森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


室内での礼拝形式について
No.1110 森島恒吉    1999/09/24 (金) 01:40 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[質問1]
白光真宏会の人達は、霊光写真に向かって祈る、というような方法で常に祈っているのですか?
これは五井先生が薦めていた方法なのでしょうか?
私は霊光写真とかご霊紙といったものの実物を見たことがないのですが、正直言いまして、あまりそうい
ったものを欲しいとは思いません。それは、「霊光写真の効果」とか「ご霊紙の功徳」とか、そういった
ことをいちいち考えるのが嫌なのです。つまり、できるだけ単純な形で信仰を深めたいのです。さらに、
もっと率直に言いますと、そういったものは使っても使わなくても、少なくとも私に関しては多分何も変
わらないだろうと直感しています。

[お答え1]
霊光写真は、五井先生のご著書「神と人間」に載っております。白光真宏会では、お守り用として小さな
霊光写真を頒布しております。五井先生ご在世中は、聖ヶ丘道場の壇上の正面には、「白光」の額が一つ
かかっているだけでした。五井先生他界後、「白光」の額の左右に、「拡大した霊光写真」と「五井先生
のお顔のお写真」が飾られるようになりました。したがって、それに倣って自宅でも、そのように並べて
祈っている人もいるわけです。

さて、礼拝の対象についてですが、五井先生がお薦めになった定型の形式というのはありません。各人の
お好きな形式で、お祈りしていただければ良いのです。あなたの場合は「何もいらない」と思われている
のですから、何も置く必要はありません。白光真宏会の会員の方々は、五井先生の書かれたお軸を床の間
にかけたり、色紙、五井先生のお写真などを机の上に置いたりして、お祈りしております。お軸も色紙の
文字は、「神」「白光」「慈愛」などが多く、今ではほとんどが直筆ではなく、コピーされたものです。

神道では神棚、仏教では仏壇、キリスト教では十字架と、宗教によって、祈りの対象が異なりますが、生
長の家や白光真宏会は、教祖の書いた「ことば」を対象にしていることが特色です。生長の家の信徒の皆
さんは、「実相」と書いたお軸に向かって祈っている人が多いようです。そういえば、浄土宗系統でも、
「南無阿弥陀仏」と書かれたお軸に向かって念仏を唱える人が多いです。「ことばはすなわち神なりき」
と聖書にありますし、日本では言霊(ことだま)といって、ことばに霊が宿っていると考えられていまし
たから、神のみ心を現わす文字に向かって祈る形式が、自然に生まれたのでしょう。神棚、仏壇、仏像よ
りも、お軸や色紙やお写真のほうが、何よりも安価ですし場所をとらず、現在ではコピーもできるので、
このようなものを対象にして祈るという礼拝形式が、現代では一般的になると思います。

先ほども書きましたが、あなたの場合には、そうした祈りの対象の必要性を感じないのですから、祈りの
対象物を何も置かなくともかまいません。あなたの納得する方法で、お祈りなさって下さい。

[質問2]
霊光写真を南を向くように北側に置いて、それに向かって祈るということは、つまり人間は北側を向いて
祈るということですよね? 神社の御神前で祈るのならともかく、一般家屋の中では、いくら霊光写真が
あるとはいっても、南に背を向けて祈るのは、自然の摂理に反するように感じてしまうのですが・・・私
自身は、部屋に座布団一枚を敷いて、南側の窓に向かって座って祈るのが一番好きです。朝の光が窓から
差してくると、神界の陽気に包まれているようで、大変気持ちが良いです。

[お答え2]
東西南北どちらを向いて祈っても、上を向いて祈ろうと、下を向いて祈ろうと、それは各人のご自由でよ
ろしいのです。あなたの場合には、南側の窓に向かって祈るのが一番好きということですから、そうなさ
ったら良いのです。ただ、人によっては「祈りの対象はどちらでもいい、では落ち着かないから、方角を
どこかに定めて下さい」と私に尋ねてくる人が多いので、北側(あるいは西側)に守護霊(神仏)を置く
ように教えているわけです。浄土宗では、西方極楽浄土といって、西側に仏像を安置しております。

なぜかと申しますと、人間が朝日を見たり、南からの太陽の光を快く感じるように、守護霊も朝日や南か
らの太陽の光を見ますと、非常に快く感じるだけでなく、太陽の生命力あふれる霊的なパワーを吸収でき
て、その家に住んでいる家族を守る加護力が増すからです。すると、その家族の運命が、守護霊の霊的パ
ワーによって上昇してゆくのです。そのために、肉体人間の快さよりも、守護霊の快さのほうを優先させ
るわけです。太陽の西日というのは、午前中のような霊的パワーがなくなっていますので、守護霊を東側
に安置しますと、守護霊は元気が出ません。また、守護霊を南側において北向きにさせますと、守護霊は
さっぱり太陽の光を見ることができないために、加護力が衰えてしまい、その家の人を守る力も弱くなっ
てしまい、家族の運命も下降線をたどります。

家に安置された守護霊にとっては、太陽神から或る特殊な霊的パワーを吸収する必要があるのです。現実
問題として、東側や南側に窓がない部屋に住んでいる人もいますが、そのような場合でも、北側か西側に
守護霊を安置したほうがよいのです。但し、トイレの壁に接していて、トイレの水が聞こえてくるような
場所に、守護霊を安置してはいけません。また、こんな人はめったにいないかと思いますが、念のために
付け加えておきますと、場所がないからといって、テレビの上やオーディオや冷蔵庫等の電化製品のそば
に、守護霊を安置してはいけません。静かで落ち着く場所に安置するべきです。

