森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


神界との約束事の「世界平和の祈り」
No.1401 森島恒吉    1999/10/30 (土) 23:00 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

すぎさん、ご質問とご意見をいただき、ありがとうございます。ここに書きこむのも時間がかかるもので
すね。できましたら、もう少し具体的に書いていただけると、ありがたいと思います。私の理解した範囲
でお答えさせていただきます。

[質問1]
やんちゃ坊主さんの言われている祈りの言葉がなぜ良くないのかと、その根拠について、いろいろと解説
されていましたが、これは五井先生のお言葉ですか(ちょっと違うように思うのですが)。

[お答え1]
やんちゃ坊主さんの質問には、すでにお答えして完結していますから、ご自身のご質問として、内容を改
めて具体的に書いて下さい。わかりにくくなってしまいますから。私がご返事する場合、五井先生のご本
から引用しているわけではなく、私の言葉で書いております。「五井先生は、どの本のどこに、そんなこ
とを書いていますか?」というご質問には、わずらしいので、お答えしておりません。五井先生のご本を
よく読めば、私の説いていることを、五井先生も同じく説いていることが、おわかりになるはずです。

[質問2]
わたしが聴いていた五井先生の講話テープの中で、五井先生は世界平和の祈りというのは、言葉を間違え
て祈っていたとしても、問題ないんだ、という意味のことを仰っていました。
(テープは昔に処分してしまったので、どのテープかは確認できないのですが、講話の最後に信者からの
質問を受けつけるコーナーがあって、その質問に対する回答として、五井先生はお話しされていました。
質問の内容は、祈りの言葉を間違ったら祈りの効力は発生しないのかという内容だったと思います。)

[お答え2]
それはお念仏の場合でいえば、「なむあみだぶつ」と唱えなくても、「なんまんだぶ」と唱えようと「な
んまんだ」と唱えようと、同じ「南無阿弥陀仏」を信仰し唱えているのですから救われるというのです。
また、「私達の天命が完うされますように」を先に唱えて、後で「世界人類が平和でありますように」と
唱えても、それはかまいませんよ、という意味であるのです。

「世界平和の祈り」は神界との約束事の祈りですから、たとえば「世界人類が平和になりますように」と
祈りますと、約束事に違反しているのですから、神界の大光明は現れないのです。そのように一言でも違
ったら、救世の大光明は現れません。心の中で「世界人類が平和でありますように」と祈ろうと思って、
「せ…」と言った瞬間に、大光明は発現するのであって、口に出る言葉よりも、心の中の想いが大事であ
るのです。祈り言を故意に変えて祈ろうとは思っていなかった人が、たまたま言葉を間違えた場合には、
問題はありませんが、故意に祈り言を変えて祈る人には、当然救世の大光明が現れるはずがありません。
「世界平和の祈り」を故意に変えて祈ったら、効力はありません。

[ご意見3]
人々が集まり共通の目的を確認するためのシンボルであるという布教上・団体上の位置付けとしての「祈
りの言葉の解釈」についてであって、その効力発生についてではないと思うのです。

[お答え3]
申し訳ありませんが、何をおっしゃっているのか、意味がわかりません。

[ご意見4]
(1)五井先生の布教上・団体上のシンボルとしての祈りの言葉に対する考えとは、宗派を超えて納得で
き、個人に対しては恥らいや自己嫌悪を感じさせないものでなければならないということであり、
(2)その効力発生要件は世界平和の祈りを祈ろうとする個人の思考だけでよいとする。
ということだったのではないかということなのです。

[お答え4]
(1)「世界人類が平和でありますように」という祈り言は、宗派を超えて誰でもが納得でき、恥ずかし
くもなく、自己嫌悪を感じさせない、素晴らしい祈り言である、と私も思います。
(2)申し訳ありませんが、これも何をおっしゃっているのか、意味がわかりません。

[ご意見5]
いずれにしろ、森島さんのご意見を否定的に捉える一部の人達に対しては、森島さんの方から論点の整理
とその解釈およびその形式的・実質的根拠をうまくまとめて話しを交える必要があるように思いました。

[お答え5]
私は、自分の教え方については、論点を整理して、できるかぎりわかりやすく説いているつもりですが、
宗教の法話というのは、その人の心境の深浅によって、受け取り方がまるで異なるもので、本心を業想念
におおわれた人は理解できないものなのです。どんなに論議をしても、理解できない相手は、何を言って
も理解できないし、わからない相手に何を言っても、わかってはもらえません。道を求めていて、わかる
人には、一言いっただけで、パッとわかるものなのです。

ですから、私は、私の教えを理解できない人を、論議を交わして説得しよう、とは思ってはおりません。
その人たちの天命の完うを祈るだけでよいと思っております。そして、私の教えを理解できる人だけに、
五井先生の教えを伝えることに全力を傾けているのです。

真実の道を求めている人は、五井先生のご本を、すべて記憶するほどじっくりと読んでいただいて、それ
から私にご質問されると、効率的だと思います。唯一会の集会では、五井先生のご本を一冊ずつテキスト
として用いて、教えの根拠を「ここに書いてあります」と丁寧に教えてあげていますから、まじめに道を
求めているならば、師弟の礼を尽くして、学びにいらっしゃい。私は、これから先、数十年先までも教え
ることはありません。私の生きているうちに、おいでなさい。

皆様の天命が完うされますように


五井先生が、あなたに教えたいこと。
No.1402 森島恒吉    1999/10/30 (土) 23:11 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

「五井先生が、あなたに教えたいこと」を、ここに書きます。すべて五井先生のご本からの抜粋です。
………………………………………………………………………………………………………
◆「我は神の子なり」と叫んでいても、神の子にはなれない◆(「生きている念仏」P36より)

自己の業想念をそのままにしておいて、「我は神の子なり、仏子なり」と叫んでいても、その神の子観、
仏子観は、業想念波動の中での観念に過ぎないので、真実の仏の姿、神の子の姿が、その人の行為に現れ
てくることはないのです。

◆自己の思う通りになるという念力主義は、光明思想のはき違え◆(同本P38より)

光明思想のはき違えのような、自己の想う通りになるという念力主義や、業想念と真我とを混合させて、
「神の子だ」と威張っているような無反省な生き方も困りものです。

◆「人間神の子」に把われるな。「業因縁の法則」にも把われるな◆(同本147より)

人間神の子とか、仏とかいって、神の子、仏に把われ、空といって空に把われ、業因縁を言って業因縁に
把われるのが、肉体人間の習慣であります。私は、この把われを放つことに重点を向け、すべての想念を
ひとたび消えてゆく姿として見送らせると同時に、その想念を神仏(守護の神霊)の方に転じさせて、把
われなき生活を、この世に顕現せしめようとしているのであります。

◆「誰をも神の子として拝め」とは、五井先生は教えてはいない◆(同本176より)

悪いことをしている人を、「そのまま神の子として拝め」というのではない。神の子の現れるための、業
想念の消えてゆく姿として、その人の不都合な想念行為を見てやる。そういう想いで見ようとしても、自
己の心に憎しみや妬みや怒りの思いが強くて、消えてゆく姿と思うことができなかったら、そうしたすべ
ての想いのままで、世界平和の祈りをなさい、というのです。

◆高い理想を説いても、かえって自らの心を責めさいなんでしまう◆(「光明をつかむ」P42より)

日常生活をそのままにして、この一生において、釈尊やキリストの説いた真理の奥深いところを行ずると
いうことは、よほど上根の最も秀れた僅少の人々にしか、でき得ないことだ、と私には思われるのです。
キリストのいうように、上着を取る者があったら、みずから進んで下着をも与え得る人が、この世にどれ
ほどありましょうか。また「右の頬を打たれたなら、左の頬をも出しなさい」と教わっても、恐怖の想い
でそうするのではなく、寛容の心、愛の心で、そうした行為を為し得る人が、一体何人あるでしょうか。
あるいは、美しい女性を見て、心をひかれぬ青年が、身心異常者でない限りは、滅多にあるものではあり
ません。理想は勿論高いほうがよいでしょうが、その高い理想が、あたかも誰にでも達し得るように説か
れていると、良心的な人は、かえって自らを顧みて、自らの心を責めさいなんでしまいかねません。

…金持ちの生活様式を、貧乏人がいくら聞いても、どうにもならぬと同じように、上根でない、宗教的に
特別秀れた素質を持っていない人々に、宗教的天才の通ってきた道を説き、その天才の到達した境地にな
れ、と言っても、これは無理な話です。そこで私は、空ということを説くにしても、人間の理想の道を説
くにしても、常に、一般大衆にでき得る方法で説くことに、心を定めているのです。特定の少数の人々だ
けしか通り得ぬような道では、この世における宗教者の役目が果たせない、と私は思っているからです。

(※註釈…聖書では「下衣(したぎ)を取らんとする者には、上衣(うわぎ)をも取らせよ」が正しい。
この時代は、上衣は寝るときに、かけ毛布のように生活の必要品として用いたために、借金の担保に上衣
を取ることは法律で禁止されていて、金貸しは借金の担保として下衣を取ったのである)

◆真理そのものを行じてゆくことは実に難しいことである◆(同本P66より)

私は根本真理が、いかに真理であるとしても、一度に急速に、それを実施しようとする態度そのものが、
真理に反すると思うのであります。一時から二時になり、春から夏になるように、この世の動きには、す
べて順序というものがあるのであって、いっときに真理そのままが現れる、ということはないのです。…
今日の現実生活は、自然そのまま、真理そのままを、行じ生かしてゆくことは実に難しいことであり、で
きにくいことなのであります。…いかなる真理といえど、押しつければ、それは不自由となり、真理では
なくなってしまうのです。真理とは、常に自由に行なわれるものなのであります。

天地万物に感謝する、ということでも、天地万物に感謝すること、その真実は、最高の真理への行為であ
り、それが日常行なえる人は、実に幸福な人であり、真の人間であります。ところが、この立派なこと
が、ひとたび、声に出る言葉となって、他人に強要された場合は、この内容が、まるで死んでしまうので
あります。また、強要した人も、もはや感謝の人ではなくなっているのであります。

