森島恒吉先生の法話集(過去ログ)



他力行即神我一体
No.1701 森島恒吉    2000/02/17 (木) 23:56 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

自力では、どうにもならないのですから、「神様、世界人類を救って下さい」という願いをこめて、世界
平和の祈りを祈ってみるとよいのです。(P22)

皆さん、ぜひぜひ「世界平和の祈り」を祈りつづけて下さい。法然、親鸞の、個人的他力行から、人類そ
のものの「他力行即神我一体」の道が、今日から開けてゆくのであります。(P25)

真実、平和だけを願う会合を重ねてゆく必要があるのです。…そうした会合を重ねてゆくことによって、
意外な大智慧が浮かんできて、お互いが傷つかず、お互いの損得が平均するような話し合いが生まれてこ
ないとは言えません。(P33)

以上は、「平和を呼ぶ声」五井先生著(白光真宏会出版局)からの抜粋ですが、「世界平和の祈り」は自
力ではなく他力の祈りであること、他力行が絶対力の神我一体に変換されること、「世界平和の祈り」を
共に祈る会合を重ねてゆくことによって、意外な大智慧が浮かんでくること等、いずれも重要な五井先生
の教えを紹介しました。他力行が絶対力の神我一体に変換されるのだ、と知れば、他力行一本槍になれま
す。唯一会の集会を重ねることによって、意外な大智慧が次々と浮かんでくるようになると、私も信じて
います。唯一会集会で、共に五井先生から霊的大智慧を授けていただきましょう。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


他力行即絶対力
No.1705 森島恒吉    2000/02/19 (土) 02:26 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

折原さん、「他力行即神我一体」について、素晴らしいお話をありがとうございます。
「私たちが世界を平和にする」という表現が、正しいのか否か、というご質問ですが、こうした言い方も
誤りではありません。肉体人間の立場に立てば、「守護の神霊によって、世界を平和にしていただく」と
いう表現が適当であり、神の子人間の立場に立てば、「私たちが世界を平和にする」という表現が適当と
なるのですから、どちらも正しいのです。

折原さんの「私たちが世界を平和にする」という言葉には、守護の神霊に全託し、神我一体の絶対力を発
現した、私たちが世界を平和にする、という意味が含まれているのでありまして、守護の神霊に助けを求
めようとせず、自力だけを認めた、私たちが世界を平和にする、という意味とは、全く異なるのです。

内なる神だけを認め、外部からの働きかけである守護の神霊を認めないことが、さもインテリのように見
えるので、内なる神の発現だけを説いている宗教者がおりますが、守護霊、守護神は、真実は内なる神に
含まれているのでありまして、守護の神霊の応援なくしては、自己の内部神性は、発現できないのです。
守護の神霊に助けを求めずに、「私は神である」という想念を自己に言い聞かせて、自己の内部神性を顕
現させようとしても、それは不可能であるのです。

自己の内部神性でさえ顕現できないのですから、他人に向かって、「あなたは神である」と宣言したり、
「あの人は神である」と幾度唱えてみても、対する悪人が善人に変わったり、病人が健康人になることは
ないのです。一時的に他者暗示をかけることはできても、他人の神性を顕現することはできません。真理
の言葉を何度唱えても、真理はそうやすやすと実際行為に現れることはないのです。真理宣言法は、真理
を実行できる人以外は、真理が顕現されるどころか、かえって、偽善者を生んでしまうのです。

守護の神霊に全託しようとせず、内なる神といって、自力だけで自己の神性を現そうとしても、世界を平
和にしようとしても、神性も平和も実現することはできません。それはなぜかと申しますと、自力想念の
力だけで真理を現せるほど、業想念の力は弱くはないからなのです。業因縁の力というのは、過去世から
今生の運命を左右している非常に大きな力でありまして、自己の想念力で業因縁を超えることは容易では
ないのです。そこで、業因縁を超えることのできる守護の神霊に助けを求める必然性が出てくるのです。

「神様(守護の神霊)、世界人類が平和でありますように、お願いします」と守護の神霊に全託する行為
は、一見すると弱々しく見えるのですが、いつも申しておりますように、「他力行即神我一体」の変換原
理によって、守護の神霊に他力しますと、神我一体の絶対力が、自然に自己の行為に現れてくるのです。
この絶対力こそ、最強の力であるのですから、それまでの弱々しさは、すっかり消え去って、いかなる苦
難にあっても挫けず、立ち向かってゆけるほどの強くたくましい、勇気に満ちた自己に生まれ変わってい
るのです。ですから、私たちは「世界平和の祈り」を通して守護の神霊に全託するだけでよいのです。

この想念波動変換原理がわからないと、いつまでたっても、真実に守護の神霊に全託することができませ
ん。自力だけで神性を顕現しようと、思いつく限りの種々の行法を何年やってみても、神性を顕現するこ
とは不可能なのです。守護の神霊に全託する以外に、自己の神性も人類の神性も開顕することはできない
のです。この真実がわかる日まで、自力行者の自力行は、果てし無く延々と続けられるのです。つまり、
「自力行即神我一体」とはならないのです。あくまでも、「他力行即神我一体」「他力行即絶対力」であ
るのです。この意味が理解できた人こそ、「世界平和の祈り」の道に正しく乗った人、と言えるのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


「祈りの行」と「真理宣言行」
No.1707 森島恒吉    2000/02/20 (日) 01:34 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、体験談をお寄せいただき、ありがとうございます。青空さんは、「世界平和の祈り」によって
安心立命への道に入ることができたのです。青空さんもケントさんも折原さんも、「世界平和の祈り」だ
けの唯一の行によって、救われた先達であるのです。先達の皆さんの素晴らしい体験談は、後輩の人々に
とって、非常に有意義なものとなり、大きな勇気を与えるものとなるでしょう。

「世界平和の祈り」を祈る時は、「神様(守護の神霊)、お願いします。世界人類が平和でありますよう
に…」という気持ちでお祈りしますと、神のみ心に最も深く入れるのです。その結果、真実の安心、真実
の感謝の境地になり、時間の経過とともに、現世利益も授けられ、自己の現世での運命が上昇し、現世の
生活も向上してくるのです。この「世界平和の祈り」一つの行に徹することが、安心立命を得る最短距離
の方法であるのです。

神性開発の方法として、「祈りの行」のほかに「真理宣言行」を併用して勧めている宗教者がいますが、
五井先生は、この「真理宣言行」を「観念的な神の子観」と評していて、「祈りの行」一本槍に生きるよ
うに勧めています。「真理宣言行」とは、私が名付けた名称で、生長の家では「実相観」と名付けており
ます。「真理宣言行」とは、どういうものかと申しますと、「人間はすべて神の子で、不完全なものは無
いのだ」「悪い人は無いのだ」「善い人ばかりなのだ」「あの人はいい人なのだ」「あのことは善かった
のだ」と観念的に自己の心に、真理の言葉を言い聞かせようとする行法のことをいうのです。

五井先生は、生長の家の講師として、「祈りの行」と「真理宣言行」の二つの行法を併用して行じていた
のですが、「真理宣言行」では観念的神の子観から抜け出ることができず、「祈りの行」のみが自然法爾
的に人間神の子の実観を体得できることを発見したのです。「私は神の子である、あの人も神の子である
人類も神の子である」と強くイメージして、真理の言葉を宣言したところで、所詮、観念的神の子観であ
り、「人間神の子」を実観できなかったのです。それに対して、「祈りの行」に行法を統一してみたら、
いつのまにか、「人間は神の生命そのものである」という真理を、実観として悟ったのでした。

その体験から、五井先生は、「真理宣言行」の行法を捨て去り、「世界平和の祈り」という「祈りの行」
一つに単純化したのです。守護の神霊に対して、世界平和を願う祈りをしつづけてゆくうちに、真理の言
葉を宣言しなくても、いつのまにか、無理なく、真理が開顕されることを体験したのでした。五井先生が
体験された悟りは、遅かれ早かれ誰でも体験できるのです。五井先生に教えていただいたように、私も、
「世界平和の祈り」に統一したら、安心立命を授けられました。私の指導を受けて、「世界平和の祈り」
に全託した同志は、次々と安心立命を得ております。余計な行法をするから、かえって悟りへの道が遠く
なるのです。後輩の皆さんも、余計な行法を捨て去り、「世界平和の祈り」一つに全託してみましょう。
観念的に自己の心に真理の言葉を言い聞かせなくとも、自然に人間神の子を実観できるようになります。
「真理宣言行」を捨て、「祈りの行」に専念した時、真理は行為となって忽然として現れてくるのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


「世界平和の祈り」の生活は、楽しい成功の旅である。
No.1718 森島恒吉    2000/02/25 (金) 14:00 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

ケントさん、ご質問をいただき、ありがとうございます。

[質問]
平均的な人間の生まれ変わりの回数が仮に500回とするなら、500生分に蓄積された業が消えていくには、
やはり500生涯相当の時間がかかるということになります。これでは、到底、今回の一生涯で、どれだけ
頑張ってみたところで、1/500しか業を減らすことができないということになります。神界(或いは、悟
りといっても解脱といってもいいのですが)への階梯に向かう速度とは、やはりこの程度に遅いものなの
でしょうか?
五井先生のオーソドックスな教えに従い、「神様、お願いします」で一心に「世界平和の祈り」に他力す
る生活を送った場合には、霊性開発の速度が乗数的に倍加していき、神界へ向かう(すなわち解脱する)
のも二三生から十生くらいで出来るのでしょうか?
それとも、「神様、お願いします」で一心に「世界平和の祈り」に他力した場合でも、500生に渡って蓄
積されたカルマがなくなるのには、やはり同程度の回数の生涯がかかるのでしょうか?

