本文へジャンプ
世界人類が平和でありますように
ようこそ!全託道場へ
 神奈川集会で使用した勉強用テキストをUPしました。全て森島先生の過去ログから編纂した貴重な資料です。
 2009年11月の神奈川集会で使用したテキストです。五井先生のみ教えの理解のための参考資料としてご利用下さい。
本文タイトルへジャンプ

全託道場山門 私たちの《信条》 神奈川集会テキスト[目次] 09年11月テキスト
世界平和の祈りに全託してゆくことが、今日の世界にとって、一番大事なのです。
(五井先生最後のお言葉)
神奈川集会テキスト[目次ページ]へ戻る 次のテキストへ進む 全託道場トップページへ



全託道場 Contents
Explanation★ 私たちの《信条》

世界人類が平和でありますように

テキスト本文へジャンプ

神奈川集会テキスト録01:
唯一会の天命
〜唯一会の教え方と私達の天命〜

(2009年11月15日)


目次をスキップして本文へ

【目次】




【唯一会に対する誤解を解く】

 唯一会に対して勝手な誤解から来る批判的な感想を持っている人もいるようです。
 たとえば「世界平和の祈り以外の祈り方や行法は駄目だ」と唯一会が説いているかのような言い方をしている人も中にはいるのですが、それは誤解です。唯一会では「世界平和の祈り唯一行」を強調しておりますが、この言葉は、「たくさんの行法をやらなくても、世界平和の祈り一つだけで救われるのです」という意味で説いているのであり、「世界平和の祈り以外の祈り言や行法をやってはいけない」とか、「世界平和の祈り以外は全部駄目なんだ」と説いているわけではありません。

 そのような誤解をする人は、私の過去ログを全部お読みになっていないのでしょう。
 私は過去ログで、「世界平和の祈り」以外にも、多くの祈り言や祈り方を書きました。「『世界平和の祈り』を祈れない時は、肉体の想念波動に合致した祈り言を自分でつくって、それを祈ってもよいのです」と、具体的に祈り方をたくさん書いたのです。上記のような批判をする人はそれを読んでいないのでしょう。

 レストランに入って「ざるそばを一つだけ下さい」と自分が注文することは、他のお客さんに向かって、「ざるそば以外の料理を食べるな」ということにならないでしょう? 他のお客さんが牛丼やカレーライスを食べることを否定することにはなりません。「自分はざるそば一つだけでいい」と言っているのに、その言葉をとらえて、「あなたは、他のお客さんが、ざるそば以外の牛丼やカレーライスを食べては駄目だと否定するのか?」と詰問する人はいません。「ざるそばだけの客は帰ってくれ」と、追い返す店主もいません。
 それと同じように、「世界平和の祈りだけをしたい」と思ってお祈りする行為が、なぜ「世界平和の祈り以外は駄目だと唯一会では主張をしている」と受け取る人がいるのか理解に苦しみます。「世界平和の祈り」だけをしている唯一会が物足りないのであれば、たくさんの行法をやっている白光真宏会へ行くなり、別の宗教団体や別のグループへ行けばよいことであり、それは個人の自由です。唯一会には、「世界平和の祈りだけをしたい」と思っている人が集まればよいのであり、「世界平和の祈りだけで救われる」という教えに希望を見出した人が入会して来ればよいのです。


 五井先生が「世界平和の祈りにナムカラタンノウトラヤアヤアを加えてもいいし、安来節を加えてもいい」とおっしゃったことは、私もずっと前から知っています。それは、「個人でお祈りする時には、好きなように祈ってもよい」という意味であり、唯一会でも私は会員さんに対して「世界平和の祈り以外の祈り言や行法をやってはいけない」と命じたことは一度もありません。その行法の欠陥や短所を教えることはあっても、「やってはだめだ」と言ったことはありません。また、「南無阿弥陀仏」や「南無南無妙法蓮華経」についても否定したことは一度もありません。

