森島恒吉先生の法話集(過去ログ)


完全光明思想に因果法則の教えは不要
No.2811 森島 恒吉    2000/12/31 (日) 15:20 富士宮  
世界人類が平和でありますように

めいさん、おはようございます。今日は、西暦2000年最後の日、大晦日ですね。
めいさんのご友人に勧める本は、五井先生の「宗教問答」がよろしいと思います。

前世や霊界のことに興味をひかれるのは、本来、霊性である人間として当然なことで、別に悪いことでは
ありません。一時期、そのような本を読むのもまた将来の役に立つものです。それを縁として宗教の道、
本心開発の道へ進んでゆけばよいのです。前世、因縁因果、霊界、守護霊に興味のある人には、村田正雄
氏「霊界通信」(白光真宏会)をお勧めします。

因縁因果の法則を知ることによって、悪事をする誘惑から遠ざかることができるでしょう。親のやった行
為が、子や孫に報われることを知ったら、かわいい子や孫のために、人の道に反したことはやめよう、と
決意し、できるかぎり善行為をしておこう、と思うはずです。

但し、いつも説いておりますように、宗教とは因縁因果の法則の中で生きることではなくて、因縁因果の
法則の圏外に解脱することが目的であるのです。因縁因果の法則だけでは、人間は真の幸福は得られませ
んし、真の自由も得られません。因果の法則の教えには、いつしか自他を責め裁くようになる、という思
わぬ欠陥がひそんでいるからです。ですから、因果法則を知って、自己の行為を正しくするように最大限
努力したら、次はその因果法則を超える方向へと一歩を進めなくてはなりません。それが「百尺竿頭(ひ
ゃくしゃくかんとう)、歩一歩(ほいっぽ)」であり、神への全託行であるのです。

因縁因果に翻弄された人間の過去は、本来性ではないのですから、すべて消えてゆくのです。過去の自分
は、もう存在しないのです。昨日の自分は、今は存在しません。過去は無いのです。業生の自分の姿をつ
かまえていて、どうして神の子の自分が現れてくるでしょうか。完全な神の子の自分だけが永遠であり、
不完全な過去の自分は、消えてしまったのです。消えてしまった自分を、追いかける必要はないのです。

私たちは、本来、完全円満な神の子であり、完全な幸福に満たされていて、無限の能力、無限の智慧、無
限の自由を持っているのです。不完全な病気、不調和な怒り、憎しみ、嫉妬、苦悩などは、一時的なもの
で消えてゆくのです。未来においては、不完全なものは、一切無いのです。その無いものを、因果法則に
把われて、実在すると錯覚し、その存在をいつまでも認めていてはいけないのです。「病気はある」と病
気を認めていれば、いつまでも病気は消えません。「争いはある」と争いを認めていては、いつまでも戦
争はなくならないのです。「過去はある」と過去の業生の自分を認めていれば、いつまでも過去の業生の
自分は消えません。「過去の業生の自分は消えていったのだ」と過去の業生の自分を否定するのです。

過去の業生の自分に把われている限り、今を明るく生きることはできません。「過去に自分の行なった誤
った行為は、消えてゆくのだ。過去の自分は、今はいない。過去の自分は消えたのだ」と過去を消えてゆ
く姿とするのです。また、今の不完全な自分も、消えてゆきます。今の不完全な自分は、真実の自分では
ないのです。今の不完全な自分が消えてゆくにつれて、未来には完全な自分の姿が現れてくるのです。不
完全な自分は消えてゆき、完全な自分が現れてくるのですから、不完全な自分や他人を因果法則で分析し
て、いちいち自分や他人を責め裁く必要はないのです。

未来において不完全な自分は無いのですから、赦すも赦さぬもないのです。「消えてゆく姿の教え」いい
かえれば「必ず良くなるの教え」があれば、「因果法則の教え」は不要となります。「因果法則の教え」
がなくなれば、自他を責め裁く必要もなくなります。自他を責め裁く必要がなくなれば、心が暗くならず
心は明るくなります。私たちは幸福になるのです。私たちは健康体で生きることに喜びを感じるようにな
るのです。私たちの国は平和になるのです。私たちの地球は平和になるのです。自分を責めることなく、
人を責めることなく、自分を赦し、人を赦し、ただひたすらに「世界平和の祈り」を祈り、神の大光明の
中に入り込んでいさえすればよいのです。

「人間は神の子である」と宣言しても、同時に「悪想念を出せば、悪い運命が現れる」「勝手気ままに暗
黒的言葉を乱用するならば、その言葉通りの人生が展開されてゆくことは必至である」「悪の言葉を発し
続ける者の上に、不幸や悲劇や苦悩がまとわりついてくる」などと因果法則の教えを説いてしまっては、
せっかくの光明思想が曇ってしまいます。それでは不完全な光明思想となってしまいます。

神の子の光明思想に、因果法則を加えてはいけないのです。神の子が、悪想念を出すはずがないではあり
ませんか。神の子が暗黒的言葉を乱用するはずがないではありませんか。神の子が悪の言葉を発し続ける
わけがないではありませんか。神の子観と因果法則は矛盾するものなのです。因果法則の教えを捨てて、
私たちは人間神の子観に徹底しなければいけません。業は消えてゆくのですから、因果法則の圏内の自分
も他人も消えてゆくのです。「消えてゆく姿」という教えがあれば、「因果法則の教え」は不要となるの
です。「因果法則の教え」を捨てて、「世界平和の祈り」に徹した時、完全な光明思想となるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


