森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


今、光明燦然と輝く「世界平和の祈り」
No.2739 森島 恒吉    2000/12/03 (日) 13:30 富士宮
世界人類が平和でありますように

人間は幾多の輪廻転生のうちに数えきれぬほどの小悟を体験し、しだいに大悟へと歩んでゆくものです。
一歩前進したかと思うと後退したり、一時後退したかと思うと急速に前進するのが、人間の心境であり、
人類の進歩であり、宗教の道でもあります。これは「螺旋(らせん)階段」にたとえることもできます。

ですから、たとえ人生において逆境や苦難に遭い、後退したように見えても、「これも進歩している過程
なんだ、未来は必ずよくなるんだ」と明るい未来を信じて、守護の神霊に自己の天命の完うを祈りつづけ
てゆくのです。過去世からの因縁を消すために、今生で他界するまで恵まれぬ運命がつづく人もおります
が、それでも「今からよくなるんだ」と神の愛を信じて祈りつづけてゆくのです。

宗教というのは、今生の幸福だけを得る方法を教えるものではなく、永遠の人生における絶対幸福を得る
方法を教えるものなのです。今生で現世利益的幸福が得られなくとも、不幸と見える人生であろうとも、
貧苦でみじめな生活を暮らそうと、病苦があろうと、神への信仰を決して捨ててはなりません。永遠の幸
福を得るために、神に祈りつづけるのです。そのような天に任せた生き方をしますと、過去世の因縁の流
れを超越して、今生においても幸福に恵まれることがあるのです。

五井先生の教えは、やさしいようでいて奥が深く、わかったようでいて、実はわからぬ人が多いのです。
そのために自分が今まで知らなかった新しい思想に触れますと、五井先生の教えよりも進化した教えのよ
うに錯覚してしまい、せっかく五井先生の高い教えにつながりながら、低い宗教や他の思想に走ってしま
う人が、間々あるのです。その理由は、その人の心境が、五井先生の教えを理解する段階には未だ達して
いないからで、その人の心境にとっては、五井先生の教えが、まだまだ高過ぎるのです。

こうした場合、その人の現在の心境に応じた低い宗教団体や思想団体に入ってゆくことになるのです。私
たちから見ますと、実に惜しいことですが、しかしこれもまた、その人の霊性開発の一つの段階として、
体験しなければならぬことで、その修行が終わり、心境が高まれば、その心境に応じて、また一ランク上
の新しい宗教思想団体へと進んでゆくのですから、温かく長い目で見てあげることが大切なのです。

大悟の寸前には、守護神から種々の試みが霊修行者に行なわれるのですが、その一つとして、「真理の言
葉に把われない心境であるか?」という試みがあります。守護神は、霊修行者に「真理の言葉」を教えま
す。そして、その霊修行者が「真理の言葉」に把われるか否かを、じっくりと観察するのです。もしも、
信仰者が「真理の言葉」に把われますと、失格ということになり、スゴロクのように振り出しに戻されま
す。もしも、霊修行者の直覚が開いていて、「真理の言葉」に把われず、神への全託の祈り言を祈りつづ
けておりますと、守護神はその霊修行者に対して大悟の心境を授けるのです。

五井先生の教えを完全に理解した人は、「真理の言葉」に把われることはありません。ところが五井先生
の教えを理解できる人は実際には少なく、ほとんどの人が「真理の言葉」に把われてしまい、それ以上心
境が上がらないまま、不自由な階層で停滞してしまうのです。この「真理の言葉」への把われを放つこと
は容易ではありません。それは守護の神霊に全託する祈り言よりも、「真理の言葉」を宣言するほうが、
一見すると高い心境に見えるからです。「人々に自己を神のごとく偉く見せたい」という欲が少しでもあ
りますと、その欲を満足させる「真理の言葉」という落とし穴に、すっかり陥ってしまうのです。

五井先生の新しい「中庸光明思想」の教えが現れながらも、真理に片寄った古い「真理偏重光明思想」に
把われてしまうのは惜しいことでしたが、これも一時的現象でありまして、業想念の消えてゆく姿である
のです。神のみ心にかなった真実の教えが、誤った宗教観にいつまでも覆い隠されているはずがありませ
ん。五井先生の真実の教えを復活させるために、私は天から遣わされてきました。「世界平和の祈り」は
厳しい試練に鍛えられ、前にも増してその美しい輝きを放っています。私が「世界平和の祈り」を再び説
き始めると、「世界平和の祈り」の超越力を改めて自覚した人々が、私のもとに集まりだしたのです。

この地球世界は核戦争の危機で破滅寸前に見えましても、それでもなお、地球人類はたしかに進化をつづ
けているのです。「世界平和の祈り」は、一時、人々の記憶から忘れられ、後退したように見えましても
着実に地球に根付き広がっているのです。五井先生が肉体界を去りますと、「世界平和の祈り」に情熱を
燃やしていた人々も、「世界平和の祈り」をついつい忘れがちになってしまいました。やはり、多くの信
仰者にとりましては、目に見える肉体を持った「世界平和の祈り」の中心者という存在が必要なのです。
「世界平和の祈り」の中心者が、肉体界にいることによって、人々の信仰心は熱く燃え立つのです。

「世界平和の祈り」は、五井先生が肉体界におわした当時だけに通用した、時代遅れの古い祈り言ではあ
りません。「世界平和の祈りは、もう古い」という人がいますが、それはとんでもない妄見です。「世界
平和の祈り」以外に、地球破滅の危機から救う方法はありません。そのためには神仏を信じている地球の
宗教信仰者すべてが宗教宗派を超えて、各々の宗教教団にまつわる名誉欲や権力欲をきれいさっぱり捨て
て、世界平和実現という大目標のもとに「世界平和の祈り」を祈る必要があるのです。今や宗派争いをし
ている時ではありません。私たちは心を一つにして「世界平和の祈り」を祈らなければならないのです。

