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世界平和の祈りに全託を! 何ごとも「あれもよい」「これもよい」では駄目なのです。
日頃から考えていることを述べてみました。自力・他力に関わらず、どれか一つの道に専心いたしましょう! |
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一人でも多くの人が、世界平和の祈りを祈って下さることを念じているのである。
(五井先生最後のお言葉)
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世界人類が平和でありますように |
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+世界人類が平和でありますように
公開時に簡単に直してUPする予定でいましたが、なかなか時間が取れません。でも、とても大事な内容ですので、ごく簡単に書き直したのみで取り急ぎUPしておきます。
少しずつ書き直してゆこうかなとも思っています。そのつど読んで下さいね^^
(※なお、本エッセイの続編に当たる投稿を教義解説の部に「森島メソッドは単純明快矛盾なし」と題してUPしましたので、是非そちらもご覧下さい。)
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何事もその道に徹しなければいけません。徹するということは、把われるということではありません。今日こそ一つの道に徹し切るよい時期なのであります。もう一つの道しかなくなってきているのです。
(五井昌久著『純朴の心』p.137より ゴチックは引用者)
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滋賀県の山の中でお祈り三昧で暮らしている「ありがとうおじさん」という方がいらっしゃるそうですが(ありがとうおじさんに関しては、ありがとうおじさんのお祈りの会〔ツアー〕に参加されている方が前に東京集会に参加されたことがあったので、ありがとうおじさんの存在は唯一会の人たちも1年ちょいくらい前から知っていました)、そのありがとうおじさんの住まいにゆくと、五井先生直筆の「神」のお軸があり、さらにお祈りの時間になると白光の統一テープが流されるのだそうです。
さて、そのありがとうおじさんは「世界平和の祈り」の中の最後の「ありがとうございます」が凡てだ、という意味のことをおっしゃっておられるそうですが、私たちは逆に冒頭の「世界人類が平和でありますように」の文言に全託をしているということになるでしょうか。(本論から外れますので、この辺のことについてはここでは触れません。) 何れにせよ、どちらかに全託すればよいので、――いや、自分が選んだ道に全託しなければいけないので、――よくいるいわゆる“精神世界ごっこ屋”さんたちのように、「あの方法も素晴らしい」「この行法にも見るべき点がある」などと言っているようではいけないと思うのです。
いいえ、断言したいのです。断言できるだけの信念があるのです。
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以前、上記のようなことをある掲示板に書きましたところ、私が他宗教や自分たち以外の行法を行じている方々を批判して排他的に振る舞っていると勘違いされたのか、直接名指しではありませんでしたが、「争いは他を排除した限定や断定の心から始まる。だから、すべてを受け入れないといけないのだ」という意味の投稿をなさった方がおられました。要するに、「批判(する心)はいけない」ということなのでしょうが、これについては「批判はお嫌い?」をご参照下さい。
その方のおっしゃりたいことはもちろん私もよく分かっているつもりですし、言っていることは確かに正しいのです。ただ勘違いをされる方が多くおられるように思いますので、ここでコメントをしておきたいと思います。何も私は自分たちと違う立場の方々の信仰や信条をただそれだけで批判しているわけではないのです。結論を先に言ってしまえば、私は、あくまで自分の進むべき道は一道専心でなければならず、その道はそれこそ「排他的に」選択されなければならない、という意味のことを言っているに過ぎないのです。
もっともこのような「排他的」というような否定的な表現を使うと、それだけで過剰反応を示す人が精神世界かぶれの人には多く見受けられますが、これはとても大事なことです。道を選ぶということは、どれかひとつの道を選ぶので、あれもこれもではいけないのです。というよりも、そんなことは出来るように見えて実は出来ない。富士山に登るのに吉田口と御殿場口から同時に登ることが出来ないのと同じように、要するに不可能なのです。
多くの人はその辺のことを知らないので 仕方がないのですが、初心者のうちはどうしても趣味的な気持ちが抜け切れず、あれもこれもと目移りして欲張ってしまうのです。けれども、そのような態度でいつまでも修行している限りは修行の完成は決しておぼつかない。その意味で、道は一道でなければならず、その道は(自分の中で)排他的に選択されなければならない、ということになるのです。決して(他に対して)その道を進んでいる方々やその思想を排他しているわけではありません。
