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世界人類が平和でありますように
ようこそ!全託道場へ
 神奈川集会で使用した勉強用テキストをUPしました。全て森島先生の過去ログから編纂した貴重な資料です。
 2009年12月の神奈川集会で使用したテキストです。五井先生のみ教えの理解のための参考資料としてご利用下さい。
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全託道場山門 私たちの《信条》 神奈川集会テキスト[目次] 09年12月テキスト
世界平和の祈りに全託してゆくことが、今日の世界にとって、一番大事なのです。
(五井先生最後のお言葉)
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Explanation★ 私たちの《信条》

世界人類が平和でありますように

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神奈川集会テキスト録02:
正しい祈りと感謝行
〜五井先生と森島先生の教え〜

(2009年12月20日)


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【目次】



【五井先生の教えと森島先生の教えの違い】

 長く唯一会の会員として私の教えを受けてきた人は、五井先生の説き方と私の説き方が微妙に異なっていることがお分かりでしょう。本質的には同じ教えであるに決まっているのですが、五井先生の書き方には一見して矛盾していると思われる書き方があるのは、皆さんも感じていることと思います。

 たとえば、五井先生のご本には、守護の神霊に感謝しているだけでいいような記述があります。その部分だけを読むと、「世界人類が平和でありますように」よりも、守護の神霊への感謝の祈りのほうに重点が置かれている気がします。あるいは「世界人類が平和でありますように」と同時に「神様ありがとうございます」という祈り言も同じくらい繰り返して祈らなければならないように感じるかもしれません。
 しかしそれは、自分の幸せだけを考えるのが精一杯で世界平和どころではないという人や、世界平和には関心がないという人を思いやった教え方で、「最低限はこれだけでもいい」という教え方です。個人的な救われだけだったら、守護の神霊への感謝の祈りだけでもいい、ということなのです。

 けれども、人類が救われるためには、「世界人類が平和でありますように」という祈り言が必要なのです。「神様ありがとうございます」だけでは、個人は救われても、人類は救われません。実際には、「神様ありがとうございます」の心境になった人は、自己が救われているのですから、自然に「世界人類が平和でありますように」のほうに重点が移ってゆくものです。自然とそうなります。


 「神様ありがとうございます」と口先では唱えていても、他人の悪口を言っている人がいます。そういう人は、本当には神様に感謝している心境にはなっていないのです。常に神様への感謝が鳴り響いているのであったら、他人の悪口を言うはずがありません。だから実際には、「神様ありがとうございます」と祈っていて、感謝の心境に到達することは難しいのです。世界平和なんて言わないから易しいようですが、実際には難しいのです。
 それに対して、「世界人類が平和でありますように」というのは、あまりにも大きくて広くて、自分とは関係のない祈り言のように感じる人がいるのだけれども、こちらのほうが易しく神への全託ができて、「神様ありがとうございます」と祈るよりも、早く神への感謝の心境に到達できるのです。面白いものです。

 そこで唯一会では、「世界人類が平和でありますように」のほうを重点に置いているのです。五井先生もそのように希望していたからです。唯一会の指導法のほうが、白光真宏会よりも、より単純で明快になっているわけです。

 五井先生はいろいろな人に合わせていろいろな表現で書いていますから、五井先生のご本の字句だけに把われると混乱してしまいがちです。それを、私が混乱しないように、よりわかりやすく整理しているわけです。五井先生のご本にある表面の字句すべてを実行しようとすると難しくなってしまいます。


 私の説き方はあまりにも単純で幅広く感じないかもしれませんが、私のような説き方も必要なのです。
 だから、唯一会は白光真宏会とは別の宗教団体として考える、つまり、五井先生のご本の字句を中心とするのではなく、私の解説している五井先生の教えを中心に考えるようにしないと、私については来られないと思います。五井先生の教えを整理して、私はできるだけ矛盾なく、単純に行じられるように、説き方を調整しているのです。