現象を見て精神分析をする必要はありません
No.2836 森島 恒吉    2001/01/09 (火) 10:19 富士宮  
世界人類が平和でありますように

めいさんのご質問に、青空さんが素晴らしいお答えを書いて下さいました。青空さんのお答えは、神のみ
心の通りの正しいお答えです。私のお答えとあわせてお読み下さい。

[ご質問1]
「すべてを消えて行く姿とする」ことについて、理論では納得できるのですが、実際にどういう心境なの
でしょうか?
[お答え1]
「すべてを消えてゆく姿と観ずる心境」とは、病気も不幸も苦悩もすべてを消えてゆく姿、と見ることが
できて、心が常に平静で安心している心境です。

[ご質問2]
実際自分が不幸なことに出会ったら、「すべては消えて行く」と考えれば、よろしいのですか?
[お答え2]
不幸なことに出会ったら、このように祈ればよろしいのです。

「守護霊様、申し訳ありません」
「守護霊様、私の過ちをお赦し下さい」
「守護霊様、この不幸を消して下さい」
「守護霊様、この嫌なことを早く消して下さい」

まず、このように「対話形の祈り言」をすることです。このように祈っておりますと、自然に「ああ、消
えてゆく姿なんだなあ」という「信念の言葉」が生まれてきます。

[ご質問3]
嫌なことを、どんどん忘れてしまって構わないのでしょうか? そこに反省という要素は必要とされない
のですか?反省しないと、その不幸に会った原因が判るまで、何度も同じことが繰り返される、というこ
とはあるのですか?
[お答え3]
反省すべきことは反省しなくてはなりません。自分がしてしまった悪行為を、「あれは善い行為だったん
だ」とごまかしてはいけません。悪行為は悪行為として一度は認めた上で、「二度とこのような過ちはす
るまい」と反省し、守護霊様に赦していただくことが必要であるのです。反省しなければ、悪業を認めて
いることになり、悪業は消えませんから、「悪かった」と反省する必要があるのです。反省しなければ、
悪業はいつまでも存在することになり、同じ過ちが繰り返されることになります。

但し、前世に原因がある場合、原因を詮索する必要はありません。「ああ、前世で行なった行為が、今、
現れて消えてゆくんだな。何が原因かわかりませんが、守護霊様、どうぞ私の前世の罪をお赦し下さい」
と祈ればよいのです。この場合、原因がわからなくても、同じ悪業が繰り返し現れることはありません。
同じような結果でありましても、それは別々の原因であって、現れた悪業は消え去っているのです。

[ご質問4]
どのような悪い想念を出すことにより、どういった現象が起きるのか、その関連性がわかりません。
[お答え4]
「この現象は、どんな悪想念の現れか?」と精神分析する必要はありません。悪い想念と現象についての
関連性を知る必要はありません。精神分析は、自他を責め裁くことにつながります。自力で自分の悪想念
を消す必要はないのです。自力で自分の悪想念を消すことはできません。守護霊様が、一番善い時に一番
善いように悪業を少しずつ消して下さるのですから、守護霊様におまかせして、悪想念を消していただけ
ばよろしいのです。「失敗した。悪かった」と思ったら「二度とするまい」と反省し、守護霊様に赦して
いただくようにお祈りするのです。反省したくとも原因がわからぬ場合には、「守護霊様、原因がわかり
ませんが、私の過去の過ちをお赦し下さい」と祈っていれば、悪行為が繰り返されることはありません。

[ご質問5]
自己反省より、これから良くなるんだ、という明るい気持ちになることが重要なのでしょうか?
[お答え5]
自己反省も必要ですし、「これから良くなるんだ」と明るい気持ちになることも必要です。しかし、同時
にする必要はありません。自己反省したら、いつまでもくよくよと後悔していないで、守護霊様に赦して
いただいて、明るい気持ちを持てばよいのです。

「守護霊様、お赦し下さい」
「守護霊様、これから良くなりますように」

とお祈りしていれば、自然に「これから良くなるんだ」と明るい気持ちになることができます。

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絶対他力行即神我一体
No.2849 森島 恒吉    2001/01/13 (土) 22:14 富士宮
世界人類が平和でありますように

今日の唯一会の東京集会にご参加下さった皆様、ありがとうございました。特に、白光真宏会会員として
五井先生のみ教えを40年近く行じてこられたH氏に、初めてご参加いただき、大変うれしく感激しており
ます。市川に聖ヶ丘道場が建って、その最初の統一会から参加しているH氏のご体験談は、五井先生への
深い尊敬の念にあふれていて、言葉に重みがあります。

H氏が唯一会に参加する噂が広まって、H氏を知る白光真宏会の法友から、「『五井先生唯一会』へ行か
れるのですか?」と電話があったそうですが、白光真宏会の中では、唯一会の存在がかなり知れ渡ってき
たようです。白光真宏会の古い会員さんの中には、H氏のように、「五井先生のみ教えだけを行じたい」
と思っている人が、潜在的にかなり多いようです。しかし、それが白光真宏会にさからうような気がして
勇気を出して「世界平和の祈りだけをやりたい」と思い切って言えないのです。これは、五井先生のみ教
えをしっかりと理解していないからでもあるのですが、勇気が不足しているからでもあるのです。

いつも私は説いておりますが、「世界平和の祈り」を祈りつづけてゆけば、神の子になることができるの
です。それを余計なことをすればするほど、それだけ神の子になることが遠くなるのです。絶対他力行が
神我一体へと変換されるのです。ですから、「我は神の子なり」とことさら言う必要はないのです。それ
を絶対他力行を経ないで、いきなり理想の言葉を宣言してみても、それは嘘となるのであり、神人とはな
らず、偽人となるのです。真理の言葉に把われて、かえって真理顕現から遠ざかってしまうのです。

H氏の唯一会への参加は、白光真宏会の多くの古い会員さんたちが、これから続々と唯一会に参加してく
る兆候であるのです。今後が楽しみです。

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幸福に生きる秘訣
No.2857 森島 恒吉    2001/01/16 (火) 09:51 富士宮
世界人類が平和でありますように

[ひまわりさんのご質問]
…ということは、波動がまだ微妙な肉体を持っていた分霊(最初の人間、一番遠い祖先)が正守護霊とし
て存在し(自由自在の光明波動なので、数の帳尻は考えなくていい。守護神に近い存在だが、一応肉体を
持った経験もあるので肉体人間の気持ちもある程度は分かる。これが祖先の悟った霊)、何代か前の祖先
のうち、霊界のいいところにいる方がアシスタント的に、より身近についていてくれるという理解でよろ
しいでしょうか?