 よく誤解をする人がいるようですが、「南無妙法蓮華経」と「我即神也」を結びつけて書いたことは、私は一度もありません。「我即神也は南無妙法蓮華経と同じだ」と掲示板に書いたのは、私ではなくて、唯一会の会員でもなく、会員以外のある人が勝手に書いた自説です。いろいろなご意見を自由に述べることはよいことであると思って、自由に書いてもらったのであって、私がその意見に賛同しているわけではありません。
 「南無阿弥陀仏」にしても「南無妙法蓮華経」にしても、尊いお念仏でありお題目です。真実の方法であるのですから、その道を一生懸命に精進すれば、その人は真の悟りを得ます。五井先生は「南無妙法蓮華経」の短所を書かれましたが、私はそのことには触れずに、その点を書かないようにしているのです。私は6年間以上の掲示板〔注:旧掲示板PEACE NIFONのこと〕で「南無妙法蓮華経」の短所を書いたことは一度もありません。


 このことからも分かるように、私は五井先生の教えの根本を実践しておりますが、五井先生の弟子としての経験から、「これは言わない方がいいだろう。これは省いた方がいいだろう」と判断したことは、たとえ五井先生の教えであり、五井先生のご本に書かれてあることであっても、言わぬようにしているのです。誤解されるような教え、突っ込まれると困る教え、矛盾して見える教えについては、たとえ五井先生の教えでも、私は説かぬようにしているのです。そうした私独自の教え方が、「五井先生の教えのすべてを唯一会では正しく伝えていない」という批判にもなるわけですが、これが、もうひとつよく見られる唯一会に対する誤解です。

 五井先生の教えすべてを実行したいのであるならば、五井先生のご本に書いてあることを自らがすべてを実行したらいいのです。五井先生から直接学びたいのであれば、五井先生のご本を読んで独習したらいいのです。私に学ぶ必要もなければ、唯一会に入る必要もありません。
 唯一会では、五井先生の根本の教え、基本の教えを実行しているのであって、五井先生の教えのすべてを伝えているわけではありません。五井先生の教えのすべてを学びたいのであれば、五井先生のご本に書いてあるのですから、五井先生のご本を読めばよいのです。唯一会は、五井先生のご本をコピーして教える会ではありません。五井先生がご本に書いてあることを学びたいのであれば、白光真宏会へ行って本を買ったほうが早いです。

 五井先生と同じ本を作っても意味がありませんし、白光真宏会と同じ会を作っても意味がありません。五井先生の教えのすべてを正しく知るには五井先生のご本を読めばいいことで、「五井先生のご本を読んでも分からなかった。五井先生のお話を聴いても理解できなかった」という人のために、唯一会は存在しているのです。五井先生のご本を読んで理解できる人、自分一人で独習できる人は、唯一会を必要としません。
 「五井先生のご本をすべて読んでも、五井先生のご本に書いてある教えをすべて知っても、五井先生の教えが理解できず、行じ方が分からない」と悩む人々のために、唯一会は存在します。五井先生が師としての立場から書いたのに対して、私は五井先生の弟子としての立場で、自分の失敗体験を通して五井先生の教えをより分かりやすく噛み砕いて教えているのですから、五井先生の教え方と私の教え方は異なるのが当然です。「私は五井先生だけから学びたい」という人は私から学ばなければよいのであり、唯一会に無理に入る必要はないのです。


 「私は森島先生の解説される五井先生のみ教えに帰依していたのですね。そのことがハッキリと認識出来ました。森島先生の教えが、すなわち私たちが信じる正しい五井先生のみ教えなのです」と、ある会員さんからご感想をいただきましたが、正にその通りで、唯一会の本質をよく表現している言葉です。唯一会の皆さんは、私を通して示される五井先生の教えに帰依しているのです。その点が、五井先生のご本から五井先生の教えを直接学ぼうとしている人々と異なる点なのです。
 つまり唯一会は、五井先生の教えすべてをそのままの形で伝えているのではなく、私の体験を通して、五井先生の教えを整理分類し、矛盾が感じられてしまう教えや誤解されやすい枝葉の教えは大胆に削って、初心者から上級者へと段階的にステップを踏んで道を進めるように順序をつけ、より簡素化した教え方にして説いているのです。唯一会は、私が創ったメソッドによって、五井先生の教えを私流にアレンジして教えているわけです。唯一会が五井先生のすべての教えを伝えていないように見られることを承知した上で私は説いているのです。