 法然さんだけでいいようだけれど、親鸞さんもいなくては念仏は広まらなかった。法然さんと親鸞さんは肉体としては別人として現われているけれど、ほんとうは一つの仏様が分かれて、別の肉体をもって働かれていたのです。だから、浄土宗と浄土真宗は両方とも必要なのです。
 現在は、みんな五井先生ばかりを見ているでしょう? 私の存在を知りません。しかし、数十年たってゆくと、「法然さんと親鸞さんの二人で一つ」と五井先生がおっしゃっていたように、五井先生と私の二人の教え方を一つの輪の中に入れて見られるようになります。私が「世界平和の祈り唯一行」を発表したことによって、五井先生の教えが確立したのは事実だからです。


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【感謝行について】

 一部には誤解もあるようですが、唯一会では「感謝行をするな」とは言っておりません。唯一会では、もちろん「地球世界感謝行」は致しません。「守護の神霊への感謝の祈り」を繰り返し唱えることも致しません。しかしそれは、「そうした行法をやるな」と言っているわけではありません。個人的にやりたい人は、おやりになって結構なのです。しかし、実際問題として、万物への感謝を私もやったことがありますが、細かく対象を書き出して感謝する行法は、生活に忙しい現代人には合わないと思いますし、少なくとも私はできません。自分にできないことを人に勧める気持ちにはなれないということです。

 たとえば「地球世界感謝行」で感謝する事物だけでは、とても足りません。細かく言い出したらキリがなくなります。「空気さん、水さん、ありがとうございます」と言ったら、「雲さん、雷さん、雨さん、風さん、ありがとうございます」と言わなくては、不公平でしょう? 「産土(うぶすな)の神様、ありがとうございます。氏神様、ありがとうございます」とも言わなくては不公平です。そんなふうに一つ一つ事物をあげて感謝するのは誠に結構ですが、それでは日常生活ができなくなります。仕事も家事もできなくなります。暇な人はできても、忙しい人は、とてもできません。そんなやり方は、現代の大半の人々には合わないのです。そこで、一つ一つに感謝することはよいと分かっているけれども、実際には時間がなくてできないから、守護の神霊への感謝一つにまとめているわけです。


 「世界平和の祈り」は、「世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、私達の天命が完うされますように」という祈り言と、守護の神霊への感謝の祈り言の二種類で構成されています。
 そして、「世界人類が平和でありますように」という祈り言は、「神様、世界人類が平和でありますように、お願いします」という意味ですから、簡単に分類すれば、「世界平和の祈り」は、「神様お願いします」と「神様ありがとうございます」という二つの祈り言で構成されているのです。

 食事の前後や、自宅を出る前、帰宅後、車に乗る前、ちょっと時間に余裕のある時は、「世界平和の祈り」全文を一回唱えます。この時は、もちろん「守護霊様ありがとうございます。守護神様ありがとうございます」と唱えます。また、繰り返し唱える時には、全文では長過ぎて統一しにくいですから、「世界人類が平和でありますように」の一行だけを唱えるという行じ方が、もっとも自然で長続きする楽な祈り方であると思います。
 「世界人類が平和でありますように」の一行の中には、守護の神霊への感謝や宇宙神への感謝も含まれているので、この一行だけでもよいのです。ただ、肉体を持っておりますと、この一行だけでは満足できない感情があります。感情が納得しないと、祈ることができません。そこで、その感情が納得できるように、「日本が平和でありますように」以下の祈り言も必要となるのです。


 「神様ありがとうございます」の心境に至った人は、世界人類の平和を考えずにはいられなくなるものです。「神様ありがとうございます」と心底思う人は、「世界人類が平和でありますように」と祈らずにはいられません。ですから、口先で「神様ありがとうございます」と祈っていても、他人の悪口を言っていたり、「世界人類が平和でありますように」と祈らないのは、本当に神様に感謝する心境には至っていない人なのです。

 なお、「世界人類が平和でありますように」の一行と「守護霊様、守護神様、ありがとうございます」の一行のどちらでも結構なのですが、唯一会の公式行事で繰り返し唱える場合には、個人人類同時成道の祈りであり、人類の合言葉になる「世界人類が平和でありますように」を優先的に行じております。なぜならば、現代は個人の幸せよりも人類の平和のほうを優先しなくてはならない時代であるからです。