◆現世の人間は、まだ「神の子である」と大見得を切るほど、光明化してはいない◆(同P66より)

人間は神の子であり、神そのものであるのは真理なのでありますが、それは、文字の上や、声に出る言葉
で言うべきものではなく、その人の全人格、言語動作、全行為に現れるべきものであって、文字や、発声
による言葉で言うのは、ただたんに、その真理につなげるための、一つの動作であるのです。それを、こ
とごとに「人間は神の子なのだ、円満完全なのだ」と、他人の立場やおもわくを無視して、しゃべりまく
って、自らの想いを満足させているような者があるとしたら、その人は、「行き過ぎた人」というべきな
のであります。

神が現れる時には、愛となり、慈悲となり、真となり、美となり、善となり、調和となって現れるのであ
って、ただ単なる、文字や、発声による言葉に現れるのではありません。その行為が、愛であり、慈悲で
あり、真であり、美であり、調和でなければ、その人は、神の子とは言いがたいのです。現世の人間は、
神内部に蔵して、その僅かの光を外部に発光しているものであって、まだ「神の子である」と大見得を切
るほど、光明化してはいないのであります。理想はいかほど高くてもよいのでありますが、その理想のみ
に把われて、理想と現実の差異を忘れ去ってはならない、と私は言いたいのであります。
………………………………………………………………………………………………………

皆様の天命が完うされますように


宇宙人の祈り言は「世界平和の祈り」
No.1410 森島恒吉    1999/10/31 (日) 21:32 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ご質問をありがとうございます。
おっしゃる通り、村田正雄先生が霊体で乗った宇宙船は、霊物質の宇宙船です。一般人の肉眼で目撃され
たというUFOは、偽物や作り話もあると思いますが、中には本物の宇宙船も存在すると思います。宇宙人
が宇宙船の霊波動を粗くしますと、地球人の肉眼でも見ることができます。

「キャトル・ミューティレイションは、宇宙人によるものだ」という説がありますが、地球人よりも、は
るかに進歩した宇宙人が、動物を屠殺して血液をすべて抜き取る、というような残酷なことをするわけが
ありませんから、こちらは宇宙人とは関係ありません。

宇宙人や空飛ぶ円盤のことを思いますと、胸がワクワクしてきますね。地球と月、地球と金星という広大
な宇宙空間を、一瞬にして飛ぶことのできる空飛ぶ円盤の科学力は、想像を絶します。五井先生のお話に
よれば、現在の地球のロケットは、お尻から煙を吐いて飛んでいて、空気の反発力、抵抗力を利用してい
るわけですが、宇宙人の空飛ぶ円盤は、反発力や抵抗力を利用するものではないそうです。目的地の波動
に合わせると、一瞬に移動できる、というのです。それで地球人とは逆に、波動に乗って、ゆっくりと移
動する科学が発達しているのだそうです。宇宙空間の空飛ぶ円盤から、地球を眺めてみたいものですね。

地球人類を救うために地球へ飛来してきている宇宙人たちは、空飛ぶ円盤の中で、「世界平和の祈り」を
祈っています。「世界平和の祈り」は宇宙人の心境と同じ波動の祈りであり、私たちが地球上で「世界平
和の祈り」を祈る時、私たちの心と宇宙人たちの心が合致して交流するのです。「宇宙人さん、地球に来
て下さい」と空に向かって宇宙人を呼んでも、宇宙人が来るわけではありません。私たちが「世界平和の
祈り」を祈りますと、その祈り言の波動に乗って、宇宙人たちが、私たちのそばに現れるのです。

私の若い頃は、土曜日の夜には白光会館で研修会があり、日曜日の早朝には「暁の祈り」という行事があ
りまして、私は毎週のように参加していました。その「暁の祈り」の時、道場近くにお住まいの村田先生
のご指導で統一実修をするのですが、統一行の合間に少し休憩して膝を崩した時、村田先生は、宇宙人の
お話をよく話して下さいました。聖ヶ丘道場の上空にいる空飛ぶ円盤が、村田先生には見えるのです。
「ホラ、ホラ、あそこにいる、あそこにいる」と村田先生が指さして、ほかの人がカメラを向けてシャッ
ターを押しても、フィルムには写らないのでガッカリした、とおっしゃっていました。

現在は、肉眼では宇宙人の姿は見えないのですが、地球人が進化してゆくにつれて、宇宙人も空飛ぶ円盤
も姿を現わす時が必ずきます。それはまだ遠い先のことですが、私たちは「世界平和の祈り」によって、
宇宙人たちと同じ心境になることができるのですから、ありがたいと思います。「世界平和の祈り」は、
人類最後の祈り言であるのです。これ以上の祈り言は、もう出現しません。ですから、宇宙人の皆さんも
「世界平和の祈り」を私たちと一緒に祈っているのです。「世界平和の祈り」は宇宙人たちの波動と同じ
波動であり、争いのない調和した平和な世界の波動と同じであるのです。

私たちが「世界平和の祈り」を祈っている時、それはあたかも、私たちが宇宙人の操縦する空飛ぶ円盤の
中の座り心地の良い椅子に腰かけて、広大な宇宙空間を、平和な世界へと移動する旅をしているようなも
のです。私たちが「世界平和の祈り」を祈っている時、私たちは宇宙人と心を一つにしているのです。
「世界人類が平和でありますように」
この祈り言は、数百年先も、数千年先も、永遠に祈りつづけられるのです。そう、私たちは、永遠の今に
生きているのです。「世界平和の祈り」は、永遠に光輝く、最初で最後の真の祈り言であるのです。

皆様の天命が完うされますように


宇宙人の出現時期について
No.1413 森島恒吉    1999/10/31 (日) 22:53 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、ご質問をありがとうございます。

[質問]
ところで、五井先生は、昭和33年頃に「50年以内に宇宙人が目にみえる形に現れる」とおっしゃって
いますが、もうすでに宇宙人は現れたのでしょうか?

[お答え]
五井先生は、たしかにそう予言されていましたが、宇宙人は、五井先生の予言通りには、まだ現れてはお
りません。五井先生は予言をめったに言わないのですが、宇宙人の出現については予言されていますね。
五井先生の予言の言い方は、いかにもすぐに予言が実現するかのような言い方をされるのですが、予言の
成就は、実際にはもっと先の先の話である、と私は思っています。

ケントさんが、村田先生を尊敬し敬愛するお気持ちは、村田先生にすでに伝わっています。村田先生に、
常に祈っていれば、村田先生がケントさんの守護霊として指導してくれますよ。(^_^)

皆様の天命が完うされますように


霊性開発の道は、よき先達につくこと。
No.1417 森島恒吉    1999/11/01 (月) 07:14 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

匿名さん、早朝にコメントをいただき、ありがとうございます。
青空さんは、五井先生のみ教えが、だんだんとわかってきましたね。そのような祈り方は、私は何度も説
いているのですが、私を信じていなかったこともあって、読んでも理解できず、心の中に入ってゆかなか
ったのです。それが五井先生のご本を、重要なポイントに焦点を合わせて、あらためて読み直したことに
よって、今まで目に入らなかったみ教えが、目に飛びこんでくるようになり、理解できるようになってき
たのです。青空さんは、私から離れなくて、ほんとに良かったですね。五井先生のご本を読んでも、ただ
漠然と読むのではなく、どこが大事な教えなのか、を先達に教えてもらいながら読みますと、み教えを早
く理解できるようになるのです。

自己流でしかも自力で霊性開発をしようとしても、それは容易なことではありません。自分にとって、心
から信頼できる先達(せんだつ・先に悟りに達した人・指導者)を探して、その先達のもとで修行するこ
とが、いかに大事であるかが、青空さんを見ているとよくわかります。青空さんは、素質も才能もあるの
に、よき指導者に恵まれなかったために、15年以上も五井先生のみ教えを学びながら、今までみ教えの根
本的なところが理解できなかったのです。それが、私がちょこっと要点を教えることによって、わからな
かったことが、わかってきました。今まで暗かったのに、非常に明るい性格になってきました。

ですから別に私でなくても、自分にとって、尊敬できる先達を見つけて、道を学んでゆくことによって、
自己の霊性を早く開発できるのです。ほかの皆さんも、善き先達を見つけて下さい。守護の神霊にご加護
を祈っていれば、善き先達に会えるように導かれるはずです。

皆様の天命が完うされますように


真理にも心の法則にも把われず、業にも把われぬ生き方。
No.1419 森島恒吉    1999/11/02 (火) 00:08 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

すぎぴいさん、コメントをありがとうございます。誤解のないように、皆さんに説明しておきますが、
「すぎぴいさん」は、先日書き込みのあったばかりの「すぎさん」とは、ニックネームが似ていますが、
全くの別人です。すぎぴいさんは、「世界平和の祈り」の親しい同志です。

すぎぴいさんは、過去に真理の言葉に把われて、ご自分を苦しめた経験があるので、「新しい実相論」の
大切さがおわかりになるんですね。すぎぴいさんは、実際に真理をまじめに実行しようと努力してみたけ
れど、すぎぴいさんは正直な方だから、真理を実行できない自分を責めて、苦しんでしまったわけです。
そういう経験をなさっているのです。そして、「消えてゆく姿で世界平和の祈り」で救われたのです。

すぎぴいさんのおっしゃるように、真理に把われた人というのは、ふつうの人とあたりまえの会話ができ
ないのです。心の法則に把われた人も、同様のことがいえるのです。古い実相論を信仰している教団では
「否定的なマイナスの言葉は言ってはいけない」と説いていますから、「お寒いですねえ」「今日は雨ば
かり降って、いやな天気ですねえ」というお天気の挨拶もできなくなります。