[お答え]
過去世からの業因縁は、現象に現れれば必ず消えるのですが、現れたその同じ業因縁を「消えてゆく姿」
と思わずに、「いつまでも存在する姿」と錯覚誤認して把えてしまうがために、民族紛争に見るように、
お互いに怨念を断ち切れず、報復や復讐を重ねてしまうので、同じ業想念が再び幽体に記録蓄積されてし
まい、業因縁が消えてゆくよりも、業因縁を蓄積してゆくほうが多かったために、人類は現在、滅亡する
寸前まで来てしまったわけです。

業因縁には、個人の業因縁、親族先祖の業因縁、民族と民族との業因縁、国と国の業因縁、人類の業因縁
がありまして、国民の想念が国の政治に反映され、国が戦争を始めれば、個人の運命が大きく影響されま
すし、前世ではイギリス人であった人が、現世ではフランス人として生活していることもあり、種々の要
因が複雑に重なり合っているので、業因縁の消えてゆく年数は、個人差があり、一概に言えません。

二千年間かかって蓄積された人類の業因縁が、どんな方法を使おうと、一年や二年でそう簡単に消え去る
はずがありません。しかし、同じ二千年間をかけなくとも、もっと短期間の数百年間で業因縁を消し去る
ことは可能であり、その方法はあるのです。それが守護の神霊への祈り言であるのです。過去世から蓄積
されている業因縁を早く消し去り、今後の業因縁を作らないために、先覚者たちは、守護の神霊の存在を
説き、守護の神霊に救いを求める祈り言を教えて下さったのです。守護の神霊に祈ることによって、人類
の業因縁は急速に浄められ、本心顕現が促進されることを先覚者たちは知っていたのです。現在では、大
神様の慈愛によって、「世界平和の祈り」という最も効果的な業想念消滅の方法を授けられました。「世
界平和の祈り」を祈ることによって、人類の業因縁消滅の期間を急速に早めることができるのです。

「世界平和の祈り」以外の祈りや行法では、個人の救われはあっても、地球人類は救われません。「世界
平和の祈り」以外に、世界平和を熱望するだけの純粋で、単純で、短い、誰にもわかりやすい個人人類同
時成道の祈り言が、他にあるでしょうか。私は、「世界平和の祈り」以上の祈り言を知らないのです。さ
て、この「世界平和の祈り」を正しく祈った場合、どのくらいの期間で個人の業因縁(カルマ)が消え、
業因縁の渦から解脱できるのかは、これも一概には言えないのですが、少なくとも今生の内に皆さんが解
脱できるように、五井先生も私も指導しているのです。ですから、「今生のうちに救われるのだ」「今生
のうちに安心を得られるのだ」と信じて、「世界平和の祈り」をなさっていて下さい。

ところで、悟った時(解脱時)と業因縁がすべて消え去る時は、同時である、と思われるかもしれません
が、この二つは、必ずしも同時に成就するわけではないのです。五井先生は30歳過ぎに神我一体の悟り
を得られましたが、その時点で、五井先生の肉体が消え去ったわけではありません。五井先生の肉体が、
見違えるほど若い身体になり、完全健康体になったわけではありません。五井先生の近眼は、悟った後も
治りませんでしたし、悟ったからといって、髪の毛が増えたわけでもありません。五井先生は、業因縁の
回転の渦から解脱したので、業因縁は無くなった、と言えるのですが、肉体を持っている限り、人類の業
波動を全く受けないわけにはいきません。人類の業波動を少しも受けないのでは、人類の苦悩を感じるこ
とができず、人類救済の仕事はできないからです。

五井先生が、晩年、呼吸も困難なほどの烈しい喘息に襲われていたのは、個人の業想念ではなく人類の業
想念とはいえ、業想念そのものは、消えてゆく姿として存在していたからです。業想念が全く無ければ、
五井先生が病気の喘息症状になるはずがありません。釈尊にしても、イエスにしても、業因縁から解脱し
たのですが、釈尊は病気となって他界されましたし、イエスも十字架に磔にされて他界されたのは、肉体
を持っていた期間は、神性を百パーセント発揮できたわけではなく、解脱の後も業想念は消えてゆく姿と
して存在していたからです。しかし、普通人と異なって、肉体を捨て去った後は、いずれの聖者も、肉体
にまつわる業因縁は、もうすっかり消え去って、光り輝く霊身を顕現したのです。

私も、五井先生のみ教えを理解し、悟ったのですが、その瞬間から、私の不完全な姿がすべて消え去り、
完全なスーパーマンになったわけではありません。ただ、普通人と異なるところは、肉体の私にまつわる
業因縁や不完全な想念行為を、すべて消えてゆく姿として見ることができるようになった、という一点だ
けなのです。肉体を持っている私は、風邪を引いて喘息のように苦しむときもありますし、小さなケガを
することも失敗をすることもあり、さまざまな苦痛を感じる時もあるのです。現在の私の人格も、決して
完全とはいえません。そのような不完全な姿が、私の行為に現れていることは、現在の私に、業想念がま
だ存在しているからにほかなりません。しかし、私は、そうした不完全な姿を、「今は不完全な姿が存在
しているように見えるが、いずれは、すべて消えてゆくものである」と観じることができるのです。です
から、私は自他の不完全な姿に把われることはなく、安心立命の境地に常住していられるのです。

「世界平和の祈り」に全託し、守護の神霊に救われた実観を得た人にとりましては、自分の業想念が消え
去る時間が、たとえ何百年かかろうと、そんなことは、もう少しも苦でもなく、問題でもなくなってしま
うのですが、500生かかって蓄積した個人的なカルマは、「世界平和の祈り」に全託すれば、守護の神
霊の集団のお浄めの力によって、今生のうちに、すべて消し去ってもらえます。「世界平和の祈り」の光
明力は、それほど絶大なる浄めの力を持っているのです。

五井先生のオーソドックスな教えに従い、「神様、お願いします」で一心に「世界平和の祈り」に他力す
る生活を送った場合には、霊性開発の速度が速くなり、自己の魂が今生で神界の境地に達することは可能
なのです。私の若い頃、すでに他界されましたが、白光真宏会機関誌の「白光」の表紙絵を描いた多田栄
二さんと、「錬成会」で隣合わせの席になり、仲良くなって、五井先生が評価された霊性開発手帳を見せ
てもらいましたが、多田さんの統一時の霊位の座は、すでに神界の本心の座に接近していました。多田さ
んの過去世からの精進が実を結んだとはいえ、「世界平和の祈り」の力によって、今生でも統一時に神界
に昇ることができる人もいる、という実証です。

「世界平和の祈り」に全託してお祈りしますと、今生のうちでも、神界に到達することは充分可能である
のですが、統一時に神界に達し得ても、統一を解き、お祈りを終えますと、たいていの人々は、普通人の
心境に戻ってしまうのです。それは常時想念の座が、エレベーターのように上下に大きく変動しているか
らなのです。常時想念の上下の変動の幅が小さくなり、統一時の霊位の座と一つになり、統一時の霊位の
座が本心の座と一つになった時、悟った、解脱した、と言えるのです。ですから、寝ても覚めても、いつ
でもどこでも、24時間常に「世界平和の祈り」を唱えている必要があるのです。しかし、私たちは会社
に勤めていたり、学校に通っていたり、家事をしているのですから、24時間常時「世界平和の祈り」を
唱えているわけにはゆきません。祈りが必要であるからといって、祈りの行に一日のほとんどの時間を費
やしては、社会と調和してゆけなくなり、この世の生活が不自由になってしまいます。

そこで、悟りや解脱の時期に把われず、祈りの時間や行法にも把われず、カルマの消える時期にも把われ
ず、「世界平和の祈りを祈っていれば、私個人も人類も、いつか必ず救われるのだ」と信じて、日常生活
そのままで、「世界平和の祈り」を無理なく祈り続けてゆくことが最善の生き方である、というのです。
「世界平和の祈り」を祈り始めたことは、「悟り」という終着駅に向かって進行する列車に乗り込んだの
と同じなのです。列車に乗っていさえすれば、必ず目的の駅に到着するのですから、列車の中で想い悩ん
だり、ジタバタ暴れないで、外の景色を静かに眺めたり、おいしい駅弁を食べたり、友達と仲良くおしゃ
べりをしたりして、旅を楽しんでいたらよいのです。「世界平和の祈り」の生活は、「幸福と平和」とい
う駅に必ず到着することが神様から約束されている、喜びと感動に満ちた楽しい成功の旅であるのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


世界平和の祈りによる真理実現法
No.1720 森島恒吉    2000/02/26 (土) 18:54 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

荒川さん、ありがとうございました。ところで、荒川智之さんは、前にメールをいただいた荒川利幸さん
と兄弟なんでしょうか。今後も、よろしくお願いします。

五井先生が教えたかったことは、「真理の言葉は、悟っていない人でも誰でも言える」ということです。
真理の言葉を話しているからといって、それだけで、その人を信用したり、尊敬してはならないのです。
真理の言葉を何回くりかえし唱えても宣言しても、ただそれだけでは行為に現せるようにはなりません。
大事な問題は、「真理をいかにしたら行為に現すことができるのか?」ということなのです。真理の言葉
を話したり書いたりしている宗教書は、書店に行けば、数えきれないほど置いてあります。しかし、真理
の言葉を実際行為に現す方法を教えてくれる宗教書は、ほとんどありません。

「これは真理であるから、実行しなさい」と教える宗教者自身が、実際行為には、その真理を実行しえて
いないことが多いのですから、一般民衆が容易に実行できるはずがありません。ですから、一般民衆に対
して、真理の言葉をただ話すだけで自己満足しているようでは、現代の宗教者としては、失格なのです。
五井先生の偉大なところは、「いかにしたら、真理を一般民衆でも容易に実行できるようになるか?」と
思索され、「世界平和の祈りによる真理実現法」を発見されたことであるのです。真理の言葉は、誰でも
知っています。真理の言葉は、心境に関係なく誰でも言えます。真理の言葉は、誰でも宣言できます。

もう、そんな真理の言葉や理屈は、たくさんなのです。もう、真理の言葉の羅列など、いらないのです。
いくら真理の言葉を聞かされたところで、真理を実行することはできません。一般民衆にとって、もう、
真理の言葉など、聴きたくもないのです。真理の言葉を口に出して唱えてみたところで、少し自分が偉く
なったような気分がして、虚栄心が満足するだけで、その後には空々しい虚しさだけが残ります。実際に
実行できない真理の言葉を、唱えれば唱えるほど、現実の自分の心境や実際と、あまりにも隔たりがある
のを知って、良心にさいなまれ、心苦しくなってくるのです。真理の言葉を人々に話しながら、自分の行
為には真理を現せないことを知りたくはない。これでは良心の声に耳をふさぐ偽善者になるばかりです。

「真理の言葉即真理の行為」とはならないのです。「他力行即真理実現」となるのです。そこで五井先生
は、「真理の言葉を宣言しなさい」とは教えずに、「真理の言葉を、そのまま行為に現そうとする必要は
ありません。守護の神霊に対して、世界平和の祈りを祈りなさい。世界平和の祈りをひたすら祈っていさ
えすれば、救世の大光明の加護力によって、力まずして、自然に、真理の行為が現れてくるんですよ」と
説かれているのです。これは実行した人は、必ず理解できるのです。今は、「世界平和の祈り」の実行あ
るのみです。この「世界平和の祈り」こそ、全宗教者が、心を一つにできる唯一の祈り言であるのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


老子の教えは危険ではありません
No.1739 森島恒吉    2000/02/29 (火) 21:16 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

Tさん、Tomoさん、ありがとうございます。
Tomoさんのコメントで、気になったことをお尋ねしたいと思います。

「でもやはり、『唯一会は、五井先生のみ教えのままでないのだなあ』と感じました。五井先生は、『今
入っている宗教をやめなさい』とは、一言もおっしゃっていらっしゃいませんでした。
また、父は孔子愛好家で、『老子は危ない』と、家族中五井先生のみ教えの信徒でしたが、五井先生が老
子さまのみ教えに惹かれるのを心配しておりました。又、父は戦争体験者でもありますが、世界の戦争の
発端が、宗教の違いで起きたことを、そして今でも続いていることを、とても悲しんでおります。」

◎唯一会のどこが、五井先生のみ教えのままではない、と感じられましたか?