くりかえしますが、ご質問者の場合は、祈りの対象を持たないようですし、南側の窓に向かって祈るのが
気に入っているようですから、もちろん、その方法でお続けになってよろしいのです。

皆様の天命が完うされますように


ご先祖さま、ありがとうございます。
No.1112 森島恒吉    1999/09/24 (金) 03:00 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

皆さん、コメントをいただき、ありがとうございます。

青空さんは、「世界平和の祈りは唯一最高の祈りである」という五井先生のお言葉を書き出して下さって
ありがとうございます。青空さんご自身が一番勉強になっていると思いますが、五井先生のご本を読まな
い人にも、たいへん参考になると思います。青空さんは、最初の頃は、以前学んでいた講師から植えつけ
られた変な癖がついていて、不安定な心境でしたが、今はようやく落ち着いて、私も一安心です。

むくちゃんの田舎のお墓は、静かな山の中にあるそうで、情緒があっていいですね。最近は、都会ではお
墓が足りなくて、お墓のマンションもあるんですよ。昔からの風習でお墓参りをなさっていても、ご先祖
はうれしいものです。ご先祖の霊を敬い、感謝することによって、ご先祖の霊は、現世にいる私たちの運
命が善くなるように働きやすくなるのです。
「ご先祖さま、ありがとうございます。世界人類が平和でありますように」
とお墓参りに行くたびにお祈りしておりますと、ご先祖さまは当然救われますし、守護霊として力を充分
に発揮できるようになります。墓石には、救世の大光明が宿り、周囲のお墓をも照らすことになります。
私たちの運命が善くなるのも悪くなるのも、守護霊の力が働くか働かないかで左右されます。ご先祖さま
に感謝し、守護霊さま、守護神さまに感謝して、生活してまいりましょう。

ご先祖さま、ありがとうございます。
皆さまの天命が完うされますように。


日本語の変遷と「世界平和の祈り」
No.1114 森島恒吉    1999/09/24 (金) 09:13 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

本田さん、ありがとうございます。本田さんは、若い頃「世界平和の祈り」のポスター(後にステッカー
という名称になりました)貼りを熱心になさった方だけあって、これをやると思いこんだら、ひたむきに
やる、とてもいい人ですね。本田さんのような人が、唯一会の主旨に賛同して、「世界平和の祈り」をご
一緒に祈って下さることは、頼もしく思います。

本田さんが書き間違えたという「天命が全うされますように」は、必ずしも間違いとは言えないのです。
意味から言ったら、それでも正しいのです。五井先生が初めに「世界平和の祈り」を作ったばかりのとき
は、「私どもの天命が全うされますように」だったのです。昭和20年代から昭和40年代にかけて、日本語
の謙譲語や敬語が急激な変化をして、「私ども」よりも「私たち」が一般的になったので、「私たち」に
変わったのです。「全うする」も、「完成する」「完了する」という表現が一般的になり、「完う」の文
字が使われるようになったのです。こうして五井先生のお作りになった祈り言も、時代の変化によって微
妙に修正されたのです。

会話の敬称では、人を呼ぶとき「さま」よりも「さん」が多くなりましたが、現在でもなお「さま」とい
う丁寧な表現は、すたれることはありません。五井先生は、親しい表現で「守護霊さん、守護神さん」と
お話しなさっていましたが、今にいたってもなお、「守護霊さま、守護神さま」という丁寧な言い方のほ
うが標準のようです。

世界の世という字を、五井先生は「十」に「せ」という毛筆体で書かれることが多かったのは、世界とい
うのは碁盤の目のように縦横十字になっていて、「十」は天と地の調和を表すことから、好んで使われた
ようです。この「世」も、横書きのときは、ふつうの「世」の文字に変わったりしています。

日本語は、これからも時代がたつにつれて少しは変化してゆくとは思いますが、もう「世界平和の祈り」
の表現は、変化しないでしょう。ちょうど良い時代に、「世界平和の祈り」が完成したわけです。

皆さまの天命が完うされますように


嫉妬や権力欲を持っていると神の試みにひっかかる
No.1130 森島恒吉    1999/09/26 (日) 21:45 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ねこりんさん、ご質問をいただき、ありがとうございます。

[質問1]〜先覚者に言われなくては、悟りは自覚できないのか〜
五井先生に「あなたは悟った」と言われないと、自分が悟ったか、否か、わからない、という心境ってあ
るのでしょうか?

[お答え1]〜悟った人は、自覚します〜
真実に悟った人というのは、「自分が悟ったか否か、わからない」ということはありません。先達の覚者
に「あなたは悟った」と言われるまでわからない、ということもありません。それでは、まだ悟っていな
いことになります。洗礼のヨハネに「あなたはキリスト(救世主)なり」と言われて、イエスはキリスト
としての使命を自覚したのですが、それは断食を伴う霊修行の始まりでもあったのです。イエスはそれか
ら御霊(みたま)に荒野(あらの)に導かれ、四十日の昼夜、修行の最終段階である厳しい数々の試み
を、たった一人の孤独な状態で受けることになります。イエスの周囲には、誰も人間はおりません。そし
て、試みに合格し、真実に悟ったイエスは、そこで初めて御霊の能力を得ることになります。

