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世界人類が平和でありますように
ようこそ!全託道場へ
 神奈川集会で使用した勉強用テキストをUPしました。全て森島先生の過去ログから編纂した貴重な資料です。
 2010年2月の神奈川集会で使用したテキストです。五井先生のみ教えの理解のための参考資料としてご利用下さい。
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全託道場山門 私たちの《信条》 神奈川集会テキスト[目次] 10年2月テキスト
世界平和の祈りに全託してゆくことが、今日の世界にとって、一番大事なのです。
(五井先生最後のお言葉)
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Explanation★ 私たちの《信条》

世界人類が平和でありますように

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神奈川集会テキスト録04:
中庸の光明思想
〜消えてゆく姿の教えとその神髄〜

(2010年2月21日)


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【目次】



【消えてゆく姿の神髄】

 消えてゆく姿の教えとは、自力で業想念を消すのではありません。業想念を相手にしないと言って、業想念を見ないようにすることでもありません。それは現実逃避です。また、常識的な判断力や思慮分別を失わせて、自分では何も判断出来ない人間や、無批判な人間をつくることでもありません。業想念の現れを見て、これも神のみ心だと見て、本心と業想念の区別をなくすことでもありません。

 消えてゆく姿の教えは、現実の業想念の存在を一度しっかりと正直に認める点に、この教えの最大の特長があるのです。現実の業想念の存在を認めるからこそ、そこに反省と改善がなされて、現実と矛盾しない光明思想となるのです。理想ばかりを説いて、現実から遊離した足が地についていない光明思想では、現実の世界の人々を救うことはできません。

 『現象に対して、悪とは見ずに、消えてゆく姿である』と観の転換をすることではありません。悪を悪と見ないのであれば、それができる人であるならば、消えてゆく姿であると転換をする必要もないではなりませんか。そういう説明をする人は、消えてゆく姿の教えが、判っているようで、まだ判っていないのです。現象に対して悪は悪と見て、現象の悪の存在を認めて、その上で守護の神霊に浄めていただいて、悪は消えてゆく姿となるのです。現実の業想念行為は、正直に認めて反省し、即座に誤りを正し、守護の神霊に浄めていただかなくてはなりません。

 『これは消えてゆく姿だ、消えてゆく姿にするのだ、思慮分別も消えてゆく姿だ』と強くイメージすることであると思っている人が多いのですが、それでは自力で消すことになりますから、消えてゆく姿とは言えません。『消えてゆくんだ、消えてゆくんだ』とイメージするのではないのです。『現実の業想念を消えてゆく姿と観じる』のではありません。そうではなく『業想念は現実にある』と正直に観じるのです。そうしないと現実と矛盾してしまい、『業は無いんだ、無いんだ』と観じる真理に偏った光明思想と同じことになってしまいます。

 『現実の業想念はある』と観じて、守護の神霊の光明の中へと、そのつかんだ業想念を浄めていただくのです。守護の神霊に浄めていただくことによって、その前提があって、はじめて消えてゆく姿になるのです。現実の悪や不幸や病気を認めるからこそ、現実と矛盾しない光明思想となるのであって、現実を認めない光明思想では、現実と矛盾してしまって、現実と理想の間に架け橋を渡すことができず、真の光明思想とはなりえないのです。

 現実の業想念の存在を認めるだけでは、現実とは矛盾しませんが、今度は理想と矛盾してしまい、それだけでは光明思想にはなりません。それに現在と未来という時間の要素を加えて、現在の業想念の存在を『ある』と正直に認めつつ、未来においては『業想念は無い』と完全否定する、『消えてゆく姿』という一言を発見した点に、五井先生の偉大さがあるのです。現実にも理想にも矛盾しない言葉、それが『消えてゆく姿』という言葉だったのです。この『消えてゆく姿』という一言によって、五井先生の光明思想は、天の理想と地の現実をつなぐ完全な光明思想となったのです。


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【「消えてゆく姿」の教えとその真意】


【五井先生の文章より】

《「敵が無い」とか「(敵が)在る」とか、いうのではありません。「物質が在る」とか「(物質が)無い」とか、いうのでもありません。この世に現れている、また現れてくる事物事象のすべては、神のみ心が完全にこの世に現れるための変化変滅の姿、つまり消えてゆく姿であって、「そのまま完全である」などというものは、一つとして無いのです。》

(五井昌久著『本もの贋もの』白光真宏会出版局、p.179)

