【「消えてゆく姿」の教えについての質疑】
【ご質問-2】
最近『消えてゆく姿の神髄』という森島先生の文章を拝読しました。何度か読み返し、「消えてゆく姿」の教えにつき大分理解が深まった気がするのですが、それでもまだ今ひとつのところがあります。たとえば「消えてゆく姿で世界平和の祈り」という表現ですが、この「消えてゆく姿で」の“で”が今までよく分かりませんでした。最近の私は、これは五井先生の教義『人間と真実の生き方』を要約的に表現したものと捉えればよいのではないかと考えていますが、それでも疑問は残ります。私以外にも、この点が曖昧で勘違いをしている人も多いと思います。五井先生は、この表現でどうしろと言っているのか、今まで今ひとつよく分からないで来たのです。
上記の『消えてゆく姿の神髄』によれば、《『現実の業想念はある』と観じて、守護の神霊の光明の中へと、その掴んだ業想念を浄めていただくのです。守護の神霊に浄めていただくことによって、その前提があって、はじめて消えてゆく姿になるのです》とありますが、その意味はとてもよく分かります。そして、これは「消していただく姿で世界平和の祈り」と言い替えればたちまち合点がゆきます。ならば何が疑問かと言われると困るのですが、自分一人ではまだしも、人に説明出来るぐらいに理解出来ているかというとそうでもないのです。「消えてゆく姿で世界平和の祈り」という表現法、また、「消えてゆく姿で」という言い方で五井先生は何を・どうするように望まれていたのか、私にも分かるように詳しく森島先生の文章でご教示願えないでしょうか?
【お答え-2】
ご質問をありがとうございます。
> 「消えてゆく姿で世界平和の祈り」という表現法、また、「消えてゆく姿で」という言い方で、五井先生は何を・どうするように望まれていたのか?
そのような表現で説くことによって、人々が救われることを望んでいたのです。「世界平和の祈り」を祈っていても、業想念は消えてゆくのか、消えてゆかないのか、業想念の実体が分かりませんと、「世界平和の祈り」に集中できません。「地球上の戦争は永遠になくならない」と思って「世界平和の祈り」をしても、力が出ません。「神に祈り続け、神に浄めていただけば、戦争は消えるのだ」という前提があればこそ、神に祈る気迫が出てきます。これは行法ではなく、真理です。真理は知るだけで充分です。
五井先生の教え方と私の教え方は根本が同じでありながら、ちょっと異なっています。五井先生は「消えてゆく姿、消えてゆく姿…と思いなさい」というような説き方もされていましたが、私はまったく説きません。私は「守護の神霊に浄めていただき、業を消し去っていただきなさい」と、神への対話形だけを説いています。どちらも正しいのですが、こちらのほうが単純で分かりやすく、誰でも行じやすいと経験上思ったからです。
「業は消えてゆく姿である」という真理を知ったら、その後は、「消えてゆく、消えてゆく…」とわざわざ思う必要はありません。思いたい人は思っても結構ですが、私の場合はすぐに「世界平和の祈り」の中に入ってしまいますから、「消えてゆく姿、消えてゆく姿…」と思いません。「神様、この業を浄めて下さい」と、ことさらに祈ることもありません。「世界平和の祈り」の中に入ってしまえば、もう「消えてゆく姿」とわざわざ思う必要はありません。
「消えてゆく姿で世界平和の祈り」と五井先生がお説きになっているからといって、「世界平和の祈り」の前に毎回毎回、「消えてゆく姿、消えてゆく姿…」とやらなくてもよろしいのです。しかし、初めて道場や集会に参加される人もいらっしゃいますから、その人たちのために、「業は消えてゆく姿である」という真理を説く必要があります。古い人たちには、もうあえて説く必要はないのだけれど、初心者を対象に「消えてゆく姿で世界平和の祈り」と教えていたのです。
Aさんご自身について具体的に申しますと、Aさんは「消えてゆく姿」の教えは、もう充分に理解されています。今さら「消えてゆく姿」の教えを行じようとあらためて考える必要はありません。人に説明できなくとも、皆さんご自身は充分に理解されています。「消えてゆく姿の教え」が充分に理解できているから、もうそれが空気を吸うように当たり前のようになっていて、「消えてゆく姿の教えを行じよう」と思うと、何をしたらよいのか分からなくなってしまいます。意識して「空気を吸おう」と思ったら疲れてしまいます。それと同じです。
人に対して「消えてゆく姿の教え」をどう説明したらよいのかについては、何も思い浮かばなければ、それについて説明する必要はありません。Aさんがその時その場で説明したいことを説明なされば結構です。「五井先生がお話になった教えを、そのままの形ですべてリピートするように教えなくはならない」と思いますと、心身が固く硬直して、自由に教えを説くことができなくなります。
何度も申しておりますように、五井先生と私は教え方が異なります。五井先生の教えを、私はそのままそっくり真似して説いているわけではありません。五井先生の教えの百分の一でもよいから、その一つだけを行じて、それを説いていれば、私たちの天命は完うされます。その私の教え方が物足りなければ唯一会に入ってこなければよいのであって、私たちは周囲のご機嫌を伺うように右顧左眄する必要はありません。「五井先生の教えのすべてをそっくり伝えよう」と思いますと力んでしまいます。極端に言えば、「消えてゆく姿の教え」を説かなくても結構です。「世界平和の祈り」だけを唱え、伝えつづけていれば天命を完うできます。
