森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


「世界平和の祈り」は天下無敵
No.1001 森島恒吉    1999/08/30 (月) 11:46 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[Aさんからのご質問]

五井先生著「人類の未来」には、森島先生に教えていただいた通り、「念力に対しての祈りの唯一性」と
いう教えが大変頻繁に登場します。(例えば239ページです)それについて、お教え下さい。

[質問1]
あたらめて、五井先生のご本を読みますと、 「昌美先生のやり方が本当に外道に落ちてしまった」、と
たしかに私も考えざるをえません。そうしますと、現在の白光真宏会には救いがないのでしょうか?

[お答え1]  
白光真宏会の会員は、「世界平和の祈り」を失わないかぎり、いずれは全員が救われます。

[質問2]
森島先生がもしも、「人類の未来」を読んで、そこに書いてある「未来の念力の広がり」と「昌美先生
の教えていること」の類似性に気づいて、昌美先生に対抗しようとするような方であったなら、どうしよ
うか、と考えてしまいました。自分が、そのような方の、変なおだてに乗せられて、その方の手先になっ
てしまったらどうしようか、という恐れです。自分は森島先生をまだ完全に信じ切れていないようです。
(怒らないでください)

[お答え2]
類似性に気づくもなにも、はっきり申し上げて、五井先生の教え以外の昌美先生の教えは、念力の教えな
のです。そんなことは言われなくとも、私はとっくに気づいています。五井先生のご本を読めば、よほど
頭の悪い人でないかぎり、昌美先生の教えは念力であり、五井先生の教えではない、と気づくはずです。
しかし、だからといって、私は昌美先生に対抗しようとは思っておりませんから、ご心配ありません。

あなたは昌美先生を信じながらも、五井先生のご本をよく読むにつれて、「昌美先生は、ひょっとして間
違っているかもしれない」とふと想われ、「昌美先生に対抗する手先にさせられたら、それも大変だ」と
私に対しても半信半疑でいるわけです。

そうやって想いが迷って、フラフラフラフラと揺れ動いているようでは、駄目なのです。あなたの信じる
信仰を一つに定め、徹底的にやってごらんなさい。あなたは、昌美先生を完全には信じていないようです
が、昌美先生を信じる気持ちも、まだ残っているのでしょう。もし、昌美先生を信じるならば、徹底的に
昌美先生を信じなさい。私が、なんと言おうとかまわずに、昌美先生を信じきることです。

もし、五井先生を信じるならば、五井先生以外の人を信じないで、五井先生だけを徹底的に信じなさい。
誰がなんと言おうと、五井先生の教えだけを信じるのです。もし、私を信じるならば、私を徹底的に信じ
なさい。もし、どの宗教者の教えも半信半疑で、誰をも信じることができなければ、あなたご自身を信じ
なさい。フラフラフラフラと、他人の意見に左右されて迷い続けては駄目です。

ちなみに私は、念力を教えている宗教者など、てんで問題にもしておりません。念力主義者に対抗しよう
とも思っておりません。私は、そんなちっぽけな宗教者ではないのです。「世界平和の祈り」は天下無敵
の何人とも争わぬ大調和の祈りであるのです。念力を教えている宗教者は、正しい祈りの大光明に照らさ
れて、いずれ消えてゆきます。五井先生が教えて下さっているように、私も祈りと念力の違いについては
誤解しないようにと、口を酸っぱくして説いておりますが、念力主義者に対する対抗心は少しもありませ
ん。対抗心は、業想念であるのです。私は「正しい宗教とは何か」を説き、是々非々は説きながらも、何
人とも争わず、何人とも対抗せず、すべての過ちは消えてゆく姿として「世界平和の祈り」を広めている
のです。「世界平和の祈り」は天下無敵の祈りであるのです。

あなたの天命が完うされますように


五井先生への感謝の祈りについて
No.1005 森島恒吉    1999/09/02 (木) 00:10 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ねこりんさん、ご質問をありがとうございます。

[ご質問1](五井先生への感謝の祈りについて)

五井先生は、自らの教えを一宗一派とは思ってなかったのが、御著書からよくうかがえますが、この観点
からすると、世界平和の祈りに、「五井先生ありがとうございます」をいれるのは、一宗一派のような気
もしますが、これはいかが思われますか?(というか、ほとんどの方がそう祈っているのに、活字の本と
かには書かれてなく、嘘をついているようで気持ちが悪いです) 
 
[お答え1]

ご指摘のこの問題は、非常に重要な問題であり、物事を深く考える真面目な人であればあるほど、悩んで
しまう大問題であるのです。なぜこんなふうな祈り方になったのか、という経緯についてお話ししますと
もちろん初めは、五井先生がお書きになった通り、「守護霊様ありがとうございます、守護神様ありがと
うございます」だけだったのです。

その後しばらくして、信者さんのほうから「『五井先生ありがとうございます』を加えさせて下さい」と
申し出てきたのです。それを五井先生はご許可されたのです。しかし、五井先生ご自身が、「五井先生、
ありがとうございます」と言うのは、常識から考えて不自然ですし、どう考えても変ですから、その部分
については、五井先生は黙っている、という形式になったのです。

五井先生のご著書にある「世界平和の祈り」が正式な祈り方であるのですが、白光真宏会の会員としては
五井先生への感謝をこめて、「五井先生、ありがとうございます」を加えた祈り方をするようになったわ
けです。しかし、活字として書かれていないことを、白光真宏会の会員になると、「五井先生への感謝の
祈り」を加えて祈ることに対して、納得がいかない人もいると思うのです。

それは「五井先生を尊敬していないから」というわけではなく、五井先生のご本には載っていないのに、
入会したら「五井先生への感謝の祈り」を祈るという表と裏の二つの違いに対して、気持ちが納得できな
いのです。友人に「世界平和の祈り」を勧めようとしても、表面では「五井先生ありがとうございます」
の無い「世界平和の祈り」を勧めておいて、その友人を集会に連れて行きますと「五井先生ありがとうご
ざいます」と祈らせるのですから、真面目な人にとっては、まるで嘘をついているようで、なんとも納得
できないのです。その気持ちは、私にもよくわかります。

私にとりましても、この問題は常に頭から離れなかった大問題であり、先日も「五井先生ありがとうござ
います、という祈りについて、皆さんはどう思いますか?」というアンケートをとりました。その結果は
「五井先生と会ったことがないために親近感はあまり感じない」という正直な感想はありましたが、五井
先生への感謝の祈りについては、皆さん全員が「自然に祈れる」とお答えいただいたので、白光真宏会と
同じように、唯一会の集会においても、「五井先生ありがとうございます」を加えて祈ることにしたので
す。「五井先生、ありがとうございます、と私は祈りたくない」という人が、もしお一人でもいたら、そ
の時は、五井先生への感謝の祈りのない、五井先生の教えのままの「世界平和の祈り」にしようと思って
いたのです。

「世界平和の祈り」を祈る人は、当然なことに誰でも心の中では、五井先生を尊敬し、五井先生に感謝し
ているわけです。「五井先生に対して少しも感謝を感じないから、『五井先生ありがとうございます』と
祈りたくない」と言っているわけではないのです。活字に書いてあることと、実際に行なうことが違って
いることに対して、言行不一致のようで、どうにも気持ちがスッキリとしないのです。

また、「五井先生ありがとうございます、という五井先生への感謝の祈りがなければ、五井先生は現れな
いし、偽物である可能性もあり、危険だから、私はそんな集会には行かない」という頑固な人も、中には
いるのです。「五井先生というのは、五つの井戸、古事記にある天(てん)の真名井(まない)のことで
五つの直霊を現わしていて神霊のお名前であるから、一宗一派ではなく、五井先生への感謝の祈りは必要
なのだ」という意見もあります。

「五井先生ありがとうございます」という祈りは、「世界平和の祈り」以上に霊的な効果があると、ひそ
かに信じている人も中にはいて、「世界平和の祈り」よりも、「五井先生ありがとうございます」とか
「ごいせんせい」とだけ唱えている人もいるのです。五井先生という肉体を持った姿形のある聖者に統一
したほうが、何も姿形のない宇宙神に祈るよりも統一しやすいという理由もあります。

「世界人類が平和でありますように」と祈ることは、宇宙神にも五井先生にも感謝していることになるの
ですから、「五井先生ありがとうございます」と祈ろうと祈るまいと、その人その人のお好きなやり方で
祈れば良いので、ほんとうはどちらでもいいのです。五井先生への感謝の祈りに限らず、ご自分の納得で
きる祈り方で祈ればよいのです。しかし、「どちらでもいい」と言われると、自分で決められない人もい
て、迷ってしまう人もいるのです。そこで、一応どちらかに定めておかねばなりません。

「五井先生というお名前は、五つの直霊のお名前のことだから一宗一派でない」と言っても、世間ではそ
うは見てはくれません。五井先生というお名前を入れれば、それは一宗一派だ、と見られてしまいます。
白光真宏会は、宗教法人の形式をとっておりますが、「世界平和の祈り」は一宗一派の祈りではありませ
ん。しかし、五井先生や私たちがそう言っても、世間の多くの人々は「白光真宏会は一宗教団体ではない
か」「世界平和の祈りは、白光真宏会だけがやっている一宗教団体の祈りではないか」と見ているわけで
す。そこで五井先生は「世界平和の祈りは、どこの宗教団体がやってもかまいません。白光真宏会だけの
独占ではありません」と「世界平和の祈り」を公開されたのです。そのご意志を生かしてWPPSや五井
平和財団が設立され、「世界人類が平和でありますように」という祈りを宣布しているわけです。

ところが、WPPSや五井平和財団では、たしかに「一宗一派ではない」という利点はあるものの、五井
先生の教えにある「守護の神霊への感謝の祈り」がないのですから、他の宗教団体の人にとっては良いの
ですが、五井先生の教えを信じる人にとっては、信仰心を充分に満足させるわけにはいきません。信仰心
を満足させるには、守護の神霊への感謝の祈りがなくてはなりません。そうすると、五井先生が提唱され
た本来の「世界平和の祈り」が一番良いことになり、本来の「世界平和の祈り」を実行する唯一会が、必
然的に現れたのです。唯一会の役目は、多くの人に広めるより前に、まず五井先生の教えをしっかりと守
ることに専念する、ということです。それでいても、いつか時期がまいりますと、一気に世界に認められ
る時が来ますが、それまでは静かにやっていればよいのであります。「世界平和の祈り」は、神智から生
まれた、すでに完全な祈りであるのですから、それを浅薄な肉体知で改悪してはなりません。

「世界平和の祈り」に、「五井先生への感謝の祈り」を加えようと加えまいと、それは各人の自由である
のです。個人では、どう祈ろうとかまわないのですが、集団で祈る場合には、声を合わせて唱和できるよ
うに、一つの祈り言に定めておく必要があります。その場合に、五井先生のご本に書いてある祈り言と、
実際に行なう祈り言が違う、というのは、たしかにおかしなことだと、私も思います。このような疑問が
皆さんから出てきたのは、今がその点を明確にすべき、ちょうど良い時期だからでしょう。

五井先生の小説「阿難」が出版され、数年後に編集部が「一般にわかりにくいから」という判断で「釈迦
とその弟子」というタイトルに改めました。仏教に詳しい人は、釈尊の弟子である阿難を知っております
が、宗教知識のない一般の人々には、ほとんど知られていません。阿難を主人公にしているものの、釈迦
とその弟子たちの行動を描いた小説ですから、編集部としては、「釈迦とその弟子」というタイトルのほ
うが良いと判断したのでしょう。その頃、五井先生はまだ肉体界にいらっしゃって、編集部からのタイト
ル変更について、「自由にやっていいよ」とおっしゃったようです。

ところが、五井先生が他界して数年後たつと、「やっぱり、五井先生がおつけになった元の『阿難』とい
うタイトルのほうが良い」ということになって、再び「阿難」が復活したのです。阿難は、釈尊の弟子で
すが、単なる弟子ではありません。厖大な仏道の中で他力易行道を最初に行じた人として、五井先生は特
にとりあげたのです。「阿難」というタイトルを通して、五井先生は「他力易行道」を強調したかったの
です。五井先生の直覚のほうが、後になって考えてみると、やはり良かったわけです。「阿難」というタ
イトルのほうが、私もずっと良いと思います。

このように、五井先生が「いいよ」とおっしゃったことでも、必ずしも五井先生の本音とは限りません。
しばらく実行しているうちに、「やっぱり、五井先生が最初に教えて下さった言い方が一番良い」と思え
てきたら、どんなに長い習慣となったやり方であっても、変えても良いのです。五井先生の教えには、
「消えてゆく姿」の教えのように絶対に変えてはいけない部分と、変えて良い部分があります。

「五井先生ありがとうございます」という五井先生への感謝の祈りは、五井先生を慕う信者さんにとって
は、加えたほうが納得すると思いますが、もともとは無かった言葉なのですから、集団で祈るときは、省
略しても良いのです。そのほうが、活字で書いてある祈り言と、実際に行なう祈り言が一致するのですか
ら、むしろ適当であるとも言えるのです。その時代になったとも言えます。