[参考付記]〜神の試みの一例(K講師の場合)〜
ところで、五井先生から「あなたは悟った」と言われたK講師の件ですが、K講師を尊敬している人が多
いようなので黙っていようと思ったのですが、五井先生はいろいろな理由で、たまに嘘をつかれることが
ありまして、信じたくない人は信じなくともかまいませんが、五井先生がK講師に「あなたは悟った」と
おっしゃったのは、この場合、試みの嘘であったのです。

私もK講師のことはよく知っているつもりですが、私はK講師を尊敬する気持ちは起きませんでした。K
講師は、表面上は昌美先生を立てていたのですが、陰では自分のごく親しい弟子には「昌美先生は悟って
いない」と度々口にしていたのです。この事実は、K講師のそばにいた私の友人から聴いたことですから
間違いありません。K講師を尊敬していた友人は、そのために昌美先生を嫌い、白光真宏会からも離れて
しまったのです。昌美先生から離れても、白光真宏会の人と一切縁を切っても、それはしかたのないこと
なのですが、私が悲しかったのは、その友人が「世界平和の祈り」までも捨ててしまったことです。これ
はK講師が、五井先生のみ教えを理解せず、「世界平和の祈り」から安易な「因果法則論」へと外れてし
まった結果と言えます。K講師は自分では悟ったつもりでいたのですが事実は悟っていなかったのです。

K講師には、口に出しては言いませんでしたが、昌美先生へのライバル心にも似た嫉妬心が燃えていたの
です。「昌美先生よりも私のほうが古いし、五井先生から『あなたは悟った』と言われたのに、五井先生
は昌美先生のほうばかりを可愛がっている。昌美先生がなによ。私は悟ったのよ。私のほうが偉いのよ。
白光真宏会の講師の中で、悟ったのは私だけなんだから。五井先生は、どうして私をもっと重要視して下
さらないのかしら。五井先生は、私のことを『悟った』とおっしゃってくれたのに…」と、K講師は昌美
先生に嫉妬していたのでした。それがしだいに、昌美先生の白光真宏会への訣別となっていったのです。

五井先生が誰それについて「あなたは悟った」とおっしゃったことでも、すべてを鵜呑みにして信じては
いけません。五井先生が、私について褒めた言葉を見つけても、それを鵜呑みにする必要はありません。
嘘かもしれないからです。では、何が真実で何が嘘か、五井先生の嘘をどうやって見極めたらよいのか。
それは「世界平和の祈り」の中に入ってゆきますと、おのずとわかってくることなのです。五井先生のお
っしゃった言葉を一度「消えてゆく姿」のフィルターを通しますと、真実がわかってくるのです。嫉妬心
や権力欲を持っておりますと、五井先生の嘘の試みに引っかかってしまいます。ほめられても消えてゆく
姿、けなされても消えてゆく姿とし「世界平和の祈り」を祈ることこそ、神の試みに克つ秘訣なのです。
(つづく)


世界が平和になるまで、個人も真の幸福はない。
No.1131 森島恒吉    1999/09/26 (日) 21:50 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ねこりんさんのご質問に、ひきつづきお答えいたします。

[質問2]〜悟った人は、幸福を得ているのか〜
森島先生は恐怖とか不安は、一切ないのでしょうか?

[お答え2]〜世界が平和になるまでは、悟った人にも真の幸福はない〜
私自身には恐怖や不安はありませんが、他人の恐怖や不安を感じる感覚はあります。また、自他の安全の
ために細かい気配りをするとか、明日に必要なものを今夜のうちに揃えておくとか、備えあれば憂いなし
で、車のタイヤがパンクしたときを予測して予備タイヤを用意しておく、子供の養育資金や老後の蓄えを
しておくなどは、本心から出てくる知恵で、恐怖や不安などの業想念で動いているわけではありません。

「あしたはあしたの風が吹く」とか「江戸っ子は、宵ごしの金は持たねえ」とか言って、神さまに全託し
ているわけでもないのに、明日のことを少しも心配せず、しかも借金を重ねて、その日暮らしをして生き
ている人がいますが、これは恐怖や不安が無いのではなくて、怠惰の業想念におおわれて、恐怖や不安の
想念が奥に引っ込んでいるだけで、単なる怠け者にすぎません。こういう人は、現実から一時逃れをして
いるだけですから、恐怖や不安の利息が増えてゆき、にっちもさっちもゆかなくなります。

神我一体になった人は、木石のように肉体感覚がなくなったり、無感情になるわけではありません。神我
一体は、自他一体観になることですから、自分一人超然としてはいられず、他人の悲しみ、痛み、苦しみ
は、他人事のように思えず、自分のことのように感じるようになるのです。但し、そうかといって、その
業想念に把われているわけではなく、相手の業波動に合わせながらも、相手の業想念を浄めつつ、相手に
光明を放射しているのです。

先日起こったトルコ大地震や台湾大地震のニュースを見ますと、災害にあった人たちの悲しみ痛み苦しみ
が、私の体に伝わってきます。皆さんの前では、なんともない顔をしておりますが、一人でニュースの災
害現場を見ているような時は、「かわいそうに…」と哀れな人々に同情して、胸がしめつけられるように
痛みます。ときには、涙があふれてきます。悟りますと自他一体観の心境になるのですから、他人の不幸
に無関心でいたり、世界各地の紛争などを見て、「われは真理の世界に住んでいる。われは一切、この世
界の業に関知せず」などと言って、超然として知らんふりをしているわけにはゆかなくなるのです。なん
とか一人でも早く救いたい、という気持ちになってくるのです。