 世界人類が全員「神様ありがとうございます」と唱えて下さったら、たちまち私たちの地球は平和になります。でも、現実には「神様ありがとうございます」と人類全員がすぐに唱えられるようになるでしょうか? そうは思えません。ごく一部の人しか唱えることができないと思います。それに対して「世界人類が平和でありますように」の祈り言は、「神様ありがとうございます」よりも、宗教宗派を超えて祈ることができますし、神への信仰心のない人でも抵抗がありません。「神様ありがとうございます」の祈り言よりも、合言葉として早く広がる可能性を持ってます。

 また、「神様ありがとうございます」と心から祈れる人は、「神様お願いします」とことさら思う必要も言う必要もありません。「神様お願いします」という祈り方は、「神様ありがとうございます」と祈れない人のためにあるのです。また、毎回「世界平和の祈り」の前に「神様お願いします」と唱える必要はありません。その意味が分かって習慣になれば、「神様お願いします」は省略して、最初から「世界人類が平和でありますように」とだけ唱えてよいのです。
 唯一会の集会では、「世界平和の祈り」の前に「神様お願いします」という言葉を全員で唱えることはありません。唯一会の集会に毎回参加している人には言うまでもないのですが、集会に参加していない人のために、わざわざこんな説明をしています。「唯一会では『神様ありがとうございます』と言わせないで、『神様お願いします』しか言わせないらしい」と思っている人がいるようですが、それは誤解です。


 神仏への信仰心のある人は、「神様(仏様)ありがとうございます」と素直に祈れますが、信仰心の無い人は、そうした祈り言には抵抗があります。それよりも、神様とも仏様とも言わない「世界人類が平和でありますように」という祈り言のほうが、はるかに普遍的な広がりを持っています。「世界人類が平和でありますように」のほうが、宗教心のある人も無い人も、多くの人々が抵抗なく唱えられる祈り言であるのです。ですから、唯一会での一行の祈りの時には「世界人類が平和でありますように」を繰り返し唱えるようにしているわけです。幾度も言いますが、もちろんこれは守護の神霊への感謝の祈りを否定することではありません。

 なお唯一会では、「五井先生ありがとうございます」という祈りは、ふだんの集会の時は省いておりますが、唯一会の法祖として五井先生を崇めており、唯一会の指導霊として五井先生のご加護とお導きをいただいております。五井先生のお誕生日やご命日には、もちろん「五井先生ありがとうございます」と感謝するように指導しております。


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【形式的な感謝行に潜む欠陥】

 全員とは申しませんが、多くの感謝行を特人たちに見られる傾向として、自分の感謝行を誇っているかのような人が見受けられます。そういう人の感謝行は、そらぞらしい形式的感謝行であり、感謝している自分の心境を誇って見せる、感謝誇りの人としか思えません。そういう人は、「自分の心境はこんなに高いのだ」と誇りたいために感謝をしているのだ、と言ったら言い過ぎになるでしょうか。

 もっとも「神様ありがとうございます」ならば、神様をお呼びしますから、守護の神霊のご加護を得られますが、中には「ありがとうございます」だけで、「神様」と呼ぶことはしない人もいるようです。「神様」を省略しているのでしょうが、それは省略のし過ぎです。「ありがとうございます」だけで悟れるのであれば、スーパーでレジ係をしている店員さんは、「ありがとうございます」を毎日お客さんに向かって繰り返しているのですから、誰よりも早く悟るでしょう。しかし、守護の神霊への感謝が前提にない「ありがとうございます」では、宗教的悟りを得ることはできないのです。