「風邪をひいた」という言葉も、口に出せません。「それはマイナスの言葉であり、そんな想いは神の子
の実相にはないし、心の法則からいっても、恐怖は恐怖を招くから、そんなマイナスの言葉を使ってはい
けない」と教えられているからです。風邪をひいて熱を出して苦しくても、「私は風邪をひきました」と
教団の中では正直に言えないのです。正直にいえば、「あなたはマイナスの言葉を使ってはいけない」と
教団内部の人から責められるし、心境が低いように見られてしまうのです。だから、その教団の講師にな
ると、ますます自分の正直な気持ちを隠すようになります。そして、神の子のふりをした反省なき偽善者
に陥るのです。このような人を、真理に把われた人、と五井先生は呼んでいるのです。

「今日は、雨ばかり降って、いやな天気ですねえ」と人から挨拶されたら、「そうですねえ、いやな天気
ですねえ」と私は答えます。そうすると、相手の人は、「自分の気持ちを理解してくれた」と喜びます。
心と心が交流します。お天気なんか、雨だろうと晴れだろうと雷だろうと、ほんとうはどうでもいいんで
す。お天気の話題をお互いにかわすことによって、心と心が交流するんですね。

「今日は疲れた」と言っている人に向かって、「あなた、そんなマイナスの言葉を使ってはいけません。
我は無限なる元気、無限なる力を持っている、と言い直しなさい」と説いたら、ふつうの人は「何言って
やんだい」と怒るか、そんなことを説く人を、相手にはしなくなります。そんな時は「おつかれさま」と
同情して、ねぎらいの言葉をかけてあければ、相手は喜びます。肩をもんであげたら、なお喜びます。

真理に把われたり、あるいは心の法則に把われると、相手を責めて冷酷になってしまったり、自分を責め
て苦しんでしまったり、ふつうの人と、あたりまえの会話ができなくなります。「新しい実相論」とは、
真理に把われず、心の法則にも把われず、日常生活であたりまえの言葉を使いながら、しかも業の言葉に
も把われず、神性を開発してゆくことができるのです。それが「消えてゆく姿で世界平和の祈り」です。
「消えてゆく姿で世界平和の祈り」の道を行じておりますと、日常生活そのままで、ご近所の人々とふつ
うのお付き合いができて、ことさらに真理の言葉を口に出さなくとも、正直にありのままの自分をさらけ
出しながら、いつの間にか、あたたかい愛にあふれる行為のできる人になってゆくのです。

皆様の天命が完うされますように


守護霊が賛成しているか、反対しているかを知るには?
No.1421 森島恒吉    1999/11/02 (火) 01:43 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

のりかさん、ご質問をありがとうございます。
「守護霊さま、私にピッタリの彼と結婚できますように」と守護霊に毎日熱心に祈っていれば、あなたに
ピッタリの彼と出会えるように、守護霊によって自然に導かれてゆきますから、安心して下さい。

たとえば、自分にふさわしくない彼と、業因縁のつながりから結婚しようとしますと、守護霊の邪魔が入
って、さまざまな障害や問題が起こってきたりするものです。いざ結婚しようとした時、突然思いがけな
い障害が起きてきたり、両家の間で問題が起きてきた場合には、「これは守護霊様の警告かもしれない」
と冷静になり、結婚を考え直すべきです。あなたの一生の幸福を考えて、守護霊が警告しているのです。

自分にピッタリのふさわしい男性と結婚する場合には、なんの障害もなく、スムーズにすべての事が運ん
でゆくものです。それは守護霊が、あなたの結婚に賛成している証拠で、祝福しているからです。

「あの人とつきあうようになってから、近頃どうも運が悪い」と思ったら、その相手との交際は断つべき
です。「あの人とつきあうようになってから、近頃どうも運がいい」と思ったら、その相手と交際をつづ
けるべきです。その場合は、「この交際は守護霊様が了解して下さっているんだ」と判断すれば良いので
す。このような判断は、それほど、難しくはありませんね。

自分にピッタリの相手と一緒になりますと、調和しますから、ケンカは起こりません。自分に適した相手
と一緒にいるときには、心からの安らぎを感じるものです。だけれど、今はまだ不完全な時代ですから、
自分にも相手にもお互いに業想念があるんです。だから、たとえピッタリした配偶者と一緒になったとし
ても、完全な生き方は無理です。お互いに駄目な所はあります。そこで赦しあう必要があるんですね。

のりかさんは、自分を完全な女だと思いますか?
完全な女ではありませんね。だったら、配偶者に完全な男を求めてはいけませんね。自分が不完全な女な
のですから、相手の男性が不完全でも、文句は言えません。お互いに相手の不完全さを認めて赦しあい、
お互いに短所を補い合ってゆきましょう。そのような気持ちで相手と一緒になれば、仲の良い幸せな結婚
生活が一生送れます。

守護霊にご加護を祈っておりますと、直観力がなくても、自然に自分にピッタリの男性と出会うようにな
りますし、自分に合わない男性とは、どんなに会いたくても、自分の気持ちとは別に、守護霊に引き離さ
れてしまうものです。守護霊のお導きの力の流れに逆らわず、お導きの力のままに素直に動いてみること
です。以上のことを目安にすれば、守護霊さまが、自分の判断に賛成しているか、あるいは反対し、警告
しているかは、彼氏とおつきあいしてから一カ月くらいで、わかってくるはずです。

あなたの天命が完うされますように


平凡な暮らしは幸運なしるし
No.1423 森島恒吉    1999/11/02 (火) 18:40 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

のりかさん、ありがとうございます。
「世界平和の祈り」を祈り始めて、守護霊さま、守護神さまにご加護を願い、感謝しておりますと、だい
たい三カ月くらいで業の幸運、不運の波を超えて、神さまのみ心の通りの天運ともいうべき幸運の波に乗
ります。自分の心境を静かに省みたり、自分の日常生活を観察していると、その差がわかります。

あなたのように家の中にいることが多くて、平凡な暮らしの毎日を送っている人は、幸運の波に乗ってい
ても気がつかないことが多いのですが、「世界平和の祈り」を祈りつづけていられる、ということそのも
のが、すでに神さまのみ心に適った幸運の中に住んでいるのです。

平穏無事な暮らしができるのは、なんでもないように見えますが、守護霊さまの大きなご加護があるから
こそなのです。守護霊さまのご加護の力が消えますと、平凡な暮らしができなくなるのです。今のあなた
は運が良く、守護霊さまにしっかりと守られているのです。だから、平凡な暮らしができるのです。

あなたと交際している男性が、誠実な男性ならば、いつまでもダラダラと結論を引き延ばすことはしない
はずです。或る程度の期間がたっても、結論を出せない男性とは、きっぱりと別れて、新しい恋を見つけ
たほうがいいです。相手の男性に冷たいようですが、ご自分を愛することを忘れないで下さい。あなたの
場合には、優柔不断な男性よりも、グイグイと積極的に引っ張っていってくれる男性がお似合いですね。
あなたの幸せをお祈りしております。

あなたが幸せでありますように


常識を超えた愛
No.1426 森島恒吉    1999/11/02 (火) 23:33 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

のりかさん、かわいいご質問をありがとうございます。

[質問1]
森島先生は、グイグイのタイプですか(笑)

[お答え1]
そうですね。好きな人の手を握って、グイグイ引っ張ってゆくタイプです。(^_^;)

[質問2]
五井先生は奥様と結婚なさるまでに、結構時間がかかってますよね。
奥様は親の反対を押し切ってまで、身ひとつで先生の所に嫁がれたわけでしょう?
この場合、親の反対は、守護霊様の警告ではなかったのでしょうか?

[お答え2]
奥さま(美登里さま)のご両親が、五井先生との結婚を反対なさったのは、常識的な愛情からでした。
五井先生は、小学校しか出ていないし、貧乏で、新興宗教の教祖といっても、えたいの知れない宗教者で
あったのですから、親が反対したのも無理からぬことでした。この場合の親の反対は、守護霊様の警告で
はなく、常識的な想念です。このように親の反対を押し切っても、常識を超えても、自分の意思を通す、
ということが、必要な時もあるのです。その強い決断をさせたのは、奥様の守護霊様であったのです。
でも、これは例外として考えたほうがいいですね。ふつうは、親が賛成して、周囲も賛成して、本人同士
も当然愛している、という常識的な結婚が望ましいですね。

[質問3]
森島先生とお電話でおしゃべりしたいんですけれど、甘えていいですかぁ? (*^。^*) ポッ..
私のほかに質問する人は、今はあまりいないようだし、いいでしょ? (ё_ё) !

[お答え3]
唯一会の会員は、私に相談したい時には、電話で相談することができます。ほかに、おしゃべりしたいお
友だちがいなくて、どうしても私と話したい、というのであれば、メールをくださいね。できるかぎり、
ご返事を差し上げます。

あなたが幸せでありますように


幸せな結婚ができますように
No.1430 森島恒吉    1999/11/03 (水) 15:25 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ケントさん、内観について、またアルメニアについて情報を教えていただき、ありがとうございます。
内観については、ほかの知人からも聞いたことがあります。ケントさんも、いろいろな修行をなさってき
たんですね。今生のうちに、「世界平和の祈り」にたどりついて良かったですね。また、アルメニアの事
件を見ると、なんと愚かな争いをしているのか、と嘆きたくなります。地球の現実は、まだこの程度です
が、私たちの「世界平和の祈り」が地球上に広まるにつれて、こうした争いは消えてゆくことでしょう。

おりおさんの切実なお話を伺いますと、胸がジインとしてきます。結婚については、過去世の業因縁によ
る影響が、想像する以上に強くて、好きな人と結婚できなかったり、結婚しても仲が悪くなってしまった
りと、業因縁の波に翻弄されてしまう人が多く、調和した結婚というのは少ないものです。

「守護霊様、善き配偶者を授けたまえ」と祈っても、がっかりさせるかもしれませんが、今生ではその祈
りはかなえられず、来生でかなう運命の人もあります。しかし、今生で結婚することをあきらめることは
ありません。守護霊様に、祈りつづけておりますと、業因縁の波を超えて、理想的な結婚ができる場合も
あるからです。そこで、男性はお仕事に全力を尽くし、妻を迎えるのにふさわしい充分な財産を作り、経
済的な余裕を持っていることが必要です。