[お答え]
最初の肉体を持った人間、一番遠い祖先が正守護霊となった、というのは、人類発祥の最初の頃のお話で
す。最初の肉体人間、私たちにとっての一番遠い祖先(地球でいえば、数億年前の祖先)が、現代におい
ても、私たちの正守護霊として存在している、という意味ではありません。

現代の私たちの正守護霊とは、そんなに古い霊人ではなく、数代前の祖先の悟った霊、と考えてよいので
す。茂木さんの例を出されましたが、姪ごさんには、この世に誕生する前からの正守護霊がすでに加護し
ておりましたから、おばあさんが正守護霊のアシスタントとして働いた、というわけです。

数代前の祖先は、正守護霊のアシスタントにしかなれない、という意味ではありません。肉体人間が誕生
するときに、すでに(数代前の祖先の悟った)正守護霊が定められておりまして、その肉体人間が他界す
るまで変わることはないのです。茂木さんのおばあさんも、正守護霊のアシスタントとして姪ごさんを加
護した後は、この世に誕生してくる新しい子孫の正守護霊として働かれることになるのです。

守護霊には、正守護霊、副守護霊の他に、例にありましたような正守護霊のアシスタント的に働く霊がい
ることがあるのです。アシスタントといいますと、たいした力がないようですが、アシスタントといって
も、強い霊力を持っておりまして、子孫を危機から救う力を持っているのです。

たとえば、母と娘が仲良く暮らしていたとします。当然、娘にはすでに正守護霊がついて加護しておりま
す。そしてある日、幼い娘を残して母親が病気で他界したとします。すると、その母親は霊界で修行をし
ながらも、同時に肉体界に残した幼い娘を、なんとかして守ってあげたい、と思うのは、母親としての当
然の愛情です。このような場合、娘の正守護霊のアシスタントのような形で、母親が娘を霊界から見守り
加護するのです。

ですから、娘の側に立てば、正守護霊でないお母さんであっても、「お母さん、さびしいの。助けて!」
と他界したお母さんを呼べば、お母さんは、娘のそばに来て、守護霊のように見守ってくれるようになる
のです。他界した先祖や親戚や友人の中で、気が合って大好きだった人や、自分のことをとても可愛がっ
てくれた人に、「○○さん、私を守ってね」と手を合わせれば、その霊人は、あなたの守護霊として(正
式には正守護霊のアシスタント霊ですが)守ってくれる可能性があるのです。

不思議なことに、肉体人間が自分の運命を修正することは、不可能に近い、むずかしいことですが、霊界
にいる守護霊側から、肉体人間の運命を修正することは、可能であるのです。守護霊には、そうした神秘
的な霊力がそなわっているのです。そこで、自力で自己の運命を変えようとしないで、守護霊に自己の運
命の修正をしていただいたほうが、楽に運命を改善することができるのです。

また不思議なことに、肉体人間が「守護霊様、ありがとうございます」と守護霊に感謝しますと、その祈
りのひびきが、霊界にいる守護霊にパワーを与えまして、守護霊の働きを活発にするのです。肉体人間が
守護霊の存在を知らずに、守護霊に感謝しなくても、守護霊は肉体人間を守って下さっているのですが、
肉体人間が守護霊に感謝しておりますと、守護霊のパワーが増し、守護霊がより一層肉体人間を守りやす
くなるのです。幸運に恵まれた人がいるかと思うと、一方で不幸つづきの人がいるのは、前世の徳、不徳
だけでなく、守護霊が守りやすくなっているか、守りにくくなっているか、の差が現れているのです。

祖先を敬い、他界した縁者を愛し、守護霊に感謝してゆくことが、幸福な人生を得る鍵であるのです。そ
こで「世界平和の祈り」には、守護霊への感謝と守護神への感謝の祈りが含まれているのです。守護霊の
名前を知らなくても、「守護霊様」と呼べば、必ず守護霊に伝わります。他界した愛する人の天命の完う
を祈っていれば、その霊人も、あなたの守護霊のようになって、あなたを守ってくれます。五井先生に対
して「五井先生、ありがとうございます」と感謝すれば、神霊の五井先生も、私たちの守護神として守っ
て下さいます。幸福に生きる秘訣は、守護霊、守護神への感謝の生活にあるのです。

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崇高な使命
No.2863 森島 恒吉    2001/01/19 (金) 23:06 富士宮
世界人類が平和でありますように

ドクトルさん、良いお話をありがとうございます。
おっしゃるように、自分の欲望のためだけに生きている人がいるかと思うと、他の人々のために少しでも
役立とうと働いている人もいます。ほとんどの人は、自分の仕事を通して、社会や国のために働き、家族
のために働いているのですから、それだけでも人間として立派であるのです。懸命に努力をしても、才能
がなければ、社会のために大きな働きはできません。しかし、その人に才能がなくても、どんな小さな働
きであろうと、置かれた立場で人々のために役立とうと、誠実に生きてゆくことが尊いのです。

神から授けられた生命を最大限に生かすには、「世界平和の祈り」を祈ることです。私たちは、この方法
を知り、実行しているのですから、真実に幸せであると思います。私たちは幸せであるのです。あとは、
この幸せを、一人でも多くの人に知らせてさしあげることです。神のみ教えである「世界平和の祈り」を
広めさせていただく、という崇高な使命を、私たちは授けられているのです。私たちの肉体人間としての
立場が、無名の平凡な庶民でありましても、「世界平和の祈り」を祈らせていただくとき、私たちは世界
人類を救う天使の一人として大きな働きをしているのです。

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なぜ、私たちは地球にいるのか?
No.2866 森島 恒吉    2001/01/22 (月) 10:22 富士宮
世界人類が平和でありますように

めいさん、おはようございます。出雲大社にまつわる神話については、出雲大社のHPをご覧になったら
正確かと思います。ご存じと思いますが、この欄の参照HPにリンクしておきました。

[めいさんのご質問]
古事記とかギリシャ神話等について、五井先生はどのようにお考えだったのでしょうか?

