森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


皆さまに期待しております(^_^)
No.910 森島恒吉    1999/08/16 (月) 07:33 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

妙好太郎さん、子羊さん、けんさん、ありがとうございます。

私の希望は、私の後継者を一人でもいいから養成することなのです。そのためには、私よりも頭がよくて
私よりも霊性が高くて、私よりも五井先生のご本を読んでいて、私よりも文章がうまくて、私よりもお話
がうまくて、おまけに私よりも、かっこよくてハンサムであれば、なおいいですね。もちろん、女性でも
頭のよい人もいるし、霊性の高い人もいるから、女性が後継者になってもいい。

私よりも頭が悪くて、私よりも霊性が低くて、私よりも五井先生のご本を読んでいないで、私よりも文章
がへたで、私よりもお話もへたで、私よりもかっこ悪くては、後継者にできません。私は、たぶん今後、
十年は生きられるでしょうが、その後は知りませんよ。だから、今後の十年間で、皆さんは、私よりも立
派にならなくてはだめですよ。私は、五井先生のみ教えの一番重要なポイントを教えてあげますからね、
それをしっかり理解して、五井先生のご本をしっかりと読み込んでくださいね。そして、後世の人々に、
五井先生のみ教えを正しく伝えてくださいね。私は、皆さんに期待しているんですよ。

「世界平和の祈り」の中心者が、現世に存在しているということが、「世界平和の祈り」を信仰する人た
ちの大きな力となるものなのです。今は、私がこの世に生きているだけで、皆さんの信仰のよりどころに
なっているんです。「世界平和の祈り」の中心へと、縁ある人々は、自然に引き寄せられてくるのです。
しかし、私も肉体生命には限りがあります。いずれは、他界することになります。それまでには、私の代
わりに、五井先生のみ教えを正しく解説できる人が、数多く現れてほしい、その研鑽の場として、この掲
示板を役立てていただきたい、と私は願っております。

皆さまが五井先生のみ教えを正しく理解できますように。
皆さまが五井先生のみ教えを正しく解説できますように。
五井先生、お導き下さい。
皆さまの天命が完うされますように。


人を正常にさせる「世界平和の祈り」
No.915 森島恒吉    1999/08/16 (月) 23:58 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

子羊さんからのご質問にお答えします。
(質問#1)
どんなに宗教に凝っても、現実生活で、周囲と調和できれば、その人は"宗教に凝った人"ではないです
ね?「凝っている人」≠「真剣に信仰に取り組んでいる人」ですよね。

[お答え1]
その通りです。真剣に信仰に取り組むことと、宗教に凝ることとは違いますね。だいたい、宗教をやって
凝るというのは、その宗教が正しくないか、やり方に間違いがあるからです。だって、宗教は、凝りをな
くし、肩凝りもなくし、力みをとって、自由無礙になるためにやっているんですから。(^_^)
五井先生の教えは、「世界平和の祈り」で、行じるといいましても、わずか十五秒もあれば行じることが
できるのですから、仕事の時間を削ったり勤務をさぼる必要はありませんし、家族サービスも犠牲にする
こともありません。現実の仕事や勉強や家族を優先して、余った時間に宗教をやればよいのです。
それから人によっては、宗教に熱心に取り組んでも、環境的に誰にも迷惑をかけずにすむ、という人がい
ますけれど、そうした人は、遠慮はいらないのですから、徹底的に宗教をなさったらよろしいでしょう。

(質問#2)
如是我聞NO203からの引用です
「熱狂は危険です。私自身、若い時は熱狂的だったから、危険だということを経験上よく知っている。一
歩踏み違えると、自分自身を破滅させてしまうし、その属する団体なら団体をめちゃくちゃにしてしまう
からね。けれど今日までは熱狂的ぐらいでないと、その目的が達せられないんだね。そこがむずかしいと
ころなのだ。(以下省略)」

ここでいう、熱狂的とは、どのような状態をいうのでしょうか?自分が熱狂的になってしまったらと考え
ると、気持ちが良いものではありませんので。どうぞ教えて下さい。

[お答え2]
正しい宗教ならば、熱心になることはあっても、熱狂的にはならないものです。熱狂的になる、というの
は、その宗教の教えのどこかが間違っているからなのですね。正しい宗教ならば、人を狂わせません。

熱狂的というのは、たとえば教えを広めるのはいいことですけれども、相手の都合も聞かずに相手が忙し
そうな時間に尋ねて行って、一方的に教えについてしゃべったり、「これをすれば、すべての病気を治せ
る」と言って、医薬を否定したり、「病気なんてものは、無いのだ。無いと思えば、病気は無い」と言っ
て、病人を無理やりベッドから立たせようとしたり、「あなたには無限なる能力があるのだ」と言って、
体の弱い人に突然マラソンをさせたり、長年その家代々に伝わっている仏壇や神棚を壊すように言ったり
「毒ではないと思えば、毒ではなくなる」といって酒を浴びるように飲んだりする人です。

また宗教団体によっては、「何人入会させれば、地位を上げさせてやる」とか「何人入会させれば、現世
利益がある」というような教えを説いている団体もあります。そうすると、人を入会させるために監禁に
近い状態にしたり、真夜中に集団で他人の家に押しかけて説教したりと、狂った状態になります。そうし
た行為が、熱狂的といわれる状態です。

私たちの「世界平和の祈り」は、熱心になることはあっても、けっして熱狂的にはなりませんから、ご安
心下さい。守護の神霊にご加護を祈り、人々の幸せを祈るのですから、狂うはずがないのです。たとえ頭
の狂った人も、「世界平和の祈り」を祈りつづけていれば、正常な意識に戻ります。「世界平和の祈り」
を一所懸命に行じながら、日常生活をあたりまえにして、ご近所つきあいをあたりまえにして、学校でも
職場でも、あたりまえに生活していればよろしいのです。特別変わったことをする必要はありません。

自分の部屋に「世界人類が平和でありますように」のステッカーを貼ったり、家の玄関に「世界人類が平
和でありますように」のピースポールを立てたり、暇な時間の時に、五井先生のご本を読んだり、「世界
平和の祈り」を祈ることは、少しも狂ってはいません。「あなたは、とてもすてきな方ですね。何か、宗
教をやっていらっしゃるのですか?」と人から尋ねられて、「はい、世界平和の祈りを祈っております」
と答えることも、常識的であり、おかしなことではありません。人に嫌われないように、人に迷惑をかけ
ずに「世界平和の祈り」を行じているならば、各人の自由の範囲なのですから、よろしいのです。

宗教の道を歩むには、必ず良き指導者が必要です。自己流では、道を容易に進めませんし、途中で横道に
それてしまう危険があります。子羊さんの場合には、私が見ていますから、もし子羊さんが熱狂的になっ
たりしたら、私が注意して修正してあげます。安心して、五井先生のみ教えを学んで下さい。

皆さまの天命が完うされますように


定時のお祈りについて
No.924 森島 恒吉    1999/08/18 (水) 20:19 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ツボちゃん、ありがとうございます。
「定時の祈り」というのは、昔から白光真宏会で行なわれています。現在の白光真宏会の「定時の祈り」
の内容は、次のとおりです。

午前9時……「教義奉唱」「世界平和の祈り」「我即神也・人類即神也の印の行」
午前10時……「印による世界各国の平和の祈り」
午後3時……その日の世界情勢を考慮し、内戦、紛争、災害、事件などが起こった国を選んで祈ります。

道場に勤めている職員は、ほかに仕事がないのですから、このスケジュールのとおりにできますが、仕事
を持っている一般の会員にとっては、このような行事を各職場で実行するのは難しいと、私は思います。
イスラム教の厳格な信者で旅客機を操縦しているパイロットは、お祈りの時間になると、自動操縦装置に
してお祈りをする、というウワサを聞いたことがありますが、お祈りすることは結構なことですが、この
ように形式(この場合は時刻)に把われてしまいますと、仕事がおろそかになりがちです。

唯一会も、専門道場を建設し、そこに職員が常住するようになれば、定時に「世界平和の祈り」を祈るよ
うになるかもしれませんが、現在は「定時のお祈り」を定めてはおりません。将来も一般会員においては
自己の仕事に専念するべきであり、そのためには宗教行事の規則など無いほうがよく、「定時のお祈り」
をさせるつもりはありません。

白光真宏会の「定時のお祈り」といえば、十年前まではずっと「世界平和の祈り」だけであったのです。
暇なときに、聖ヶ丘道場にフラッと訪れて、「定時のお祈り」で、「世界平和の祈り」を祈ったことを懐
かしむのは、私だけでしょうか。

皆さまの天命が完うされますように


五井先生の真実と嘘のお話
No.933 森島 恒吉    1999/08/21 (土) 06:54 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

白ウサギさんのご質問にお答えします。

【五井先生の絶筆だった「嘘について」】

「嘘について」というテーマは、五井先生の絶筆となったご法話にあります。白光誌には載っているので
すけれど、その頃の編集部で「これは単行本にする必要はない」と勝手に判断したためか、なぜか単行本
にはありません。ですから、ほとんどの人が知らないお話です。1980年9月号以降の白光誌を調べれば、
「嘘について」というテーマで書かれた五井先生のご法話(絶筆)が見つかるはずです。白光編集部の人
が読んでいたら、ぜひこうした五井先生の埋もれたご法話を単行本に復元してほしいと切に希望します。

さて、「五井先生は嘘をつくのですか?」というご質問ですが、五井先生の根本的な教義や「世界平和の
祈り」については、すべて真実でありますが、個人指導や相手によって、時によって嘘をつくということ
がありました。それは五井先生ご自身の天命を生かすための嘘と、相手を生かすための嘘があります。