これは言うまでもないと思いますが、音楽の同好会とか、スポーツのクラブとか、男女が出会う場に、積
極的に出かけてみるのも必要だと思います。唯一会は、できたばかりですから、まだ人数は少ないのです
が、これから魅力的な独身女性や独身男性が続々と入ってくることでしょう。同じ宗教観を持つ人と結婚
することは、理想に近い結婚になると思いますから、できれば唯一会の集会に参加されることもお薦めし
ます。もちろん、第一の目的は純粋に「世界平和の祈り」であってほしいのですが、集会の出会いの中か
ら、自然な形で恋愛が芽生えることになれば、私も嬉しく思いますし、祝福したいと思います。

守護霊様、守護神様、
おりおさんの天命が完うされますように
善き配偶者が授けられますように


業因縁を超える法は「世界平和の祈り」
No.1433 森島恒吉    1999/11/03 (水) 18:59 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

おりおさんではなくて、のりおさんだったんですね。
おっしゃる通り、離婚するのも、自己の業因縁の現れであり、業因縁の消えてゆく姿であるのです。結婚
に限らず、自分の会社が倒産したり、まじめに働いているのにリストラされたりするのも、そうした業因
縁を自分が持っていたからであり、それが消えてゆく姿として現れてきたのです。私たちの人生は、何事
も業因縁で縛られているわけではありませんが、業因縁で束縛されている人は、実際には多いのです。

祈りとは、そうした業の因縁因果の悪循環の渦から脱出する方法であるのです。業因縁の渦から脱出する
ためには、本人の努力だけでは、どうしようもありません。それは業因縁の力が非常に強いからで、本人
の努力だけで簡単に自分の運命を変えられるほど、そんなに甘い力ではないのです。その業因縁の渦から
脱出するためには、守護の神霊の加護の力を得るしかありません。

守護の神霊は、三界の業因縁の世界を自由に超えて働ける超能力を持っていますから、守護の神霊に助け
を求めますと、守護の神霊のほうも肉体人間を非常に守りやすくなり、導きやすくなって、過去世からの
業因縁を超えた生活をすることが可能となるのです。業因縁の中で成功したり、幸福になったとしても、
真実の幸福は得られません。この業因縁の想念法則を超えることが、祈りの目的であるのです。

「世界平和の祈り」を祈っておりますと、業因縁が浄まってゆき、たとえば、交通事故で死ぬという業因
縁の運命があったとしても、現象に現れる前に消え去ってしまいますから、実際には交通事故にあわない
ようになる、というように不幸な運命にあわないようになってゆくのです。

ここで大事なことは、何が不幸で何が幸福なのかは、肉体人間にはわからないということです。離婚した
ことは不幸なことですが、もっと良い配偶者と結婚できれば、それは不幸だったのでしょうか。会社が倒
産したために、自分一人で事業を起こして会社の社長になったとします。すると、サラリーマンとして勤
めていた頃に会社が倒産したことは、不幸だったのでしょうか。リストラにあったために、それを機会に
自分の好きな仕事を始めて成功したとします。すると、リストラにあったのは不幸だったのでしょうか。

ですから、現象の成功失敗、幸福不幸に把われないで、すべての運命を業因縁の消えてゆく姿として、
「業因縁が消えてゆくと同時に、本心の天命が現れてくるのだ、これから必ず善くなるんだ」と神様の愛
を信じて、「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆくことです。「世界平和の祈り」を祈っていれば、知ら
ないうちに業因縁の束縛から解き放たれ、真実の天運が現れてきて、真の幸福を得ることができます。

自己の業因縁を早く消滅させ、業の宿命を素晴らしい天運に変えるためには、集団で「世界平和の祈り」
を祈ることが効果的です。気の合うお友だちを集めて「世界平和の祈り」を祈ることをお勧めします。

あなたの天命が完うされますように


真理のままに生きている人、真理に把われている人
No.1436 森島恒吉    1999/11/03 (水) 20:47 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ご質問をありがとうございます。

[質問1]
もし、妙好人源左さんが、今、おられて、この首謀者の事情を見聞されたら、やはり「おらの身代わりに
なって姿を見せしめてござれるので、縛られずにすみますだいな」というふうにおっしゃるでしょうか?

[お答え1]
妙好人の源左さんならば、そうおっしゃるでしょう。源左さんは、偉い偉い人であったのです。

[質問2]
彼が存在しなければ、その分の地球人類の業を、誰か別の人が、自分自身の業として引き受けて現さなけ
ればならなかった、と考えて良いのでしょうか?

[お答え2]
彼のほかに、彼と同じ犯罪を犯す人はいません。ここで気をつけなくてはいけないのは、自分の業欲のた
めに重犯罪をおかした悪人と、地球人類の業を引き受けて浄めている聖者を、同一視してはいけない、と
いうことです。聖者は人類を救うために、人類の業を引き受けて浄めて下さっていますが、犯罪者は人類
を滅亡させる目的で悪業を積み重ねているわけですから、悪人に対して「業を引き受けて下さっている」
と聖者のような表現で言うことは、源左さんのような聖者はともかく、私たちは避けたほうがよいと思う
のです。そうしないと、うっかりすると、「人類の業を浄めるために、おれは悪事をするのだ」と、悪業
を肯定する人が出てこないとも限らないからです。

[質問3]
小説「阿難」において、釈尊が、「阿難よ。そなた提婆を仏性の者と思うているのか、それとも業生の者
と思うているのか?(中略)わかったと見える。業生はみな消えてゆく姿、実在するものは仏性のみであ
る。提婆は菩薩として、我等を導きつづけてゆくのである。この理がわからぬうちは、み仏の真の姿がわ
かりようがないのである。」とあります。
このような高い境地が、もし自然に思えるのなら、それでよいのでしょうか?
或いは、やはり真理に囚われていることになるのでしょうか?

[お答え3]
この時の釈尊は、阿難に対して、真理を説いたのです。相手が上根の阿難であったからこそ、このような
高い真理を説いたのであって、他の人にはこんなに高い真理を説くことはなかったでしょう。誰をも菩薩
として自然に思える人は、すでに悟った境地の人であり、それで良いのです。真理を自然に思える人は、
真理そのままに生きているのですから、真理に把われているわけではありません。真理に把われた人とい
うのは、自然に真理を思えないのに、無理に真理の言葉を思いこもうとしたり、自然に真理を実行できな
いのに、あたかも真理を実行しているかのように、偽善的にふるまっている人のことです。

皆様の天命が完うされますように


変化菩薩
No.1437 森島恒吉    1999/11/03 (水) 21:35 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、ご質問をありがとうございます。

[質問]
「提婆が"菩薩"として我々を導いていく」とは、いったいどのような意味なのでしょうか?
(提婆さんの本心のみを見ていて、本心=菩薩ということ??)

[お答え]
菩薩というのは、衆生を救う人、という意味もありますが、この場合には変化(へんげ)菩薩の意味で、
様々な人の姿をして衆生を救う菩薩のことなのです。この変化菩薩は、善人として教え導いて下さる時も
あれば、提婆のような悪人の姿になって、「こうなってはいけないぞ」と教え導いて下さることもあるの
です。そのように実相を見るようにすれば、憎しみも怒りも湧いてきません。しかし、これは上根の人の
み、でき得ることですから、無理に阿難の真似をする必要はありません。善い人は善い人、悪い人は悪い
人、と見てもいいから、「世界平和の祈り」の中に消えてゆく姿として投げ入れてしまい、祈りの中から
自然に出てくる行為のままに生きてゆけばよろしいのです。

皆様の天命が完うされますように


あなたの天命が完うされますように
No.1440 森島恒吉    1999/11/04 (木) 01:31 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

宗教書には、聖書でも仏典でも、真理とはどういう行為なのか、という事柄が書かれております。たとえ
ば、釈尊の前世といわれている常不軽(じょうふきょう)菩薩は、常に他のどんな人をも軽んぜず、蔑視
することなく、「あなたは仏になる人です」とうやうやしく礼拝しました。時には、石を投げつけられた
り、棒で殴られたりしたこともあったのですが、その相手に対しても「あなたは立派な仏様になる人でご
ざいます。ありがとうございます」と礼拝して怒ることはなかった、というのです。

このような真理の行為を読みますと、非常に感動して心が清められる気がします。しかし、実際に自分が
そのように真理の行為ができるか、というと、これはまた別の話です。これが真理の行為である、と知っ
て、自分も真理の行為をしようと努力するのですが、現実には容易にできるものではありません。たとえ
ば、電車の中で自分が座席に座っている時、前に老婦人が立った時、さっと立って座席を譲ることさえ、
自分が疲れている時には、できにくいものです。それくらいの小さな親切さえできないで、自分を悪く言
ったり、自分を傷つけてくる相手を、神の子として拝む、という真理の行為ができるわけがありません。

ですから、真理の行為は、真理の行為として、目標として知っておいて、その真理の行為へと少しでも近
づける方法を考えるべきなのです。誰をも神の子として拝むのは、真理の行為です。しかし、無理にやろ
うとしてもできないのですから、自力で「誰をも神の子として拝もう」と思わないことです。自力でやろ
うとしますと、かえって、真理の行為ができなくなるものですから、自力を捨てなくてはなりません。

私たちは真理を実行しなくてはいけません。しかし、実際には真理の行為を実行できません。そのギャッ
プを守護の神霊に赦していただき、そのギャップを埋めるために、私たちは人々の幸せを祈ればよいので
す。誰に対しても「あなたは仏様です」「あなたは菩薩さまです」「あなたは神の子です」と真理の言葉
を言うことは困難ですが、「あなたの天命が完うされますように、あの人の天命が完うされますように」
と祈ることは、それほど難しいことではありません。この方法は、私自身が実践してきました。私を誤解
して、悪口を言う人に対しても、私は「あなたの天命が完うされますように」と祈りつづけてきました。
その私の体験からも、対人関係の祈りとしては、この愛の祈りが最も善い方法であると思うのです。