【解説】

 五井先生が説いているように、現在の地球界では「悪や不幸や病気などの業想念は無い」とは宣言できないし、「私は完全な神の子である」と宣言することも時期尚早であるのです。現在は、完成に至る途中の段階にいるのです。やがては人類すべてが神の子の完全な姿を現すようになるのですが、それは、どこかの宗教家に認定された特別な人たちだけが神になったり、救われたりするのではありません。地球人類すべての人が、「世界平和の祈り」によって神性を顕現する時がくるのです。

 私達は、自分の運命を波動調整する祈り言として、「私達の天命が完うされますように」と祈っておりますが、なぜ「私達の病気が治りますように」とか「私達の貧乏が直りますように」とお祈りしないのかと申しますと、守護の神霊方が、その人の魂の進化のために「今、病気の症状を現したほうがよい」と思われれば病気の症状が現れてくるのです。天命を完うするために、病気の症状を一時的に早く現したほうがよい時もあるのです。また、「貧乏の経験を積んだほうがよい」と守護の神霊が思われれば貧乏の状態が現れてくるのです。
 病気が現れても、貧乏が現れても、人間は常に、何事が起きても不安動揺の想いを起こさぬようになることが、人間としての究極の目的であるのです。いいかえれば、「私達の天命が完うされますように」と祈っていることが、病気や貧乏の波動を消滅させるのに最も効果的な方法といえるのです。現象に把われ、いちいち一喜一憂し、不安動揺の想念を常に起こしていてはいけません。現象に把われず、天命の完うをひたすら祈りつづけていればよいのです。五井先生は、ご病気の症状があった時も、五井先生の心は健康の時と全く同じように明るく、屈託のないユーモアを充分に言える状態でいたのです。「毎日がよい天気でありますように」と祈る人はいません。なぜならば、一年365日、雨も降らず、風も吹かない快晴の日がつづくわけがないと知っているからです。現象に把われた祈り方をしていては、いつまでも現象に揺り動かされて、平和な心を得ることはできません。ですから、現世利益的な祈り方はしないで、「私達の天命が完うされますように」という祈り言にしたのです。


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【「消えてゆく姿」は中庸の教え】

 厳密にいえば、「消えてゆく姿」の教えは、五井先生が初めて説いた教えではない。初めて説いたのは生長の家であり、生長の家には、すでに神示として「消えてゆく姿」の教えが存在していた。しかし残念なことに、「悪はない、病気はない、不幸はない」という教えと、「悪も病気も不幸も消えてゆく姿」という教えの二つが、切り離されたままで一つに融合されず、生かされなかった。
 この二つの教えは、どちらも真理であり、どちらも正しい。但しこのままでは、この二つの教えは矛盾した教えのように見られてしまい、どうしても「悪はない、病気はない、不幸はない」の教えのほうが強調される結果となってしまう。そのため、「消えてゆく姿」の教えはほとんど生かされることがなかった。


 生長の家で、せっかく神示として授かりながら、「悪はない、病気はない、不幸はない」という教えの下に埋もれた「消えてゆく姿」という教えを、五井先生は、そのすぐれた直観力で拾い出して、あらためて発表したのである。それはちょうど、机の上に積まれたたくさんの書類の中から一つの重要書類を探し出したり、たくさんの石ころの中から貴重なダイヤモンドの原石を拾い出すのと似ている。
 軽視され捨てられていた「消えてゆく姿」という教えの中に、五井先生は重要な価値を見出し、「消えてゆく姿」の教えを新実相論の中心の位置においたのである。そして五井先生は、「悪はない、病気はない、不幸はない」という教えと、「悪も病気も不幸も消えてゆく姿」という教えの二つを、「時間経過」の要素をとりいれて、このように一つにして説かれた。

 「悪も病気も不幸も、現実には確かに存在している。その現実の姿を完全否定することは無理である。それなのに無理に完全否定しようとするから、自己を偉く見せかける癖がついたり、偽善者となったり、現実の説明がつかなくなって、苦しまぎれに心の法則を持ち出してしまうのである。現在の時点で、『悪はない、病気はない、不幸はない』と真理を宣言することはできない。しかし、本来の人間には悪も病気も不幸もないのである。今、現れている悪や病気や不幸の現象は、本体の微妙な波動と肉体想念の粗い波動のギャップが原因で生じたものである。こうした現象は肉体界における一時的な現象であり、今から未来にかけて、人間が本体の働きを現わしてゆくにつれて必ず消え去ってゆくのである。したがって、人類は永遠に悪や病気や不幸に苦悩しつづけることはない。人類の未来には、悪も病気も不幸もまったく無い理想の本体の姿が現れてくるのである」


