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世界人類が平和でありますように
ようこそ!全託道場へ
 心をひとつに世界平和の祈り 批判するという行為の意義って一体何なのでしょう? 
 批判を殊更に嫌う人の多い中、キリストの行為を例として、この問題についてアプローチしてみました。
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全託道場山門 Essay☆目次 批判はお嫌い?
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一人でも多くの人が、世界平和の祈りを祈って下さることを念じているのである。
(五井先生最後のお言葉)
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世界人類が平和でありますように


TITLE☆ 批判はお嫌い?




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☆唯一会主催・森島恒吉先生の言葉


[宗教とは無批判の人間をつくることではない]

 批判と悪口(誹謗中傷)は違います。正しき批判は、神のみ心の現れであり、相手の業を浄め、相手の本心を開き、社会国家を正す力があります。それに対して、悪口は、自己の欲求不満からくる業想念であり、自分を卑しめることになります。宗教とは、無批判の人間をつくることではありません。宗教をやればやるほど、善悪の判断がつくようになり、批判力が鋭くなってこなければなりません。宗教をやって、無批判の人間になったとしたら、それは誤てる宗教です。

[批判は神のみ心・批判と悪口は違う]

 鋭い批判力を持ちながら、寛容力も併せ持ち、自己の心を乱さず平静を保ち、いかなる権力にも屈せず、恐怖感にも臆することなく、勇気を出して、言うべきことを言うことが、宗教者のあるべき姿なのです。 正しい批判についても、それは悪口である、それは誹謗中傷である、と断定している人がいますが、そう思うのは、その人が批判と悪口を区別できないからです。批判と悪口の区別は、心を澄ませば、おのずと判ってくるものです。そして、批判をした後は、相手の天命の完うを祈ってゆく必要があります。祈りに始まって祈りに終わる生活こそ、宗教者の生き方であるのです。

(PEACE NIFON 過去ログより)


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+世界人類が平和でありますように

 調和するということは、相手の間違っていることをそのまま容認しておくことではない。誤ちを正さなければ、業を光に照らし出して消さなければ、真実に相手と調和することはできない。

(高橋英雄編著『続 如是我聞――五井先生の言葉――』より)


 本稿は、以前キリスト教関係の掲示板に書いたものに手を入れて青空掲示板にUPしたものが元になっています。その時2回に分けた投稿内容を一本にまとめ、更に内容を半分ぐらいに圧縮して、昨年('02年10月)ある文章教室の課題原稿として手を入れて提出したものが下記の文章です。
 批判的な営みに対しては色々ご批判がある方も多くいらっしゃいますので、その誤解を解くためにも、内容に手を入れ、前々より詳しく書いておきたいと思っているテーマではあるのですが、今回は取りあえずそのままの形でUPすることに致しました。




エッセイ原文をスキップして、参考資料へ


【本文:批判はお嫌い?】


 とかく批判すなわち《攻撃》と取られやすいものですが、批判的なやりとりといえど本来は《対話》であるはずです。ここではキリスト教を例に批判的行為の意義を強調しておきたいと思います。

 聖書には、《「隣り人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。》という言葉があります。自分たちにとって異質な価値観を持つ人々を敵視する 「他者否定」の在り方(選民思想)を排し、その代わりに真に人道的な在り方を自らの生命をかけて開示したのがイエスその人であったのです。
 このような形で律法(主義)を繰返し批判するイエスは、しかしその一方で、《わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。》とも言っています。矛盾とも見えるこのイエスの言葉の真意は、批判という行為を通して聖書を真の意味で《聖》書たらしめるためのもので、その意味でイエスの言動は妥協ではなく真の調和を求めての行為であったことが了解されます。
 そんな訳でイエスの批判は、相手を批判することで、すなわち相手の誤ちを正すことで、あくまで「相手を正しい生き方に導きたい」との強い《愛念》から発しているのです。パリサイ人に対するイエスの批判はそれこそ激越を極めますが、これだって一人ひとりの具体的なパリサイ人たちをイエスがどれほど愛していたかの証拠だとは考えられないでしょうか? 《聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。》と言いながら、――これはイエスの憤りの言葉でもあると思うのですが、――そして殺されるのが分かっていながら、彼ら敵対者に対してイエスは愚直に「真理」を投げ与え続けたのです。批判するという行為には、実はこのように《愛》があるのです。
 もっともそうは言っても、一般に宗教を信仰している人に批判を嫌う傾向が強いことも事実でしょう。しかし、本来は宗教の道に深まれば却って善悪の判断がつくようになり、批判力が鋭くなってゆくもので、無批判に何でも受容することが正しい宗教信仰の態度ではないはずです。それは仏教とて同様で、たとえば修行者を誰でも「法友」として対等に遇した釈迦の教団は、まさに当時のカースト制度に対するアンチテーゼであったとも解釈できるわけです。
 批判するという行為は、このように、真理を真理たらしめるために、そして、真理を本当の意味でこの世に活かすために本来必要な行為であるのです。要するに批判的行為とは、人を真に自由にし、そのいのちを真に生かすかすためのもので、これこそは 仏教が究極的に求めるところでもあるのです。
 皆様のご批判をお待ちしております。
※聖書の引用は日本聖書協会・口語訳聖書によりました。