[お答え]
古事記は、古代の人が寓話の形で残した真実の物語と、五井先生から伺っております。五井先生は「老子
講義」「聖書講義」を書き終えた後、「古事記について、いずれ解説したい」とおっしゃっていました。
古事記には、陰陽二神のような理論的な話と、天の浮橋(あめのうきはし)や岩戸開き(いわどびらき)
のような絵で比喩した話があります。理解できる部分だけでも拾い読みしたらよい、と思います。
ギリシャ神話について、五井先生がどのようにお話になったかは、私の記憶にありません。

なぜ、私たちは地球に住んでいるのか、不思議なことです。猿が人間に進化したという説がありますが、
それならば動物園にいる猿は、何年かしたら人間に進化するのでしょうか。そんなことはないのであって
人間は最初から人間として誕生しているのであって、進化はあっても、猿が人間になったのではないと思
います。古事記には、「天から人間が地上に降りてきた」という話がありますけれど、五井先生によりま
すと、「それはほんとうだ」とおっしゃるのです。

地球人類は、神界から地上の粗い波動に合わせて降りてきた人間と、霊的金星や木星のような進化した他
の惑星から移住してきた人間によって構成されていて、その古代の歴史が、古事記や旧約聖書に残ってい
るものと思います。エジプトのピラミッドは、人力だけでできるものとは、とても考えられません。村田
正雄氏の霊視によりますと、文明が高度に発達した古代の人が、空飛ぶ円盤から重力浮揚の波動を放射し
て岩を空中に持ち上げて積み上げた、というのです。

奇想天外のお話ですが、地球の過去には、そうした文明があったようです。現代は「世界平和の祈り」に
よって、地球の平和を完成させる時期になっていて、私たちは神の子の能力を発揮してゆくことになって
いるのです。戦争のない平和な日本に生まれた私たちは、個人の自由を満喫しながら、世界平和実現に向
けて、「世界平和の祈り」を広めてゆけばよいのですから、大変幸せなことであるのです。

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真理への把われを放つ
No.2867 森島 恒吉    2001/01/23 (火) 21:05 富士宮
世界人類が平和でありますように

「人間は神の子であって完全円満である」という言葉は、真理ではあるのですが、真理そのままの生き方
をするには、まだまだ難しい今の世の中です。「人間は皆、神の子であり、人類は皆、神の子である」と
教え、すべての人に向かって「あなたは神の子です」と拝むように指導している宗教者がおりますが、そ
うした真理の言葉を宣言したところで、「自分を偉く見せたい」という業の想いの虚栄欲を満足させるだ
けで、実際に心底から相手を神の子と思って行動することは、そう容易ではありません。

まじめな人ほど、宗教指導者から教えられた真理の行為を実行しようとします。宗教指導者の中には、自
分の口先で話した真理の言葉と、自分の実際の行為とが反していようと、矛盾していようと、いっこうに
気にしない人が結構おりまして、苦しまないのです。それに対して、まじめな信徒は、師から命じられた
通りに実行しようとします。「すべての人を神の子として拝まなくてはいけない」とまじめに実行しよう
とします。すべての人を神の子として拝めなければ、それだけ自分の心境が低いように思われてきますか
ら、「あの人の心境は低い」と他人から見られたくないために、虚栄心から無理に誰に対しても「あなた
は神の子です」と形式的に言うようになり、口先ばかりの偽善者となってゆくのです。

「相手を神の子と拝まなくてはいけない」と焦って真理を実行させよう教えることが、不自然な誤った教
え方であるのです。「何々しなければならない」「何々してはいけない」と思ったら、すでにその行為は
神の子の自然法爾の行為ではなくなるのです。神の子に、「何々しなければならない」も「何々してはい
けない」も不要であるのです。完全円満であるはずの神の子が、誰かから強制されたり、戒められなくて
はならないのは、実に滑稽な笑い話でありまして、そんな神の子が存在するはずがありません。

いくら焦っても、人間が神の子の本体を顕現するには、ある程度の時間が必要であるのですし、地球世界
が平和になるまでには、それなりの長い年月がどうしてもかかるのです。現在の地球世界は、未完成の時
代でありまして、平和になるまでには、まだまだ忍耐が必要であるのです。「人間神の子」を宣言するの
は、そうなった時に正々堂々とすればよいのでありまして、今はひたすら「世界平和の祈り」を祈る時で
あるのです。

真理を焦って実行しようとしますと、かえって危険を呼び込んでしまうことがあるのです。たとえば、悪
意を持った知人が、儲け話をあなたに持ってきた場合、「人類すべての人は神の子なり」と信じておりま
すと、うっかりその知人にだまされることがあるのです。だまされるというのは、自己に欲望があるから
で、欲に目がくらんで冷静な判断力を失い、自己をだましてくる相手を信じ込んでしまうのです。この世
の中に、善人ばかりがいれば、何の問題も起こりませんが、人をだましては金品を奪いとろうとする悪人
も存在します。悪人にとっては、自己を神の子として信じてくれる人ほど、だましやすい人はおりませ
ん。「あなたは神の子です」と言われて改心する人は、ごくまれであることを、知らねばなりません。