 五井先生の教えのすべてをそのままの形で学びたい人は、五井先生のご本だけを読んで学べばよいと思います。しかし、それだけで、どれだけの人が五井先生の教えの真実を悟れるのか疑問です。なぜならば、白光真宏会の会員さん達は、五井先生の教えを直接聴きながら、直接ご本を読みながら、五井先生の教えから逸脱してしまったではありませんか! 現実にそれが起きたではありませんか!
 その事実を経験して、私は五井先生の教えを誤解されないように、五井先生の教えを正しく理解できるように、唯一会を創って、私の経験から得た教授法を編み出して教えるようになったのです。五井先生のご本だけを読んで五井先生の教えを正しく理解できる人には、唯一会は必要ありません。しかし、現実に五井先生のご本を出版している白光真宏会や白光真宏会の会員さんでさえ、多くの人が五井先生の教えを理解できずに、正しい道から外れてしまったではありませんか。

 だから、白光真宏会と同じ教え方をしていても駄目なのです。五井先生のご本だけを読んで理解できる人はそれでいいのですが、理解できない人の方がはるかに多いのです。その人々のために、五井先生の教えを理解するための解説書が必要なのです。その解説をするのが唯一会の役目であるのです。ですから、唯一会は絶対に必要であるのです。


 唯一会では、五井先生の教えの中から根本的な教えや基本的な教えしか教えませんから、五井先生が書いたことの数分の一しか説いておりません。しかし、五井先生の教えの根本を理解し、一番大事な行法をやっていれば、五井先生の教えのすべてが自然に理解できるようになります。
 五井先生のご本を読み、そして私の解説を聴くことによって、五井先生の教えのどこが重要で、どこがポイントなのかが判ります。解説書なのですから、五井先生の教えのすべてを網羅する必要はないのです。五井先生の教えは、何度も書きますが、五井先生のご本に書いてあるのです。道を迷った人々のために、五井先生のご本だけでなく私の解説書を必要とする人が必ずいるのです。その人々のために、唯一会の皆さんは働いているのです。それが皆さんの天命であるのです。

 五井先生が「世界平和の祈りにナムカラタンノウトラヤアヤアを加えてもいいし、安来節を加えてもいい」とおっしゃったことは事実ですが、それでは聖ヶ丘統一会で、五井先生が統一指導の場において、五井先生自身が「世界平和の祈り」に「ナムカラタンノウトラヤアヤア」と唱えたり安来節を踊ったのでしょうか? そんなことは一度もありませんでした。統一会でのご指導では「世界平和の祈り」だけでした。その他の行法は一つも付け加えられませんでした。
 ですから、個人的にやるには、安来節でもハワイアンでもサンバでも、なんでも自由に付け加えても結構ですが、唯一会の公式の場においては「世界平和の祈り」一つだけです。東京集会で以前一度行なったように、特別の行事においては「神様お願いします」「神様ありがとうございます」のような祈り方も行じる場合があります。しかし、それも真実の祈り方に限られるわけで、誤てる祈りや欠陥のある行法、誤解を招きかねない行法をすることはありません。

 唯一会の集会で「世界平和の祈り」を祈っている人の隣で、安来節を歌いだしたりサンバを踊る人が現われたら困ります。集会では共通した祈り言を定めて祈りますし、唯一会では「世界平和の祈り唯一行」を中心に指導しておりますが、それは個人の自由な祈り方を限定するものではありません。


 唯一会の天命は、「五井先生の教えが分からない」「世界平和の祈りの他にもたくさんの行法をやらないと救われないのか」と悩める人々のために、「世界平和の祈りだけで救われるのだ」と光明を与え、五井先生の中庸光明思想を易しく解説して理解せしめ、安心立命を得させるのが天命です。五井先生の教えを自分一人で理解できる人には、唯一会は必要ありません。また、多くの人を集めるために、唯一会の教えをもっと幅広くするつもりはありません。人数が少なくてもいいから、求める人に光明を与えるのが唯一会の役目であるのです。