世界人類が平和でありますように



 【参考資料】

 以下に、冒頭に引用した唯一会主宰・森島恒吉先生の文章を過去ログより重複を厭わず全文引用・紹介します。また、白光真宏会開祖・五井昌久先生の文章を一部引用しておきます。ご参考になさって下さい。





有意義な議論とするために

No.4193 森島 恒吉    2002/03/24 (日) 20:58 富士宮
世界人類が平和でありますように

[有意義な議論のためのルール]

1.自分の立場を明らかにする。
2.一つのテーマに焦点をしぼる。
3.簡潔にわかりやすく書く。
4.抽象的ではなく、具体的に表現する。
5.他の主張を批判する時にも、品位を失わない。
6.他の主張を否定したら、その代替案を提案する。
7.相手の主張を理解するように努める。
8.自分の主張を相手に理解してもらえるように努める。

3年間半の掲示板での議論を通して、以上のルールがまとまりました。たとえ、お互いの意見が合致せずに、平行線のままで議論が終わったとしても、それは決して無駄ではありません。「相手が何を思っているのか」とお互いに相手の考えを知っただけでも、その議論は有意義なものであったと思います。

[自分を批判してくれる人は、最良の友人]

自分で自分の誤りは、案外気がつかないものです。ニンニクを食べて、くさい息を吐いていても、自分では気がつきません。親しい身近な人に「くさいわよ」と言われて、「アッ、そうだったか」と気づいて、口の中を洗ったりします。そのように、自分を批判してくれる人は必要なのですし、自分にとって、ありがたい人なのです。自分を批判してくれる人こそ、最良の友人なのです。

[宗教とは無批判の人間をつくることではない]

批判と悪口(誹謗中傷)は違います。正しき批判は、神のみ心の現れであり、相手の業を浄め、相手の本心を開き、社会国家を正す力があります。それに対して、悪口は、自己の欲求不満からくる業想念であり、自分を卑しめることになります。宗教とは、無批判の人間をつくることではありません。宗教をやればやるほど、善悪の判断がつくようになり、批判力が鋭くなってこなければなりません。宗教をやって、無批判の人間になったとしたら、それは誤てる宗教です。

[批判は神のみ心・批判と悪口は違う]

鋭い批判力を持ちながら、寛容力も併せ持ち、自己の心を乱さず平静を保ち、いかなる権力にも屈せず、恐怖感にも臆することなく、勇気を出して、言うべきことを言うことが、宗教者のあるべき姿なのです。 正しい批判についても、それは悪口である、それは誹謗中傷である、と断定している人がいますが、そう思うのは、その人が批判と悪口を区別できないからです。批判と悪口の区別は、心を澄ませば、おのずと判ってくるものです。そして、批判をした後は、相手の天命の完うを祈ってゆく必要があります。祈りに始まって祈りに終わる生活こそ、宗教者の生き方であるのです。

MAY PEACE BE IN THE WORLD



☆白光真宏会開祖・五井昌久先生の言葉


[批判と悪口]

 宗教の道とは、ただ無批判に、なんでも善なりと観ることではない。宗教の道に入れば入るほどはっきりした批判力が出てくるのであって、心が馬鹿のように無批判になるのではない。直感的批判力をはっきりもちながら、その批判力さえも消えてゆく姿と観じてゆくところに、はじめて空なる境地が展けてきて、空即是色といわれる、真実の世界がその人の世界となってくるのである。
 人の悪口をいわぬことは勿論よいことだが、一切の批判力を失わせるような宗教を、私は是とするものではない。智と直観とが全く一つとなってこそ、真実の世界があらわれてくるのである。

(五井昌久著『神への郷愁』 p.219)


今回UPの文章を書くに当たっては、以下の著書を特に参考にしました。

青野太潮著『どう読むか、聖書』朝日選書
※本書は、批判精神の大事さについて理解するためにも とても参考になるお薦めの本です。





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