森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


産土神と氏神と守護の神霊
No.2419 森島 恒吉    2000/10/31 (火) 20:40 富士宮  
世界人類が平和でありますように

ハーミットさん、こんばんは。ご質問をありがとうございます。
[ご質問]
ものの本には、産土の神と氏神は同義であると書かれています。…神道でいうところの氏神様や産土の神
様は、五井先生が説かれるところの守護神、もしくは守護神的な働きをされる神様なんでしょうか。

[お答え]
産土(うぶすな)の神様とは、自分の誕生した土地を守護している守護神様をいい、氏神(うじがみ)様
とは現在、自分が住んでいる土地を守護している守護神様をいいます。たとえば、東京の浅草に生まれた
人が、現在、富士宮に住んで生活しているとしますと、その人にとって産土の神様とは、浅草の土地と人
間を守護している神様で、氏神様とは富士宮の土地と人間を守護している神様ということになります。

このように人間は知らないうちに地球霊王、産土の神様、氏神様の加護を受けて生かされているのです。
時間的に余裕のある人は、自分の産土の神様や氏神様に感謝するのは結構なことですが、自分を生かして
下さるすべての神霊への感謝をひとまとめにして、守護霊様、守護神様に感謝していさえすればよいので
す。守護霊様、守護神様が、私たちの代わりに産土の神様や氏神様に感謝して下さっているからです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


神の子を現わす道は「世界平和の祈り」
No.2463 森島 恒吉    2000/11/03 (金) 18:28 富士宮  
世界人類が平和でありますように

わんねすさん、論理的で真摯なご意見を頂戴し、大変うれしく思います。私の弟子のどなたかがお答えし
て下さると思います。が、その前に、この掲示板の過去ログに書かれた「人間神の子観」に関する、私の
教えのすべてを読んでいただきたい、と思います。私は、お答えをすでに書いているからです。

生長の家の教えも「人間神の子観」であり、五井先生の教えも同じ「人間神の子観」であるのです。
唯一会も五井先生の教えであるのですから、当然同じ「人間神の子観」であるのです。
但し、同じ「人間神の子観」であっても、生長の家の教えと五井先生の教えは、異なっているのです。

[五井先生のご本(信仰と直観)より]
只、観念的に「人間神の子」と言ったとて、「罪悪深重の凡夫」と言っていたところで、仕方がありませ
ん。その観念を実際面の生活に生かして、人類の理想を実現せしめなければ何にもなりません。私はその
道について、その方法について説いてゆきたいと思っているのです。

「神の子人間」を主にしてもよし、「罪の子人間」を主にしてもよいが、共に世界平和の祈りの中に祈り
入れて、世界平和の大光明の使徒としての自己の生活を、改めて頂き直してゆく心がけが必要なのです。
祈れ、祈れ、祈れ、世界平和の祈りを祈りつづけよ。私はいつでも「この一言」を皆さんに申し伝えるつ
もりでいるのです。(文中かっこは編者)

五井先生の説いているように、観念的に「人間神の子」と言ったところで、仕方がないのです。それでは
具体的にどうしたらよいのかと申しますと、「世界平和の祈りを祈れ」という一言になるのです。観念的
に「私は神の子である」と言っても、容易に神の子の姿を現わすことはできません。「世界平和の祈り」
に飛び込んで、すべての想念行為を「世界平和の祈り」に投入していれば、神のみ心によって、神の子の
本質が現れてきて、神の子として生まれ変わるのです。

唯一会は、「人間は本来、神の分霊である」という五井先生の教義を守っております。本来の人間は真に
神の子であるのです。但し、生長の家のように、まだ神の子を現わしていない現在の人間が、ことさらに
「私は神の子である」と唱える行法は、採用していないのです。

すでに神我一体を悟った人、神人ならば「私は神の子である」と発言しても、それは当然なことなので、
問題はありません。しかし、真実に悟った人、神人になった人は、ことさらに「今日は1万回唱えよう」
と計画をして、「私は神の子である」と唱えるようなことはしないものなのです。いいかえれば、ことさ
らに意識して「私は神の子である」と唱えている人は、まだ真実に神の子になっていない人なのです。

真理として、人間は神の子であるのです。人類は、真理を知らなくてはなりません。しかし、真理の言葉
を唱えただけでは、真理は容易には現れないのです。その真理を実現するには、「世界平和の祈り」とい
う祈りの道が、最も安全で近道で短距離の易行道であると、五井先生は教えて下さっているのです。