 何度も繰り返しますが、五井先生のご本だけで満足できる人は、自分一人で独学するか、白光真宏会に参加すればよいのです。また、人数をたくさん集めるのであれば五井平和財団のような在り方がよいのです。
 唯一会が白光真宏会の真似をしようとしてもできませんし、五井平和財団の真似をするつもりもありません。白光真宏会にもない、五井平和財団にもない「世界平和の祈り唯一行」を説くことが唯一会の天命であるのです。多くの人々に迎合しようとして、唯一会の天命を逸脱してはならないのです。そうした唯一会の天命に合わない人は、ご自分に合っている道を探すことを勧めてあげて下さい。


講義録目次へ戻る

【唯一会の教え方と私達の天命】

 五井先生のお言葉には、真理の言葉(本心の境地を示す言葉)と真理へと至る祈りの行為を教える言葉の二種類があります。もちろん五井先生の教えは正しく、どちらも大切であるのですが、私もそうであったように、白光真宏会の会員さんを観察しておりますと、どうしても真理の言葉に把われる傾向があることが分かりました。真理の言葉に把われてしまい、守護の神霊への祈りの方がおろそかになってしまうことが判ってきました。
 私は五井先生の弟子として、五井先生の教えを実践し、紆余曲折の経験をしました。その経験を踏まえた上で、唯一会では真理を宣言する方法は採用せず、守護の神霊に全託する祈り言に徹することになりました。五井先生の弟子としての立場を生かして、現在のように唯一会の教え方が確立したわけです。


 五井先生のご著書を教科書にしておりますと、二通りの道、方法が存在するように解釈できるために、どうしても意見が二つに分裂してしまいます。「五井先生のご著書のこの箇所には昌美先生の教えと同じことが書いてあるではありませんか? 昌美先生の教えは五井先生の教えと同じです。五井先生も昌美先生と同じことを書いていらっしゃるのです」と主張されますと、私達が「それは真理を指し示す言葉であって、中心となる方法論ではありません」と説明しても、水掛け論になってしまいます。
 ですから、五井先生のご著書を中心にするのではなく、私の説いている教えを中心にしていただきたいのです。私の教えと言いましても、真実は五井先生の教えです。森島流メソッドによる五井先生の教えに徹していただきたいのです。私は矛盾を感じさせないように、祈りの行為に徹して説いています。それが人によっては五井先生の重要な教えが抜け落ちているように思われるのですが、一見浅いように見えて、実は五井先生の教える深い真理が体得できるようになっているのが特長です。


 私が説いていても、真実を言えば五井先生が説いているのですが、それは普通の人には分かりません。五井先生と私は別人だと思われているからです。私が説いていることは五井先生が説いていることなのですが、「これは五井先生の教えです」と話しますと、「五井先生のご著書の別の箇所には唯一会とは別の教えを五井先生が書いているではありませんか」と突っ込まれます。そのように突っ込まれると、説明するのが大変面倒です。
 そこで、「唯一会は五井先生の教えをそのままの形で教えてはおりません。森島先生が五井先生の弟子としての経験を生かして新しく編み出した教えを学ぶ場です」と最初からお断わりしておいた方が、「唯一会の教えは五井先生の教えと違う」という批判に対して煩わしい説明をしなくてすむと思います。もっと簡単に言えば、「唯一会は森島先生の教えが中心です」と話してもいいと思います。

 五井先生を尊敬していても、五井先生のように私を尊敬する人は現在は少ないと思います。私が教えることを学びながらも、「五井先生を尊敬するけれども、森島さんなんかは尊敬したくない」と思う人もいることでしょう。五井先生の教えを中心にしないで私の教えを中心としていることになれば、人は集まらないかもしれません。しかし、「唯一会は森島先生の教えが中心」ということにしておいた方が、五井先生の教えの方法論について、解釈の違いから争う必要がなくなります。


「唯一会は五井先生の教えよりも幅が狭い」
「唯一会は五井先生の教えの一部しか説いていない」
「唯一会は五井先生の重要な教えを欠いている」

 と言われても、「唯一会は五井先生の教えではなく、森島先生の教えを中心にしております」と言えば、五井先生の教えの解釈で論争をする必要はありません。私の教えが中心であると言っても、真実は五井先生の教えであることが判る人には判ってまいります。

