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世界人類が平和でありますように
ようこそ!全託道場へ
 神奈川集会で使用した勉強用テキストをUPしました。全て森島先生の過去ログから編纂した貴重な資料です。
 2010年1月の神奈川集会で使用したテキストです。五井先生のみ教えの理解のための参考資料としてご利用下さい。
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全託道場山門 私たちの《信条》 神奈川集会テキスト[目次] 10年1月テキスト
世界平和の祈りに全託してゆくことが、今日の世界にとって、一番大事なのです。
(五井先生最後のお言葉)
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Explanation★ 私たちの《信条》

世界人類が平和でありますように

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神奈川集会テキスト録03:
人間は本当に神様に護られているのか? 
〜真理への把われと守護の神霊の加護〜

(2010年1月17日)


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【目次】



【超常識の生活――五井先生の教えの神髄】

 五井先生の教えは、非常識な行動をとらずに、常識的な当たり前の生活をしながら常識を超えてゆく。それは、奇異な行動をとらずに世界平和の祈りを祈ってゆくということです。
 世界平和の祈りを祈るという行為は、いずれはすべての人々がすることになります。その時は常識となるのですが、現在はまだやっている人は少ないです。まだほとんどの人はやっていませんから、常識を超えた超常識の行為です。普通いわゆる常識人というのは、宗教のことはあまり深くありませんから、世界平和の祈りを祈ると言いますと、ちょっと変わっている人間に思われるかもしれません。だけど、世界の平和を祈る行為は非常識ではありません。

 非常識ではない、だけど常識人とはちょっと異なったよいこと、神様のみ心にかなった行為をしている。それを超常識というふうに言います。私たちは超常識の生き方をしているわけです。


 五井先生の教えの本当にいいところは、日々を当たり前に常識的に生きることができることです。時々テレビとか新聞などで非常識な行動が目につく宗教団体もありますけれど、世間から批難されたり、ワイドショーに取り上げられて、批判のまなこを向けられるというのは、どこか常識ではない非常識な言動があるからです。そういう宗教に対する批判は、この数年ずいぶん続いており、そのために真実の宗教までもが信用を失いつつあります。
 数年前に問題になったのは、霊感商法とマスコミに言われますが、高価な物を売りつけてお金を集めたり、信者を無理に獲得しようとして、信者が少しでも出てゆきそうになると、「罰が当たる」と脅したりする。それから、異様な格好をして街を歩いたり、人の迷惑を省みないで非常識な行動をとる。そうした宗教団体は、必ずといっていいほど、世間やマスコミから批判されたり糾弾されたりします。

 話の内容にしても、普通の当たり前の人と同じような会話ができるということも、五井先生の教えの優れた特長です。たとえば、雨や雪が降ったりして嫌な天気のときもあります。五井先生の教えを信仰している人は、そのときに「嫌な天気ですね」と言われたら、「嫌な天気です」と答えることができます。ところが、「明るく善い言葉のみを使わなくてはいけません。悪い言葉は決して使ってはいけません」と教える宗教をやっている人は、当たり前の返事ができなくて、「いや私は嫌ではありません」と言ったり、「私はマイナスの言葉を絶対に使いません。どんなお天気に対しても、ありがとうございますと私は言います」と、変な受け応えをしてしまう。宗教をかじった人によくあるのです。風邪をひいたら、「風邪をひきました」と言うのは常識人です。だけど、光明の言葉、つまり真理の言葉に把われてしまうと、風邪をひいていることが、「いかにも自分の心境が低く見られるのではないか」と思って、それを隠したりする。それで正直に話ができなくなってしまうのです。
 宗教をやれば、虚栄を張らずに、もっと正直に、もっと楽に生きることができるはずなのに、自分を正直にさらけ出せない、偽善的なものになりやすいのは、その宗教のどこかが誤っているからです。五井先生の教えは当たり前に生きられます。なぜ当たり前に生きられるかというと、それは「消えてゆく姿」の教えがあるからです。宗教というのは、真理を教えることでしょう? だから、常識的なことを教えているのではないのです。真理というものは常識を超えたものなのですから、どうしても会話だって、普通人に対して真理の言葉を語れば、「あの人は現実離れした人だ」と、変な人に見られます。その点、五井先生の教えは「消えてゆく姿」の教えがありますから、真理に把われることなく、常識的に現実的な会話ができますから、「ああ、いい感じの人だな」と思われます。