 感謝というのは、人に見せるためにやるのではありません。「自分はこんなに高い心境なのだ」と人に見せるために感謝するのは、感謝誇りといって、それは業からくる虚栄心の変形にすぎないのです。「私は神の子である」という真理の言葉も、真実に神の子の自覚を得た人は別にして、ただ形式的に真理の言葉を唱えるのは、自分の偉さを人に見せたいという虚栄心からきているのです。ですから、形式的にこんな行をやっておりますと、本心が現われるばかりか、虚栄癖という業想念が厚くなってゆくばかりで、本心から遠ざかってしまうのです。そういう人は、なんとなく嘘っぽいような、どこか正直でないような、素直でない、自我の強い雰囲気をかもしだすようになってくるものです。
 感謝行を唱える人自身は立派な人もたくさんいるでしょうが、形式的な感謝行には、そうした欠陥があることを知っておく必要があります。

 自然法爾に湧いてくる感謝こそ真実の感謝であるのです。それは声や口先ではなく、黙っていても行為になって現われてくるものです。先祖霊を含む守護の神霊にご加護を願い、一日に三回でもご加護に感謝し、守護の神霊に世界平和を祈ってゆけば、形式的偽善的に繰り返し感謝をしなくとも、自然に感謝の光が現われてくるのです。


 五井先生も聖者方も守護の神霊方も、「世界平和を祈ってほしい」と私たちに伝えてきています。「世界人類が平和でありますように」と世界平和を祈ることが、五井先生や聖者方や守護の神霊を最も喜ばす行であることは間違いありません。極端にいえば、「神様ありがとうございます」と守護の神霊に感謝を一日に一度もしなくとも、「世界人類が平和でありますように」とだけ唱えていれば、守護の神霊は分かってくれますし、守護の神霊は喜んで下さるのです。
 「世界人類が平和でありますように」という祈り言は、肉体人間の思念の力で平和にするのではなく、「守護霊様、守護神様、お願いします。世界人類が平和でありますように」という意味で祈るのです。したがって「世界人類が平和でありますように」と祈る時、守護の神霊は私たちの心をしっかりと見守って下さいますし、私たちが守護の神霊に感謝する気持ちでいることをよく知っていて下さるのです。

 「神様お願いします」と守護の神霊のみ心の中に入り、「世界人類が平和でありますように、世界人類が平和でありますように」と繰り返し唱え、祈りの最後に「神様ありがとうございます」と感謝でしめくくると祈り方が、現代においては最もやさしい祈り方であると思うのです。
 唯一会の皆さんは、そうしたことを理解して、他の方々にお勧めになっていただければ嬉しく思います。


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【正しい祈り方――生命の宣言と世界平和の祈り】


【ご質問】

 五井先生が祈りについて、次のような法話を書かれています。それについて、どのように解釈されているのでしょうか? お教え下さい。

《祈りということは、自分の生命(いのち)を宣(の)りだすこと、生命(いのち)の宣言ということなのです。「私の生命は神と一つである。神の生命である」という宣言が祈りなのです。自分の肉体頭脳が祈るのではなく、宇宙神にむかって、直霊分霊が、「わたしはあなたと一つです」と宣言するのが祈りです。》(『五井昌久講話集1』白光出版)

《神と肉体人間とを離して考えた時、そこに不安や恐怖が現れてくるのですから、そこで神との一体感になる、祈り心が必要になってくるのです。人間は肉体ではない、神さまの分生命(わけいのち)なのだ、という真理をいつもいつも心に念じるように想って、習慣の想いのようにしてしまうとよいのです。そうしているうちに肉体人間という感じから、神によって生かされている人間という感じになってきます。そうなればしめたものです。》(『運命を恐れるな』白光出版」)


【お答え】

 五井先生のご著書から、自分の考えと合致する箇所を見つけ出し、それについて論議をしますと、お互いの意見が一致せずに平行線になることがあります。その一つの例が、「世界平和の祈り」のような守護の神霊との対話形式の祈り言と、ご質問にあるような真理の宣言形式の祈り言についての議論です。対話形式の祈り言と宣言形式の祈り言の両方を五井先生は説いているために、どちらか一方を否定する意見を持ち出しますと、「五井先生のご著書のここにはこう書いてあるではないか」と、必ず反論されてしまいます。