いいかえますと、神我一体になり、悟った人といえども、世界が平和にならないと、自分のほんとうの幸
福は得られないのです。人類の恐怖や不安がなくならない限り、自己の肉体に人類の恐怖や不安の業波動
を受けずにはいられず、感じないわけにはいかないのです。「世界が戦争をしていようと、大地震の災害
にあっている人がいようと、不幸に苦しんでいる人がいようと、人類が神になるためのプロセスである。
神である私は、いかなる批判も下さず、それらに対して何ら一切関知せず」と一人超然としている宗教者
がいますが、その人は自分一人は人類の業想念に汚されたくない、という愛のない人であるのですから、
神人ではないのです。神人は、業想念の消えてゆく姿である、神の子が現れるプロセスと知っていても、
「われは一切関知せず」というような現実の人々の苦しみを無視した冷たい言い方はしないものです。

恐怖や不安を含めた人類の業波動は、すべて消えてゆく姿であることを知り、消えてゆくと共に、必ず神
の子の本心本体が現れてくることを知らねばなりません。業想念が現れたら、すぐに「世界平和の祈り」
の中に入れてしまうのです。そして常に「世界平和の祈り」の中に連続して投げ入れていれば、業想念は
存在していても、業想念が無い状態に近くなるのです。「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆけば、世界
は必ず平和になるのですし、それと共に個人の生活も明るい安心したものとなってゆくのです。恐怖や不
安は、「世界平和の祈り」の中に消えてゆく姿として「世界は平和になるという信念で世界平和の祈り」
を祈ってまいりましょう。世界人類が平和にならなければ、個人も真実の幸福は得られないのです。

皆さまの天命が完うされますように


私はシャイなんです。
No.1133 森島恒吉    1999/09/26 (日) 23:37 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

五井先生の「性」に関するご発言の問題ですが、私は恥ずかしがり屋なので、コメントを控えます。
五井先生のご本に、すでに書いてあることなので、私が今さら解説する必要もないと思います。

皆さまの天命が完うされますように


英語訳「世界平和の祈り」について
No.1137 森島恒吉    1999/09/27 (月) 15:51 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さんのご感想とご質問にお答えします。

[ご感想1]
May peace be in the world.は、May peace prevail on earth.に比べて、ひびきが弱いようなので
もう世界は平和に向って、かなり良い方向に進んでいるので、これからは、弱いひびきでも、大丈夫なの
かな?と思いました。別の表現をすれば、May peace preval on earth.は、より真理(神様)側にたっ
た表現であり、May peace be in the world.は、より人間側にたった表現であると感じました。

[お答え1]
このような論議は、インテリジェントな会話で楽しいですね。
唯一会会員には、詳しい経過と理由をお知らせしたのですが、ここでは簡単にお答えします。
私は、英語訳「世界平和の祈り」を新しく創るにあたり、次の英語版聖書を参考にいたしました。
"HOLY BIBLE"(New International Version) Zondervan Bible Publishers, Michigan.
"GOOD NEWS BIBLE"(Today's English Version) American Bible Society, New York.
同じ聖書で同じ英語でも、ずいぶん英語の表現が異なることに驚かされます。

神さまの立場で祈りますと、"May"を省きます。"Peace be in the World"は、「世界よ、平和であれ」
という意味になります。人間側から祈るために、"May"をつけているのです。イエスが神の立場から権威
をもって「汝に平安あれ」と祈ったときは、"Peace be for you"です。"for"の代わりに"to""with"と
いう表現もあります。"May"をつけないと、神さまの側に立っていて確かに強い表現でもあるのですが、
言われる立場にとっては威張ったように聞こえてしまうのです。五井先生が「世界よ、平和であれ」とい
う表現を定型の祈り言にしなかったのは、私たちが祈るには、それは不自然であるからです。

[ご感想2]
世界平和の祈りの前に、「神様お願いします」とつけると、より人間側の立場に近い表現であり、つけな
いと、神様側からの表現に近い、と思います。

[お答え2]
日本語の「世界平和の祈り」と同じで、英語訳スタンダードも「神様、お願いします」は省略されており
ます。これは日本語の「世界平和の祈り」と同じことで、「神様、お願いします」をつけようとつけまい
と、各人のご自由です。「世界平和の祈り」に全託する感覚をつかみたい人は、「神様、お願いします」
をつけたほうがよいと思います。想念波動変換原理を知っている人は、無理に最初から、自己を神様の立
場に立たせる必要がないことを知っているはずです。自己の内なる神が、世界を平和にする、という気持
ちで「世界平和の祈り」を祈っても、それはご自由ですが、私はあくまでも自然な形を重視しており、肉
体人間の立場から祈ることを勧めております。不思議に思われるでしょうが、そのほうがかえって早く、
神の子を自覚できるようになるのです。

[ご質問]
これらの表現の変更は、五井先生という、神様の(強い)光がそのまま現れたような方が、現在は地球上
に(肉体人間として)ご存命していないことと、なにか関係あるのでしょうか?