この機会に唯一会は、「五井先生のお誕生日」や「五井先生の命日」などの特別な日を除いて、集団で祈
るときは、「五井先生への感謝の祈り」を省略した「世界平和の祈り」を基本的な祈りとして定めて祈ろ
うと思います。ねこりんさんのために定めたのですから、ねこりんさんは、唯一会の集会には、絶対に休
まず欠かさず、参加して下さいネッ。(^_^)


守護の神霊への感謝の祈りについて
No.1006 森島恒吉    1999/09/02 (木) 01:17 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ひきつづき、ねこりんさんのご質問にお答えします。

[ご質問2](守護の神霊への感謝の祈りについて)

細かい事にこだわるようですが、五井先生は、世界平和の祈りに五井先生への感謝の祈りを加えた場合の
推奨形は、どのようにおっしゃっていたのですか? 私の知っている範囲では、守護の神霊の感謝の祈り
は下のような形があります。白光のテープでは3番の形で、守護霊様、守護神様、五井先生、ありがとう
ございます。となってます。
 
 (1)守護霊さん
    守護神さん、ありがとうございます
 
 (2)守護霊様ありがとうございます
    守護神様ありがとうございます
  
 (3)守護霊様、守護神様ありがとうございます
 
[お答え2]

(1)から(3)までの表現は、すべて五井先生が教えた表現ですから、五井先生の推奨形というのはな
くて、すべてが正しいのです。「五井先生ありがとうございます、世界人類が平和でありますように」と
祈っても間違いではありません。白光真宏会の集会では、(3)の形式でお祈りしております。五井先生
は、時によってしばしば表現を変えて書いたり、お話なさっていたのです。どれをやっても正しいのです
から、ご自分の好きなやり方でやったらよいのですが、「自由にやって良い、どれでも良い」と言われる
と、不安になって困る人もいるでしょうから、そういう人のために一つに定めてあげようと思います。

まず、「守護霊さん」にするか「守護霊様」にするかの問題です。どちらでも良いのですが「守護霊様」
のほうが丁寧な言い方ですから、集団で祈るときには「守護霊様」のほうがよろしいでしょう。

次に「守護霊様守護神様、ありがとうございます」にするか「守護霊様ありがとうございます、守護神様
ありがとうございます」にするかは、やはり、前者よりも後者のほうが丁寧な言い方ですから、どちらか
といえば、後者のほうが良いと言えます。省略して短く言った良い場合がありますが、前者は省略のしす
ぎであると思うのです。この点で白光真宏会の英語版「世界平和の祈り」の "We thank thee 〜"と守護
の神霊をひとまとめにして感謝する祈り方は、私はどうしても納得がいかないのです。唯一会の英語版の
祈りでは、「守護霊様ありがとうございます、守護神様ありがとうございます」と祈ります。

「世界平和の祈り」の英語の祈りといえば、白光真宏会でも、現在もいろいろと試行している最中であり
タイトル名を"Prayer for the Peace of the World" にするか、"Prayer for World Peace"にするか
も決めかねているのが現状なのです。前者は日本語版の「白光」の表現であり、後者は英語版"BYAKKO"の
表現であるのです。ちなみに、唯一会では、"The Peace Prayer"に定めております。

"On Earth"という表現も、将来、宇宙人と空飛ぶ円盤の中で一緒に祈るようになったら、「地球上」とか
「地上」という表現から、本来の「世界人類」に変えなくてはならないかもしれません。そうなりますと
"May Peace Prevail on Earth"という英語の表現も変える必要が出てくるかもしれません。人類という
言葉については、"Mankind"や"Humankind"では、"Man"が用いられているから男女差別だと言っている
人々もいます。その人たちは、"Person"か"Persons"を使うようにしてゆこう、と主張しているのです。
こうした点については、外国人のご意見も参考にして、私の世代で、守護の神霊とも相談しながら、英語
版の「世界平和の祈り」を一つに定めておかなければならない、と思っております。

五井先生のご著書に載っている毛筆直筆の「世界平和の祈り」も、聖ヶ丘道場の壁に掲げられていた大き
な額の「世界平和の祈り」も、「守護霊様ありがとうございます、守護神様ありがとうございます」とな
っております。五井先生の書かれた多くの事例を総合的に検討してみますと、守護の神霊への感謝の祈り
言には、いろいろな表現がありますが、やはり、この祈り方が、「基本形の守護の神霊への感謝の祈り」
であり、「基本形の世界平和の祈り」であると言えます。

世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様 ありがとうございます
守護神様 ありがとうございます


「世界平和の祈り」の場に宇宙人は働く
No.1012 森島恒吉    1999/09/05 (日) 00:46 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[むくちゃんのご質問](宇宙人が地球に到来する時期について)

五井先生は「私に荷物を預けなさい」という本の中で、「自分が救われ人類が救われるにはどうしたらい
いかというと、世界平和の祈りによって、自分が浄まり、その光を日本および世界に流して、光をひろげ
て、そして宇宙人の到来を待つより仕方がない。これは夢物語じゃないんだ。本当にあるんです」と述べ
られ、宇宙人の到来を断言されています。
そしてその時期を、「こちらとそちらの波長が合った時で、遠い将来ではない。まだ皆さんが生きている
うちです。50年も60年も先じゃ間に合わないもの」と語られています。五井先生のこのお話は1958年のも
のですから、それから既に40年が過ぎました。そうすると後10年以内には、宇宙人の人達が私達の目にも
見える姿で地球に到来する事になりますが、この計画は今も変更されることなく進行中なのでしょうか?
森島先生は、いかが思われますか?

[お答え](霊体の宇宙人は、すでに地球に到来した)

五井先生が、宇宙人の到来を予言されてから、翌年には村田正雄氏が宇宙人と霊的に会い、会っただけで
はなく、宇宙人の空飛ぶ円盤に乗せてもらって地球圏外の宇宙空間へと飛行し、二度目には月の裏側へ行
き、三度目には金星の世界へと連れて行ってもらったりしているので、五井先生の予言は、半分は成就さ
れたと思います。宇宙人の姿が、地球人の肉眼で見えるようになるのは真実であると思いますが、それは
まだまだ遠い先のことだと、私は思います。村田正雄氏が統一中に幽体離脱して宇宙人と会い、空飛ぶ円
盤に乗った記録を、村田氏の著書「空飛ぶ円盤と超科学」「宇宙人と地球の未来」から紹介しましょう。

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【地球に到来した宇宙人(◎_◎;)/第一回】(空飛ぶ円盤に乗り、宇宙空間から地球を眺める)

〜あらすじ〜(「空飛ぶ円盤と超科学」より)

五井先生がその「宇宙人到来のお話」をした翌年、昭和34年(1959年)6月9日に、ステンレスのように
黒ずんで光っている直径30mくらいの空飛ぶ円盤が、聖ヶ丘道場上空に飛来してくると、近くの畑地に到
着した。円盤のドアが開くと同時に、三段の階段のあるタラップが下ろされた。五人の宇宙人に招かれる
ままに、村田氏は空飛ぶ円盤に乗りこみ、地球圏内を離れて、宇宙空間から地球や日本列島をを眺めた。
村田氏は、空飛ぶ円盤の中で、各星の宇宙人たちと食事をしたが、宇宙人の中で誰一人タバコを吸う人が
いないことを知った。

〜空飛ぶ円盤の機長のお話〜

「地球を見守っていらっしゃる神様のみ心は、地球世界の人類の平和を願う以外にはございません。人類
の平和を願う心こそ、私たちの心の波動と同じなのです。同じ波動の所には、私たちの活動がしやすくな
るのです。こうした波動を持った人々が、多く集って、一つの中心に向かって統一する時、私たちの使命
が果たされてゆく唯一の場所となるのです」

「世界人類の平和を祈る人々が次第に多くなり、各国各地に、多くの人々が集って、人類の平和を心より
お祈りできる時、地球人類に一大昇華が見られるのです。地球世界が素晴らしい黄金時代に入る時です。
そうしたお祈りの場から、使命をおびた人々の肉体を通して、素晴らしく進歩した星々の科学が、次第に
解明されてまいります」

「地球世界は、進歩した星々の仲間入りをして、透明に輝くような地上天国が誕生するのです。こうした
輝く天国の誕生のさきがけとして、『世界平和の祈り』の運動が広まってまいります」

「新しい勇気と希望をもってのぞむならば、知らぬ間に悪い環境は消え去ってゆくものです。それにはた
だ地球世界の平和を祈ることです。それは親神様のみ心の中に帰ることでございます。そうすれば、自分
たち人間の真実の姿が、みずからわかってくるのです。…私たちは祝福された地球の友のために、なんの
力を惜しみましょうか。私たちの智慧と力のすべてを、地球の友のために投げ出す日の一日も早からんこ
とを祈っていることを、くれぐれも地球のみなさんにお伝えいただきたいのでございます」

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【地球へ到来した宇宙人(◎_◎;) /第二回】(空飛ぶ円盤に乗り、月の裏側へ飛行する)

〜あらすじ〜(「空飛ぶ円盤と超科学」より)

同年の昭和34年(1959年)9月上旬、同型の空飛ぶ円盤が聖ヶ丘道場に飛来到着し、村田氏は再び空飛ぶ
円盤に乗って、月の裏面にある宇宙人の基地を見学する。宇宙人と「世界平和の祈り」を祈り感動する。

〜本文より抜粋〜

宇宙科学の受け取り方の根本は、波動の浄化、想念の昇華を求める以外にありません。それでその波動の
浄化、想念の昇華を求めるには、どうしたらよいかということですが、それは私たちがいつも行なってお
ります「世界平和の祈り」を祈ることであります。なぜなら、「世界平和の祈り」こそ、円盤や宇宙人た
ちの住む世界の波動と同じにまで、私たちの波動を浄化し昇華させるからであります。

多くの人々が、この祈り言に和して行ずる時、そこに素晴らしい波動の場が生まれるのであります。その
場に、円盤や宇宙人たちが働くのです。その時、現象界の私たちの姿や形と少しも変わることなく、宇宙
人をこの肉眼で見られ、その声を肉声となんら異なることなく、誰もが耳に聞き取ることができるであり
ましょう。要は、波動を変えることが根本であり、その変える方法としては、「世界平和の祈り」を祈る
以外に何物もないことを、多くの人々に知っていただきたいのであります。

〜空飛ぶ円盤の機長のお話〜

「あなたたちの『世界平和の祈り』のようすを、私たちは絶えず見守っております。見守っているだけで
なく、私たちは皆様のお祈りの中で、お祈りの場で、大きな働きを致しております。それは地上の粗い波
動の中に、いろんな働きをする微妙な波動を送ることができるからです。…『世界平和の祈り』の場から
祈る人々の霊体を媒介体として、微妙な精霊波動を、粗い業想念波動の波動で覆い包まれている地球世界
にも、しだいに浸透させてゆくことができるのです。…名状しがたい想念の混乱の中から、『世界平和の
祈り』の真理が理解され、この波動が各国に広まってまいります。その時こそ、私たちは申すまでもなく
諸神諸霊が一斉に大活動を起こします。天地の鳴動が起こります。新しい世界が、平和な国家が生まれて
ゆきます。こうして地上天国が創られてゆくのです」

「食事をする前に、皆様と共にお祈りを致しましょう」(機長の言葉)
瞑目してお祈りに入りました。
その時…機長婦人が朗々と唱えた言葉は…いったいなんであったと思いますか?
「世界人類が平和でありますように」(機長の言葉)
という祈り言は、全く私の全身全霊をふるい立たせずににはおきませんでした。私は、この時ほど、私た
ちの幸せを感じたことはありませんでした。スーとそのまま昇華してゆくのを感じました…。
「皆様ありがとうございました」
との機長婦人の言葉でお祈りは解かれました。

「ただ一つの救われの道があるのです。それは地球人類を救済しようとして、神様がお許しになった唯一
の方法です。それは世界人類の平和を、全身全霊でもってお祈りすることです。このお祈りをする人が、
一人でも多くなってゆくことです。多くの人々が、この祈りをする時、すでに決まっている地球の運命も
徐々に修正されてゆくものです。…こうした祈りの場が、次第に広まってゆく時、祈りの場から放射され
てゆく人類救済の光が次第にましてゆく時、その中から、私たちの働きが、地球上の人々にもよくわかる
ように見られます。そして、私たちの持つ叡知が次第に地球の多くの人々に理解されてゆきましょう」

「今、地球の上空には、多くの円盤に乗って、宇宙人たちが来ております。その人たちの働きの場が、一
番大切であります。地球世界の平和を祈る場こそ、私たちの働く場となるのです。『世界平和の祈り』を
祈る人々は、私たちの同志です。この同志の人々と協力一体となってこそ、初めて地球世界の平和が打ち
立てられるものであります。『世界平和の祈り』のグループの同志よ、皆様のお祈りによって、劫末の地
球が救われてゆくことを、如実に知る時が、必ず必ずまいります。その時こそ、各自の天命の偉大さを
『悟る』ことでありましょう」

「今は、一人でも多く、心より『世界平和の祈り』を祈る人々の協力を求めて止まないものであります。
どうか、このことを、同志の皆様に、くれぐれもお伝え願いたい。…あなた方、世界平和の同志と、私た
ちとが一体になって働く時、必ず必ず地球世界は救われることを固く信じて、「世界平和の祈り」に徹し
ていただきたいのであります」

