森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


曲がった道を歩きながら、浄めてゆこう。
No.1328 森島恒吉    1999/10/18 (月) 13:30 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

むくちゃん、コメントをありがとうございます。むくちゃんのコメントを読んで、私が初めて新田道場の
個人指導で五井先生と向かいあったとき、「君は、真っ直ぐだね。真っ直ぐな性格をしている」とほめら
れたことを思い出しました。

その日の午後にあった五井先生のご講話。

「この世の道は曲がっているでしょう。道が曲がっているから、真っ直ぐに歩こうとしても、真っ直ぐに
は歩けない。だから、曲がった道を同じように曲がりながら、その道を浄めてゆけばよいのです。」

皆様の天命が完うされますように


五井先生は生長の家を、なぜ批判したのか?
No.1374 森島恒吉    1999/10/23 (土) 12:14 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ヤスシさん、はじめまして。ご意見をありがとうございます。メールアドレス記入については、たくさん
の友人と知り合える反面、思わぬいたずらのメールが迷いこむこともあります。プライバシーを守るため
に、二回目からの投稿には、メールアドレス記入を省略なさって結構です。

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ご意見1の前半の疑問については、「生長の家の関係者が多かった」というよりも、資料が手元にないの
で事実は知りませんが、五井先生のお話によりますと、谷口先生やその奥様が、五井先生に対する悪口を
その頃の生長の家の機関誌に載せたのだそうです。それに対して、五井先生は怒っていました。

しかし、五井先生ほどの宗教者が、だからといって、谷口先生やその奥様に対して、批判を言い返さなく
てもいいではないか、といううがった見方もあります。私も、最初は、そう感じました。五井先生は「宗
教宗派を超えよう」と一方で説いているのに、こんなに生長の家に対して強く批判してしまったら、あと
で生長の家と仲良く手を結べなくなるのではないか、とも心配しました。

五井先生の生長の家に対する強い批判は、正しかったのか、あるいは誤っていたのか、この判断は人によ
ってさまざまですが、五井先生は「こんなに烈しい批判をするのも、谷口先生に恩があるからなのだ」と
説いているとおり、批判は必要であった、と私は思います。これは私が五井先生の弟子であるからで、生
長の家の信者さんから見れば、また違った見方となることでしょう。

それよりも大事なことは、五井先生が生長の家や谷口先生に対して批判をした、という「批判」の言葉だ
けを見るのではなく、「批判の内容」を読み取るべきではないでしょうか。批判するのが、正しかったの
か、誤っていたのか、だけを見るのではなく、なぜ批判したのか、どの点について批判したのか、いった
いどんな批判だったのか、と批判の中身をじっくりと検証するべきだと思うのです。

五井先生の生長の家に対する批判を、私なりにまとめてみますと、「不完全な実相論」と「自他を責め裁
く心の法則(想念の法則)」という矛盾した二元論に対する批判が、主な批判であったと思います。

皆様の天命が完うされますように


白光真宏会・WPPS・五井平和財団の各々の働きについて
No.1375 森島恒吉    1999/10/23 (土) 12:22 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ひきつづき、ヤスシさんのご意見にお答えします。
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ご意見2の「白光真宏会の自己矛盾」については、私もまったく同感なのです。

白光真宏会の理事長であった瀬木庸介氏が、白光真宏会は他の宗教を排さないとはいえ、なにゆえ、東本
願寺で、お坊さんの読経によって葬式を行なわなくてはならないのか。もちろん、これはご本人の自由で
あって、どんな宗派で葬式をやろうと、白光真宏会の方針としては自由であるのです。ご本人のいろいろ
な事情もあるでしょう。それにしても、白光真宏会の理事長であった人が…、と私はまた思うのです。

私が他界した時は、私の葬式は、五井先生のように「世界平和の祈り」だけでやります。これほど「世界
平和の祈りは唯一最高の祈りである」と説いている唯一会の会長が、他界したら「世界平和の祈り」をや
らずに、読経や祝詞でお葬式をやったら、世間に笑われるし、弟子に対して恥ずかしいです。