「世界平和の祈り」の中心者が、「この祈りではたして良いのだろうか?」とフラフラと迷っているよう
ではいけません。今更、何を迷うことがあるでしょう。「世界平和の祈り」の大光明力を信じられないよ
うな、そんなあやふやな心で、なんで「世界平和の祈り」を広めることができるでしょう。私たちは「世
界平和の祈り」を絶対力を信じております。「世界平和の祈り」を朝から夜まで一日中祈っているのは、
私たちであるのです。「世界平和の祈り」の中心者は、誰でもない私たちなのです。「いや、世界平和の
祈りの中心者は、私のほうだ」と主張する人がいたら、その人はどんな行法よりも「世界平和の祈り」を
優先して祈らなければなりません。他の行法を優先したり併用している人が「世界平和の祈り」の中心者
と言う資格はありません。「世界平和の祈り」の大光明は、私たちを中心に放射されているのです。

五井先生によって誕生した「世界平和の祈り」は、50年間、批判や嘲笑の風雨にさらされながらも、挫
けることなく、光をいよいよ増しながら、今日まで発展してまいりました。私たちは、神の厳しい試練に
打ち勝ち、「世界平和の祈り」を守り抜きました。神は試練によって、私たちを鍛えて下さったのです。
私たちは、神の試練によって「世界平和の祈り」の深い意味を悟ることができました。厳しい試練を乗り
越えた今、「世界平和の祈り」が闇に隠れることは、もう二度とありません。「世界平和の祈り」は今、
私たちと一体になって光明燦然と輝いているのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


あなたは今から幸福に生きられる
No.2742 森島 恒吉    2000/12/05 (火) 03:24 富士宮
世界人類が平和でありますように

ドクトルさん、ありがとうございます。ドクトルさんにとって、今年は人生の大事な転換期でしたね。
ドクトルさんのように若い頃、五井先生のご著書を読んで感激しながらも、目前の勉強や仕事に集中しな
ければならず、宗教の世界に深入りしなかった方が、現実生活でようやく仕事に少しゆとりができ、経済
面も家庭面も落ち着いてきて、再び人間の本質を探究したい、という宗教心がよみがえり、本格的に祈り
の生活を始める、という方々が少なくありません。

人生で再び信仰心の火が燃え始める、ちょうどその頃に、運良く唯一会を知り、「世界平和の祈り」を祈
り始めた方々が、ケントさん、青空さん、うぶちゃん、折原さん、ジュリアンさんたちです。唯一会の会
員の中には、五井先生のご著書を読んだばかりの人は少ないのです。長年、五井先生の多くのご著書をよ
く読み、ご自分で研究し、白光真宏会の実情も深く知って、慎重に熟慮を重ねた上、直観で唯一会に飛び
込んできた人たちですから、全くの初心者とちがって、すでに揺るがない信仰心を持っているのです。

私がまだ本を出版しないこともあって、唯一会のことも私のことも知る人は少ないのですが、このインタ
ーネットによるHPだけで、これだけ素晴らしい人物たちが唯一会に集まってきて下さったことは、私に
とっては奇蹟であり、五井先生の力強いお導きとご加護を感じて、大変うれしく思っているのです。

宗教の道は、高い理想を掲げながらも、地に足をつけた現実生活の中で、誰でも易しく実行できる道であ
ければなりません。いつも申しておりますけれど、「ラジオ体操が健康に良い」とわかっていても、学校
や職場で強制的にやらされでもしなければ、なかなか長続きはいたしません。長続きしなければ、どんな
に健康に良いラジオ体操にしても効力を発揮しません。それと同じように、一年に一回、滝行をしたり、
山中で座禅をしても、やらないよりも少しは良いかもしれませんが、霊性開発にはたいして役立ちはしな
いのです。宗教の行法というのは、毎日たゆみなく行じてこそ、神秘的な道力(どうりき)が備わってく
るもので、たまに修行の真似ごとをしたくらいでは駄目なのです。

そこで一番易しい霊性開発行を工夫研究してゆきますと、阿弥陀仏の名をひたすら称える、というような
称名行(しょうみょうぎょう)に行き着くのです。「南無阿弥陀仏」と称えるだけで救われる、という称
名念仏ほど、易しい行法はありません。「南無観世音菩薩」と称えたり、「キリスト・イエス様」と称え
るのも、同じ称名行でありまして、神仏や聖者の名を常に称えていれば、その人は必ず救われるのです。

ところが現代に至っては、個人の救われだけでは、どうにもならない時代になったのです。地球が核戦争
で滅亡しては、個人の幸福はありません。自分や家族の幸福だけを追い求めていることはできなくなった
のです。現代は、どうしても世界の平和を樹立しないことには、自分自身の幸福さえも得られない時代に
なっているのです。もし、他国で戦争があれば、日本も多大な影響を受けますし、戦争に加わらない日本
人も安閑としてはいられなくなります。他国の治安維持のために、日本人も戦場に赴かなくてはならなく
なるかもしれません。日本人だけが「我、他国に関与せず」と逃げてはいられないのです。

もちろん、日本がどのような状況になろうと、世界が核戦争の危機にあろうと、「南無阿弥陀仏」と称え
たり、「キリスト・イエス様」と称えている個人は、それで救われるのです。しかし、今までの称名行で
は、個人の魂は救えても、人類の平和を創り出す力はありません。神仏の固有名詞で宗派争いをしたり、
読経するお経が異なっていて、一人の釈尊を信奉する仏教者でさえ、心が一つにはなっておりません。ま
してや、習慣や風習の異なる他国の他宗との融合は、はなはだ難しいと思います。地球人類は、心を一つ
に結んでこそ、各国の人々の長所が、いかんなく発揮できるのでありまして、個人個人、各国がそれぞれ
勝手に活動していても、世界平和という大きな目標を達成することは不可能なのです。

そこで神仏の固有名詞をめぐって宗派争いをする必要がなく、神仏のみ心と地球人類の悲願を一つにし、
個人の幸福と世界平和を同時に実現できる、現代にふさわしい祈り言が必然性をもって生まれたのです。
それが五井先生ご提唱の「世界平和の祈り」なのです。この「世界平和の祈り」は、称名念仏と同じく、
易しい称名行ですが、神仏の名を称える代わりに、神仏の慈愛のみ心そのものを称えるのです。これなら
ば、神仏の名を巡って争う必要もありませんから、どの宗教者も抵抗なく唱えることができます。地球が
破滅するか真の平和を確立するか、の大事な瀬戸際の現在に、もっともふさわしい祈り言でもあります。