そんな訳で、上記発言で私が批判したのは、あくまで‘何らかの道を一心に進んでいる方’ではなく、‘あの道この道を「つまみ食い」的に学んでいる方’に対してのものであったのです。これはとても大事なことなので、こちらで詳しく書くことをそのとき決意した次第です。ただ冒頭に書いた通りですので、今回はなるべく簡単にこの問題に触れるにとどめることにします。(なお、書きながらの少しずつのUPですので一部に重複等があるかも分かりませんが、その時はどうかご容赦下さい。)
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これは10年以上前にある方から教わったことで、何の道にせよ修行する上で心がけねばならぬ鉄則です。ある意味で奥義であるとすら今の私は解釈しています。
それは一言で言えば、何らかの分野で学びをしている者はひとつの流派(または師匠)に限定して学ばなければならず、初心の段階であれもこれもと手を出しては自滅するだけだ、ということです。こんなことは当たり前すぎて道の達人には莫迦にされるかも分かりませんが、たとえば剣道を例に出せば、柳生新陰流を修行している人が、自分の技を磨きたいからといって小野派一刀流の指南を受けてはいけない、ということなのだそうです。どうしてもやりたければ水準以上(この例では黒帯以上)になってからでも遅くないと教わりました。
たとえば合気道開祖の植芝盛平先生は幾つもの流派の免許皆伝だそうですが、誰かの門に内弟子として入ったら、そこで免許皆伝になるまで修行し、その上で他の流派に一から入門されて、植芝先生はこうして幾つもの武道の道を究められたのだそうです。同時に幾つもの門に入って修行しての免許皆伝ではなかったと思います(初心の時は特に)。そして、そのような修行を積み重ねられてきた植芝先生だからこそ総合柔術としての合気道を完成させることができたので、これを初心者が真似したら自滅するのは火を見るより明らかでしょう。要するに総合柔術としての合気道が完成した暁には、それはそれでひとつの道になっているので、修行上、他の流派の「つまみ食い」は(修行者には)許されないことになるのです。合気道がいくら「総合」柔術だからといって、余程の必要がない限り他の流派の修行をする必要はないのです。できればやらない方がよいのです。
そして、これは何も武道に限らず、臨床心理の世界でも、はたまた相場の売買の世界でも^^;、とにかくどんな道でも必ず言われることなのです(たとえば西洋占星術の世界でも同様のことを言っている人を私は知っていますよ。なお、これは臨床心理の世界では常識になっているようです)。言われなければ、そしてその師匠がインチキでなければ、その門人はまだお客様扱いを受けているのです。何故お客様扱いかというと、本当のことを言っても信用されず、却って反発されて損をすることが多いからだそうです。実際、多くの人がそのことを教えられても莫迦にして禄に取り合わないか、或いは教えてくれた人を排他的だと言ってそれこそ排他的に^^;切り捨ててしまうので、こんなことでも「奥義」になってしまうのでしょう。
なお宗教に関して言えば、これは自力・他力に関係なく守らなければならぬ鉄則です。私たちは「全託」ということをしきりに申しますが、自力の道を進まれる方でもこれは同様です。要するに修行を全きならしめるためにはすべからく一道専心でなければならないという意味では、ある意味で「全託」に等しいとも言えるのではないかと私は考えています。自他力などという折衷がありえないのは理の当然なのです。
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なお、私がこれを教わった時には幸いにして直ぐ理解することができました。もっとも守るのは中々難かしいのですが、何にせよ学びが「趣味的」にならないように(騙されたと思ってもよいから)日頃から心がけなければなりません。少なくとも宗教に関しては――余り大したことではありませんが(余り幼稚なことなので莫迦にされるかも知れませんね^^;)――仏教関係の本を読んでいる時期にはキリスト教関係の本は読まず、逆にキリスト教関係の本を読んでいる時期には仏教関係の本は読まずで、五井先生の本などごく一部の例外を除き、私は10年以上その決まりを守ってきました。私個人に関してはそろそろこの決まりは気にしなくてもよいとは感じているのですが、強いて破る必要もないので今もそのままにしています。ちなみに、私が元々詳しかったキリスト教にここ数年とみに詳しくなったのも、守護の神霊の働きプラスこういう学びの賜物に他なりません。
こんなこと初めて聞いた、という人もいるかも知れません。今後しっかりと書いてゆきたいと思っていますので、それまで一応は頭の端にでも入れておいて下さいね。損をすることでは決してないのですから。
では〜♪
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