この点について、よろしければ教えて下さい。
………………………………………………………………………
皆さんに誤解のないように説明しておきますが、唯一会は、各人の自由な宗教観を尊重しており、「今、
入っている宗教をやめなさい」とは一度も説いておりません。また、唯一会は、世界のすべての宗教者と
仲良くなることを望んでいる大調和の宗教団体でありまして、決して排他的宗教ではありません。

世界各地で、宗教の争いから起きた戦争については、私も悲しんでおります。宗教の対立を無くすために
は、各宗派独自の固有名詞に把われないことが必要である、と私は思います。神様の名、仏様の名、宗派
の名前の違いで争うのは馬鹿馬鹿しいことです。そこで私たちは、「世界人類が平和でありますように」
の祈り言の一点で、世界の宗教者が手を結び、心を結んで、世界平和を祈ることを勧めているのです。

誤った宗教観から起きた過去の戦争を見て、「宗教は危険だ」と見るのは無理もありませんが、真実の宗
教は安全であり、危険ではないのです。宗教宗派を超えた真実の祈り言によって、世界は平和になるので
す。唯一会だけが世界を平和にする、と申しているのではありません。世界の宗教者が、古き伝統を守り
生かしつつ、「世界平和の祈り」を祈るようになり、自然に世界の宗教者の心が一つに融合されてゆくの
です。唯一会は、いつも心を広げて、他の宗教団体の人々と調和することを望んでいるのであり、排他的
宗教ではありません。世界の宗教者を含む、世界人類の平和を祈っているのです。

老子の教えについては、消極思想の代表者であるかのように解釈して危険視している人がいますが、老子
は自力行を否定して、天地に任せる他力行を説いているのです。その自力否定、他力肯定の教えが、いか
にも消極思想のように見られるのでありますが、他力行に徹した老子の思想は、消極的思想とか積極思想
とかの自力の枠をはるかに超えた、神力を発揮する自由無礙の思想であるのです。ですから、老子の教え
は少しも危険な思想ではありません。老子は、「世界平和の祈り」の救世の大光明の中で、今も生き生き
と、皆さんを見守り、皆さんの幸福と世界の平和を祈って下さっているのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


世界の平和あってこそ、自分の幸福もありうる。
No.1745 森島恒吉    2000/03/03 (金) 00:29 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

Tさん、ご質問をいただき、ありがとうございます。ご質問にお答えしましょう。

[質問1]
悟ったとしても、「病気や不幸などが消えてなくなってしまうわけではない」というのは良く分かりまし
たが、人格もやはり不完全なままなのですか。しかし、これもやがて完全円満な人格が現れてくるのでし
ょうか。そうすると、人格が完全円満になると、各人が持っている「個性」といったようなものもなくな
っていくのでしょうか。

[お答え1]
その人が悟ったからといって、その人の人格も瞬時に、完全円満になるわけではありません。といって、
悟った人の現象面が、いつまでも不完全な人格のままでいるはずがありません。悟りを開かれた頃の35
歳の五井先生よりも、40歳の五井先生の人格はもっと立派になっていたのですし、50歳の五井先生よ
りも60歳の五井先生のほうが、もっと立派になっていたのです。そのように悟った人の人格は、悟った
後も、現れとしては、完全円満な人格へと、無限に向上してゆくのです。

今の現象の私は、不完全な人格ですが、「やがては時間の経過とともに、不完全さが消えてゆき、完全円
満な人格が現れてくる」と本心の私は、すでに知っているのです。これは私だけではなく、「世界平和の
祈り」を祈る、すべての人に言えることなのです。尚、人格が完全円満になるにつれて、各人の業生にま
つわる「性癖」は消えますが、個人の「個性」はなくなることはありません。

[質問2]
それから私は、五井先生の教えが好きで、これはまったく偽りの無い気持ちですが、「あなたは今生で悟
れる」と、仮に言われたとしても、あまりうれしい気持ちになれない気がします。この俗世間も、結構刺
激的で楽しく「もうしばらくはこのままで結構です」と言ってしまうような気がします。このような気持
ちも、やはり業想念のなせる業なのでしょうか。

[お答え2]
「まだ、悟りたくない」という素直でない想いは、業想念です。しかし、あなたは、「世界平和の祈り」
一念で生きているのですから、すでに一つの悟りを得ている、と言えます。そのまま「世界平和の祈り」
を日々祈りつづけ、この俗世間の暮らしを楽しんで下さい。「俗世間の暮らしを楽しんではいけない」と
は私は言いません。俗世間の暮らしを楽しむことは、少しも悪いことではありません。俗世間の暮らしを
楽しむためには、世界が平和でなくてはなりませんから、そのためにも「世界平和の祈り」を祈りましょ
う。「世界平和の祈り」を祈りつづけていさえすれば、自分でも気がつかないうちに、真実の安心立命を
得て、世界は平和になるのです。世界の平和あってこそ、自分の幸福もあり得るのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


五井先生と一緒に「世界平和の祈り」を祈りましょう。
No.1750 森島恒吉    2000/03/04 (土) 03:01 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

Tさん、ご質問をありがとうございます。また、折原さん、適切な助言をありがとうございます。

[質問1]
私は、霊的なことの詮索や、知識に、あまりとらわれることはいけないと思いながら、ちょっとお聞きし
たいことがあります。それは「魂の古さ」ということについてです。例えば五井先生は「私の教えのわか
る人は魂の古い人なんだよ」とおっしゃられていたと思います。もちろん、教えがわかるということも、
入門クラスから最上級クラスまであって、私などは、ただわかるというよりも「ほんとにそうだなぁー。
この教えはいいなぁー」と思うだけの者にすぎないのですが、それでも古い魂なのでしょうか。そう自分
で思えるときもあるのですが、私は実は人間的欲望と言うか、業想念というか、いろいろなものに対する
執着というか、そういったものが、人一倍強い面もあるのです。普通、古い魂というと、この世的にも執
着の薄い、いかにも清らかな雰囲気が漂うような人を想像するのですが、私はその正反対なのです。これ
はどう理解すれば良いのでしょうか。

[お答え1]
五井先生の教えがわかる人は、魂の古い人であるのです。あなたも、直観的に五井先生の教えを信じるこ
とができるのですから、魂の古い人であることは間違いありません。宗教の道に入る人は、だいたい気が
弱く、引っ込み思案で、自分を卑下している人が多いのです。そこで五井先生は、そのように会員さんを
度々おだてて下さったり、ほめて下さったのです。家ではボロクソに家族からけなされている人が多いか
ら、五井先生にほめられますと、いい気持ちになって、「世界平和の祈り」を祈る元気も湧いてきます。
だから、私たちの実力以上に、五井先生はほめて下さるのです。「皆さんは魂の古い人ですよ」というの
は、五井先生のそのおだて文句の一つなのです。魂が古いだけでは、本当は自慢にはならないのですが、
そう言われると、なんとなく、人並みよりもちょっぴり抜きん出て、自分が偉くなった気がする。自信が
出てくる。そうした自信を持たせるために、五井先生はほめて下さるんですね。

ただ魂が古いだけでは、本当は自慢にはならないのです。近頃の会社では実力主義になってきていて、後
から入社してきた若い人が、すでに会社に数十年といる古参の社員よりも、能力を発揮して高い地位に立
つことがあるように、魂が古いだけでは、本当を言うと駄目なんです。魂が古い分、悪い癖がついてしま
って、ひどく汚れている場合もあります。それでは、せっかく豊かな経験を持っていても、汚れていて役
に立ちません。そういう人は、救世の大光明霊団に浄めていただく気持ちで、「世界平和の祈り」を祈る
とよいのです。そうしておりますと、古い経験が生かされて、大きな働きができるようになるのです。

また、あまりにも魂が真っ黒けに汚れている人は、自分で自分の汚れていることすらわからず、「自分は
正しい」と思いこんでいる人が多いものです。あなたの場合には、自分の業想念の汚れを正直に見つめる
ことのできる、清らかな本心の目を持っているのですから、ご自分で思うほど、ご自分の魂は汚れてはお
りませんから、ご安心下さい。ご自分の本心が輝いてきたからこそ、ご自分の業想念の汚れが、これまで
以上にひどく目立つだけなのです。現在は欲望や業想念が強そうに思えても、「世界平和の祈り」を祈り
つづけてゆけば、いつしか魂が浄まり、自然に清らかな雰囲気が漂ってきます。

[質問2]
「守護霊様、またその上の守護神様は、先まですべてお見通し、万事よろしくお願いします」という謙虚
な心が一番大切であるというのが、五井先生の教えと思いますが、間違いはないでしょうか。

[お答え2]
間違いありません。守護の神霊に全託し、「世界平和の祈り」を祈りつづけていれば、神様のみ心の通り
の最善の生き方ができるようになるのです。

[質問3]
森島先生ともなると、顔を見たこともない私が、どんな人物で、言っていることがウソかホントか(ウソ
はついてませんけど・・・)等も、お分かりになるんですか。ちょっと恐い気がいたします。
私は以前、多少傲慢にも「自分はこんなに、五井先生の教えが本当にいいなー、と思っている理解者なの
に、どうして今生でお会いする縁がなかったのかしら。嫌われちゃったかな」と思っていた時期がありま
した。しかし、偶然にも唯一会の存在と白光真宏会の現状を知り、森島先生にメールを出したい気持ちが
抑えられず、こうしてご質問を差し上げていることは、やはり五井先生にご縁があったのでしょうか。
そうだとすれば、大変うれしく思います。

[お答え3]
私が現在持っている通力は、漏尽通だけで、人の想念を読み取る他心通(たしんつう)の能力はありませ
ん。ですから、私を怖がる必要はありません。(^_^) 天眼通(てんげんつう)や天耳通(てんにつう)
も、私には必要がないので、霊眼で見えたことを言ったり、神示を伝えることもありません。神様のみ心
は、霊視や神示に現れるものではなく、その人の行為となって現れてくるものなのです。

五井先生に直接お目にかかれた人もいますし、お目にかかれなかった人もいるわけですが、これは縁なん
ですね。あなたの場合には、五井先生に縁が深かったのですが、今生でお会いする縁はなかったのです。
その代わり、私に会う縁があって、私を通して、五井先生と霊的に会うことになったのです。私に会うこ
とは、五井先生に会うことであるのです。

折原さんが「既に肉体の五井先生にはお目にかかりようもない私達ですが、五井先生と波動を同じくする
森島先生とは、こうして直接ご指導頂く事も、そう望めば、直接お会いする事も出来ます。私は、森島先
生という方は、五井先生が森島先生なのか、森島先生が五井先生なのか、区別できないくらい合一されて
いらっしゃる、と観じておりますので、森島先生に、五井先生を見るのであります」と書かれているよう
に、私は、五井先生のみ教えをそのまま伝えているのですから、私は五井先生であるのです。

いつも申しますように、五井先生と私は、同じ江戸っ子ですけれど、顔や姿は違うし、声も違うし、話し
方も違っていますが、五井先生のみ教えの一番大事な要点だけは、私はしっかりと把握しているのです。
私は、五井先生の真似をしているわけではありません。五井先生の物真似をしているだけならば、すぐに
化けの皮が剥がれ落ちてしまいます。心を鎮めて私の文章を読んだり、私の話を聴けば、それが単なる物
真似ではなく、五井先生のみ教えと同一であることが感じられるはずです。