世界人類が平和でありますように
世界人類が平和でありますように
世界人類が平和でありますように

と祈っておりますと、先祖霊、守護の神霊、宇宙神のみ心と、たくまずして一つに同調してゆきまして、
人間本来の神の分霊としての自己の霊性が発現されてくるのです。そして人類の霊性も開発されてゆき、
無理に妥協したりしなくても、時間がたつうちに人類は自然に調和してゆくことになるのです。人類の霊
性が開発されてくるということは、人間の行為の中に神の完全な愛、智慧、真が現れてくることで、病気
も不幸も戦争も消え去り、私たちが日々生きることに喜びを感じ、愛することを喜び、科学の発展を喜び
幸福な人生をおくることができるようになる、ということです。

皆さんも最近のニュースでご承知と思いますが、車を走らせるエンジンの燃料であるガソリンの代わりに
100%アルコールでできたアルコール燃料を発明した日本人がいます。ガソリンは、地下を深く掘って採
掘した原油を加工したものであり、その資源には限りがあります。それに対して、アルコール燃料は植物
から生成できるのですから、資源は無尽蔵にあります。しかも、ガソリンのような汚れた排気ガスが出ま
せん。もし、東京の車がすべて、アルコール燃料で走るようになれば、東京の空は、みるみるうちにきれ
いになってゆき、排気ガスによる公害患者はなくなるでしょう。このアルコール燃料は、エジソンの電灯
の発明に匹敵するほどの絶賛すべき画期的発明であると思います。

これから始まる21世紀は、人類の霊性開発面としては、「祈りによる世界平和運動」が広まってゆき、科
学面としては、人類に幸福をもたらす驚異の発明が、次々と現れることでしょう。画期的なアルコール燃
料の発明は、そのさきがけなのです。
先日、私は静岡県富士宮の自宅から宮城県気仙沼まで、カーナビを頼りにドライブしました。約10時間で
660q先の目標地点に到着しましたが、カーナビがあれば、日本中どこへでも迷わずに楽に行くことがで
きることがわかりました。首都高の複雑な道路もスイスイと通り抜けることができました。これも地球上
をグルグルと飛び回っている人工衛星のおかげです。
今日、私は銀行で「インターネットバンキング」の申し込みをしましたが、これは自宅にいながらパソコ
ンで銀行口座の残高照会や振替サービスができるシステムで、私のように街から離れた森の中で暮らす人
間にとっては、非常に便利です。このように私たちの生活は、日々瞬々科学的に進歩しております。

地球人類の世界平和への道は、もうすでに「世界平和の祈り」によって確立されました。もう未来の地球
を恐れたり悲観することはありません。戦争によって、地球が破滅に至ることはありません。地球は必ず
平和になるのです。私たちは、「世界平和の祈り」によって救われたのです。私たちは、必ず幸福になる
ことに定まっているのです。あとは時間の問題だけです。「世界は平和になる」と知っている私たちは、
なんという幸せ者でしょうか。「毎日が明るく楽しく微笑んで生きられるようになる」と知っている私た
ちは、なんという幸せ者でしょうか。

「必ず目標地点に到達できる」と信じた瞬間から、わくわくとした楽しい旅が始まるように、「世界平和
の祈りによって、世界は平和になる、私は幸福になる」と信じた瞬間から、たとえ現在、無一文で、経済
的に恵まれない環境にいたとしても、あなたは、「今から幸福になることができる」のです。人間という
のは不思議な存在です。今日、一円のお金がなくとも、「明日になれば宝くじで当たった一億円が手に入
る」と信じますと、まだ一億円が実際に手に入っていないにもかかわらず、当選を信じた瞬間から喜びを
感じるのです。そのように、今の環境がどのような不幸な環境であろうと、「明日、私は幸福になる」と
本当に信じれば、あなたは、明日まで待つ必要はありません。今から、幸福になることができるのです。
「世界は平和になる」と信じて、今から幸福を味わいつつ、「世界平和の祈り」を祈りつづけましょう。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


「世界平和の祈り」は日本へ逆輸入する
No.2745 森島 恒吉    2000/12/07 (木) 11:49 富士宮
世界人類が平和でありますように

WPPSの"The Global Link"を読んでおりますと、「世界平和の祈り」を祈り、ピースポールを建立し、
「世界平和の祈り」のセレモニーを開催している人々が、世界各地にたくさんいることがわかります。
「祈りによる世界平和運動」を実行している人々は、今や日本人よりも外国人のほうが多いようです。
人口は日本人よりも諸外国の人々を合わせたほうが多いのですから、外国人のほうが「世界平和の祈り」
を祈る人が多くなるのは当然といえます。

「世界平和の祈り」は宗教宗派を超えて、世界各国の人々に受け入れられ、祈られております。世界平和
を熱望する善良な人々が、国や政府に頼らずに、市民みずから「平和運動をしよう」と立ち上がっている
のです。グローバルリンクの最新ニュースにありましたが、アメリカの国防総省ペンタゴンの礼拝堂に、
ピースポールが常設されたことは、大変素晴らしいことです。日本で生まれたピースポールが、日本の防
衛庁や自衛隊の施設の中に立つ前に、アメリカのペンタゴンに常設されたのは、宗教心を自由に表現でき
るアメリカの国民性によるものです。

日本は信仰心のあつい人々が多い一方、宗教に対してひどく嫌う人もまた多いのは、国が神道を利用して
国民を戦争に駆り立てたことに対する反発と、戦後の新興宗教団体の一部が、他人の迷惑を考えずに強圧
的脅迫的に入会を勧めた行動に対する反発の記憶があるからです。過去に受けた嫌な出来事というのは、
数十年前のことであっても人は覚えているもので、強圧的脅迫的に会員数を増やした宗教団体は、知性的
な良識ある人々の反発を受け、一時は栄えたように見えても、いずれは会員数が伸び悩み、時がたつにつ
れ急激に会員数を減らしてゆくものなのです。真実でないものは、時がたてば消えてゆくのです。

