【正しい祈り方――生命の宣言と世界平和の祈り】
【ご質問】
五井先生が祈りについて、次のような法話を書かれています。それについて、どのように解釈されているのでしょうか? お教え下さい。
《祈りということは、自分の生命(いのち)を宣(の)りだすこと、生命(いのち)の宣言ということなのです。「私の生命は神と一つである。神の生命である」という宣言が祈りなのです。自分の肉体頭脳が祈るのではなく、宇宙神にむかって、直霊分霊が、「わたしはあなたと一つです」と宣言するのが祈りです。》(『五井昌久講話集1』白光出版)
《神と肉体人間とを離して考えた時、そこに不安や恐怖が現れてくるのですから、そこで神との一体感になる、祈り心が必要になってくるのです。人間は肉体ではない、神さまの分生命(わけいのち)なのだ、という真理をいつもいつも心に念じるように想って、習慣の想いのようにしてしまうとよいのです。そうしているうちに肉体人間という感じから、神によって生かされている人間という感じになってきます。そうなればしめたものです。》(『運命を恐れるな』白光出版」)
【お答え】
五井先生のご著書から、自分の考えと合致する箇所を見つけ出し、それについて論議をしますと、お互いの意見が一致せずに平行線になることがあります。その一つの例が、「世界平和の祈り」のような守護の神霊との対話形式の祈り言と、ご質問にあるような真理の宣言形式の祈り言についての議論です。対話形式の祈り言と宣言形式の祈り言の両方を五井先生は説いているために、どちらか一方を否定する意見を持ち出しますと、「五井先生のご著書のここにはこう書いてあるではないか」と、必ず反論されてしまいます。
対話形の祈り言だけではなく、真理の宣言形の祈り言も結構なのですが、真理の宣言にも二種類があって、現実と矛盾する真理の宣言と、現実に矛盾しない真理の宣言がありまして、私は後者を中庸の真理宣言と呼んで区別しております。そして、理想に偏り現実と矛盾する真理の宣言は否定し、現実と矛盾しない中庸の真理宣言を肯定しています。中庸の真理宣言は信じればよいのですから、行法としては「世界平和の祈り」一つであることに変わりはありません。生命の宣言とは、生命は神ですから、神の宣言という意味になります。
「私は神と一つである」
「私は神と一体である」
「私は五井先生と一つである」
このような言葉を、自分の部屋で自分一人で宣言するのは気持ちがいいものです。しかし、人々に向かって私が同じ発言をしたら、それを聴いた人はどう思うでしょうか? 私の言葉を聴いて、私に対する信頼をますます強めて下さる人もいるでしょう。しかし、私を信じない人から見れば、「それは思いこみにすぎない」と言うかもしれません。「何を嘘ついているんだ。森島なんか神と一体になんかなっていない。森島が五井先生と一体であるわけがない。五井先生の教えを少しかじった、ただの凡人さ」と言う人もいるでしょう。また、白光真宏会の昌美先生や会員さんが、私に対して「森島さんは神と一体である。森島さんは五井先生と一つです」と宣言して下さるでしょうか。真理から言えばそう言えるはずですが、実際には言えないのではないでしょうか。
白光真宏会会員で大学時代からの法友に、「人即神也を宣言しているんだったら、私を反逆者と言わないで、森島さん即神也と宣言してみたら?」と言ったことがあります。するとその法友は、「森島さん即神也なんて言えないよ」と言って、私を神のように拝んではくれませんでした。儀式として形式的に行なったり、観念的には「人間はみな神の子である」とは言えますが、いざ現実の人間を前にすると、このように真理の言葉を言えなくなるのです。これが現実です。観念的には真理を思えるのですが、その真理を行動に現すことは難しく、現実に生かせない観念論になってしまいがちです。