 「『消えてゆく姿』の教えは、もう古いのだ。『悪はない、病気はない、不幸はない』という教えのほうが、より高い新しい教えなのだ。『悪はない、病気はない、不幸はない。人間は神である、私は神である、私は完全である』と宣言する生き方をしたほうがよいのだ」と主張する宗教家がいるが、それでは生長の家で経験した過去の過ちを再び繰り返すことになる。それは理想に片寄った行き過ぎた教えであり、五井先生の教えを知らぬ者の言葉である。

 「なんでも高ければよい」というものではない。高すぎる真理の言葉をいきなり実行させようとしても、それは無理である。それでは人類はとうてい救われない。一段一段が高すぎる階段では昇ることができない。高すぎる真理の言葉を押しつけても、理想に近づくどころか、かえって傷ついてしまうことさえある。肉体には、ちょうどよい適温、ちょうどよい湿度がある。温度が高すぎても低すぎても、生活するのは難しい。
 それと同じように、「悪はない、病気はない、不幸はない」という教えは、真理であり、理想には違いないが、肉体人間にとっては、そのまま実行するには高すぎて難しいのである。そこで結論として、「『今の悪や病気や不幸は消えてゆく姿である』『今、人間は本来の神の子の本体を次第に顕現しつつある』という中庸の教えが、現在の人類にとっては一番適当なのである」と、五井先生と同様に私も教えているのである。同じ過ちを二度と繰り返してはならない。


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【「消えてゆく姿」の教えの正しい実践法】


【ご質問-1】

 「消えていく姿」の教えは、悪いことが出てきても、その原因を追いかけたりせず、人も自分も責めずに悪いものが消えて好くなる、との教えは分かりますが、いつかの掲示板で、過去はすべて消えていく姿としてとらえる、とあったと思いますが、ここでの過去は今生だけのものでなく過去生のものも当然含まれていると思いますが、それでは、過去で努力したこと、楽しかったことも、消えていく姿としてとらえるのでしょうか? 


【お答え-1】

 過去で努力したことは、未来に良い結果、良い運命として現れてきます。楽しかったことは、いつまでも楽しい思い出として記憶に残ります。人生の記憶、記録としては残るのです。楽しいことは、ことさらに「消えてゆく姿」と思う必要はありません。「努力したことも楽しかったことも消えてゆく姿」と思いますと、虚無感に陥ってしまいかねません。「過去はすべて消えてゆく姿」というのは、過去の自分の行為を悔やんで反省している人や、過去の苦悩を忘れたい人を対象に、赦しの言葉として説いているのです。

 この世は、本心の現れと業想念の現れが混在しておりまして、本心の現れは永遠に存在するのであり、業想念の現れであるすべての苦悩は消えてゆくのです。消えてゆくといっても、もちろん記憶として歴史としては残ります。また、本心の現れである愛、真、善、美は、本質的なものですから、この世から消え去ることはありませんが、形の現れとしては刻々と完全円満な形に近づいてゆきます。


 「消えてゆく姿」の教えとは、人間は本来、神の分霊であって、完全円満な存在であり、現在の苦悩、悲しみ、怒り、不安、恐怖、悪の姿は消えてゆく姿なのだ、そして、不完全な姿が消え去った後には完全円満な光明生活が現れてくるのだ、というふうに、明るい希望を持たせるために用いているのです。

 「消えてゆく姿」の使い方を、「どうせ消えてゆく姿であるから、悪いことをしてもかまわない」と、無反省の言い訳に用いてはいけません。それでは悪い行為を善いこととして認めているのですから、悪い行為は消えてはゆかないのです。また、「善い行為をしても、努力をしても、いずれ消えてしまうのだから、いくら努力しても無駄だ」と、本心の善行為をも否定してしまったのでは、本心顕現をさまたげる行為となってしまいます。このように虚無的で怠惰な生き方の言い訳に用いたりしてはならないのです。