日本の政府も、戦争当時の反省から、政治と宗教を切り離した政策をとるようにしています。そのために
「祈りによる世界平和運動」のような宗教を超えた平和運動に対しても、慎重に国民の反応をうかがって
いるようで、先日ようやく「文部省後援」という文字を使えるようになったばかりです。アメリカのよう
に国家機関の中にピースポールが立つようになるのは、もう少し先になることでしょう。

となりますと、「祈りによる世界平和運動」を外国で積極的に広めて、日本に逆輸入する、という形をと
るのが賢明でしょう。世界の国々が、政府と国民が一体になって「祈りによる世界平和運動」を盛り上げ
ている、というニュースが日本で伝えられるようになれば、日本政府も「祈りによる世界平和運動」を応
援しやすくなるわけです。外国での「祈りによる世界平和運動」は、その国の平和ばかりでなく、日本の
平和のためにも、大きく役立つことになるのです。

そこで若い人たちは、積極的に海外に出かけていって、その国の言語をしっかりと身につけることをお勧
めします。私もイギリスやフランスに行きましたが、数カ月間行ったくらいでは、すぐに忘れてしまいま
す。少なくとも3年間はその国に滞在して、一生忘れないほど外国語を覚えることです。五井先生のみ教
えの理論については、私がすでに確立しましたから、次は外国語を勉強して、外国に五井先生の正しいみ
教えを伝えて下さい。「世界平和の祈り」を広めるために、やらなくてはならぬ勉強は、まだまだたくさ
んあるのです。酒を飲み、カラオケでたまに遊ぶのも結構ですが、世間の怠惰な人々に合わせて生きてい
てはいけません。私たちには、「世界を平和にする」という使命があるのです。

「世界平和の祈り」を求めている人は、世界中にたくさんいます。「五井先生の真実のみ教えを理解した
い」と探し求めている人々もたくさんいます。五井先生の真実のみ教えを理解したら、次は外国語を学ん
で下さい。そして、外国へ行って、真実の「世界平和の祈り」を教えてあげて下さい。私の果たせなかっ
た夢を実現させて下さい。「世界平和の祈りは唯一最高の祈りである」と悟ったあなたは、五井先生から
「世界平和の祈り」を広める資格が与えられた人です。自信を持って外国に広めて下さい。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


天命と天職について
No.2763 森島 恒吉    2000/12/20 (水) 00:52 富士宮  
世界人類が平和でありますように

めいさん、こんばんは。めいさんのご質問にお答えします。

天命とは、天から授けられた使命という意味です。天命には、個人的には過去世からの業因縁を消滅しな
がら自己の本心を顕現してゆく天命と、世界を平和にするという天命があるのですが、具体的に天命の内
容を一つ一つ言わなくとも、抽象的な表現の天命という言葉を用いて、「私たちの天命が完うされますよ
うに」と祈っていさえすれば、私たちは天命を完うできるのです。今日には今日の天命があり、明日には
明日の天命があります。一日一日の天命を完うしてゆけば、一生の天命を完うできることになります。こ
の世の中に不要な人間などは、一人もおりません。誰にでも神から天命が授けられているのです。私たち
に共通した最も大きな天命とは、「世界平和の祈り」を祈ることであるのです。

本心とは、本当の心、真実の心という意味で、神の子としての本来の人間の心を言い表します。具体的に
申しますと、神のみ心である真、善、美、愛、智をいいます。それに対して、虚偽、醜悪、憎悪、怠惰、
愚鈍などは、業想念(ごうそうねん)といいます。智慧の智は、日の上に知がのっておりますが、この日
(ひ)とは霊(ひ)のことであり、神霊のひびきからくる知を智といい、肉体頭脳で考える知と区別して
おります。慧(え)とは、真実の姿を見きわめる心のはたらきをいい、智と合して智慧ともいいます。祈
りが深まってまいりますと、本心と業想念を区別することができるようになってきます。

天職とは、天から授けられた職業という意味であり、その人の素質にぴったり合っていますから、その仕
事をすることに喜びを感じ、充実感を感じるものです。天職に恵まれた人は幸せな人ですが、天職に合わ
ない人であっても、「世界平和の祈り」を祈れば、今生の天命を完うすることはできるのです。もちろん
「世界平和の祈り」を祈りつづけていれば、天職はいつしか現れてくるものですが、人によっては今生は
過去世からの業因縁を消すだけで精一杯で、来世でようやく天職に恵まれるという人もいますから、興味
のある学問や仕事を死ぬまで勉強研究してゆくことは、非常に意義のあることなのです。

天命に似た言葉に天寿という言葉がありますが、天寿とは天から授けられた生命の年齢の意味で、たとえ
ば105歳のような長生きをして他界した人のことを「天寿を完うした」といいます。但し、ただ長生きを
しても、天命を完うした、とは言えません。聖者イエスキリストのように30歳くらいで他界した人でも、
みごとに天命を完うした人もいます。

めいさんのご質問は、天職についてですが、今のお仕事は天職ではありません。天職に就いているときに
は、心の奥底からその仕事をすることに生きがいを感じるもので、「今の仕事は自分に合っているのかな
あ?」と悩んでいるのは、天職に就いていないからなのです。といって、すぐに天職に就けるものではあ
りません。たとえば税理士がその人の天職であるとしても、税理士になるための勉強をしなくてはなりま
せん。ソムリエになりたかったら、ソムリエになるための勉強をしなくてはなりません。つまり、興味の
ある仕事や勉強をしているうちに天職の道が開けてくるものなのですから、まず自分の興味のある仕事を
目標として選び、専門学校へ行くとか、指導者に習う必要があります。やりたい仕事があったら、悩んで
いないで、とにかくやってみることです。失敗したら、その時点で新しい仕事を見つけたらよいので、何
もしないで悩んでいることほど、時間の無駄はありません。

「守護霊様、どうぞ私の天職をお授け下さい」
と祈りつつ、興味のある勉強や仕事に全力を尽くしてゆくとき、天職の道は開けてくるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


