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世界人類が平和でありますように
ようこそ!全託道場へ
 神奈川集会で使用した勉強用テキストをUPしました。全て森島先生の過去ログから編纂した貴重な資料です。
 2010年4月の神奈川集会で使用したテキストです。五井先生のみ教えの理解のための参考資料としてご利用下さい。
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全託道場山門 私たちの《信条》 神奈川集会テキスト[目次] 10年4月テキスト
世界平和の祈りに全託してゆくことが、今日の世界にとって、一番大事なのです。
(五井先生最後のお言葉)
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Explanation★ 私たちの《信条》

世界人類が平和でありますように

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神奈川集会テキスト録06:
「世界平和の祈り」につけたすものは何もない

(2010年4月18日)


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【目次】



【「世界平和の祈り」につけたすものは何もない】


□犯行声明文には「私は神です」と書かれていた

《3月14日午後10時45分頃、大阪府守口市の路上で、会社社長が容疑者Aに包丁で刺されて死亡した。凶行直後に、その場所を通りかかった会社員が容疑者を取り押さえ通報。現行犯逮捕された容疑者は、「京都の小2男児殺害事件みたいに、目立つ事件を起こしたかった。人を殺せば、私の話を聞いてもらえる。中年の男なら誰でもよかった」などと供述。さらに現場付近から「私は神です」などと書かれた声明文も見つかった。A容疑者は、大阪市旭区に住む男だった。》

(スポーツニッポン2000年3月16日記事)

 「私は神です」と言ったり書いたりする人間が必ずしも実際には神ではないという事実は、いささか古いですが、上の新聞記事にもあるように誰しもお分かりのことと思います。現場付近から見つかった犯人の犯行声明文には「私は神です」と書かれていました。
 このような事件は、日本だけでなく世界各地にも発生しており、“I am God”(我は神なり)と自称する新興宗教の教祖が、多くの信者を道連れに集団自殺した事件もありました。こうした事例でお分かるように、「私は神です」と言ったり書いたりすることは、特別な聖者でなくとも、たとえ狂人でも、できるのです。また、「私は神です」と唱えていれば、だんだんと神のように立派な人格になるわけではないという事実もお分かりでしょう。

 このように現実に起きた事例を直視することが大事なのです。
 「『私は神である』と唱えていれば神になれる」と信じている人は、現実に起こったこのような事件を直視して、「私のやっている方法は真実の宗教の道なのだろうか? このままこの方法をやっていて、ほんとうに私は神になれるのだろうか?」と自省してみることが必要であるのです。


□真理宣言行は危険な教義になる恐れがある

 「私は神である」と自己に言い聞かせることによって、「悪い行為をしてはいけない」という自己の良心のささやきを覆い隠し、生殺与奪の権威を持つ神になったつもりになり、殺人を行なう人間も存在するのです。いいかえれば、「私は神である」という真理宣言行は、一歩間違えると、殺人をも平気で犯してしまう危険な教義となってしまうのです。「私は神である」と思いこみますと、今まで良心の力に抑えられていた業想念が表面に出てまいりまして、「自分は神であるから、自分のやることはすべて正しい」と業想念行為を肯定するようになり、悪行為も悪行為と見えなくなり、善悪の区別がつかなくなってしまう危険があるのです。実際には業想念の欲望のままに動いているのに、「私は神である」と思って、みんながやりたい放題するようになったら、この世界は恐ろしい事態となってしまいます。

 本心と業想念の区別をつけることが大事なのです。神のみ心と欲望の区別をつけなくてはなりません。業想念の人間は業想念の人間でありまして、神人と見てはいけないのです。業想念に覆われた人間を「神である」と呼んではいけないのです。そんなことをすれば、業想念を肯定することになり、業想念は消えてゆきません。


□成功哲学書の著者たちは業想念の力を甘く見ている

 宗教の目的は、「私は神である」という神我一体の自覚を得ることには間違いありませんが、しかし、「私は神である」という言葉を唱えていても、神になることはできません。成功哲学者の著書には、「私はすでに成功した!」「私はすでに成功している!」というように、過去形や現在形を用いて、目標を達成した状態をありありとイメージし、その言葉をくりかえし唱えていれば目標を実現できる、という教えがあるのですが、この方法を応用して、「『私は神である』と唱えていれば神になれる」という教えを発表している宗教者がいるのです。
 この点について、幾つかの同じような例を出し、考えてみましょう。