 対話形の祈り言だけではなく、真理の宣言形の祈り言も結構なのですが、真理の宣言にも二種類があって、現実と矛盾する真理の宣言と、現実に矛盾しない真理の宣言がありまして、私は後者を中庸の真理宣言と呼んで区別しております。そして、理想に偏り現実と矛盾する真理の宣言は否定し、現実と矛盾しない中庸の真理宣言を肯定しています。中庸の真理宣言は信じればよいのですから、行法としては「世界平和の祈り」一つであることに変わりはありません。生命の宣言とは、生命は神ですから、神の宣言という意味になります。


「私は神と一つである」
「私は神と一体である」
「私は五井先生と一つである」

 このような言葉を、自分の部屋で自分一人で宣言するのは気持ちがいいものです。しかし、人々に向かって私が同じ発言をしたら、それを聴いた人はどう思うでしょうか? 私の言葉を聴いて、私に対する信頼をますます強めて下さる人もいるでしょう。しかし、私を信じない人から見れば、「それは思いこみにすぎない」と言うかもしれません。「何を嘘ついているんだ。森島なんか神と一体になんかなっていない。森島が五井先生と一体であるわけがない。五井先生の教えを少しかじった、ただの凡人さ」と言う人もいるでしょう。また、白光真宏会の昌美先生や会員さんが、私に対して「森島さんは神と一体である。森島さんは五井先生と一つです」と宣言して下さるでしょうか。真理から言えばそう言えるはずですが、実際には言えないのではないでしょうか。
 白光真宏会会員で大学時代からの法友に、「人即神也を宣言しているんだったら、私を反逆者と言わないで、森島さん即神也と宣言してみたら?」と言ったことがあります。するとその法友は、「森島さん即神也なんて言えないよ」と言って、私を神のように拝んではくれませんでした。儀式として形式的に行なったり、観念的には「人間はみな神の子である」とは言えますが、いざ現実の人間を前にすると、このように真理の言葉を言えなくなるのです。これが現実です。観念的には真理を思えるのですが、その真理を行動に現すことは難しく、現実に生かせない観念論になってしまいがちです。

 「私は神と一つである」「私は神の生命である」と自分一人で宣言していると、初めは気分が高揚します。しかし、しばらくすると、「本心の自分と肉体の自分は違うのだ。これは本心の自分が宣言しているのだ」と分けて考えていても、完全円満な神の行為と肉体の自分の行為があまりにも隔たりがあることに気づいてきます。そして、正直な人は自己嫌悪に陥るか、現実の不完全な自分をごまかして、「自分は完全な神である」と無理に思いこもうとします。すなわち、偽善者になってしまうのです。「『私は神である』という言葉は、自分一人で唱える言葉であり、人に向かって唱える言葉ではない」と説く人もいますが、人に隠れるようにして自分一人でひそかに言わねばならない宣言では、どんなに善い宣言でも、とても多くの人に力強く広まってゆくとは思えません。


 五井先生の上記の文章を、私は字句通りに解釈しません。「本来」という言葉を省略した文であると私は解釈します。ここが見解の分かれるところだと思います。「どちらが正しいのか?」と、五井先生の真意について議論をしますとキリがありません。ここから先は、五井先生の教えではなく、私の解説としてお読み下さい。


「本来、私は神と一つである」(真我は神と一つである)
「本来、私は神と一体である」(真我は神と一体である)
「本来、私は神の分生命なのだ」(真我は神の分生命なのだ)

 このように信じて、守護の神霊への全託の祈りである「世界平和の祈り」をすれば、現実とも矛盾しませんし、五井先生の教義と矛盾しません。この中庸の真理宣言は信じるだけでよく、行のようにくりかえし唱える必要はありません。信じた後は、肉体人間側から守護の神霊に向かってお願いする形で「世界人類が平和でありますように」と祈ればよいのです。そうしていれば、いつしか自然に、自分が神と一体であり、神と一つのものであることが自覚できるようになるからです。


 省略されている「本来」の言葉を加えて信じるならば、現実と矛盾しませんから、自己嫌悪に陥らなくてすむし、現実の不完全な自分に嘘をついて偽善者にならなくてすみます。「あの人は凡人以下なのに神の子のふりをしている」と、人から蔑まれることもありません。