「世界平和の祈り」だけでいいんです!
No.2764 森島 恒吉    2000/12/20 (水) 00:58 富士宮  
世界人類が平和でありますように

北海道の真由美さん、はじめまして。
唯一会に出会えてよかったですね。「世界平和の祈り」一念で、私たちは救われるのであり、世界は平和
になるのです。「世界平和の祈り」以外の余計な行法をすれば、それだけ遠回りをすることになり、霊性
開発が遅れるのですから、余計な行法はやらないほうが良いのです。「世界平和の祈り」以上の行法は無
いのですから、「世界平和の祈り」だけをしていれば、最短時間、最短距離で、私たちは神のみ心と一体
になり、救われることになるのです。

ところが、私がどんなにこう親切に教えても理解できずに、真理に把われたり、因果の法則に把われたり
して、途中で道草を食ったり、わざわざ遠回りしている人もいるのです。これも各人の業想念の消えてゆ
く姿で致し方ないのですが、あなたのように唯一会を知り、「世界平和の祈り」一直線の道を知った人は
実に幸いな人であるのです。

ご主人のお仕事については、もうしばらく、うまくいかない状態が続きますが、来年の9月頃からは運命
が上向きになってゆきますから頑張って下さい。自分の運命を幸福な運命へと上昇させてゆくためには、
第一に先祖霊に感謝することです。個人の運命を司っているのは、先祖の悟った霊である守護霊様ですか
ら、守護霊様に感謝する日々を送って下さい。ご主人の仕事がうまくいかないことに、守護霊様も心配な
さっていますが、あなたが守護霊様に祈っていれば、守護霊様もご主人を守りやすくなって、ご主人の運
命も上向きになってゆきます。毎日、守護霊様にご加護を祈り、感謝することが大事です。明るい気持ち
で「世界平和の祈り」を祈りつづけて下さい。あなたの運命は必ず開けてきます。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


全託心即絶対力
No.2770 森島 恒吉    2000/12/21 (木) 09:32 富士宮  
世界人類が平和でありますように

めいさん、おはようございます。めいさんのご質問にお答えいたします。
> 人間の本来の心を表わす(思い出す?)ために、わたし達は輪廻転生を繰り返して、学んでいるという
> 理解でよろしいのでしょうか?

その通りです。ところが本心を現わすことが実際には難しくて、欲に目がくらんで銀行強盗をする人がい
るように、本心が太陽としますと業想念の厚い雲におおわれていて、現在の人間は本心のままに行動でき
なくなってしまっているのです。自己の力で「本心を現わそう、思い出そう」としても、業想念が邪魔を
しまして、自己の力だけでは本心を現わすことができなくなってしまったのです。

そこで、「自力だけで本心を現わすことはできないのだ」と知って、守護の神霊に助けを求める必要が出
てくるのです。大神様は、肉体人間が自己の力だけで本心を開くことができなくなることを、あらかじめ
知っていて、守護の神霊をつかわして下さったのです。いいかえますと、守護の神霊の加護によって、人
間は分霊の力を発揮できるようになっているのです。守護の神霊の加護の力なくして、人間は分霊の力を
発現させることはできないのです。ですから、守護の神霊に素直にすがってよいのです。

他人への依頼心と守護の神霊への全託心とは違います。親に頼ってばかりいては、子供はいつまでたって
も一人立ちできません。自分にできないことは、他人に助けてもらうのは結構ですが、自分でできること
は、自分でやらねばなりません。自分のことは、自分でやらねばなりません。そして、あまった力で人を
助けてあげるのが人間の生きる道です。

一方、守護の神霊への全託心とは、「神さま、助けて下さい」と赤ちゃんが母親の胸に抱かれるように自
己の心身をゆだねることです。他人への依頼心と違うのは、守護の神霊に対しておまかせしますと、不思
議なことに、自己の責任を他人に転嫁したり、自分でやるべきことまで他人まかせにするような依頼心は
すっかり消え去って、神我一体の絶対力が自己の心に発現してまいりまして、信仰するまでは臆病で弱々
しかった人が、鬼神をも退かすほどの勇気ある自立的行為ができるようになってくるのです。

「外部の神に頼るな。自己の内なる神を現わせ」と説いている人は、この原理を知らない人なのです。神
さまに頼ることは、人間として恥ずかしいことではありません。大神さまは、守護の神霊をつかわして、
人間を助けようとしているのですから、素直に神のみ手にすがったらよいのです。神への全託の想いは、
そのままであるわけではなく、神の力が自己に流れてまいりまして、いつのまにか神我一体の力へと変換
してゆくのです。弱々しい依頼心は消え去ってしまうのです。すなわち、全託心即絶対力となるのです。

本心と同じ意味の言葉として、一般には良心という言葉が使われますが、良心といいますと、悪心もある
ように誤解されかねません。「人間には良い心と悪い心の二つがあるのだ」と思われては困ります。真実
の人間には善なる良い心だけがあるので、悪い心というのは実在としてありません。そこで悪い心とは表
現しないで、悪い想念といい、本心と想念を区別しているのです。本心は完全円満な心で永遠の実在であ
り、不完全な想念は一時的な存在で消えてゆく姿であるのです。

> 愛を表わすために一番簡単な方法が世界平和を祈ることですよね。自分の現世利益を離れて、他人のこ
> とを祈ることで愛を表わすことができ、より神に近づくことができるということなのでしょうか。

その通りです。「世界平和の祈り」を祈ることほど、大きな愛の行為はありません。「現世利益を求めて
はいけない」と言っているわけではなく、現世利益を求めない人はいないのですから、現世利益を求めて
もよいから、「世界平和の祈り」の中に自己の欲望を昇華させてゆけばよいのです。「世界平和の祈り」
を祈るとき、その人は愛の行為をしているのであり、知らぬ間に神のみ心と一体化しているのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


結婚についてのアドバイス
No.2782 森島 恒吉    2000/12/26 (火) 15:43 富士宮  
世界人類が平和でありますように

めいさん、おはようございます。ご質問をありがとうございます。

[ご質問]
…こうした現代女性の生き方は、宗教的に見て許されるものなのでしょうか? 私自身は、人生のうち、
おいしいところだけ取っているようで、傲慢な生き方である気もします。女性は男性と同じような生き方
をすべきではないのでしょうか?