あなたの天命が完うされますように
あの人の天命が完うされますように
私たちの天命が完うされますように
皆さんの天命が完うされますように
地球人類の天命が完うされますように


明るく生きてゆきましょう
No.1442 森島恒吉    1999/11/05 (金) 01:14 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

のりおさん、ご質問をありがとうございます。

[質問]
本人が真剣に祈り求めていても、結果的には(今生では)伴侶が与えられなかった場合、本人の思惑に関
係なく、独身でいることが天命になるのでしょうか。独身でいることが天命ではないけれど、祈っても見
つからない人もあるのでしょうか。

[お答え]
本人が真剣に結婚を望み、神に祈り求めていても、結果的に今生で伴侶が与えられなかった場合、それは
天命であったのかといいますと、そうではありません。天命とは、愛のみ心の神から授けられた聖なる善
なる使命、光り輝く使命のことでありまして、病気になる天命、結婚できない天命、独身である天命、貧
乏になる天命、孤独になる天命、不幸になる天命というのはありません。病気、独身、貧乏、孤独、不幸
などは、すべて過去世の業因縁の消えてゆく姿であるのです。独身は、天命ではありません。

特殊な例として、イエスキリストのように、独身を生涯通す天命を持つ人もいないことはありませんが、
独身ばかりが増えたら、人類は滅亡してしまいますから、ほとんどの人の場合、独身であることが天命と
は言えません。すべての人が結婚する天命を持っているのです。それにもかかわらず、現実に結婚できな
いのは、あくまでも本人の過去世の業因縁の消えてゆく姿と見るべきでしょう。そして、過去世の業因縁
が消え去った時、はじめて結婚する天命を完うできるようになるのです。

独身でいますと、夫婦で争うこともありません。その意味では独身は平穏とはいえますが、淋しい孤独感
の波に襲われることもあるのですから、独身でいるからといって、真の平安を得られるとはいえません。
しかし、独身の苦しみを味わうことによって、過去世の業因縁が消えてゆき、魂が浄まってゆくのです。
その人の過去世の業因縁によっては、どんなに神に祈っても、今生では業因縁が浄まり切らず、今生で結
婚できない人がいるのですが、神に祈っていれば、来世では結婚できるようになっているのです。

業因縁が原因と申しますと、「それでは、私が結婚できない過去世の業因縁とは、どういう内容なのか?
過去世で、どのような誤った結婚観を持ったのか?男女関係で何か失敗したことがあったのか?過去世で
何人もの配偶者を傷つけてしまったのだろうか?過去世で女性に怨まれるようなひどい行為をしてしまっ
たのか?何度も女性を裏切ったことがあったのか?」と過去世を探りたくなるかもしれませんが、そうい
うことを分析してゆきますと、自分を責めて暗くなってしまいますから、「何が原因かわからないけれど
も、これも消えてゆく姿なんだ」と思って、ひたすら「世界平和の祈り」を祈りつづけることです。

私も独身ですから、あなたの独身でいることの辛さは、身にしみて充分に理解できるつもりです。法然親
鸞の時代には、今生で幸せを得られない戦乱の時代でしたので、「せめて来世は幸せに生きたい」と多く
の人は思って、念仏を祈ったものでした。それと同じように、一度、今生の幸せをすべてあきらめて、来
世の幸せのためと思って、「世界平和の祈り」を祈りつづけることです。そして、今は独身でなければで
きないことを探して、独身である長所を生かして、思う存分人生を楽しむことです。

人間は、諦めが肝心です。いずれは欲望を捨てて、今の自分にできないことは、できないこととして、諦
めなくてはなりません。それに暗い顔をして、むっつりと黙って、クラ〜イ雰囲気をしていたら、誰も好
きにはなりません。明るい雰囲気の男性を、女性は好きになるものです。独身でいても、明るく生きよう
と思えば、明るく生きることは、できるものです。一度すべてを諦めて神様に全託し、何も与えられなく
ても、「生きているだけでもありがたい」と神様に感謝して、明るく生きてまいりましょう。

あなたの天命が完うされますように


神様は一番良いようにして下さっている
No.1443 森島恒吉    1999/11/05 (金) 23:33 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

明日(土)は、用事があって、一日中アクセスできないので、皆さん、よろしく。

[他力の祈り]
神様、神様の一番良いように、私たちの運命を作りたまえ。
神様、神様の一番良いように、私たちを導きたまえ。
神様、神様の一番良いように、私たちの環境をととのえたまえ。

[波動変換後に生まれてくる信念]
神様は、一番良いように、私たちの運命を定めて下さっているんだ。
神様は、一番良いように、私たちを導いて下さっているんだ。
神様は、一番良いように、私たちの環境をととのえて下さっているんだ。

皆様の天命が完うされますように


神様の愛を信じて、感謝しよう。
No.1448 森島恒吉    1999/11/08 (月) 21:20 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ちょっと留守をしておりました。皆さんのご質問にお答えいたします。

[ケントさんのご質問]
某商工ローン日○の社長のような方は、死後どのような世界に行くのかを、お教え願えないでしょうか?

[お答え]
金貸し業は、人々からの需要があって存在している仕事で、すべての金貸し業者が悪徳業者であるわけで
はありませんし、金貸し業者の中には、金を返せないような人には、初めから金を貸す事を断って、トラ
ブルを未然に防いでいる良心的な会社もあるようです。

ところで最近、社会問題として取り上げられ、警察も捜査を始めた、悪徳業者の某商工ローン会社の社長
のような行為をした人は、因縁因果の法則の中で生きているのですから、人々を脅迫し、人々から暴利を
むさぼった分、死後の幽界では同じ苦しみを受けることになります。しかし、因果法則を説いて、「おま
えの死後は、こんな地獄の世界へゆくのだ。ざまあみろ」と溜飲を下げていては、その人を責めることに
なってしまい、宗教者としては失格になります。そこで私たちは、「借金をして苦しんだ人々の天命が完
うされますように」と祈ると共に、「悪徳の金貸し業者の人々の天命が完うされますように」とも祈らね
ばなりません。私たちは、すべての罪悪を消えてゆく姿として、人々を愛してゆかねばならないのです。

[青空さんの質問]
「神様、御心でしたら、私の天命が完うされますような良き配偶者をお与えください」と祈りつづけて
も、配偶者が与えられなければ、生涯独身でも良いのですか?
私は、個人的には独身でも良いような気がするのですが、両親が心配しています。
両親を心配させることを、守護霊守護神様は、どのように思うのでしょうか?

[お答え]
現在の人間は、神の子に成りきっているわけではなく、神の子にいたる過程の不完全な段階にいるわけで
すから、過去世からの業因縁によっては、今生では結婚をしたくても、生涯を通じて独身生活をよぎなく
される人も多いわけです。前にも書いたように、すべての人が独身であったら、子供がいなくなり、人類
は滅亡してしまいますから、独身が良いわけではありませんが、結果的に独身となってしまった人を、責
めることはできません。意に沿わぬ独身生活も業因縁の消えてゆく姿であるのですから、「世界平和の祈
り」を祈りつづけてゆけば、いずれは調和した結婚生活を営む事ができるようになるのです。

また、独身であるあなたを、ご両親が心配されるのは当然ですが、だからといって、「両親を心配させて
申し訳ない」と自分をあまり責めることはありません。子供がいつまでも結婚できないのは、本人だけで
なく、両親や祖父母の過去の行為が業因となっている場合もあるからです。しかし、自己の結婚できない
不平不満を両親や祖父母にぶつけるようになってはいけませんから、それ以上、詳しくは申し上げないこ
とにいたします。ご両親のご心配も消えてゆく姿であると知って、ご両親の天命の完うを祈ることです。

あなたの守護霊は、ご両親のように、やはり、あなたの結婚について常に心を配っています。しかし、結
婚を妨げている業因縁が厚ければ、その業因縁が消え去るまでは、どうしようもありません。結婚できな
いことも過去世からの業因縁の消えてゆく姿であると知り、業因縁の消え去った時には、自分も結婚でき
ることを信じ、「守護の神霊は一番良いように私を導いて下さるんだ」と信じて、「世界平和の祈り」を
祈りつづけることが大事であるのです。守護の神霊は、あなたの今生の幸せだけでなく、永遠の生命のた
めに、あなたを一番良いように導いて下さっているのです。神様の愛をどこまでも信じて、どんな境遇に
おかれても、神様に感謝して生きてまいりましょう。

皆様の天命が完うされますように


求道心
No.1455 森島恒吉    1999/11/10 (水) 12:28 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、ケントさん、ありがとうございます。
ケントさんの書いた、お隣の夫婦ゲンカの描写は、まるで目に浮かぶようで、他人事のせいか、私がこん
なことを言ってはいけませんが、とても面白いですね。テレビ番組「愛する二人別れる二人」を私も見て
おりますけれど、一週間のテレビ番組の中で、これほど面白い番組はほかにない、と私は思います。

いつも見ていて不思議なのは、愛しあって結婚した二人が、まもなくしてケンカを始めることですね。
この理由は、五井先生が、たびたびおっしゃっていました。業因縁による結びつきの結婚の場合、結婚と
いう簡単には逃げられない環境の中において、お互いの魂を磨きあうために、結婚するんですね。ところ
が、それが最初からわかってしまうと、結婚しなくなるから、面白いことに、初めは非常に仲良くなるん
です。本人たちは、魂の磨きあいのために結婚をすることを知らないで、結婚させられるのです。それで
最初は甘いハネムーンを味わわせておいてから、さていよいよ、魂の磨きあいが始まるというわけです。
だから、熱中しすぎる恋は、危ないんです。静かに穏やかに燃えているような愛が、一番いいんですね。