尚、「世界平和の祈りによるお葬式」とは、具体的にどのような形式かといいますと、神道に近い形式で
すが、仏教のようにお香を焚いたり、ろうそくを灯したり、お酒、お水、お榊などのお供物を供えること
はありません。五井先生のお葬式の時には、五井先生の大きなお写真の前に、白と黄色の菊の花が、五井
家の家紋を彩っていました。もちろん、他界された五井先生に捧げるお祈りも、「世界平和の祈り」だけ
でした。五井先生への供養の方法は、「世界平和の祈り」ただ一つだけなのです。シンプルがお好きな五
井先生らしく、感動したのを覚えています。シンプル・イズ・ビューティフルでありまして、私も、五井
先生のように、最後までシンプルで美しく生きたいものです。

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ご意見2の後半にある「ポスターを張るとき、この働き、会は宗教ではない、といって張るけど、白光真
宏会はれっきとした宗教団体である。どうして正々堂々と自分の教団やその教えを述べられないのでしょ
うか? 」という疑問は、これもまた、しごく尤もなご意見で、反論する余地はありません。

「世界平和の祈り」のステッカーを家々に貼らせてもらう時、「祈りによる世界平和運動推進本部」とい
う名称で貼らせてもらうことが多かったのです。白光真宏会という一つの宗教団体の名を出すと、家の玄
関先で宗教論議が始まって、宗教宗派を超えて「世界平和の祈り」を祈ってもらいたい、という純粋な平
和運動の気持ちが伝わらないと考えたからですが、見る人によっては、「どうして正々堂々と自分の教団
やその教えを述べられないのか?」と思うわけです。そう思われても致し方ありませんでした。

しかし、現在は「世界人類が平和でありますように」の祈りと「世界各国の平和の祈り」を普及するワー
ルド・ピース・プレヤー・ソサエティ(WPPS/本部ニューヨーク)と五井平和財団(本部東京)が設
立されて、宗教活動と平和運動との区別が、はっきりつくようになりました。今は、「世界人類が平和で
ありますように」のステッカーを家々に貼らせていただく時には、五井平和財団の平和運動としてパンフ
レットを渡すようになっております。以前は、白光真宏会という宗教団体だけで、「平和運動の組織」と
いう実体がなかったのですが、現在は五井平和財団という実体がありますから、「世界人類が平和であり
ますように」という祈り言を、宗教宗派を超えた平和運動の祈り言として広めやすくなったと思います。

尚、唯一会は、WPPSや五井平和財団への協力を惜しみませんが、「守護の神霊への感謝の祈り」を含
む「世界平和の祈り」の全文を実行したいので、一つの宗教団体として在りつづけます。

皆様の天命が完うされますように


古い実相論と新しい実相論
No.1376 森島恒吉    1999/10/24 (日) 02:55 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

富士山に冠雪がつもり、白銀に輝くようになってきました。「冬の富士山が好き」という人が多いのです
が、その理由はなんといっても、白い雪におおわれた富士山は、霊峰という雰囲気がするからでしょう。
富士宮側から見た富士山は、西日が富士山にあたり、橙色から紫色へと変化してゆきます。

さて、このところ法友の皆さんと話していて気がついたことは、「実相論には二つある」ということを知
らない人が多い、ということでした。このことは何度も詳しく書いているのですが、いまだ理解してもら
えないのは長い文章のためか、読解力がないためか、はたまた私の解説が下手なためなのでしょうか。

今日は、あまり何もかも話さないで、ほんの少しだけ短くお話することにしましょう。実相論は、一つだ
けではなくて、古い実相論と新しい実相論があるのです。言いかえますと、批判のできない実相論と批判
のできる実相論とがあるのです。前者は、生長の家の実相論であり、後者は五井先生の実相論です。

「実相論は、一つしかない」と思いこんでいるから、五井先生の実相論を見出せないのです。実相論は二
つあるのです。「悪は無い、過ちは無い、不幸は無い、失敗は無い、病気は無い」という現実の悪を無視
する実相論と、「悪は消えてゆく姿、過ちは消えてゆく姿、不幸は消えてゆく姿、失敗は消えてゆく姿、
病気は消えてゆく姿」と現実の悪を暫定的に認めつつ否定してゆく実相論の二つがあるのです。

五井先生の実相論とは、善は善と認め、悪は悪と認め、正しいことは正しい、誤りは誤り、不幸は不幸、
病気は病気、と認めます。そして、「消えてゆく姿」という言葉で業想念を否定してゆくのです。このよ
うな業想念否定法は、現実に矛盾しませんから、正直に生きられます。現実の誤りを批判することができ
ます。なおかつ、理想にも矛盾せず、業想念への把われから自然に解放され、理想へと到達できます。