〜月の基地の指令のお話〜

「『世界平和の祈り』の場には、私たちが参加して、皆様と共に働かせていただくのであります。地球の
友よ、「世界平和の祈り」の同志よ。私たちを呼べば、必ずその人の近くに在って、見守ります。そして
私たちの姿を、はっきりと皆様の前に現わす時が、必ず必ずまいります。そして地球の皆様と手を取って
地球の昇華、地上天国の建設に精進しようではありませんか。このことを、同志の皆様に、くれぐれもお
伝えしていただきたいのであります」

「大神様のご計画は、必ず顕現されるものであることを固く信じて、各人を守り導き続けられる守護霊守
護神にすべてをおまかせして、『世界平和の祈り』を祈っていただきたい。…世界平和をいつもお祈りで
きる人は、業生の世界を超えて、守護霊、守護神の波と同じ波動となるのです。その中でこそ、宇宙人た
ちの活動が大きく展開されてゆくものです。進歩した星々の科学が、しだいに地球世界に移行することを
固く信じて、『世界平和の祈り』を続けられたいのであります。そうした祈りの場には、私たちが必ず必
ず降りてきて、必要な波動を放射します。…一人でも多く『世界平和のお祈り』のできうるように、世界
平和を祈っていただきたいのであります。このことを、地球の皆様に、よくよくお伝え下さい。『世界平
和の祈り』の場こそ、私たちと皆様とが一つに溶け合います。そこから地球世界の真実の平和が創られて
ゆくことを、繰り返し申し上げ、同志の皆様の栄光を、心よりお祈り致します」

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【地球へ到来した宇宙人(◎_◎;) /第三回】(空飛ぶ円盤に乗り、ついに金星世界へと到着する)

〜あらすじ〜(「宇宙人と地球の未来」より)

昭和50年(1975年)12月に、村田氏は空飛ぶ円盤に乗って、ついに金星へと到着し、金星の進化した世界
を見学して、地球に帰還する。「世界平和の祈り」の波動のあるところに、宇宙人が活動しやすくなるこ
とを知る。

〜空飛ぶ円盤の機長のお話〜

「今日、私たちの円盤に、地球の友を再度迎えることのできましたことを、神様に感謝申し上げまして、
『世界平和のお祈り』を致しましょう」と一同はお祈りに入りました。

「今日、祝福された地球の友を再度、私たちのこの円盤にお招きできましたことは、誠に意義深いものが
あります。今、地球の一角に起こりました『世界平和の祈り』は、次第にその範囲を広げつつあります。
その表面に現れているのは僅かではありますが、神霊の世界では多くの神々が働かれて、神結びながら、
その輪を広げてゆかれつつありますことは、目を見張るような目覚ましきものがあります。地上の聖者、
五井先生の神界でのお約束の『世界平和の祈り』は、潜在的には多くの人々の心の中に芽を吹き始めてお
ります。『世界平和の祈り』の素晴らしき波動の中では、宇宙人が活動しやすくなるからであります」

機長が椅子より立ち上がり「世界人類が平和でありますように」と声高らかに唱名されたのでした。

「今、五井先生のもとで繰り広げられている、『祈りによる世界平和運動』は着々とその基盤が固まり、
『世界平和の祈り』の輪が、次第に広く大きく働き出してゆきます。祈りの中から、醸し出されてゆく波
動は、金星の天地のそれと近いのです。金星の中から、使命を帯びた人たちが、ずいぶん地球世界に来て
おります。なかなか思うような活動はできておりませんが、『世界平和の祈り』の波動の世界では、ずい
ぶんと働いておられます」

機長「この地球の友のために、皆様とともに祝福のお祈りを、神様に捧げたいと思いますので、一緒にお
祈りいたしましょう」
機長さんの言葉が終わると同時に、一同起立されました。私も、おくれじと立ちました。
低いがよく通るお声でした。
機長「地球世界の平和が一日も早く訪れますように、地球の皆様の天命が完うされますように、五井先生
ありがとうございます」

〜金星のリマ市長(司令)のお話〜

「今、地球では五井先生を中心として、大神様の光明の受け場が着々とつくられています。地球世界の不
調和の波動を調和へと導く、『世界平和の祈り』、この祈りは五井先生と大神様との約束事であり、この
調和のひびきの中に、その星の本来の姿が現れ出るものです。その調和した波動が、使命をおびた私たち
宇宙人の活動する場となって、金星の知恵や力が、これらの宇宙人たちを通して移行されてゆくとき、急
速に降下しつつある地球の波動が変わってゆき、新しい地球世界が生まれてゆくのです」

………………………………………………………………………………………………………
以上、村田氏のご本から宇宙人について抜粋しましたが、「世界平和の祈り」の波動は、宇宙人たちの心
の波動と同じであり、「世界平和の祈り」の場に、宇宙人が働くことがおわかりと思います。私たちが地
球上で「世界平和の祈り」を祈っている時、宇宙人たちは、私たちを温かく見守って下さっているのであ
り、宇宙人のすぐれた智慧能力をテレパシーで与えて下さるのです。「世界平和の祈り」の場こそ、天空
にいる宇宙人と交流できる唯一の場であるのです。


「世界平和の祈りは下流なり」の意味
No.1016 森島恒吉    1999/09/07 (火) 23:43 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

リトル−ミドルさん、ご質問をいただき、ありがとうございます。

[お答え]
老子の「大国は下流なり」の教えの下流というのは、すべての流れが集まってくる場所、あらゆる物が寄
ってきて交流する場所ですから、すべてを受け入れる寛容な心、常に下にいていかなる汚れにも耐えてゆ
く謙虚な心と忍耐力という精神を、老子は下流に譬えているのです。大国は、常に下流のような精神をも
って小国に接することによって大国としての働きができるようになるのだ、と老子は説いているのです。

「世界平和の祈りは下流です」と五井先生が説いている意味は、「世界平和の祈りというものは、川の上
流から流れてくるすべての汚れを受けるように、世界の汚れをひっかぶって浄める祈りであり、世界人類
を救う最終の最大の祈りなのだ」と、やはり「世界平和の祈り」を下流に譬えているのです。なぜならば
「世界平和の祈り」以外の祈りでは、個人を救うことはできても、人類すべてを救うことはできません。
「世界平和の祈り」以前の祈りには、個人や国家を救う祈り言はあったものの、国家を超えて人類を救う
という、そのものずばりの祈りは現れていなかったのです。また現れる必要もなかったのです。

現在は旅客機で各国へ自由に旅行ができますが、今から百年前には、現在のような旅客機もジェット戦闘
機も無かったのですから、世界は途方もない広さであって、人々は自分の幸福を考えるだけで精一杯であ
りまして、国の政治家も自国のことだけを考えていればよかったのです。地球全体の平和を考えることな
どできなかったのです。それが現在では、科学や交通機関の発達によって、世界各地の情勢が衛星放送に
よって伝わってきますし、国の経済も各国間の貿易によって成り立つようになり、鎖国をして一国だけで
生きてゆくことはできません。個人も各国へと自由に行き来する時代になったのですから、世界の平和と
個人の幸福とは密接な関係になってきたわけです。そこに、個人の幸福と人類の平和を同時に願う「世界
平和の祈り」の祈り言が、必然的に生まれたのです。

すべての人々が救われるには、難しい方法では駄目です。すべての人々が実行できる、やさしい方法でな
ければなりません。「世界平和の祈り」は、これまで自力の難行苦行をしても悟れなかった人々も、悪業
をおかしてしまった凡夫も救われる、最後の祈り言であるのです。「世界平和の祈り」によって、過去か
らのすべての宗教宗祖の教えも生かされることになり、その意味でも「下流」と譬えているのです。

ご質問にありますように、川の上流は清いのですから、清らかな光明を放つ世界平和の祈りは、上流の祈
り、と見ることもできますが、それよりも、すべてを受け入れる寛容さ、すべての下に立つ謙虚さ、あら
ゆる汚れをひっかぶって浄める勇気を譬えるには、上流よりも下流のほうが適当と、老子も五井先生も思
われたのでしょう。よく考えてみますと、たしかに下流に「世界平和の祈り」があっても、山中で泉が湧
き出る自然の力と、上流から下流へと流れてゆく清水がなければ、汚れも消えてはゆきません。こんこん
と湧き出てくる清水や、上流から下流へと流れてゆく清水の力は、神の生命の法則というべきものです。
「世界平和の祈り」は、守護の神霊の力と人間の分霊の力が一体となる祈り言であるのですが、その力を
無限に供給しているのは宇宙神の大生命力であり、守護の神霊に感謝することによって、人間は宇宙神に
感謝することになり、宇宙神の大生命力と一体化してゆくのであります。


試練に克ち、授けられた天命を完うしよう!
No.1017 森島恒吉    1999/09/08 (水) 01:22 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ジュンさん、はじめまして。今後ともよろしくお願いいたします。
ジュンさんは、五井先生のみ教えに触れてから、わずか一カ月で、この唯一会のホームページを発見し、
現在の白光真宏会と唯一会の教え方の違いを理解できて、「世界平和の祈り」を実行されるようになった
のですから、霊性高き、非常に直観力のすぐれた方であると思います。十年以上も五井先生のみ教えを学
びながらも、いまだに、「白光真宏会と唯一会とどっちが正しいのだろう?」と迷っている人もいるので
すから、ジュンさんは、たいしたものです。

試練は、これからです。あなたは、これから先、10年、20年、30年、40年、50年、60年、70年、80年と
「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆかねばなりません。「世界平和の祈り」を毎日一回唱えることは容
易なことですが、何十年も「世界平和の祈り」をあきずに倦まずたゆまず祈り続けてゆくということが、
難しいのです。力むあまり途中で疲れてあきてしまったり、「世界平和の祈り」の効果に疑問や不信感を
感じたり、別の新しい宗教思想の本を読んで、「世界平和の祈りよりも、この宗教家の説く方法が良い」
と錯覚したり、と次々と試練に見舞われます。その試練を「消えてゆく姿」として、「世界平和の祈り」
を祈りつづけた人のみが、大悟に至れるのです。私たちのこの世に授けられた天命とは、肉体生命の終わ
る日まで、「世界平和の祈り」を、毎日休まずに絶え間なく、祈り続けることなのです。あらゆる試練に
克ち、私たちの天命を完うしようではありませんか。世界平和実現の日のために…。

あなたの天命が完うされますように


完全な自由を得るためには
No.1024 森島恒吉    1999/09/09 (木) 14:16 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さんのご質問にお答えいたします。

[質問1](自由と強制について)
神様は人間に最大限の自由を与えていると思いますが、神様も人に何かを強制することがありますか?
また、五井先生は、人に何かを強制したことは、ありますか?

[お答え1]
神さまは、法則としての働きと愛の働きの二つの働きを持っております。法則には、愛情のような感情は
なく不変でありますから、人間は神の法則にしたがうほかはありません。ですから、神さまと申しまして
も人間がお祈りの対象とする神さまは、法則の神さまではなく、慈愛の働きをする神さまであるのです。
その慈愛の具体的な働きとして、守護霊さまと守護神さまが存在していて人間を守護しているのです。

守護の神霊の人間に対する導き方というのは、親と子の関係と同じです。母親が赤ちゃんを産んだら、夜
中も赤ちゃんのおしめを変えたり、抱っこしてあやしたり、お風呂にいれて体を洗ったりと、一日中世話
をするように、守護の神霊も、被守護体の人間を、24時間休まずに見守り導いて下さっているのです。

幼い子供は、善悪の判断もつきませんし、安全と危険の区別もつきませんから、親が子供につきそって見
守る必要があります。そしてだんだんと生長するにつれて、子供も一人で行動できるようになり、それに
つれて自由に行動できる範囲も広がってまいります。守護の神霊も、そのように人間を導いて下さってい
るのです。人間は、奴隷ではなく、宇宙を創造した神さまの子であるのですから、当然なことに人間も、
神さまの子としての権能と自由が授けられているのです。

ところが、現在の肉体人間は、神さまの子としての本来の姿が、まだ現れていない段階でありまして、業
想念に覆われていまして、とても「私は神の子である」とは宣言できる状態ではありません。現在は、神
の子にいたるプロセスにいるのです。「現在は、プロセスなのだ」と言いながら、「現在、私は神の子な
のだ」とも宣言している宗教者がいますが、これはなんともおかしな論理で明らかに矛盾しております。
現在の人間は、本来の神の子としての神性を、まだ現わしてはおりません。現在は、神の子としての神性
を現わしつつある過程にいるのです。

人間が本来の神性を完全に顕現した時、人間は完全な自由を手に入れて、大空に羽ばたく鳥のように、不
自由な束縛から解き放たれて、自由に行動できるようになるのです。そうなるためには、守護の神霊によ
る加護がなくてはならないのです。親が子供を放任しておいたら、子供は育ちません。放任するというこ
とと、自由にさせるということは違います。守護の神霊は、人間を自由に生きさせながらも、放任するこ
とはありません。たとえば、高い塀の上を歩いたり、車道に飛び出したりと、子供が危険な行為をしそう
な時は、親が子供の手を握って止めるように、守護の神霊もまた、止めようとするのです。それは強制の
ように見えることもありますが、愛の心で導く行為でありまして、そうした行為を強制とは言いません。