誰をも神の子として信じて拝んでいた、まじめな人が、悪い人にぶつかり、ひどくだまされますと、今度
は逆に、非常に疑い深い人になってしまうことがあるのです。誰を見ても疑い、誰を見ても信じることが
できなくなり、疑心暗鬼の世界にさまようことになります。誰をも神の子として拝むことは難しいことで
すが、誰を見ても泥棒と思うことも、これもまた心苦しいことです。真理を実行しようとしますと、実行
できなかった場合、その反動で、かえって疑い深い人になってしまうのです。

そこで、今の世の中には、神の子に近い立派な善人もいれば、動物以下の悪人も存在していることを教え
ておいて、誰を見ても神の子として拝むことはさせないで、「この人は、ちょっと変な人だな」と常識的
に思ってよいと教え、守護の神霊に加護を願い、悪人にだまされないように指導するのが、現代の宗教指
導者の役目であろうと思うのです。すでに神我一体になっている人ならば、真理の言葉を実行できるでし
ょうが、まだ神我一体になっていない人が、神我一体になった人の真似をしますと、大怪我をしてしまう
危険があるのです。心の底から相手を神の子として思えないのに、無理に相手を神の子として見ようとし
たり、相手を神の子として拝むことはやめて、ありのままに相手を見て、善人は善人、悪人は悪人として
見てよいから、その相手の悪想念のいち早く消え去ることを、神に祈るように教えたほうが無難である、
いたずらに悪人にだまされずに済む、と思うのです。

宗教者が真理を説けば、偉い宗教者に見られます。信徒も真理の言葉を宣言すれば、偉くなったような気
がします。高い真理の言葉は、虚栄欲を満足させるのです。しかし、虚栄欲のために真理に把われてはな
りません。虚栄欲は業想念であるのですから、虚栄欲がある限り、人間は神の子の本体を顕現させること
はできないのです。今のありのままの自分の実力を知り、虚栄欲を捨て去り、裸の心になって、自己を正
直に見つめましょう。そうすれば、今の自分が完全ではないことを知り、人を完全に愛せないことを知り
自分に悪想念があることを知って、「私は神の子である」とは到底思えない事実を知るはずです。

人間は本質的には神の子であり、未来の理想は、神の子の本体を現わすことです。しかし、今は理想に至
る途中の段階でありまして、理想に至ってはいないのですから、「今、私は神の子である」と宣言するに
は早過ぎるのです。現実を無視して、理想をいきなり実行しようとしますと、かえって危険な目にあった
り、だまされたり、偽善者になったりして、理想を実現できなくなるのです。理想を持つことは必要です
けれども、現実に立脚して理想に向かってゆく、という理想を見通した現実主義者にならなくては、理想
を実現させることはできないのです。

では、「人間神の子」という理想を実現させるための現実的方法とは、どんな方法なのでしょうか。それ
が守護の神霊の加護を願い、自分たちの天命の完うを祈り、世界の平和を祈る「世界平和の祈り」である
のです。自分たちに与えられた天命とは、「本来の神の子の姿を現わすこと」に他なりません。私たちの
天命が完うされた時とは、私たちが神の子の本体を完全に現わした時であるのです。守護の神霊の加護が
なくては、人間は神の子の本心を現わすことができないのです。守護の神霊の加護を拒否して、自力だけ
で、内なる神の子の姿を現わすことは、とても不可能であるのです。

どのように守護の神霊に祈ったらよいかといいますと、次のように祈ればよいのです。

「守護霊様、神の子の私が現れますように」
「守護霊様、私が神の子になりますように」
「守護霊様、私の本心があらわれますように」
「守護霊様、真実の私が現れますように」
「守護霊様、私の天命が完うされますように」

このように祈っておりますと、力まずに、意気ばらずに、自己の内なる神の子の姿が現れてくるのです。
この方法ならば、無理に見栄を張る必要もなければ、嘘をつかずにすみます。正直に生きることができま
す。現実の自分を正直に話せて、しかも現実の業想念を「消えてゆく姿」と否定しつつ、理想に向かうこ
とができます。たとえば、「私は神の子である」と宣言してしまったら、風邪をひいても「私は風邪をひ
いた」とは人に言えません。なぜならば、完全円満な神の子が、不完全な風邪などひくわけがないからで
す。「私は神の子である」と人に見せようとしたら、風邪をひいた自分を黙って隠しておかねばなりませ
ん。「私は神の子である」と言ったら「私は完全な健康体である」と嘘をつかねばならなくなるのです。

「私は神の子である」と宣言しておきながら、「私は今日、風邪をひいた」と言って、平然としている人
が多いのですが、このような人は、矛盾この上ない人であるのです。「私は風邪をひいている」と言うな
らば、「私は神の子である、完全健康体である」と宣言するべきではないのです。この矛盾が、矛盾と気
がつかなかったり、矛盾した言動を平気でつづけているようでは、本心が現れようがありません。嘘をつ
くことや、矛盾した言動は業想念であり、正直は本心の現れであるからです。

正直に生きながら、本心を現わす方法は、守護の神霊に本心顕現を頼む祈りであるのです。この個人的な
本心顕現方法を、人類の本心顕現にまで高めた祈りが、「世界平和の祈り」であるのです。「世界平和の
祈り」を祈っていれば、ことさらに「私は神の子である」と宣言する必要もなければ、「人類は神の子で
ある」と宣言する必要もありません。因縁因果の法則を持ち出して、自他を責めたり、恐怖させたりする
必要もありません。「世界平和の祈り」は、一つも欠陥のない、人類の完全な神性顕現法であるのです。
「世界平和の祈り」は、この他に何も付け足す必要のない、完全な祈りであるのです。真理への把われを
放ち、「世界平和の祈り」に統一することが、私たちの天命であるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