 唯一会の教えは、五井先生の教えの全体を掴まずに、その一部のみを掴んでいて、あたかも欠けているように見えるかもしれません。しかし、「大成(たいせい)は欠くるがごとくなれども、その用は弊(つ)きず」という老子の言葉のように、唯一会の教えは、一見すると欠けているように見えて、真実は完成しているのです。五井先生の教えそのままを信仰したい方は、五井先生のご著書を読んで一人で信仰するか、そうしたグループに所属すればよいことです。唯一会はあくまでも私の教えを中心とする会であることを改めて認識して下さい。


 私も何年も辛抱強く白光真宏会を変えるように努力しました。私も昌美先生にお手紙を差し上げて、五井先生の教えに戻って下さるように進言しました。しかし、白光真宏会はまったく変わりません。もし白光真宏会が五井先生の教えに戻る日があっても、それは遠い日のことでしょう。たとえ三年後に五井先生の教えに戻るとしても、その三年間の空白期間だけでも、唯一会が存在することによって救われる人はたくさんいます。それだけでも価値があるではありませんか。

 白光真宏会が変わるまでのんきに待っていては駄目なのです。昌美先生が変わるのを待っていたら、世界の人々が救われるのが遅くなってしまいます。白光真宏会に頼らずに、昌美先生に期待せずに、私達が率先して「世界平和の祈り唯一行」を広めてまいりましょう。五年十年で白光真宏会も昌美先生も変わりません。それは生長の家の歴史を見れば分かるではありませんか。谷口雅春教祖が他界してから、生長の家の教えはほとんど変わりません。白光真宏会も、生長の家と同じように、急激に変化することは期待できません。私達が五井先生の教えを伝えてゆくしかありません。白光真宏会や昌美先生が変わるのを待っていないで、私達から真の教えを広めてゆきましょう。それがたとえわずかな期間であったとしても、それが私達の天命であると思い定めて進んでまいりましょう。


講義録目次へ戻る

【生長の家・五井先生・昌美先生の教義の比較と
唯一会の指導方針】

 私の教えを下記にまとめましたので、参考になさって下さい。


□【言葉の解説】

  • 五井先生の教えには「我即神也」という言葉はありません。
  • 「我即神也」は、合気道の植芝盛平先生のお話「我即宇宙」をヒントに昌美先生が作ったものと思われます。
  • 「旧光明思想」「中庸光明思想」は、五井先生の教えを生かして私が名づけた言葉です。
  • 生長の家で言う「神想観」を分かりやすくするために「真理の宣言行」と私が名づけました。
  • 「真理の宣言」は、今は昌美先生も白光真宏会も使っていますが、最初に名づけ発表したのは私です。
  • 昌美先生が「我即神也」という言葉を発表した当初は、「真理の宣言」という表現はありませんでした。

□【生長の家・五井先生・昌美先生の教義の比較】

◆【生長の家の教え】⇒矛盾した二元論(業の存在を認める不完全な光明思想)

  1. 「私は神の子である」と、即座に現実化した真理を全肯定する(神想観)
    「悪は無い、病気は無い、不幸は無い」と、現実の業を全否定する(前項と裏表)
  2. 業の存在を認め、「心の法則」「精神分析」により自己の想念を正す(1と矛盾する)
  3. 「世界人類が幸せでありますように」と守護の神霊に祈る(神想観と別形式)

◆【五井先生の教え】⇒矛盾のない一元論(業の存在を認めない完全な光明思想)

  1. 「私は本来、神の分霊である」と、時間の要素を加えた真理を肯定する
    「業は消えてゆく姿」と業を漸次否定し、守護の神霊に浄めていただく(前項と裏表)
  2. 「業の存在は消えてゆく姿」と否定し、「心の法則」「精神分析」を用いない(1と矛盾しない)
  3. 「世界人類が平和でありますように」と守護の神霊に祈る(生長の家と共通)

◆【昌美先生の教え】⇒矛盾した三元論(生長の家+五井先生の教え)

  1. 「私は神である」と、即座に現実化した真理を全肯定する(神想観と同じ)
    「悪は無い、病気は無い、不幸は無い」と、現実の業を全否定する(前項と裏表)
  2. 「私は本来、神の分霊である」と、時間の要素を加えた真理を肯定する(五井先生の教え)
    「業の存在は消えてゆく姿」と否定する(五井先生の教え。1と矛盾する)
  3. 「想念の法則」を用いて「あなたが悪いのだ」と責める傾向にある(生長の家と同じ)
  4. 「世界人類が平和でありますように」と守護の神霊に祈る(生長の家、五井先生の教えと共通)

