐れて、何が悪いのですか?
人間は、どんなに成功しても、慢心を恐れなくてはなりません。

人間は、いつまでも謙虚でなくてはなりません。
人間は、どんなに偉くなっても、慢心な想いを持ってはなりません。
人間は、自分のしてしまった過ちは直さなければなりません。

そのように生きているあなたの生き方のどこが悪いのですか?
あなたは正しいではありませんか!

自信なんて、初めから持っている人は、誰もいないのです。
自信なんて、無理に持たなくていいんです。
あなたのできる範囲で、全力を尽くせば、それで立派なのです。
「私はこれしかできませんが、一生懸命やります」とお仕事をしていれば、それで立派なのです。

[質問2](素直と他人に振り回されるということについて)
先生も前に書かれた通り、私は他人の言うことに、すぐ左右されてしまうたちなんですが(^^;、これ
と、素直たらんという思いとの、ボーダーラインの引き方を、お教えください

[お答え2](素直と妥協は違う)
「神のみ心のままに素直に生きる」ということと、「業想念に翻弄されるままに妥協して生きる」という
ことは、一見似ているものの、本質的にはまるで違う生き方なのですが、あなたには、その区別がまだ難
しいかもしれませんね。ですから今は、あまり難しいことは考えないで、「世界平和の祈り」を祈りつづ
けて下さい。いずれ、だんだんと何が正しいのか、ご自分で判断できるようになってきます。

あなたの天命が完うされますように


1990年頃「光明思想徹底行」から外れたのです
No.793 森島恒吉    1999/08/03 (火) 07:33 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

子羊さんからのご質問に、お答えします。

[ご質問]
昌美先生の教えが、五井先生の御教えとはずれてきたのは、いつ頃からなのでしょうか?やはり、我即神
也が発表された頃(95年頃?)から、なのですか?(私は、白光誌を真面目に読んでいなかったので、
良くわかりません)。

[お答え]
1990年頃、昌美先生が「光明思想徹底行」を始めた頃、昌美先生は、五井先生のみ教えから外れてし
まったのです。五井先生の光明思想についての誤解から、すべての誤りは始まったのです。私どもにとり
まして、それは非常に残念なことであり惜しいことですが、ちょうどその頃、私は五井先生に救われて、
すべてを悟り、代わりに、五井先生の光明思想ならびに「世界平和の祈り」を改めて教え始めたのです。

昌美先生の天命が完うされますように


宇宙の法則に還るには
No.795 森島恒吉    1999/08/03 (火) 17:44 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ここ数日、皆さんから重要なご質問が相次いでおりまして、そのお答えを今メモしているところですが、
それぞれ発表するまでには時間がかかりますので、短い言葉で答えられるご質問から先にお答えします。

[むくちゃんのご質問1]
この宇宙万物の法則としてある絶対者としての神とは、五井先生が、すべてのすべてであり無限であり光
そのものであると説明された、神による創造活動以前の神のこと、そして人類救済の神とは、その創造活
動の後に現れたものと理解してよろしいのでしょうか。

[私のお答え1]
故人になられた瀬木理事長は、素晴らしい人格の持ち主の方で、白光真宏会の発展のために非常な貢献を
なさったご立派な方ですが、五井先生のみ教えについては、今生においては完全には理解できなかったの
です。そのために、彼の本「宇宙から届いたマニュアル」には、誤った宗教観が書かれているのです。

瀬木氏の本は、彼自身の思想と体験談として読むべきであって、五井先生のみ教えと同等の事が書いてあ
る、と思って読みますと、混乱のもとになります。彼の本には、五井先生のみ教えも載っていますが、彼
自身の独自の解釈と、昌美先生におもねった教えも、同時に載っており、同一の教えとして、無理につじ
つまを合わせようと解説しているので、一貫性に欠けた文章になっております。これは瀬木氏の本ばかり
ではなく、前副理事長の高橋英雄氏の本についても「如是我聞」を除いて、同様のことがいえるのです。

五井先生のご本以外の本を、どうせお読みになるならば、斉藤秀雄氏の本や、村田正雄氏の本のほうが、
五井先生のみ教えと「世界平和の祈り」で一貫しているので、ずっと単純でわかりやすく気持ちよく読め
ますので、私はそちらをお勧めします。

五井先生が説かれているように、神とは、法則としての働きと、愛の働きの二つの働きがあって、法則か
ら外れてしまった場合、自分の力だけで元通りに、法則の軌道に乗ることは不可能なのです。法則として
の神に、いくら頼んでも祈っても、助けてはくれません。そこで、愛の働きである守護の神霊に救済をお
願いして、守護の神霊のお力を借りて、法則の正しい軌道に再び乗せていただこうとしているのです。

「世界平和の祈り」は、守護の神霊のみ心と、宇宙を創造し司る宇宙神の根源のみ心と、人間の心がぴっ
たりと一つにつながる祈りですから、むずかしく考えなくても、「世界平和の祈り」を祈りつづけていれ
ば、いつしか自然に、なんの苦しみもなく、宇宙の法則のままに生きられるようになってくるのです。

[むくちゃんのご質問2]
不完全な姿が消え去った後、最後に残るのは、神の真・善・美・愛 ですよね。
先生それでは、ここで言われた神とは、絶対者或は救済者どちらの神のことでしょうか?