 病院のベッドで寝ている人が、「私は病気ではない、私は完全な健康体である」と唱えることによって、真理の言葉によるショックによって一時的に病気が治ることはありえます。しかし、それはあくまでも一時的な心理療法であって、根本的に病気を治すことはできません。自己催眠状態から覚めれば再び病気になります。真理の言葉によって病気を治すことは、それほど簡単なことではないのです。ところが、真理宣言行を説く本には、いかにもやすやすと真理が実現するように書かれているのです。
 「あなたは成功できる」「あなたは健康になることができる」「あなたは大金持ちになれる」「あなたはあなたの願う通りの人間になれる」「あなたはあなたの望む通りの人間になれる」という魅力的なキャッチフレーズに惹かれてその本を読んでも、誰しも成功できるものではありません。なぜかと申しますと、善いことを思おうとしたり、善いことを実行しようとしましても、業想念が邪魔をするからなのです。この業想念の存在を無視して、人間は成功できるものではありません。路傍の浮浪者が、「私は貧乏ではない、無限の金持ちである」と唱えることによって、奮起して金持ちになることがあるかもしれませんが、実際にはそのような実例を私は見たことがありません。誰しも、その言葉を唱えることよって金持ちになれるわけではありません。ほとんど不可能に近いのです。小さな目標であるならば、目標を達成することはできます。しかし、ちょっと大きな目標となりますと、実現することはできません。そのわけは、成功哲学者たちも知らない業想念の力が存在しているからです。


□「私は神です」という真理宣言法の欠陥

 受験生が「私は東大に入学している」とイメージしても、学校で公言はできません。国会議員が「私は総理である」とイメージしても、社会に発表することはできません。このようにイメージ法は公言できないことが多く、自分一人の胸にしまいこまねばなりません。自分の目標のイメージを現在形で公表すれば、馬鹿にされたり否定されたりしますから、自分のイメージは友人や家族にも黙っていなくてはなりません。それが次第に、非常に心苦しくなってくるのです。

 同じ宗教団体の内部ならば、「私は神です」とイメージすることはできますし、発言もできます。しかし、あくまでもその発言は同じ宗教の信徒の間だけで通用するのでありまして、社会では通用しません。しかも、どこまでいっても、その神の子観は観念論の域を脱することなく、実観として思われてはこないのです。「私は神です」と唱えても、不完全な人間が唱えているのですから、誰も信用するはずがありません。一つの宗教団体の道場内で「私は神です」と唱えていても、一般人との社会生活の中で当たり前に使うことができないのでは実用的とはいえません。
 しかも、「私は神です」と思うことによって、最初に例として示した事件のように、「自分のやることはすべて正しい」と、自分の業想念までをも正当化したり、迷った霊に憑依され、わけの分からない奇妙な言動をする危険もあります。神になってもいないのに、無理に背伸びをして神になったふりをしようとするから、正直な人は、世間の人と当たり前のつきあいができなくなって非常に心苦しくなってくるし、一方、正直でない人は偽善者となって、ますます虚栄の強い人となってしまうのです。


□「人は神です」という真理宣言法の欠陥

 また、毎日のように殺人事件が起きておりますが、殺人犯に殺された人の家族に対して、「人類はみな神である。殺人犯もまた神である」と言えるでしょうか。実際には、そんな言葉をかけることはできないと思います。ということは、「人類は神である」という真理宣言行は現実離れした観念論にすぎない、実際には使えない観念論であるということです。


□「我は神なり」の言葉と「みんなプロセスにいる」の言葉は矛盾している

 このように私が言うと、「殺人犯は、もちろん神ではない。みなプロセスなんです」と言う人がいます。それならば、「人類は神である」と断定的に宣言しないで、「人類は神になるプロセスにある」と宣言したらいいではありませんか。「人類は神である」ということは、「人類はすでに完全である」ということでしょう? 現在時点の真理の完全実現を宣言しておいて、現実との矛盾を追求され、答えに窮すると、「今はプロセスである」と答えるのは、矛盾した二元論を持っているのです。

 「人類は神である」ということは、「人類は完全である」ということなのです。完全とはプロセスではないのです。それでいて、現実の不完全さを突きつけると、「今はプロセスである」と逃げるのです。「今はプロセスである」と言うならば、「今の人類は完全ではない、今の人類は神ではない」と言うべきでしょう。「(今)人類は神である」と言っておきながら、「(今)人類はプロセスにある」と言うのは、矛盾極まりない頭の持ち主としか言いようがありません。この矛盾に気づいて下さい。
 もう一度申しますが、「現在の人類はプロセスにいる」と言うならば、どうして初めから「人類は神になりつつあるプロセスにいる」と宣言しないのでしょうか。「(現在すでに)私は神である」と宣言しながら、「(現在はまだ)私は神になるプロセスにいる」と平然と矛盾を説く態度に、私はあきれはててしまうのです。「現在の人類はプロセスにいる」と言うならば、「我は神なり、人は神なり、人類は神なり」などと、すでに自分がプロセスを超えて完全な境地に至ったかのように説くべきではありません。