五井先生が霊修行をされた時、守護の神霊からさまざまな試練を受けましたが、それが強制的な修行のよ
うに見えても、その修行は五井先生ご自身が望んだことであるのですから、神さまから強制させられたわ
けではないのです。五井先生が「私はふつうの人になりたい」と申し出たら、守護の神霊はその時点で、
霊修行を終了したに違いありません。学校の生徒の中には、「先生に強制されている」と騒いでいる生徒
がおりますが、学校の先生に教育を受け、指導を受けるということは、強制ではありません。守護の神霊
に、ご指導を受けようとすれば、いろいろと細かくご指導して下さいます。守護の神霊によるご指導は、
強制ではありません。五井先生は、私たちにご指導下さっていますが、それもまた強制ではありません。

しかし、世の中には、いろんな人間がおりますから、五井先生の愛深いご指導も、強制と受け取る人もい
ると思います。たとえば、「世界平和の祈りを祈りなさい」という五井先生の言葉も、「おれは世界平和
の祈りを強制されたくない」と受け取るひねくれた人がいるものです。「道場でタバコを吸ってはいけま
せん」という五井先生の言葉に対しても、「おれは強制されたくない」と文句を言う人がいるのです。若
い人の中には、指導を受けることと強制されることを同じように受け取って、「うざったいなあ、強制し
ないでよ、わたしのこと放っておいて」という女の子もいます。そうした自由は、真実の自由ではなく
て、業欲のわがままにすぎません。小学生や中学生の子供が登校拒否をした場合、学校でいじめられると
いう例を除いて、「なんとなく勉強が嫌になったから」という子供に対しては、五井先生は厳しかったで
す。五井先生は、強制的にその子供を学校へ行かせたものです。強制したといっても、それは愛情です。
頭や顔を殴ってはいけませんが、子供を抱きしめてでも、学校へ連れてゆくべきです。

つまり、自由に生きるということと、業想念に妥協してわがまま放題に生きる、ということは別だ、とい
うことです。神さまは人間に強制することはありませんが、神さまの慈愛の指導が、時には強制されてい
るように見える場合もあるでしょう。しかし、人間が人間に強制する場合とは違って、神さまのお導きの
根底には常に深い愛の心があるのですから、「必ず善くなるのだ」と信じて生きてゆくことです。どんな
に苦しくても、悲しいことがあっても、守護の神霊の指導を信じて「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆ
けば、人間は完全な自由を得ることができるようになるのです。


大悟に至るまで
No.1025 森島恒吉    1999/09/09 (木) 14:23 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さんのご質問に、ひきつづきお答えいたします。

[質問2]
大悟した五井先生は、お話の中で、何かを間違えたり、勘違いしてお話されたことはありますか?

[お答え2]
これは私の過去のログにも書いたことなので、それをお読みになればおわかりと思いますが、五井先生は
お話の中で、事実を間違えたり、勘違いされたりしたことは多少ありました。五井先生の正直で謙虚なお
言葉を、そのまま伝えれば、「私は、しょっちゅう間違えます」と五井先生は、私に直接おっしゃったこ
ともあります。「私は毎日反省しています」とも、五井先生はおっしゃっていました。しかし、過去の聖
者のお話と比較すると、間違いが非常に少ないほうだと思います。

但し、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」というみ教えの根本については、間違ってはおりません。です
から、私たちは、五井先生のみ教えの根本原理について学ぶべきでありまして、「五井先生が、こう予言
した」とか「五井先生が誰それについてこう評価した」とかというような枝葉のことなどは、たとえ事実
と違っていたとしても、それに把われないで、「世界平和の祈り」を信じて生きてゆくべきなのです。

[質問3]
私は、「自分には悟りは無縁だ」と思っていました。しかし、五井先生のご本を良く読むと、「もしかし
たら私も」などと希望が湧いてきます。そこで、もしもよろしければ、森島先生が大悟したときの状況な
どを教えていただけませんでしょうか?

[お答え3]
「今の自分を見ますと、とても悟れそうもありませんが、こんな私でも来世には悟れますでしょうか?」
と聖ヶ丘道場で、若い頃、私は五井先生に質問したことがありました。すると五井先生は「今生のうちに
あなたは悟れます」と私にお答え下さいました。五井先生から、そうお答えいただいても、五井先生はよ
くそうやって人のことをお褒めになったりおだてるので、私はたいして喜ばず、本気にしませんでした。
「そんな、まさか。私のような者が、今生で五井先生のように悟れるはずがない。きっと、私を励まして
下さるための嘘だろう」と思い、五井先生の優しい愛情だけを受け取りました。

これは聖ヶ丘講話録音テープにも収録されていて、「聖ヶ丘講話の録音テープを聞いていたら、森島先生
のその質問にお答え下さっている五井先生のお話がありました。五井先生は、二十年以上も前にすでに、
森島先生が今生で悟るということを、すでに約束されていたのですねえ。すごいですねえ」と驚いて報告
してくれた人がありました。「録音テープにあった」と聞かされるまでは、すっかり私も忘れていたので
す。(いつのテープかは知りません)

五井先生が約束された通り、私は今生で悟らせていただいたのですが、それではその状況を記すことにし
ましょう。1990年頃(40歳)のことでした。昌美先生が「光明思想徹底行」を発表した頃と重なります。
それまでの昌美先生は、五井先生のみ教えとほとんど同じ内容を説いていたのですが、この頃から、昌美
先生は「光明思想徹底行」から始まって、五井先生のみ教えと違った独自の方法を、次々と発表してゆく
ことになります。私は、昌美先生の光明思想に関する文章を読んで、「これは五井先生の光明思想と少し
違っているのではないか?」と、ふと疑問が湧いたのです。

そこで、五井先生の「光明思想」に関するデータを、五井先生のすべてのご本から抜粋し、ワープロで整
理して小冊子にまとめて、あらためて熟読しますと、五井先生の光明思想と昌美先生の光明思想とは、明
らかに異なることがわかりました。その時、「これは大変なことになった! 昌美先生は、五井先生の光
明思想を誤解して、生長の家の光明思想に逆戻りしてしまっている! 五井先生が『してはいけない』と
教えたことを、昌美先生がやってしまっている。これはなんとかしなければ!」と私は思ったのです。

そして、やむにやまれず「昌美先生の光明思想についての解釈は、失礼ながら間違っております。五井先
生の光明思想の行とは、世界平和の祈りを祈ることに集約されているのです。今のうちに、光明思想徹底
行を中止しませんと、五井先生のみ教えを汚しかねませんし、昌美先生の名誉にとっても取り返しのつか
ない大変な事態になりかねません。どうぞ、五井先生の光明思想の行は、世界平和の祈りの行にあること
を知って下さい」と、私は昌美先生にお手紙を差し上げたのです。

しかし、ご返事はいただけず、それどころか、私の助言を誤解したのか、その後の白光誌で、昌美先生は
「光明思想徹底行を邪魔する暗黒思想の持ち主がいる」と書かれたのです。暗黒思想を消えてゆく姿とし
て否定するのが光明思想であるのに、暗黒思想を存在するものとして敵対意識を持つ光明思想では、真実
の光明思想ではありません。昌美先生が、私の助言を理解されなかったことに、私は失望しました。

その頃、私は五井先生の光明思想についての理論をはっきりつかんで、「世界平和の祈り」への統一が非
常に深まってまいりました。「世界平和の祈り」に深く統一してゆくにつれて五井先生のみ教えが、すべ
てわかるようになってきたのです。「私はすべてがわかりました」と島田重光先生にも話しました。そこ
で、昌美先生に期待することは、もうやめて、「自分で五井先生のみ教えを伝えてゆこう」と決意したの
です。それからは、白光真宏会の古くからの友人知人に、「五井先生の光明思想の行とは、世界平和の祈
りを祈ることなのです」と一人ずつ教えてゆくことにしたのです。

「世界平和の祈り」とは、悟りの世界の大光明であり、「世界平和の祈り」を祈っていれば誰でも悟れる
のですが、途中で余計なことをやって、悟れずにいるのです。「世界平和の祈り」以外の余計な行は一切
捨てて、「世界平和の祈り」に専念すれば、必ず大悟に至れるのです。


大悟した状態とは
No.1026 森島恒吉    1999/09/09 (木) 14:26 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さんのご質問に、ひきつづきお答えいたします。

[質問4]
森島先生は、ご自身が大悟したのを、どのようにして、わかったのですか?

[お答え4]
・五井先生の教えの「中庸光明思想」を完全に理解できたこと。
・「世界平和の祈り」にいつでも統一できるようになったこと。
・心が、いつでも明るく安心していて、少しも迷いがないこと。
以上の理由で、私は大悟したことを知りました。

[質問5]
大悟した方には、各種の神通力があると思いますが、森島先生にも神通力がおありなのですか?

[お答え5]
私の持っている神通力は、漏尽通(ろじんつう)です。

五井先生は、漏尽通についてこう説かれています。(「続宗教問答」より)
…漏尽通とは、この世のこと、肉体世界のあらゆる汚れを浄め去り、何もの何事にも把われぬ、澄みきっ
た心境をいうのです。ですから、六神通のうちでも、最高の通力といわれているのです。私の一番望んで
いるところも、皆さん方が、この通力を得る心境になってもらうことでありまして、他の通力はその後で
よい、と思っているのです。無礙自在、自然法爾、行雲流水、みなこの漏尽通から出た生き方なのであり
ます。この生き方になるためには、神への全託の道を歩みつづけることが、一番やさしいことであり、そ
の全託の道への最大の易行道が、「消えてゆく姿と世界平和の祈り」なのであります。 (以上)


祈ると神と一体になるのは、なぜなのか?
No.1032 森島恒吉    1999/09/11 (土) 23:40 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

今、東京から富士宮に帰ってきたとこです。新幹線の同じ列車内に、民主党の菅直人代表を中心に秘書や
護衛の人が乗っていて、彼らは熱海駅で降りてゆきました。今夜は温泉に入るのでしょう。(^_^)

本田昇司さん、はじめまして。おほめの言葉をいただきまして、ありがとうございます。
本田さんは、学生時代に聖ヶ丘道場で五井先生にお会いしたそうですが、その時の様子を皆さんに話して
あげて下さいませんか? 五井先生に会った人が少なくなった現在、本田さんのような体験談は貴重なの
です。学生時代は、宗教に熱中できても、社会人になりますと、時間的な余裕がなくなりますから、どう
しても現実の社会生活に追われて、信仰生活をつづけてゆくことを忘れてゆくものです。

そんな人たちが、何気なく唯一会のホームページを読んで、忘れかけていた天命を思い出し、若い頃の祈
りへの情熱がよみがえってきて、再び「世界平和の祈り」を祈り始めるという人が、私たちのグループに
は多いのです。本田さんも、そのお一人だと思います。それはまるでタイムカプセルの中で長い間眠って
いた人たちが、定められた時刻がきて、カプセルが自動的に開かれ、眠りから目覚めて、崇高な使命を果
たすというSF映画を見るようです。「世界平和の祈り」を祈る使命を持った人々が、これからは続々と
現れてくるに違いありません。ほんとうに嬉しく思います。

ジュンさん、ありがとうございます。まずご質問にお答えしましょう。

[質問1]
「まずは、これは読んだらいい」と言う本を教えてください。

[お答え1]
「天と地をつなぐ者」…五井先生の自叙伝です。
「白光への道」…祈りと念力、光明思想について特に読んで下さい。
「聖書講義」…キリスト教の知識をお持ちのようですから、よくわかると思います。
「宗教問答」「続宗教問答」…この二冊を読めば、み教えを総合的に把握できます。
あとは、どの本でもいいから、少しずつ読んでいったらよいでしょう。

[質問2]
続・如是我聞に"祈りとは自分の本体が開くことである。神と一体になることである。"とあります。
なぜ、祈りつづけることで、神と一体になるのですか。

[お答え2]
神さまと一体になるためには、どうしたら良いのか、と昔からいろいろ工夫されて、それが各宗教宗派の
修行の形式となって今に伝わっているのですが、五井先生は、難行苦行をせずとも、神さまのみ心と一体
になれば、神さまの力と一体になることができる、と教えて下さっています。

神さまは、神の子である人類に対して、「世界人類よ、平和であれ」と願っております。それが神さまの
愛のみ心です。それに対して、「世界人類が平和でありますように」と人間が祈りますと、神さまの大愛
のみ心と人間の人類愛の心が、ピタッと一つに合致するのです。そうしますと、わずか一瞬にしても神我
一体の心境になれるのです。そうした神我一体観が、ほんの一瞬から、数秒間保てるようになり、数分間
数十分と長く保てるようになりますと、それだけ神我一体の時間が伸びてゆくわけです。もし一日24時間
「世界人類が平和でありますように」と祈っていれば、一日24時間、その人は神我一体の境地でいること
になります。

そのように神さまのみ心に合った祈り言を通して、神さまのみ心と一体化しておりますと、人間の分霊の
周囲を覆っていた厚い業想念波動がしだいに浄まってゆきまして、人間本来の神の分霊としての本体が自
然に開いてくるのです。それはあたかも、それまで覆っていた雪が、太陽の光によって溶けてゆき、雪の
下に隠れていた草が芽を出し、自然に美しい花々が咲き始めるようなものです。

神と一体になる祈り言には、過去から幾つもあるのですが、現在は、個人と人類が同時に救われる祈り言
でなくては、地球滅亡の危機の時代に間に合いません。そこで五井先生は、個人と人類が同時に救われる
「世界平和の祈り」を提唱されたのです。この「世界平和の祈り」を祈りつづけることによって、人間の
心は、いつしか神さまのみ心と一つになり、神の子の神性を開顕してゆくことになるのです。


神は、なぜ試練を与えるのか?
No.1033 森島恒吉    1999/09/12 (日) 00:38 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ジュンさんのご質問にお答えします。

[質問]
なぜ、神はそんな試練を与えるのですか? 森島先生にも神の試練がありましたか?