現代における神性開発法
No.2870 森島 恒吉    2001/01/27 (土) 13:39 富士宮
世界人類が平和でありますように

今日の森の中は雪が降りつづいていて、強い風にのって雪が舞っています。茶色と黒色の二匹の猫は、玄
関前の屋根の下に置いたダンボール箱の中で、丸くなって寝ています。周囲の風景は、真っ白です。

お祈りの方法ですが、五井先生は「座っていても、歩いていても、寝ていても、逆立ちしていても、どん
な格好をしていてもいいから、世界人類が平和でありますように、とお祈りして下さい。場所も、どこで
もいいんですよ。手を洗って浄めてから、お祈りしなくてはいけない、というものではなく、お風呂でも
トイレでも、世界人類が平和でありますように、と唱えてかまわないんです。電車やバスの中では、特に
やることはないんだから、心の中で、世界人類が平和でありますように、とお祈りするのにいいですね」
とおっしゃっていました。

静寂な清まった場所で、一定の時間、正座してお祈りするのは、もちろん大事であるのですが、それより
も「24時間、常住坐臥、祈りつづけることのほうが効果がある」と五井先生は教えて下さいました。自叙
伝の「天と地をつなぐ者」に書かれていますように、五井先生の霊修行は、一日のうちの数時間やる、と
いうことではなく、24時間ずっと続いたそうです。その間、ちょっとでも雑念を出すと、初めからやり直
しをさせられたのです。

たとえば、守護神に命じられるままに道を歩いている時、「どこへ行くのかなあ?」とふと思いますと、
それを観察していた守護神が「雑念を出してはだめだ。想念を停止せよ」と言って、自宅の前まで戻され
るのです。自宅の前まで戻ると、守護神に命じられるまで、想念を停止して、何時間も立ったままです。
守護神から「では、駅のほうへ歩け」とようやく命じられて、駅のほうへ歩いてゆきます。歩いている途
中で「駅に行ったら、次はどこへ行くのかしら?」と思ったら、また守護神から「だめだ!」と叱られ再
び自宅まで戻される、というふうに、ほんの少しでも雑念想念を出すと、何度でもやり直されるのです。

道端を行ったり来たりする、こうした五井青年の奇妙な姿は、はたから見れば、狂人に見えたことでしょ
う。近所の人や周囲の人たちは「五井さんは、とうとう狂ってしまった。お若いのに、かわいそうに」と
母親に同情していたようですが、この時の母親の悲しみ嘆きは、いかばかりであったでしょう。

宗教の道というのは、狂人に見えるほど、これほど過酷な修行をする道であり、それほど修行しなければ
悟りというのは得られない、厳しい道であるのです。しかし、五井先生が道を切り開いて下さったおかげ
で、私たちは五井先生のように想念停止の修行をする必要もなく、日常の社会生活を崩さずに、楽々と安
心立命の道を歩んでゆけるようになったのです。その易しい道が「世界平和の祈り」の道であるのです。

但し、どんなに易しい道といいましても、「世界平和の祈り」を唱えて、守護の神霊に全託する努力はし
なくてはなりません。また、常識的なふるまいをしなくてはなりません。たとえば、感謝して合掌するこ
とや祈る行為は、大事な宗教行為ですが、人前でやたらと合掌してみせたり、その場のTPOを考えない
で大声を出してお祈りして見せたり、ブツブツと独り言を言ったりするのは、奇異な行為に見られ、変な
宗教と思われますから、してはいけないのです。奇異な格好や奇異な行為は、慎まなくてはなりません。

想念を停止することは難しいことですが、常に「世界平和の祈り」を祈っておりますと、だんだんと空の
境地に近づいてゆくのです。座禅のように「何も思わないで座る」というのは難しいことですが、「世界
平和の祈り」を唱えておりますと、次々と想念が出てきても、守護の神霊のみ心の中へと、その想念が吸
い込まれてゆきますから、空の境地に近くなってゆくのです。そこで念仏にしても「世界平和の祈り」に
しましても、常に祈ることを教えているのです。

基本は「世界平和の祈り」全文を唱えることですが、繰り返し唱える時には、「南無阿弥陀仏」と同じよ
うに、できるかぎり短いほうが統一しやすいので、「世界人類が平和でありますように」の一行のみに想
念を統一します。あれこれと複雑な行法を思っていたら、想念を一つに統一することができるわけがあり
ません。たった一つの祈り言だけに、精神を集中するのです。ただ、精神を集中するといいますと、力ん
で集中する念力と誤解されますから、力まないで精神を一つの祈り言に集中することを「統一」と呼んで
「力みのある集中」と区別しているのです。真実の祈りとは、力みがないのです。

比叡山の常行堂のように、朝から晩まで夜までも歩きながら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるように、
「世界人類が平和でありますように」を繰り返し唱える修行ができれば一番よいのですが、しかし、そう
した修行は、私たちにはできません。日常生活の勉強や仕事がおろそかになるからです。あるいは、家庭
生活が犠牲になるからです。みんながみんな、そんな修行を始めたら、電車も飛行機も動かす人がいなく
なり、社会生活は停滞します。ですから、日常生活を崩さないで、学生は学校で勉強をして、社会人は会
社や職場で働きながら、主婦は家庭や育児の仕事もこなしながら、神性を開発してゆかねばなりません。

そのためには、神性開発という目標も、焦ってはいけません。神性開発は、人間のなさねばならぬ究極の
目標ではありますが、だからといって、そのために現代の日常生活を壊す必要はないのです。神様は人間
に「無理なことをやらそう」とは、お考えになってはおりません。日常生活をあたりまえに暮らしながら
「世界平和の祈り」をしてゆけば、無理なく誰でも神人になる時がくるのです。急いで神性開発をしよう
とすれば、それだけ、この世の肉体生活を犠牲にしなくてはなりません。