[お答え3]
そういうこととは関係ありません。唯一会の英語訳「世界平和の祈り」の基準として、新しく創ったので
ありまして、WPPSとグローバルリンクなどで合同で祈る時には、今まで通りWPPSの祈りの方式す
なわち"May Peace Prevail on Earth"に合わせて祈ります。日本語では、同じ「世界人類が平和であり
ますように」であるのに、英語訳の表現が違うからといって、心を合わせないのでは狭量すぎます。

唯一会の基準としては、"May Peace be in the World"を用いますが、今まで通り、WPPSと同じ表
現の"May Peace Prevail on Earth"をお使いになってかまいません。この二つは二元論のような矛盾し
た原理ではなく、日本語入力の方式として、JISキーボードとNICORAキーボード(親指シフト)の2方式
があるように、ほぼ同じ意味であるのですから、祈り言も、お好きなほうを選んだらよいと思います。

"May Peace Prevail on Earth"は、30年間も用いられてきて、すっかり定着した感がありますが、言い
かえると、私は30年間、「この英語訳で、ほんとうに良いのだろうか?」と考えつづけてきたのです。た
しかに、キリスト教の思想が色濃い欧米で、聖書に近い表現として、欧米人には、これでよいかもしれま
せん。しかし、日本人の私にとっては、欧米人にはぎこちなく聞こえてもいいから、原文の直訳にもっと
も近い英語で祈りたい、と強く思いつづけていたのです。このことは、日本人の私だけでなく、日本語に
堪能な知識人のアメリカ人の中にも、私と全く同じ考えの人もいるのです。ともあれ今後、唯一会の英語
訳「世界平和の祈り」の基準として、"May Peace be in the World"の英語訳を用いてまいりますので
よろしくお願いいたします。

皆様の天命が完うされますように


五井先生の教えの一番肝心かなめのところ
No.1145 森島恒吉    1999/09/28 (火) 00:00 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、楽しいご意見をありがとうございます。

[ご意見]
五井先生の講話集を何冊か読んでも、"神様にすがりなさい"というような言葉は、見つかりましたが、
「神様お願いします」の表現は、見つけることが、できませんでした。

[お答え]
青空さんは、白光真宏会で、古くからいろいろと学んでいるのに、五井先生が「世界平和の祈りは、唯一
の祈りである」と書いていたのを、私が教えるまで知らなかった。私に言われて、五井先生のご本を読み
直したら、私の言った通り、「世界平和の祈りは唯一の祈りである」と五井先生が頻繁に説いていること
を知って驚いたでしょう。それと同じで、青空さんは、今まで一番肝心なことを教わっていなかったので
す。青空さんに、五井先生の教えの真髄を教える人がいなかったのです。青空さんのように有名な国立大
学出身で頭が非常にすぐれているのに、良い指導者に会わないと少しも芽が出ないんですね。

青空さんに、新しい課題をあげましょう。青空さんは、五井先生が「神様、お願いします」と書いたり話
したのを知らない、とおっしゃっていますね。五井先生のすべての講話集から、「神様、お願いします」
という言葉が、ほんとうにあるか、ないか、もう一度よく探してごらんなさい。そして、もしあったら、
この掲示板に、その箇所を抜粋して下さい。楽しみにしております。

それから「想念波動変換原理」については、青空さんの現在の解釈とはまるで違います。過去のログに詳
しく書いた私の法話が載っております。わからなかったら、ケントさんに尋ねて下さい。

皆様の天命が完うされますように


現代の祈り言は「世界平和の祈り」
No.1148 森島恒吉    1999/09/28 (火) 09:17 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、ご意見をありがとうございます。

[青空さんのご意見]
「神様、お願いします」の言葉は、何個所か見つけましたが、
「神様、お願いします、世界人類が平和でありますように」の言葉が、みつからないのです。

[私のお答え]
「神様、お願いします。世界人類が平和でありますように」
「世界人類が平和でありますように。神様、お願いします」
という祈り方が、五井先生の講話集に必ずあります。賭けてもいいよ。(^_^)
五井先生のすべての講話集に、この祈り方が一つも無かったら、そうだなあ…あなたにラーメンと餃子を
ごちそうしてやるよ。そして、もし、あったら、唯一会の集会に、一生休まずに来なさいね。

祈りは、キリスト教だけでなくて、神道でも仏教でも、言葉や表現は異なっていても、祈りには違いあり
ません。前にも少し書いたけれど、「神様、〜でありますように」という日本語での祈りの表現は、現代
語訳聖書が日本で出版されて以来、一般的に多く用いられるようになってきたと思います。それ以前は、
日本の祈りといえば、「神様、〜たまえ」という祈り方が多かったのです。

日本語は、この百年間で大きく変化したわけですね。そして現代語が定着した段階で、「世界人類が平和
でありますように」が生まれたのです。現代語の祈り方ですから、古語の祈り方と比べて、若々しいです
ね。だから、かっこいいし、若者向きでもあると思います。「世界平和の祈りは、もう古い、今は、世界
は平和である、と真理を宣言する時代だ」なんてことを説いている人がいますが、それは行き過ぎであり
まして、「世界平和の祈り」はまだ生まれたばかりであり、今これから大きな光明力を発揮してゆくので
す。「世界人類が平和でありますように」…なんて美しい言葉でしょう。こんな美しい言葉を日々祈るこ
とのできる私たちは、ほんとうに幸せですね。「世界平和の祈り」は大光明を今も放っているのです。

皆さまの天命が完うされますように


「神様お願いします」について
No.1158 森島恒吉    1999/09/29 (水) 23:46 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、ご感想をありがとうございます。

[ご感想]
五井先生が、何か理由があって、あえて「神様お願いします」をつけなかったことも、考えられますの
で...たとえば、直接関係がないことですが「神様お願いします」を「世界平和の祈り」の前につけま
すと、たぶん、祈りのステッカーは、ほとんど、どこの家へも貼らせてもらえませんよね。

[私のお答え]
過去の別のログも読んでいただければ、おわかりと思いますが、五井先生の「世界平和の祈り」には、ご
承知のように「神様、お願いします」という言葉はありません。唯一会の英語訳「世界平和の祈り」基準
にも「神様、お願いします」という言葉はありません。

その理由は、過去のログに、私は書きましたから、読み返して下さい。

「五井先生は、『世界平和の祈り』に『神様お願いします』をつけなかった」と青空さんは、断定的にお
書きになっていますけれども、なぜ、そんなに断定的に決めつけるのでしょうか? 再度、申し上げます
けれども、五井先生の講話集には、「神様、お願いします。世界人類が平和でありますように」という祈
り方を、五井先生が教えているお話が、頻繁に出てまいります。

だから、前にも言ったでしょう。もし、なかったら、ラーメンと餃子をごちそうしてもいいって。それで
も信じないの? それじゃあね。ラーメンと餃子のほかに、梅トロの手巻き寿司とウニと赤貝のお寿司を
つけてあげるよ。グダグダ理屈を言っていないで、早く、五井先生のご本を調べなさい。 

ケントさんは、「神様、お願いします」と書いていますが、誤解しないでほしいのは、私はその祈り方を
すべての人に「やりなさい」と言っているわけではないのです。求めていない者に教えても、豚に真珠、
猫に小判であるからです。

皆様の天命が完うされますように


「神様、お願いします」は今後、秘密にします。
No.1159 森島恒吉    1999/09/30 (木) 00:08 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

妙好太郎さん、ご感想をいただき、ありがとうございます。
妙好太郎さんが「森島先生が『神様、お願いします』という言葉を付け加えるように指導されている…」
とお書きになっているのを読んで、「ああ、そうか、読者の中には、そんなふうに誤解されている人が、
いるんだ」とわかりました。

私は、誰に対しても「神様、お願いします、という言葉を付け加えなさい」と教えてはいないのです。
唯一会の集会の祈りでは、「世界平和の祈り」だけです。特別な深い質問があったときに限り、秘法とし
て特別に教えていることなのです。それが公開されたことにより、理解できない人が出てきたわけです。

ケントさん、「神様、お願いします」の祈り方は、これからはこの掲示板に書かないで、秘密にしておき
ましょう。せっかく親切に教えても、理解できない人からは、ケチをつけられるからです。私も、今後や
たらに教えないことにします。唯一会の皆さんも、そのつもりでお願いします。

皆様の天命が完うされますように


五井先生の教えは他力易行道です
No.1166 森島恒吉    1999/09/30 (木) 13:50 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、早く五井先生のご本から、「神様、お願いします。世界人類が平和でありますように」の箇所
を見つけてくださいね。なかったら、ハワイ往復旅行の航空券をプレゼントするよ。(^_^)

「五井先生のお言葉ならば信じるけれど、森島先生のお言葉は、まだ半信半疑です」という人が結構いる
んです。そのために、私は自分の言葉で書けば楽なんだけど、五井先生のお言葉を書き出しては説明して
いたんです。そうすると、やっと信じてもらえるんです。ところが、おもしろいことに、そうしていると
今度は、「五井先生のお言葉でなく、森島先生自身のお言葉で書いて下さい」と言う人が出てきたんです
ね。そう言われたから、自分の言葉で書いていると、またまた「そんな教え、五井先生のご本のどこに書
いてあるんですか?」と質問する人が出てくるんです。

ですから、できれば、五井先生のすべてのご本を、少なくとも十回ほどくりかえし読んでから、私に質問
してほしいんです。そうしないと五井先生が、私の言っていることを、ほんとうに書いているか、書いて
いないか、だけで時間が費やされてしまうのです。そんな基本的なことを、一々私が教えていたら、忙し
くてなってしかたありません。それは各自で勉強したり、先輩に聞いたりして、探してほしいのです。

[青空さんのご意見1]
森島先生が、神様に頼らせるような、指導をしていらっしゃると、私個人的には、感じたからです。

[私のお答え1]
何をおっしゃっているんですか。神様に頼って、何が悪いんですか? もちろん、依頼心と全託心とは違
います。依頼心というのは、自分のなすべき責任を果たさず、自分でやるべきことも他人に頼り、他人に
依存して生きようとする業想念です。それに対して、全託心は、神様に頼る心で、これは本心であり、正
しい行為です。自力では何事もなし得ない、と知った人が、神様に頼り、全託するわけです。私は、神様
に頼りきりに頼っています。私は、大地に頼っています。私は空気に頼り、水に頼っています。自分のこ
とは自分でやりますし、自分のことは自分で責任を果たしますが、自分一人でできないときは、他人に頼
ることもあります。他の人々の助けを得なくては、私たちは生きてはゆけません。私たちは、電気を作る
人に頼り、コンピュータ会社に頼り、食物を毎日供給してくれるスーパーマーケットに頼っています。人
から助けを借りる時には、素直に助けを借りて、よいではありませんか。