現在のところ、五井先生のみ教えを、そっくり同じように話せたり書いたりできる人は、私以外に一人も
いないようです。毎月、私も白光誌を丹念に読んで、白光誌に教えを載せている各講師の文章に目を通し
ておりますが、どの講師も、五井先生のみ教えの文章を部分的に引用しながら、立派なことを書いていま
すが、いまだ一知半解の域を抜け出ておらず、五井先生のみ教えの真髄を理解できている講師は、一人も
いないようです。しかし、この現状も消えてゆく姿でありますから、いずれは誰もが、五井先生のみ教え
を真実に理解できるようになり、すべての人が「世界平和の祈り」に帰一するようになるのは間違いあり
ません。その日が来るまで、私は「世界平和の祈りこそ、完全な行法であるのだ」と教えつづけることに
なっているのです。余計な道草や回り道をしないで、一直線に「世界平和の祈り」に全託できた皆さんは
実に幸せな人であるのです。五井先生と一緒に「世界平和の祈り」を祈ってまいりましょう。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


「心の法則開運法」の欠陥と「真理宣言法」の欠陥を知れ
No.1755 森島恒吉    2000/03/08 (水) 03:14 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

Tさん、Sさん、体験談をありがとうございます。

「思う通りになる」という「心の法則による開運法」には非常な欠陥があり、「我は神なり」と真理を宣
言する「真理宣言法」にもまた、非常な欠陥があるのです。この二つの方法には、どちらも非常な欠陥が
あることを知りさえすれば、「世界平和の祈り」の素晴らしい完全性に目覚めてくるのです。ところが、
惜しいことに、その欠陥を知らずに、「自分は最高の真理を説いている」とみずから思い込み、「心の法
則による開運法」や「真理宣言法」を、自信を持って、信者さんたちに説いている宗教者が多いのです。
その宗教者が、あまりにも自信に満ちていて、堂々としておりますために、信者さんたちも、その教えに
潜んでいる欠陥に気づかぬままに従ってしまっているのです。

「思う通りになる人生」とか「語った通りになる人生」という「心の法則」は、三界(肉体界・幽界・霊
界の下層)で作用する想念の法則であり、三界においてその法則は存在するのですが、霊界の中層以上の
世界には、業生の法則である「心の法則」は通用しないのです。その法則が三界に存在している事実を、
五井先生は否定しているのではありません。「心の法則を応用して、神性を開発することはできないし、
真実の安心立命を得ることはできない」と、五井先生は説いているのです。そういう意味で、五井先生は
「心の法則による運命改善法」を否定しているのです。

実相論と現象論、いいかえれば「人間神の子、完全円満、悪も不幸も病気も無い」という真理宣言法(神
想観)と、「あなたの人生は、あなたの思った通りになるのであるから、善を思えば善が現れ、悪を思え
ば悪が現れるのだ。だから、善のみを想い、悪を想わぬようにしなさい」という心の法則の開運法は、異
なった原理に基づく思想でありまして、同時に行なおうとしますと、二元論になり、その人の言動は矛盾
したものとなってしまうのです。矛盾した言動をしていては、神性が現れるはずがありません。

「心の法則を応用した開運法」は、自力の意思力によって、業想念の強い力に対抗してゆかねばならない
のですから、神性を開発することは、頭で考えるほど、そう生易しいことではないのです。これが簡単に
できるならば、人類世界はすでに平和になっていることでしょう。自力の意思力では、どうにも運命を変
えられぬので、人類は滅亡寸前まで追い込まれてしまったのです。肉体人間以上の強力な守護の神霊に運
命修正をお願いしなければ、どうにもならない状況であるのです。

五井先生は、生長の家の教えである「心の法則による開運法」を捨て去り、やはり生長の家の「人間神の
子、完全円満論」という現在完全円満論を、「人間は本来、神の子であり、完全円満である。現在は未完
成の段階にあるので不完全であるが、現在の不完全な姿は、時間の経過と共に消え去ってゆき、未来には
神の子の完全円満な姿が現れてくるのだ」という未来完全円満論に修正されたのです。五井先生は、生長
の家の複雑で矛盾した二元論の教えを、未来完全円満論だけの一元論に、教えを単純化したのです。

この「未来完全円満論」を、意外に理解していない人が多いのです。「未来完全円満論」が一つあれば、
もう「心の法則論」を用いる必要は無くなるのです。人間は未来において神の子になるのです。この未来
実相論を本当に信じれば、「心の法則」を用いて「悪を思うまい」と念じたり、「神の子になろう」と念
じたり、無理に「私は神の子である」と偽善者ぶらなくても済むのです。それを再び「心の法則」を持ち
出すのは、「人間は神の子になる」という真理を、その人自身が信じていないからに他なりません。

善を思えば善が現れ、悪を思えば悪が現れる、というのが「心の法則論」ですが、この思想は、性善説で
はなく、性善悪混淆説であるのです。「人間は悪いことを想い、悪い行為もする、だから、善を思わなく
てはならないのだ、善を行なわなくてはならないのだ」というのですから、「人間神の子、完全円満」と
性善説を唱える実相論とは矛盾する原理であるのです。ある時は「完全な神の子人間」になったかと思え
ば、ある時は「過ちをする業生の人間」になったりするのは、実におかしなことであるのですが、この矛
盾した教えを、矛盾と気づかない人の、なんと多いことでしょう。まず、この二元論の矛盾に気づくこと
が、五井先生の教えを理解する第一歩であるのです。

二つの思想には、それぞれどんな欠陥があるかといいますと、「心の法則」を説けば、それはいつしか、
人を責め裁く道具と化します。また、「人間神の子、完全円満」を説けば、嘘ばかりつく偽善者を生みま
す。そこで五井先生は、「心の法則論」をきっぱり捨て去り、自他を責め裁く苦しみから、解放して下さ
ったのです。五井先生が、あれほど「心の法則を用いて人を責め裁いてはいけない。心の法則を持ち出せ
ば、そのつもりがなくても、いつしか自分や人を責め裁くようになってしまう。それを知っているから、
私は心の法則をきっぱりと捨て去ったのだ」と幾度も説いたにもかかわらず、それを今になって、再び
「心の法則論」を持ち出し人を責め裁いているようでは、「親の心、子知らず」と言うほかありません。

五井先生は、従来あった旧光明思想の「人間は、現在神の子であり、現在完全円満であり、現在悪も病気
も不幸も無い」という現在完全論を、「人間は本来、神の子である。現在は、完全な神の子を現す途中で
あるから不完全なのだ。しかし、その不完全な姿は、いずれは消えてゆき、未来は人間は完全な神の子の
姿を現せるようになるのだ」という中庸に位置する新しい未来完全論に修正したのです。それなのに、
「五井先生の光明思想は、昔の低い心境だった信者の皆さんに合わせた古い光明思想である」と説き、生
長の家の真似をして、「我は神なり、という真理宣言形(現在完全論)こそ、より進んだ新しい光明思想
である」と誤り解す宗教者が現れてきたのは残念なことです。五井先生の「業は消えてゆく姿で、人間は
神の子になる」という中庸光明思想こそ、新しい光明思想であるのにもかかわらず、「五井先生のそれは
古い光明思想である」と封印されてしまったのです。

完全な神の子の自分が、守護の神霊に頼るのは、おかしなことです。守護の神霊に頼っていては、自分が
完全であるとは、宣言できません。不完全な自分になってしまいます。そこで「私は神である」と真理宣
言行をする人は、自力的になり、守護の神霊に頼らなくなってくるのです。「私は神である」と観念的に
言ったところで、真実は神の子になったわけではないのですから、自力で運命を改善しようとやってみて
も、なかなか改善することはできません。しかし、「私は神の子であり、完全円満である」と宣言してし
まった手前、守護の神霊に頼るわけにはゆきません。そこで、自力難行道へと陥ってゆくのです。

現在の人間が、神の子であり、すでに完全であるならば、一つも過ちが無いのですから、反省も努力も必
要ありません。しかし、現在の人間は、神の子になる途中の未完成な段階にあるのですから、五井先生が
いつも説く通り、たえず反省し、努力する必要が出てくるのです。すでに自分は完全な神の子である、と
うぬぼれて、自己の言動を反省せず、向上する努力を怠れば、かえって神の子にはなれません。人間は、
内に神の子を蔵しているのですが、「自分は神の子である」と宣言しても、偽善者になるだけで、自力で
その神性を顕現することができないのです。不完全な心境の持ち主が、「私は神の子である」と宣言すれ
ば、それは神に対する不遜となってしまい、かえって、神の子への進化を阻害することになります。

そこで人間は、守護の神霊に助けてもらうほかない、と五井先生も私も声を合わせて説いているのです。
「心の法則による開運法」は自他を責め裁く欠陥があり、「我は神なり、我は完全円満なり」の真理宣言
行は、正直な人は心苦しくなり、正直でない人は偽善者となる、という非常なる欠陥があるのです。その
欠陥に、五井先生は気づいたのでした。「もっと正直に、あたりまえに生きられて、しかも理想へと無理
なく登ってゆける道はないだろうか?」と五井先生は考えられました。その思索の結果、守護の神霊に神
性開発を助けていただく他力行を発見したのです。他力行即神我一体、他力行が神我一体への最短の道で
あることを知ったのです。その他力行の具体的な方法が、「世界平和の祈り」の道であるのです。

五井先生の教えを理解した私たちは、「心の法則による開運法」はしませんから、自他の心を責め裁くよ
うにはなりません。「真理宣言行」もしませんから、無理に背伸びして偽善者になることなく、正直に明
るく生きることができます。私たちは、「世界平和の祈り」しかやらないからです。私たちには「世界平
和の祈り」しかなく、責め裁く教えが無いのですから、誰をも責め裁く必要がないのです。偽善の教えが
無いのですから、偽善者になることがなく、正直に明るく、しかも理想に向かって希望を持って生きるこ
とができるのです。私たちは、「心の法則」によって責められることがありません。無理に「私は健康で
ある」と真理を宣言するように強制されることもありません。正直にありのままに打ち明けても、誰もそ
の人を責めることはありませんし、無理に真理を宣言するように叱咤されることもありません。「世界平
和の祈り」以外の余計な教えが無いからです。

「世界平和の祈り」を唯一の行法としている私たちは、このように大光明の生活を送っているのです。
「世界平和の祈り」こそ、光明思想の行法であり、一つも欠陥のない完全な神性開発法であるのです。
「心の法則による開運法」と「真理宣言法による神性開発法」、この二つのいずれの方法にも、神性開発
をさまたげる致命的な欠陥が潜んでいるのです。この事実を、一日も早く気づいて、「世界平和の祈り」
に全託する人が、一人でも多く増えることを、五井先生はじめ私たちは祈りつづけているのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


大志をいだく青年たちよ、「世界平和の祈り」を共に祈ろう!
No.1757 森島恒吉    2000/03/08 (水) 13:46 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

Tさん、吉田松陰のお話をいただき、ありがとうございました。
吉田松陰の塾からは、日本を改革する多くの優秀な人物が輩出されました。吉田松陰の日本を純粋に愛す
る心と、地道な教育の力が実を結び、花を開いたわけですね。私も吉田松陰のように唯一会の集会という
小さな塾を開いて、五井先生のみ教えを真実に理解でき、世界平和のために働ける人物を育てています。
大志をいだく青年たちよ、五井先生の教えを学びましょう。共に「世界平和の祈り」を祈りましょう。
集団で祈ることによって、「世界平和の祈り」の大光明は、その効力をますます発揮するのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