「私は神と一つである」「私は神の生命である」と自分一人で宣言していると、初めは気分が高揚します。しかし、しばらくすると、「本心の自分と肉体の自分は違うのだ。これは本心の自分が宣言しているのだ」と分けて考えていても、完全円満な神の行為と肉体の自分の行為があまりにも隔たりがあることに気づいてきます。そして、正直な人は自己嫌悪に陥るか、現実の不完全な自分をごまかして、「自分は完全な神である」と無理に思いこもうとします。すなわち、偽善者になってしまうのです。「『私は神である』という言葉は、自分一人で唱える言葉であり、人に向かって唱える言葉ではない」と説く人もいますが、人に隠れるようにして自分一人でひそかに言わねばならない宣言では、どんなに善い宣言でも、とても多くの人に力強く広まってゆくとは思えません。
五井先生の上記の文章を、私は字句通りに解釈しません。「本来」という言葉を省略した文であると私は解釈します。ここが見解の分かれるところだと思います。「どちらが正しいのか?」と、五井先生の真意について議論をしますとキリがありません。ここから先は、五井先生の教えではなく、私の解説としてお読み下さい。
「本来、私は神と一つである」(真我は神と一つである)
「本来、私は神と一体である」(真我は神と一体である)
「本来、私は神の分生命なのだ」(真我は神の分生命なのだ)
このように信じて、守護の神霊への全託の祈りである「世界平和の祈り」をすれば、現実とも矛盾しませんし、五井先生の教義と矛盾しません。この中庸の真理宣言は信じるだけでよく、行のようにくりかえし唱える必要はありません。信じた後は、肉体人間側から守護の神霊に向かってお願いする形で「世界人類が平和でありますように」と祈ればよいのです。そうしていれば、いつしか自然に、自分が神と一体であり、神と一つのものであることが自覚できるようになるからです。
省略されている「本来」の言葉を加えて信じるならば、現実と矛盾しませんから、自己嫌悪に陥らなくてすむし、現実の不完全な自分に嘘をついて偽善者にならなくてすみます。「あの人は凡人以下なのに神の子のふりをしている」と、人から蔑まれることもありません。
時間の要素を加えた真理の宣言を、中庸の真理宣言と言います。しかし、この中庸宣言だけでは人間は救われません。肉体を持つ人間には、守護の神霊の温かい救いの手がどうしても必要なのです。守護の神霊によって、人間は真に救われるのです。それを具体的に行にしたのが「世界平和の祈り」です。
「世界人類が平和でありますように」と祈っているほうが、「本来の私は神と一体である」と宣言するよりも、ずっと謙虚に見えますし、人間の感情が納得します。この納得できる祈り方が大事なのです。肉体感情が納得できない祈り方は長続きしないからです。「世界人類が平和でありますように」と祈り続けてゆけば、想念波動が変換して、「今、私は神と一体である」と自然に思える日がやってきます。その時こそ、声高らかに、誰にも遠慮せずに、「我は神なり」と宣言なさったらよいでしょう。今は「世界平和の祈り」に専念するべき時代であるのです。
【まとめ】
- 生命の宣言とは、生命は神であるから、神の宣言という意味である
- 五井先生は「本来」という言葉を省略して書くことがある
- 五井先生の字句についての解釈は人によって異なることがある
- 「現在、人間神の子論」は観念的になりやすく、実際には思えない
- 「真理の宣言」には、「理想偏重真理宣言」と「中庸真理宣言」という二種類の宣言がある
- 「理想偏重真理宣言」は現実と矛盾し、「中庸真理宣言」は現実と矛盾しない
- 「人間は本来、神の分霊である」は「中庸真理宣言」の一つである
- 「中庸真理宣言」はくりかえし唱える必要はなく、信じればよい
- 「世界平和の祈り」の前提に「中庸真理宣言」が含まれている
- 「世界平和の祈り」だけを祈れば、人間は神性を顕現できるようになる
- 「世界平和の祈り」は謙虚な表現であり、人々から好感を持たれる
- 「世界平和の祈り」は人間の感情が納得できる祈り方である
- 今は「世界平和の祈り」に専念するべき時代である
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