【五井先生の教義は真実であり嘘はない】

五井先生は正直な方でした。その正直さは、五井先生の教義によく表れています。五井先生の光明思想を
他の宗教者の光明思想と区別して、私は正直光明思想と名付けております。なぜ、正直光明思想というの
かといえば、理想(真理)は目標として掲げながらも、現実のありのままを直視して、現在の人間の姿や
世界は、理想が現れるまでの過程の姿であり、不完全な姿はすべて消えてゆく姿なのだ、時間がたつにし
たがって、不完全な姿は消えてゆき、人間本来の完全な神の子の神性が現れてくるのだ、というふうに現
実に正直に生きられる光明思想であるからです。

それに対して、偽善的光明思想とは、正直光明思想と理想(真理)を目標とする点は同じであるのですが
理想(真理)をいち早く現実に現わそうと焦るあまり、現実を無視して、現実の不完全な姿に目をつぶり
時間経過を考えずに、今すでに理想が現実になったと思いこみ、「私は完全である、世界は平和である。
悪は無い、病気は無い、不幸は無い、地震は無い、戦争は無い」と偽善の宣言をする偽光明思想のことで
す。このような偽善的な光明思想では、かえって偽善の皮を厚くするばかりで光明心が顕現されません。
そこで、五井先生は、自己に正直に生きることを勧めているのです。

【聖者自身の天命を生かすための嘘】

ところが、その五井先生でも、個人指導のときや相手や場合によっては、老子の「聖人は不仁(ふじん)
なり。百姓(ひゃくせい)を以て芻狗(すうく)と為す」という言葉のように、自己の聖者としての天命
を優先して、相手によっては不仁に見えるような嘘をついたこともあったのです。もちろん、表面的には
不仁に見えても、聖者の行為には常に仁(愛)の光が輝いているのは事実なのです。このような方便上の
嘘というのは、まだ神の子になってもいないのに、「私は神の子、完全円満、悪なし、不幸なし、病気な
し、災難なし」と宣言する偽善的な嘘とは、全く別の嘘であるのです。

たとえば、五井先生に会うなり、五井先生の道の話をろくに聞きもしないで「五井先生はどんな有名人と
つきあっていますか?」と尋ねてきて、「私のところに来ている人は、毎日の生活に困るほど貧しかった
り、病気で苦しんでいたり、悩みをかかえている人たちで、みんな身分や地位の低い人ばかりです。大金
持ちの人や地位の高い有名人は一人もおりません」と五井先生が答えますと、さもがっかりした顔をして
五井先生の「世界平和の祈り」の話を聞かずに、そそくさと帰ってしまう人がおります。

この場合は、五井先生が「こういう人は、今生では救われない」と思い、このような人と交際して貴重な
時間を費やしてはもったいない、と神さまのほうでも判断されて、このような嘘をついて、突き放してし
まったのです。ほんとうは、五井先生の人脈には、有名な政治家もいれば、有名な実業家も存在している
のですが、相手を見て、時々このような嘘をつかれたのです。こうした虚栄心の強い人とか、威張った人
は、五井先生は大嫌いだったので、適当な嘘をついて切り離してしまわれたのです。

【犯罪になる嘘については、嘘と見抜く目を持たねばならない】

犯罪になる嘘があります。人をだまして金を奪う寸借詐欺、結婚する気がないのに「結婚する」と嘘をつ
いて女性をだます結婚詐欺のような嘘があります。また、善良な訪問者をよそおって家の人がドアを開け
たら押し入る強盗とか、善意でお酒を飲ませるふりをして睡眠薬や覚醒剤を入れて乱暴する、という嘘も
あります。このような悪質な嘘については、私たちはだまされないように嘘を見抜く目を持たねばなりま
せん。先日も、ロサンゼルスのホテル内で、不用意にドアを開けてしまい、日本人が強盗に襲われたとい
う事件がありました。相手の口先の言葉をうのみにしてはいけないので、「ちょっと、おかしいな」と感
じたら疑ってみる必要があります。守護霊に日頃から加護を願っておりますと、守護霊が「この人を信じ
てはいけないよ」とささやいてくれたり、危険な時には「ドアを開けてはいけない」と手を引っこませた
り、悪意を持った人には会わないように時刻をずらしたりして、犯罪に巻きこまれないように未然に防い
で下さるものです。

また逆に、相手は真実のことを話しているのに、自分の未熟な判断で、相手の言っていることを嘘と思い
こんだり、自己過信して、むざむざと事故に巻きこまれてしまうこともあります。これもやはり先日のニ
ュースでありましたように、渓流の中州でキャンプをしていた人たちが、激しい雨が降り続き、上流のダ
ムからの大量放水によって、猛り狂う激流にのみこまれて、多くの生命が失われた惨事が、例としてあげ
られます。昨年も水害があって「危険」と立て看板があり、ダムの放水を警告するサイレンが鳴りひびき
「ダムの放水が予想される」として避難するように、警察署員が何度もハンドマイクで警告したにもかか
わらず、その中州でキャンプをしていた人たちは、なんと答えたのか。「なに言ってるんだ。我々は大丈
夫だよ」「危なくなったら逃げるから、放っておいてくれ」「いつでも岸に戻れるから大丈夫」と答えた
といいます。他人の善意の警告に対して、自己の欲望や「大丈夫、大丈夫」「できる、できる」という自
己過信の想念がありますと、相手の真実の声が聴こえなくなってしまうのです。自己過信ほど危険なこと
はありません。真理に把われた人というのも、「悪人は無い、災難は無い」と思っておりますから、無防
備になってしまい、自己過信の人と同様に非常に危険である、と私は指摘しているのです。

【相手を生かすために、五井先生は嘘をついたことがあったのか?】

相手を生かすための嘘もあります。たとえば、実際例を出しますと、ある相談者が「この事業をしたいと
思いますが、成功できるでしょうか? 五井先生が『成功できる』と太鼓判を押して下されば、私はこの
仕事をやってみたいと思います」と五井先生に相談したとき、「それは必ず成功する。その事業は成功す
るし、金ももうかるよ、ぜひおやりなさい」と五井先生がお答えになったことがあります。

この場合、成功する人と失敗する人の二種類の結果が出ます。五井先生が「成功する」と約束して下さっ
ても失敗することがあるのです。失敗した場合は、五井先生の霊覚が誤っているのか、五井先生が嘘をつ
いていたのか、その人の努力が足りなかったのか、のいずれかになります。五井先生の霊覚は正しくて、
その人の努力が充分になされたとしたならば、残るは「嘘をついていた」ということになります。

【五井先生の嘘と斉藤秀雄氏の大失敗の理由】

「それは良いから、おやりなさい」と五井先生に言われて成功した人の例が、村田正雄氏であり、村田氏
は五井先生に励まされて、苦難の末に歯科用電気炉を発明し、それを事業化して大成功をした人です。ま
た同じように「それは良いから、おやりなさい」と五井先生に言われて、大失敗した人の例が、斉藤秀雄
氏であり、斉藤氏は、五井先生に「成功できる」と約束されたにもかかわらず、次から次へと新事業を失
敗しつづけたのです。五井先生は、村田氏には真実のことを話し、斉藤氏には嘘をついたわけです。

五井先生は、なぜ斉藤氏には嘘をついたのでしょうか?
それは事業をやらせ失敗させることによって、斉藤氏に過去世からの業因縁を大きく消滅させようとして
五井先生は嘘をついたのです。最初から「これはやっても、失敗する」と言ってしまったら、努力しませ
ん。このへんの事情は、私は斉藤氏から直接何度もお聞きしたことがあります。

斉藤氏には、ご自分でおっしゃっていましたけれど、非常な事業欲がありまして、新しい事業を見つけて
きては、五井先生に相談していたのです。するとその度に「うん、それはいいね。ぜひおやりなさい」と
五井先生に言われた、と斉藤氏は述懐されていました。ところが、五井先生が保証して下さったにもかか
わらず、その仕事は失敗したのです。ふつうの人だったら、一度外れたら、もう二度と相談にはこないと
ころですが、斉藤氏は非常に素直な人で、「五井先生は、写真に丸い光の玉が写ったほどの大霊覚者だ」
と信じて疑いません。それで、次の新しい仕事を相談してくる。すると、また五井先生は「それはいい。
今度こそ成功するよ。ぜひ、おやりなさい」と励まされて、相談するついで(?)に五井先生からお浄め
を受けて帰る。そうした失敗が、何度も何度も、何年も何年も続いたのです。

それから数年たって、斉藤氏は、五井先生にお尋ねしました。
「五井先生、…私は五井先生を信じて、五井先生が必ず成功するよ、とおっしゃって下さるから、私は新
しい事業に次々と手を出して、全力を尽くしたつもりでしたが、すべて失敗してしまいました。これはな
ぜなんでしょうか? 私はよほど業が深いのでしょうか?」
「斉藤さん、それはね、あなたが私と一緒に宗教活動をする天命があるからなんですよ。あなたの過去世
からの業を浄めるためもあるけれど、何をやっても失敗したのは、もう金もうけをあきらめさせて、世界
平和の祈りを広める仕事を、あなたにさせたい、と神さまが思っていたからなんです。ところが、あなた
は金もうけをしたい、と考えていたでしょう。その想いがなくなるまで、失敗を体験させたのです」
それを聞いて斉藤氏は、五井先生のみ教えを伝道することに専念するようになり、会の理事長となったの
です。五井先生は、霊修行の時代に、守護神からさんざん嘘をつかれたものでしたが、それも試練の嘘で
あったのです。このように守護神による試練のための嘘というものがあるものなのです。

【五井先生が嘘をついた例】

(1)ある奥さんが「夫と離婚したい」と五井先生に相談にきたとき、「それはすぐに離婚しなさい。あ
んたの夫は、ほんとにひどいやつだね。そんな悪い男はいない。さっさと別れなさい」と五井先生が言う
と、「五井先生、私の夫のことをそんなに悪く言うなんて、五井先生って、ひどい。五井先生にわたし幻
滅したわ。もう、五井先生なんかに、相談しないから」と怒って帰った奥さんがいました。