「世界平和の祈り」は最も重要な神示
No.1761 森島恒吉    2000/03/09 (木) 19:38 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

Tさん、ありがとうございます。Tさんは、大事な点に気づかれましたね。

神様の教えを伝える教祖には、大きく分けて二種類あるんです。一つのタイプは、その人自身は大悟した
わけではないのだけれども、霊感や神示を敏感に受け取りやすい体質になっていて、神様からのメッセー
ジを伝えることのできる人が教祖になった例で、もう一つのタイプは、五井先生のように、その人自身が
すでに神我一体の大悟を得ていて、神様からのメッセージを伝えるというよりも、その人自身の言葉で神
様のみ心を教える教祖の二通りあるのです。

神様の言葉を伝えているからといって、必ずしも、その伝達している人自身が悟っている、とは限らない
のです。前者の例ですと、教祖自身が悟っていないのですから、神様の正しい教えを伝える場合もあるけ
れども、その人自身の浅い心境から作られた教えも出てきて、正しい教えと浅知恵の教えとがゴチャゴチ
ャに混ざってしまうのです。しかし、同じ教祖の口から、同じように語られるので、その話を聴いている
信徒は、正誤の区別ができず、教祖の話を「すべて正しい」と思いこんでしまうわけです。

神様が、どんなに素晴らしい高く深い教えを伝えても、それを理解できるだけの心境に、その人がいなけ
れば、その神示は見捨てられてしまいます。「豚に真珠、猫に小判」という諺の通りです。そこで神々は
「この人間は、もう使いものにならない」と判断すると、その教祖から離れて、神様のみ心をより正確に
教えることのできる人を探したり、教育したりして、新しい教祖の加護につくのです。

生長の家の谷口雅春教祖のご本を拝読しますと、「消えてゆく姿」の教えもありますし、「世界平和の祈
り」もあります。それなのに、その教えを使い切れずに、「理想に偏重した実相論」や「心の法則論」を
用いてしまいました。すると、それまで生長の家を守っていた神々が、生長の家を離れて、五井先生の所
に移ってしまわれたのです。そのように宗教を説く神々は、人間のご都合で動いて下さるものではなく、
神々のほうに人間を選ぶ決定権があり、神々が気に入れば、その人を特別に加護するようになるのです。
逆に、その教祖が、神様のみ心に反する言動をしたり、神示を実行できない、と見るや、その教祖から、
神々はパッと離れてしまうこともあるのです。神様にとっては、神様のみ心を伝えてくれる指導者こそ必
要なのでありまして、神様のみ心に反する指導者は、不要なのです。それは厳しいものです。

私たちは幸いなことに、五井先生から「世界平和の祈り」の重要性を教えていただき、救世の神々からの
「この世界平和の祈りは、唯一最高の祈りである」という神示を信じて、「世界平和の祈り」を実行して
いるために、私たちは、救世の神々の特別に強力な光明波動で加護されているのです。救世の大光明霊団
は、常に私たちの行動に注目し、私たちに必要な智慧と光明力を与えて下さっているのです。私たちは、
神の厳しい試練に克ち、不動の心で「世界平和の祈り」を祈っているのですから、私たちの霊性が開発さ
れないはずがありませんし、私たちの運命が好転しないはずがないのです。あなたの運命も必ず善くなる
のです。「世界平和の祈り」は、神様が人類に示された最も重要な神示であるのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


信仰心を一生持ち続けるために
No.1771 森島恒吉    2000/03/15 (水) 02:07 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

Tさん、ご質問をありがとうございます。
自分一人で祈るよりも、集団で祈ったほうが、霊性開発には確かに効果がありますし、信仰心を一生継続
してゆくにも、法友たちとお互いに励まし合いながら祈ったほうが、はるかに楽です。せっかく五井先生
のみ教えに触れて、「五井先生のみ教えは正しい」と思いながらも、惰性的になって、なんとなくやる気
がなくなり、途中で信仰生活が挫折してゆくのは、親しい良き法友がいないことが一因です。

私が、今まで信仰生活がつづいたのも、私が18歳の頃から白光真宏会の青年部に入って、同年代の法友
と知り合い、聖ヶ丘道場の統一会が終わった後、市川駅の喫茶店で青年部の法友たち5〜6人と談話して
いたからです。現在、白光真宏会の理事をしている冨田興次さんとは、統一会の終わった後、喫茶店で談
話する法友の親しい一人でした。五井先生の法話を聴くのは、もちろん楽しいことですが、法友たちの体
験談や独自の解釈を聴くのも楽しいものでした。また、建前でなく本音を聴けるのも、法友だからです。

その他には、東京近郊の各地の集会場に顔を出したり、毎週あった聖ヶ丘道場の研修会や「暁の祈り」に
積極的に参加して、同年代の法友だけでなく、多くの講師と知り合ったり、各地の集会場の責任者と知り
合いました。古い会員の人たちのお話は、五井先生の昔の逸話が聴けるので、よく耳を傾けたものです。
熱心な信仰心を持つ人のそばに行きますと、知らずに感化されて、自分までもが信仰心が高められます。

そのように、一人で信仰するよりも、法友と語らいながら、法友たちと一緒に祈り合っていったほうが、
すべての面でよいですね。Tさんの場合には、「唯一会山口県支部」の代表として、「世界平和の祈り」
をお続けになったら、いかがでしょうか? そういう立場に立てば、たった一人でも、信仰心が持続しや
すいと思います。一時期、熱中しても、すぐに冷めてしまうようでは、「世界平和の祈り」も効果が出ま
せん。うまず、たゆまず、力まず、「世界平和の祈り」を続けていってこそ、祈りの効果が出てくるもの
です。そのためには、自分一人だけで信仰生活を続けるよりも、親しい法友を作って信仰生活を続けたほ
うがよいのです。自分の住む場所で、自分が中心となって、サークルを作ったら、いかがでしょうか?

山口県支部の法友の皆さんを作り、一緒に私の講話を聴いてお祈りするようにすれば、やる気がどんどん
湧いてくるはずです。ご質問の件ですが、距離的に離れていても、同時刻に祈ることによって、集団の祈
りの効果は必ずあります。私たちの教えは、他力易行道ですから、「集団で祈っているイメージを持つ」
という教え方はしません。イメージして祈ることは、自力行であって、五井先生の教えにはありません。

できなければ、できないで仕方ありませんが、自分と共に祈ってくれる法友を一人でも多く作るとよろし
いですね。その法友を作るために、この場を利用なさって下さい。山口県にお住まいの方、Tさんに連絡
して一緒に「世界平和の祈り」を祈ってあげて下さい。Tさんは、唯一会のメンバーなのですから、時刻
に関係なく、一人で祈っていても、集団で祈っていることになります。しかし、肉体人間は弱いものです
から、「集団で祈っている」とは思っていても、一人で長い一生を、たゆみなく祈り続けてゆくことは容
易なことではありません。最低、一年に一回は、唯一会集会に、ご参加されることをお勧め致します。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


禊体験から得た唱行
No.1774 森島恒吉    2000/03/16 (木) 13:49 富士宮市  
世界人類が平和でありますように

青空さん、唯一会集会の内容をご紹介下さって、ありがとうございます。

1773「…昔は、白光真宏会にて、このように唱えることがあったそうです。森島先生も昔、白光真宏会
の講師に教わったのだそうです。…」の部分は、記憶違いだと思います。

「世界人類が平和でありますように」の一行だけを、ひたすらくりかえし唱える唱行は、五井先生ご自身
がなさっていた行法を、私が発見し採用したもので、昔の白光真宏会の行事としてやっていたわけではな
く、私が白光真宏会の講師に教わったのでもありません。

日本の伝統的な宗教では、神道でも仏教でも、短い祈り言をくりかえし唱える行法というのがあります。
これは日本だけではなく、中国やインドの宗教でもあります。長い経文を唱えるよりも、短い祈り言をく
りかえし唱えたほうが、雑念の入りこむ隙がなく、深い統一に入れるからで、種々の行法が試されている
うちに、「やっぱり、この単純な方法が一番よい」と体験的実証的にわかってきたのです。

昌美先生が富士山に初めて登山した時、私が一緒に同行したことはすでに述べましたが、浅間神社を出発
して登り始めた時、「世界人類が平和でありますように、世界人類が平和でありますように」と同行の皆
さんに聞こえるように、私一人声に出して、お祈りして歩いておりました。すると、私の前後を一緒に歩
いていた中澤英雄さんが、「世界人類が平和でありますように、では歩いているときには、長くて唱えに
くいから、もっと短い五井先生のお名前を唱えたら、どうでしょう?」と私に言ってきたのです。

私としては「世界人類が平和でありますように」と唱えたかったのですが、その頃は自分の主張を強く述
べるよりも相手の意見を立てる性格であったので、「ええ、いいですよ。それじゃ、五井先生のお名前を
唱えることにしましょう」と、「ごいせんせい」と声に出して唱えることになったのです。それで中澤さ
んも私と一緒に「ごいせんせい」と唱えるようになり、私たち二人の唱行に見習って、宇宙子科学メンバ
ーも昌美先生も全員「ごいせんせい、ごいせんせい」と声に出して唱えるようになったのです。この時の
ようすは、五井先生がご本に書かれていますが、私たちが「ごいせんせい」と唱えるようになってから、
五井先生の霊覚では、私たちの統一が急速に深まっていったのが、はっきりとわかったそうです。

それまで白光真宏会の行事として、祈り言を声に出してくりかえし唱える行法はなかったので、その富士
登山の時が、「ごいせんせい」と全員で唱える行法の最初の日となったのです。それまでは斉藤秀雄先生
が個人的に常に「ごいせんせい」とお呼びして唱えていましたが、その日以降は、「ごいせんせい」と唱
える行法が、白光真宏会の一つの行法として定着し、会員内で広まったのです。

そもそも、私が富士登山で「世界人類が平和でありますように」をくりかえし唱えるようになったのは、
大学一年で合氣道部に入っていた私が、合氣道部の慣習で、一九会という神道の禊道場に二泊三日の修行
に行かされたからでした。その禊修行では、「トホカミエミタメ」という祈り言を正座して三日間(夜は
寝ますが)ぶっ続けに大声で唱えるのです。もちろん、声は枯れますが、先達に背中を両手で叩かれて、
大きな声を出さなくてはなりません。座布団をしいているものの、両足はまったくしびれて立てません。
トイレに小用に行くと、真っ赤な小便が出てきます。初学といって初めて修行に入る人は、私を含めて六
人ほどいましたが、あまりの苦行に途中で一人が逃げて行きました。私は、「大学の名誉がかかっている
んだぞ」と先輩に釘をさされていたので、逃げ出したくても逃げることができず、耐え忍びました。

その禊体験で、一つの祈り言をくりかえし唱えるという行法と、その行から生まれてくる神秘的な道力の
存在を直観的に知ったのでした。その禊体験を、昌美先生との富士登山の前にして、「世界人類が平和で
ありますように」の一行をくりかえし唱える行を、私は一人で行じていたのですが、その行法が五井先生
によって明確に「急速に統一が深まる効果的な方法」と認められたのです。「ごいせんせい」は、宗教団
体の内部における個人的な救いの意味が強く、一宗一派に見られてしまうので、祈りによる世界平和運動
として、私は「世界人類が平和でありますように」と唱えることにしました。白光真宏会では、やさしい
「ごいせんせい」の唱名行だけが、五井先生の教えの一つとして、今日まで伝わってきているのです。