何もかも完全にやろうとしないで、一つでもいいから実行していればよいのです。
百知は一真実行に及ばず。一真実行とは「世界平和の祈り」にほかなりません。
【ご質問-3】
消えてゆく姿に関して、もうひとつ質問させて下さい。
森島先生の『消えてゆく姿の神髄』の文章の中で、《『現象に対して、悪は悪と見ずに、消えてゆく姿である』と観を転換することではありません。》とあります。
五井先生はよく「観の転換」という表現もお使いになっていました。これは具体的にはどういうことを言っておられたのでしょうか? 先の森島先生のお答えから推察するに、素直に「世界平和の祈り」を祈っていれば、それがそのまま「観の転換」になっているのでしょうが、先に質問した通り、私にはここが一番説明しづらい箇所なのです。
【お答え-3】
> 森島先生の『消えてゆく姿の神髄』の文章の中で、《『現象に対して、悪は悪と見ずに、消えてゆく姿である』と観を転換することではありません。》とあります。
消えてゆく姿の教えは「悪を悪と見ない」のではなく、「悪を善と見る」教えでもなく、「悪を無視して見ないふりをする」のでもありません。「現象に対して、悪は悪と見て、消えてゆく姿である」と観を転換するのが正しい消えてゆく姿の教えです。
> 五井先生はよく「観の転換」という表現もお使いになっていました。これは具体的にはどういうことを言っておられたのでしょうか?
観を転換するとは、考え方、見方を神のみ心である光明の方向へと転じ変えることですから、具体的には、不完全な現象を永遠の存在と思わずに、思ったら思ったでいいから、守護の神霊への祈りに切り換えることです。素直に「世界平和の祈り」を祈れば、それはそのまま観の転換をしていることになります。もっと正確にいえば、感情想念を祈り言に変換するという意味です。
ひらがなを漢字にタイピング変換するのと同じように、すべての感情や日常生活の考えや計画を祈り言を通して守護の神霊のみ心の中に託していれば、神のみ心のままに行動できるようになります。「世界平和の祈り」を祈っていれば自然に観の転換ができてくるのですから、「観を転換しなければいけない」と力む必要はありません。
「世界平和の祈り」が「消えてゆく姿の教え」の実行ですし、「世界平和の祈り」が観の転換の実行法であるのですから、「消えてゆく姿、消えてゆく姿…」とことさら思う必要がないように、「観の転換をしよう、観の転換をしよう…」とことさら思う必要もありません。「世界平和の祈り」を祈れば業は消えてゆくのですし、観の転換ができるようになるのですから、「世界平和の祈り」と同等の行法ではなく、「世界平和の祈り」の効果と言ったほうが正しいでしょう。
読者や信徒に厭きさせまいと、五井先生は親切心から多様な表現をお使いになりました。それが理解を深める手助けとなるのですが、反面、多様な表現を使えば使うほど、かえって本質がわからなくなる、という短所もあります。五井先生の教えの長所を生かし、そうした短所を減らすために、私の教えが生まれたのです。五井先生の教えと私の教えの両方を学ぶことによって、バランスのとれた理解が可能となるわけです。
日常生活や仕事では、頭を使い、計画を立て、人と打ち合わせたりして、さまざまな行為をしなければなりませんが、宗教的な行法としては「世界平和の祈り」一つだけ実行すればよいのですから、日常生活や経済活動に意識を集中させることができます。「世界平和の祈り」以外にいろいろな行法があったのでは、忙しい現代社会の中で宗教行事にばかり時間を費やしてしまい、貧乏になってしまいます。宗教専門に生きる人は別にして、勉強する時間や遊ぶ時間がなくなってしまっては、俗生活の中で楽しく生きてゆけません。宗教行事はなるべく簡単なほうがよいに決まっています。
せっかくの他力易行道をわざわざ難行道に変えてやっていたら、馬鹿らしいことです。しかし、難行道をやりたい人もいるわけですから、その人はご自由に難行道をなさったらいいわけですが、少なくとも唯一会では、他力易行道を教える会ですから、唯一会の集会で指導される場合には他力易行道から逸脱しないように教えて下さい。
世界人類が平和でありますように
世界人類が平和でありますように
世界人類が平和でありますように
「世界平和の祈り」の大道を、ご一緒に明るく静かに進んでまいりましょう。
【ご質問-4】
ところで、もうひとつ質問させていただきたいのですが、森島先生の今までの教えや今回のご教示から推察するに、教義『人間と真実の生き方』の大半が真理として一旦信じればよい事柄で、殊更に行じる必要はなく、行に当たる部分は「世界平和の祈り」のみということになります。そして、その「世界平和の祈り」も、“神様お願いします”の全託の心持ちで祈るのだとすると、教義の「守護の神霊への感謝の心を常に思い」の部分も殊更に行ずる必要はない、ということになりますが、この理解で正しいでしょうか?