 たとえばイラクで戦争がある。アメリカが終結宣言をしても、なおかつテロリストたちによって人々が殺されたりする、そういう現実がある。それは「善」ですか? 「悪」ですか・・・? そうです、「悪」です。もちろん「悪」ですね。だけど、宗教に凝り固まっている人は、ともすると、そういうものも目をふさいで見ないようにするわけです。現実の戦乱を無視して、「宇宙は美しく調和している、世界はすべて善で調和している」と本に書いている人もいます。
 「この世に戦争はないんだ! 病気も不幸も一切ない! この宇宙はすべてが整い、調和に満ちているんだ!」と言うとカッコいいですよね! 「あの人は現実を超越した高い心境にある」と人に見られると思うと、虚栄心が満たされて嬉しい。真理の言葉だから快いということもあります。自分の心境が高くなった気がして陶然とします。だから、どうしても真理に傾きやすいのです。五井先生が体験されて知ったことは、真理に酔ってしまって現実を見失ってしまう、そういう欠陥を知らずに、真理を得々として説いている宗教者が多いという事実です。


 「私は天と地をつなぐ者である。つまり、真理の理想と地の現実を結ぶのが私の役目なのだ。今までの宗教者は高い理想ばかりを説くだけだったから、地にいる人々が真理に手が届かずに救われなかったのだ。だから、私は天の理想と地にいる人類を結びつけるために、天と地をつなぐ者となるのだ」と五井先生は自覚され、消えてゆく姿の教えを始められたのです。

 「消えてゆく姿の教え」は、どういう教えかというと、まず「現実の人間は不完全である」と、現実のありさまを正直に認めます。「現在の地球人類は神の子ではない。神の子というのは、とんでもない話で、動物以下のふるまいをする人間がたくさんいる。それが今の地球人類の現実の心境なのだ」と事実を認めなくてはなりません! 現実の人間を直視しなければなりません!

 もちろんそれだけでは、宗教をやっていない人でも、現実主義者は誰でも思うことです。当たり前の考え方ですけれど、しかし、真理に把われた信仰者は、真理への把われを放すために、一度現実を直視する、現実に立ち返る必要があります。現実の存在を認めて、その上で、「今起きているイラクの戦争や紛争、悪や不幸、苦しみや悩みは、すべて消えてゆく姿であって、消えてゆくんだ! そして、消えた後には何が現われるかというと、何もないのではなく、人間の本来の神の子の神性、人間本来の仏性というものが必ず顕現されて来る。だから、どんな困難な事態に直面しても、人類は決して悲観してはいけない。希望を持って生きるのだ!」と、未来の神の子の姿を肯定するのです。

 消えてゆく姿の教えは、「カルマは無い」とか「悪は無い」とか「病気はない」と即時に否定するのではなくて、「消えてゆくにつれて本心が現れて来るんだ」というふうに、現実の業の存在を一時的に認めつつも、時間の要素を含めて段階的に否定してゆき、未来における神性顕現を全肯定する教えです。これならば当たり前に普通の人と会話できますでしょう? 現実の言葉と真理の言葉は、そのままでは矛盾します。「現実と真理は矛盾しない」と言う人がいますが、それは嘘です。現実と真理が矛盾しないわけがありません。
 ところが、時間の要素を入れますと、現実の言葉と真理の言葉の間に矛盾がなくなります。これはじつに不思議です。教えられれば、「なあんだ、そんなことか。そんなことくらい、教えられなくても私にも分かるさ。私にも教えられる」と言う人がいるかもしれません。しかし、こんな簡単な原理にも拘わらず、今まで誰も気づかなかった。それも不思議です。現実と真理の矛盾は、宗教界の大命題だったのです。誰もこの謎を解明できなかった。その謎を、五井先生は「消えてゆく姿」という教えをもって初めて解き明かした方なのです。


