【唯一会に対する誤解を解く】
唯一会に対して勝手な誤解から来る批判的な感想を持っている人もいるようです。
たとえば「世界平和の祈り以外の祈り方や行法は駄目だ」と唯一会が説いているかのような言い方をしている人も中にはいるのですが、それは誤解です。唯一会では「世界平和の祈り唯一行」を強調しておりますが、この言葉は、「たくさんの行法をやらなくても、世界平和の祈り一つだけで救われるのです」という意味で説いているのであり、「世界平和の祈り以外の祈り言や行法をやってはいけない」とか、「世界平和の祈り以外は全部駄目なんだ」と説いているわけではありません。
そのような誤解をする人は、私の過去ログを全部お読みになっていないのでしょう。
私は過去ログで、「世界平和の祈り」以外にも、多くの祈り言や祈り方を書きました。「『世界平和の祈り』を祈れない時は、肉体の想念波動に合致した祈り言を自分でつくって、それを祈ってもよいのです」と、具体的に祈り方をたくさん書いたのです。上記のような批判をする人はそれを読んでいないのでしょう。
レストランに入って「ざるそばを一つだけ下さい」と自分が注文することは、他のお客さんに向かって、「ざるそば以外の料理を食べるな」ということにならないでしょう? 他のお客さんが牛丼やカレーライスを食べることを否定することにはなりません。「自分はざるそば一つだけでいい」と言っているのに、その言葉をとらえて、「あなたは、他のお客さんが、ざるそば以外の牛丼やカレーライスを食べては駄目だと否定するのか?」と詰問する人はいません。「ざるそばだけの客は帰ってくれ」と、追い返す店主もいません。
それと同じように、「世界平和の祈りだけをしたい」と思ってお祈りする行為が、なぜ「世界平和の祈り以外は駄目だと唯一会では主張をしている」と受け取る人がいるのか理解に苦しみます。「世界平和の祈り」だけをしている唯一会が物足りないのであれば、たくさんの行法をやっている白光真宏会へ行くなり、別の宗教団体や別のグループへ行けばよいことであり、それは個人の自由です。唯一会には、「世界平和の祈りだけをしたい」と思っている人が集まればよいのであり、「世界平和の祈りだけで救われる」という教えに希望を見出した人が入会して来ればよいのです。
五井先生が「世界平和の祈りにナムカラタンノウトラヤアヤアを加えてもいいし、安来節を加えてもいい」とおっしゃったことは、私もずっと前から知っています。それは、「個人でお祈りする時には、好きなように祈ってもよい」という意味であり、唯一会でも私は会員さんに対して「世界平和の祈り以外の祈り言や行法をやってはいけない」と命じたことは一度もありません。その行法の欠陥や短所を教えることはあっても、「やってはだめだ」と言ったことはありません。また、「南無阿弥陀仏」や「南無南無妙法蓮華経」についても否定したことは一度もありません。
よく誤解をする人がいるようですが、「南無妙法蓮華経」と「我即神也」を結びつけて書いたことは、私は一度もありません。「我即神也は南無妙法蓮華経と同じだ」と掲示板に書いたのは、私ではなくて、唯一会の会員でもなく、会員以外のある人が勝手に書いた自説です。いろいろなご意見を自由に述べることはよいことであると思って、自由に書いてもらったのであって、私がその意見に賛同しているわけではありません。
「南無阿弥陀仏」にしても「南無妙法蓮華経」にしても、尊いお念仏でありお題目です。真実の方法であるのですから、その道を一生懸命に精進すれば、その人は真の悟りを得ます。五井先生は「南無妙法蓮華経」の短所を書かれましたが、私はそのことには触れずに、その点を書かないようにしているのです。私は6年間以上の掲示板〔注:旧掲示板PEACE
NIFONのこと〕で「南無妙法蓮華経」の短所を書いたことは一度もありません。