しかし、結局、その夫婦は、離婚しなかったのです。(あれっ、どうして?)
「離婚したい、と言ってくるから、それなら仕方ないから離婚しろ、と言えば、意地をはって離婚しない
し、離婚するなっていえば、さからって離婚してしまうもんです。だから、その人のためには、逆のこと
を言ったりすることもあるのね。それで五井先生が悪者にされてしまうこともある。でも、皆さんが幸せ
になれれば、それでいいんだよ」と五井先生はお話になっていました。

(2)ある人が、「私は五井先生よりも、すごい霊覚者を見つけたんです。その先生は、五井先生よりも
なんでもよく当たるんですよ。その先生について行ってよろしいですか?」と五井先生に尋ねました。す
ると五井先生は、少しも怒らずにニコニコと聞いていて、「ほう、誰なの? そんなに当たるの。それは
私よりも素晴らしい霊覚者だね。あなたは、その人について行きなさい。もう、私のところに帰って来な
くてもいいよ。その指導者は、私よりも大変立派だから」とその人を見送りました。

しかし、皆さん、これは五井先生のよく使われた嘘なのです。うちの皆さんは、そうした嘘にだまされて
はだめですよ。私も五井先生の真似をして、相手によってはこうした嘘をつくことがたまにあるのです。
その一言だけを聞きかじって、五井先生や私から、決して離れてはいけません。方便の嘘なんですから。

(3)五井先生に、宝くじの当選の番号、競輪競馬などのギャンブルの予想を聞いても、アテモノは、す
べて外れます。霊能力に興味のある人は、自分の過去世から来世、次に家族のこと、その後は友人知人、
職場の同僚の運命ことなど、興味がどんどんふくれあがってきます。「職場の同僚のAさんとBさんがつ
きあっているようだけど、あの人たちは結婚するんですか?」とか「CさんとDさんの仲は、どんなるん
ですか?」とか、自分に関係のないことまで、聞きたがるのですが、そうしたことを聞いても、すべて外
れます。最初の頃は、五井先生はほんとうのことを話して下さったのですが、「私は本心を開発させる宗
教者であって、易者のようなアテモノ屋ではないんだ」とおっしゃって、ある時期から何を聞いても外れ
るようになってしまい、会員さんも、そうした興味本位のアテモノを質問しなくなったのです。

しかし、そうしたアテモノに外れたからといって、五井先生への信仰を失って、「世界平和の祈り」を失
ってはいけません。自分の過去世を調べたり、未来を予見したり、霊能力で利益を得ようとする態度から
は、真実の安心立命は得られないのです。未来予知でも、当たらぬほうが良いので、もし当たったりした
ら、予言予知に把われてしまい、不安動揺のほうが多くなります。他人の運命や隠れた行為なども、知ら
ないほうがよいのに、霊能力で真実を知ったばかりに心を乱してしまい、怒りっぽくなったり、知ったこ
とを黙っていられずに、やたらに人にしゃべってしまい、人を傷つけてしまうことにもなりかねません。
五井先生の教義と、「世界平和の祈り」があれば、占いも予言も霊能力も必要ないのです。宗教の目的は
守護の神霊への感謝を教え、愛深い人間になることを教えることにあるのです。

【「80歳まで生きる」は五井先生の嘘だった】

五井先生は「私は80歳までは生きる」と度々おっしゃっていました。私も、もちろん信じておりました。
しかし、実際には、五井先生は64歳で他界されてしまったのです。ですから、しばらくの間、五井先生へ
の信仰と事実の差に呆然として、五井先生が他界されたことを信じられなかったのは、私だけではなかっ
たでしょう。五井先生は、ご自身の他界する日を知らなかったのか、それとも知っていて、嘘をついたの
でしょうか。愛深い五井先生のことですから、私たちによけいな心配をかけさせまいと、私たちを思いや
って、五井先生は嘘をついて下さったのだ、と私は思います。そして、最後に、「嘘について」の見解を
述べられて他界したのは、いかにも正直な五井先生らしい、と私は今にして思うのです。

古い会員さんになりますと、五井先生がこのような嘘をつかれることをよく心得ていて、五井先生が嘘を
ついてもだまされなくなってしまって、「五井先生は、嘘をつくから、そんなことは本気にしないわよ。
五井先生は嘘つきなんだから、もう」とジョークとして笑い飛ばせて、「世界平和の祈り」を揺るぎない
信念で祈れるようになるのですが、五井先生のこのような嘘のつき方を知らない人は、一生、五井先生の
真意を知らぬままに終わってしまうのです。五井先生が、64歳で他界しようと80歳で他界しようと、そん
なことは、どうでもいいことなのです。予言をして、人の運命を当てたりすることも、どうでもいいこと
なのです。「世界平和の祈り」以外のことは、すべて枝葉であり、どうでもいいことであるのです。

【五井先生の真実とは「消えてゆく姿で世界平和の祈り」の教え】

五井先生の方便上の嘘に把われて、五井先生の真実の教えを見失ってはいけません。五井先生の真実とは
「消えてゆく姿で世界平和の祈り」の教えを、皆さんに行じてほしい、ということであるのです。この教
えは嘘ではありません。方便上の嘘でもありません。過去も現在も未来においても、五井先生の「世界平
和の祈り」は真実であるのです。「世界平和の祈り」を祈っていて、事業に失敗しても、物事に失敗して
も、「五井先生の教えは嘘だ」と短絡的に思わずに、「これは過去世の因縁の消えてゆく姿だ」と思い、
「これから必ず善くなるのだ」と明るい希望を持つことです。事業に成功したら、素直に感謝したらよろ
しいでしょう。成功しても感謝を忘れず、失敗してもめげずに、私たちは明るく生きてゆかねばなりませ
ん。人からだまされたり、嘘をつかれても、「これも過去世の業が消えてゆく姿だ」と思い、「これで私
の運命が善くなるんだ」と明るく考えることです。くりかえしますが、宗教とは占いでもアテモノでもあ
りません。他人の心を読んだり、他人の運命をひそかに知ることでもありません。人並みすぐれた超能力
を得ることでもありません。私も、相手を生かすために五井先生のように嘘をつくことがあるかもしれま
せんが、そんなときも、真実と嘘を見分けて、私の嘘の言葉に把われないようになってほしいものです。
宗教とは、神さまに感謝し、人を愛する道であるのです。その具体的な行法が「世界平和の祈り」であり
霊性が開発されるにつれて、嘘に把われなくなり、真実がおのずとわかってくるようになるのです。


釈尊生誕の地でなぜ仏教が廃れたのか?
No.934 森島 恒吉    1999/08/21 (土) 07:14 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[子羊さんからのご質問]
私は以前から、次のようなことを疑問に思っております。インド国では、釈尊がお生まれになり、仏教と
いう素晴らしい教えを説きました。しかし、現在インド国においては、仏教は少数派であり、仏教とあま
り関係がない宗教が広く一般に浸透しています。その教えとは、ヒンズー教です。ヒンズー教は牛を聖な
る生き物として崇め、人間をカーストといわれる、身分によって、差別しているようです。仏教の教えで
は、人間は平等とされていると思いますので、仏教はインドにおいては、けっして根付いていないのが、
現状だと思われます。かえって現在では、仏教は、インド本国よりもインドの周辺国(スリランカ、タ
イ、日本等)において、盛んだと思われます。釈尊という偉大な聖者が生まれたインド国よりも、他の周
辺諸国のほうが、釈尊の素晴らしい教え(仏教)が盛んなことについて、森島先生はどのように思われま
すか? よろしかったら、お聞かせくださいませ。

[お答え]
釈尊が生まれた土地で仏教が廃れて、遠く離れた国で仏教が存在しているのは、ほんとうに不思議なこと
ですね。仏教学者が、それについてはいろいろな説を唱えていますが、私は簡単に「神のみ心」であると
思います。肉体の知恵では計り知れない、神さまの深い深いお計らいが働いていると思います。


五井先生の教えと私の教え方
No.946 森島 恒吉    1999/08/23 (月) 02:02 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、ご質問をいただき、ありがとうございます。

青空さんは、私の教えを、まだすべてお読みになっていませんね。青空さんは、五井先生の教えをわかっ
たつもりで、まだ、ほんとうにはわかっていない、危うい段階なのです。青空さんは、五井先生の教えを
あなたの自己流で解釈してやってゆくのか、それとも私の指導を素直に聞いてやってゆくのか、今、決め
なくてはなりません。なぜならば青空さんは、私の指導した通りに素直にやらないで、自己流に五井先生
のご本を解釈して、自己流にやろうとしているからです。

青空さん(子羊さん)は、以前、如是我聞の「私は守護神と一体である」という五井先生の教えについて
「私は心からの自覚などできません。どうしたら、自覚できるようになりますか?」と私にご質問をして
下さいましたね。そのとき私は、No.896で、守護神との一体観を自覚できる方法を教えました。

しかし、青空さんは、私の言う通りに素直にやらないで、つまりは私を信じないで、如是我聞に書いてあ
る五井先生の言葉を、まだご自分で消化しきれないうちに、そのまま自己流でやってしまったわけです。

青空さんは、その時は「私は神と一体であるなどとは、私はとても自覚できません」と書きながら、今度
は五井先生のご本を読んだ影響を受けたらしく、「私は神さまと一体である、と強く思ったら、波動が変
わってしまい、自分なりに解決した」と書いています。 

「私は神さまと一体である」と強く念じさせる方法を、私はあなたに一度も教えておりません。それなの
に、なぜ、私の言うことを聞かずに、「私は神さまと一体である」という行をしてしまったのですか。

私のホームページの唯一会の教義と、過去の私のログをすべてお読みになった方は、すでにご存じと思い
ますが、五井先生の教義と「世界平和の祈り」を忠実に守り実行する点は、五井先生と私は全く同一です
が、教義の解説の表現や方法については、五井先生と私は、少し異なっているのです。

五井先生の教えには、編集の仕方が至らないために、誤解されやすい言い方、書き方が多々あるのです。
私のようにすべてが判ってしまえば、何を読んでも誤解しないのですが、初心者が、否、初心者にかかわ
らず、長年、五井先生の教えを学んだ人でありましても、うっかりすると、五井先生の教えを誤解してし
まい、本道から外れてしまうことがあるのです。その誤解されやすい一つが「私は神さまと一体である」
という五井先生の言葉であるのです。