□五井先生の神の子観は現実と理想をつないだ神の子観

 「今の人間は神に至るプロセスにいる」という点については、私も同感なのです。「本来(本質的に)、我は神なり、人は神なり、人類は神なり」と説くのは結構なのですが、現在の時点において、「我は神なり、人は神なり、人類は神なり」と宣言するには早過ぎると言うのです。そのように、真理を宣言する時期はまだ来ていないのです。
 真理を早く実現したい気持ちは私にも痛いほど理解できますが、私たちは焦ってはいけません。現在なのか、過去なのか、未来なのかをはっきり言わずに、「我は神なり」と言えば、それは多くの場合「現在」と解釈されます。「我は神なり」と言えば、「現在、我は神なり」と言っていると人からは解釈されます。本来性、本質を言うのであれば、「本来、我は神なり」と言わなければ正確とは言えません。

 五井先生も人間神の子完全円満論であるのですが、生長の家と違う点は、「本来、人間は神の子完全円満であるが、現在の人間はまだ神の子ではない。現在は業想念が存在していて、神の子の本心を覆い隠してしまっている。しかし、時間の経過と共に、未来にゆくにつれて業想念は消えてゆき、人間は本来の神の子の姿を現してゆくのである」と説明している点です。
 言い方を変えれば、生長の家の神の子観は「現在、人間神の子完全円満論」であるのに対して、五井先生の神の子観は、「現在、人間凡夫不完全論」の現実と、「未来、人間神の子完全円満論」の未来に、新たに時間の要素を導入して、二つをつなぎ合わせた神の子観であるのです。生長の家の神の子観は、理想には矛盾しませんが、現実には矛盾してしまいます。それに対して五井先生の神の子観は、現在にも矛盾せず、理想(未来)にも矛盾しないのです。その現在と理想(未来)をつなぐ言葉が、業想念を見れば「消えてゆく姿」という教えになり、本心を見れば「必ずよくなる」という教えになるのです。


□「世界平和の祈り」は、プロセスの方法ではなく、永遠に消えることはない

 やたらに何でもかんでも、「それはプロセスです、みんなプロセスです」と説き、「世界平和の祈りもプロセスである」と説いている人がいますが、それはとんでもない間違いです。「世界平和の祈り」は、プロセスの方法ではなく、完成された方法であります。現在の業想念が消えてゆく姿であり、現在の世界が完成へのプロセスにいることは確かですが、「世界平和の祈り」はプロセスの行法ではありません。「世界平和の祈り」は、人類に永遠に必要な祈りであるのです。
 「世界平和の祈りはプロセスで、我は神なりという真理の言葉の宣言こそが究極の行である」という教えも、まったくの誤りです。「我は神なり」という真理の言葉を宣言する行法の方こそ誤てる行法であるのですから、いずれ必ず消えてゆきます。それに対して、「世界平和の祈り」は真実の行法であるのですから、永遠に消えてゆくことはありません。「世界平和の祈り」は永遠に後世に伝えられるのです。「世界平和の祈りはプロセスの方法である。我は神なりの宣言こそ究極の方法である」と説いている人があったら、その人は五井先生のみ教えを知らず、神のみ心もまったく知らぬ、神のみ心に反した人であるのです。

 本心と業想念をはっきりと区別できなくてはなりません。「世界平和の祈り」は本心の現れでありまして、業想念ではないのですから、永久に消え去ることはないのです。「世界平和の祈り」はプロセスの方法ではありません。「世界平和の祈り」こそは、神から給った最後の方法であるのです。「世界平和の祈り」は神のみ心であるのですから、永遠に消えてゆくことはありません。「世界平和の祈り」は完全な方法であり、永遠の光明として人類を照らしてゆくのです。