[お答え]
神さまの試練といいましても、ふつうの人には、そんなに厳しい試練は与えられませんから、心配する必
要はありません。その人に耐えられるだけの試練を与えるものなのです。ところが、釈尊とかイエスのよ
うな宗教指導者になる天命を持っている人の場合には、神さまから特別厳しい試練を与えられるのです。
それは宗教指導者として、人々を導いてゆかねばならぬ立場に立つわけですから、業波動に把われず、神
のみ心を実行してゆける心境の持ち主でなければなりません。業波動と神霊波動とは、あまりにも波動に
差がありまして、烈しい業波動を受けながら、微妙な神霊波動を現わしてゆくというのは、並大抵のこと
ではないのです。そこで、宗教指導者の天命を持つ人に対しては、どんな業波動の中にあっても、神のみ
心を現わせるように、守護神は特別に鍛えるわけです。それが数々の厳しい試練という形になるのです。

私にも、多くの神の試練がありました。そして、私は神の試練に何度も何度も失敗しました。挫折につぐ
挫折、失意と落胆、そのたびに悲しくて悔しくて涙を流したものです。その時は、神の試練とは気がつき
ませんでしたが、今となってみますと、「ああ、あの時は、神さまが、私に試練を与えて下さったのだ」
と思えるのです。

今はもう、私に対して神さまの試みは一切ありません。私は、神さまの試みに合格し、真の自由を得たか
らです。そこで、私の体験から、神さまの試みに対して、どのようにすれば合格できるのか、を教えてあ
げましょう。神さまの試みに克つには、すべての試みを「消えてゆく姿」と否定することです。そして、
「世界平和の祈り」の中に入りこんでいることなのです。ところが、実際には、これがなかなか難しいも
のなのです。なぜ、難しいのかというと、応用がきかないからなのです。つい、神さまの試みに負けてし
まって、試みであることを忘れて、「消えてゆく姿」と否定せず、落第してしまうのです。

たとえば、私を信じて、一生懸命「世界平和の祈り」を祈り、熱心に私の話を聞き、誰よりも私のことを
尊敬している弟子がいるとします。その弟子に私が、「あなたなんか、必要ないよ」と言ったとします。
私がそう言ったら、その弟子は、なんと思うでしょう。私の冷たい言葉に、悲しくてガッカリするに違い
ありません。そこで、ほとんどの人は、私から離れてゆくに違いありません。

さあ、そこが大事なのです。その時、なぜ、「消えてゆく姿」の教えを、実行しないのですか?
私が「あなたなんか、必要ないよ」と言ったら、即座に「森島先生のそのお言葉は、消えてゆく姿です」
と言って、「世界平和の祈り」を祈るのです。「あなたなんか、必要ないよ」という私の言葉は、試みの
ための嘘なのですから、「消えてゆく姿」と否定してしまうのです。この世界を平和にするために、必要
のない人間などは、一人もいません。神さまが「あなたなんか、必要ないよ」と言うわけがないのです。
その試みの嘘の言葉にだまされてはいけないのです。私は、このような試練を何度も受け、何度もだまさ
れるうちに、神さまのみ心と業想念の区別が、本物と偽物の区別が、しだいについてきたわけです。

人からどんなに嫌な言葉を浴びせかけられても「消えてゆく姿」、人からどんなに怒鳴られても「消えて
ゆく姿」、おだてられても「消えてゆく姿」、けなされても「消えてゆく姿」と否定することです。その
ように「消えてゆく姿」の教えを実行してゆくことが、神の試練に克つ最良の方法であるのです。

「うつるものおのづうつりておのづ消ゆ 己は澄みてただひそかなり」(五井先生のお歌より)


神は大愛なり
No.1042 森島恒吉    1999/09/13 (月) 09:26 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ジュンさんのご質問にお答えします。

[お答え]
私たちは、今生きております。生きるために働いたり、健康で長生きするために食べたり、清潔を保つた
めにお風呂に入ったり、美しく見せようとお化粧したりします。ときどきは、疲れたり、病気になったり
しますが、休息したり、無邪気に遊んでいると、また元気を回復します。人に愛されなくなったりしたら
悲しくて生きるのがいやになったりします。でも、しばらくすると体の傷口がふさがるように、心の痛み
も消えてゆき、人を愛する気持ちが湧いてきます。このように私たちは日々を自分の力だけで生きている
ようですが、よく考えてみて下さい。

「あなたの肉体は、あなたが作ったのでしょうか?」
「あなたは、ご自分の体の内部のメカニズムがおわかりですか?」
「あなたは、ご自分の髪の毛をご自分で作ることができますか?」

答えは、「ノー」でしょう。あなたの肉体は、あなたが作ったのではありません。もし、あなたがご自分
であなたの体を作ったとしたら、制作者であるあなたは、体の内部のすみずみまで、すべて知っていなけ
ればなりません。心臓や肺臓や胃腸が、どのように動いているのかも、あなたは知りません。自分の体の
血管の中を血液が、どのように流れているのかも見ることはできません。医療機器で、自分の体の様子を
ある程度は知ることができますが、自分の力で自分の体をつくり出すことはできません。髪の毛一本さえ
も、自分で作ることはできません。自分の肉体は、自分で作ったのではないことがわかります。

この自分の肉体を動かしている生命力は、自分が作ったのでしょうか? これもまた、自分が生命力を作
ったのではありません。もし、自分の力で生命力を作ることができるとしたら、死ぬことはありません。
生命力は、自分で作ったものではなく、自然に与えられたものなのです。とすると、自分の肉体は、実は
自分のものではなく、自分の生命力も自分のものではない、としたら、この自分の生命力や肉体は、いっ
たい誰がお作りになったんでしょうか? 私たちは、自分の力でこの地球を作ったわけではありません。
私たちが生きてゆける、地球という素晴らしい環境を作ったのは、いったい誰なのでしょうか?

私たちを生かす力、私たちが生きてゆける環境を作って下さった方、それを科学者は自然と呼び、私たち
は神と名付けているのです。私たちは、自分の力で生きているように思えますが、実は生きているのでは
なく、生かされているのです。自分の肉体、自分の生命、自分の家、自分の人生、自分の家族、自分の車
自分の土地、とすべてが、まるで自分の持ち物のように思っておりますが、実は、自分の物というのは、
一つもありはしないのです。すべてが、与えられたものであるのです。自分の家の柱やコンクリートも、
地球に存在する材料で作られたものであるし、車の部品も、その材料は、地球に存在していたものなので
す。自分の土地といっても、その土地は地球の一部でしかありません。自分で地球を作ったわけではあり
ませんから、実は自分の土地ではなく、地球の土地の一部を自分のものだと思っているにすぎません。

自分の生命や自分の体と言っておりますが、自分の物というのは、実は何一つ無いのです。地球という環
境を与えられ、太陽の光を与えられ、水や食物を与えられ、家族を与えられ、生きる智慧を与えられて、
私たちは神に生かされているのです。神に生かされていること、これこそがすなわち、神に愛されている
ことなのです。生きるということは、辛く悲しいときもあります。しかし、業想念か消えてゆき、人間の
本心本体が現れてゆくにつれて、辛さも悲しみも消えてゆき、常に喜びに満ちた人生へとなってゆくので
す。生きることが楽しい、生きることがうれしい、というように生きる喜びを感じるようになるのです。
そうした真実の幸福を感じられるように、神は私たちを導いて下さっているのです。なぜならば、私たち
は神の被創造物ではなく、神の子であるからです。私たちは、動物や植物や虫とは違って、宇宙を創造し
た神の子として、無限に進化し自由に創造する喜びを与えられているのです。

大愛の神は、人間に自由を与えたものの、人間同士が争いあっている現状を憂えて、人間を守ろうと守護
霊、守護神をつかわし、今また、世界を平和にする方法として、「世界平和の祈り」を授けて下さったの
です。神から授けられた「世界平和の祈り」を祈っていれば、個人は幸福になり、世界は平和になるので
すから、これこそ神の大愛でなくて、なんでありましょうか。私たちが、今日生きているのは、神に生か
され、神に愛されているから、生きているのです。神は、私たちを愛するだけで、憎悪したり怒ったり、
滅ぼしたりはいたしません。苦しいことがあっても、それは業因縁の転回で自分のやったことが還ってき
ただけでありまして、神が人間を苦しめているわけではありません。神は、人間を生かそう生かそうと、
愛して下さっているのです。

その神のみ心と常に一つであるために、「世界平和の祈り」を祈るのです。「世界人類が平和であります
ように」と私たちが祈るとき、私たちの心には人類愛が湧いてきます。すべての人を愛するということは
なんという大きな深い愛なんでしょう。神は常にそうした大愛を持って、神の子である私たちを愛して下
さっているのです。赤ちゃんが母親の胸に抱かれるように、私たちも「世界平和の祈り」を祈って、ふん
わりと神にお任せすればよろしいのです。自分勝手な想いをすべて神にお返しして、神から神のみ心のま
まの新しい生命を頂き直すのです。神の大愛がわからなくとも、「世界平和の祈り」を祈りつづけていれ
ば、自然に神のみ心がわかってきて、自分の心の中から真実の愛がわき上がってきます。その愛は、男女
の恋愛のように、自分の好きな相手に愛されなかったらその相手を憎む、というような執着愛ではありま
せん。愛されることがなくとも、ひたすら愛しつづけてゆくという純白の愛です。「世界平和の祈り」を
祈っているとき、私たちは、自分を愛し、人を愛し、神を愛しているのです。「世界平和の祈り」を祈っ
ていれば、神の大愛を感じて、心から感謝の祈りを捧げることができるようになります。何も難しく考え
なくとも力まなくとも、「世界平和の祈り」にただふんわりとお任せしていればよいのです。


美しいひびきの祈り
No.1043 森島恒吉    1999/09/13 (月) 10:13 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、集会の様子を皆さんにお知らせ下さって、ありがとうございます。読者の皆さんも、興味深く
お読みになったことと思います。そういわれてみると、たしかにむくさんは、熊谷真美のような明るい美
人でしたね。唯一会の女性は、みんな美人ばかりで不思議ですね。o(^-^)o ワクワク

「世界平和の祈り」は美しい言葉のひびきがありますから、その美しいひびきに同調した、美しい人たち
ばかりが集まってくるんですね。この世の中には、いろんなグループがありますけれど、それぞれの言葉
のひびきの波動に合致した人が集まっているわけです。宗教団体を見てみますと、やはり似た波動の人々
が集まっているのです。類は友を呼ぶで、どこか似た人ばかりが集まっている。おもしろいものです。

「世界平和の祈り」ほど、美しいひびきを持つ祈り言はないのです。ですから、私たちのグループには、
自然に美しい人たちが集まってくるのです。「世界平和の祈り」を祈っていると、美しい人は、ますます
美しくなってゆきます。救世の大光明には、人を美しくさせる美容効果もあるのです。

「世界平和の祈り」は、なんという美しい祈り言でしょう。これ以上の美しい祈り言を私は知りません。
神との約束事である真実の祈り言と違って、肉体人間が勝手に作った作り物の祈り言は、美しくありませ
ん。どこか不自然で美しさを感じさせないのです。その祈り言が、神に通ずる真実の祈り言であるか偽物
であるかは、美しいか美しくないかで、おおよその判断はできるものです。私は「世界平和の祈り」を祈
りながら、「この祈りはなんと美しいひびきだろう」といつも感じています。

ところで、青空さんの質問にお答えしますが、これは前にどこかに書いたつもりですが、私は独身です。

皆さんが幸せでありますように


血液型と性格判断について
No.1046 森島恒吉    1999/09/13 (月) 22:16 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

リトル−ミドルさん、ご質問をありがとうございます。

[お答え]
「血液型による性格判断」は、私の若い頃に初めて発表された考えで、中国の易占いのような長い歴史と
蓄積されたデータを持った判断方法ではありません。人間の性格には千差万別種々あるのに対して、血液
型は種類が少ないし、統計データがあやふやで明確ではありませんから、血液型だけで性格を判断したり
相性まで判断するのは、無理ではないかと思います。血液型の相性がよくないからといって、せっかくの
良い縁談をこわしては損でしょう。遊び心で楽しむならば、各人のご自由で結構なことです。

私の血液型は、O型です。五井先生の血液型は存じません。五井先生は、血液型と性格については、何も
おっしゃっていないと思います。守護霊様におまかせしておりますと、頭でいちいち考えなくとも、易者
に見てもらわなくても、自然に自分と相性の合った人と出会うように導いて下さるものです。そのときに
「あっ、これは神様のみ心だ」と直感できる正しい直観力を養うことこそ、大事であるのです。

あなたの天命が完うされますように


自然の声に耳を澄まそう
No.1053 森島恒吉    1999/09/15 (水) 02:11 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