このような五井先生の言葉を、確固とした論拠として、「五井先生もお説きになっているのだ」として、
自己流で「私は神である」という宣言の言葉を作り、「これは五井先生の新しい教えである」と教えてい
る指導者もいるのです。しかし、私は、そうしたやり方を教えてはおりません。それには深い意味がある
からなのです。その深い意味と理由については、私はすでに書きました。

皆さんが過去の過ちを二度としないような教え方を、私は五井先生から新しく教えていただいたのです。
私の教え方には、真理の言葉や心の法則を少しでも用いるようなやり方は、まったく出てまいりません。
私は、よけいなことを教えずに、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」に行法を統一してしまったのです。
それは、過去の過ちを二度とさせないように、との五井先生のご配慮が強く働いているからなのです。

五井先生のご本を読んで下さることは、大変ありがたいことなのですが、今度はその五井先生の言葉の一
つ一つにひっかかり、自己流で解釈してしまうと、五井先生の本道から外れてしまうのです。五井先生の
ご本を読みながらも、実行することは、しばらくの間は、目新しい行法に走らずに、私のいつも言ってい
るように「消えてゆく姿で世界平和の祈り」だけをやってほしいのです。五井先生の教えの真意を理解す
るまでは、他の行法に目を移さず、うまずたゆまず「世界平和の祈り」を祈り続けなくてはなりません。

もし、私のこの言葉がよく理解できなければ、一度私から離れて自己流で思う存分やってみることです。
「森島先生、どうぞ宜しくご指導お願い申しあげます」という言葉が真実ならば、目新しい言葉に目を奪
われずに、私の説いたことをしっかりと守って下さい。それが、あなたのためになるのです。

あなたの天命が完うされますように


他力行に徹すること
No.948 森島 恒吉    1999/08/23 (月) 08:12 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、ありがとうございます。青空さんは、とてもいい人なんだけど、残念ながら、まだ私の説いて
いることが理解できていないようです。私の過去のログを読んでくださいね。

[青空さんのコメント1]
森島先生のご指導に従い実施してみたのですが、神様"お願いします"、とお祈りすると、波動を受ける
ので、怖くなってやめてしまいました。そのため途中から、「守護神様との一体感は、私には難しいの
で、守護霊様との一体感を考えるのならば、波動を受けないだろと」と考え、以前の記憶を頼りに、私独
自の方法に変更してやってしまったようです。(すいません)

[私のアドバイス1]
あなたは、「私は神さま(守護霊様)と一体である」と思ったほうが、ご自分に適している、と思ったの
でしょう。守護神だろうと守護霊だろうと、それはどちらでも結構なのです。そんなことは問題ではあり
ません。守護霊さまとの一体観を自覚する、その方法について、私は問題視しているのです。

[青空さんのコメント2]
「神様お願いします」とお願いしていると、"奇跡に頼る"ようになってしまう、ような気がして、少し
怖かった、こともあります。

[私のアドバイス2]
青空さん、私に、そんな嘘を言っても通用しません。「私は神さまと一体である」と唱えていたあなた
は、ひそかに奇蹟を望んでいたではありませんか。そんな馬鹿な言い訳を、私にしてはいけません。

[青空さんのコメント3]
守護神様との一体感は、今の私には少し高度すぎると思われるので、望まないようにしたいと、思ってい
ます。私は、神様(守護霊様)との一体感は、これからは、あまり考えないようにしたいと思うのです
が、いかがなものでしょうか?

[私のコメント3]
他力の教えに、「私は、望まないようにする」とか「私は、あまり考えないようにする」などという自力
の想いはありません。守護神だろうと、守護霊だろうと、そんなことは、どうでもいいのです。私に言わ
れたからといって、なぜ、ご自分で勝手に、「守護神様との一体観は、望まないようにする」とか「守護
霊様との一体観は、考えないようにする」と自力の想いを出すのか、それがおかしい、と言うのです。私
は、「神さまとの一体観を持ってはいけない」と言っているわけではありません。神我一体観のその方法
について、私の教えた通りにやらないのは、なぜか、と指摘しているのです。

今後も、「私は神と一体である」という宣言方法をなさりたければ、それはあなたのご自由で結構です。
その代わり、私は、あなたを指導することはやめます。こんな厳しいことを、私の弟子になった人に言う
のは、これが初めてですが、昌美先生と同じように真理に把われたやり方をしている人を、私は容認する
ことはできないからです。もう一度、私の教えを、よく読み直して下さい。

あなたの天命が完うされますように


焦らずに「世界平和の祈り」を祈りましょう
No.954 森島 恒吉    1999/08/24 (火) 00:24 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、ついてきてくれて、ありがとうございます。
青空さんにとっては、今が大事な分かれ道の時です。私からどんなに厳しく叱られても、めげずについて
来なくてはいけませんよ。このまま中途半端に終わってしまうか、五井先生のみ教えを真実に理解できる
か、の大事な大事な時なんです。納得いかなくとも、泣きながらでも、疑問を持っても、それでもいいか
ら、私についてきなさいね。いずれ、わかる時がきます。

それでは、私がなぜ「私は神さまと一体である」という宣言法をやらせずに、「世界平和の祈り」だけし
か教えないのか、その理由をお話しましょうね。前にも書いたことですが、もう一度教えましょう。

人間というのは悟りますと、悟っていなかった頃の自分の心境や行法を、記憶としては覚えているのです
が、感覚としては忘れてしまうものなのです。五井先生も、悟る前に行じていた行法と、悟ってからの行
法とは、異なっているのですが、大悟しますと、「神さま、ありがとうございます」という感謝一念の心
境になってしまったのです。悟る前に行じていた方法を、忘れるというよりも、必要なくなる、といった
ほうが正しいかもしれません。

悟った人は、「神さま、ありがとうございます」と常に感謝できる心境にいるわけですから、「こんなに
易しいことはない」と感じているのです。そこでたとえば、「神さま、ありがとうございます」という祈
りを、人々に勧めるわけです。ところが、まだ悟っていない人にとっては、「神さま、ありがとうござい
ます」と常に思うのは案外難しいわけです。悟った人から見れば、「なぜ、こんなに易しいことが、みん
なには、できないんだろう」と不思議に思うくらいなのです。こんなふうに悟った人と、悟っていない人
とでは、心境に大きな差があるわけです。

もう一つの例をあげますと、悟った人は、「私は神さまと一体である」と自然に、そう思えるわけです。
なぜならば、実際に神我一体になっているわけですから、ことさら思いこまなくとも、自然にそう思える
わけです。ですから、悟った人が「私は神さまと一体である」と言うならば、それは真実であり、人々に
真理の光明を投げかけることになるのです。そこで悟った人は、「私は神さまと一体である」と自然に思
えるのですから、弟子に対しても、「私は神さまと一体である、と深く深く思いなさい」と、つい教えて
しまうのです。自分の現在の心境を教えてあげて、「ここまで昇ってきなさい」と目標を示すわけです。

ところが、実は五井先生は「私は神さまと一体である」とくりかえし想念した結果、神我一体になれたの
ではないのです。五井先生は「神さま、お願いします」という祈りによって悟ったのであって、「私は神
さまと一体である」という想念をくりかえして悟ったわけではないのです。「神さま、お願いします」と
祈りつづけますと、想念波動変換原理によって、「神さま、ありがとうございます」という想念に変換さ
れ、第二次変換として「私は神さまと一体である」という神意識に到達できるのです。「私は神さまと一
体である」と深く思おうとして思っているわけではなく、自然に深く思える心境に到達しているのです。

その変換順序を経ないで、最初から最も高い「私は神さまと一体である」という絶対力の境地を想念して
も、残念ながらいつまでたっても、「私は神さまと一体である」という意識にはなれないのです。この想
念の変換原理を知らない人々は、絶対力の境地を早く手に入れようとして焦って、地道な祈り言をおろそ
かにして、「私は神さまと一体である」という真理の言葉を唱えるわけです。「私は神である」「私は完
全である」「私は健康である」「私は無限の力である」「私は無限の富を持っている」「私は完全に自由
である」「私は光明である」「私は何事も成功できる」「私は成功者である」「私は欲しいものをすでに
手に入れている」というような真理の言葉や成功の言葉を連呼しても、真実に神さまと一体になることは
不可能であるのです。それは、想念波動変換原理を経ていないからなのです。

「世界平和の祈り」を祈りつづけていれば、自然に「私は神さまと一体である」と思える日が、必ず来る
のです。それを、人よりもなんとか早く悟ろうと焦って、「世界平和の祈り」を忘れ、悟った自分をイメ
ージして「私は神さまと一体である、私は神である、私は完全である、世界は平和で調和している」と宣
言するわけですが、それは所詮、真実の境地ではないのですから、真理の言葉の力で、なんとなく悟った
気持ちにはなれても、いつまでたっても真実の悟りに到達することはできないのです。恐ろしい、とか怖
い、という問題ではなくて、「私は神さまと一体である」と唱えても、実際に神さまとは一体になれな
い、と私は指摘しているのです。なぜならば、嘘の行であり、偽善の行法であるからです。

私は、五井先生からみ教えを学び、五井先生の言われた通りに行じてみて、自己の失敗の体験を積み重ね
て、ようやく真実の道を発見できました。その体験から、五井先生のみ教えはもちろん正しいのですが、
五井先生の弟子としての私の失敗を二度と味わわせまいと、五井先生のみ教えの中から、誤解されやすい
よけいな言葉を省き、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」一本槍の教えを、私は確立したのです。