※唯一会は、もちろん上記のうち五井先生の教義(矛盾のない一元論)を実践している


□【五井先生の教える段階的行法】

  1. 「人間の本性は神性(性善説)である」と信じる
  2. 「愛深き守護の神霊が存在し加護して下さっている」と信じる
  3. 「業は消えてゆく姿」と信じる
  4. 「今から善くなる」と信じる
  5. 「愛と真と赦しの言行」をなす
  6. 「守護の神霊」に感謝する
  7. 「世界平和の祈り」を祈る
  • 「世界平和の祈り」は、1から4までの信念を前提にした上で祈る行為である
  • 「世界平和の祈り唯一行」には、1から6までのすべての行為が含まれている
  • 「世界平和の祈り」を祈れば、1から4までの信念の言葉を唱える必要はない

□【唯一会の指導方針】

  • 「(本来)私は神の分霊である」という言葉を繰り返し唱える必要はない
  • 五井先生の教えのすべてを、そっくりそのままの形で再現する必要はない
  • 五井先生の弟子としての経験を生かした森島メソッド(教授法)を教える
  • すべての行法を「世界平和の祈り唯一行」に集約させ、中心軸としている
  • 唯一会の行事では宣命体の祈り言はせず、奏上体の祈り言に統一している
    (※祈り言には宣命体と奏上体の二種類の祈り言がある)

講義録目次へ戻る

【大成は欠くるがごとくなれども、その用は弊(つ)きず】

 皆さんもご存じのように、五井先生のご著書には「我即神也」の行を肯定するような文章があることは否めません。「私は神と一体であると思いなさい」というお言葉にしても、「それは、『本来、私は神と一体であると思いなさい』というお言葉を省略されたものなのです」と、五井先生の真意を説いたところで、水掛け論になってしまいます。自分の考えに都合のよい五井先生のお言葉一つ一つを取り上げて、「五井先生のご本にはこう書いてあるじゃないか、だから自分の解釈は正しいのだ」と主張し合いますと、どこまでいっても平行線です。五井先生の教えの解釈論で言い争わねばなりません。


 「唯一会は五井先生の教えを忠実に実行しております」と、初めの頃には私も説いていたのですが、「唯一会は五井先生のすべての教えを忠実に再現してはいない」と主張する人が出て来たので、最近では「唯一会は森島メソッドによる五井先生の教えを実践しています」と教えるようにしております。その方が、「五井先生のご著書にはこう書いてあるじゃないか。唯一会は五井先生の教えの一面しか説いていない」と言われなくてすみますし、無駄な論争をする必要がありません。「唯一会は森島メソッドです」と言えば、「なんだ、五井先生の教えじゃないのか。森島さんの教えなんか聞くつもりはないよ」と、五井先生を尊敬する人からは無視されるかもしれませんが、五井先生のお言葉の解釈の違いで論争しなくてすみます。「唯一会は五井先生の教えに忠実ではない」と言われても、私は甘んじて受けるつもりです。


 「大成は欠くるがごとくなれども、その用は弊(つ)きず」(老子道徳経45章)

 五井先生の教えの一部だけを説いていて、欠けたところがあるように思われても、「世界平和の祈り唯一行」は、古くなってボロボロに破れるようなことはなく、いつまでも続いてゆくのです。


講義録目次へ戻る

講義録本文トップへ戻る
2010.5.10 ページトップへ

全託道場トップページへ 神奈川集会テキスト[目次ページ]へ戻る 次のテキストへ進む
 ☆このサイトにお越しになった皆様の天命と幸せを
   心よりお祈りさせていただきます。

  世界人類が平和でありますように
  貴方様が幸せでありますように
全託道場山門 私たちの《信条》 神奈川集会テキスト[目次] 09年11月テキスト
サイトマップ
世界人類が平和でありますように
Copyriht(C) 2003.5 全託道場 All Rights Reserved
当サイト内の文章・写真・デザインの無断転載は禁じます
管理責任者:全託道場主ムッシュぼけみあん