古い実相論とは、真理に片寄った真理偏重実相論であり、現実の悪を無批判に「無い」と言っているので
すが、それは無視しているだけで、ほんとうに「無い」と思っているわけではなく、思えもしないのです
から、現実の悪は無くなることがないのです。新しい実相論は、悪の存在を認め、一度それをつかんで、
神のみ心の中へと入れて消していただくのですから、確実に悪は消えてゆくのです。

「悪は無い」と否定する実相論と、「悪は消えてゆく姿」と否定する実相論の二つがあるのです。この二
つの実相論を、混ぜ合わせて説いている宗教者もいますが、この二つの実相論は、同じものではなくて、
まったく異なった実相論であるのです。今日は、「二つの実相論がある」ということだけでもいいから、
覚えることにしましょう。「人間は神の子である」という実相論にも、二つの実相論があるのです。

皆様の天命が完うされますように


菩薩心で行なう
No.1382 森島恒吉    1999/10/24 (日) 18:26 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ケントさん、"PEACE WORLD"に書いて下さったAlexさん、Kominatoさん、ありがとうございます。しば
らく"PEACE WORLD"のほうがコメントがなく、寂しかったのですが、Alexさんに書いていただいて、うれ
しいです。それに対して、ケントさんとKominatoさんにご返事を書いていただき、ありがとうございまし
た。Kominatoさんは、イタリアに住んでいたこともある才媛で、ケントさんや彼女のような高い霊性と知
性を兼ね備えた人が、唯一会にいて下さることは、心強い限りです。

ピースポールを人に勧めるのは結構なことですが、何かにつけて「あなたの功徳になるから」という理由
をつけられると、純粋な人は、かえって嫌らしく感じて、やる気をなくしてしまうものです。だけど、白
光真宏会のご婦人には、そのように古い仏教寺院の現世利益の教えと結びつけて、自己の幸せのために自
己の功徳を積もう、とやっている人が案外多いものです。

本来は自己の功徳を積むためにピースポールを立てるのではなくて、「世界を平和にしよう」という純粋
な菩薩心でピースポールを立てるべきであるのです。「徳を積もう」と思って積んだ徳は、すでに無為の
徳ではなく、上徳とはいえません。私は、「功徳になるからやりなさい」というような言い方はせずに、
あくまでも、「世界を平和にしたい」という各人の自発的な菩薩心でやっていただきたい、と思います。
もし、自宅にも知人宅にも、ピースポールを立てる場所がなかったら、無理に立てる必要はありません。
「世界平和の祈り」を祈ることが基本でありまして、ピースポールを立てることのできる人は立てたらよ
いし、立てることのできない人は、別の方法で「世界平和の祈り」を広めたらよいのです。自分にできる
範囲で「世界平和の祈り」を広めて下さい。自分にできないことは、やらなくてもよいのです。

皆様の天命が完うされますように


お祈りするピースポール
No.1389 森島恒吉    1999/10/26 (火) 16:23 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

むくちゃん、お気づかい、ありがとうございます。高さ3センチの丸い台の上に、身長8センチのキティ
ちゃんがのっています。電源を入れると、「ハロー」と音声で挨拶します。そして、やはり音声で「今日
もいい日でありますように!」とお祈りしてくれるんですよ。お祈りの言葉が入っているのがうれしい。

自動車のホンダが、人間の形をしたロボット開発製造を始めましたが、「自動車の次に大規模産業となる
のは、ロボット産業だろう」とホンダの社員が話していました。私も、そう思いますね。ソニーがロボッ
ト犬を発売しましたら、すぐに売り切れてしまいましたように、これからは多くのロボットが開発され、
日常生活に寄与するさまざまな形のロボットが現れてくることと思います。

たしか、以前にどこかのお寺で、ロボットがお経を唱えている様子を、テレビで見たことがありますが、
ロボットが「世界平和の祈り」をくりかえし祈ってくれると、人間は楽ですね。パソコンのスケジュール
と音声を組み合わせれば、決めた時刻に「世界人類が平和でありますように」とパソコンにしゃべらせる
ことはできますが、ロボットが、「世界人類が平和でありますように」と唱えたほうがリアルですね。