そうした私の体験から、唯一会の集会において、今回初めて「世界人類が平和でありますように」の唱行
を伝え、皆さんにも体験していただいたのです。今後も時間があれば、この唱行を皆さんとご一緒に行じ
てゆきたいと思っております。青空さんが書いていたように、このように二十四時間「世界人類が平和で
ありますように」と常に唱えていれば、ほかの行法をしている暇はありません。ほかの行法をしていると
いうことは、その時間だけ、「世界平和の祈り」を祈っていないことになり、世界平和実現がそれだけ遅
れるのです。「世界平和の祈り」以外の行法をやって、「何がよいか?」と試行錯誤の時間を費やしてい
る悠長な暇は、もうないのです。地球が滅亡するか、真実の平和を得るか、という今なのですから、私た
ちは「世界平和の祈り」に全霊をあげて祈らなくてはなりません。「世界平和の祈り」をやらずに、他の
行法をやっていることは、そのつもりがなくても、地球の滅亡に加担していることになるのです。

「世界平和の祈り」は、五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに、必ず救世の大光明が輝
き、自分が救われると共に、世界人類の光明化、大調和に絶大なる力を発揮するのです。「世界平和の祈
り」に生命をかけて生きましょう。「世界人類が平和でありますように、世界人類が平和でありますよう
に」と私たちは日々唱えてゆきましょう。それが神界の神々の一番の願いでもあるのです。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


「世界平和の祈り」につけたすものは何も無い
No.1783 森島恒吉    2000/03/27 (月) 18:09 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[犯行声明文には「私は神です」と書かれていた]

…3月14日午後10時45分頃、大阪府守口市の路上で、会社社長が容疑者Aに包丁で刺されて死亡した。
凶行直後に、その場所を通りかかった会社員が容疑者を取り押さえ通報。現行犯逮捕された容疑者は、
「京都の小2男児殺害事件みたいに、目立つ事件を起こしたかった。人を殺せば、私の話を聞いてもらえ
る。中年の男なら誰でもよかった」などと供述。さらに現場付近から「私は神です」などと書かれた声明
文も見つかった。A容疑者は、大阪市旭区に住む男だった。…(スポーツニッポン2000年3月16日記事)

「私は神です」と言ったり書いたりする人間が、必ずしも実際には神ではないという事実は、先日、大阪
府守口市の路上であった、通り魔による殺人事件のニュースを、新聞やテレビで知った方は、おわかりの
ことと思います。現場付近から見つかった犯人の犯行声明文には、「私は神です」と書かれていました。
このような事件は、日本だけでなく世界各地にも発生しており、"I am God"(我は神なり)と自称する新
興宗教の教祖が、多くの信者を道連れに集団自殺した事件もありました。こうした過去の事例でわかるよ
うに、「私は神です」と言ったり書いたりすることは、特別な聖者でなくとも、たとえ狂人でも、できる
のです。また、「私は神です」と唱えていれば、だんだんと神のように立派な人格になるわけではない、
という事実もおわかりでしょう。このように現実に起きた事例を直視することが大事なのです。
「私は神である、と唱えていれば、神になれる」と信じている人は、このような現実に起こった事件を直
視して、「私のやっている方法は、真実の宗教の道なのだろうか? このまま、この方法をやっていて、
ほんとうに私は神になれるのだろうか?」と自省してみることが必要であるのです。

[真理宣言行は、危険な教義になる恐れがある]

「私は神である」と自己に言い聞かせることによって、「悪い行為をしてはいけない」という自己の良心
のささやきを覆い隠し、生命与奪の権威を持つ神になったつもりになり、殺人を行なう人間も存在するの
です。いいかえれば、「私は神である」という真理宣言行は、一歩間違えると、殺人をも平気で犯してし
まう危険な教義となってしまうのです。「私は神である」と思いこみますと、今まで良心の力に抑えられ
ていた業想念が表面に出てまいりまして、「自分は神であるから、自分のやることは、すべて正しい」と
業想念行為を肯定するようになり、悪行為も悪行為と見えなくなり、善悪の区別がつかなくなってしまう
危険があるのです。実際には業想念の欲望のままに動いているのに、「私は神である」と思って、みんな
がやりたい放題するようになったら、この世界は恐ろしい事態となってしまいます。本心と業想念の区別
をつけることが大事なのです。神のみ心と欲望の区別をつけなくてはなりません。業想念の人間は、業想
念の人間でありまして、神人と見てはいけないのです。業想念に覆われた人間を、神である、と呼んでは
いけないのです。そんなことをすれば、業想念を肯定することになり、業想念は消えてゆきません。

[成功哲学書の著者たちは、業想念の力を甘く見ている]

宗教の目的は、「私は神である」という神我一体の自覚を得ることには間違いありませんが、しかし、
「私は神である」という言葉を唱えていても、神になることはできません。成功哲学者の著書には、「私
はすでに成功した!」「私はすでに成功している!」というように、過去形や現在形を用いて、目標を達
成した状態をありありとイメージし、その言葉をくりかえし唱えていれば、目標を実現できる、という教
えがあるのですが、この方法を応用して「私は神である、と唱えていれば、神になれる」という教えを発
表している宗教者がいるのです。この点について、幾つかの同じような例を出し、考えてみましょう。

病院のベッドで寝ている人が、「私は病気ではない、私は完全な健康体である」と唱えることによって、
真理の言葉によるショックによって、一時的に病気が治ることがありえます。しかし、それはあくまでも
一時的な心理療法であって、根本的に病気を治すことはできません。自己催眠状態から覚めれば、再び病
気になります。真理の言葉によって、病気を治すことは、それほど簡単なことではないのです。ところ
が、真理宣言行を説く本には、いかにもやすやすと、真理が実現するように書かれているのです。

「あなたは成功できる」「あなたは健康になることができる」「あなたは大金持ちになれる」「あなたは
あなたの願う通りの人間になれる」「あなたはあなたの望む通りの人間になれる」という魅力的なキャッ
チフレーズに惹かれて、その本を読んでも、誰しも成功できるものではありません。なぜかと申しますと
善いことを思おうとしたり、善いことを実行しようとしましても、業想念が邪魔するからなのです。この
業想念の存在を無視して、人間は成功できるものではありません。路傍の浮浪者が、「私は貧乏ではない
無限の金持ちである」と唱えることによって、奮起して金持ちになることがあるかもしれませんが、実際
にはそのような実例を、私は見たことがありません。誰しも、その言葉を唱えることよって、金持ちにな
れるわけではありません。ほとんど不可能に近いのです。小さな目標であるならば、目標を達成すること
はできます。しかし、ちょっと大きな目標となりますと、実現することはできません。そのわけは、成功
哲学者たちも知らない、業想念の力が存在しているからです。

[「私は神です」という真理宣言法の欠陥]

受験生が、「私は東大に入学している」とイメージしても、学校で公言はできません。国会議員が「私は
総理である」とイメージしても、社会に発表することはできません。このようにイメージ法は、公言でき
ないことが多く、自分一人の胸にしまいこまねばなりません。自分の目標のイメージを現在形で公表すれ
ば、馬鹿にされたり、否定されたりしますから、自分のイメージは、友人や家族にも黙っていなくてはな
りません。それがしだいに、非常に心苦しくなってくるのです。

同じ宗教団体の内部ならば、「私は神です」とイメージすることはできますし、発言もできます。しかし
あくまでも、その発言は、同じ宗教信徒の間だけで、通用するのでありまして、社会では通用しません。
しかも、どこまでいっても、その神の子観は、観念論の域を脱することなく、実観として思われてはこな
いのです。「私は神です」と唱えても、不完全な人間が唱えているのですから、誰も信用するはずがあり
ません。一つの宗教団体の道場内で「私は神です」と唱えていても、一般人との社会生活の中で、あたり
まえに使うことができないのでは、実用的とはいえません。

しかも、「私は神です」と思うことによって、最初に例として示した事件のように、「自分のやることは
すべて正しい」と自分の業想念までをも正当化したり、迷った霊に憑依され、わけのわからない奇妙な言
動をする危険もあります。神になってもいないのに、無理に背伸びをして神になったふりをしようとする
から、正直な人は、世間の人と当たり前のつきあいができなくなって、非常に心苦しくなってくるし、一
方、正直でない人は偽善者となって、ますます虚栄の強い人となってしまうのです。

[「人は神です」という真理宣言法の欠陥]

また、毎日のように殺人事件が起きておりますが、殺人犯に殺された人の家族に対して、「人類はみな神
である。殺人犯もまた神である」と言えるでしょうか。実際には、そんな言葉をかけることはできないと
思います。ということは、「人類は神である」という真理宣言行は、現実離れした観念論にすぎない、実
際には使えない観念論である、ということです。

[「我は神なり」の言葉と「みんなプロセスにいる」の言葉は矛盾している]

このように私が言うと「殺人犯は、もちろん神ではない。みな、プロセスなんです」と言う人がいます。
それならば、「人類は神である」と断定的に宣言しないで、「人類は神になるプロセスにある」と宣言し
たら、いいではありませんか。「人類は神である」ということは、「人類はすでに完全である」というこ
とでしょう。現在時点の真理の完全実現を宣言しておいて、現実との矛盾を追求され答えに窮すると、
「今はプロセスである」と答えるのは、矛盾した二元論を持っているのです。

「人類は神である」ということは「人類は完全である」ということなのです。完全とはプロセスではない
のです。それでいて、現実の不完全さを突きつけると、「今はプロセスである」と逃げるのです。「今は
プロセスである」というならば、「今の人類は完全ではない、今の人類は神ではない」と言うべきでしょ
う。「(今)人類は神である」と言っておきながら、「(今)人類はプロセスにある」と言うのは、矛盾
極まりない頭の持ち主としか言いようがありません。この矛盾に気づいて下さい。

もう一度申しますが、「現在の人類はプロセスにいる」と言うならば、どうして初めから「人類は神にな
りつつあるプロセスにいる」と宣言しないのでしょうか。「(現在すでに)私は神である」と宣言しなが
ら、「(現在はまだ)私は神になるプロセスにいる」と、平然と矛盾を説く態度に、私はあきれはててし
まうのです。「現在の人類はプロセスにいる」と言うならば、「我は神なり、人は神なり、人類は神な
り」などと、すでに自分がプロセスを超えて完全な境地に至ったかのように説くべきではありません。

[五井先生の神の子観は、現実と理想をつないだ神の子観]

「今の人間は神に至るプロセスにいる」という点については、私も同感なのです。「本来(本質的に)、
我は神なり、人は神なり、人類は神なり」と説くのは結構なのですが、現在の時点において、「我は神な
り、人は神なり、人類は神なり」と宣言するには、早過ぎると言うのです。そのように真理を宣言する時
期は、まだ来ていないのです。真理を早く実現したい気持ちは、私にも痛いほど理解できますが、私たち
は、焦ってはいけません。現在なのか、過去なのか、未来なのか、をはっきり言わずに、「我は神なり」
といえば、それは多くの場合「現在」と解釈されます。「我は神なり」と言えば、「現在、我は神なり」
と言っていると、人からは解釈されます。本来性、本質を言うのであれば、「本来、我は神なり」と言わ
なければ、正確とは言えません。