「神さま、お願いします」というのは、ふつうの願い事ではありません。「神さま、お願いします。世界
人類が平和でありますように」という祈り言のことなのです。あるいは「世界人類が平和でありますよう
に、神さま、お願いします」と言ってもかまいません。私たちが「世界人類が平和でありますように」と
祈っている時には、無意識に「神さま、世界人類が平和でありますように、お願いします」と祈っている
のです。口に出して言わないだけで、省略しているわけです。自分に合うも合わないも、「世界平和の祈
り」を祈る時には、誰でも心の中では、「神さま、お願いします」と無意識で祈っているわけなのです。
守護の神霊に頼らずに、自分の心の力で世界を平和にしてみせる、という人は別ですけれどね。

五井先生のご本を読んでいる時に、たとえば、こんな教えが出てきたとします。

「皆さんは守護霊守護神と一体なのです。一体ではないと思っている思いが邪魔して離しているだけなの
です。だから、守護神守護霊と一体なのだ、と深く深く思うことです」
(続・如是我聞NO118より)

そうしたら、「ああ、そうか。『世界平和の祈り』を祈っていると、こんなふうに『私は守護神守護霊と
一体なのだ』と自然に深く思えるようになるんだ。ありがたいなあ。今の自分は、まだそうは思えないけ
れど、こんな心境を目標にすればいいんだ。『守護霊様守護神様、あなたさまと私が常に一体であります
ように、世界人類が平和でありますように』というふうに「世界平和の祈り」へとつなげてゆくのです。

それを勘違いして、「ああ、そうか。『世界平和の祈り』なんか、やっているよりも、『我は守護神守護
霊と一体なり』と深く思ったほうが、もっと高い心境に行けそうだな。五井先生が、このように教えて下
さっているのだから、間違いないだろう。よし、これからは『世界平和の祈り』は適当にやって、『我は
神と一体なり』の宣言する行を主体にしてやってゆこう」と思っては駄目なのです。それは私自身もやっ
てみて、そのやり方の不可能であることを体験したから、よく知っているのです。

昌美先生が、今やっているようなことは、私がすでに30年も前にすべて経験済みのことなのです。私も、
真理の言葉を唱えたり、心の法則を、さんざんやったのです。しかし、悟れませんでした。さんざん苦し
んだ末に、五井先生のみ教えに戻って、「世界平和の祈り」一念になったら、パッと悟れたのです。

ですから、皆さんには、よけいな回り道を歩かせないようにと、よけいなことを説かずに、最も短距離で
悟れる道、「世界平和の祈り」一本槍の道を、ひたすら教えているわけなのです。霊能力を得たい、とい
う欲望も、すべて消えてゆく姿にして、ひたすら「世界平和の祈り」を祈るとき、焦らなくとも、自然に
花が開くように、いつしか私たちは神の子の神性を顕現する日がくるのです。あなたは、必ず神性を顕現
できるのです。世界は、必ず平和になるのです。その日を信じて、焦らず「世界平和の祈り」を祈り続け
てまいりましょう。

世界人類が平和でありますように


「世界平和の祈り」は全託の祈りである
No.955 森島 恒吉    1999/08/24 (火) 01:03 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[青空さんのご質問]

私自身が、未だに理解できずに、「危険だ」と考えている五井先生のお言葉を簡単に抜粋してみました。
以下は「続・如是我聞」からのです。森島先生、よろしかったら、これらのお言葉の、解釈をお願いでき
ませんでしょうか? このようなことを考えていたら、変な世界の神様がやってくれるようになる(?)
ような気がします。

NO234
「あなたの肉体がしているのではない、守護霊がすべてなさしめて下さるのである、と思いこむ練習をす
る必要がある]
NO300
「自分がしていると思うより、守護霊守護神がしてくださっていると思うこと]
NO301
「天なる神なる自分が肉体の自分をうごかしているのだ、常に神さまがやって下さる、と想いつづけてい
ると、自然と勇気がわいてくる]
NO319
「何事も自分がやるのではなく、神様がやって下さるのだと想うこと」

[私のお答え]

如是我聞では、「思いこむ」「思う」「想いつづける」「想うこと」と書いてありますが、自力で思いこ
む練習をする必要は、一切ありません。「世界平和の祈り」を祈っていれば、自然にそう思えるようにな
るからです。ここでは五井先生は、他力行について説いておりますが、具体的にどうしたら、そう思える
ようになるのかと申しますと、次のように祈ればよろしいのです。

「守護霊さま、(守護霊さまの)み心のままに、(すべてを)なさしめたまえ」

これは「全託の祈り」といいますが、この「全託の祈り」を祈っておりますと、自然に「守護霊が、すべ
てをなさしめて下さるのである」と思えるようになるのです。この「全託の祈り」と「世界平和の祈り」
は、他力の祈りということで共通しているのです。

「世界人類が平和でありますように」という祈りは、「神さま、神さまのみ心のままに、世界人類が平和
でありますように、なさしめたまえ」という意味であるのです。「世界平和の祈り」の他力行であること
を強調するために、五井先生は、このようにしばしば「全託の祈り」を教えていたのです。

守護の神霊に全託することは、勇気のいることですが、最も安全な方法でありまして、少しも危険ではあ
りません。守護霊に「世界平和の祈り」を祈っている限り、幽界の生物に憑依される心配はありません。

あなたの天命が完うされますように


五井先生の教えの解説
No.964 森島 恒吉    1999/08/24 (火) 14:25 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、ご質問をありがとうございます。

まず言っておきたいのですが、「私の怖いと思う五井先生の言葉」というタイトルは、あなたの意図する
お気持ちは私には充分理解できますが、いかにも五井先生の言葉が危険であるかのような印象を受けてし
まいます。五井先生のお言葉は、人々を安心させることはあっても、人々を恐怖させる言葉は一言もあり
ません。あなたご自身が、怖いと思っているだけなのですから、このような五井先生を危険視するタイト
ルは困ります。昌美先生の光明思想と、私の光明思想とは少し異なるのですが、日頃からできるかぎり明
るい言葉や明るい表現で言ったり書いたりする努力は、これは必要なことだし大事なことなのです。
「私が理解できない五井先生の言葉」というようなタイトルに変えて下さるようにお願い致します。

[質問1]
「続・如是我聞」より
NO195
「悟りというのはむずかしいものじゃない。よけいなことを思わなきゃいいんだ」
とは、どういう意味でしょうか?

[私の解説1]
「私は神の子になることができる、できる」と、自己の思念の力で悟りを開こうとするから、むずかしい
わけです。「これも念じなくてはいけない。あれも念じなくてはいけない」と行がどんどん増えてゆき、
多行難行になってゆくわけです。しかし、悟りを開くには、思念の力を無くせばよいのです。何も思わな
ければ、本心が現れてくるのです。その原理を、釈尊は「空即是色」として教えて下さったのです。

しかし、何も思わないというのは、かえってむずかしいもので、業は流転しておりますから、次から次に
業想念が浮かんでくるものです。そこで、一つの的をしぼり、一つのことだけを考えて、空に近い状態に
持ってゆこうとして、座禅のときには臍下丹田に想念を集中したり、一つの祈り言に統一するわけです。
この場合は、空になるための集中なので、念力と区別するために統一と呼んでいるのです。

その空になる方法の中で、五井先生は「世界平和の祈り」が一番やさしく安全に空になれる方法であると
教えて下さっているわけです。そして、「世界平和の祈り」以外のよけいなことを思わなければ、誰でも
悟ることができるのです。その明らかな証明として、私が存在しているのです。

[質問2]
NO297
「世界平和の祈りは、個人のあなたが祈っているのではなく、あなたの本体、守護の神霊が祈っているの
である。」とは、どういう意味でしょうか?

[お答え2]
「私一人が、世界平和の祈りを祈っても、たいして効果がないのではないか」と思っている人がいるので
そうした人々に対して、五井先生がおっしゃった言葉です。祈りの力に自信がもてない人が、それだけ多
いわけです。それに祈りというと、肉体人間の念の力で、願望を叶えるものだと思っている人が、まだま
だ多いのです。そして、自己の願望が叶えられないと、祈りなんか効果がない、と思ったり、神なんか存
在しない、と浅はかな判断で勝手に決めつけてしまうわけです。

祈りとは、肉体人間の念の力で、自己の運命を善くしたり、世界を平和にする行為ではないのです。祈り
とは、往相の祈りと還相の祈りがありまして、肉体人間が守護の神霊に救いを求める形の祈りが、往相の
祈りであり、その祈りに応えて、守護の神霊と自己の本体(直霊)が一体になって光明を放つ祈りが、往
相の祈りであり、往相の祈りと還相の祈りが一体になった祈りが、「世界平和の祈り」であるのです。

つまり、祈りとは、肉体人間の念の力で、個人を幸福にしたり世界を平和にする行為ではなく、無限大の
宇宙を動かしている神の大光明力が、個人や人類に放射される行為をいうのです。もっと具体的に申しま
すと、「世界人類が平和でありますように」と私たちが祈るときには、肉体人間の念の力が世界を平和に
するわけではなく、私たちの本体(直霊)と守護の神霊の光明力が、世界を平和にするのですから、祈り
の力は偉大な力を持っている、というのです。

[質問3]
NO355
「審神(さにわ)をするのに、一番根本なことはなんでしょうか?」
「自分を完全になくすことだ」
という会話がありますが、「自分を完全になくす」とは、どういう意味なのでしょうか?