[私のお答え2]
「神の真・善・美・愛だけが残る」と申し上げたのは、人間の本源である直霊(神)の光を、七色の光線
のように表現したのであります。この神とは、宇宙神の法則のことではなく、救済の神のことでもなく、
未来において、神の姿を完全に現わした私たち人間、の意味なのです。私たちは、本来、神の分霊である
のですから、業想念が消え去った最後には、神の分霊の姿である真・善・美・愛が残る、という訳です。

皆さんの天命が完うされますように


五井先生、ありがとうございます。
No.797 森島恒吉    1999/08/03 (火) 23:45 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ソレイユさん、ご体験談をありがとうございます。ソレイユさんは、前から比べるとずいぶん明るくなり
ましたね。ほんとうによかった。太陽のように、ますます光り輝く明るい人になってくださいね。
「世界平和の祈り」を祈る人を、五井先生はいつも温かく見守っていてくださいます。

五井先生、ありがとうございます。


「試みのお役目」は過去のログをご覧下さい
No.798 森島恒吉    1999/08/04 (水) 11:59 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[子羊さんからのご質問]
"昌美先生は、試みのお役目"との文章を、以前の書き込みのなかで、みつけたのですが、もしも、さし
さわりがなければ、そちらについても、教えていただけると、ありがたいです。

[私のお答え]
それについては、詳しい説明をした文が、過去のログに既にありますから、ご面倒ですが、探してお読み
下さい。このような教えについてのお話は、いずれ、この掲示板から独立させて、辞書のように検索でき
るシステムのページを作る予定です。ありがとうございました。

皆さまの天命が完うされますように


調和した生き方
No.800 森島恒吉    1999/08/04 (水) 22:59 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

子羊さん、ありがとうございます。

[子羊さんのご質問]
たしか、"如是我聞"に「出世しようと、あくせくするな」との、文章があったと思います。この文章
は、どのように、受け止めればよろしいのでしょうか?五井先生は、社会人は仕事を、学生は勉強を、一
生懸命にやるように、と教えてくださっていますが。どうぞ、教えてください。

[私のお答え]
五井先生のお言葉の一部分だけを切り取ったり、ちょっと表現を変えたりしますと、それだけで意味が異
なって読者に誤解を与える心配がありますから、引用部分をあまり短くしたりせずに、前後を含めて正し
く書き出して下さいネ。

このような問題というのは、答えるのが案外難しいのです。五井先生は、ある時は「仕事や勉強を一生懸
命にやりなさい」と教えて下さったり、ある時は「怠けよ」とまではおっしゃいませんが、今で言う癒し
系の宗教者なのでしょうか、「人生は永遠なんだから、なに今生でできなけりゃあ、来生でやりゃあ、い
いんだし、来生でできなかったら、来来生でできればいい。神さまにお任せして、のんびりとゆったりと
生きなさい」とも、おっしゃっていまして、ホッとさせられます。しかし、「神さまにお任せしたからと
いって、怠けてはいけない」とも言われまして、そのたびに、私などは右往左往させられたものです。

釈尊の教えに、「人を見て法を説け」というのがありますね。五井先生も、相手に応じて、種々の説き方
をされるわけです。だから、五井先生の一つの言葉だけを取り出しても、ある人には、効果があっても、
別の人には効果がない場合があるのです。「五井先生は、こうおっしゃった」と頑固に、一つの言葉を誰
にでもあてはめようとする人がいるのですけれど、五井先生は相手に応じて言葉を変えて、相手に一番適
当な言葉を与えているのですから、別の人には効果がなく、危険のあることさえあるわけです。

現在では、五井先生から直接ご指導のお言葉を、一人ずつ頂戴することはできないのですから、五井先生
のご本をすみからすみまで読んで、いろいろなご指導のお言葉を読み終えたら、「世界平和の祈り」を祈
り、「常識的に生きるとしたら、どちらを選ぶか?」と静かに考えてみるのです。そして、常識的な結論
のほうを選んだほうが、後悔しないですみ無難です。ご質問の場合は、常識的に考えれば、学生は勉強を
一生懸命にやり、社会人は仕事を一生懸命にやるのは常識です。これが平均的な答えとなるわけです。

しかし、たとえば、仕事をしている人で、家庭生活も犠牲にするほど、毎晩深夜まで残業して、休む暇も
ない、という人がいます。このような人に、さらに尻をたたくように「もっともっと一生懸命にやれ」と
言ったら、ノイローゼになって自殺してしまう危険があるわけです。そういう人には、「家庭と仕事のバ
ランスをとったほうがいい。出世も大事だけれど、休息も必要だよ」と、アドバイスすることでしょう。
このように、相手に応じて、アドバイスの言葉が異なってくるわけですね。

勉強、仕事と休息のバランス、仕事と家庭のバランス、いわゆる調和した生き方を、私たちはめざしてゆ
くべきでしょう。これは人によって、体調が異なり、能力が異なるのですから、その人その人に合った無
理のない生き方を、守護霊さまに教えていただくしかありません。「世界平和の祈り」を祈っております
と、守護の神霊から、健康や仕事について細かくご指導をいただけますし、自分にとって一番合った自分
らしい生き方が、自然にできてくるようになるものです。

あなたの天命が完うされますように