【現実の人間は
実際に守護の神霊に一分の隙もなく護られているか?】
【ご感想-1】
五井先生が「神との一体観」の必要性をしきりに強調なさっていたことはどなたもご存知のことでしょうが、私は五井先生の言われる「神との一体観」は「守護の神霊との一体観」を言われているものと考えています。それに対して、多くの方は守護の神霊の加護を度外視した意味での神我一体を言われているように思います。以前にもある方がこの問題について書き込みをしていましたが、たとえば「私は守護の神霊と一体なんだ、世界人類が平和でありますように」という五井先生の教え方は、「守護の神霊が私たちを一分の隙もなく(つまり、その意味で私たちと一体になって)護っていて下さるんだ」という“信念”(=信仰心)を強く打ち出させようとした祈り方だろうと思います。その意味で言えば、誤解はされやすいにせよ、「神様お願いします」の祈り方とどこも矛盾はしないはずです。五井先生在世当時の信者さんにとっては、このような感覚(=信仰心)は多分当たり前のことだったのではないでしょうか? そのため、五井先生が「本来」の語を省略されて神我一体観を説かれても、さしたる問題もなかったのではないかと思うのです。
五井先生の神我一体観に「本来」の語が省略されているのは森島先生のご説明の通りだと思いますが、もしも五井先生の言う神我一体観が守護の神霊との一体観を意味するならば、守護の神霊は「今現在」一分の隙もなく私たちを護っていて下さるのですから、上にも書いた通り「本来」の語が省略されていても特に問題はなかったのかも知れません。然るに、昨今のように守護の神霊の加護を度外視した神我一体観が説かれるようになりますと、これは「本来」の語をきちんと入れて説明しないと大変な誤解を生む因になるのだろうと思うのです。
【お答え-1】
非常に興味深く読ませていただきました。あなたのお考えに間違いはありませんが、参考までに少し補足しておきます。
厳密にいえば、次のように「本来」の言葉を入れて信じたほうが、誤解を生じさせなくてよいと思います。
「本来、私は守護の神霊と一体なんだ」
「本来、守護の神霊が私たちを一分の隙もなく護っていて下さるんだ」
なぜならば、実際には守護の神霊と一体となっている人は、ほとんどいないからです。守護の神霊が一分の隙なく守っていて下さる人も、ほとんどいないのです。守護霊が離れている人が多く、守護霊が加護していない人が多いのです。ですから、事件や事故が多いわけです。守護霊と一体になって動き、守護霊に完全に護られている人は、ケガもありませんし、事故にも遭いません。
たとえば、わざわざ政情不安な紛争地域へ出かけて行った日本人青年が惨殺される事件が何年か前にありましたが、その青年は守護の神霊によって一分の隙なく護られていたと思われますか? 守護の神霊に護られていたのであれば、あんな無残な形で殺されるはずがないではありませんか? 愛と叡知に満ちた守護霊と一体であれば、わざわざ危険な紛争の地に行くはずがないでしょう?
残念ながら、守護の神霊が「今現在」一分の隙もなく私たちを護っていて下さる状況にはなっていません。現在の地球界では、守護の神霊と一体になっている人はほとんどいないのが現実です。守護の神霊によって一分の隙なく護られている人は非常に少ないのです。これが現実です。
ですから、「本来は守護の神霊によって私たちは護られている。本来は守護の神霊と私たちは一体であるのだ。しかし、守護霊との間に業波動があるために、守護霊の加護力が業波動によって妨げられてしまい、守護霊の加護の力が弱まってしまっているのだ」と考えたほうが、今の状況では正しいのです。
「私は守護の神霊と一体なんだ」
「守護の神霊が私たちを一分の隙もなく護っていて下さるんだ」
と、どんなに強く信じたところで、実際には守護の神霊と一体ではなく、守護の神霊に護られているわけではありません。そう信じても、守護霊と一体にはなれませんし、守護霊に護られるようにはなりません。そこで、次のような祈り方をしたほうが効果的であり安全であると私は説くのです。
「守護霊様、あなた様と私が一体でありますように」
「守護霊様、私たちを護りたまえ」
このような祈りをしておりますと、守護霊との交流がスムーズにゆくようになり、守護霊と自分との間が近づいてきて、「私は守護の神霊と一体である」「私は守護霊によって護られている」という実観が自然に湧いてきます。ですから、本来の実相を信じたら、現実との差を直視して、守護の神霊に向かって謙虚にご加護を願って祈るほうが、早く守護の神霊と一体になれ、強いご加護を得られると私は説いているのです。
守護の神霊にご加護を祈るときは、すでに無意識のうちに守護霊が加護して下さっていることを信じているのですから、守護の神霊にご加護を祈りながら、同時に「私は守護霊に護られている、護られている」と信じる必要はありません。
「世界人類が平和でありますように」と私たちが祈るときには、無意識のうちに私たちは守護の神霊を信じているのですし、無意識のうちに自分が神の分霊であることを信じているのですし、業が消えてゆき、世界が平和になることを無意識のうちに信じているのです。ですから、「世界平和の祈り」を素直に祈ることができる人は、もうことさら信念の言葉を唱える必要はない、というわけです。
【ご感想-2】
五井先生が「人間は本来、神の分霊であること」と「守護の神霊の加護」を教義の一行目で説かれていることは重要に思います。森島先生の教えて下さった通り、この2つは信じるべき事柄であって、行じるべき事柄ではありません。要するに五井先生のみ教えでは、守護の神霊の存在と共に「神との一体観」も信じるべき事柄だったのではないかと思うのです。
【お答え-2】
「本来は私たちは神と一体である」と信じるべきです。そして現実は、業波動によって守護の神霊と私たちの間は離れており、守護の神霊のご加護の力は私たちに完全には及んでいないと知って、守護の神霊に祈りを捧げる必要がある、と知るべきです。
このように教えませんと、「私は守護霊と一体だから、私の行為は正しいのだ」と思って、実際は守護霊の心と離れた業の行為をしたり、「私は守護霊に護られているから、何をしても安全なのだ」と錯覚して無謀な行為をする人が出てきてしまう危険があります。
「真理としては、私たちは守護の神霊と一体であるし、私たちは守護の神霊に護られているのです。しかし、現実には守護の神霊と私たちの間に業が存在しています。守護の神霊からくる光明波動が、その業波動によって妨げられてしまうために、現実の私たちは守護の神霊と一体にはなっていません。その業波動のために、私たちは守護の神霊に完全には護られていない状況にあるのです。守護の神霊と一体になり、守護の神霊のご加護を得るには、お祈りする必要があります」と説明してあげたらいいでしょう。
五井先生の言葉を字句通りに実行しようとすると、かえって思わぬ危険な目に遇う場合も出てきます。五井先生の言葉は尊重し、大事にしなければなりませんが、時には字句に把われずに、五井先生の真意を大胆に汲み取る必要があります。そのために私が存在しているわけです。
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