[お答え3]
霊媒体質の人には、高級神霊が肉体を借りてしゃべったりする場合と、動物霊のような低級霊魂が憑依し
てくる場合があります。そして、霊媒自身には、自分の肉体を霊魂に占領された形になっていて、自分の
意思で自分の体をコントロールできない状態でいるのです。自分の意思とは関係なく、占領した霊魂が口
を動かして話したり、手を動かして文字を書いて、霊の意思をメッセージで伝えてくるのです。したがっ
て、その霊媒にかかってきた霊魂が、高級神霊であるか単なるいたずらをする低級霊なのかを、慎重に見
きわめる、客観的な第三者が必要となります。その判断する行為や人を、審神(さにわ)というのです。

たとえば、統一中に「われは弥勒(みろく)菩薩である」とか「われは天照大御神(あまてらすおおみか
み)である」などと語って姿を現わす霊魂があるのです。「われはその昔、役(えん)の行者のおそばに
お仕えし者なり」と言う霊もあります。しかし、霊魂がそのように自己紹介したからといって、必ずしも
正しいとは限らないのです。詐欺師と同じように、動物霊や低級の幽界の生物が、その人の強く信じてい
る信仰の対象の神仏をよそおって、だましてくることがあるのです。

このとき、自分の心の中に、少しでも名誉欲、権力欲、金銭欲、物質欲などがありますと、その欲望に目
がくらんで、たとえば「汝のその願いを叶えてあげよう」と言われたりすると、自分にとって都合がよい
ので正しい神霊と信じてしまい、霊視に現れた霊魂が、高級神霊なのか低級霊魂なのかが、判断できなく
なってしまうのです。ですから、ここで五井先生が説いている「自分を完全になくす」とは、「自分の欲
望を完全に無くす」という意味であるのです。自分の欲望を完全に無くさなくては、審神はできません。

それでは、自分の欲望を完全に無くすには、どうしたらよいかと申しますと、すべての欲望を「消えてゆ
く姿」と想い、「世界平和の祈り」を祈ることなのです。「お金が欲しいのはあたりまえだ」「人間なん
だから、このくらいの欲はあってもいい」というふうに、自分の欲望を肯定してしまっては、欲望は消え
てはゆきません。自分のすべての欲望を「消えてゆく姿」として、「世界平和の祈り」の中に欲望を消滅
し去ったとき、はじめて真実の審神ができるようになるのです。


満月さんへのお答え
No.965 森島    1999/08/24 (火) 14:51 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

満月さん、ご質問をありがとうございます。

[質問1]
唯一会は、現在、会員数はどれくらいいるのでしょうか?

[お答え1]
唯一会の会員数は、現在15名です。"Peace Prayer Family"は8名です。

[質問2]
黎明(葦原瑞穂著)という本の中に、最も簡単で確実な行法として「世界人類が平和でありますように」
というマントラが紹介されていました。この本の著者はひょっとして。。。と思ってしまいました。森島
先生はこの本についての質問にお答えになって下さるのでしょうか?

[お答え2]
私は、その本について存じません。日本には、五井先生の真似をして宗教を説いている人が、何人かいる
らしく、その人もそのうちのお一人でしょう。重要な部分を抜粋して書いて下されば、評論しても結構で
すが、それにしても「世界平和の祈り」を「マントラ」と言うのは、変ですねえ。五井先生は、「世界平
和の祈り」をマントラという表現でおっしゃったことは一度もありません。

あなたの天命が完うされますように


「真理」という言葉には、ご用心!
No.971 森島恒吉    1999/08/24 (火) 23:59 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

満月さん、ありがとうございます。葦原瑞穂氏の「黎明」から抜粋していただいた部分は、救世の大光明
霊団のことを、自分なりに解釈して書かれたものでしょう。これだけに限ってみれば、特に新しい独自の
宗教思想は感じられず、宗教の大好きな宗教オタクが、自分の集めた広い知識をまとめた本のように思わ
れます。それにしても「世界人類が平和でありますように」という祈りを紹介しながら、その提唱者であ
る五井先生の紹介がないのも、変ですね。

私が東京に住んでいたとき、自宅の郵便受けに配られていた宗教のチラシを読んだら、地下鉄サリン事件
で有名な某宗教教団関係の宣伝広告で、「霊界は実在する」という記事の参考本に、なんと「霊界通信」
村田正雄・白光真宏会、と書かれてあったのです。某教団は、こんなふうに他の宗教教団の思想をたくみ
に取り入れ利用して拡大を図っているのか、と知らされました。某教団の社会的犯罪によって、ヨガ関係
のまじめな人たちは大変な迷惑を受けたことと思いますが、「マントラ」とか「真理」という言葉がたく
さん出てくる本には、某教団が本性を隠して名を変えて、人々を勧誘していることが多いので注意して下
さい。「真理、真理」と真理という言葉を、やたらに口にする本や教えには、用心することです。

あなたの天命が完うされますように


すべての欲望を「世界平和の祈り」の中に投げ入れよ
No.972 森島恒吉    1999/08/25 (水) 03:07 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、ご質問をありがとうございます。

[質問1]
森島先生は、何を神様にお願いしたのでしょうか?もしも、よろしければ、教えてください。
また、お願いする時の心境等もあわせてお聞かせ願えれば、幸いです。

[お答え1]
「神さま、お願いします」という祈り言は、短縮形の祈りで、本来の祈りは「神さま、世界人類が平和で
ありますように、お願いします」という祈り言であるのです。くりかえし唱える時には、短いほうが楽な
ので、簡単に「神さま、お願いします」と祈るわけです。「世界人類が平和でありますように」という言
葉を省略しても、私がその気持ちを持っていれば、神さまのほうではわかってくれるのです。そして、
「神さま、お願いします」とくりかえし祈る習慣がつきますと、今度は「世界人類が平和でありますよう
に」と祈るだけで「神さま、お願いします」という言葉を省略しても、「神さま、世界人類が平和であり
ますように、お願いします」という祈り言と同じ意味の祈りとなるのです。

「お願いする時の心境をお聞かせ下さい」というご質問は、何を聞きたいのでしょうか、ご質問の意味が
わかりませんので、お答えできません。

[質問2]
神様にお願いするときには、お願いする前提条件、すなわち、どのような心構えを抱いて、お祈りすれば
よろしいのですか?自我欲望の為に、このようなお祈りをするのは、もちろん、まずいのでしょうか?

[お答え2]
自分の欲しいものをイメージして、「願望はすでに成就された、神さま、ありがとうございます」と祈れ
ば、願望は成就される、と教える人がいますが、神さまという言葉を使ってはいても、それは神さまが叶
えたのではなくて、念力による願望成就のことであって、真の祈りではありません。

といっても、自我欲望のない人はいないのですから、「自我欲望を無くして祈れ」と教えても無理なお話
です。そこで自我欲望を持ったままでよいから、その欲望を大欲へと昇華して「世界人類が平和でありま
すように」と祈るのです。世界を平和にしたい、という大欲は、無欲と同じです。

たとえば、「あれが欲しい」と思ったら、「神さま(守護の神霊)、あれが欲しい、世界人類が平和であ
りますように」と祈り、「これが欲しい」と思ったら、「神さま、これが欲しい、世界人類が平和であり
ますように」というぐあいに、自分のすべての欲望を、「世界平和の祈り」の中に投げ入れてしまうので
す。そうしておりますと、欲望は純化され、いつの間にか「世界人類が平和でありますように」一念にな
って、その人に必要な物は、おのずから神さまから与えられるようになるのです。

[質問3]
守護霊様は、先祖の悟った方であると、「神と人間」に明示してあります。通常、悟った方ならば、霊界
ではなく、神界にお住みになるものと私は思います。なぜ、守護霊様は悟っているのに、霊界にお住みに
なっているのでしょうか?

[お答え3]
霊界は、神界よりも低い階層ですから、いかにもまだ不完全な世界に思われるかもしれませんが、もとも
と「霊」という言葉は、「神」という言葉と同一であるように、霊界の中間層から上層は、輪廻の法則を
超えた完全に近い素晴らしい世界なのです。悟りにも段階がありますが、霊界の中間層よりも上にいる霊
は、すべて悟っているといってよいのですから、守護霊が霊界に住んでいても不思議ではありません。

守護霊さまは、エレベーターに乗るように、神界、霊界、幽界、肉体界を自由に行き来できる超能力を持
っているのです。そして守護神さまのお力を得ながら、肉体人間の私たちを加護し導いて下さっているの
です。守護霊さまは、肉体経験を持った人なので、肉体人間の苦しみや悩みがよくわかるのです。守護神
さまが、「本心開発のためなら、このくらいなんだ!」と厳しく言うところを、守護霊さまは「まあ、ま
あ、もうしばらく見守ってあげて下さい。私が、なんとかこの人間を立派にしますから、あまり厳しいこ
とをおっしゃらないで下さい」とお願いして、少しでも苦痛のないように導いて下さっているのです。

「守護霊よりも守護神のほうが上位なのだから、守護神だけを拝めばよい」と教えている宗教者がおりま
すが、守護神だけに感謝していても、人間の運命は善くならないし、また守護霊だけを拝んでも駄目なの
です。守護霊には守護霊にしかできないお役目がありますし、守護神には守護神にしかできないお役目が
ありますから、「守護霊さま、ありがとうございます。守護神さま、ありがとうございます」と守護霊さ
まと守護神さまの両方に感謝しなければならないのです。

あなたの天命が完うされますように


「神様お願いします」に付け足す言葉は?
No.983 森島恒吉    1999/08/26 (木) 13:24 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、ありがとうございます。青空さんのご質問にお答えします。

[質問1] 
「神様お願いします、世界人類が平和でありますように」を実行させて頂いて感じたのですが、 このお
言葉は、この後ろに何も付け足さなくてもよろしいのですか?あるいは、付け足さないほうがよろしいの
ですか?できますれば、森島先生のお考えと、五井先生の実施していた方法の、両方を教えて下さると有
り難いです。

[お答え1]
このお答えは、五井先生のご本にも、私の過去のログにも、すでに書いてあるのですが、もう一度お答え
いたしましょう。「神さま、お願いします、世界人類が平和でありますように」の後には、何も付け足す
必要はありませんが、もし、付け足したい言葉があったら、付け足してもかまいません。どちらでもいい
のです。「世界平和の祈り」というのは、もともと次のような文体構造になっているのです。

(神様 お願いします)
 世界人類が平和でありますように
 日本が平和でありますように
 私達の天命が完うされますように
 守護霊様 ありがとうございます
 守護神様 ありがとうございます

「世界平和の祈りには、『何々でありますように』という祈りの文体があり、すでに『神さま、お願いし
ます』という意味がその中に含まれているから、言わなくともわかるだろう」と五井先生が判断されて、
その言葉が省略されているのです。