 ですから、「消えてゆく姿」の教えは、ただ易しいだけの古い教えではない。「悪は無い、病気は無い、不幸は無い」と業を断定する教えよりも劣った教えではありません。「悪は無い、病気は無い、不幸は無い」と断定する教えのほうが未熟で劣っているのです。「消えてゆく姿の教えはもう古い。今の時代は、悪は無いと宣言する時代に入ったのだ」と説く宗教者がいますが、とんでもない錯覚です。「消えてゆく姿」の教えは最も新しい完全な中庸の教えであり、五井先生の教えの神髄であり、素晴らしい素晴らしい教えであるのです。


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【真理の言葉に把われずに神様に祈りを捧げよう】

 私は、真理は真理としてお話することがあっても、真理を念じるようにお話したことは一度もありません。たとえば「神は必要なものを与えてくださっている」という言葉は、真理としてお話することがあっても、「神は必要なものを与えてくださっている、必要なものを与えてくださっている」と念じたり、強く思うように教えたことはありません。そのような信仰を教える人もいますが、私は神へのお祈りを教えるだけで、高い真理の言葉を宣言するようには教えてはいません。

 ごく少数の人を除いて「必要なものを与えられていない」のが、現実のほとんどの人間の姿です。真理としては、神は必要なすべてのものを人間に与えて下さってはいるのですが、現実のほとんどの人間は必要なものを得てはいません。現実のそうした事実を隠蔽するかのように、「神は必要なものを与えてくださっているのだ、与えて下さっているのだ」と無理に思う必要はありません。正直に「私に必要なものは与えられていないのだ」と、現実を認めてくださってかまいません。
 なぜかと申しますと、神界から肉体界への光が途中にある幽界の業想念に邪魔されて、真理がそのまま現実に現れていないからです。業想念の存在に妨げられて、現実には「必要なものは与えられていない」状況になっています。これは、「神さまに守られている」という真理においても同じことが言えます。守護霊に完全に守られている人はごく少数であって、ほとんどの人は業想念の厚い層に妨げられていて、守護の神霊の加護の力が充分に及んでいません。守護霊が守ってくださっているのは事実なのですが、その守りの力が業想念に妨げられて肉体人間に百パーセント届かないために、ケガにあったり、ときには殺されたり、病気になったりするのです。そこで、守護霊に加護をお願いしながらも、知恵を働かせ、自分の身を守るように努力する必要があるわけです。


 真理の言葉に把われている人は、業想念の存在を知らなかったり、業想念の力をあまりにも軽視しています。業因縁の転回の凄まじさは、真理の言葉を唱えたくらいで簡単に消えるような、そんな生易しい存在ではありません。真理の言葉を唱えれば簡単に業因縁を乗り越えられる、と業の力を甘く見くびっておりますと、守護の神霊の加護を求める祈りが薄まってゆき、かえって真理が現れません。守護霊の存在の必要性を弱める真理の言葉への把われは危険と言っても言い過ぎではありません。真理の言葉に酔いしれていないで、守護の神霊に助けを求めなくてはなりません。

 神は必要なものを人間に与えようとして下さっていますが、業想念に妨げられて、現実には必要なものが充分に得られていません。その現実を認め、守護の神霊に求める心を失わずに、守護の神霊に加護を願い、肉体人間自身も自己のできる範囲で、必要なものを得られるように努力してゆく必要があります。その努力とは、特別に変わったことではありません。病気を治すために医師は治療法を研究し、病気になった人は病院へ行き、欲しい物があったら正しい手段で得る努力をし、苦しみや悲しみや貧しさから脱出するように努力をし、多くの人のために尽く努力をすることです。
 もっとも、自分ではまじめに努力をしようとしても、努力する気力が湧いてこなかったり、努力しようにも努力する方法が分からない、という人もいると思います。初めから努力しようとしないのはだめですが、努力しようとしても努力できないのでは、これは諦めるしかありません。努力できない人を責めるつもりはありません。このような人は、この世の幸福を得ようとすることを一度諦めることです。「この世では一生まるまる苦しんでもいいから、永遠の幸せを得よう」と思って、神への祈りに生涯を捧げる覚悟をするのです。そういう人は諦める努力ならば、それはできるはずです。