このことからも分かるように、私は五井先生の教えの根本を実践しておりますが、五井先生の弟子としての経験から、「これは言わない方がいいだろう。これは省いた方がいいだろう」と判断したことは、たとえ五井先生の教えであり、五井先生のご本に書かれてあることであっても、言わぬようにしているのです。誤解されるような教え、突っ込まれると困る教え、矛盾して見える教えについては、たとえ五井先生の教えでも、私は説かぬようにしているのです。そうした私独自の教え方が、「五井先生の教えのすべてを唯一会では正しく伝えていない」という批判にもなるわけですが、これが、もうひとつよく見られる唯一会に対する誤解です。
五井先生の教えすべてを実行したいのであるならば、五井先生のご本に書いてあることを自らがすべてを実行したらいいのです。五井先生から直接学びたいのであれば、五井先生のご本を読んで独習したらいいのです。私に学ぶ必要もなければ、唯一会に入る必要もありません。
唯一会では、五井先生の根本の教え、基本の教えを実行しているのであって、五井先生の教えのすべてを伝えているわけではありません。五井先生の教えのすべてを学びたいのであれば、五井先生のご本に書いてあるのですから、五井先生のご本を読めばよいのです。唯一会は、五井先生のご本をコピーして教える会ではありません。五井先生がご本に書いてあることを学びたいのであれば、白光真宏会へ行って本を買ったほうが早いです。
五井先生と同じ本を作っても意味がありませんし、白光真宏会と同じ会を作っても意味がありません。五井先生の教えのすべてを正しく知るには五井先生のご本を読めばいいことで、「五井先生のご本を読んでも分からなかった。五井先生のお話を聴いても理解できなかった」という人のために、唯一会は存在しているのです。五井先生のご本を読んで理解できる人、自分一人で独習できる人は、唯一会を必要としません。
「五井先生のご本をすべて読んでも、五井先生のご本に書いてある教えをすべて知っても、五井先生の教えが理解できず、行じ方が分からない」と悩む人々のために、唯一会は存在します。五井先生が師としての立場から書いたのに対して、私は五井先生の弟子としての立場で、自分の失敗体験を通して五井先生の教えをより分かりやすく噛み砕いて教えているのですから、五井先生の教え方と私の教え方は異なるのが当然です。「私は五井先生だけから学びたい」という人は私から学ばなければよいのであり、唯一会に無理に入る必要はないのです。
「私は森島先生の解説される五井先生のみ教えに帰依していたのですね。そのことがハッキリと認識出来ました。森島先生の教えが、すなわち私たちが信じる正しい五井先生のみ教えなのです」と、ある会員さんからご感想をいただきましたが、正にその通りで、唯一会の本質をよく表現している言葉です。唯一会の皆さんは、私を通して示される五井先生の教えに帰依しているのです。その点が、五井先生のご本から五井先生の教えを直接学ぼうとしている人々と異なる点なのです。
つまり唯一会は、五井先生の教えすべてをそのままの形で伝えているのではなく、私の体験を通して、五井先生の教えを整理分類し、矛盾が感じられてしまう教えや誤解されやすい枝葉の教えは大胆に削って、初心者から上級者へと段階的にステップを踏んで道を進めるように順序をつけ、より簡素化した教え方にして説いているのです。唯一会は、私が創ったメソッドによって、五井先生の教えを私流にアレンジして教えているわけです。唯一会が五井先生のすべての教えを伝えていないように見られることを承知した上で私は説いているのです。
五井先生の教えのすべてをそのままの形で学びたい人は、五井先生のご本だけを読んで学べばよいと思います。しかし、それだけで、どれだけの人が五井先生の教えの真実を悟れるのか疑問です。なぜならば、白光真宏会の会員さん達は、五井先生の教えを直接聴きながら、直接ご本を読みながら、五井先生の教えから逸脱してしまったではありませんか! 現実にそれが起きたではありませんか!