尚、「何々でありますように」という「〜に」止めの祈りの表現は、文語訳聖書の後、現代語訳聖書が日
本で翻訳されるようになった頃から、一般に用いられるようになった比較的新しい現代的な表現であるの
です。それまでは、神道式の「祓いたまえ」「成就せしめたまえ」「かしこみもうす」、一般では「よろ
しゅうお頼みもうします」、漢文調の「祈願、家内安全、病気治癒、商売繁盛」、それから従来ある「南
無阿弥陀仏」のような仏教的祈願が多かったようです。

「世界人類が幸せ(平和)でありますように」という祈り言は、生長の家の谷口雅春教祖がすでに神示と
して本に書いていたのですが、特に重要視することなく、大量の原稿の洪水に流されて、著者にも読者に
も忘れ去られてしまったのです。五井先生は、その一言を捨てることなくひろい上げて、神示を生かした
わけです。そこで生長の家の神さまが、五井先生に移ってきたわけです。「多弁饒舌が、生長の家の誤り
だった」と五井先生は述懐されていました。多弁饒舌のために、大事な神示の言葉が失われてしまったの
です。他山の石として、私たちも自戒しなければならぬところです。

「神さま、お願いします、世界人類が平和でありますように」という祈り方は、五井先生の執筆された本
によっては、一言も出てこない本もあります。執筆された本には、この教え方は非常に少ないのです。と
ころが面白いことに、聖ヶ丘講話では、五井先生は頻繁にこの方法をお説きになっており「五井先生講話
集」には「神さま、お願いします、世界人類が平和でありますように」という祈り方が多く出てきます。

私は、自分でこのやり方を発明して説いているわけではなく、五井先生が教えて下さった方法を、そのま
ま実行し、そっくり説いているだけなのです。ただ、どういうわけか気づく人がいないことと、私以外に
実行している人が一人もいないので、「それは森島先生の独自のお考えだろう。五井先生の教えではない
のではないか」と疑われて、苦労するのです。私は、五井先生の教えを、そのまま実行しているだけなの
です。この事実は、五井先生のご本をよく読まれている方には、おわかりいただけると思います。「私は
五井先生のご本をすべて読んだが、そんな教えは、五井先生は一言も説いていない」と豪語している人が
いますが、高慢な人には、五井先生の教えの大切な言葉が目に入ってこないのは不思議なことです。


統一行と消えてゆく姿
No.984 森島恒吉    1999/08/26 (木) 13:44 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

つづいて、青空さんのご質問にお答えします。

[質問2]
「『統一は、業想念(自我欲望)を超えるためにするのであり、業想念を超えれば、自ずから神と一体と
なり、本心が開顕出来、真実の神通力といわれる能力も発現してくるのであって、業想念をなんら否定し
ないで、自己の念力で統一しようということは、非常に危険であります。そこに私が日頃説いている『消
えてゆく姿』の教えが生きてくるのであります。一度は必ず、自己の肉体想念を消えてゆく姿として否定
し、否定したところから統一に入らなければ、その統一は、いつまでやっても業想念世界の統一になって
しまって、神のみ心、本心開発には役立たぬことになってしまいます。」(「宗教問答149頁」より)

この部分の解説をお願いいたします。

[お答え]
統一行をしておりますと、肉体界から幽界、幽界から霊界へと意識が上昇してゆくのですが、途中の幽界
を通り抜けるとき、日頃から抑圧している怒りや不平不満の感情が噴き出してきたり、嫌らしい雑念が湧
いてきたりします。体質的に幽体が大きくて霊的な波動を受けやすい人は、地獄の世界に堕ちて人知れぬ
恐怖を味わったり、未来の地球の滅亡の姿を見せられて悲観させられたり、自分の知人がどこにいて何を
しているかを霊視させれて心を乱されたりするのです。

「魔境のような危うい世界で、よい気持ちになる」とは、「あなたは地上最高の菩薩だ」と神仏におだて
られたり、天国のような自己の思い通りになる世界に行ったり、「あなたは神である」とおだてられて、
名誉欲を満足させられて、よい気持ちになる、という意味です。またときには、他人を呪う「憎いあいつ
を殺せ」というような霊聴が聴こえてきて、その憎しみの業想念に動かされるままに殺人をおかしてしま
う人も、実際にあるのです。善き指導者のいない統一行というのは、非常に危険であるのです。

そこに、五井先生の「消えてゆく姿」の教えが生きてくるのです。統一中、何が感じられても、何を見て
も聴いても「消えてゆく姿」と否定しなければなりません。ところが、霊視に見え、霊耳に聴こえるもの
ですから、「存在するもの」として、ついつい肯定してしまいがちなのです。業想念は肯定すれば、消え
てはゆきません。「業想念は消えてゆく」と否定してこそ、消えてゆくのです。

しかし、何が本心の現れか、業想念の現れかを区別するのは容易ではありませんから、その区別がはっき
りとつくまでは、悪想念だけでなく、たとえ神仏の姿が見え、神仏の声が聴こえてきても、すべての現象
を「消えてゆく姿」と否定しなければなりません。「これは宇宙神からの神示である」と言われても「消
えてゆく姿」と否定し、ほめられても、けなされても、おだてられても、おどされても、「消えてゆく姿
である」と否定することです。そうしますと、業想念は消えてゆき、本心の現れだけが残るのです。

統一に入る前には、自力で統一しようとしないで、守護の神霊の加護を願い、守護の神霊に導いていただ
けば、光明で業想念を浄めていただけるので、幽界の嫌な波動をほとんど受けることなく、神界へとスー
ッと昇ることができるようになるのです。「世界平和の祈り」の中には、守護の神霊への感謝の祈りが含
まれておりますから、「世界平和の祈り」を祈る人は、統一中の業の障りを心配する必要はありません。
しかし、たまに試みとして、霊視や霊聴の現象が現れる場合があります。そのようなときは、あらためて
「消えてゆく姿」と否定して、守護霊守護神をお呼びして、「世界平和の祈り」の中へと飛びこむことで
す。「世界人類が平和でありますように」と唱えつづけていれば、いかなる業も消え去ってゆきます。

あなたの天命が完うされますように


「世界平和の祈り」に飛び込んでわかる気持ち良さ
No.985 森島恒吉    1999/08/26 (木) 13:57 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[青空さんのご質問3]
統一を"気持ちよくなるから実施"するというのは間違いですよね。

[私のお答え]
統一行をやっているとき、途中の幽界の段階で「よい気持ちになる」というのは、うぬぼれ、名誉欲、金
銭欲、物質欲、権力欲などを満足させられて、よい気持ちになるということです。そのような良い気持ち
には、気をつけなさい、と五井先生は注意しているのです。

「世界平和の祈るは神のみ心のひびきにあれば祈る楽しさ」
という五井先生のお歌のような法悦感で良い気持ちになることは、これは悪いことではありません。真実
の統一とは、明るく爽やかな心になり、生命が生き生きとしてきて勇気が湧いてくるものです。業想念の
満足による気持ちよさか、本心の満足による気持ちよさか、は統一行を練習するにつれて、はっきりと区
別することができるようになります。理屈をある程度知って、正しいと信じることができるようになった
ら、今度は思い切って実行してみるしかありません。「世界平和の祈り」を祈らないで、あれこれ心配し
ても、先に進めません。「世界平和の祈り」に飛びこむことを、私はあなたにお勧めします。

あなたの天命が完うされますように


「みたままつり」について
No.991 森島恒吉    1999/08/27 (金) 02:54 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

デボラ・モルドーさん、むくちゃん、青空さん、ケントさん、ありがとうございます。
唯一会が、オーソドックスの「世界平和の祈り」を実行する "Orthodox World Peace Prayer Group"と
して、五井平和財団やWPPSに認知され、うれしい限りです。オーソドックスは適切な表現だと思いま
す。さて、むくちゃんと青空さんの「みたままつり」についてのご質問に、お答えしましょう。

[質問]
白光の行事になっているみたましろ供養(用紙に記入しておきよめしてもらう)についてですが、日々の
お祈りの他にこのような供養をする必要はありますか?
世界人類が平和でありますように、と祈っているだけではだめなのでしょうか?
私も今まで何度か申し込みましたが、そうしながらもその度に上記の疑問を感じていました。
「五井先生へお手紙を書きましょう」の時も同様の気持ちになりました。
どうぞお答え下さい。

[お答え]
白光真宏会の記事を素直に信じて、「みたましろ供養」の申込書を数十枚も書いている人もいるのですか
ら、白光真宏会から勧められるままに実施したらいいかどうかは、各人の自由なご判断に委ねることにし
まして、ここでは私の解釈している先祖供養の意味とその方法、そして私自身はどうしているか、だけを
書くことにいたします。

供養という言葉は、もともと仏法僧を供養する仏教用語であって、各人の先祖を供養する意味ではないの
ですが、日本古来からの風習としてあった先祖を供養する風習が、仏教と結びついたようです。神道の表
現では、みたままつり、といいます。肉体界にいる人間が、先祖を供養することによって、霊界、幽界に
いる先祖の霊魂の進化を促進させることになり、足取りを軽くさせ、霊界、幽界での生活がより快適にな
ってゆくのです。そうしますと今度は、ご先祖が子孫を守りやすくなり、ご先祖の霊的パワーによって、
肉体界の人間は幸福になる、というわけです。そのことを日本人は、昔から直感的に知っていたのです。

肉体人間には、業の輪廻のままに流されるばかりで、自己の運命を変える力はたいしてありません。それ
を守護霊は、その霊能力で子孫の運命を劇的に善くすることができるのです。たとえば、「子孫に、この
人を会わせれば、いい運命が開ける」と守護霊にはわかるので、子孫と会わせたい人を、いつ、どこで会
わせようかと計らうのです。肉体人間は、自分で自由に行動しているようですけれど、守護霊に導かれて
いることが、ずいぶんあるのです。守護霊と先祖霊のほうは、肉体人間から供養を受けますと、霊界幽界
において元気が出るのですから、お互いに異なったパワーを与えあう不思議な関係といえます。