妙好太郎さん、ご質問をいただき、ありがとうございます。

[質問]
五井先生は、宗教と食生活の関係について、どのように説いていらっしゃったのでしょうか?
五井先生は、どのような食生活を送っていらっしゃったのでしょうか?
五井先生の本には、食生活についてはほとんど述べられていないようなのですが・・・。

[お答え]
五井先生は、お体が小柄だったせいもありますが、小食だったようです。「梅干しを毎朝食べている」と
随筆に書かれていますが、お食事の内容は、普通の日本食で、魚や肉を嫌う菜食主義者ではありませんで
した。旅行先では、伊勢海老もお食べになったようです。お酒は召し上がられませんでした。「何を食べ
るか」という食事の内容についての教えはありませんでしたが、食事の作法としてお祈りすることは、教
えていただきました。

「豚肉や牛肉を食べても、私たちの天命が完うされますようにと祈り、食物に感謝していただけば、豚や
牛も天命を完うできて、豚や牛を殺した罪が消えてしまうのです。世界平和の祈りを祈れば、豚も牛もそ
の人の栄養となって、人類救済のお仕事に役立てるですから、どうせ食べられるならば、世界平和の祈り
を祈っている人に食べられたほうがいいですね。食事をしても、食物に感謝をせずに、悪いことばかりし
ている人間の栄養になったのでは、豚や牛は悲しみます」ということは教えて下さいました。

職業上で、いたしかたなく屠殺の係をしている人がいますが、動物を殺すのですから、人々のためとはい
え、やはり業がついてしまうのだそうです。ところが、ある時、五井先生に個人指導を受けに来た人が、
屠殺の仕事をしていたので、「大変な業がついてしまっているだろう」と思ったのですが、五井先生が霊
覚でその人を見ますと、屠殺の仕事をしているのに、動物を殺した業が少しもついていなかったのです。

「あなたは屠殺の仕事をなさっているけれど、動物を殺した業がまったくついてないね。きれいですよ。
あなた、動物を屠殺する時、何かしているの?」と五井先生が不思議そうに、その人に尋ねたのです。
「はい、私は動物を殺した時、必ず『南無阿弥陀仏』と唱えさせていただいております」
「ああ、それだね。素晴らしいね。『南無阿弥陀仏』の祈りの力が、動物を殺した業を浄めて、あなたに
はその業が少しもついていないのです。『南無阿弥陀仏』の素晴らしさを改めて知ったねえ」と五井先生
は、しきりに感心なさっていました。ですから、「世界平和の祈り」を祈って食事をいただけば、動物も
植物もすべてが生かされるのです。

晩年になって、五井先生の喘息症状がつづいていた時、全国の会員さんから漢方薬や喘息に効くという薬
が送られてきたようですが、五井先生は、漢方薬を含めて、薬には一切手をつけませんでした。五井先生
は、「医薬を否定してはいけません」と説いていて、ご自身は歯科医院に通って歯を治療しましたが、喘
息症状を治す薬は、少しものまなかったようです。夜中は、激しい喘息がつづいて、痰を吐き出すチリ紙
を大量にお使いのようでした。人類の業が、五井先生のお体を襲っては、浄まってゆくのだそうです。
「会員の皆さんから送ってもらった漢方薬がたくさんあるんです。申し訳ないけど、私はそうした薬はの
まないので、欲しい人にはあげますよ」と五井先生は笑いながらおっしゃっていました。

また、五井先生は近眼で、しかも目の中を蚊のような黒っぽい点が飛んでいるように見える飛蚊症があっ
て、ご不自由のようでした。最初は、講演の間に、たまに咳をする程度であったのですが、しだいに喘息
症状がひどくなり、その原因は地球の業想念を浄めるためと説明されていましたが、講話もできなくなり
一人で立って歩くことさえ、ままならなくなりました。そのため、聖ヶ丘での統一会の時は、近くのc修
庵から担架に乗せられて、道場の壇上の椅子まで行かれました。五井先生が椅子にお座りになると、演壇
のカーテンが開かれるのです。

そうした五井先生のお体を見て、「お祈りしても、肉体がすぐに完全に健康体になるわけではないんだ」
と思い、「お祈りで健康体になる」という現世利益を、私は期待しないようになりました。もちろん、い
ずれは人間は完全な健康体になるのですが、それまでには時間がかかり、現世ですぐに健康体になるわけ
ではないのです。「消えてゆく姿を知って肉体を脱いだら、肉体にまつわる病気はすべて治るよ」と私は
説いているのですが、「エーッ、あの世に行くまで治らないの?この世のうちに治して下さい」と言われ
ます。今は、治癒時間がかかりますが、時代が進むにつれて科学が発達してゆき、現在よりも速く治るよ
うになることでしょう。人類の進化の途中のため、病気がパッと治るというわけにはいかないのです。

私が、こうして五井先生のお体のありのままを、正直にお話しするのは、宗教団体によっては、「病気治
し」を宣伝文句にして、信者を勧誘しているところもありますが、私たちは、金もうけのために病人ばか
りを集めたくはないのです。世界平和を望む人たちに集まってほしいからなのです。五井先生をスーパー
マンのような頑健な体を持った人のように美化しないのは、宗教の目的は、病気治癒ではなく、本心開発
にある、ということを言いたいからです。「世界平和の祈り」を祈ることによって、健康を回復する人は
いますが、それは本心開発による副産物でありまして、「世界平和の祈り」を長年祈っても、この世では
病気が治らない人も、残念ながら存在するのです。もちろん、業想念が消え、本心が現れてくれば、すべ
ての人間は、完全な健康体となるのですが、そうなるまでには、まだ、時の流れが必要であるのです。

宗教というのは本心開発が目的であって、食事療法でも健康法でも医学でもありませんから、食生活につ
いては、五井先生は述べていないのです。食生活については、栄養学者や料理専門家がいるわけですから
その人たちにまかせておけば良いと思います。ヨガは、心身の密接な関係を研究し、心身をコントロール
するために、食生活から体の動きまで総合的な訓練をするものですが、自力行ですから、続けることは大
変な意志力が必要だと思います。五井先生の教えでは、食生活は自由です。白米を食べてもいいし、ハン
バーガーを食べてもいいし、すき焼きでもステーキでも食べてもいいのです。お酒も楽しむ程度ならば結
構です。但し、「タバコだけはいけない」と説いています。しかし、隠れてタバコを吸っている人には、
見て見ぬふりをなさっていました。

これは私の体験ですが、若い時のビタミン剤の過剰摂取はよくないと思います。ビタミン剤を過剰に取る
と、体内でビタミンをつくったり保有する量が減って、ビタミンをとらないと、ビタミン欠乏症になって
しまいます。若い時は、自然な食べ物から、自然な形で、ビタミンをとるようになさって下さい。

私の幼い頃、ビタミンBを添加した白米がはやって、親が買ってきたそのお米を、私も知らずに食べてい
たのですが、体がそれに慣れてしまうと、ホメオスタシス(恒常性機能)が狂ってしまい、ビタミン入り
の白米を食べないと、ビタミンB欠乏症にかかってしまうのです。それなしには調子が悪くなってしまう
のです。そのことに気がついたとき、私はビタミン剤入りの白米を食べないようにしたら、体がグッタリ
と疲れやすくなりましたが、がまんして欠乏症状を耐えて、欠乏症状の消えるのを待ちました。

成長期の頃は、ビタミン剤のような不自然なものは摂取しないで、できるだけ自然な食物を、自然な形で
食べることです。ビタミン欠乏よりもビタミン過剰症のほうがおそろしいのです。自然の食べ物を食べて
いるかぎりは、ビタミンの過剰摂取は起こりません。食物添加や錠剤のような形で、過剰に摂取すること
がいけないのです。清涼飲料水の表示を見ますと、たくさんのビタミン剤が添加されていますが、そうし
たものは飲まないで、自然の果物やジュースを飲むことです。あるいは、自然水がよいのです。

自然な食物を自然な形で食べるのが、人間にとって一番自然ではないでしょうか。宗教の祈りも、自然な
食事と同じように、やはり自然な祈りであるべきです。ビタミン剤を過剰に摂取するように、念の力を強
める念力行や、複雑な形式行を伴う方法は不自然であって、将来何かしら思いがけない恐ろしい欠陥が生
じてくるものです。不自然な祈り言は、宇宙の法則には合わないのです。何事も方法を定める時には、
「どちらがより自然か?」と直感的に判断して、より自然な方法を選ぶことがよいのです。

「世界人類が平和でありますように」という祈りは、自然な祈りだと思います。世界平和を神に熱望して
いる人間の祈りが、素直に言葉になった祈りです。人類が争いあっている現在、人類の争いを止めるのは
神しかおりません。神に、人類の平和を願う祈りは、自然ではないでしょうか。「世界は平和である」と
言ったら、これは不自然です。今は、肉体世界は、まだ平和にはなってはいないのですから、不自然なの
です。「私は神である」と宣言することも不自然です。宣言するには、まだ早過ぎるからです。このよう
に考えますと、「世界平和の祈り」は真実に自然な祈りであることがおわかりでしょう。自然の声に耳を
澄まし、「世界平和の祈り」を祈ってゆくとき、人類の本心は自然に開いてゆくのであります。


現実にも真理にも矛盾しない「消えてゆく姿」の教え
No.1063 森島恒吉    1999/09/15 (水) 21:35 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

妙好太郎さん、ご質問をいただき、ありがとうございます。

[質問]
森島先生は、五井先生の病身をご覧になっても、いささかも信心が揺らぐことがなかったのでしょうか?
もし、そうだとすれば、大変すばらしいことですね。

[お答え]
真理の言葉と現実を一つに見ないで、真理は真理、現実は現実として分けて見るようにすれば、五井先生
のお話に矛盾はなくなり、信心もゆらぐことはなくなります。真理と現実が一つだと思ってしまうと、現
実が真理そのものではないと知った時、真理を話す師への信仰は揺らいでしまいます。

真理から申しますと、「病気は無い」のです。五井先生や私には、そう思えるのです。病気があるように
見えるのですが、業因縁の渦を抜け出た人にとっては、実は「病気は無い」のです。五井先生は、肉体は
病んでいても、心は少しも病んではいなかったのです。しかし、こんな高い境地のことを言っても、たい
ていの人には少しも理解できません。病気は存在しているように見えるのです。そこで、その現実の存在
を「在る」と認め、真理へと橋渡しする言葉として「病気は消えてゆく姿」と説いているのです。

「真理としては病気は無い」と説き、「現実には病気は在る」と説いているわけです。そのままではその
二つは矛盾してしまいますが、その二つの論理に「時間経過」の要素を加えて、「現実には病気は在るけ
れども、時間がたつにつれて、病気は消えてゆき、未来においては病気は無い」と説けば、二つの論理が
一つに統合されて矛盾しなくなるわけです。現実にも矛盾しなければ、真理にも矛盾しなくなる。どちら
にも矛盾しない言葉は、「消えてゆく」という言葉以外にはないのです。

ところが、現実を無視した真理偏重光明思想は、「病気は無い」「私は健康だ」と真理を説いたままで、
実際にそう思えないのに、「無いものは無いのだ」と現実を無視しているわけですから、現実に矛盾して
しまうのです。真理を口先で説くことは誰にでもできますが、真理を実行することは不可能に近いことで
す。たとえば、実際にカゼをひいたりしても、ふだんから「病気は無い」と説いておりますと、そのてま
え「私はカゼをひいた」とは言えなくなります。病気になっても、病気でないふりをしたり、自分の心境
を低く見られまいとして隠したりする。そうして、だんだんと偽善者になってゆくのです。自分や人に真
理の言葉で嘘をついているうちに、その嘘で塗り固められて、いかにも真理を体得し、神の子になったか
のようにふるまうのです。そして、なんともうさん臭い、不正直でない雰囲気がかもしだされてくるので
す。真理偏重光明思想には、こうした欠陥があるのです。

私は日頃から、五井先生から「病気は今は在るように見えていても、消えてゆく姿なのです」と教えてい
ただいておりましたから、「ああ、五井先生のご病気は、地球人類の業想念の消えてゆく姿だなあ」と思
って見ておりました。五井先生が「現実にも病気は無い」と説いていれば、「それは矛盾している」と指
摘できますが、五井先生は「現実には病気は存在する」と説いているのですから、五井先生が病気をして
も、嘘にはなりません。五井先生はご自分の「消えてゆく姿」の教えを、私たちに実行して見せて下さっ
たわけです。そして、どんなに苦しい症状の時でも、「神様、ありがとうございます」と感謝できること
を教えて下さいました。

病気も苦しみも、今は存在しておりますが、必ず消えてゆくものです。紛争や戦争も、今は存在しており
ますが、必ず消えてゆくものです。そして人間は、未来に進むにつれて、完全な健康体へとなってゆき、
争いも戦争も消えてゆき、お互いに愛し合うようになり、世界は平和になってゆくのです。
「世界は平和になる」という信念で「世界平和の祈り」を祈ってまいりましょう。

皆様が幸せでありますように


わかりやすい適切な言葉を使おう
No.1066 森島恒吉    1999/09/17 (金) 09:29 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