[お答え]
「一生、独身であってはいけない」「絶対に結婚しなくてはいけない」「子供を産まなければいけない」
「女性は仕事をやめて家庭に入らなくてはいけない」「女性は男性と同じような仕事をしてはいけない」
というような「〜してはいけない」「〜であらねばならない」という教えは、五井先生から私は伺ったこ
とがありません。

五井先生は、なんの戒律も束縛もない、のびのびと自由に生きる生き方を教えて下さっています。宗教の
目的とは、多くの戒律や行法をすることが目的ではなくて、完全な自由を得ることであるのです。自由に
行動しながら、しかも非常識な行為や迷惑な行為をせず、人々の為に尽くせる人間になればよいのです。

ですから、結婚については、各人の自由なご判断でなされればよいのです。但し、理想論としては、若い
うちに愛する配偶者と結婚し、子供を産み育てるのが、肉体の法則から考えても、最も自然な生き方と言
えます。現実論としては、現在は未完成の時代ですから、「完全な配偶者との完全な結婚」というのは皆
無に等しい、と思わなくてはなりません。自分がまだ完全な人間ではないように、配偶者もまた完全な人
間ではないのです。不完全な二人の人間が結婚するのですから、時には意見が衝突してケンカするときも
出てきます。そこで、お互いに尽くしあい、赦しあうことが、必要となってくるのです。

「私は結婚しない」と主張していた若い女性が、突然のように結婚したり、だんだんと年齢を重ねてゆく
うちに、孤独感に打ちのめされて、結婚しなかったことを深く後悔したりすることがあります。若く美し
い時には、それなりに男性から大変チヤホヤされて、男性から束縛されることが嫌だったのに、美貌が衰
えるにつれて、若い男性から声をかけられることもなくなります。肉体の美貌は、永遠ではないのです。

そうなりますと、お相手には、体がヨボヨボの70歳過ぎの老人、女性に全くもてない醜男、二度も三度も
離婚して三人の子供がいる男性、変な癖のある男性、愛人募集の男性くらいしか、残っておりません。未
婚で、経済力があって、性格も頭も顔もよくて、学歴が高く、身長も高く、女性のどんなわがままも優し
く受けとめてくれる、というような理想の男性は、滅多にいるものではありません。そんな魅力的な男性
は、とっくに別の女性と結婚しています。若いときに結婚しなかったことを悔やんでも、遅いのです。

としをとってから「結婚したい」と思っても、その厳しい現実に直面し、後悔することになります。です
から、自分は結婚したいのか、結婚したくないのか、自分のほんとうの気持ちを知ることです。過去世で
結婚に失敗し、結婚に嫌悪感を持った女性は、現世で知らないうちに結婚を避けようとする傾向がありま
す。潜在意識にひそむ結婚に対する嫌悪感を浄めておかないと、今生で結婚することはできません。その
ためにも、「世界平和の祈り」を祈って、潜在意識を浄めておく必要があります。

人間の想いというのは面白いもので、親からうるさく「早く結婚しろ」と言われると、反発して結婚した
くなくなるし、逆に「あの人と結婚するな」と言われると、なおさら燃え上がってしまい、親の反対を押
し切って、駆け落ちしてでも結婚したりします。ここが人生相談の難しいところなのです。あなたの場合
には、「独身でいるよりも結婚したほうが幸福になる」と私は断言できますが、かといって、その答えを
押しつけられたら、不自由を感じて反発なさるかもしれません。そこで「あなたの自由に生きなさい」と
言うほかなくなるわけです。

守護霊様に常に感謝して、「世界平和の祈り」を祈っているならば、必要な時に適当な配偶者が、あなた
の目の前に現れて、結婚できる日が必ずきます。独身でいる運命の人もいますが、せっかく幸せな結婚が
できる善因があるのに、独身の運命の人の真似をして、せっかくの幸福を捨て去るのは、自分を愛さない
ことになります。それでは、もったいない、と思います。

自分一人でいるよりも、結婚したほうが、もっと自由に生きることができます。自分一人で暮らしていた
ら、料理を作ったら、お皿を片づけるのも、自分一人でやらねばなりません。それに対して、結婚して、
夫にお皿を洗ってもらえば、独身の時よりも、もっと自由になるではありませんか。旅行に出かけても、
一人で旅行する時は、何から何まで自分一人でやらねばなりません。ところが夫がいれば、重い荷物を持
ってもらえるし、車も運転してくれるでしょうから、独身よりも自由に楽に旅行ができます。

子供を産み育てることは、大変なことです。しかし、それ以上に、愛情をもってわが子を育てる喜びのほ
うが、もっと大きいはずです。現在は、仕事を続けながら、子供を育てる社会的環境が整ってきています
から、子供を育てながら、なんとか仕事をつづけることは可能なはずです。子供を産み育てない理由は、
何もありません。自分の子供を育てる喜びは、人生における大きな幸福です。その幸福を捨て去るのは、
これもまた、もったいないことです。

結婚しない友人とばかり、つきあっていたら、結婚についてのマイナス観念ばかり植えつけられてしまい
かねませんから、結婚した友人夫妻とも交際して、結婚の良い面も見つけるようにすることが必要です。
他人の意見に惑わされずに、自分のほんとうの気持ちに素直になって、「結婚したい」と思ったら、結婚
する方向へと進むことです。誰もあなたに結婚を無理強いする人はおりません。あなたが「結婚したい」
と言わなければ、親戚も友人も誰も、あなたを助けることは致しません。今、決断することです。

結婚は、楽しいものです。愛する人と一緒に暮らすことは、とても幸せなことです。結婚することによっ
て、自分の自由が束縛されるなんて、誤った幻想にすぎません。結婚することによって、一人でいるより
も、もっともっと自由に生きることができるのです。これが、私の結論です。