イエスの癒しについて、ケントさんは、重要な教えの急所をついていますね。全くその通りで、人間とい
うのは、あくまでも神様を求めていかなくては、だめなんです。教えや道を求める姿勢が大切なんです。
これも度々例に出しますが、禅宗では入門しようとしても、簡単には入門させてくれません。門を叩き、
玄関を入り、「入門をお願いいたします」と言うと、奥から修行僧が出てきて、「あいにく、部屋がいっ
ぱいで、あなたを受け入れる余裕はございません。申し訳ございませんが、お帰り下さい」と慇懃に断ら
れます。そう言われたら、私なんか素直だから、サッサとすぐに家に帰ってしまうかもしれない。(笑)

だけど、本気で入門する覚悟を持った人は、一度入門を断られたからといって、「はい、そうですか」と
引き下がるようではいけないんです。入門を断られたのですから、寺の門の中には入れません。門の外に
座って、入門の許しを得るまで待ちつづけるのです。夕方になると、中から僧が出てきて、バケツに入っ
た水を頭からかぶせられ、「帰れ、おまえの来るところではない」と怒鳴られます。雨が降ろうと雪が肩
に積もろうと、放って置かれます。そうして3日間くらいたつと、寺の中から、柔和な僧が出てきて、入
門希望者を寺の中へと招じ入れてくれるのです。このような入門制度は、厳しいようですけれど、本人の
ためには、とてもいいんです。修行に対する甘い考えが吹っ飛び、道を求める謙虚な態度が生まれます。

「唯一会でも、やろうかしら?」とふと思いますが、私(森島)にできないことを、弟子にやらせるわけ
にはゆきませんから、唯一会では、そんなに厳しい入門制度はとりません。私に信用がないのですから、
そんな厳しいことをしていたら、一人も入門してこなくなってしまう。(笑)但し、神様を求めてゆく気
持ち、道を学ばせていただきたい、という謙虚な気持ちを持つ事が必要であることは、やはり同じである
のです。そうした神様を強く求める謙虚な信仰態度が、イエスの癒しのように奇蹟を起こすのです。

皆様の天命が完うされますように


「世界平和の祈り」の持つ大きな力に導かれている私たち
No.1466 森島恒吉    1999/11/15 (月) 02:02 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

himeさんにご返事したら眠ろう、と思っていたら、すぎぴいさんとケントさんからもコメントをいただい
たので、少々眠たいのですが、また書いております。すぎぴいさん、遠く大阪から唯一会の集会にご参加
下さって、ありがとうございます。すぎぴいさんばかりでなく、唯一会の集会に参加されるために、何時
間もかけて、遠くから来て下さる方々を思いますと、いつも私は本当に涙が出るほど嬉しく思います。

すぎぴいさんがお書きになったように、私たちが一つの場所に集まって、心を一つに「世界平和の祈り」
を祈れるということは、それじたい、「世界平和の祈り」の持つ力であるのです。救世の大光明の持つ力
が、日本全国に散らばっていた同志を引きつけあい、結びつけて下さっているのです。救世の大光明の力
が、唯一会を結成し、私たちを一つ所に集め、「世界平和の祈り」を祈らせて下さっているのです。今後
「世界平和の祈り」の持つ計り知れない大きな力は、ますますその真価を発揮してゆくことでしょう。

ケントさん、五井先生のご法話を皆さんにお伝え下さって、ありがとうございました。ケントさんは、高
校時代にバンドをなさっていたんですね。得意の楽器はなんでょう?歌をよく歌っているようですから、
ボーカル担当だったのかな。たまには音楽のお話を、皆さんに聞かせてあげて下さい。(^_^)

皆様の天命が完うされますように


統一行について
No.1473 森島恒吉    1999/11/16 (火) 14:59 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[Uさんからのご質問]
五井先生や村田先生のご本を読ませていただいておりますが、「統一」ということが全くイメージできま
せん。統一するとは、どうしたらいいのでしょう、どうなった状態が統一できた、ということなのでしょ
う?もし、時間がありましたら、御教授ください。

[お答え]
五井先生の宗教は、総合宗教といいまして、神道、仏教、キリスト教などのすべての宗教を生かす宗教で
ありますから、宗教用語でも、神道的な言い方や、仏教的な表現、キリスト教表現が混在していることが
特徴です。神道やキリスト教で用いる「お祈り」という言葉があり、仏教用語の「業」とか「統一」とい
う言葉も用いられます。それが慣れない人にとっては、判りにくくなっているのかもしれません。

統一というのは、一つに統(す)べる、ということで、神様のみ心に人間の心を一つにする、という意味
です。また、ふつうの人間には分裂した迷った想念がありまして、分裂した想念を本心一つにまとめる、
という意味もあります。

お祈りと統一とは、同じ意味であるのですが、お祈りという場合、祈り言をイメージするのに対して、統
一というのは、正座瞑目している姿勢がイメージされます。そして、その統一行によって、肉体の想念が
本心の座と合体することを神我一体といいます。どのような状態が、本心に統一できた状態かといいます
と、怒り、嫉妬、不安、恐怖、迷い、欲望の業想念が全くなく、明るく清らかで安心している状態です。

五井先生は、ご本では「世界平和の祈り」だけを説いておりますが、直接にご指導を受けたい、とやって
来る会員に対しては、特別に、柏手・霊笛(口笛)・印による統一指導をなさって下さったのです。自分
一人で統一するには、心の中で「世界平和の祈り」を唱えたり、守護の神霊に感謝したりする必要がある
のですが、道場に来られて、統一する場合には、五井先生のご指導にお任せして、ただ座っているだけで
よいのです。中には、グーグーと眠っている人もいるくらい、他力の統一行であったのです。

統一行の形式としては、正座瞑目して、両手で如来印を組みます。如来印とは、親指と人指し指の先端を
合わせ、丸い輪の形を作り、両手の輪を鎖のようにつないで、膝の上にのせます。背筋は伸ばしますが、
後ろに反り返るのではなく、ほんの少し前傾して、上半身の重心が丹田に落ち着くように座ります。

統一しておりますと、自然に指がほどけて、合掌印になったり、法界定印になったり、阿弥陀定印に変化
することがありますが、それは守護の神霊が、なんらかの霊的な必要があって、あなたの手を動かしてい
るのですから、意味がわからなくても、そのまま自由に動かしておいてかまいません。

感覚としては、体が熱くなったり、エレベーターに乗ってスーッと上昇してゆくような気がしたり、風船
がふくらむように、自分の体がどんどん宇宙大へと大きくなってゆく気がすることもあります。あるいは
透明になったり、自己の体が光輝く気がすることもあります。また、霊視、霊聴が現れてくることもあり
ますが、自己の潜在意識に蓄積された欲望が、そうした現象となって現れることもありますから、すべて
の現象を一度は、消えてゆく姿として否定し、把われてはなりません。

統一行の目的は、神我一体であり、不安恐怖なく、迷いなく、常に心が明るく、愛の光が満ちていて、何
事にも感謝できる心境に到達することです。個人の霊性開発は、同時に周囲の人々に光明を与え、世界人
類に光明を放射していることになるのです。

一人で統一する時には、自己に潜んでいる業想念や、外界からの業想念波動の影響を受けやすくなり、低
い幽界の業波動に把われてしまうことがありますから、統一行の時には必ず、守護の神霊の加護を頼んで
から、統一に入ることです。

それから、超越的な感覚が何もなくとも、心の中で常に「世界平和の祈り」を祈っていさえすれば、その
人は最高の統一状態だった、と言えますから、何も感じられないからといって、ご心配はいりません。

日常生活における不断の統一行としては、歩いていても寝ていても、形はどうでもいいですから、常に
「世界平和の祈り」を心の中で唱えていることです。定時の祈りよりも、瞬々刻々、「世界平和の祈り」
をたえまなく唱えていることが、霊性開発に効果的なのです。

また、個人で祈るよりも、集団で「世界平和の祈り」を祈ることが、個人の霊性開発にも世界の光明化に
も非常に効果を発揮するので、もしもお時間がありましたら、できる限り、唯一会の集会にご参加される
ことをお勧めいたします。

あなたの天命が完うされますように


「世界平和の祈り」で徳を積もう
No.1480 森島恒吉    1999/11/17 (水) 23:18 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

白うさぎさん、ご質問をありがとうございます。

[質問1]
森島先生に質問なのですが、、、徳を積むって、どういうことをすると、徳がつまれるのでしょうか。

[お答え1]
徳を積むというのは、功徳行(くどくぎょう)を積むということで、布施・自戒・念仏・喜捨・造仏など
の善の行為を積むことです。やさしくいえば、貧しい人やお坊さんにお米や野菜をさしあげたり、悪い行
為をしないように反省したり、念仏を唱えたり、お寺を建てるのに寄付をしたり、仏像を造ったりするこ
とが、徳を積むことになります。

布施行を細かくいいますと、財物をほどこす財施、道の教えを説く法施、種々の不安恐怖を取り除く無畏
施(むいせ)の三つがあります。物施よりも、霊性を開発させる法施や人々を安心させる無畏施のほうが
高い徳を積むことになります。

貧しい人にお金を寄付したくても、自分に余裕がなければできないのですから、無理をしないで自分に合
った方法で、人のために尽くせばよいのです。お金を必要としないで、人のために尽くす最も簡単な方法
は、お祈りすることです。お祈りすることが、人々のためになり、自分の徳を積むことになるのです。

お祈りの中でも「世界平和の祈り」は、個人人類同時救済の力のある祈りですから、現在の日常生活のま
まで、「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆくだけで、大きな徳を積むことになります。「世界平和の祈
り」を人に教えることは、法施となり、無畏施ともなり、徳を積むことになるのです。

また徳の積み方には、陰徳と陽徳の二通りがあって、陰徳とは人に知られぬように善の行為をすること、
陽徳とは人に知られて褒められつつ善の行為をすることですが、陽徳よりも陰徳のほうが徳が多く積まれ
るのです。陽徳は、すでに「人々から褒められた」という報酬を受けたのですから、それだけ天に積んだ
徳の宝が消えてしまっているわけです。これは聖書にも同じ真理がありまして、「汝は施しをなすとき、
右の手のなすことを、左の手に知らすな」とイエスは陰徳の大事さを説いております。