昨夜、NHKの「クローズアップ現代」で「ビジネスは日本語が決め手」(漢字で差がつく商品開発)と
いう番組をやっていましたが、企業が競争に勝ってゆくためには、消費者に対して、いかにわかりやすい
適切な日本語の言葉を使った商品を開発するか、で決まるというテーマでした。マニュアルを作るテクニ
カルライターは、消費者に対して、いかにわかりやすく的確な日本語を使って書くかが求められており、
英語をカタカナにしただけでは駄目だ、というのです。

松下電器の社員の意見が、一例として紹介されていました。テレビのリモコン操作の表示について、技術
部のほうは、英語をカタカナにしただけでしたが、営業部から反対意見が出されました。
「テレビのリモコンを使うお客様は、お年寄りも小さいお子さまのお客様もいらっしゃいます。わかりや
すい日本語で表示しなければ、多くのお客様に使ってもらえません。日本語にすべきです」と。
さすがに営業部の社員は、お客様を大事にする松下幸之助の精神を受け継いでいます。そして、リモコン
は、わかりやすい日本語の表現に決定されました。このように現在、日本の企業では、お客様にいかにわ
かりやすく適切な日本語を使って意思を表現するか、社員たちが白熱の議論をして考えているのです。

宗教の道を説く指導者も、やはり同様で、いやそれ以上に、わかりやすい適切な言葉を使って、宗教の道
を教える努力をしなければならないと思います。自分の考えを、相手にわかりやすく伝えることを常に念
頭においておかなければなりません。私なども、言葉が足りないために、相手に誤解されてしまうことが
あります。そのたびに、私は反省して、自分の考えが相手に伝わるように言い直す努力をしております。
宗教の道は、誰でもわかりやすい言葉で表現されなくては、老若男女、国籍を問わず、すべての人が救わ
れるわけにはまいりません。むずかしい言葉を使えば、「あの人は、偉そうだ」と思われて、偉く見せた
い欲望を満足させることはできますが、宗教者に、そうした虚栄心があってはなりません。宗教者は、虚
栄心を捨てて、すべての人が救われる、やさしい表現を使って、道を説く努力をしなければなりません。
私は、五井先生のみ教えを後世に正しく伝えて下さる後継者を、常に求めております。その後継者になる
条件は、「いかにわかりやすい言葉を使えるか」ということなのです。「この人は、いったい何を言って
いるのか、わからない」と皆が首をかしげるようなむずかしい話をしているような人は、宗教者にはなれ
ません。子供でも、お年寄りでも、わかりやすいお話でなければ、救われないではありませんか。

五井先生は、感嘆するほど的確なわかりやすい言葉で道を説いて下さいました。「世界人類が平和であり
ますように」という祈り言は、世界平和を希求する人類の願いを適切に表現した、そのものずばりの表現
です。世界平和を祈る祈り言として、こんなにわかりやすい表現の祈り言はほかにありません。「神様、
ありがとうございます」という感謝の祈り言も、簡単素朴で短い表現でありながら、宇宙神の深いみ心に
まで達する、私たちに欠かせない大事な祈り言です。「世界平和の祈り」以上に、的確な表現で、わかり
やすく、やさしい表現の祈り言が、ほかにあるでしょうか。「世界平和の祈り」はやさしい言葉であるか
らこそ、すべての人が救われるのであり、現代に必要な祈り言であるといえるのです。一部の選ばれた人
だけが救われたり、高い心境の人だけが救われるというような方法は、神のみ心ではありません。神は、
すべての人を救おうと思っていらっしゃるのです。「世界平和の祈り」は、一部の選ばれた人だけを救う
祈り言ではありません。人類を救うために神から授けられた祈り言であるのです。
………………………………………………………………………………………………………

青空さんのご質問は、抽象的で漠然としていて、答えられません。もう少し具体的に質問して下さい。
皆様が幸せでありますように


関西のS様へ
No.1068 森島恒吉    1999/09/18 (土) 22:06 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

メールで頂戴したS様からのご質問ですが、ご返事を送ったら、宛先のメールアドレスが不正確らしく、
宛先不明で戻ってきてしまいましたので、ここに記しておきます。

[S様からの質問]
私も昔、20年以上前、関東に住んでいるとき、市川へ通っていました。
今は大阪にいますが、だいぶ前から、いろいろあって、白光真宏会の集会には、今は行ってません。
関西にも唯一会の集会がありますか。

[お答え]
メールをいただき、ありがとうございます。
唯一会の歴史は浅いので、まだ関西には唯一会の集会はございません。
もし、ご希望があれば、私が関西まで行ってお話させていただきます。
今後は、ぜひ、私どもとご一緒に「世界平和の祈り」を祈って下さるようにお願いいたします。
あなたさまの天命が完うされますように
五井先生、ありがとうございます。


なぜ「世界人類が平和でありますように」なのか?
No.1084 森島恒吉    1999/09/22 (水) 00:08 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ソレイユさん、ご質問をいただき、ありがとうございます。

[質問1]
なぜ、「世界人類が平和になりますように」ではなく、「世界人類が平和でありますように」なのでしょ
うか? ご解説のほどをお願いします。

[お答え1]
「世界人類が平和になりますように」の祈り言を解析しますと、「未来において、世界人類が平和になり
ますように」という意味であるのです。いいかえますと、この祈り言には、「現在は、まだ平和になって
いない」という意味が含まれているのです。百年後の未来ではなく、たとえ一分後に平和になろうと、十
秒後に平和になろうと、それは現在のことではなく、あくまでも未来成就のことであり、未来における世
界平和を祈っていることになります。これでは悠長すぎて、現実性に乏しく、弱々しく聞こえます。

それに対して、「世界人類が平和でありますように」は、「現在、世界人類が平和でありますように」と
現在の平和を祈るのですから、「世界人類が平和になりますように」よりも、ずっと現実性が出てきて、
力強い言葉になります。「今、世界人類は平和であります」という宣言は、最も力強い感じがしますが、
現実には、世界はまだ平和にはなっていないのですから、それを言えば嘘になります。嘘の言葉であって
は偽善の想念を厚くしてゆくばかりで、人間は神性を顕現するどころか逆に偽善者になってしまいます。

ところが、「今、世界人類が平和でありますように」と祈願形で祈りますと、言葉の持つ力としては、や
や弱くなりますが、嘘とはなりませんし、無理に真理を宣言することによる種々の欠陥もありません。
「今、世界人類が平和でありますように」と祈るたびに、「ように」という言葉は、付いているものの、
「今、世界人類が平和であります」という真理の言葉を唱えていることにもなりますから、正直な祈り言
でありながら、真理の最強の力を内部に持っている祈り言であるのです。

そして、この祈り言には、現在の平和を祈るだけではなく、「永遠に、世界人類が平和でありつづけます
ように」という意味も含まれているのです。そこで「今から永遠に、世界人類が平和でありますように」
という意味である、と私は説いているのです。昨日、いやな出来事があったとしても、それはもう過去の
ことです。その出来事は消えたのです。一分前に不幸災難があったとしても、もうそれは、過去のことで
す。新しい今のこの瞬間には、過去の不幸災難は無いのです。ただ、不幸災難が、今も続いているように
目に見えるだけなのです。過去の現象を見て、今も在るように思っているだけなのです。今、現れている
ように見えるものは、すべて過去の消えてゆく姿であるのです。

私たちは、今から世界を平和にすることができるのです。守護の神霊にむかって「今から、世界人類が平
和でありますように」と祈れば、今から、私たちは世界平和を創造することができるのです。同じく、私
たちは幸福になるために、明日まで待つ必要はありません。私たちは、今から幸福になることができるの
です。「今から、私たちが幸せでありますように」と祈れば、私たちは今から幸福な生活を創造すること
ができるのです。病気が治るのを待つ必要はありません。「今から、私たちが健康でありますように」と
祈れば、私たちは今から健康な生活を創造することができるのです。「私たちの運命は、いつかは善くな
るだろう」と現在に落胆していてはいけません。「今から、私たちの運命が善くなりますように」と祈れ
ば、私たちの運命は、将来のいつかではなく、今から善くなるのです。「神様、今、私をお救い下さい」
と祈れば、神様に、今、あなたは救われるのです。なんと力強い希望に満ちた祈り言でしょうか。

「世界人類が平和でありますように」と祈れば、あなたの運命は、今から善くなるのです。世界平和実現
をあきらめてはいけません。世界は、今から平和になってゆくのです。このような理由で、「世界人類が
平和になりますように」とは祈らずに、「世界人類が平和でありますように」と私たちは祈っているので
す。「今から善くなる」と信じて、「世界平和の祈り」を祈りつづけてまいりましょう。


神様に悩みをすべて渡してしまおう
No.1085 森島恒吉    1999/09/22 (水) 00:22 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ソレイユさんからのご質問に、引きつづきお答えいたします。

[質問2]
五井先生は「面倒な業想念は、みんな私に預けちゃいなさい」と言っておられましたが、森島先生もそう
いった事は可能なのでしょうか?五井先生は「何千何万の業想念が寄ってきても大丈夫だが、たいていの
人なら死んじゃいます」と言っておられました。

[お答え2]
私に業想念を送りたい人は、私に送って下さって構いません。「森島先生、私の業想念を浄めて下さい」
と祈れば、その業想念は肉体の私を通して、救世の大光明の中へと吸い取られて、浄められます。肉眼に
見えない守護の神霊よりも、肉体を持った宗教者のほうが、すがりやすいと思いますから、そうしたい方
は、ご自由になさって結構です。自分一人で苦しみや悩みをかかえていないで、守護の神霊や宗教指導者
に、打ち明けて業想念を渡してしまうことです。信者さんからそうされることを嫌がる指導者は、宗教者
としての天命のない人であるのです。宗教者は、そのために神様から生かされているのです。

[質問3]
犬や猫にも、守護霊様・守護神様って居られるのでしょうか?

[お答え3]
人間を守護している守護霊様、守護神様のような神霊はおりませんが、犬や猫に生命を与え、犬や猫を守
っている霊は存在します。宇宙神から、人間の根源的霊である直霊が現れましたが、同時に動物を創造す
る霊も現れたのです。一般に動物霊といいますと、幽界に住んでいる野狐霊や邪霊生物のことをいいます
ので、宇宙神から分かれた動物を創造する霊を、動物創造霊と言って区別することにいたします。犬や猫
を創造し、生命や知恵を与えているのは、この動物創造霊でありまして、そこから分かれた動物支配霊が
犬や猫を守っているのです。犬や猫に業想念はありませんが、交通事故のように人間の業想念を受けて、
ケガをしたり死ぬことがあります。人類が平和にならないと、犬や猫も平和な暮らしはできないのです。

また霊界には、神の子である人間だけが住んでいて犬や猫はいない、と思われがちですが、飼い主が霊界
に行きますと、かわいがっていた犬や猫も飼い主の元へと行きまして、飼い主を喜ばせてくれるのです。
但し、神の分霊である人間と犬や猫などの動物とは霊格が違いますから、飼い主の人を喜ばせてあげよう
として、仏壇の位牌の隣に犬や猫の写真を祀ったり、人間のお墓に犬や猫のお骨を一緒に入れるようなこ
とは、絶対にしてはいけません。好意でやったとしても、霊障が起きてしまいますから注意して下さい。

亡くなった犬や猫をなつかしく思い出して、犬や猫のために何か祈ってあげようと思ったら、ペットが使
っていた餌用の器を地面か床の上に置き、その器の中にペットが好きだった餌をほんの少し入れ、別の広
口の器に水を入れて、「○○ちゃん(猫か犬の名前)、私を愛してくれてありがとう。○○ちゃんの天命
が完うされますように。○○ちゃん、また霊界で会おうね」と合掌して祈ってあげます。祈った後の餌は
捨てないで、肉体界に生きている他の犬や猫に与えます。あなたが本気で、そのペットを愛しております
と、ペットはあなたに恩返しをしようと災難から守ってくれたり、あなたが霊界に行ったときに、あなた
のそばに寄り添い、かわいい声を出して甘えてくれます。犬や猫は、他の動物と違って、人間のために、
人間のそばで、ペットとして生きるように動物創造霊によって特別に作られているのです。ペットには、
愛情をそそいであげて下さい。

皆様の天命が完うされますように                            


白光真宏会についてのご質問
No.1093 森島恒吉    1999/09/23 (木) 02:01 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

Aさんからのご質問にお答えいたします。

[質問1]
唯一会は、今の白光真宏会のしていることを、部分的には、認めているわけですか。

[お答え1]
唯一会は、五井先生ご在世時代の過去の白光真宏会と同じ、とお考えになってよろしいのです。唯一会は
五井先生の教義と「消えてゆく姿で世界平和の祈り」という行法を、今も守り継承しております。したが
いまして当然ですが、現在の白光真宏会に残っている「世界平和の祈り」は正しいと認めております。

但し、「世界平和の祈り」以外の行法については、正しい行法であるとは認めてはおりません。すなわち
昌美先生が新たに創案した「光明思想徹底行」「非光明思想消滅行」(自己否定消滅行)「地球世界感謝
行」「我即神也、人即神也、人類即神也の真理宣言行と印の行」「願望成就宣言行」「心の法則を用いた
積極思考行」「宇宙神マンダラ謹書行」等の行法については、感謝行をのぞいて、「世界平和の祈り」よ
りもはるかに劣る行法であり、五井先生の教義に反する行であると思います。その理由は、それらのすべ
ての行法が、真理の言葉に把われた行法であり、業生の法則に把われた行法であるからです。