□真理宣言行の欠陥と想念法則による善念行の欠陥

 宗教者は真実の道を教えなくてはなりません。欠陥のある行法は、「効果がなかった」では済まされません。無理な真理宣言行は、自己を偽善者に陥れ、口先だけの高い真理の言葉と自己の実際行動とがあまりにも離れている事実を知るにつれて、次第に自己を責めさいなむ地獄へと落ちてゆくのです。また、想念の法則による善念行(運命改善法)は、「善いことを思えば善い運命が現れる」と、成功を説いて人々を引きつけながら、その先には、「あなたが不幸なのはあなたが悪いのだ」と人を責め裁く地獄が待っているのです。
 私がさかんに誤てる宗教について警告をする理由は、誤てる宗教は「効果がなかった」では済まされないからなのです。欠陥のある行法を信徒にやらせますと、本心開発から遠ざけてしまうだけではなく、自分や他人を責め裁くという責め地獄に人々を陥れてしまう危険があるのです。


□真実の「世界平和の祈り」に誤った行法を付け足すな

 「世界平和の祈り」を祈ることに徹していさえすれば、自分や他人を責めることはありません。ところが、「世界平和の祈り」だけを祈っていればよいのに、「世界平和の祈り」に真理宣言行や想念法則による運命改善行等の誤った行法を付け足しますと、せっかくの「世界平和の祈り」がその効果を無くしてしまうのです。
 但し、古くからある伝統的な祈り言、たとえば神道の祝詞、仏教の読経や念仏、キリスト教の主の祈りなどの正しい祈り言や行法に「世界平和の祈り」を加えるのは、これはなんら問題はありません。誤った行法を付け足すと「世界平和の祈り」の効果が失われる、というのです。


□世界平和の祈りの原理とその他の行法の原理の違い

 なぜならば、「世界平和の祈り」の原理と、真理宣言行の原理と、想念法則による運命改善行の原理の三つは、同じ原理ではなく、全く異なった原理であるからです。


◆【「世界平和の祈り」の人間観】

 「世界平和の祈り」の人間観は、「人間は本来、神の子であって業生ではない。現在の人間は、肉体界に完全な神の子の姿を現す途中にあるから、当然不完全である。しかし、その不完全さも時間の経過と共に消えてゆき、未来は完全な神の子の実相を現すのである」というように、現実と理想をつなぐ中庸の神の子観であるのです。現実の悪や病気や不幸の存在を認めているのですから、現実の事柄に矛盾しません。しかも、時間の経過とともにそれらの不完全な姿は消え去ってゆく、というのですから、理想にも矛盾しないことになります。そこで、現実と理想をつないだ中庸光明思想というのです。


◆【真理宣言行の人間観】

 一方、真理宣言行の人間観とは、「現在の人間は神である。我も人も人類も、みな神なのである。我も人類も完全なる神であるのだから、当然悪や病気や不幸はあるはずがない。悪人も病人も不幸な人も存在しない。現在、悪も病気も不幸も無いのだ」という理想(実相)だけを見た神の子観であるのです。この神の子観は、人間本来罪の子観よりも明るくて勇気を与えられる光明思想であるのですが、現実無視という欠陥があり、現実の悪や病気や不幸の存在を「そんなものは無いのだ」としか説明できないのです。悟り寸前の高い心境の人ならば、その言葉が契機となってパッと悟れるかもしれませんが、ふつうの心境の人々が、そんな真理の言葉を聞いても納得できるはずがありません。そこで指導する側は、「そんなものは無いのだ」では押し通すことができなくなって、苦しまぎれに「想念の法則論」を持ち出してきてしまうのです。


◆【想念法則による善念行の人間観】

 想念法則による善念行の人間観とは、「人間の本来の性は善悪混淆したものである。人間は善いことを思ったり、善い行為をすることもあるが、悪いことを思ったり、悪い行為をすることもある。人間の意思力によって、運命が善くなったり悪くなったりするのだ。幸福も不幸もあなたの想念の結果であり、あなた自身があなたの運命を作っているのだ。だから、幸福になりたかったら、悪い想念を思わずに善なる想念を強く念じたらよいのだ。但し、もし不安や恐怖を思ったりすると、その通りにその不安や恐怖は実現化してしまうから、それは注意しなければいけない」と教えるのです。この人間観では、善も存在するけれども悪も存在するのですから、どこまで行っても油断できず、自戒しつづけなくてはなりませんから、心が晴れやかに光明化することはありません。


□想念法則を利用した善念行は真実の光明思想の行法ではない

 想念法則を利用した善念行を「光明思想の行法である」と説いている宗教者がいますが、これもとんでもない誤解です。善念を積み重ねてゆく行法は積極思想でありまして、光明思想とは違います。
 想念法則の原理から光明思想が生まれることは決してありません。「人間は神の子であり、善のみ実在する。本来の人間は悪いことを思わない」という教えが光明思想であるからです。積極思想を光明思想と同じと誤解している宗教者は、光明思想の真実の意味を理解していないのです。


□想念の法則(心の法則)には恐怖の法則というマイナス面がある

 想念の法則とは、そのマイナス面を見れば、「失敗するかもしれない」「できないかもしれない」「ガンになるかもしれない」「ケガをするかもしれない」「受験に落ちるかもしれない」「結婚できないかもしれない」「失業するかもしれない」と恐怖すれば、その恐怖の念の通りに形となって現れるであろう、という教えでもあるのです。

 どんなに善念だけを念じて、次々と湧いてくる悪念を否定しようとしても、悪想念(悪業)の圧倒的な影響を受けて、善念だけを念じるのは非常に困難です。そして結局、「これほど善念を念じても一向に運命がよくならないのは、過去世で私はよっぽど悪い行為をしたに違いない」と、ひどく暗い気持ちになって、恐怖に怯えて生活するようになったり、自分を責めてしまうのです。そして、人に向かっては、「あの人が殺されたり、あの人があんなに不幸になったのは、あの人が悪いことをしたからなのだ」と、思いやりも同情もなくなって、法則だけをとらえ、冷たく責め裁くようになってゆくのです。
 宗教とは愛と赦しの教えであるはずなのに、このように想念の法則を聞いたばかりに、自分や他人を責め裁くようになって、冷酷な人間になってゆき、宗教の本質から外れていってしまうのです。想念の法則を用いた善念行は、単純で誰にも分かりやすいのですが、このような欠陥があるのです。


□「世界平和の祈り」は不完全な行法ではなく、低い行法でもない

 「世界平和の祈り」だけあれば、自然法爾に人間は神の子になってゆくのであり、世界は平和になってゆくのですから、現実を無視した無理な真理宣言行は不要なのです。また、すべての業想念が消えてゆく姿であり、いつかは無くなってしまうのであると知り、未来において人間は神の子の姿を現すようになると知れば、想念法則を利用した善念行も不要となるのです。それなのに、完全完璧な最新の「世界平和の祈り」を祈りながら、「世界平和の祈りだけでは足りない」「世界平和の祈りは低い行である」と、「世界平和の祈り」を軽蔑し、五井先生が過去に捨てたはずの無理な真理宣言行や想念法則による善念行を加えて、「今は五井先生の時代とは違う。私は五井先生よりも進んだ高い教えを説いているのだ」と自慢しているようでは甚だ困ります。


□「世界平和の祈り」に全託した私は強くなった!

 「世界平和の祈りは、最高最善完全完璧の行法である!」
 「この意見に文句がある人は、遠慮なく私に言ってきなさい」
 と私は書いておりますが、正々堂々と論理的に私に反論してくる人は一人もいません。それは、私の意見は五井先生のみ心であり、神界の神々のみ心でもあり、絶対に正しい意見であるからです。私自身は欠点の多い未熟な人間ですが、「世界平和の祈り」については、私は誰と議論しても、宗教議論に負けることはありません。なぜならば、私は絶対に正しい意見を主張しているからです。

 「世界平和の祈り」は、守護の神霊のみ心に適っていることはもちろんのこと、地球界の聖者賢者のみ心にも適っており、宇宙神のみ心にも適った絶対に正しい行法です。「世界平和の祈り」を正面に高々と掲げながら進んでゆく私たちをすべての神々が応援して下さるのですから、私たちの進路を妨げる者は一人もありません。「世界平和の祈り」に勝る行法は一つもありませんし、「世界平和の祈り」は絶対的に真実であるがゆえに、絶対的に強いのです。「世界平和の祈り」ほど強い光明力を持った祈り言は他にはありません。「世界平和の祈り」と一体になった人は、何者にも負けぬ、何ものにも挫けぬ絶対的な強いパワーを得るのです。実際に「世界平和の祈り」に全託した私自身、以前とは比べものにならないほど精神的に強くなりました。世界平和の祈りに全託してから、「私は世界中の誰にも負けない。私に敵はいない。私は絶対的に強くなった!」と、私は心の底から思えるようになったのです。