私の足りない点は、弟子が補足して下さることと思います。ご指摘の部分は重要であり、五井先生のご本
を何度でも読み返す必要があります。私が何をどう詳しく説明しても、その人の心境が理解できる心境に
達しなくては、理解できないことがあります。「求めよ、さらば与えられん」でありまして、学ぶ気持ち
があれば、教える気持ちにもなります。謙虚に学ぶ気持ちを失わず、今後もご精進下さい。

あなた様の天命が完うされますように
MAY PEACE BE IN THE WORLD


「世界平和の祈り」は最易行道
No.2477 森島 恒吉    2000/11/04 (土) 00:24 富士宮  
世界人類が平和でありますように

わんねすさん、有意義なご意見をありがとうございます。

[わんねすさんのご意見1]
五井先生は本心と業想念の区別の無い、観念的神の子観を否定されたのであって、本心と業想念の区別に
立った人間神の子観は否定されていなし、先に投稿した五井先生のご法話からも本心と業想念の区別に立
った人間神の子観を行ずるやり方でもよいと言っているではありませんか。。
 私は、現在の昌美先生が説かれている神の子観ももちろん、本心と業想念の区別に立った人間神の子観
であり、観念的神の子観ではないと理解してますが、森嶋さんはなぜ観念的神の子観であるという決め付
けをなされるのですか?(五井先生は生長の家の教えすべてを否定されていませんよ!)

[私のお答え1]
「我即神也」とは、「私は神である」という意味であることは、昌美先生のご法話で明らかです。
「私は神である」と宣言することは、「私には業想念は無い」と宣言することと同じです。業想念は無い
のですから、本心と業想念の区別をつける必要はありません。

五井先生は「本来、私は神である」と説いているのでありまして、「今の私は神である」「今の私には業
想念は無い」と説いているのではありません。五井先生は、現在の人間は、神性顕現に至る途中(プロセ
ス)の段階にあり、現在の人間はまだ神の子ではないと説き、現実の業想念の存在を認めているのです。
業想念は現実には存在するからこそ、本心と業想念の区別が必要となってくるのです。

「私は神である」と宣言する方法は、本心と業想念の区別に立った人間神の子観ではないのです。現実の
業想念の存在を無視した、真理に片寄った、人間神の子観であるのです。「私は神である」という真理の
宣言は、「私には病気も不幸も悪も無い」と宣言することと同じであるのです。しかし、現実には悪も病
気も不幸も存在するし、悪人も病人も不幸な人もいるし、国どうしの紛争や戦争も存在しているのです。

このような現実の業想念の存在を、「無い」と見ることは、よほどの聖者でしか思うことはできません。
ふつうの心境の人が、現実の業想念の存在を「無し」と見ることはできません。ですから、「悪も病気も
不幸も無い」として、「私は神である」と真理を宣言するには無理があり、どうしても観念論的人間神の
子観になってしまう、というのです。

[わんねすさんのご意見2]
現在の白光の「我即神也・人類即神也」の行法は、「本心と業想念の区別」に立った行法であり、消えて
ゆく姿で世界平和の祈りと同様に、消えてゆく姿で「我即神也・人類即神也」であります。

[私のお答え2]
「消えてゆく姿で世界平和の祈り」と同様に、消えてゆく姿で「我即神也・人類即神也」と行じるのは、
非常に矛盾していると思います。五井先生の「世界平和の祈り」は、業想念の存在を認めていますから、
「消えてゆく姿」がありますが、「我即神也・人類即神也」は、業想念の存在を認めないで、「私は神で
ある・人類は神である」と真理実現をすでに宣言しているのですから、今更「消えてゆく姿で我即神也」
と説くのは、どう考えても非常に矛盾している、と言わざるを得ません。

「我即神也」だけでは、現実の悪現象に対する説明がつかなくなったので、五井先生の教えの「消えてゆ
く姿」の教えを、後から無理に付け加えたのです。「我即神也・人類即神也」とは、「悪も病気も不幸も
無い。我即神也・人類即神也」と真理を宣言する意味である、と私は解釈しております。

[わんねすさんのご意見3]
私たちはこれから未来に神になるのではなく、すでに神である自己が存在しているのです。肉体人間はど
うあがいても神にはなれません。五井先生のみ教えは肉体という限定されたものが神になるのではなく、
肉体を動かしている生命の元となる真の自己をあらわすことだと思いますが。(悟りを求めた釈迦が、悟
りを開いてみると、永遠の昔から仏であったことを悟った)