 「消えてゆく姿」の教えは、「病気は無い、不幸は無い、悪は無い」と真理の言葉を大上段にかざして業想念を否定する方法よりは、おだやかで、人を責め苦しめることにはならないと思いますが、それでも使い方によっては、病人に向かって、「そんな病気は消えてゆく姿よ」と冷たく突っぱねてしまい、愛も情けもない使い方をする人が出てきます。困ったものです。そこで、実際に「消えてゆく姿」の教えを使う場合には、「神にお浄めしていただく祈り」の形で用いたらよいと私は提言するのです。
 すなわち、「この業想念は消えてゆくのだ! 消えてゆくのだ! 消える、消える、消えるのだ!」と、自己の念力で力んで消そうとはしないで、守護の神霊に業想念を消していただくようにするのです。

 「守護霊様、この苦しみを消して下さい」
 「守護霊様、この悩みを消して下さい」
 「守護霊様、この病気を消して下さい」
 「守護霊様、この貧乏を消して下さい」
 「守護霊様、この怒りや憎しみを消して下さい」
 「守護霊様、この不安、恐怖の想いを消して下さい」
 「守護霊様、この悪の姿を一日も早く消して下さい」
 「守護霊様、あの人の馬鹿な想念を早く消して下さい」
 「守護霊様、悪い人がこの世から一日も早く消え去りますように」

 というふうに、思い浮かんでくる自己の雑念や他人の悪行為を守護の神霊に浄めていただくのです。こうしておりますと、現れてくる悪の姿にいちいち怒って把われることもなくなり、「あ〜、誤った行為、悪い姿、不完全な姿は、すべて消えてゆくんだなあ。後から神様の本心の姿が現れてくるんだ。ありがたいなあ…」と自然に思えてきて、心がいつもおだやかで平静でいられるようになるのです。

 すなわち、「消えてゆく姿」と思う信念の前には、「神様、この業想念を消して下さい」という祈りの行為が必要であるのです。守護の神霊にお浄めしていただくお祈りを一生懸命にしているうちに、いつしか「業は消えてゆく姿である」という信念が自然に心の奥底から実感として思われてくるのです。これが無反省や虚無に陥れさせない「消えてゆく姿」の教えの正しい実践法であるのです。


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【「消えてゆく姿」の教えについての質疑】


【ご質問-2】

 最近『消えてゆく姿の神髄』という森島先生の文章を拝読しました。何度か読み返し、「消えてゆく姿」の教えにつき大分理解が深まった気がするのですが、それでもまだ今ひとつのところがあります。たとえば「消えてゆく姿で世界平和の祈り」という表現ですが、この「消えてゆく姿で」の“で”が今までよく分かりませんでした。最近の私は、これは五井先生の教義『人間と真実の生き方』を要約的に表現したものと捉えればよいのではないかと考えていますが、それでも疑問は残ります。私以外にも、この点が曖昧で勘違いをしている人も多いと思います。五井先生は、この表現でどうしろと言っているのか、今まで今ひとつよく分からないで来たのです。
 上記の『消えてゆく姿の神髄』によれば、《『現実の業想念はある』と観じて、守護の神霊の光明の中へと、その掴んだ業想念を浄めていただくのです。守護の神霊に浄めていただくことによって、その前提があって、はじめて消えてゆく姿になるのです》とありますが、その意味はとてもよく分かります。そして、これは「消していただく姿で世界平和の祈り」と言い替えればたちまち合点がゆきます。ならば何が疑問かと言われると困るのですが、自分一人ではまだしも、人に説明出来るぐらいに理解出来ているかというとそうでもないのです。「消えてゆく姿で世界平和の祈り」という表現法、また、「消えてゆく姿で」という言い方で五井先生は何を・どうするように望まれていたのか、私にも分かるように詳しく森島先生の文章でご教示願えないでしょうか? 


【お答え-2】

 ご質問をありがとうございます。

> 「消えてゆく姿で世界平和の祈り」という表現法、また、「消えてゆく姿で」という言い方で、五井先生は何を・どうするように望まれていたのか? 