その事実を経験して、私は五井先生の教えを誤解されないように、五井先生の教えを正しく理解できるように、唯一会を創って、私の経験から得た教授法を編み出して教えるようになったのです。五井先生のご本だけを読んで五井先生の教えを正しく理解できる人には、唯一会は必要ありません。しかし、現実に五井先生のご本を出版している白光真宏会や白光真宏会の会員さんでさえ、多くの人が五井先生の教えを理解できずに、正しい道から外れてしまったではありませんか。
だから、白光真宏会と同じ教え方をしていても駄目なのです。五井先生のご本だけを読んで理解できる人はそれでいいのですが、理解できない人の方がはるかに多いのです。その人々のために、五井先生の教えを理解するための解説書が必要なのです。その解説をするのが唯一会の役目であるのです。ですから、唯一会は絶対に必要であるのです。
唯一会では、五井先生の教えの中から根本的な教えや基本的な教えしか教えませんから、五井先生が書いたことの数分の一しか説いておりません。しかし、五井先生の教えの根本を理解し、一番大事な行法をやっていれば、五井先生の教えのすべてが自然に理解できるようになります。
五井先生のご本を読み、そして私の解説を聴くことによって、五井先生の教えのどこが重要で、どこがポイントなのかが判ります。解説書なのですから、五井先生の教えのすべてを網羅する必要はないのです。五井先生の教えは、何度も書きますが、五井先生のご本に書いてあるのです。道を迷った人々のために、五井先生のご本だけでなく私の解説書を必要とする人が必ずいるのです。その人々のために、唯一会の皆さんは働いているのです。それが皆さんの天命であるのです。
五井先生が「世界平和の祈りにナムカラタンノウトラヤアヤアを加えてもいいし、安来節を加えてもいい」とおっしゃったことは事実ですが、それでは聖ヶ丘統一会で、五井先生が統一指導の場において、五井先生自身が「世界平和の祈り」に「ナムカラタンノウトラヤアヤア」と唱えたり安来節を踊ったのでしょうか? そんなことは一度もありませんでした。統一会でのご指導では「世界平和の祈り」だけでした。その他の行法は一つも付け加えられませんでした。
ですから、個人的にやるには、安来節でもハワイアンでもサンバでも、なんでも自由に付け加えても結構ですが、唯一会の公式の場においては「世界平和の祈り」一つだけです。東京集会で以前一度行なったように、特別の行事においては「神様お願いします」「神様ありがとうございます」のような祈り方も行じる場合があります。しかし、それも真実の祈り方に限られるわけで、誤てる祈りや欠陥のある行法、誤解を招きかねない行法をすることはありません。
唯一会の集会で「世界平和の祈り」を祈っている人の隣で、安来節を歌いだしたりサンバを踊る人が現われたら困ります。集会では共通した祈り言を定めて祈りますし、唯一会では「世界平和の祈り唯一行」を中心に指導しておりますが、それは個人の自由な祈り方を限定するものではありません。
唯一会の天命は、「五井先生の教えが分からない」「世界平和の祈りの他にもたくさんの行法をやらないと救われないのか」と悩める人々のために、「世界平和の祈りだけで救われるのだ」と光明を与え、五井先生の中庸光明思想を易しく解説して理解せしめ、安心立命を得させるのが天命です。五井先生の教えを自分一人で理解できる人には、唯一会は必要ありません。また、多くの人を集めるために、唯一会の教えをもっと幅広くするつもりはありません。人数が少なくてもいいから、求める人に光明を与えるのが唯一会の役目であるのです。
何度も繰り返しますが、五井先生のご本だけで満足できる人は、自分一人で独学するか、白光真宏会に参加すればよいのです。また、人数をたくさん集めるのであれば五井平和財団のような在り方がよいのです。
唯一会が白光真宏会の真似をしようとしてもできませんし、五井平和財団の真似をするつもりもありません。白光真宏会にもない、五井平和財団にもない「世界平和の祈り唯一行」を説くことが唯一会の天命であるのです。多くの人々に迎合しようとして、唯一会の天命を逸脱してはならないのです。そうした唯一会の天命に合わない人は、ご自分に合っている道を探すことを勧めてあげて下さい。
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