□「世界平和の祈り」は何よりも自然な行法

 「世界平和の祈り」を祈っている私たちを神々が応援しないはずがありません。「世界平和の祈り」に反対する神々はおりません。神のみ心を体得した真実の宗教者ならば、「世界平和の祈り」を認めないはずがありません。
 「世界人類が平和でありますように」と祈ることは、「私は神です」とことさら口先で言わなくとも、神の子の行為であることは間違いありませんし、周囲の人から変に思われませんし、恥ずかしい想いをすることがありません。どう考えてみましても、「私は神です」という真理の宣言行よりも、「世界人類が平和でありますように」と守護の神霊に祈る行の方がはるかに自然です。真理の言葉に把われ、心の法則(想念の法則)に束縛され、自力多行難行に束縛され、不自由になることが宗教ではありません。自然な「世界平和の祈り」によって、私たちは真の自由を得ることができるのです。


□法祖の奥深い心で完成した教えを台無しにしてはならない

 現代の宗教者が、宗祖から伝えられている古くからの伝統的教義にあきたらず、新しい宗教書を読みあさり、「これは今までとは違う画期的に進歩した善い教えだ」と新しい教えを導入したつもりでいても、実際には、以上述べたように非常に恐ろしい欠陥を持っていることがあるのです。宗祖の深い洞察とご努力によってせっかく完成された教えを、後継した宗教者が浅い心境のために理解できず、台無しにしてしまっては実にもったいないことです。


□おわりに

 「世界平和の祈り」は神性開発に最も効果のある道であり、少しも危険がなく、最も安全な道であるのです。「世界平和の祈りよりも、こちらの行の方が効果的だ」という甘い誘惑の言葉に惑わされて、安全な道から危険な道へとわざわざ踏み外してはなりません。「世界平和の祈り」以上の神性開発の道などは無いのです。「あなたを神人にしてあげる」「あなたの願望を叶えてあげる」という甘い誘い文句に乗らずに、地道に日々「世界平和の祈り」を祈り続けて下さい。「世界平和の祈り」こそは神様の最高のご神示であり、「世界平和の祈り」を祈る人こそ真実の神の子として讃えられるのです。

 「世界平和の祈り」に付け足すものは何もありません。「世界平和の祈り」は完全であるのです。誤った行法を付け足してしまえば、かえって「世界平和の祈り」の効果をそれだけ損なうのです。誤った行法に無駄な時間を費やすことなく、私たちは「世界平和の祈り」一つに生命を懸けてまいりましょう。


世界人類が平和でありますように


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【五井先生は
 「世界平和の祈りは最高の祈りである」と宣言している!】


【五井先生のご講話より】

 《二人なり三人なり同志がいて、「神様お願いします。あの人の天命が完うされますように、どうかあの人が立派になりますように」という祈りの心を出すと、祈りは光であり、神のみ心ですから、光がその人のところへ行って、業をはぐというか、業を薄めてしまうわけです。それが五人なり十人なり団体になると、大勢の祈りが光となってその業を消してゆくわけです。言葉で、「だめだ」「いい」と言うよりも、そうやって光を投げかけてゆくと、いつの間にか業がはがれてしまって、神様の軌道に乗れるわけ。本心が現れるわけです。そういう行じ方を、私は教えているわけです。

 自分の業も消すんだし、人の業も消すんだし、消すためには、肉体の自分の力だけでは足りないから、神様の力を借りてきて、「守護霊さん、守護神さん、よろしくお願いします。あの人の天命が完うされますように」という祈りの心でもって、「あなた、こうしましょうよ。私も一生懸命やるわ」というようにやれば、「ああ家内が応援してくれる」「子供が応援してくれる」「うちのお母さんは応援してくれる」というふうになって、自分の力が倍加してゆくわけです。

 人間の生き方としては、焦ってはだめ。平和の祈りに入っている人は、平和の祈りの中で、運命は決まっている。「世界平和の祈りは最高の祈り」なのだから、みんな人類が平和になるということは、神様のみ心だから、平和の祈りに入ったら、その人は悪くなりようがないです。そのうちに、いいも悪いも問題でなくなって、この世の現象のいいとか悪いとかは問題でなくなって、いつも心が平安であることだけを、目指しててゆくようになってしまいます。》

(白光誌1999年5月号「いのち自由に生きる」五井昌久講話より抜粋)

【私の解説】

 以上のように、五井先生は「世界平和の祈りは最高の祈りである」と明確に説いているのです。最高の祈りであるということは、言いかえれば、「世界平和の祈り以上の高い祈りや行法は無い」ということなのです。ですから、「世界平和の祈りよりも、この方法はもっと良い方法である」と思うその方法は、神からの神示で来たものではなく、迷いから来たものであるのです。


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2010.5.10 ページトップへ

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   心よりお祈りさせていただきます。

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