あなたにふさわしい男性が授けられますように
あなたに幸せな結婚生活が授けられますように

MAY PEACE BE IN THE WORLD


過去はすべて消えてゆく姿にしよう
No.2790 森島 恒吉    2000/12/27 (水) 11:01 富士宮  
世界人類が平和でありますように

コスモスさん、ご質問をありがとうございます。「前世療法」については、本を読んだことがあります。
幸い、めいさんが詳しくご存じで、めいさんにご感想を書いていただき、ありがとうございました。
前世療法というのは、今生の病気(運命)は、過去世に原因があると考え、催眠によって過去世にまで意
識を戻させ、原因を探り、想念を正しくすることによって、病気を癒す、という療法と解釈しています。

そうした科学的研究で、人間とは生まれ変わるものであり、現在の運命は過去世からの連続であるのだ、
とわかってくれば、未来の自分の運命をよくするためには、善の行為をしなければならない、と誰も思う
ようになりますから、それは有意義な研究であり、療法であると思います。

めいさんが、疑問を感じていたように、過去世のことを詳しく知ることによって、必ずしも心が解放され
るとは限りません。過去世で善いこともしたでしょうが、悪いこともしたかもしれません。自分の過去世
の悪行を知ったとき、はたして、その事実に把われないで、平静な心でいられるでしょうか。おそらく大
多数の人は、過去の悪行という事実に把われて、罪悪感を再び潜在意識に積み重ねてしまうと思います。
また、過去世で家族を何者かに殺された被害者が、現世でその犯人に会ったとき、憎しみが再びわき上が
ってくることはない、と言えるでしょうか。

ですから、科学的に過去世や輪廻転生を研究してゆくことは結構なことであるのですが、宗教的指導とし
ては、過去の罪意識や被害意識に把われさせるようなことは説かないで、過去のすべてを消えてゆく姿と
して過去の自他の行為を赦し、前向きに明るい未来を築いてゆけるように説くべきであると思うのです。

現世に産まれてくるときに、過去世の記憶が消されているのは、新しい気持ちで新しい人生を始めること
ができるように、という守護の神霊の深い愛であるのです。過去世の自分の行為を、どうしても知る必要
があるときには、守護の神霊が教えて下さいます。過去世の自分を知らないのは、知らないほうが善い、
と守護の神霊が、ご判断なさっているからなのです。

何もかも知っていたら、楽しいように思われるかもしれませんが、決してそんなことはありません。先祖
の悲惨な過去の戦争の出来事も、地獄の様相もすべて知り、周囲の人を見ても「この人は余命一カ月だ」
と知っていたら、苦しくて苦しくて、ふつうの人にはとても耐えることができません。ですから、知らな
いほうが善いこともあるのです。過去世のことに関しては、ほとんどの人にとって、知らないほうが善い
ので、そのために守護の神霊によって記憶が消されてしまっているのです。

過去の出来事は、すべて消えてゆく姿。過去世に行なった自分の行為も他人の行為も、すべては消えてゆ
く姿であるのです。それらは、真実の自分の行為ではなかったのです。消えてゆく姿であるのですから、
消えてゆくものを追いかける必要はありません。過去の怒りも憎しみも嫉妬も、消えてゆくのです。過去
世の想念行為も消えてゆく姿であるのです。昨日までの運命もまた、消えてゆく姿であるのです。一瞬前
の過去の不完全な自分は、業の消えてゆく姿であって、真実の自分ではありません。真実の自分は、これ
から現れてくるのです。未来に現れてくる神の子としての自分、それだけが真実の自分であるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


守護の神霊に導かれている私たち
No.2793 森島 恒吉    2000/12/27 (水) 13:49 富士宮  
世界人類が平和でありますように

ケントさん、久しぶりにコメントをいただき、ありがとうございます。
新宿駅南口の切符自動販売機の前で、ケントさんが昌美先生と間近に遭遇したお話は、不思議ですね。こ
んな偶然のような不思議が、なぜ起こるのかといいますと、私たちは、自分の意思で自分の思う通りに歩
いているようですが、守護の神霊は、肉体人間の行動は逐一ご承知であって、しかも守護の神霊の意のま
まに肉体を導こうと思えば導ける、という実証なのです。守護の神霊が、二人の人間を導いて、ある場所
で出会わそうと思えば、できるのです。

二人が偶然のように出会う場合には、過去世からの業因縁の力の作用で出会う場合、心の中で「あの人に
会いたい」と強く思っていて、その念の力によって出会う場合、それから自分の意思や業因縁とは関係な
く、守護の神霊に導かれて出会う場合とがあります。ケントさんの場合は、「守護の神霊には、やろうと
思えば、こんな不思議な出会いさえ作れる力があるのです。守護の神霊は、あなたをこうして常に見守っ
ているのだから、あなたに必要な人がいれば、このように必ずその人に会わせるように導くのです。だか
ら、将来を心配しないで、明るい心でいなさい」という守護の神霊からのメッセージが、そのような偶然
の出会いとなったのです。守護の神霊にできないことはない、という証明でもあります。守護の神霊に導
かれ守られている証拠ですから、安心なさって下さい。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


五井先生を身近に感じるようになるために
No.2798 森島 恒吉    2000/12/28 (木) 18:32 富士宮  
世界人類が平和でありますように

ケントさんが、コスモスさんへ温かい助言をされていましたが、ありがたいことで、私に遠慮する必要は
少しもございません。これからも、積極的に励ましてあげて下さい。

[コスモスさんのご質問1]
大変失礼なのですが、五井先生を身近に感じる事がどうしてもできません。どうしても、一度も出会った
ことのない私には実感がわかないのです。

[お答え1]
五井先生はすでに他界されていますし、直接お会いしたことがないのですから、五井先生を身近に感じる
ことができないのは、別に失礼なことではなく、無理もないことです。五井先生と直接お会いした人々も
いずれは他界するのですから、この問題は、将来のすべての人が共通して意識する問題だと思います。

霊眼が開けますと、神霊となった五井先生も二千年前のイエスも釈尊も、心の中で呼びかけることによっ
て、その神霊体を直接拝顔することが可能となり、身近に感じるのですが、これは特別な体質の人だけで
どんなに霊修行をしても見えない人は見えないのです。私は、ふつうの大多数の人々を対象に講義してお
りますから、ふつうの人が五井先生を身近に感じる方法を考えてみたいと思います。