目覚まし時計に、「世界人類が平和でありますように」という音声を吹き込んで、好きな時間に「世界人
類が平和でありますように」と唱えさせる方法もあります。ピースポールの次は、ピース・クロックだろ
うか。世界中の時計が、午後3時になると、一斉に「世界人類が平和でありますように」と唱えたら、お
もしろいだろうな。ピースポールに、太陽電池と音声装置を組み入れて、迷惑にならない昼間の定刻に、
ピースポールが「世界人類が平和でありますように」と唱えたら、これもおもしろい。「文字の力」と
「音声の力」を組み合わせれば、より効果的になるに違いありません。

むくちゃん、心配しないで。今は、やっぱりロボットより、人間のほうが好きです。

皆様の天命が完うされますように


どちらが新しい実相論なのか、あなたにはわかりますか?
No.1390 森島恒吉    1999/10/27 (水) 00:36 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

むくちゃんは、もうすでに理解されましたけれど、どちらが古い実相論であり、どちらが新しい実相論な
のかを知らない人は多いようです。唯一会の人は除いて、ほとんどの人が、この区別がつかないのです。

「悪は現在、存在するけれども、消えてゆく」という実相論と、「悪は現在、存在しない」という実相論
の二つのうち、いったいどちらが古い実相論で、どちらが新しい実相論なのでしょうか。あなたには、お
わかりでしょうか。いったい、どちらが、よりすぐれた高い実相論で、どちらがより低い実相論であると
思いますか? ほとんどの人は、この時点で間違えてしまうのです。

答えを申しますと、「悪は現在、存在しない」という実相論は古い実相論であり、より低い不完全な実相
論でありまして、「悪は、現在、存在するが、消えてゆく」という実相論は、新しい実相論であり、より
高い完全な実相論であるのです。

ところが、他の宗教の経験がなく、五井先生の宗教を初めて信仰する人は、最初から「消えてゆく姿」と
教えられるものですから、「消えてゆく姿」という教えの深い意味や、ありがたみが理解できないまま、
その言葉に慣れてしまい、数年たって五井先生の教え以外の「悪は無い」という新しい真理の言葉に触れ
ますと、非常に新鮮に感じて、「悪は無い」と宣言する実相論のほうが、「悪は消えてゆく姿」という実
相論よりも、はるかにはるかに高い教えであるように錯覚を起こしてしまうのであります。

「人間は、本来、神の分霊である」と宣言する実相論よりも、「人間は、今、神の分霊である」と宣言す
る実相論のほうが、よりすぐれた、より進んだ、高い教えであるかのように思えてしまうのです。理想の
姿を焦って急に現実に持ってこようとしても、理想を現わすことは不可能です。高い理想であればあるほ
ど、その理想を現実化するには長い時間が必要です。その時間経過を無視して、理想を現実化しようとし
ても、それは無理であるのです。しかし、真理に把われますと、それがわからなくなるのです。

理想に片寄った実相論は、現実には行なえないのですから、高い実相論に見えて、実は低い不完全な実相
論であるのです。それに対して、理想と現実の中庸に位置する「消えてゆく姿」の実相論は、理想から一
段、現実側に下がったのですから、低い教えであるように見えますが、実はより高い完全な実相論である
のです。「悪は無い」と否定する実相論は、新しいようでいて古い実相論であり、「悪は消えてゆく姿」
と否定する実相論は、古いようでいて、実は新しい実相論であるのです。

「私は未来において神の分霊になるのである」という五井先生の実相論は、心境の低い人々のための低い
実相論であり、「私は、現在、神の分霊である」と宣言する実相論は、真理そのものであることから、心
境の高い人々のための実相論である、と説いている宗教者がいます。

しかし、真実は逆でありまして、「私は、現在、神の分霊である」とことさらに唱えている人々は、低い
心境の持ち主であり、「私は、未来において、神の分霊になるのである」と信じている人のほうが、より
高い心境にいる人々なのであります。「人間は、本来、神の分霊であって、未来には、神の分霊を現わす
ようになる」という信念が新しい実相論であり、「人間は、今、神の分霊である」という実相論のほうが
古いのです。おわかりでしょうか。

どちらが古い実相論で、どちらが新しい実相論なのか、あなたには区別がつくようになったでしょうか。

皆様の天命が完うされますように


あなたは、ほんとうに真理を実行できますか?
No.1391 森島恒吉    1999/10/28 (木) 00:11 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

真理を実行しようとする人は、まず「真理を実行するとは、どういう行為なのか」を知らなくてはなりま
せん。真理とは、「私は神の子である。すべての人は神の子である。すべての人は善人であり、悪人はい
ない」「悪は無い、欠点は無い、誤りは無い、間違いは無い、不幸は無い、病気は無い、災害は無い、地
震は無い、危険は無い、戦争は無い、紛争は無い」「私は完全に幸福である。人々も完全に幸福である」
「世界は調和している。世界は平和である」という理想の姿なのです。

その真理を実行するということは、あなたは神の子の行為をし、善の行為をし、すべての点で完全な行為
をしなければならない、ということです。あなたは、過ちをおかす凡人であってはなりません。あなたは
悪の行為をしてはいけません。あなたは不幸であってはいけません。あなたは病気をしてはいけません。
あなたは人を憎んではいけません。あなたは他人の過ちを批判してはなりません。あなたの見るものは、
すべて完全であり、あなたは不完全な現象を見てはいけないのです。あなたは、不完全な現象を見なけれ
ばならないような、そんな不完全な人間であってはいけないのです。

尤も、真実にあなたが完全であるならば、「完全な行為をしなければならない」とか「不完全な行為をし
てはいけない」というふうに、「ねばならない」や「してはいけない」というような言葉が付くはずがあ
りません。いいかえますと、「ねばならない」や「してはいけない」という言葉が付属してしまったら、
すでにその人は神の子ではなく、完全な人間ではないことを、暴露していることになるのです。

「人はみな神の子である」と一方で唱えながら、「あら、あの人は、あんな悪いことを言って、なんて悪
い人かしら。あの人は、あんな批判ばかりしていて、いやねえ」と他方で思っていたら、その人の言動は
矛盾することになり、「人は神の子である」という真理を、ほんとうに実行していないことになります。

「人は誰でも神の子である。人類はみな神の子である」と道場で宣言している人が、別の場所で「あいつ
は嘘つきだ」「あいつはキツネつきだ」「あいつはキタネエやろうだ」と言ったとしたら、その人も真理
を実行できていないことになります。「人類は神の子である」と真実に宣言しているならば、その人の心
の中には、嘘つきもキツネつきも、キタナイやつも、存在しないはずだからです。

「森島さんは神である」と神妙に言ったあとで、「森島さんは、こういうところが間違っているから反省
なさって下さい」と私に言ってくる人が、たまにいるのですが、その度に私はおかしくって笑ってしまう
のです。私をほんとうに「神である」と信じていたら、私の誤りを指摘する言葉が出てくるはずがありま
せん。神は完全であり、神は決して誤りをおかさないからです。その人の「森島さんは神である」という
真理の言葉は口先だけの言葉であり、心からの宣言ではないのです。「反省なさって下さい」と私をなじ
る言葉が、その人の心からの本音であるのです。そのように、その人みずから真理を実行できていないの
です。そういう人を偽善者というのです。私にお説教する前に、自己矛盾に気づかねばなりません。

これだけの事例を見ても、いかに真理を実行することは難しい行為であるかが、おわかりになると思いま
す。まして、自分の肉体を傷つけた人間に対して、少しも憎まずに「あなたは神の子です」と拝めるでし
ょうか。自分の子供を殺した犯人に対して、怒りなく「あなたは神の子です」と拝めるでしょうか。自分
の財産を奪った人間に対して、怨まずに「あなたは神の子です」と拝めるでしょうか。真理を実行すると
いうことは、自分にとって都合の良い相手だけを「あなたは神の子です」と拝むのではなく、自分にとっ
て都合の悪い相手にも、どんな人間に対しても「あなたは神の子です」と拝まなくてはならないのです。

さて、あなたは、神の子の行為を、ほんとうに実行できるでしょうか。あなたは、誰をも神の子として、
ほんとうに拝めるでしょうか。あなたは、ほんとうに真理を実行できるでしょうか?

皆様の天命が完うされますように


真理の言葉と祈り言の違いについて
No.1395 森島恒吉    1999/10/28 (木) 10:18 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

やんちゃ坊主さん、教義に関するご質問とご意見を、ありがとうございます。
やんちゃ坊主さんは、まじめで良い方ですね。私も誠実にお答えしましょう。

[質問1]
「私は、神である」という祈りと、
「私が、神様でありますように」という祈りとどう違うのでしょう。
「世界人類が平和である」という祈りと、
「世界人類が平和でありますように」という祈りとどう違うのでしょう。
…これは、五十歩百歩じゃないんですか?
平和なのに、平和であるといいますか?
神であるのに、神であると言いますか?

[お答え1]
なるほど。「世界人類は平和である」と「世界人類が平和でありますように」は全く同じ意味であり、同
じ祈り言であるのに、そんなことを、なぜ問題にするのか、とお考えになっているわけですね。しかし、
もし、二つが同じ意味であるならば、一つの言葉で充分なのに、なぜ二つの言葉を唱えなくてはならない
のでしょうか。二つの言葉を唱える必要があるのは、その二つに違いがあるからではありませんか。

「私は神である」「世界人類が平和である」という真理そのものの言葉と、「私が神様と一つであります
ように」「世界人類が平和でありますように」という守護の神霊へのお祈りの言葉とは、五十歩百歩の違
いどころか、まるで意味が異なると、私は思います。そこが、あなたと私の宗教観の異なる点ですね。

現在「世界は平和ではない」ことは、あなたもお認めになっているようです。では、世界は平和ではない
のに、なぜ「世界は平和である」と唱えるのですか。それでは嘘になるではありませんか。そして、まだ
神性を充分に顕現していない人間が、「私は神である」と唱えたら、それも嘘となるではありませんか。

自己暗示のように、「私は神である」と唱えていても、その人は神にはなれませんし、「世界は平和であ
る」と真理の言葉を唱えていても、世界は平和にはならない、と私は思います。しかし、あなたは、それ
ができる、と思っているならば、私は、あなたの行為を止めることはいたしません。

あなたの言う通り、実際に世界が平和であるならば、「世界は平和である」とことさら唱える必要はあり
ません。それをことさら唱えるということは、口先では「世界は平和である」と言っても、心の中では
「今は、世界は平和ではないのだ」と思っているからです。また、「私は神である」と何回もくりかえし
唱えている人は、「私は、まだ神になっていない」と心の中で思っている人なのです。

世界が平和であるならば、ことさらに「世界は平和である」とくりかえし唱える必要はありませんし、そ
の人がすでに神であるならば、ことさらに「私は神である」と唱えることはしないものです。それを、こ
とさらに唱えていることは、「世界は平和ではない、私は神ではない」という自分の本音の想いを発表し
ているようなものです。口先でどんなに立派な真理の言葉を唱えていようと、心の中では「世界は平和で
はない、私は神ではない」と思っているのですから、潜在意識はその人の本音を受け入れて、世界は平和
になることはないし、その人が神になることもないのです。

[質問2]
だから、そんなことを説くよりも、五井先生のことだけ考えて、五井先生が何を伝えたかったかを、説く
べきではないでしょうか?

[お答え2]
五井先生が伝えたかったことを、私は今説いているのです。
五井先生が伝えたかったことは、「我は神なり」「私は神である」「世界は平和である」という真理の言
葉を唱えても、人間は神性を現わすことは到底不可能であり、世界を平和にすることはできないのだ、
「世界平和の祈り」に全託してこそ、人間は真に救われ、世界は平和になるのだ、という教えです。

[ご意見3]
人が、どう祈ろうとその人の心が、そう動いているのです。

[お答え3]
私は、誤てる宗教や誤てる行じ方について批判はしておりますが、その人の自由を縛ることはいたしませ
ん。私の意見に共鳴した人たちが、私と一緒に祈って下さればよいので、宗教観の異なる人に、自分の意
見を強制することはいたしません。宗教は、その人、その人の自由になさればよいのです。私は、皆さん
に「こんな生き方もありますよ」と選択肢を提供しているだけです。

[ご意見4]
森島さんが、下手に変な自分の持っている真理を書きこむから、ダイバダッタだっ、とかきつねつきだ
っ、なんて言われてしまうんじゃないでしょうか?

[お答え4]
「ダイバダッタ」とか「キツネツキ」とたまに言われることはありますが、釈尊やイエスや五井先生のよ
うな聖者でも、業想念で心の曇った人からは、そう言われたことがありました。言われるほうが悪い場合
もありますが、言うほうが誤っている場合もあるものです。そういう人に対して、私は「あの人はまだ幼
いなあ」と笑って、その人の天命の完うをお祈りしております。私の教えは、私独自の新しい表現があり
ますが、本質的に五井先生と同じ教えであり、それは今では、多くの人が認めて下さっています。しだい
に、私の実体が、多くの人々に明らかになるにつれて、そう言われることもなくなることでしょう。