「私は、神様に頼らず、人にも頼らず、自力で生きるのだ」などという傲慢な人の教えを、まともに聞い
てはいけません。神様に頼らずに、私たちは生きてはゆけません。神様に頼らせて、何が悪いのでしょう
か。現在の地球は、人間が自分勝手に行動した結果、破滅寸前に至っています。もう、人間の自力では運
命を善くすることは不可能なのですから、素直にその現実を認めて、神様に頼って、神様に生命を差し上
げて、「神様のみ心のままに、人類の運命を作り直して下さい」と神様に運命をいただき直す必要がある
のです。私たちの生き方は、自力行ではありません。神様に頼る他力行であるのです。赤ちゃんが母親の
胸に抱かれるように、素直に神様のみ心に任せるのです。母親が抱っこしようとしているのに、赤ちゃん
が手足をバタバタさせて暴れたら、母親の胸から落ちてしまいます。神様に素直にお任せするのです。
 
青空さんは、白光真宏会で以前学んだ講師たちの影響を受けているのです。青空さん自身の考えというよ
りも、白光真宏会の講師の中には、今の青空さんと同じ考えの人がいるのです。五井先生や私の教えてい
ることは、他力易行道の教えですから、神様に頼りたくない自力の人は、他の宗教家に学んで下さい。

[青空さんのご意見2]
白光誌の裏表紙や、五井先生のご本の中に記入してある、正式な祈り方には、「神様、お願いします」は
つけてありません。

[お答え2]
そんなことは、あたりまえのことで、言われなくてもわかっています。「世界平和の祈り」に統一するこ
とができない人のために、「神様、お願いします」という意味が含まれているということを、五井先生も
私も解説しているのです。その意味がわかったら、省略して良い言葉であるのです。教科書と参考書とは
違うに決まっているではありませんか。参考書を読んで、教科書の理解が深まるように、私の解説を読ん
で、パッとわかる人がいるのです。そうした人々のために、説明しているのです。

とにかく早く、五井先生の講話集から、「神様、お願いします。世界人類が平和でありますように」とい
う五井先生のお言葉を見つけなさい。そうすれば、青空さんのお考えはコロリと変わるはずです。私の言
うことは信じられず、五井先生の言う事ならば信じる、というならば、ご本を読み直すことです。

皆様の天命が完うされますように


祈りと願い事、念力と信念の違いについて
No.1169 森島恒吉    1999/10/01 (金) 02:03 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

前にもくりかえし書いていることですが、途中から読み始めた方のために、祈りと願い事、念力と信念の
違いについて簡単に書いておきましょう。

五井先生は、祈りと願い事、祈りと念力の違いについて、たびたび書かれています。願望成就といって、
自分の欲する事物、欲する環境をイメージして、強く念じれば叶えられる、という教えを、宗教の祈りと
同等に説いている宗教者がおりますが、そうした宗教者は、神を冒涜する邪教の宗教者と言わざるをえま
せん。それは念力による願い事でありまして、目標が実現したとか、願いが叶えられたとはいいましても
神が叶えたものではなく、自己の念力によって達成した成功にすぎません。良い目標を立て、良い願望だ
けを念じていたとしても、それは自己の欲望を増長し業想念に執着させることになり、真の幸福を得るこ
とはできないのです。わがままといわれる小我が強くなってゆくだけで、神性顕現から遠ざかるのです。

「なくてならぬ物は与えられる」これが真理であるのです。神は愛であり、神はあなたに必要な物をとっ
くにご存じなのですから、守護の神霊に自己の天命の完うを祈っていさえすれば、自己の天命を完うする
ために必要な自分は、すべて与えられ、整えられてゆくのです。ですから、自己の願望をイメージして、
「叶えられる、叶えられる」と念じる必要はないのです。少しも力まずして、少しも念じなくとも、自己
の天命を完うするために必要な自分が与えられるのです。これが祈りの力であるのです。

それでは「神様、お願いします。世界人類が平和でありますように」という祈り方は、「お願いします」
という言葉を使っているから、願い事であるかというと、そうではなく、これは願う想いが祈りへと昇華
された言葉であるのです。「神様、お願いします」と言っても、その後につづく言葉が、「世界人類が平
和でありますように」という言葉である場合は、これは願い事ではなく、祈りとなるのです。その後につ
づく言葉が、「お金が欲しい、病気を治したい、こんな物が欲しい、こんな環境が欲しい」という言葉で
あった場合、それは願い事になります。つまり、同じ「神様、お願いします」でも、目標によって、祈り
になったり、願い事になったりするのです。

しかし、現世利益を欲しない人はいないと思います。そこで、現世利益を欲しながら、それを単なる願い
事にしないで、祈りへと昇華するには、神に願い事を言った後で「神様のみ心のままになさしめたまえ。
世界人類が平和でありますように」と「世界平和の祈り」の中へ、願い事を託してしまうことです。この
方法ならば、現世利益を欲する人でも、やさしく「世界平和の祈り」に全託できると思います。そうして
いるうちに、願い事や現世利益はどうでもよくなって、神への真実の感謝が湧いてくるのです。

また、神性を顕現する、という神のみ心にかなった目標を持って、「私は神である」と唱えれば、それは
祈りになるかというと、これは祈りとはならず、念力になってしまうのです。人間が神性を顕現し、神我
一体になるためには、それなりの順序手段が必要でありまして、その順序手段を経ないで、目標が実現し
た結果をイメージして、「私は神である、私は神である」と自力の思念で念じても、そうやすやすと人間
は神性を顕現できないのです。人間が神性を顕現するという目標は、洋服を買ったり、宝石を買ったり、
旅行するような簡単な目標ではないからです。神性を顕現するには、業想念の存在を浄めなくてはなりま
せん。業想念を浄めることを考えないで、肉体人間の思念の力だけで達成できるほど甘くはありません。