老子によりますと、徳の行為には、さらに上徳と下徳の二つに分類できる、と言うのです。下徳というの
は、「徳を積もう」「徳を積まなければならない」と自我意識をもって徳を積む行為ですが、上徳という
のは、そうした自我意識を持たないで、少しも報いを求めずに無為にして人を愛し、無為にして善の行為
をすることです。そして、聖人は上徳を行なう、と老子は説いているのです。

聖人のように、少しも報いを求めずして無為にして徳を積む、というのは難しいことですから、普通人は
報いを求めて善行為をしてもよい、と私は思います。善行為をしないよりも、少しでも善行為をしたほう
がよいからです。どういう形であっても、人々のために尽くした善行為が、いつかは自分に戻ってくるわ
けです。人々のために尽くすことは、自分を幸せにするだけでなく、子孫の人生をも幸せにします。無理
をせずに、人を愛し、人に尽くす一番やさしい善行為は、「世界平和の祈り」を祈ることであるのです。
(つづく)


「世界平和の祈り」を祈れば美人になれます!
No.1481 森島恒吉    1999/11/17 (水) 23:26 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ひきつづき、白うさぎさんのご質問にお答えします。

[質問2]
藤原のりかさんや吉川ひなのさんみたいな超美人の人は、前世でどういう徳を積んだのでしょうか。来世
で美人になるには、どういう徳を積むと、美人になれるのでしょうか。教えて下さい。

[お答え2]
テレビのCMモデルになるほどの美人は、やはり過去世で、「心を美しくする」徳を積んだ人たちなので
す。だから、この世で多くの人に愛されているのです。今生ではまったく宗教に関心のない人のように見
えていても、過去世では尼寺で心を美しくする修行をした人が、今生で美人に生まれてきていることが多
いのです。そして、「来世ではふつうの女性として生きたい」と願った人は、宗教とは別世界の多くの男
性と交際できる環境で生活することになるのです。これは男性の場合にもいえることで、過去世で山寺で
修行をしたものの貧しさを痛感し、「社会をよくするには、経済力が必要だ、金もうけが必要だ」と思っ
た人は、今生では、宗教心のかけらも見せずに、ひたすら金を儲けることに励んで財産を作るものです。
「実業界の経営者を見ると、案外過去世で宗教縁のある人が多い」と五井先生はおっしゃっていました。

前世で心を美しくする徳を積みますと、今生で美人になることが多いのですが、尼寺へ入るために、男性
との交際を断とうと、自分で顔を火箸で焼いて男性との執着を断ち切った、という凄まじい女性も、過去
には実際にいたようです。すると、その想いが今生までも続いて、美人ではない顔となって生まれてくる
のです。そこまでやらないにしても、過去世で結婚生活に絶望して男性を嫌ったり、男性に好かれまい、
と思った人は、今生でそのような顔になるのです。ですから、過去世の誤った想念癖をきれいに消さない
と、顔はきれいにならないし、幸せな結婚もできないのです。

なぜ、女性は美に憧れるかといいますと、人間の本体は、美人であるからです。本体の自分は、誰でも美
人なので、本体の美人の姿を顕現したいと思うのです。「美しくなりたい」という想いは欲望ではなくて
本体から伝わってくる想いであるのです。ですから、女性が「美しくなりたい」と願うのは当然のことな
のです。では、どうしたらもっと美しくなれるのか、という問題になりますが、表面的な美については化
粧会社や美容形成や医師に相談されたらよろしいでしょう。私の役目は、心を美しくすることによって美
を現わしてゆくことですから、美しい言葉を使うことと、美しい祈り言を祈ることをお勧めします。

美しい女性も、夫婦ゲンカばかりしていたら、眉間にシワが寄り、険悪な鋭い目つきになり、汚い声にな
ります。美しい顔も、怒ったり、妬んだり、不平不満を言ったり、いつも泣いたりしていたら、美しくな
くなってしまいます。心を明るく、愛深く、美しい言葉を常に使っていれば、いわゆる雰囲気美人になり
ます。よくよく眺めると美人ではないが、雰囲気が美人なので男性に好かれる、という女性がいますが、
美しい言葉やお祈りをしていると、そういう雰囲気美人になることができます。

五井先生は「ご婦人はとしをとってくれば、顔が梅干しみたいになってくるけれど、世界平和の祈りをし
ていると、シワの一本一本が光ってきます」とおもしろいことをお話なさっていました。「世界平和の祈
り」をしていれば、心が美しくなるのですから、顔も美しくなってゆき、魂の輝きによる魅力が出てくる
ようになります。あなたは、すでに「世界平和の祈り」を熱心に祈っているのですから、ますます美人に
なるのは約束されているのです。それでも満足できなければ、このように祈るとよろしいでしょう。

守護霊様、どうかますます美しい私になりますように

あなたは、必ずますます美しい女性になります。
「世界平和の祈り」を祈ってゆきましょう。


その時の想念波動に合致した祈り言をするのが効果的
No.1486 森島恒吉    1999/11/18 (木) 12:06 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ご質問をありがとうございます。

[質問]
「過去世の誤った想念癖をきれいに消す」ための効果的な方法が、(今まで教えて頂いている方法の他
に)何か、特にありましたら、ご教示頂けないでしょうか?

[お答え]
最高の祈り言は「世界平和の祈り」ですから、私は「世界平和の祈り」を常に勧めておりますが、神のみ
心にかなった正しい祈り言であるならば、その人その人に合った祈り言を自由にすればよいので、必ずし
も常に「世界平和の祈り」でなければならないと、あまりかたくなに考える必要はないのです。

「世界平和の祈り」が、今の自分の心境からあまりにも高すぎて祈りにくい、という時もあるものです。
その場合には、自分のその時の想念波動に合致した祈り言を祈ることが、統一に入る秘訣でありまして、
その段階から、しだいに高い境地へと昇ってゆけばよいのです。

ご質問の場合には、「過去世の誤った想念癖を、効果的にきれいに消したい」と願っているのですから、
そのような想いに祈り言を合わせて、このように祈ればよいのです。

「神様(守護の神霊)、私の過去世の誤った想念癖を、最も効果的な方法で、きれいに消して下さい。
…世界人類が平和でありますように」

このように祈れば、「自分の過去世の誤った想念癖を、効果的にきれいに消したい」という想念そのもの
が消えてゆき、悩みがなくなって、「世界平和の祈り」に統一できるようになります。

皆様の天命が完うされますように


私達の天命
No.1491 森島恒吉    1999/11/21 (日) 22:36 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

[青竜さんからの質問]
よろしければ、平和の祈りの中の、《私達の天命が完うされますように》の天命は、どのような意味なの
か、教えていただけないでしょうか?

[お答え]
「私達の天命が完うされますように」の天命とは、天から授けられた使命、という意味であり、天命を完
うするとは、神から授けられた使命を完全に達成することです。自分の気質に合った天職を完うする、天
寿を完うする、という意味も含まれております。

天から授けられた目標とは何か、といいますと、神の理念である平和な世界を実現するということです。
私たちは、何の目的もなく生かされているのではありません。日々、目の前の仕事に追われているように
見えながらも、世界を平和にするための一つの役割を持って生かされているのです。人生に失望して自殺
してしまう人がいますが、「自分なんて生きる価値がない。自分は存在する意味が無い」と悲観してしま
ってはいけません。すべての人に、尊い天命が授けられているのです。

「何かわからないけれど、自分には生きているかぎり天命があるんだ」と知ることは、貧乏であっても、
病気であっても、不幸にあっても、毎日をどんなに生きがいのある人生にすることでしょう。せっかく神
様から授けられた貴重な生命を、自分の思い通りにならないから、といって悲観して、みずから命を絶っ
てしまってはいけません。どんな境遇にあっても、生かされている限り、なんらかの天命が必ずあるので
す。生かされている限り、天命があるのですから、たとえなんの喜びも感じられなくても、生きて生きて
生き抜かねばなりません。理由がわからなくても、神から見れば、必ず生きる意味があるのです。

私たちに共通した天命とは、世界平和を実現する、という天命であり、その具体的な行動として、「世界
平和の祈り」を祈る天命があるのです。将来は、地球人類すべての人々が、「世界平和の祈り」を祈る日
がやってくるのです。それは人類の天命であるからです。そうした世界を平和にする天使としての大天命
を持つと同時に、私たちは自己の肉体という器を生かす個人の小天命も持っています。また、一生涯を通
して果たす長期の天命と、今日だけの天命、明日だけの天命、というように短期の天命もあります。です
から、天命とは、一生涯に一つだけではなく、生まれてから他界するまで、日々瞬々刻々、たえまなく多
くの天命が授けられているのです。

「私達の仕事が成功しますように」「私達が幸福になりますように」と個人的に祈ることはかまいません
が、「世界平和の祈り」では、そのような表現の祈り方はとらず、「私達の天命が完うされますように」
と祈ります。それには理由があるのです。それは現象の一時の成功、失敗や、幸福、不幸に把われさせな
いためであるのです。神のみ心から見れば、その人の天命を完うさせることが、第一に優先させるべきこ
とであって、その時その場の失敗や不幸などは、問題にしてはいないのです。肉体人間の欲望想念で計画
した目標は、ときとして誤っていることがあります。その人の天命を完うするためには、肉体人間の計画
した目標が成功しないほうがよい時があるのです。いいかえれば、その人の天命を完うするためには、肉
体人間の設定した目標が、失敗したほうがよい時もあるのです。現象の幸福が真の幸福につながるとはか
ぎりませんし、現象の不幸が真の幸福を得る動機になるかもしれません。天命を完うするためには、一時
的に失敗や不幸の経験を経たほうがよい場合もあるのです。

