【いきなり真理の境地を求めるな
〜焦らずに「世界平和の祈り」を祈りましょう〜】
私がなぜ「私は神さまと一体である」という宣言法をやらせずに、「世界平和の祈り」だけしか教えないのか、何度も書いていることですが、その理由をお話しましょう。
人間というのは、悟りますと、悟っていなかった頃の自分の心境や行法を記憶としては覚えているのですが、感覚としては忘れてしまうものなのです。五井先生も、悟る前に行じていた行法と悟ってからの行法とは異なっているのですが、大悟しますと、「神さま、ありがとうございます」という感謝一念の心境になってしまったのです。悟る前に行じていた方法を、忘れるというよりも、必要なくなる、と言ったほうが正しいかもしれません。
悟った人は、「神さま、ありがとうございます」と常に感謝できる心境にいるわけですから、「こんなに易しいことはない」と感じているのです。そこで、たとえば「神さま、ありがとうございます」という祈りを人々に勧めるわけです。ところが、まだ悟っていない人にとっては、「神さま、ありがとうございます」と常に思うのは案外難しいわけです。悟った人から見れば、「なぜこんなに易しいことがみんなにはできないんだろう」と不思議に思うくらいなのです。こんなふうに、悟った人と悟っていない人とでは心境に大きな差があるわけです。
もうひとつの例をあげますと、悟った人は、「私は神さまと一体である」と、自然にそう思えるわけです。なぜならば実際に神我一体になっているわけですから、ことさら思い込まなくとも、自然にそう思えるわけです。ですから、悟った人が「私は神さまと一体である」と言うならば、それは真実であり、人々に真理の光明を投げかけることになるのです。そこで悟った人は、「私は神さまと一体である」と自然に思えるのですから、弟子に対しても、「私は神さまと一体であると、深く深く思いなさい」と、つい教えてしまうのです。自分の現在の心境を教えてあげて、「ここまで昇ってきなさい」と目標を示すわけです。
ところが、実は五井先生は、「私は神さまと一体である」とくりかえし想念した結果、神我一体になれたのではないのです。五井先生は「神さま、お願いします」という祈りによって悟ったのであって、「私は神さまと一体である」という想念をくりかえして悟ったわけではないのです。「神さま、お願いします」と祈りつづけますと、想念波動変換原理によって、「神さま、ありがとうございます」という想念に変換され、第二次変換として「私は神さまと一体である」という神意識に到達できるのです。「私は神さまと一体である」と深く思おうとして思っているわけではなく、自然に深く思える心境に到達しているのです。
その変換順序を経ないで、最初から最も高い「私は神さまと一体である」という絶対力の境地を想念しても、残念ながらいつまでたっても、「私は神さまと一体である」という意識にはなれないのです。この想念の変換原理を知らない人々は、絶対力の境地を早く手に入れようとして焦り、地道な祈り言をおろそかにして、「私は神さまと一体である」という真理の言葉を唱えるわけです。「私は神である」「私は完全である」「私は健康である」「私は無限の力である」「私は無限の富を持っている」「私は完全に自由である」「私は光明である」「私は何事も成功できる」「私は成功者である」「私は欲しいものをすでに手に入れている」というような真理の言葉や成功の言葉を連呼しても、真実に神さまと一体になることは不可能であるのです。それは想念波動変換原理を経ていないからなのです。
「世界平和の祈り」を祈りつづけていれば、自然に「私は神さまと一体である」と思える日が必ず来るのです。それを、人よりもなんとか早く悟ろうと焦って、「世界平和の祈り」を忘れ、悟った自分をイメージして、「私は神さまと一体である、私は神である、私は完全である、世界は平和で調和している」と宣言するわけですが、それは所詮、真実の境地ではないのですから、真理の言葉の力でなんとなく悟った気持ちにはなれても、いつまでたっても真実の悟りに到達することはできないのです。恐ろしいとか怖いという問題ではなくて、「私は神さまと一体である」と唱えても実際に神さまとは一体になれないと私は指摘しているのです。なぜならば、それは嘘の行であり、偽善の行法であるからです。
私は、五井先生からみ教えを学び、五井先生の言われた通りに行じてみて、自己の失敗の体験を積み重ねて、ようやく真実の道を発見できました。その体験から、五井先生のみ教えはもちろん正しいのですが、五井先生の弟子としての私の失敗を二度と味わわせまいと、五井先生のみ教えの中から誤解されやすいよけいな言葉を省き、「世界平和の祈り」一本槍の教えを私は確立したのです。
「神さま、お願いします」というのは、ふつうの願い事ではありません。「神さま、お願いします。世界人類が平和でありますように」という祈り言のことなのです。あるいは「世界人類が平和でありますように、神さま、お願いします」と言ってもかまいません。私たちが「世界人類が平和でありますように」と祈っている時には、無意識に「神さま、世界人類が平和でありますように、お願いします」と祈っているのです。口に出して言わないだけで、省略しているわけです。自分に合うも合わないも、「世界平和の祈り」を祈る時には、誰でも心の中では「神さま、お願いします」と無意識で祈っているわけなのです。「守護の神霊に頼らずに、自分の心の力で世界を平和にしてみせる」という人は別ですけれどね。
五井先生のご本を読んでいる時に、たとえばこんな教えが出てきたとします。
《皆さんは守護霊守護神と一体なのです。一体ではないと思っている思いが邪魔して離しているだけなのです。だから、守護神守護霊と一体なのだ、と深く深く思うことです》
(『続・如是我聞』No.118より)
そうしたら、「ああ、そうか。『世界平和の祈り』を祈っていると、こんなふうに『私は守護神守護霊と一体なのだ』と自然に深く思えるようになるんだ。ありがたいなあ。今の自分はまだそうは思えないけれど、こんな心境を目標にすればいいんだ。『守護霊様守護神様、あなたさまと私が常に一体でありますように、世界人類が平和でありますように』」というふうに「世界平和の祈り」へとつなげてゆくのです。
それを勘違いして、「ああ、そうか。『世界平和の祈り』なんかやっているよりも、『我は守護神守護霊と一体なり』と深く思ったほうがもっと高い心境に行けそうだな。五井先生がこのように教えて下さっているのだから間違いないだろう。よし、これからは『世界平和の祈り』は適当にやって、『我は神と一体なり』の宣言する行を主体にしてやってゆこう」と思っては駄目なのです。それは私自身もやってみて、そのやり方の不可能であることを体験したからよく知っているのです。
今の白光の会員さんたちがやっているようなことは、私がすでに30年も前にすべて経験済みのことなのです。私も真理の言葉を唱えたり、心の法則をさんざんやったのです。しかし、悟れませんでした。さんざん苦しんだ末に、五井先生のみ教えに戻って「世界平和の祈り」一念になったら、パッと悟れたのです。
ですから、皆さんには余計な回り道を歩かせないようにと、余計なことを説かずに、最も短距離で悟れる道、「世界平和の祈り」一本槍の道をひたすら教えているわけなのです。たとえば霊能力を得たい、神秘力がほしいというような気持ちがあったとしても、そういった欲望はすべて消えてゆく姿にして、ひたすら「世界平和の祈り」を祈るとき、焦らなくとも、自然に花が開くように、いつしか私たちは神の子の神性を顕現する日がくるのです。あなたは必ず神性を顕現できるのです。世界は必ず平和になるのです。その日を信じて、焦らず「世界平和の祈り」を祈り続けてまいりましょう。
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