 そのような表現で説くことによって、人々が救われることを望んでいたのです。「世界平和の祈り」を祈っていても、業想念は消えてゆくのか、消えてゆかないのか、業想念の実体が分かりませんと、「世界平和の祈り」に集中できません。「地球上の戦争は永遠になくならない」と思って「世界平和の祈り」をしても、力が出ません。「神に祈り続け、神に浄めていただけば、戦争は消えるのだ」という前提があればこそ、神に祈る気迫が出てきます。これは行法ではなく、真理です。真理は知るだけで充分です。

 五井先生の教え方と私の教え方は根本が同じでありながら、ちょっと異なっています。五井先生は「消えてゆく姿、消えてゆく姿…と思いなさい」というような説き方もされていましたが、私はまったく説きません。私は「守護の神霊に浄めていただき、業を消し去っていただきなさい」と、神への対話形だけを説いています。どちらも正しいのですが、こちらのほうが単純で分かりやすく、誰でも行じやすいと経験上思ったからです。


 「業は消えてゆく姿である」という真理を知ったら、その後は、「消えてゆく、消えてゆく…」とわざわざ思う必要はありません。思いたい人は思っても結構ですが、私の場合はすぐに「世界平和の祈り」の中に入ってしまいますから、「消えてゆく姿、消えてゆく姿…」と思いません。「神様、この業を浄めて下さい」と、ことさらに祈ることもありません。「世界平和の祈り」の中に入ってしまえば、もう「消えてゆく姿」とわざわざ思う必要はありません。
 「消えてゆく姿で世界平和の祈り」と五井先生がお説きになっているからといって、「世界平和の祈り」の前に毎回毎回、「消えてゆく姿、消えてゆく姿…」とやらなくてもよろしいのです。しかし、初めて道場や集会に参加される人もいらっしゃいますから、その人たちのために、「業は消えてゆく姿である」という真理を説く必要があります。古い人たちには、もうあえて説く必要はないのだけれど、初心者を対象に「消えてゆく姿で世界平和の祈り」と教えていたのです。

 Aさんご自身について具体的に申しますと、Aさんは「消えてゆく姿」の教えは、もう充分に理解されています。今さら「消えてゆく姿」の教えを行じようとあらためて考える必要はありません。人に説明できなくとも、皆さんご自身は充分に理解されています。「消えてゆく姿の教え」が充分に理解できているから、もうそれが空気を吸うように当たり前のようになっていて、「消えてゆく姿の教えを行じよう」と思うと、何をしたらよいのか分からなくなってしまいます。意識して「空気を吸おう」と思ったら疲れてしまいます。それと同じです。
 人に対して「消えてゆく姿の教え」をどう説明したらよいのかについては、何も思い浮かばなければ、それについて説明する必要はありません。Aさんがその時その場で説明したいことを説明なされば結構です。「五井先生がお話になった教えを、そのままの形ですべてリピートするように教えなくはならない」と思いますと、心身が固く硬直して、自由に教えを説くことができなくなります。


 何度も申しておりますように、五井先生と私は教え方が異なります。五井先生の教えを、私はそのままそっくり真似して説いているわけではありません。五井先生の教えの百分の一でもよいから、その一つだけを行じて、それを説いていれば、私たちの天命は完うされます。その私の教え方が物足りなければ唯一会に入ってこなければよいのであって、私たちは周囲のご機嫌を伺うように右顧左眄する必要はありません。「五井先生の教えのすべてをそっくり伝えよう」と思いますと力んでしまいます。極端に言えば、「消えてゆく姿の教え」を説かなくても結構です。「世界平和の祈り」だけを唱え、伝えつづけていれば天命を完うできます。

 何もかも完全にやろうとしないで、一つでもいいから実行していればよいのです。
 百知は一真実行に及ばず。一真実行とは「世界平和の祈り」にほかなりません。



【ご質問-3】

 消えてゆく姿に関して、もうひとつ質問させて下さい。

 森島先生の『消えてゆく姿の神髄』の文章の中で、《『現象に対して、悪は悪と見ずに、消えてゆく姿である』と観を転換することではありません。》とあります。
 五井先生はよく「観の転換」という表現もお使いになっていました。これは具体的にはどういうことを言っておられたのでしょうか? 先の森島先生のお答えから推察するに、素直に「世界平和の祈り」を祈っていれば、それがそのまま「観の転換」になっているのでしょうが、先に質問した通り、私にはここが一番説明しづらい箇所なのです。


【お答え-3】

> 森島先生の『消えてゆく姿の神髄』の文章の中で、《『現象に対して、悪は悪と見ずに、消えてゆく姿である』と観を転換することではありません。》とあります。

 消えてゆく姿の教えは「悪を悪と見ない」のではなく、「悪を善と見る」教えでもなく、「悪を無視して見ないふりをする」のでもありません。「現象に対して、悪は悪と見て、消えてゆく姿である」と観を転換するのが正しい消えてゆく姿の教えです。


> 五井先生はよく「観の転換」という表現もお使いになっていました。これは具体的にはどういうことを言っておられたのでしょうか? 