「私は神である」と思念してから、五年たっても十年たっても、いっこうに神になる気配がありません。
すると、だんだん焦ってまいりまして、周囲の人々にも「私は神である」と宣言している以上、早く神に
ならねばなりません。しかし、現実には、まだ神にはなれません。想念の法則によれば、神になれるはず
なのに、いったいなぜ、私は神になれないのか、早く神になりたい、と焦燥感が出てくるのです。そうし
ますと、「私は神である」と宣言する言葉を、力んで唱えたり、大声で叫んで唱えたりと、ヒステリー状
態になってゆくのです。つまり、真理の言葉を宣言するという行法は、力んだ念力へと変質してしまうの
です。目標が正しくても、その方法が間違っておりますと、このように念力になることがあるのです。念
力で太陽は創れないように、念力で神性を顕現することはできません。念力は、あくまでも業想念の力で
あるからです。念力には、限界があるのです。

念力とよく似た言葉に信念がありますが、信念の言葉とは、「必ず善くなる」「世界は平和になる」とい
うように「成る」という言葉でありまして、未来に成る、と信じるのですから、自然で力むことがありま
せん。信じれば信じるほど、力みが消えてゆきます。ところが、「私はすでに神である」「世界はすでに
平和である」という真理の言葉の場合には、口でそう宣言し、紙に書いても、実際には、唱えている人自
身が、まだ神にはなっていないし、現実の世界は平和にはなっていないのですから、言行が一致しないこ
とに自己の本心が許さず、早く真理の言葉を現わそうと焦るわけです。そして、自己矛盾の苦しさから、
偽善者になって、神人のふりをするようになるのです。「私は神である、と五年間も唱えているのに、ま
だ神になれないのか?」と言われることを恐れて、自己は神人のふりをする偽善者になり、同じ行法をし
ている弟子には、「あなたは神になった」と神人の名誉を与えるわけです。神人を増やしているのではな
く、「自分を偉く見せたい」という名誉欲や虚栄心を持った偽善者を増やしているにすぎないのです。

「世界平和の祈り」を守護の神霊に祈っていれば、自己の天命を完うするために必要な事物は、自然に与
えられるのですし、いつしか自己の神性も顕現され人類の神性も顕現されて、世界は平和になるのです。
祈りは、神の力と一体になるのですから、願い事や念力による願望成就などとは比べものにならないくら
いの大きな現世利益が与えられるのです。「世界平和の祈りを祈っていれば、自分に必要なものはすべて
与えられて、自分は幸福になり、世界は平和になるのだ」という信念こそ、必要であるのです。

「世界平和の祈り」にお任せする他力想念波動は、守護の神霊のみ心の中で、神我一体の最強の絶対力へ
と自動変換されるのです。「世界平和の祈り」の中へ、すべての想念を統一して投入する方法として、
「神様、お願いします」という言葉が、その際に神秘的な効果を発揮するのです。それを習慣化しますと
神経細胞のルートができるように、黙っていても、すべての想念が「世界平和の祈り」の中へと自動的に
吸い込まれてゆくようになるのです。「世界平和の祈り」を祈れば、あなたに必要なすべての物質や環境
は、必要な時に与えられます。「世界平和の祈り」を祈っていれば、無理なくあなたは神性を顕現できる
ようになります。「世界平和の祈り」を祈れば、必ず世界は平和になるのです。「世界平和の祈り」の絶
大な光明力を信じ、「世界は平和になる」という信念で「世界平和の祈り」を祈ってまいりましょう。

皆様の天命が完うされますように


英語訳「世界平和の祈り」に賛同者現れる!
No.1184 森島恒吉    1999/10/02 (土) 23:22 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、"May Peace Prevail on Earth"と"May Peace be in the World"の英語の祈り言の比較に
ついて、オーストラリアから来た英会話の先生のご感想を紹介して下さって、ありがとうございます。

>MAY PEACE PREVAIL ON EARTH.
>この表現は古い感じがする。
>あるいは、本の中の文語の感じがする。

>MAY PEACE BE IN THE WORLD.
>この表現は新しい感じがする。
>あるいは、話し言葉のような感じがする。
>英会話の先生は、「こちらの表現のほうが好きだ」といっていました。

やはり、私の思った通り、外国人の中にも、"May Peace be in the World"のほうを気に入って下さる
人がいることを知って、うれしく思います。ありがとうございました。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


祈りの合言葉による世界平和運動
No.1193 森島恒吉    1999/10/06 (水) 00:06 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

むくちゃんのように軽いおしゃべりだけでも、いいんですよ。
「世界人類が平和でありますように」と一言祈ってから発言する、この掲示板の合言葉の習慣は、とても
いいですね。宗教宗派、民族国家、主義主張を超えて、「世界人類が平和でありますように」の合言葉の
もとに心を一つにゆこう、という祈りの合言葉による世界平和運動は、着実に私たちの心を一つに調和さ
せて、世界平和実現への大きな力となっております。

世界人類が平和でありますように
世界人類が平和でありますように
世界人類が平和でありますように

この「世界平和の祈り」が、自然に私たちの神性を開顕させ、世界を平和にしてゆくのです。

皆様の天命が完うされますように