 時間の要素を加えた真理の宣言を、中庸の真理宣言と言います。しかし、この中庸宣言だけでは人間は救われません。肉体を持つ人間には、守護の神霊の温かい救いの手がどうしても必要なのです。守護の神霊によって、人間は真に救われるのです。それを具体的に行にしたのが「世界平和の祈り」です。
 「世界人類が平和でありますように」と祈っているほうが、「本来の私は神と一体である」と宣言するよりも、ずっと謙虚に見えますし、人間の感情が納得します。この納得できる祈り方が大事なのです。肉体感情が納得できない祈り方は長続きしないからです。「世界人類が平和でありますように」と祈り続けてゆけば、想念波動が変換して、「今、私は神と一体である」と自然に思える日がやってきます。その時こそ、声高らかに、誰にも遠慮せずに、「我は神なり」と宣言なさったらよいでしょう。今は「世界平和の祈り」に専念するべき時代であるのです。


【まとめ】

  • 生命の宣言とは、生命は神であるから、神の宣言という意味である
  • 五井先生は「本来」という言葉を省略して書くことがある
  • 五井先生の字句についての解釈は人によって異なることがある
  • 「現在、人間神の子論」は観念的になりやすく、実際には思えない
  • 「真理の宣言」には、「理想偏重真理宣言」と「中庸真理宣言」という二種類の宣言がある
  • 「理想偏重真理宣言」は現実と矛盾し、「中庸真理宣言」は現実と矛盾しない
  • 「人間は本来、神の分霊である」は「中庸真理宣言」の一つである
  • 「中庸真理宣言」はくりかえし唱える必要はなく、信じればよい
  • 「世界平和の祈り」の前提に「中庸真理宣言」が含まれている
  • 「世界平和の祈り」だけを祈れば、人間は神性を顕現できるようになる
  • 「世界平和の祈り」は謙虚な表現であり、人々から好感を持たれる
  • 「世界平和の祈り」は人間の感情が納得できる祈り方である
  • 今は「世界平和の祈り」に専念するべき時代である

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【愛によって真に救われる】


□【昌美先生の解釈が変わってきた我即神也】

 「我即神也は、教義『人間は本来、神の分霊である』と同じ意味なのですか?」というご質問があったので、ここで簡単に述べることにいたします。結論から申し上げれば、その二つの言葉は違う意味であるのです。それを解説しましょう。


 白光誌(2004年11月号p.20)に、昌美先生は次のように書かれています。

 「人類即神也」…人間は本来、神である。人間とは、本質的に神である。人間は本来、神の分霊であり、宇宙神と、宇宙神のエネルギーの要素であり、その一部である。(以上、一部抜粋)

 昌美先生がそのような意味で用いられるならば、「本来、我即神也」「本来、人類即神也」と書き直すべきであると思います。また、そうであるならば、五井先生のお書きになった「人間と真実の生き方」(教義)と同じなのですから、ことさら「これは五井先生の時代には出せなかった究極の新しい宣言文です」と宣伝するのは大げさです。

 昌美先生の最近のご説明は、「我即神也」を宣言し始めた初期の頃とはずいぶん説明が異なってきました。昌美先生の初期の頃は、「悪は無い。病気は無い。不幸は無い。消えてゆく姿の教えはもう古いのだ。消えてゆく姿も無いのだ。我即神也と宣言する時代になったのだ」という強い調子で説かれたように記憶しております。すなわち、「現在、我は神そのものである」という意味で昌美先生は発表されたはずです。
 また、「人類即神也」も、「今現在、人類は神そのものである」という意味で真理を宣言なさったはずです。それでなければ、「五井先生の時代にはなかった新しい行法である」とわざわざ銘打って発表する意味がありません。「人間は本来、神の分霊である」という教義と同じ意味で宣言するならば、「本来、我即神也」と言うべきです。あるいは「真我即神也」と言うべきです。それならば、現実の姿と矛盾しませんから正しいのです。


□【現実と矛盾する真理の言葉は無理】

 昌美先生は当初、真理の言葉を打ち出したものの、現実との矛盾に耐えきれなくなり、「我即神也」の解釈を今になって五井先生の教義に合わせてきたことは明らかです。教義と同じであるならば、わざわざ難しい漢字で表現するよりも、漢字とひらがな混じりのやさしい日本語で書いたほうがよいのではありませんか? 