[私のお答え3]
「すでに神である自己が存在しているのです」といっても、神であるあなたは、神界に本体として実在
しているのでありまして、現実のあなたは、神として存在しているわけではないでしょう。現実のあなた
が神として存在している、と言い切れるならば、釈迦に説法で、私は何も申し上げることはありません。
「私は神である」と言い切れる人は、聖者か偽善者かのどちらかだ、と思います。

[わんねすさんのご意見4]
我即神也の行法は、永遠の昔から仏(神)であった真の自己を思い出すためのものであって、神の子に
なるための行法ではありません。だから、人に向かって「我即神也」と宣言することはありません。あく
まで真の自己を思い出すためにするものであります。記憶喪失状態から、真の自己を思い出すためにする
のです。

[私のお答え4]
「我即神也と宣言しつづけてゆけば、神になれる、神になる」という教えを白光誌で読んだ覚えがありま
す。また、「我即神也」の注釈にも、「この宣言をすることによって、神そのものの自己の真の姿を顕現
し、人類に示してゆくのです」とあります。ですから、「我即神也」とは神の子になるための行法と解釈
しておりますが、真の自己を思い出すのも、神になるのも、神性を顕現するのも、修飾的表現が異なるだ
けで、意味にたいした違いはないと思います。

生長の家の教えは、「悪も病気も不幸も無し。人間神の子完全円満論」と「心の法則論」の二元論です。
それに、五井先生の「悪も病気も不幸も消えてゆく姿。人間本来、神の子完全円満論」を加えて一緒くた
にしますと、三つの矛盾し混乱した三元論になってしまいます。

「世界平和の祈り」一元論の生き方は、真理に把われませんから、観念論にもならず、偽善にもならず、
無理に偉そうに力むこともありません。正直に生きることができて、非常に楽に生きることができます。
「世界平和の祈り」一元論の道は、自分を責める必要もなく、他人を責める必要もありません。明るく正
直に生きることのできる大光明最易行道が、「世界平和の祈り」の道であるのです。

[結論]
ともあれ、わんねすさんは、わんねすさんの信じ選んだ道を自由に行かれればよいのです。わんねすさん
ご自身が、ご自分の選んだ方法で、真の自己を思い出して下されば、それで結構なのです。そのときは、
この掲示板で発表なさって下さい。わんねすさんが、真の自己を思い出す日を、お待ちしております。

あなた様の天命が完うされますように
MAY PEACE BE IN THE WORLD


あなたの信じる道を行きなさい
No.2496 森島 恒吉    2000/11/04 (土) 17:48 富士宮  
世界人類が平和でありますように

わんねすさん、ご意見をありがとうございます。

[ご意見1]
五井先生がはたして、森嶋さんの主張どおりの事をおっしゃっているかどうか、ご著書を紐解いてみたの
ですが、私のNO,2460の書き込みの中の五井先生のご法話から、五井先生は頭ごなしに「私は神であ
る」というやり方は否定されていない、ということは明白でしょう。それなのになぜまだ、自己の主張に
固執されるのですか? あなたが否定していることを、五井先生は必ずしも否定されていないではありま
せんか。

[お答え1]
見解の相違なのです。五井先生は、さまざまな角度から多様な表現を用いて、み教えを書かれています。
五井先生のご著書の一部分だけを見ていては、み教えの一面しかわかりません。そこで、すべてのご著書
を読んで、総合的に整理して解釈する必要があります。五井先生の他のご著書には、「我は神なり」とい
う言葉を例に出して、その宣言行について、はっきりと否定されている文章もあります。

私は、正しい宗教と過てる宗教の違いを述べているのでありまして、あなたに「我即神也という宣言行を
やるな」とは申しません。私の主張や見解が誤りであると思うならば、私の言うことを信じる必要はあり
ません。あなたが信じていることを、実行されたらよいのです。

[ご意見2]
森島さんの解釈においては偏った部分を感じてしまいます。そもそも、広大無辺なる五井先生のみ教に、
唯一最高などという限定はつけることはできないし、その必要もありません。

[お答え2]
これも、あなたが五井先生のご著書をよくお読みになっていないからで、五井先生は「世界平和の祈り」
の行について、唯一の行、最高の行という意味のことを、しばしば書かれています。この問題は過去にも
論議されたことで、答えはすでに決着済みです。

[結論]
とにかく、あなたが信じる道を、一生懸命おやりになることです。「我即神也」でもなんでもいいから、
真剣にやっていれば、その結果は現れてきます。あなたの信じる「我即神也」をおやりなさい。そして、
真の自己を思い出すことができたら、私に知らせて下さい。その日を楽しみに待っております。

あなた様の天命が完うされますように
MAY PEACE BE IN THE WORLD