 観を転換するとは、考え方、見方を神のみ心である光明の方向へと転じ変えることですから、具体的には、不完全な現象を永遠の存在と思わずに、思ったら思ったでいいから、守護の神霊への祈りに切り換えることです。素直に「世界平和の祈り」を祈れば、それはそのまま観の転換をしていることになります。もっと正確にいえば、感情想念を祈り言に変換するという意味です。
 ひらがなを漢字にタイピング変換するのと同じように、すべての感情や日常生活の考えや計画を祈り言を通して守護の神霊のみ心の中に託していれば、神のみ心のままに行動できるようになります。「世界平和の祈り」を祈っていれば自然に観の転換ができてくるのですから、「観を転換しなければいけない」と力む必要はありません。

 「世界平和の祈り」が「消えてゆく姿の教え」の実行ですし、「世界平和の祈り」が観の転換の実行法であるのですから、「消えてゆく姿、消えてゆく姿…」とことさら思う必要がないように、「観の転換をしよう、観の転換をしよう…」とことさら思う必要もありません。「世界平和の祈り」を祈れば業は消えてゆくのですし、観の転換ができるようになるのですから、「世界平和の祈り」と同等の行法ではなく、「世界平和の祈り」の効果と言ったほうが正しいでしょう。

 読者や信徒に厭きさせまいと、五井先生は親切心から多様な表現をお使いになりました。それが理解を深める手助けとなるのですが、反面、多様な表現を使えば使うほど、かえって本質がわからなくなる、という短所もあります。五井先生の教えの長所を生かし、そうした短所を減らすために、私の教えが生まれたのです。五井先生の教えと私の教えの両方を学ぶことによって、バランスのとれた理解が可能となるわけです。


 日常生活や仕事では、頭を使い、計画を立て、人と打ち合わせたりして、さまざまな行為をしなければなりませんが、宗教的な行法としては「世界平和の祈り」一つだけ実行すればよいのですから、日常生活や経済活動に意識を集中させることができます。「世界平和の祈り」以外にいろいろな行法があったのでは、忙しい現代社会の中で宗教行事にばかり時間を費やしてしまい、貧乏になってしまいます。宗教専門に生きる人は別にして、勉強する時間や遊ぶ時間がなくなってしまっては、俗生活の中で楽しく生きてゆけません。宗教行事はなるべく簡単なほうがよいに決まっています。

 せっかくの他力易行道をわざわざ難行道に変えてやっていたら、馬鹿らしいことです。しかし、難行道をやりたい人もいるわけですから、その人はご自由に難行道をなさったらいいわけですが、少なくとも唯一会では、他力易行道を教える会ですから、唯一会の集会で指導される場合には他力易行道から逸脱しないように教えて下さい。


 世界人類が平和でありますように
 世界人類が平和でありますように
 世界人類が平和でありますように

 「世界平和の祈り」の大道を、ご一緒に明るく静かに進んでまいりましょう。



【ご質問-4】

 ところで、もうひとつ質問させていただきたいのですが、森島先生の今までの教えや今回のご教示から推察するに、教義『人間と真実の生き方』の大半が真理として一旦信じればよい事柄で、殊更に行じる必要はなく、行に当たる部分は「世界平和の祈り」のみということになります。そして、その「世界平和の祈り」も、“神様お願いします”の全託の心持ちで祈るのだとすると、教義の「守護の神霊への感謝の心を常に思い」の部分も殊更に行ずる必要はない、ということになりますが、この理解で正しいでしょうか? 


【お答え-4】

 そのご理解で正しいと私も思います。
 教義『人間と真実の生き方』には、守護の神霊への感謝の行の他にも、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆく、とも書いてあります。簡単に愛と書きますが、人を真に愛することは難しく、真の行為をすることも難しく、また人を赦すという行為も、これほど難しいものはありません。