【お答え-4】
そのご理解で正しいと私も思います。
教義『人間と真実の生き方』には、守護の神霊への感謝の行の他にも、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆく、とも書いてあります。簡単に愛と書きますが、人を真に愛することは難しく、真の行為をすることも難しく、また人を赦すという行為も、これほど難しいものはありません。
私自身も自分の行為を振り返ってみますと、この教えを実行できていません。そうした現実を考えますと、人間としての真実の生き方の理想、ビジョン、方向性を指し示して下さっていると解釈したほうが気が楽になります。しかし、難しいからといって理想を捨ててはいけません。どんなに困難に思えても、いつかは必ず理想に達成できるのだと信じて生きてゆかねばなりません。
何も目標がありませんと、人間はやる気が起きません。人間の目標とするべき理想の生き方が教義には書いてあると解釈してよろしいでしょう。そして、その理想を実現する行動手段として「世界平和の祈り」があるのだ、と理解されて結構です。いいかえますと、「世界平和の祈り」を祈り続けてゆけば、そうした理想の生き方ができるようになると、夢と希望を与えられているとも言えます。
私自身はひたすら「神様お願いします。世界人類が平和でありますように〜」と、神への全託行に徹しています。それしか意識的にやっていません。守護の神霊への感謝の言葉が口から出てくるときは、それは私が意識的に唱えているのではなく、唱えさせられているときです。五井先生のたくさんの教えの中から神様への全託行一つだけにしぼって、私は行じています。他にも素晴らしい教えがたくさんありますけれども、他の行法は思い切って捨ててしまったわけです。
分かりやすく一言でいえば、他力易行道をさらに単純化して、他力一行道にしてしまったのです。守護の神霊への感謝行は、私は意識的にしません。守護の神霊に対しては、ひたすらご加護を願いつづけるのみです。守護の神霊に感謝する時間はありません。但し、自分一人のご加護だけを願うのではなく、個人を含めた人類の平和を願い続ける祈り言に昇華させています。世界人類が平和でなければ個人の幸せもありえない時代ですから。
五井先生を信仰している方々にとっては、私のこうした行じ方について、狭いとか五井先生の教えのごく一部しかやっていないとか、否定的なご意見があることは充分承知しています。私は自分の行じ方を、すべての皆さんにやらせようとか、「そんな行法はやる必要ない」とか「そんなことはやっても無駄だ」とお節介を焼くつもりはありません。各人が納得する信仰をなさればよろしいので、私の信仰を皆さんに押しつける気持ちは毛頭ありません。
ご自分の現在の信仰や行法に満足している方は、私の話に耳を傾けることはないでしょう。私がお話している相手は、「今まで種々な祈り方をしていたけれども、どうしても安心感が得られない。守護の神霊のみ心の中に入れるにはどうしたらよいのだろうか?」と悩み悶えている人々です。その人々の中で一人でも私の行じ方がヒントになり、安心立命への道に入れる手助けになれたら幸いであると思っています。そういうわけで、唯一会では神への全託行が中心になっていて、神への感謝行は特に課していないのです。
「世界人類が平和でありますように」の祈り言は、「ありがとうございます」という言葉を使ってはいませんが、守護の神霊、宇宙神への感謝の心を含んだ言葉です。なぜならば、真実に感謝の心境になりますと、「ありがとうございます」とことさら言わなくなるからです。無言のうちに全身から感謝があふれてきます。そして、「世界人類が平和でありますように」と祈らずにはいられないものです。「神様ありがとうございます」とは祈るけれども、「世界人類が平和でありますように」とは祈らない人がいますが、その人はまだ真実の感謝の境地にいません。
口先で「ありがとうございます」と言っている人は、立派な心境の人に見えますが、ほんとうはまだ真実の感謝の心境に至っていない人です。本当に感謝の心境になった人は、「ありがとうございます」と言ってみせることはしません。自分の高い心境を人に見せびらかすことをせずに、ただひたすら「世界人類が平和でありますように」と唱えているものなのです。感謝の境地になれば、世界平和を祈る言葉が自然に出てくるものです。
前にも言いましたが、五井先生は「『神様ありがとうございます』で私は悟った」と度々おっしゃっていましたが、真実はそうではありません。別に嘘をついていたわけではありませんが、五井先生は、本当は「神様お願いします」の祈り言で悟りました。それは私自身の体験からはっきりと分かります。五井先生はさんざん「神様お願いします」を唱えた末に「神様ありがとうごさいます」の境地に達し、「神様ありがとうございます」の言葉だけが湧いてくるようになったと、私は自分の体験から分かります。
しかし、五井先生だけを信仰している人は私の言うことは信じません。ですから、自己の信仰に満足している人には、私も説く気持ちはありません。多くはないかもしれませんが、私の言葉によって救われる人が地球上のどこかにいると思います。その人たちの為になれば幸いと思って、私は「世界平和の祈り唯一行」を説き続けています。
世界人類が平和でありますように
神様、お願い申し上げます
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