「禍転じて福となす」「人間万事塞翁が馬」「福必ずしも福ならず、禍必ずしも禍ならず」ということわ
ざのように、失敗がより大きな成功へとつながることがありますし、不幸な環境で苦労した人がその体験
を生かして成功する人もいます。ですから「私達の天命が完うされますように」と祈っていて、失敗や不
幸があっても、「これは天命を完うするために必要な経験だったのだ」とそれに把われず、「これから人
生が良くなってゆくのだ」と明るい未来を信じてゆくことです。自己の天命の完うを祈っておりますと、
天命を完うするために必要な目標、必要な仕事、必要な環境が与えられます。私達の天命は、世界の平和
と個人の幸福を同時に成道する、実現することであり、「世界平和の祈り」を祈ることであるのです。

皆様の天命が完うされますように


真の幸福は感謝の祈りにある
No.1495 森島恒吉    1999/11/23 (火) 04:55 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

神社で参詣する人々の祈願絵馬には、「何々大学に合格できますように」「家内安全商売繁盛」「某さん
と結婚できますように」「健康になりますように」「お金持ちになりますように」などと書かれていて、
切実な願いが伝わってきます。そうした現世の願いを聞き入れる神社やお寺の寛容さには、ほほえましく
感じるものの、私は真実の宗教信仰のあり方を説かずにはいられません。

一般で考えられている宗教の道とは、現世利益をかなえてくれる道であるのですが、真の宗教の道とは、
欲望をなくす道であり、何も得られなくても、感謝できる心境になる道であるのです。何かが得られたか
らありがたい、というのは功利的な感謝でありまして、宗教の感謝ではありません。何も得られなくても
ありがたい、と感謝できるようになることが、真の宗教の目的であるのです。

そのためには、一度自己の欲望を放棄することです。「あれが欲しい、これが欲しい」という欲望をすべ
て捨て去ることです。神様は必要なものはすべて与えて下さるのですから、神様から与えられる以上の物
質的欲求は持たないことです。天命を完うするために、必要でない物ならば、与えられません。天命を完
うするために必要であるならば、与えられます。借金をしなければ買えないような物は、買う必要がない
のです。どんなに欲しい物でも、借金をしてまで買う必要はありません。借金をするような無理をしては
いけません。無理をしないためには、自己の欲望を無くすことです。

私達は、みんな裸で生まれたのでありまして、自分の物など一つも持ってはいないのです。何も持ってい
なくても、神様から尊い生命を授けられ、得難き肉体を与えられたことに、私達は深く感謝しなくてはな
りません。借金を重ねて苦しんでいる人々は、現状に感謝することができず、欲望に翻弄された結果にほ
かなりません。お金がなくて買えない物は、お金ができてから、それを買うことです。お金をたくわえる
前に買ってはいけません。それは神のみ心ではありません。「借金をしてもいいから買いなさい」と神は
言いません。お金がなくて買えない、ということは、神がその物をあなたに与える必要がない、と思われ
ているからなのです。あなたに必要な物は、借金をしなくても、神は与えて下さるのです。

借金をして欲望を満足させる癖がつきますと、欲望が湧いてくるたびに借金をするようになってしまいま
す。欲望は無限なのですから、欲望を満足させるたびに借金を重ねてゆけば、借金は無限にふくらんでゆ
きます。もう一度申しますが、神は、あなたに借金をさせてまで、物を与えようとは思っておりません。
借金はできるかぎりしないで、現状に感謝する生き方を学ばねばなりません。神が、あなたに必要だと思
われれば、借金などしなくても、ポンと与えて下さるものなのです。そこで大事なのは、神への感謝の祈
りであるのです。自己の欲望をすべて捨てて、神様から与えられた物質の範囲で、神に感謝して生活する
ことです。私は、自分の生活がどんなに苦しくても、借金だけはしないように生きてきました。その生活
で学んだことは、自己の欲望を捨てる、ということでした。

今、私は富士宮市の借家に住んでおりますが、市内でも最低の家賃です。その理由は、大家さんには申し
訳ありませんが、30年以上もたつ古い木造のオンボロ家だからです。トイレはくみ取り式で、そのため夏
はハエが大発生して、ハエ取り用の線香が欠かせません。ネズミが天井裏を走り回り、夜中になると部屋
の中にもかかわらず、手のひら大の巨大なクモが、目の前に突然現れるのです。餌をやっているわけでも
ないのですから、私になつかないでほしいのですが、なぜか親しそうに私に近寄ってくるのです。そのた
びに、私はスプレーで、シュッシュッと洗剤液を吹きかけて退散させます。玄関にクモがいたら、扉を開
けて「出ていってくれよ」と言いますと、スタコラサッサと出てゆきます。

こんなオンボロの家に住んでおりますが、私は借金がありませんから、借金の苦しみがありません。そん
な私の生活とは、反対の生活をしている知人がおります。彼は立派なマンションに住んでいたのですが、
自分の欲望を抑えることができず、クラブに通っては好きな女の子に数百万円も貢いだり、一攫千金を夢
見て、博打のような事業に手を出したりして、膨大な借金を作ってしまいました。そのために、とうとう
マンションを売り払ったのですが、それにもこりず、再び借金を重ねては、憂さを晴らすためにカラオケ
に遊びに行っています。私は彼に「借金をするな」と言ったのですが、一度ついた癖は、なかなかとれな
いようです。借金に追われた豪勢な生活よりも、借金のない極貧の生活のほうが、どれだけ心が楽か、計
り知れません。欲望は際限のないものです。欲望を捨てて、神に感謝することを覚えることです。

神様、ありがとうございます。
神様、ありがとうございます。
神様、ありがとうございます。

と、ひたすら神様に感謝するのです。欲望を捨てて、神様への感謝の祈りに入る時、一物も持たずして、
巨富を得た喜びとはくらべものにならないほどの無尽蔵の喜びを得ることができるのです。欲望を無くし
た時、はじめて無尽蔵の喜びを得るのです。あらためて申しますが、宗教の道とは、欲望を無くし、欲望
を純化する道です。欲望を追い求める道ではありません。欲望を追い求めている限り、真の幸福は得られ
ません。欲望を捨て、不平不満を捨てた時、神様への感謝の道が開かれるのです。日々を神様への感謝一
念で暮らしている人ほど、幸せな人はありません。真の幸福は、神様への感謝の祈りの中にあるのです。

神様(守護霊様、守護神様)、ありがとうございます。


「世界平和の祈り」の力は、今後いよいよ発揮されてくる!
No.1497 森島恒吉    1999/11/24 (水) 01:02 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

クリクリさん、はじめまして。数カ月前からお読みいただき、貴重なコメントをお寄せいただき、ありが
とうございます。クリクリさんのおっしゃったように、宗教者は、言葉よりも行ないが、すべてですね。
まず、説いている教えの中に矛盾があってはいけません。昨日説いた法話と、今日説いた法話が、まるで
反対で矛盾しているようでは、教えが分裂してしまい、信仰することができません。そして次に大事なこ
とは、説いている教えと行動が一致していることで、口先では立派なことを説いても、その立派なことを
行為に現せないのでは、かえって、その宗教者としての人格がマイナスされてしまいます。

私達は、常に「世界平和の祈り」に心を統一しつつ、教えを拡大するように努めております。書店に行き
ますと、新しい宗教書や新しい思想の本が、次々と並べられていますが、私達はそうした宗教書や思想の
本に少しも左右されることがありません。新しい宗教思想といっても、過去の思想体系に分類整理できる
からです。クリクリさんのおっしゃるように、一つの道をとことん究めることが大事であると思います。

一向一心に、わき目もふらず一向称名してゆく、そして一道を究めれば、すべてがわかってきます。たと
えば、最近の傾向として、守護の神霊に頼らずに、自己の想念力だけで運命を開いてゆく、という成功思
想の本が多く出版されていますけれど、数百年数千年と古から続いている他力称名念仏の方法は、天才的
宗教者の開いた方法であるのですから、今の時代に至っても尚、その原理を超える思想はありません。新
しい成功理論だとか、新しい成功思想といっても、古代の南無阿弥陀仏の原理に勝るものはありません。

それなのに、なぜ人々はやらないかというと、その方法がやさしすぎて、インテリ向きではないと思って
しまうからです。「神様、ありがとうございます」という簡単な祈り言でも実行すれば、必ず祈りの効果
が発揮されてくるのに、外部の守護の神霊にすべてお任せするというやり方が、どうもインテリでないよ
うな気がするのです。「人々から、あの人は知性的な人だ、と思われたい」という想いが邪魔して、素直
に守護の神霊に全託できないのです。守護の神霊にただお任せするのでは、自分が馬鹿な人間に思われや
しないか、と心配してしまい、素直に守護の神霊にお任せできないのです。他力の道はやさしいのに、他
力の道に飛びこむ人が少ないのは、このような変な見栄があるためなのです。

他力の道は、知性の極致の選択であり、知性に秀れた人こそ、他力の道に進むはずなのです。五井先生が
「世界平和の祈り」の道を、易行道的法華経と説いたのは、「世界平和の祈り」の道は、誰でもが易しく
行える他力の道でありながら、祈りの力によって、いつのまにか想念が変換されて、法華経の境地が忽然
と現れてくるからです。まずは腰を落ち着けて、じっくりと「世界平和の祈り」に専修されることをお勧
めいたします。朝から晩まで、「世界人類が平和でありますように、世界人類が平和でありますように」
と唱えることを実行してみるのです。それを三カ月三年間とつづけていれば、神秘的な道力が身に備わっ
てくることに気がつくはずです。

「世界人類が平和でありますように、世界人類が平和でありますように、………」と唱え続けております
と、救世の大光明につながり、自己の想念波動が神々の大光明波動と合致して、超越的な能力が発揮され
てくるのです。私達は「世界平和の祈り」だけを唱え、「世界平和の祈り」だけを広めております。そう
しておりますと、「世界平和の祈り」の純粋な波動に合致した人々が、私達のもとに世界中から自然に集
まってくるのです。私の力ではありません。「世界平和の祈り」の持つ光明力が人々を導き引きつけて、
世界中から秀れた人々を集めてきて下さるのです。「世界平和の祈り」の力は、実に偉大であるのです。

皆様の天命が完うされますように