「世界平和の祈り」には、礼拝供養という先祖への感謝の祈りが含まれておりますから、各家で「世界平
和の祈り」を毎日祈っている人は、毎日、先祖供養をしていることになります。先祖の供養は、その子孫
が行なうべきことでありまして、お金を払って他人に供養をしてもらうというのは、ずいぶんおかしな話
です。最近では、代理にお墓を掃除したり、線香をあげたりする、便利屋と称する代理業者ができたよう
ですが、先祖供養くらいは、少しも難しいことではなく、誰にでもできることなのですから、神社やお寺
や他人まかせにしないで、子孫である自分がやらなくてはなりません。

「世界平和の祈り」を日々祈っていることは、先ほども申しましたように、日々先祖供養をしていること
になりますし、それに加え先祖の命日に、現世の名前でよいから「○○様の天命が完うされますように」
とその人の名前を呼んでお祈りします。もしできれば、お墓参りに行き、お花を供え、お墓の前で「世界
平和の祈り」をお祈りすれば、より完全な供養といえます。もし仕事で忙しくて行けなかったら、そのお
墓のある方向へ向かって合掌してお祈りすれば、ご先祖の霊は、こちらの事情を理解してくれますから、
それだけで非常に喜んでくれます。何もお金をかける必要はありませんし、難しいことでもありません。
先祖供養は、このように誰にでもできる簡単な行事であるのです。

さて、私個人は白光真宏会の「みたままつり」について、どうしているか、と聞かれれば、「みたましろ
供養の申込」はしておりません。五井先生のご指導の「みたままつり」の時には、毎回参加しておりまし
たが、現在は、「世界平和の祈り」以外の奇妙な儀式があって、それがどうしてもいやなので、参加して
おりません。五井先生の時代の「みたままつり」の形式は、いつもの統一会と同じように、「世界平和の
祈り」に始まって「世界平和の祈り」に終わる、「世界平和の祈り」だけによる先祖供養だったのです。
「世界平和の祈り」以外の特別な祈り言を発する、ということは全くありません。それはとてもシンプル
で素晴らしく荘厳なものでした。

「五井先生へお手紙を書きましょう」の行事についても、私はまったくしたことがありません。なぜって
私は五井先生にお手紙を出すほど、遠い関係ではないからです。(笑)「五井先生!」とお呼びすれば、
いつでもどこでも神霊の五井先生は来て下さるのです。それに私個人は、五井先生に自分の生命を差し上
げてしまって、私の生命は、五井先生の生命であるのですから、五井先生と少しも離れている感覚がない
のです。五井先生と私は、いつも一緒です。

以上、私の宗教観を述べましたが、初めにもお断りしましたように、白光真宏会の各行事について批判す
るものでも、また自分の考えを強制するものでもありません。各行事に参加するか否かは、各人の自由な
ご判断で決めて下さるようにお願いいたします。

皆様の天命が完うされますように
先祖霊様の天命が完うされますように
世界人類が平和でありますように


ケントさん、おめでとうございます!
No.993 森島恒吉    1999/08/27 (金) 10:22 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ご親切に過去の資料を、皆さんに教えて下さって、ありがとうございます。それから、私の
思っていることを、以心伝心で受け取れるようになってきましたね。うれしく思います。

………………………………………………………………………………………………………
[私にも起こった想念波動の変換](ケントさんの体験談より)

実は、もう少し再現性を確認してから、発表させて頂こうかと思ったのですが、数日前(8/23日頃)、就
寝時、眠りに入る直前に、確かに、私の口からも、「神さま、ありがとうございます」が、自然に、出て
きました。その時は、ひとりでに笑みがこぼれました。
………………………………………………………………………………………………………

ケントさん、おめでとうございます。想念波動の変換を一瞬でも初めて体験できたことは、ケントさんの
霊性が急速に進歩した証拠です。その「神さま、ありがとうございます」こそ、五井先生の説いていた真
実の感謝行であるのです。その日は、ケントさんの人生の記念日として、システム手帳に記録しておくと
いいですね。なおもしばらく続けていると、同じ想念波動変換現象が、一瞬ではなく、継続して再現され
るようになります。そうなったら、もうしめたものです。その時は、「想念波動変換原理」の体験談を、
ぜひ書いて下さい。楽しみにしております。

皆様の天命が完うされますように


世界の平和と日本の平和は一つ
No.996 森島恒吉    1999/08/27 (金) 17:29 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

日本人の多くが、世界へ進出してゆくにつれて、世界各国と日本は切っても切り離せない状況になってき
ました。日本国内だけが平和でありましても、世界が平和でなければ、各国にいる日本人は平和な生活を
おくることはできませんし、日本にいる家族や親戚もまた、平穏な生活をおくることができません。

キルギスで拉致され人質になっている日本人が、ANANさんの義理のお兄様の同僚であると知らされま
すと、他人ごととは思えません。人質になった日本人の方々が、一刻も早く救出されますように、お祈り
いたします。キルギスでは、政府軍がロケット砲で本格的な攻撃を始めており、政府軍と武装勢力の戦闘
が激化し、住民3000人が避難民となっているようです。

ユーゴスラビアでは、戦争が終息したように見えていても、依然として内戦状態がつづいておりますし、
トルコでは先日の大地震で、20万人もの多くの人々が野外生活をしており、東ティモールも危険な状態で
す。こうして世界の情勢を見ますと、日本くらい平和な国はないようです。しかし、世界が平和でなくて
は、日本人の真実の平和もないのですから、世界の平和と日本の平和は、今は一つであるのです。

戦争状態にある国の人々は、どうしたら平和になるのか、考える余裕もなく、銃を手にしていることでし
ょう。私たち日本人こそが、世界各地の状況を直視して、世界の人々の幸せと平和を祈らなければならな
い、と思います。いかなる戦争も消えてゆく姿と信じて、世界に住む人々のために「世界平和の祈り」を
祈ってまいりましょう。

尚、「世界各国の平和の祈り小冊子」に基づいて、「キリギスタン共和国」と前に書きましたが、先ほど
外務省のホームページで確認したら、「キリギス共和国」に国名が変更されていました。現在の正しい国
名で再度お祈りすることにいたします。

キリギス共和国が平和でありますように
May Peace be in Kyrgyz Republic.
May Peace Prevail on Earth.


軽諾は必ず信寡く、多易は必ず難多し。
No.1000 森島恒吉    1999/08/29 (日) 15:34 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

どなたの書き込みもないので、今日は老子の教えを紹介しましょう。

気の良いといわれる人の中には、軽うけあいをして、後で困っている人がよくあります。「私はできる、
私はやってみせる」と軽うけあいしたものの、思う通りにできなくなって、依頼人から信用を落としてし
まう馬鹿をみます。また他人から依頼された仕事でなくとも、自分から自発的に「私はこれをやります」
と言い出しておいて、途中で気が変わってその仕事を放り出すようなことが何回も続きますと、やはり、
人々からの信用を失ってしまいます。

人々から信用を失っては、誰もその人に仕事を与えることがなくなり、生活してゆくことができなくなり
ます。自分一人で生きてゆくならばともかく、社会の中で生きてゆくならば、周囲の人々から信用される
生き方をしなければなりません。社会の人々から信用される第一の行為が、「自分の言った約束は守る」
ということなのです。五井先生は「人と約束したことは、神様と約束したことと同じだから、私は約束し
たとは、必ず守ります」とおっしゃいました。約束を破って、なんの罰則がないとしても、人々から信用
を一度失いますと、信用を回復するのは容易ではありません。

それを言いかえますと、軽うけあいはしないことで、「私はこれができる、私はこれをやってみせます」
といたずらに約束しないことです。「私はこれもできる、あれもできる」とは、私もめったに言わないよ
うにしております。親切に約束して言ったことが、できなくなったとき、信用を失ってしまうからです。
智慧能力のすぐれた聖人でさえも、物事を慎重に考えて、そう簡単に「私はできる」「私はこれをやる」
と、人々にペラペラとしゃべらないのですから、私たちもそう簡単に軽うけあいはしないことです。自己
の能力の限界を考えて、慎重に熟慮してから、返事をしなくてはなりません。もし、できなければ、でき
ないで良いのですから、できそうもないことは、「私はできません」「私にはできそうもありません」と
正直に話したほうが、かえって社会から信用されるものです。

このような例え話から、老子は、「自力の想念の人為というものは、あてにならないものだから、そんな
人為の想いは捨てなさい。天地に任せ、無為となり、天地の運行のままに無理なく自然に生きなさい」と
説いているのです。その無為の行為は、「世界平和の祈り」の中から自然と現れてくるのであります。

[老子道徳経第六十三章]

軽諾(けいだく)は必ず信(しん)寡(すくな)く、
多易(たい)は必ず難(なん)多し。
是(これ)を以(もっ)て聖人すら猶(なお)難(かた)しとす。
故(ゆえ)に終(つい)に難きこと無し。

(五井先生の解説)

世の中には軽諾(けいだく)つまり軽うけあいをする人がかなりいますが、こういう人は相手に自分を善
くみせたい、悪く思われたくない、という気持ちが働いているか、その事柄の真実をはっきり見極める深
い心がないかなので、そういう人は、人に信用されることが少ないし、大事を成すことはできない。

それから何事もやすやすとできると思いがちな人は、物事がうまくゆかないで、難を受け易い、聖人のよ
うに智慧能力の人に秀(すぐ)れた人でも、軽うけあいをしたり、物事がやすやすとできるような返事は
しないものである。

なぜならば、この世の中には、そう軽々と請け合えたり、やすやすとできるような事柄は、そうあるもの
ではないからなのである。その現れている事柄は、たいしたことではなさそうに見えていても、それから
発展してゆく未来の出来事が、どれ程のものであるかは、凡人には計ることができないが、聖人にはそれ
を計ることができる。だから、どのような易しそうな事柄にでも、軽諾はしないのである、そういう態度
で生活しているから、聖人にはむずかしいということがないのである、というのであります。

皆さまの天命が完うされますように