やんちゃ坊主さん、「世界人類が平和でありますように」と書いて下さって、ありがとうございます。
宗教観が異なっていても、主義主張が異なっていても、「世界人類が平和でありますように」とこうして
お互いに祈りあえることは、深い喜びです。

皆様の天命が完うされますように


「世界人類が平和でありますように」は神智の祈り言
No.1399 森島恒吉    1999/10/29 (金) 12:34 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

すぎさん、ご質問をありがとうございます。

[お答え]
良いご質問ですね。「世界人類よ、平和であれ」という祈りは、大神様の祈りなんです。大神様(宇宙
神)は、「世界人類よ、平和であれ」と祈っているのです。私も、五井先生からそのお話をうかがって、
大神様になった気分を味わいたくて、しばらくの間、「世界人類よ、平和であれ…」とくりかえし祈った
ことがありました。

「世界人類が平和でありますように、と祈るよりも、ひょっとして高い心境になれるかもしれないぞ」と
ひそかに期待して祈っていたのですが、しかしどうしても長続きできないのです。長続きできないのは、
後でわかりましたが、これは不自然だからなんですね。大神様が「世界人類よ、平和であれ」と祈るのは
自然ですが、肉体を持った神の子である私たちは「世界人類が平和でありますように」と大神様に対して
お願いする形で祈るのが、やはり自然なのです。それで大神様のみ心と私たちの心が一体になるのです。

すぎさんの「無理せず、世界の平和を祈ることができるのであれば、多少の言葉の違いは問題にならない
と思うのです」というご意見には頷けますが、かといって、「やんちゃ坊主さんが指摘されている程度の
祈りの言葉の違いは問題にならないと思うのです」というご意見には頷けません。

やんちゃ坊主さんの書いている言葉は、「世界は平和である」という真理の言葉でありまして、大神様の
祈りとは、また違った意味であるのです。「世界は平和である」という言葉も、ほんとうのことをいえば
祈りであるのです。祈りではあるのですけれど、現在の地球人類が祈るには、まだ早すぎるのです。それ
は真実に地球に平和が実現された時、宣言されるべき祈りであるのです。軍がクーデターを起こし、野蛮
にも国の議事堂で銃を乱射して政権を倒したり、他国の人質をとって自分の主張を通そうというような卑
劣な軍事勢力が横行したり、「日本を守るには核武装しかないのだ」と発言する国会議員がいるような現
状では、とてもとても「世界は平和である」とは宣言できないではありませんか。嘘になります。

現実は、世界は平和ではありません。そうした現実から逃避した、真理に把われ、理想に把われた、肉体
の頭で考えた、観念だけの観念論者の言うことなどは、なんの役にもたちません。現実に対して嘘をつく
偽善宗教者の発言に、皆さんは惑わされてはいけません。もし、私の言うことが納得できなかったら、お
好きなようにやってみたらいいのです。「世界は平和である」という宣言による平和運動をやってごらん
なさい。そんなことをやっても、できっこ、ないから。それは、現実を無視しているからなんです。現実
を無視した理想に片寄った平和運動では、民衆の支持が得られません。独りよがりの平和運動で終わって
しまいます。現実の事態をしっかりと直視して、なおかつ理想へと前進できる自然な祈り言が、「世界人
類が平和でありますように」という祈り言であるのです。

しかし、私の言うことがわからない人は、気がすむまで実際にやってみるといいんだね。「我は神なり」
でもいい、「人は神である」「人類は神である」「世界は平和である」でもいい、なんでもいいから、や
ってごらんなさい。「世界人類が平和でありますように」よりも勝る祈り言は無い、ということが、いつ
かわかるから。だから、私は批判はしているけれど、皆さんに自由にやらせることにしているんです。

幼い子供と同じ。「これは危ないから、しちゃいけないよ」と言っても、幼児はわがままだから、大人の
言うことを聞きません。自分でやりたがるんです。自分でやってみて、失敗すると納得する。ちょっとケ
ガをすると、「ああ、これは危険だな」と初めて納得する。だから、大ケガをさせない程度に、自由にや
らせてみるんです。それでしばらくたってから、「自分の考えた方法でやってみましたが,どうしてもで
きませんでした。助けて下さい」と泣きついてきたら、あらためて教えてあげようと思っているんです。
その時点で教えれば、私の言うことを素直に聞く態度ができているから、よくわかるんです。ですから、
最初から「世界平和の祈り」にスーッと素直に入って、右顧左眄しない人は実に幸せな人であるのです。