五井先生も、人間神の子完全円満論であるのですが、生長の家と違う点は、「本来、人間は神の子完全円
満であるが、現在の人間はまだ神の子ではない。現在は、業想念が存在していて、神の子の本心を覆い隠
してしまっている。しかし、時間の経過と共に、未来にゆくにつれて、業想念は消えてゆき、人間は本来
の神の子の姿を現してゆくのである」と説明している点です。

言い方を変えれば、生長の家の神の子観は、「現在、人間神の子完全円満論」であるのに対して、五井先
生の神の子観は、「現在、人間凡夫不完全論」の現実と、「未来、人間神の子完全円満論」の未来に、新
たに時間の要素を導入して、二つをつなぎ合わせた神の子観であるのです。生長の家の神の子観は、理想
には矛盾しませんが、現実には矛盾してしまいます。それに対して、五井先生の神の子観は、現在にも矛
盾せず、理想(未来)にも矛盾しないのです。その現在と理想(未来)をつなぐ言葉が、業想念を見れば
「消えてゆく姿」という教えになり、本心を見れば「必ずよくなる」という教えになるのです。

[世界平和の祈りは、プロセスの方法ではなく、永遠に消えることはない]

やたらになんでもかんでも、「それはプロセスです、みんなプロセスです」と説き、「世界平和の祈りも
プロセスである」と説いている人がいますが、それはとんでもない間違いです。「世界平和の祈り」は、
プロセスの方法ではなく、完成された方法であります。現在の業想念が消えてゆく姿であり、現在の世界
が完成へのプロセスにいることは確かですが、「世界平和の祈り」はプロセスの行法ではありません。
「世界平和の祈り」は、人類に永遠に必要な祈りであるのです。「世界平和の祈りはプロセスで、我は神
なり、という真理の言葉の宣言こそが究極の行である」という教えも、まったくの誤りです。「我は神な
り」という真理の言葉を宣言する行法のほうこそ、誤てる行法であるのですから、いずれ必ず消えてゆき
ます。それに対して、「世界平和の祈り」は真実の行法であるのですから、永遠に消えてゆくことはあり
ません。「世界平和の祈り」は永遠に後世に伝えられるのです。「世界平和の祈りは、プロセスの方法で
ある。我は神なり、の宣言こそ、究極の方法である」と説いている人があったら、その人は五井先生のみ
教えを知らず、神のみ心もまったく知らぬ、神のみ心に反した人であるのです。

本心と業想念を、はっきりと区別できなくてはなりません。「世界平和の祈り」は本心の現れでありまし
て、業想念ではないのですから、永久に消え去ることはないのです。「世界平和の祈り」は、プロセスの
方法ではありません。「世界平和の祈り」こそは、神から給った最後の方法であるのです。「世界平和の
祈り」は、神のみ心であるのですから、永遠に消えてゆくことはありません。「世界平和の祈り」は完全
な方法であり、永遠の光明として人類を照らしてゆくのです。

[真理宣言行の欠陥と想念法則による善念行の欠陥]

宗教者は、真実の道を教えなくてはなりません。欠陥のある行法は、「効果がなかった」では済まされま
せん。無理な真理宣言行は、自己を偽善者に陥れ、しだいに口先だけの高い真理の言葉と、自己の実際行
動とが、あまりにも離れている事実を知るにつれて、自己を責めさいなむ地獄へと落ちてゆくのです。
また、想念の法則による善念行(運命改善法)は、「善いことを思えば、善い運命が現れる」と成功を説
いて人々を引きつけながら、その先には、「あなたが不幸なのは、あなたが悪いのだ」と人を責め裁く地
獄が待っているのです。私が、さかんに誤てる宗教について警告をする理由は、誤てる宗教は「効果がな
かった」では済まされないからなのです。欠陥のある行法を信徒にやらせますと、本心開発から遠ざけて
しまうだけではなく、自分や他人を責め裁く、という責め地獄に人々を陥れてしまう危険があるのです。

[真実の「世界平和の祈り」に、誤った行法を付け足すな]

「世界平和の祈り」を祈ることに徹していさえすれば、自分や他人を責めることはありません。ところが
「世界平和の祈り」だけを祈っていればよいのに、「世界平和の祈り」に、真理宣言行や、想念法則によ
る運命改善行等の誤った行法を付け足しますと、せっかくの「世界平和の祈り」が、その効果を無くして
しまうのです。但し、古くからある伝統的な祈り言、たとえば神道の祝詞、仏教の読経や念仏、キリスト
教の主の祈りなどの正しい祈り言や行法に、「世界平和の祈り」を加えるのは、これはなんら問題はあり
ません。誤った行法を付け足すと、「世界平和の祈り」の効果が失われる、というのです。

[世界平和の祈りの原理とその他の行法の原理の違い]

なぜならば、「世界平和の祈り」の原理と、真理宣言行の原理と、想念法則による運命改善行の原理の三
つは、同じ原理ではなく、全く異なった原理であるからです。
「世界平和の祈り」の人間観は、「人間は本来、神の子であって業生ではない。現在の人間は、肉体界に
完全な神の子の姿を現す途中にあるから、当然、不完全である。しかし、その不完全さも、時間の経過と
共に消えてゆき、未来は完全な神の子の実相を現すのである」というように、現実と理想をつなぐ中庸の
神の子観であるのです。現実の悪や病気や不幸の存在を認めているのですから、現実の事柄に矛盾しませ
ん。しかも、時間の経過とともに、それらの不完全な姿は消え去ってゆく、というのですから、理想にも
矛盾しないことになります。そこで、現実と理想をつないだ中庸光明思想というのです。

一方、真理宣言行の人間観とは、「現在の人間は神である。我も人も人類も、みな神なのである。我も人
類も完全なる神であるのだから、当然、悪や病気や不幸はあるはずがない。悪人も病人も不幸な人も存在
しない。現在、悪も病気も不幸も無いのだ」という理想(実相)だけを見た神の子観であるのです。この
神の子観は、人間本来罪の子観よりも、明るくて勇気を与えられる光明思想であるのですが、現実無視と
いう欠陥があり、現実の悪や病気や不幸の存在を「そんなものは無いのだ」としか説明できないのです。
悟り寸前の高い心境の人ならば、その言葉が契機となってパッと悟れるかもしれませんが、ふつうの心境
の人々が、そんな真理の言葉を聞いても納得できるはずがありません。そこで指導する側は、「そんなも
のは無いのだ」では押し通すことができなくなって、苦しまぎれに「想念の法則論」を持ち出してきてし
まうのです。

想念法則による善念行の人間観とは、「人間の本来の性は、善悪混淆したものである。人間は善いことを
思ったり、善い行為をすることもあるが、悪いことを思ったり、悪い行為をすることもある。人間の意思
力によって、運命が善くなったり、悪くなったりするのだ。幸福も不幸も、あなたの想念の結果であり、
あなた自身が、あなたの運命を作っているのだ。だから、幸福になりたかったら、悪い想念を思わずに、
善なる想念を強く念じたらよいのだ。但し、もし、不安や恐怖を思ったりすると、その通りにその不安や
恐怖は実現化してしまうから、それは注意しなければいけない、と教えるのです。この人間観では、善も
存在するけれども、悪も存在するのですから、どこまで行っても油断できず、自戒しつづけなくてはなり
ませんから、心が晴れやかに光明化することはありません。

[想念法則を利用した善念行は、真実の光明思想の行法ではない]

想念法則を利用した善念行を、「光明思想の行法である」と説いている宗教者がいますが、これもとんで
もない誤解です。善念を積み重ねてゆく行法は、積極思想でありまして、光明思想とは違います。想念法
則の原理から、光明思想は生まれることは決してありません。「人間は神の子であり、善のみ実在する。
本来の人間は悪いことを思わない」という教えが、光明思想であるからです。積極思想を、光明思想と同
じ、と誤解している宗教者は、光明思想の真実の意味を理解していないのです。

[想念の法則(心の法則)には、恐怖の法則というマイナス面がある]

想念の法則とは、マイナス面を見れば、「失敗するかもしれない」「できないかもしれない」「ガンにな
るかもしれない」「ケガをするかもしれない」「受験に落ちるかもしれない」「結婚できないかもしれな
い」「失業するかもしれない」と恐怖すれば、その恐怖の念の通りに形となって現れるであろう、という
教えでもあるのです。どんなに善念だけを念じて、次々と湧いてくる悪念を否定しようとしても、悪想念
(悪業)の圧倒的な影響を受けて、善念だけを念じるのは非常に困難です。そして結局、「これほど善念
を念じても、一向に運命がよくならないのは、過去世で私はよっぽど悪い行為をしたに違いない」とひど
く暗い気持ちになって、恐怖におびえて生活するようになったり、自分を責めてしまうのです。そして、
人に向かっては、「あの人が殺されたり、あの人があんなに不幸になったのは、あの人が悪いことをした
からなのだ」と、思いやりも同情もなくなって、法則だけをとらえ、冷たく責め裁くようになってゆくの
です。宗教とは、愛と赦しの教えであるはずなのに、このように想念の法則を聞いたばかりに、自分や他
人を責め裁くようになって、冷酷な人間になってゆき、宗教の本質から外れていってしまうのです。想念
の法則を用いた善念行は、単純で誰にもわかりやすいのですが、このような欠陥があるのです。

[「世界平和の祈り」は不完全な行法ではなく、低い行法でもない]

「世界平和の祈り」だけあれば、自然法爾に、人間は神の子になってゆくのであり、世界は平和になって
ゆくのですから、現実を無視した無理な真理宣言行は不要なのです。また、すべての業想念が消えてゆく
姿であり、いつかは無くなってしまうのであると知り、未来において、人間は神の子の姿を現すようにな
る、と知れば、想念法則を利用した善念行も不要となるのです。それなのに、完全完璧な最新の「世界平
和の祈り」を祈りながら、「世界平和の祈りだけでは足りない」「世界平和の祈りは低い行である」と、
「世界平和の祈り」を軽蔑し、五井先生が過去に捨てたはずの無理な真理宣言行や、想念法則による善念
行を加えて、「今は、五井先生の時代とは違う。私は五井先生よりも進んだ高い教えを説いているのだ」
と自慢しているようでは、はなはだ困ります。

[「世界平和の祈り」に全託した私は強くなった!]