 宗教は医学ではありません。「お祈りをすれば病気が治る」と私は言ったことはありません。病気が原因で不幸になっているならば、お祈りで病気を治そうとするのではなく、医学によって病気を治さなくてはなりません。病気については、医学の進歩によって、いずれは解決される時代がやってきます。すべての人が健康体になる時代がやがて訪れます。すべての病気が消え去る時代が必ずきます。


 祈りの目に見える効果を期待し、あまりにも現世利益を期待しすぎておりますと、なかなか利益が現れない現実に心が疲れてしまい、かえって祈りの力に失望したり、神への信仰を失ったりするものです。美しい歌声を聴いて心が浄まるように、美しい祈り声によって心が浄まれば、それだけで充分と思ったほうが長続きします。また、現在の現象だけを見て、その人の心境や人格を判定する癖はつけてはなりません。不完全な業想念は消えてゆく姿であり、すべての人間は神の子です。


 神様、私達の天命が完うされますように、必要なものをお与え下さい。
 神様、私達が努力することができますように、愛と勇気と知恵をお与え下さい。
 神様、私達が健康で元気に暮らせますように、健康と力をお与え下さい。
 神様、世界人類が平和でありますように、平和をお与え下さい。
 神様、どうかよろしくお願い致します。

 ひたすら神の愛を信じて、神の愛に全託してまいりましょう。


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【現実の人間は
実際に守護の神霊に一分の隙もなく護られているか?】


【ご感想-1】

 五井先生が「神との一体観」の必要性をしきりに強調なさっていたことはどなたもご存知のことでしょうが、私は五井先生の言われる「神との一体観」は「守護の神霊との一体観」を言われているものと考えています。それに対して、多くの方は守護の神霊の加護を度外視した意味での神我一体を言われているように思います。以前にもある方がこの問題について書き込みをしていましたが、たとえば「私は守護の神霊と一体なんだ、世界人類が平和でありますように」という五井先生の教え方は、「守護の神霊が私たちを一分の隙もなく(つまり、その意味で私たちと一体になって)護っていて下さるんだ」という“信念”(=信仰心)を強く打ち出させようとした祈り方だろうと思います。その意味で言えば、誤解はされやすいにせよ、「神様お願いします」の祈り方とどこも矛盾はしないはずです。五井先生在世当時の信者さんにとっては、このような感覚(=信仰心)は多分当たり前のことだったのではないでしょうか? そのため、五井先生が「本来」の語を省略されて神我一体観を説かれても、さしたる問題もなかったのではないかと思うのです。
 五井先生の神我一体観に「本来」の語が省略されているのは森島先生のご説明の通りだと思いますが、もしも五井先生の言う神我一体観が守護の神霊との一体観を意味するならば、守護の神霊は「今現在」一分の隙もなく私たちを護っていて下さるのですから、上にも書いた通り「本来」の語が省略されていても特に問題はなかったのかも知れません。然るに、昨今のように守護の神霊の加護を度外視した神我一体観が説かれるようになりますと、これは「本来」の語をきちんと入れて説明しないと大変な誤解を生む因になるのだろうと思うのです。


【お答え-1】

 非常に興味深く読ませていただきました。あなたのお考えに間違いはありませんが、参考までに少し補足しておきます。


 厳密にいえば、次のように「本来」の言葉を入れて信じたほうが、誤解を生じさせなくてよいと思います。

 「本来、私は守護の神霊と一体なんだ」
 「本来、守護の神霊が私たちを一分の隙もなく護っていて下さるんだ」

 なぜならば、実際には守護の神霊と一体となっている人は、ほとんどいないからです。守護の神霊が一分の隙なく守っていて下さる人も、ほとんどいないのです。守護霊が離れている人が多く、守護霊が加護していない人が多いのです。ですから、事件や事故が多いわけです。守護霊と一体になって動き、守護霊に完全に護られている人は、ケガもありませんし、事故にも遭いません。

 たとえば、わざわざ政情不安な紛争地域へ出かけて行った日本人青年が惨殺される事件が何年か前にありましたが、その青年は守護の神霊によって一分の隙なく護られていたと思われますか? 守護の神霊に護られていたのであれば、あんな無残な形で殺されるはずがないではありませんか? 愛と叡知に満ちた守護霊と一体であれば、わざわざ危険な紛争の地に行くはずがないでしょう? 