 私自身も自分の行為を振り返ってみますと、この教えを実行できていません。そうした現実を考えますと、人間としての真実の生き方の理想、ビジョン、方向性を指し示して下さっていると解釈したほうが気が楽になります。しかし、難しいからといって理想を捨ててはいけません。どんなに困難に思えても、いつかは必ず理想に達成できるのだと信じて生きてゆかねばなりません。
 何も目標がありませんと、人間はやる気が起きません。人間の目標とするべき理想の生き方が教義には書いてあると解釈してよろしいでしょう。そして、その理想を実現する行動手段として「世界平和の祈り」があるのだ、と理解されて結構です。いいかえますと、「世界平和の祈り」を祈り続けてゆけば、そうした理想の生き方ができるようになると、夢と希望を与えられているとも言えます。


 私自身はひたすら「神様お願いします。世界人類が平和でありますように〜」と、神への全託行に徹しています。それしか意識的にやっていません。守護の神霊への感謝の言葉が口から出てくるときは、それは私が意識的に唱えているのではなく、唱えさせられているときです。五井先生のたくさんの教えの中から神様への全託行一つだけにしぼって、私は行じています。他にも素晴らしい教えがたくさんありますけれども、他の行法は思い切って捨ててしまったわけです。
 分かりやすく一言でいえば、他力易行道をさらに単純化して、他力一行道にしてしまったのです。守護の神霊への感謝行は、私は意識的にしません。守護の神霊に対しては、ひたすらご加護を願いつづけるのみです。守護の神霊に感謝する時間はありません。但し、自分一人のご加護だけを願うのではなく、個人を含めた人類の平和を願い続ける祈り言に昇華させています。世界人類が平和でなければ個人の幸せもありえない時代ですから。

 五井先生を信仰している方々にとっては、私のこうした行じ方について、狭いとか五井先生の教えのごく一部しかやっていないとか、否定的なご意見があることは充分承知しています。私は自分の行じ方を、すべての皆さんにやらせようとか、「そんな行法はやる必要ない」とか「そんなことはやっても無駄だ」とお節介を焼くつもりはありません。各人が納得する信仰をなさればよろしいので、私の信仰を皆さんに押しつける気持ちは毛頭ありません。
 ご自分の現在の信仰や行法に満足している方は、私の話に耳を傾けることはないでしょう。私がお話している相手は、「今まで種々な祈り方をしていたけれども、どうしても安心感が得られない。守護の神霊のみ心の中に入れるにはどうしたらよいのだろうか?」と悩み悶えている人々です。その人々の中で一人でも私の行じ方がヒントになり、安心立命への道に入れる手助けになれたら幸いであると思っています。そういうわけで、唯一会では神への全託行が中心になっていて、神への感謝行は特に課していないのです。


 「世界人類が平和でありますように」の祈り言は、「ありがとうございます」という言葉を使ってはいませんが、守護の神霊、宇宙神への感謝の心を含んだ言葉です。なぜならば、真実に感謝の心境になりますと、「ありがとうございます」とことさら言わなくなるからです。無言のうちに全身から感謝があふれてきます。そして、「世界人類が平和でありますように」と祈らずにはいられないものです。「神様ありがとうございます」とは祈るけれども、「世界人類が平和でありますように」とは祈らない人がいますが、その人はまだ真実の感謝の境地にいません。
 口先で「ありがとうございます」と言っている人は、立派な心境の人に見えますが、ほんとうはまだ真実の感謝の心境に至っていない人です。本当に感謝の心境になった人は、「ありがとうございます」と言ってみせることはしません。自分の高い心境を人に見せびらかすことをせずに、ただひたすら「世界人類が平和でありますように」と唱えているものなのです。感謝の境地になれば、世界平和を祈る言葉が自然に出てくるものです。

 前にも言いましたが、五井先生は「『神様ありがとうございます』で私は悟った」と度々おっしゃっていましたが、真実はそうではありません。別に嘘をついていたわけではありませんが、五井先生は、本当は「神様お願いします」の祈り言で悟りました。それは私自身の体験からはっきりと分かります。五井先生はさんざん「神様お願いします」を唱えた末に「神様ありがとうごさいます」の境地に達し、「神様ありがとうございます」の言葉だけが湧いてくるようになったと、私は自分の体験から分かります。
 しかし、五井先生だけを信仰している人は私の言うことは信じません。ですから、自己の信仰に満足している人には、私も説く気持ちはありません。多くはないかもしれませんが、私の言葉によって救われる人が地球上のどこかにいると思います。その人たちの為になれば幸いと思って、私は「世界平和の祈り唯一行」を説き続けています。


 世界人類が平和でありますように
 神様、お願い申し上げます


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   心よりお祈りさせていただきます。

  世界人類が平和でありますように
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