 現実を無視して真理の言葉を宣言していても、長続きはしません。次第に真理の言葉を唱えることに疲れてくるか、自己を欺瞞して現実逃避に陥ってきたりするからです。「この世の中のすべての苦悩は、現われれば必ず消えるものである」という中庸の真理宣言があるのですから、この宣言を使えば現実と矛盾しないのです。ところが、真理に把われ、「消えてゆく姿」の教えを無視して、「我は神なり」という真理を宣言したために、現実と矛盾するようになってしまいました。

 「我即神也・人類即神也」とは、「(すでに今)私は神である・人類は神である」という意味です。「私は神である・人類は神である」とは、神はすなわち平和であるのですから、「世界人類は平和である」と断定的に宣言することと同じです。
 それでは、「世界人類が平和でありますように」と「世界人類は平和である」の言葉は、同じ意味なのでしょうか? 

 この両者は理想とするものは共通しておりますが、「世界人類が平和でありますように」のほうは現実と矛盾しないのに対して、「世界人類は平和である」のほうは現実と矛盾しているではありませんか? 同じく「私は神である」も「人類は神である」も、現実に矛盾した言葉です。これを真理に偏った言葉というのです。現実を無視した、現実に矛盾した言葉であるために、どんなに真理の言葉を唱えていても、真理と現実とがつながらず、理想が現実に現われてはきません。


□【理想と現実を結ぶ中庸の真理と「世界平和の祈り」】

 理想と現実の両方に矛盾しない真理の言葉とは、「今、不完全な姿(業想念)は存在するけれども、それは時間がたてば消えてゆく姿である。今の人間は不完全な姿であるけれども、時間がたてば、その不完全な姿は消えてゆき、人間は神の子の本心を顕すようになるのだ」という中庸真理の言葉です。

 「消えてゆく姿」の無い真理の言葉の宣言は、現実と矛盾するために、どうしても現実に無理が生じて、真理が現実化することはありません。五井先生は「消えてゆく姿のない実相論では救われない」と説かれました。五井先生がせっかく「消えてゆく姿」の教えを説かれたのに、その貴重な教えを軽視して、生長の家と同じように「我即神也・人類即神也」(これは「私は神の子である、悪は無い、不幸は無い、病気は無い」と断定するのと同じです)と昌美先生が説くようになってしまったことは、かえすがえすも残念なことです。


 「我即神也」と、「本来、我即神也」「真我即神也」とは違います。また、「本来、私は神の分霊である」という教義の言葉は、信じればよいのであり、力んで繰り返し唱える必要はありません。「教義の言葉と祈り言の両方を繰り返し唱えなくてはならない」と思う必要はありません。繰り返し唱える行としては、「世界平和の祈り」だけでよいのです。「世界平和の祈り」さえ唱えていれば、誰もが自然に人間神の子を実観できるようになるからです。

 現実と矛盾し、現実から遊離した真理の言葉を唱えていても、一時は真理の言葉に陶酔し、現実から逃避できますが、いずれは真理と現実の矛盾に悩み苦しむようになります。理想と現実の矛盾した二元論を抱えたまま生きることになります。現実逃避の真理の言葉よりも、中庸の真理の言葉のほうが納得できますが、その中庸の真理の言葉をもってしても、それでもまだ人間の感情は満足できません。なぜでしょう? 
 それは、人間は自分や家族を温かく守り導いて下さる守護の神霊の存在を欲しているからです。計り知れない優れた叡知と深い愛情で見守って下さる守護の神霊の存在が人間には必要です。真理の言葉によって、人間は救われるのではありません。人間は愛によって真に救われるのです。「世界平和の祈り」を祈るとき、私達は守護の神霊の深い愛を感じて、心に光明が輝くのです。


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2010.5.10 ページトップへ

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