 残念ながら、守護の神霊が「今現在」一分の隙もなく私たちを護っていて下さる状況にはなっていません。現在の地球界では、守護の神霊と一体になっている人はほとんどいないのが現実です。守護の神霊によって一分の隙なく護られている人は非常に少ないのです。これが現実です。
 ですから、「本来は守護の神霊によって私たちは護られている。本来は守護の神霊と私たちは一体であるのだ。しかし、守護霊との間に業波動があるために、守護霊の加護力が業波動によって妨げられてしまい、守護霊の加護の力が弱まってしまっているのだ」と考えたほうが、今の状況では正しいのです。


 「私は守護の神霊と一体なんだ」
 「守護の神霊が私たちを一分の隙もなく護っていて下さるんだ」

 と、どんなに強く信じたところで、実際には守護の神霊と一体ではなく、守護の神霊に護られているわけではありません。そう信じても、守護霊と一体にはなれませんし、守護霊に護られるようにはなりません。そこで、次のような祈り方をしたほうが効果的であり安全であると私は説くのです。

 「守護霊様、あなた様と私が一体でありますように」
 「守護霊様、私たちを護りたまえ」

 このような祈りをしておりますと、守護霊との交流がスムーズにゆくようになり、守護霊と自分との間が近づいてきて、「私は守護の神霊と一体である」「私は守護霊によって護られている」という実観が自然に湧いてきます。ですから、本来の実相を信じたら、現実との差を直視して、守護の神霊に向かって謙虚にご加護を願って祈るほうが、早く守護の神霊と一体になれ、強いご加護を得られると私は説いているのです。


 守護の神霊にご加護を祈るときは、すでに無意識のうちに守護霊が加護して下さっていることを信じているのですから、守護の神霊にご加護を祈りながら、同時に「私は守護霊に護られている、護られている」と信じる必要はありません。
 「世界人類が平和でありますように」と私たちが祈るときには、無意識のうちに私たちは守護の神霊を信じているのですし、無意識のうちに自分が神の分霊であることを信じているのですし、業が消えてゆき、世界が平和になることを無意識のうちに信じているのです。ですから、「世界平和の祈り」を素直に祈ることができる人は、もうことさら信念の言葉を唱える必要はない、というわけです。



【ご感想-2】

 五井先生が「人間は本来、神の分霊であること」と「守護の神霊の加護」を教義の一行目で説かれていることは重要に思います。森島先生の教えて下さった通り、この2つは信じるべき事柄であって、行じるべき事柄ではありません。要するに五井先生のみ教えでは、守護の神霊の存在と共に「神との一体観」も信じるべき事柄だったのではないかと思うのです。


【お答え-2】

 「本来は私たちは神と一体である」と信じるべきです。そして現実は、業波動によって守護の神霊と私たちの間は離れており、守護の神霊のご加護の力は私たちに完全には及んでいないと知って、守護の神霊に祈りを捧げる必要がある、と知るべきです。
 このように教えませんと、「私は守護霊と一体だから、私の行為は正しいのだ」と思って、実際は守護霊の心と離れた業の行為をしたり、「私は守護霊に護られているから、何をしても安全なのだ」と錯覚して無謀な行為をする人が出てきてしまう危険があります。

 「真理としては、私たちは守護の神霊と一体であるし、私たちは守護の神霊に護られているのです。しかし、現実には守護の神霊と私たちの間に業が存在しています。守護の神霊からくる光明波動が、その業波動によって妨げられてしまうために、現実の私たちは守護の神霊と一体にはなっていません。その業波動のために、私たちは守護の神霊に完全には護られていない状況にあるのです。守護の神霊と一体になり、守護の神霊のご加護を得るには、お祈りする必要があります」と説明してあげたらいいでしょう。


 五井先生の言葉を字句通りに実行しようとすると、かえって思わぬ危険な目に遇う場合も出てきます。五井先生の言葉は尊重し、大事にしなければなりませんが、時には字句に把われずに、五井先生の真意を大胆に汲み取る必要があります。そのために私が存在しているわけです。


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2010.5.10 ページトップへ

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