「世界平和の祈りは、最高最善完全完璧の行法である!」
「この意見に文句がある人は、遠慮なく私に言ってきなさい」と私は書いておりますが、正々堂々と論理
的に私に反論してくる人は一人もいません。それは、私の意見は、五井先生のみ心であり、神界の神々の
み心でもあり、絶対に正しい意見であるからです。私自身は欠点の多い未熟な人間ですが、「世界平和の
祈り」については、私は誰と議論しても、宗教議論に負けることはありません。なぜならば、私は、絶対
に正しい意見を主張しているからです。「世界平和の祈り」は、守護の神霊のみ心に適っていることは、
もちろんのこと、地球界の聖者賢者のみ心にも適っており、宇宙神のみ心にも適った絶対に正しい行法で
す。「世界平和の祈り」を正面に高々と掲げながら進んでゆく私たちを、すべての神々が応援して下さる
のですから、私たちの進路を妨げる者は一人もありません。「世界平和の祈り」に勝る行法は、一つもあ
りませんし、「世界平和の祈り」は絶対的に真実であるがゆえに、絶対的に強いのです。「世界平和の祈
り」ほど強い光明力を持った祈り言は、他にはありません。「世界平和の祈り」と一体になった人は、何
者にも負けぬ、何ものにも挫けぬ絶対的な強いパワーを得るのです。実際に「世界平和の祈り」に全託し
た私自身、以前とは比べものにならないほど精神的に強くなりました。世界平和の祈りに全託してから、
「私は世界中の誰にも負けない。私に敵はいない。私は絶対的に強くなった!」と、私は心の底から思え
るようになったのです。

[「世界平和の祈り」は何よりも自然な行法]

「世界平和の祈り」を祈っている私たちを、神々が応援しないはずがありません。「世界平和の祈り」に
反対する神々は、おりません。神のみ心を体得した真実の宗教者ならば、「世界平和の祈り」を認めない
はずがありません。「世界人類が平和でありますように」と祈ることは、「私は神です」とことさら口先
で言わなくとも、神の子の行為であることは間違いありませんし、周囲の人から変に思われませんし、恥
ずかしい想いをすることがありません。どう考えてみましても、「私は神です」という真理の宣言行より
も、「世界人類が平和でありますように」と守護の神霊に祈る行のほうが、はるかに自然です。真理の言
葉に把われ、心の法則(想念の法則)に束縛され、自力多行難行に束縛され、不自由になることが、宗教
ではありません。自然な「世界平和の祈り」によって、私たちは真の自由を得ることができるのです。

[宗祖の奥深い心で完成した教えを台無しにしてはならない]

現代の宗教者が、宗祖から伝えられている古くからの伝統的教義にあきたらず、新しい宗教書を読みあさ
り、「これは今までとは違う画期的に進歩した善い教えだ」と新しい教えを導入したつもりでいても、実
際には以上述べたように、非常に恐ろしい欠陥を持っていることがあるのです。宗祖の深い洞察とご努力
によって、せっかく完成された教えを、後継した宗教者が浅い心境のために理解できず、台無しにしてし
まっては、実にもったいないことです。

「世界平和の祈り」は、神性開発に最も効果のある道であり、少しも危険がなく、最も安全な道であるの
です。「世界平和の祈りよりも、こちらの行のほうが効果的だ」という甘い誘惑の言葉に惑わされて、安
全な道から、わざわざ危険な道へと踏み外してはなりません。「世界平和の祈り」以上の神性開発の道な
どは無いのです。「あなたを神人にしてあげる」「あなたの願望を叶えてあげる」という甘い誘い文句に
乗らずに、地道に日々「世界平和の祈り」を祈り続けて下さい。「世界平和の祈り」こそは神様の最高の
ご神示であり、「世界平和の祈り」を祈る人こそ、真実の神の子として讃えられるのです。

「世界平和の祈り」に付け足すものは何もありません。「世界平和の祈り」は完全であるのです。誤った
行法を付け足してしまえば、かえって「世界平和の祈り」の効果を、それだけ損なうのです。誤った行法
に無駄な時間を費やすことなく、私たちは「世界平和の祈り」一つに生命を懸けてまいりましょう。

世界人類が平和でありますように


守護霊守護神教
No.1795 森島恒吉    2000/04/03 (月) 11:34 富士宮市
世界人類が平和でありますように

ハーミットさん、ありがとうございます。
五井先生の教えは、「守護霊守護神教」です。これは、五井先生ご自身が「私の教えは守護霊守護神教」
とおっしゃっていました。そして、守護霊守護神を信仰の対象にして、何を祈るのか、と申しますと、ご
承知の通り、「世界平和の祈り」を祈るわけです。この「世界平和の祈り」は、個人人類同時成道の祈り
であり、現代の地球人類にふさわしい祈り言で、しかも、幼児でもご老人でもわかりますし、人種や宗教
を超えて理解できる祈り言であるのが特長です。世界平和実現ほど、個人にとっても、人類にとっても、
大きな目標はありません。この人類最大の目標を、祈り言にしたのが「世界平和の祈り」なのですから、
「世界平和の祈り」以上の祈り言は、地球人類史上には、もう現れないのです。

私たちにとって幸せなのは、これから「世界を平和にするには、どうしたらよいか?」と想い悩む必要が
ないことです。世界平和実現への道が、もうすでに指し示されたのですから、日々実践してゆくだけでよ
いのです。これは実にありがたいことである、と思います。ただ、この方法は、信じることのできる人と
信じない人の二通りがあります。信じることのできる人は、もうそのままで救われるのですが、信じない
人にとっては、なんの解決にもなりません。そこで今後は、守護の神霊を信じられない人や、祈りの力を
信じられない人をも救う、平和科学を研究する必要があります。

「私のいる高い所へ登って来い」と説く宗教者は、現代の宗教者としては、もう古い過去の在り方です。
これからは、すべての人々を救うために、自ら民衆の立場に立って、宗教を信じない人々、神も仏も信じ
ない人々、自分に敵対する人々をも、救う道を考えてゆかねばなりません。自分の言うことを聴く人だけ
を救って、「自分の言うことに耳を傾けないやつは勝手に地獄へ行け」と言っていてはいけません。すべ
ての人々を救う、大きな大きな愛を持たねばなりません。そうした大きな愛を持つためにも、平和科学を
発見し、平和科学を具体的に生かすためにも、私たちの「世界平和の祈り」が必要となるのです。平和科
学が、この地球上に一日も早く授けられることを願って、私たちは日々「世界平和の祈り」を祈ってまい
りましょう。ありがとうございました。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"


自力行と絶対力行為
No.1798 森島恒吉    2000/04/06 (木) 03:00 富士宮市
世界人類が平和でありますように

[ハーミットさんの質問]
五井先生の教義には、「消えてゆくのである」という「強い信念」と、「今から良くなるのである」とい
う「善念」を起こし、とありますので、ここのところが「何としてもそう思わなくてはならないのかな?
努力して、そういう信念を養わなくてはならないのかな?、ちょっと自力っぽいな?」と、ずっと引っか
かっていたのです。

そうすると「守護神様、守護霊様、どうか消えていきますように、お願いします」ということで、全託を
繰り返していけば、自然と強い信念が持てるようになっていき、無理なく善念も起こせるようになると解
釈してよろしいのですね。

[お答え]
このご質問については、以前かんたんにお答え致しましたが、「教義にある、強い信念を起し、善念を起
こすという行為は、自力なのか?」という大事な問題について、詳しく解説することにいたしましょう。

「守護霊様、守護神様、どうか業想念が消えてゆきますように、お願いします」と神への全託をくりかえ
してゆけば、自然と「業想念は消えてゆくのである」という強い信念と、「今から善くなるのである」と
いう善念を起こせるようになってくるのです。これを私は、想念波動変換原理と呼んでおります。従いま
して、自力で「業想念は消えてゆくのである」と念じたり、「今から善くなるのである」と力む必要はな
いのです。このように私は、五井先生の絶対他力の教えを、より絶対他力に徹した表現に統一するように
しているのです。私の教えは、五井先生の教えそのものであるのですが、私の体験を生かして、その表現
をより他力的にしているのです。私の立場は、法然さんに対する親鸞さんの立場に似ているのです。

教義にある、「強い信念を起し、善念を起こす」という行為は、自発的行為ではありますが、自力ではあ
りません。かといって、他力行でもありません。本心の行為、絶対力の行為であるのです。絶対力という
のは、他力行を超えた境地です。五井先生は、他力行と絶対力の行為を、ことさら区別することなく、実
行できるのです。しかし、絶対力の境地にいたっていない凡人にとりましては、そう易々と絶対力の行為
をすることはできません。そこで想念波動変換原理を知りませんと、絶対力の行為を真似しようとして、
どうしても自力行におちいってしまうのです。

五井先生は、神我一体の立場から話している時と、肉体人間の立場から話している場合の二つがありま
す。私には、それが区別できるのですが、ふつうの人には区別できません。そのために、ふつうの人は、
五井先生から教えられた通りに、五井先生の真似をしようとして、無理をしてしまうことがあるのです。
そこで私は、絶対力の行為については言わないで、肝心な方法だけを説くように努めているのです。すな
わち、「世界は平和になる信念で世界平和の祈り」と教えているのです。「業想念は消えてゆくのであ
る」という信念も、「今から善くなる」という善念も、自力的な行為と思われがちですが、真実は、これ
は自力的な思念ではなく、神我一体の絶対力から現れてくる自然法爾の行為であるのです。

このような絶対力の信念行為は、おのずから行為されてくるものとして、私はひたすら守護の神霊への全
託行のみに集中させているのです。絶対力と自力は、同じように見られますが、内容は全く違います。五
井先生は、絶対力の立場から、「消えてゆくのであるという強い信念と、今から善くなるのであるという
善念を起しなさい」と説いているのでありまして、「自力でこう思いこめ」と説いているわけではないの
です。他力想念が、神のみ心の中で絶対力に自動変換されると知れば、自力の想いを出す必要はなく、ひ
たすら神への全託に統一しておくことができます。

自力で念じて行じている行為と、絶対力の境地から自然法爾に行じている行為は、はたから見ていると、
区別できません。しかし、自力行と絶対力行為とは、同じ行為に見えていても、内容は全く違います。た
とえば、「感謝しなければならない」という形式的感謝行や、「愛の行為をしなければならない」という
形式的愛行は、自力行であり、真実にあふれてくる感謝行為や愛行為は、絶対力行為であるのです。「自
分を神の子に見せかけよう」としたり、「他人を神の子と拝まなければならない」という行為は自力行で
あり、自然法爾に自分や他人を神の子と思えるようならば、それは絶対力行為であるのです。

その絶対力の境地は、他力行によって達することができるのです。五井先生ほどの境地になりますと、他
力行を超えて、すでに絶対力の境地にいるのですから、「業想念は消えてゆく姿である」という強い信念
が、おのずと湧いてくるようになっており、「必ず善くなるのである」という善念もまた、自然に湧いて
くるようになっているのです。五井先生は、努力して、そう信念し、善念を起しているわけではありませ
ん。他者から見ますと、努力しているように見えるのですが、五井先生本人は、ひとりでに、そのように
信念し、善念を起しているのです。五井先生にとっては、その絶対力の行為は、なんでもなく、やさしい
行為であるのです。しかし、五井先生にとっては易しい行為であっても、絶対力の境地になっていない普
通人にとっては非常に難しく、そのままを実行しようとしますと、自力行になってしまうのです。そこで
私は、無理な絶対力行為をいきなりやらせず、他力行の「世界平和の祈り」だけを行じさせるように説い
ているのです。「世界平和の祈り」を祈っていれば、誰もが五井先生のような聖者へと変貌を遂げてゆく
のです。自力行と絶対力行為の違いを、はっきりと知っておいて下さい。

"MAY PEACE BE IN THE WORLD"