神様は、そうした肉体生活を犠牲にする神性開発法を望んではいないのです。学校の勉強を犠牲にしたり
家庭生活を犠牲にしたり、会社や職場を犠牲にすることなく、この世の生活も楽しみながら、神性を開発
してゆくことを、神様は望んでいらっしゃるのです。一日も早く神性を開発できれば、良いに決まってお
ります。しかし、神様は、肉体生活を犠牲にしてまで、勉強や仕事や家庭を放り出してまで、人類に神性
開発に励まそうとは、お考えになってはいないのです。

地球をすぐに平和にすることは、できないことではありません。しかし、そのためには、地球人類は急速
に潜在している業想念を浄めなくてはなりませんから、肉体生活を犠牲にする、という大変な苦しみを味
わうことになります。「早く神性を開発しよう、しよう」「早く神人にならなくては、ならなくては」と
焦れば焦るほど、現実の肉体生活を犠牲にしなければならなくなり、苦しみが増してゆくのです。

そこで、世界が平和になる時期も、自己が神人になる時期も、「自力で早くしよう」と焦らないで、すべ
てを守護の神霊に委ねて、守護の神霊に一番善い時期を定めていただいて、現実の肉体生活を第一に優先
させながら、余った残った時間で神性開発の修行をしてゆくならば、そうたいした苦しみもなく、楽に神
性を開発してゆくことができるのです。神性開発に多少時間がかかっても、肉体生活を犠牲にすることな
く、肉体生活の苦しみが少ないほうが、神のみ心にかなった、より優れた生き方であるのです。

焦ることなく、かといって怠けることなく、日常生活をあたりまえに暮らしながら、肉体生活の幸福を味
わいつつ、「世界平和の祈り」を続けてゆくことによって、知らないうちに個人の神性は開発され、世界
が平和になってゆく、そんな無理のない生活を、神様は望んでいらっしゃるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


白光誌の変化について
No.2875 森島 恒吉    2001/01/30 (火) 12:00 富士宮
世界人類が平和でありますように

うぶちゃん、ありがとうございます。
白光真宏会は、この掲示板で提言された、私たちの意見に素直に耳を傾けて下さっているようです。否、
それは間違いで、偶然であるのかもしれませんが、少なくとも私が提言した通りに白光真宏会が改善した
点が見受けられるのです。白光真宏会の機関誌「白光」を読みますと、やはりところどころにその事実が
見受けられるのです。たえとば、白光誌の場合、最近このように変化しました。

1.「白光真宏会入会案内」が、つい数年前まで五井先生の「世界平和の祈り」の教えしか書かれていま
せんでした。それに対して、「現状の白光真宏会に合わない。昌美先生の教えを書き加えるべきだ」と私
は提言しました。それが効をそうしてかどうかわかりませんが、以下のように文章が修正されました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
[新入会案内]
本会は五井昌久提唱の(人間と真実の生き方・世界平和の祈り)と、西園寺昌美先生提唱の(我即神也の
宣言・印)(人類即神也の宣言・印)により、個人の平安と世界人類の平和の実現を目的とする団体であ
ります。そして、この祈りと印を日々実践することにより、個人の神性を顕現させ、調和に満ちた生活を
築くとともに、世界人類を真理に導くための宗教活動を行なっております。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2.「図書案内」に(品切れ)の文字が入りました。
品切れになった本は、品切れと書くべきで、これはとても親切なことです。これも小さなことですが、私
たちが、この掲示板で指摘した後に、改善されたものです。

ところで、白光誌は今年になって大きく変化した点があります。
一つは、白光誌が高橋英雄氏により創刊されて以来、連綿と掲載されてきた「詩・短歌・俳句」の文芸欄
が削除されたことです。以前にも、誌面の都合で「詩・短歌・俳句」の削除が検討されたことがあったよ
うですが、高橋氏は「詩・短歌・俳句の文芸欄は絶対にやめません」と宣言されていました。ところが、
編集者が代わったせいか、高橋氏の主張が退けられて、今年になって、「詩・短歌・俳句」の文芸欄が廃
止されてしまいました。

白光真宏会という名称と、機関誌「白光」の名称の変更も、21世紀になるにあたって、ふさわしい新しい
名称に変更しよう、とする計画が持ち上がったそうですが、その動きは見られなくなりました。その理由
は現在、長老である高橋英雄氏の影響があったようです。

これも噂にすぎないので、真実であるかどうかはわかりませんが、白光真宏会が「白光真宏会」という名
称を変えようと、高橋英雄氏に相談したところ、高橋氏はこのように答えたそうです。

「私が『白光』という機関誌を作り、会の名称として、いくつか考えたものを五井先生にお見せしたら、
五井先生が『この白光真宏会という名称を使わせていただくよ』とおっしゃったのです。ですからもし、
白光真宏会という名称を捨てるならば、私が五井先生に差し上げたものですから、私に白光真宏会の名称
を返して下さい」

高橋氏に敢然とそう言われて、白光真宏会(実質的に誰なのかは知りません)のほうは引き下がらざるを
得なかったようです。いかにも高橋氏らしい、物おじしない、はっきりとした態度です。

3.改善ではありませんが、もう一つ白光誌で変化した点は、五井先生の講話録がなくなったことです。
これは過去に収録された録音テープの書き起こしが終了した、と見ることができますが、今年からは昌美
先生の教えを主体にしてゆこう、という強い意志が働いているせいかもしれません。毎月、掲載されてい
た五井先生の講話がなくなったことは、私にとっては楽しみが一つ減って残念なことですが、昌美先生の
教え一色にしたほうが、現在の白光真宏会を表現するには、むしろわかりやすい、とも言えます。

五井先生の教えと昌美先生の教えは、私に言わせれば、全く異なった、相反した教えであるのです。
五井先生が「この教えをやってはいけない」と強く批判されていた「真理に把われた教え」や「業生の法
則に把われた教え」を、昌美先生は誤りとして気づかずに教えているのですから、五井先生の教えと昌美
先生の教えを、同じ白光誌に載せれば、矛盾点が噴出してくるのは当然です。ですからむしろ、白光誌は
昌美先生の教えだけにして、五井先生の教えはすべてなくしたほうが、スッキリと判りやすくなります。

以上が、最近の白光誌の変化した点です。今後も、私は会員として白光真宏会を見守ってゆくつもりです
が、白光誌がこのように変化したことを知るにつれ、「唯一会を創立してよかった」としみじみ思われる
のです。白光真宏会が、現在のように五井先生の教えを薄めてゆけばゆくほど、五井先生の教えを忠実に
継承している唯一会の存在が、大きくクローズアップされてくるからです。唯一会は、五井先生の教えを
忠実に守りつづけてゆきます。私は唯一会の創立者ですが、「世界平和の祈りよりも、もっと善い優れた
祈り言や行法がある」と考える人間を、私の後継者には致しません。

ゲリー・ボーネル氏の「光の十二日間」、「マンダラの描き方」、「法輪功」のような宗教書が、書店に
はあふれています。そうした海外の宗教書を参考にするのは、大いに結構であるのですが、それらを鵜呑
みにして、安易に五井先生の教えに、加えてはいけないのです。「一つの行法だけでは物足りない」と思
って、他の宗教から物珍しい教えを次々と取り入れて、宗教のデパートのようにしてしまったら、巨大デ
パートが倒産することがあるように、せっかく「易行道」を打ち立てた五井先生のご苦労が水の泡となっ
てしまいます。いつも申しておりますように、「世界平和の祈り」は、何も付け足す必要の無い、完全な
祈り言であるのです。神人になる一番の近道は、「世界平和の祈り」一念の道であるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


武道奥義
No.2886 森島 恒吉    2001/02/06 (火) 14:16 富士宮
世界人類が平和でありますように

一昨日の日曜日、喜多郎のコンサートを聴きに名古屋まで行ってきました。NHKの「シルクロード」に
始まって、「四国巡礼」「四大文明」とテーマミュージックを作曲している喜多郎は、音楽の才能をいか
んなく発揮しています。今回のプログラムは、「空想の旅」というテーマでしたが、以前にもまして感動
的なコンサートで、バイオリンの甘いメロディと、和太鼓の迫力が、快く調和していました。

ところで、最近は合氣道関係の人からのメールをつづいて頂戴しております。私が合氣道を稽古して得た
武道奥義を参考までに載せておきます。この武道奥義が、合氣道の神髄であるのです。

   [武道奥義]
 自分を尊び、人を尊ぶ。
 自分を正し、人を正す。
 自分を守り、人を守る。
 自分を愛し、人を愛す。

MAY PEACE BE IN THE WORLD


徹底的に議論をする重要性
No.2900 森島 恒吉    2001/02/18 (日) 01:03 富士宮
世界人類が平和でありますように

青空さん、ありがとうございます。青空さんの立場で、心のうちから湧いてくる教義考察を書かれること
は、大変結構なことです。五井先生のみ教えについても、その人その人の心境によって、大きく異なって
いるものです。どんなにお互いに話し合っても、お互いの意見が平行線のままで終わってしまうことが、
よくあります。テレビ朝日の「朝まで生テレビ」に出演した共産党の人が、自民党の人と一晩の議論の後
に、納得して自民党に移った、ということはありません。

私が「世界平和の祈り」を話して、理解して下さる人というのは、初めから理解できる素質を持っていた
からに、ほかなりません。理解してもらえない人には、何を言っても、理解してもらえないものです。し
かし、だからといって、議論が不要とは思いません。お互いに、自分の意見を出し合い、相手の意見を聴
くことは、大調和への第一歩であるのです。お互いに、相手に賛成できなくとも、少なくとも、相手の考
えを知ったことは、何も知らないよりも、ずっと前進していることになります。

黙っていては、自分が何を考えているのか、相手に理解してもらえません。日本にしても、日本の政府が
アメリカに何も言わないで黙っていたら、アメリカは日本の真意を理解できません。お互いに腹をわって
自分の意見を出し合い、自分の意見が誤っていたら反省して訂正し、相手の意見が誤っていたら、おだや
かに思いやりをもって正してあげることが必要です。それでも、相手が反省しないようであれば、相手の
天命の完うを守護霊さんに祈ることです。

「世界平和の祈り」の教義は、誰がどんなに批判しようとも、それで崩れるような、そんなちゃちな理論
ではありません。「世界平和の祈り」に反対できる者は、一人もおりません。ということは、「世界平和
の祈り」を祈っている私たちに、反対できる者は、一人もいない、ということになります。「世界平和の
祈り」は、肉体人間の頭脳知恵で考え出したものではなく、計り知れない無限の叡智を持つ神が、人類救
済のためにお説きになったものであるのですから、勝てるはずがありません。

五井先生は宇宙神のみ心に代わって「世界平和の祈りは、最善の祈り言であり、何も付け足す必要のない
完全な祈り言である」とお説きになっています。常識で考えてみましても、世界平和実現ほど、大きな目
標は思いつきません。世界人類の平和を祈ることほど、愛深い行為も考えつきません。まことに「世界平
和の祈り」は、完全な祈り言であるのです。これを裏返していえば、「世界平和の祈り」以外の祈り言や
方法には、大なり小なり、なんらかの欠陥が潜んでいる、ということです。

青空さんのご提言に、異論反論がある方は、どしどしご意見をお寄せ下さい。お互いに意見をとことん出
し合って、相手の考えを知り、自分の考えを相手に伝える努力をしてみましょう。徹底的な議論の末に、
五井先生のみ教えを理解できる人が、一人でも多く現れることを、私は期待しております。

MAY PEACE BE IN THE WORLD