唯一会は、子供からお年寄りまで誰でもやさしく実行できる他力易行道で、「世界平和の祈り」の行法だ
けで救われる、と説いているのですから、将来は唯一会会員数が、白光真宏会会員数をはるかに上回るこ
とになるのは自然の成り行きでしょう。私どもを侮り無視し馬鹿にしていた人たちも、そのとき初めて瞠
目して、「世界平和の祈り」の強大な力を改めて見直すことになるのです。

[質問2]
五井昌久氏は、今の会長昌美氏が違った方向に行くであろうことを予感しながらも、敢えてご自分の後継
者として昌美氏を指名されたのでしょうか。それとも、今の会長は、五井氏の生前のご遺志ではなかった
のですか。

[お答え2]
昌美先生を、白光真宏会会長の後継者としたのは、五井先生のご遺志です。生前の五井先生は、昌美先生
を誰よりもかわいがっておられましたし、「私の教えを昌美は忠実に継承してくれるだろう」と五井先生
は思っていたことでしょう。昌美先生が、よもや現在のような指導法に変更するとは、五井先生は夢にも
思わなかったと思います。器(肉体)の五井先生のほうは、なんの不安もなかったのです。

五井先生の他界された1980年(昭和55年)から1990年頃までの十年間は、昌美先生は確かに五井先生の後
継者であったのです。故人となられた瀬木庸介理事長が「ピースポール」を発案された功績は、多大なも
のがありますが、昌美先生が始められた「世界各国の平和の祈り」というセレモニーも、祈りによる世界
平和運動を大きく発展させた素晴らしいアイディアだったといえます。

しかし、五井先生の教えを継承するという天命は、1990年頃を境にして、昌美先生から私へと移ってしま
ったのです。なぜならば、昌美先生は、五井先生の提唱された「世界平和の祈り」を理解できず、欧米の
念力思想や心の法則論の本の影響を受けて、「世界平和の祈り」以外の行法を次々と編み出し、いつしか
五井先生の教義から逸脱してしまったからです。それをご覧になっていた神様(救世の大光明霊団)は、
1990年頃それまで何もわからなかった私にインスピレーションを送り、私を悟らせて下さり、五井先生の
み教えを説くように、私を導いて下さったのです。

神様は、過去世からの徳や現世の心境や才能を見て、人間に天命を与えて下さるのですが、人間が神様の
み心に反することをして、しばらくたっても改めないでおりますと、神様は義理や人情では動きませんか
ら、パッと天命の配役を変えてしまうのです。神様は、雇われのガードマンではないのですから、人間の
都合の良いように神様を動かすことはできません。その人に天命を授けるのは、あくまでも神様のほうで
あるのです。会社の社長が経営者としてふさわしくなければ、大株主や重役たちに退任に追いこまれるよ
うに、神様からご覧になって「もう、この人間はこの役目を果たせない」と判断されると、それまで守っ
ていた人間から即座に離れて、神様のみ心を伝えることのできる人間の背後に移るのです。

神様(救世の大光明霊団)が背後につきますと、その人は、突然、神様のみ心がわかってきたり、宗教の
講話ができるようになってくるのです。私も、その一人であるのです。前世の徳で宗教教団の教祖の地位
を得た指導者といえども、大悟していなければ、常に反省をして、神様のみ心にかなうように行動してお
りませんと、せっかくついた神様が離れて霊力を失い、ただ形骸だけが残ることになってしまうのです。
救世の大光明霊団にとっては、「世界平和の祈り」を伝えることのできる宗教者こそ必要なのであって、
「世界平和の祈り」を説かない者は、宗教者として必要の無い者であるのです。

[質問3]
宗教、宗派の垣根を低くするために五井氏は、どこの宗教の人でも参加できるように、「平和の祈り」だ
けにされたと思いますが、「印」がでてくると却って、宗教の垣根が高くなり、敷居が高くなると思いま
すが。宗教の垣根が高くなった分、別団体といって、WPPSを造ってることは、二枚舌を使っているよ
うに思いますが。

[お答え3]
あなたのおっしゃる通り、昌美先生のなさっていることは矛盾している、と私も思います。一人の人間が
片方で「人類即神也こそ究極の方法だ」と説き、他方で「世界平和の祈りこそ究極の方法だ」と説いて、
一人ふた役を演じているわけですが、このような矛盾した二元論の状況が、いつまでも続くはずがありま
せん。いずれ二つの矛盾が表面に露呈して、消えてゆく姿となることでしょう。

[質問4]
また、WPPSは、他の宗教宗派にも賛同者が多くいる、といっていますが、一方、白光真宏会の方では
キリスト教、イスラム教はやがて消えてゆく宗教といい、それらの宗教は宗教戦争の基になっている、と
言っていますが、一体どうなっているのでしょうか。

[お答え4]
あなたのおっしゃる通り、昌美先生のご発言は、矛盾していると思います。他の宗教宗派の悪口は、避け
るべきでありまして、「世界平和の祈りによって、世界の各宗教の教えが現代に生かされる」というよう
な言い方をするべきだと思います。

[質問5]
キリスト教の宣教師、シスターの中にも多くの立派な神の器がいると思いますが。白光誌の広報の中で、
マザーテレサと会談したことなど報じられていますが?

[お答え5]
もちろん、クリスチャンの中にも、立派な方は大勢いらっしゃいます。マザーテレサには、会員からピー
スポールが贈呈され、マザーテレサの教会に、ピースポールは建立されています。ピースポール贈呈にあ
たり、その主旨を説明しているはずですが、会談というほど長い話し合いは、なかったと思います。

[質問6]
他にも著名人が今の会長と会談したことなどを、宣伝文句に使うのは、他の宗教団体の常套手段だと思う
のですが? 前会長の時代は、そのようなことはなかった、と思います。このような広報の仕方は、多分
に、米国でアドバタイズ(広告宣伝)やマーケティング(宣伝方策)を学んだ、広告代理店会社の博報堂
の元社長である、瀬木さんの影響かと思いますが、宗教が商品化されていると思います。

[お答え6]
五井先生の頃にも、著名人と会ったことを宣伝文句に使うことは、全くなかったわけではありませんでし
たが、地味でしたね。広告会社の元社長であった瀬木さんによって、白光真宏会はたしかに広告が積極的
になりました。これも、あなたのおっしゃる通りだと思います。正しい宗教の教えを積極的に広める努力
をすることは、世界が平和になることですから、これは決して悪いことではなく、むしろ必要なことであ
ると思いますが、「宗教が商品化されている」とあなたに不快感を与えているならば、どこか改善すべき
点があるのでしょう。

どこが商品化されていると思われるのか、どのように改善したら良いのか、等をもっと具体的にご指摘し
て下されば、私どもも反省し、皆さんに歓迎されるような、より良い普及活動をしてゆきたいと思ってお
ります。今後も、助言提言をお寄せ下さいますように、お願い申し上げます。
良いご質問をいただき、ありがとうございました。

皆様の天命が完うされますように


霊障と統一行について
No.1094 森島恒吉    1999/09/23 (木) 02:34 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

Bさんからのご質問にお答えいたします。

[質問1]〜霊障について〜
最近私は、よく頭が痛くなります。 特に、何かを決断して、少し迷っているときや、自分が良いと思っ
ていることをしないで、ほかの事をしている時、自己否定をしている時などに、そのような現象が起こり
ます。これは、昔大学時代に、勉強しようと思うと、頭が痛くなり、勉強するのに、大変な労力が必要だ
った、時と似た状況です。まさか、神様がこのような事(私の決断に対する頭の締め付け等の干渉)をす
るはずは無いと思いますので、幽界あたりからの干渉かな、などと思っております。また、ずっと以前よ
り、迷い事などがあると、"みぞおち"のあたりが、"もやもや"した感じになり、ずっとこのような状
況(もやもや感)は、続いております。このような現象は、もちろん消えて行く姿なのですが、このよう
な現象を抜け出て、明るく生活できるようになるには、どのようにすれば、よろしいでしょうか?
(幽界からの干渉と思うと、心が、少々暗くて、澄んだ感じ、になります。)

[お答え1]〜霊障ではなく潜在意識の業想念の消えてゆく姿〜
あなたは、ご自分が霊的な特別な人間と見られたいと思っているようですが、そうした欲望は捨てなくて
はいけません。あなたは霊的な人間ではなく、あなたに起こる現象は、すべて霊障ではありません。そう
した現象は、幽界の生物の干渉ではなく、あなたの潜在意識の中にある「この勉強(仕事)をやりたくな
い、怠けたい」という業想念によって、頭が痛くなったり、胃のあたりが痛くなったりするのです。それ
は潜在意識にある怠惰の業想念ですから、「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆけば、いずれは消えてゆ
くものです。霊的な人間でもないのに、霊的な人間のふりをしてはいけません。特別な人と見られたい、
尊敬されたい、という欲望は捨てなくてはなりません。頭が痛くなったら、頭痛が起きたと思って、医者
に頭痛薬をもらったらいいし、胃が痛くなったら、医者に胃薬をもらったらいいでしょう。守護の神霊が
霊的な修行として、頭をしめつけたり、勉強をやめさせたり、不安な想いを流し入れてくることは、まず
ありえません。「世界平和の祈り」が授けられた現在、もはや、そんな霊的な修行をする必要はなくなっ
たからです。なんでも「これは霊障だ」と思うことはやめて、常識的に判断なさって下さい。

[質問2]〜統一について〜
統一中に、ふんわりして、自分が広がっていくように感じたりするのも、やはり否定したほうがよろし
いのでしょうか? あまり、否定していると、否定することに、集中してしまい、神様に想いが統一でき
なくなってしまうような気がしています。実は、統一が深くなる、とはどんな状況なのかが、良く分かり
ません。また実は、統一中に見える光などを、幽界から化作と否定して否定していくと、まるで、幽界を
ぬけて、霊界(または神界)にでもいったように、心自体が(90%ぐらい)明るくなったり、心の底か
ら、「神様と一体なんだなー」などと感じることがあるのですが、このような時は、どのように、思えば
よろしいのでしょうか? (幽界からの手の込んだ化作かなーなどとも、考えたりすることがあります)

[お答え2]〜自力を捨てて他力せよ〜
あなたは、まだ自力で神様に統一しようと思っていますね。自力があっては、駄目なのです。なぜ、自力
を捨てないのですか。自力で神様に統一することは、不可能なのです。自力で「統一しよう」とか、自力
で「業想念を否定しよう」とか、自力で「統一を深めよう」とかと、あなたは自力でやろうとしているん
です。ですから、はっきり言って、あなたは謙虚でいるようでいて、内心はまだ非常に傲慢なんです。ま
だ傲慢の想いが抜けていないのです。「自力でできるんだ」とあなたが思っているうちは駄目なんです。
「自力で統一しよう」「自力で統一を深めよう」「自力で業想念を否定しよう」「自力で神様と一体にな
ろう」などと思ってはいけません。「世界平和の祈り」に全託するだけでよいのです。あとは、神様のほ
うがうまくやって下さるのです。五井先生の教えは、他力行であることを思い出して下さい。

皆様の天命が完うされますように


愛する人に「世界平和の祈り」を捧げよう
No.1095 森島恒吉    1999/09/23 (木) 03:03 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

Cさんからのご質問にお答えいたします。

[ご質問]
昔、私が学生の頃、市川の聖ヶ丘道場に行っていた頃、「青空」という雑誌に、海外旅行をしたことを書
いていた方ではないでしょうか。もし、そうでしたら、記事のことで聖ヶ丘道場で個人的に声をかけたこ
とがある方になるのですが。

[お答え]
はい、青年部発行の「青空」に、海外旅行を素材にしたユーモア小説「HELP」を連載で書いていた者
です。私は19歳の時、イギリスのボーンマスにある"アングロ・コンチネンタル・スクール・オブ・イン
グリッシュ"という英語学校に一カ月間留学して、その後フランス、ドイツ、スイス、イタリアを回った
のですが、その時の体験をもとに小説を書きました。あなたとは、聖ヶ丘道場で、お会いしたかもしれま
せんね。久しぶりにお会いできて、うれしく思います。今後ともよろしくお願いいたします。

[ご質問]
現在、昌美師が会でしておられることは、エンジェラススカラーや、高級神霊との交流の結果ではなく、
肉体の頭脳での西園寺昌美師自身の考えでしていることでしょうか? それとも、間違えた霊にとりつか
れてしている事になるのでしょうか。

[お答え]
昌美先生は、ご自分の潜在意識で考えたことをなさっているのです。昌美先生は、白光誌に毎月法話を載
せるために執筆材料を得ようと、欧米の自己啓発書や宗教書をたくさんお読みになるうちに、それらの本
の影響を受けて、五井先生の教えから、いつのまにか逸脱してしまったのです。それはちょうど、生長の
家の谷口雅春教祖が、「人間神の子完全円満論」を唱えた後に、欧米の「心の法則論」に影響されて、二
元論になってしまったのと同じなのです。昌美先生を、業想念が憑依しているともいえます。しかし、い
ずれは、私どもの「世界平和の祈り」の活動によって、昌美先生も五井先生の教えを理解できる日がくる
のです。昌美先生を助けるためにも、私どもは「世界平和の祈り」を祈りつづける必要があるのです。

昌美先生の天命が完うされますように
世界人類が平和でありますように