五井先生を身近に感じるには、五井先生のお写真、五井先生がお書きになった「世界平和の祈り」、ご本
などを、自分の身近に常に置いておき、外出するときには持ち歩くことです。お写真や書は五井先生のご
本の表紙裏にあります。五井先生の録音テープもありますから、時々そのテープを拝聴するのもよいでし
ょう。中でも一番簡単な方法は、「五井先生!」とお呼びすることです。「五井先生!」とお呼びしても
五井先生の神霊体は見ることができませんが、五井先生のお心に通じて、五井先生の光明体が身近に来て
下さっているのです。これは信じるほか、ありません。

また、「世界平和の祈り」を教えている私は、五井先生と顔も姿も声もちがいますが、五井先生のお心と
一体になり、五井先生のご指導によって教えているのですから、私と会うことによって、五井先生に会う
ことができるのです。いつも申しますが、五井先生の生前中、「五井先生のみ心のままに、私の生命をお
使い下さい」と五井先生に私の生命を差し上げてしまい、五井先生から「あなたの生命は、確かにもらい
ました」と私は約束されたのです。その時点から、私の生命は、五井先生の生命となったのです。

したがって、五井先生と握手をしたければ、私と握手すれば、五井先生と握手したことになります。私と
会話をすれば、五井先生と会話したことになります。五井先生の真似をして、教えを得々と説いている人
が多くいますが、五井先生の心境と合致しているわけではありませんから、どうしてもその文章や講話に
は、その人の浅い心境が表れてしまいます。どんなに真似をしても、心境が五井先生と一致しなければ、
五井先生のような心に深くひびく文章を書くことはできません。さて、私の文章は、五井先生の単なる物
真似でしょうか。心を鎮めてお読みになる方には、はっきりとその真偽がお判りになるはずです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


遠慮なく私(五井先生)を呼びなさい
No.2799 森島 恒吉    2000/12/28 (木) 18:55 富士宮  
世界人類が平和でありますように

[コスモスさんのご質問2]
苦しいときに、五井先生をお呼びすると申し訳ないなぁ、と思う感情が先に出てしまうのです。こういっ
た想念も、消えていく姿なのでしょうか。散々、波を受けて苦しい思いをしてきたので、その波をお願い
します、といって五井先生に押し付けるのは申し訳ない、とどうしても思ってしまうのです。これについ
てどうかコメントをくださいませんでしょうか?

[お答え2]
「私は人類の業想念を肉体身に受けて浄めています」と五井先生はおっしゃっていました。これは常識で
はわからないことですが、昔の宗教では「おふりかえ」と呼んでいて、信者に押し寄せてくる業因縁の波
を、教祖が代わりに身に受けて浄める、ということがあったのです。誰の体を通してでも、業因縁は現れ
れば消えるのです。そこで教祖が信者の業因縁を身に受けて信者を救う、ということがあったのです。

しかし、現在は、そのようにやっている愛深い教祖は、ほとんどいないと思います。なぜならば、信者が
ガンの病気だとしますと、教祖の体にも同じガンが発生したり、頭が痛ければ、同じように教祖の頭も痛
くなる、というふうに、信者たちのさまざまな悩みや苦しみが、形を変えて教祖の体をむしばんでくるか
らです。これでは、よほど浄める力がありませんと、信者を浄める前に自分が死んでしまいかねません。
今日では、信者からお金だけを受け取るだけ受け取って、おふりかえしない教祖が、ほとんどでしょう。

五井先生は、人類の業波動を常に肉体に受け取って浄めていました。「一人の人間の業を受けるくらいは
なんでもないよ。だから、苦しい時には、遠慮しないで、私(五井先生)を呼びなさい」と教えて下さっ
ていました。今では、五井先生は肉体をぬいで神霊体なのですから、五井先生に自分の苦悩の想いを打ち
明けて、掃除機のように吸い取ってもらっても、五井先生ご自身のお体が痛むことはありません。「この
想いをお消し下さい。お願いします」と五井先生に遠慮せずに祈ってかまわないのです。

ところで、自己の感情の荒立ちを、「私の肩が重いのは、あの人の想いが私の体にかかってきたからだ」
とか「私の頭の痛いのは、あの人の業が私にきたせいだ」とか「あなたの連れてきた迷った霊魂が、今、
私の体に憑依してきて、おなかが痛む」と言って、他人のせいにして、怒りだす人がいます。霊的な体で
もないのに、自分では霊的な体だと勘違いして、「私が不愉快に感じるのは、あいつが私に対して悪い想
いを向けているせいだ」と怒ったり、「おまえの業が、私の体にかかってきている」と偉そうに面と向か
って言う人もいるのです。「五井先生のように自己も霊的な体を持っているのだ」とひそかに誇り、「私
には、おまえと違って霊的なことが感じることができるのだ」と優越感を満足させているのです。

自分の感情が乱れているのは、自己の潜在意識にある自己の業によって乱れているのであって、他人によ
って乱されているわけではありません。自己の業想念からくる感情の乱れを他人のせいにして、自己の怒
りを正当化してはいけないのです。他人の業をも自己の責任として甘受し、自他一体観となって、相手を
愛さなければいけないのに、自分の感情の乱れを相手のせいにするようでは、宗教者とは言えません。

そこで私は、「他人の業を受けた」とか「あの人に憑依していた迷った霊魂が、私のほうに来た」という
ような霊的な話は、極力避けているのです。自己の感情の荒立ちや病状を、「私が病気になったのは、お
まえのせいだ」「おまえのせいで、私の調子が悪くなった」と他人のせいにしたり、「お前が悪いのだ」
と人を責めて、怒りだすようでは、五井先生の弟子とは言えません。

「他人の想いを自分の体に受けとめて浄める」という教えには、こうした欠陥があることを承知していな
ければなりません。すべてを感謝で受けとめる心境にもなっていないのに、形ばかり五井先生の真似をし
てはいけないのです。自己の心身や環境に現れてくることは、すべて自己の責任であるのです。以上のこ
とを理解した上で、自己の感じた波動をすべて、五井先生のみ心の中、「世界平和の祈り」の大光明の中
へと投げ入れてしまうのです。救世の大光明の前に、いかなる業想念も消えてゆくのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD