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世界人類が平和でありますように
ようこそ!全託道場へ
 世界平和の祈りに全託を! 果たして五井先生は私たちに何を訴え続けてお亡くなりになったのでしょう? 
 「宗教とは出会いの体験である」との観点より、まずは私の入信体験について述べさせていただきました。
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五井先生の遺言[目次] 参考☆唯一最高の祈り〜森島恒吉先生の過去ログより
 こんなことで何で世界が平和になるものかなどと、心を動かしてはなりません。
(五井昌久『白光への道』より)

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 Explanation★ 私たちの《信条》




 五井先生の遺言
〜五井先生が最後に遺した言葉〜


冒頭ライン2:世界人類が平和でありますように


唯一最高の祈り

〜森島恒吉先生の過去ログより〜



【目次】

世界平和の祈りは永遠なり
「世界平和の祈り」は唯一最高の祈り
自然で無理のない祈り言

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世界平和の祈りは永遠なり

No.22 森島恒吉    1998/09/04 (金) 15:05 静岡県
 
 
世界人類が平和でありますように

その人その人の心境によって、同じ信仰を持っていてもずいぶんと違うもので、私なども、昌美先生を熱烈に信仰している人から見たら、まったくの異端者に見えるようです。
「森島さんは、昌美先生に反逆するダイバダッタだ」とののしられたことが、何度あったことか。昌美先生は、「人即神也」と宣言するように教えておられるのですから、私に対しても「森島さん即神也」と言ったらいいのに、と思うのですが、「それはできない」とその人は言うのです。それでは、その人自身、昌美先生の教えを守っていないではないか、と私は言いたいのです。自分が昌美先生の教えを守らず、自分に都合のよいところだけを使って、私を「ダイバダッタ」と言うのは、はなはだ矛盾している、と思うのです。
宗教に敵があってはなりません。少なくとも、私には敵はありません。


ところで、「素直な生き方」という問題に対して、ここでお答えしておきましょう。
かつて「白光真宏会で決まったことに対しては、それに従うことが、素直な生き方だ」と、五井先生のお言葉を例にして説明された方がいらっしゃいました。
五井先生がご在世中に、会で決めるようなことは、五井先生の教義に関する根幹的な問題ではなくて、会の組織としての運営のあり方や、行事に関する枝葉の問題なのです。いくら会で決まったからと言って、「五井先生、このたび、世界平和の祈りよりも、もっとすぐれた祈り方や方法が見つかりましたので、会としては、それをしたいと思います。五井先生もしたがって下さい」と理事長が五井先生に言ったら、即座に「何を考えているんだ。バカヤロウ!」と五井先生に一喝され、「駄目だ」と否定されるでしょう。

素直と服従とは、似てはいますが、まったく違う意味なのです。
旦那さんが妻に「これから、オレは泥棒に出かけてくるぞ」と言ったら、「それでは、支度しなくちゃ、いけませんね。あなた、大風呂敷にしましょうか? それとも小風呂敷にしましょうか?」と妻が答えた、そのように、妻が夫にしたがうことが、素直な生き方である、とまじめに説いている宗教者がいますが、こんな妻の行為が、素直な生き方であるわけがありません。そんな時には、必死で、夫が泥棒に行かないように注意し、警察にかけこんででも、夫の誤った行為を止める、というのが、真実の素直な行為といえるのです。それが真実の愛でもありましょう。

ですから、会の言うことを、なんでもかんでも、無批判に受け入れて、自分の頭で判断せずに、そのまましたがうことが、素直な信仰だ、と思っていたとしたら、大変な誤りなのです。そうした誤った信仰が、社会で事件を起こす邪教集団を作ってゆくのです。五井先生の教えは、信者を無批判にさせ、各自の判断力を失わせ、盲従服従を強要するような教えではなく、人々を自由にさせる宗教なのです。
「昌美先生の教えが正しい」と信じるのは、その人の自由ですが、「会で決めたことには素直に従いなさい」と、なんの理論的な説明なしで、他人に説得したところで、知性的な人々が、納得するはずもありません。「ただ信じなさい」と言ったところで、そんな無理論の宗教が、広まるはずがありません。素直とは、「真実に直くあれ」ということで、「業想念に妥協しろ」という意味ではないのです。

「世界平和の祈りも、我即神也の印も、人類即神也の印も、今の時代には必要なもの、と信じております。将来的には、みんな消えていくものと思っております。」とおっしゃる方もいらっしゃるかも知れませんが、少し私の見解と異なっている点を申し上げましょう。

それは、「世界平和の祈りは、消えてゆく姿ではない」ということです。
「世界平和の祈り」は、地球史上で、最初で最後の真の祈り、であるのです。神の御心でないものは、すべて消えてゆきます。しかし、神の御心は永遠に消えることはありません。ですから、神の御心である「世界平和の祈り」は、この地球が平和になったら、消えるものではなくて、地球が平和になった後も、永遠に唱えられる祈りであるのです。

「(百年後に)世界人類が平和になりますように」という祈り言であったら、世界が平和になったら、その祈り言は不要な言葉になります。しかし、「世界人類が平和でありますように」とは、「(今から永遠に)世界人類が平和でありますように」という意味を含んだ祈り言なのですから、地球が平和になった後も、地球人類は「世界人類が平和でありますように」と永遠に祈り続けるのです。
地球よりもずっと前に平和な世界を実現させ、今では地球を天空のはるかかなたから見守っている宇宙人たちも、空飛ぶ円盤の中で「世界人類が平和でありますように」と祈っているのです。

とにかく、常に思うことは、「皆さんに、五井先生の本を、もっとよく読んでいただきたいな」ということです。五井先生の本をすべて読んだくらいで、すでにわかったつもりになってはいけません。何度も何度も、五井先生の本がボロボロになるまで読んで、ボロボロになったら、また新しく本を買い換えて、その本もまたボロボロになるまで、繰り返し繰り返し、読んでもらいたいものです。


あなたが幸せでありますように
 
 
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「世界平和の祈り」は唯一最高の祈り

No.123 森島恒吉    1999/01/01 (金) 05:26 静岡県
 
 
世界人類が平和でありますように

新年、明けましておめでとうございます。
新しい年を迎えた瞬間に、心がパーッと明るくなりました。

昨年は唯一会のホームページを開設して、「世界平和の祈り」を唯一最高の行としている私たちの存在を皆様に公開しました。白光真宏会の会員の中に、十年一日のごとく「世界平和の祈り」だけを行じ続け、その他の行法(断食法・呼吸法・印相法・念力願望成就法・完了形暗示法)などを、全く行じないグループがひそかに存在している真実が明らかになった時、他の会員の人たちは驚きの目で私たちを見ました。

昌美先生が指導されている「我即神也」「人類即神也」の印と宣言を行じないで、「世界平和の祈り」だけ一つをひたすら祈っている私たちは、まるで異端者のように感じられたのです。しかし、私たちの行動は「世界平和の祈り」を唯一の行とするだけで、昌美先生への反対を唱えるわけでもなく、白光真宏会の方針に反対するわけでもない事が次第に理解されるにつれて、私たちへの非難の声は消えてゆきました。

私たちは「世界平和の祈り」を祈っているのですから、誰も、私たちに反対することはできないのです。「世界平和の祈り」に反対することは、教祖の五井先生に反対することになるのですから、白光真宏会の会員の人たちは、私たちの「世界平和の祈り」に反対することは、絶対にできないのです。

「昌美先生のご指導を通して、五井先生は新しい教えを教えて下さっているのだから、昔の五井先生の教えに把われてはいけない」と説く人に対しては、「昔の五井先生の教えが、今は真実ではなく、すでに古い教えであるならば、五井先生の本を、すべて焼き捨てたらよろしいでしょう」と私は答えます。

「昌美先生の教えと五井先生の教えとは、同一の教えである」と説く人には、「それならば、五井先生の教えだけをやっていても、文句はないでしょう。同一とおっしゃるのですから」と私は答えます。

「五井先生の『世界平和の祈り』と昌美先生の『我即神也・人類即神也』の二つを合わせて行じることによって、より急速に人類の神性が開発され、世界平和が実現するのだ」と説く人には、「五井先生の教え『世界平和の祈り』は不完全な教えであった、とおっしゃるのですか?」と私は答えます。

「五井先生が『世界平和の祈り』を教えられた頃は、皆さんの心境が低く、まだ高い真理を理解することができなかったから、『世界平和の祈り』しか五井先生は教えられなかったのです。今は皆さんの心境が高くなったので、『世界平和の祈り』以上の『我即神也』の行を、五井先生から与えられたのです」と説く人には、次のように答えます。

「それでは、『世界平和の祈りは最善の祈りであり、人類史上最後の祈りであり、世界平和の祈り以上の高い行法は無い』とおっしゃった五井先生の教えが、間違っていたことになるではありませんか?」と。五井先生の教えが、過去の時代にだけに通用した教えだとしますと、信仰が根底からくつがえされます。誰がなんと言おうと、私たちは五井先生の教えは永遠であると信じ、「世界平和の祈り」を信じます。

今はすでに、私たちへの無理解で不当な非難の嵐は去りました。これからは私たちは「世界平和の祈り」をひたすら祈りつづけ、「世界平和の祈り」を広めてゆけばよいのです。白光真宏会の会員の中からも、次々と私たちの考えに賛同して下さる方々が増えてきております。「世界平和の祈り」は五井先生の教えであり、神のみ心なのですから、私たちに同調して下さる方々が増えるのは、当然の成り行きなのです。
「世界平和の祈り」は唯一最高の祈りなのです。「世界平和の祈り」以上の祈りや行法は無いのです。本年も、私たちとご一緒に「世界平和の祈り」を祈って下さいますように、お願い申し上げます。

皆様が幸せでありますように
世界人類が平和でありますように

 
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自然で無理のない祈り言

No.1053 森島恒吉    1999/09/15 (水) 02:11 富士宮市
 
世界人類が平和でありますように

宗教の祈りも、自然な食物を自然な形で摂るように、やはり自然な祈り言であるべきです。必要もないのにビタミン剤を過剰に大量摂取すれば、体に悪いように、念の力を強める念力行や、矛盾を含んだ行は、不自然であって、自己の思い通りにならないと心が乱れたり、二重人格者のように矛盾した言動になって、周囲に変な雰囲気をまき散らすようになるのです。不自然な祈り言や行法は、不自然な人格を作り出します。何事も方法を定める時には、「どちらがより自然か?」と直感的に判断して、より自然な方法を選ぶことがよいのです。

「世界人類が平和でありますように」という祈りは、自然な祈り言です。不自然なところはありません。 世界平和を神に熱望している人間の祈りが、素直に言葉になった祈り言です。人類が争いあっている現在、人類の争いを止めるのは神しかおりません。親神様に人類の平和を願う祈りは、神の子の人間として自然です。
「世界は平和である」と言ったら、これは不自然です。今は、肉体世界は、まだ平和にはなってはいないからです。「私は神である」と宣言することも、不自然です。宣言するには、まだ早過ぎるからです。

このように考えますと、「世界平和の祈り」は 真実に自然な祈りであることが、おわかりでしょう。自然の声に耳を澄まし、自然な「世界平和の祈り」を祈ってゆくとき、人類の本心は自然に開いてゆくのであります。「世界平和の祈り」を祈っておりますと、非常識なふるまいがなくなり、二重人格のように矛盾した言動が消えてきます。常識的で当たり前でいて、心が乱れることがなく、いつも明るくて、言動に矛盾がありませんから、人から信頼されるようになります。「世界平和の祈り」を祈っている人々が、それを実証して下さっております。



※ 本稿は、「自然の声に耳を澄まそう」と題して投稿された、'99年9月15日付の森島恒吉先生投稿の過去ログ(No.1053 PEACE NIFON1)より最後の箇所を抜粋したものに、森島先生の加筆・訂正をいただいたものです。
 
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2004.4.13
2006.4.25追補
2007.8.18レイアウト改訂
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