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世界人類が平和でありますように
ようこそ!全託道場へ
 もはや祈りしかない! 世界平和の祈りは現代における真の白道、無碍の一道であることを解説いたしました。
 世界平和の祈りは現代のお念仏です。共に祈りましょう!
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全託道場山門 私たちの《信条》 白道をゆく祈り☆世界平和の祈り唯一道
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世界平和の祈りに全託してゆくことが、今日の世界にとって、一番大事なのです。
(五井先生最後のお言葉)
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 Explanation★ 私たちの《信条》




白道をゆく祈り――世界平和の祈り唯一行


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 「世界平和の祈り」は人類の完全平和=完全調和世界達成への真の《白道》である。

 狭き門より入れ、滅(ほろび)にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。生命(いのち)にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出す者すくなし。
(マタイ傳 第 七章13-14)


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 以前、当ホームページのトップにて、「世界平和の祈りは真の白道である。」という文言を掲げさせていただいておりましたが、この《白道》という言葉をご存じない方も大勢いらっしゃると思いますので、ここで簡単に説明しておきたいと思います。


なお、ここで言う白道は、「はくどう」ではなく「びゃくどう」と発音し、「浄土に通じるただ一本の白い道」を意味します。これは、唐代における中国大乗教の大成者で、浄土真宗七高僧の第五祖・善導大師の論著『観経疏』[注:かんぎょうそ。浄土三部経の観無量寿経の解釈書]の「散善義」中 に説かれた譬え話で、一般に「二河白道(にがびゃくどう)」の譬とか、「水火二河(すいかにが)」「貪瞋二河(とんじんにが)」の警譬とも言われます。

 専門の事典なり検索エンジンなりで調べれば詳しい説明を見ることができますので、ここではその譬え話の大意を述べ、そのこころを簡単に解説しておきたいと思います。




 ある人が西(浄土を暗示)に向かって無人の原野を独り旅していると、忽然として一本の川が出現して旅人の行く手を遮る。川幅は僅か百歩ほどでありながら深くて底が無く、南北に果てしなく続いている。その川のちょうど真ん中に一筋の白い道がついているが、しかし、その道を挟んで、旅人の左手すなわち南側は紅蓮の火の川、右手すなわち北側は怒濤逆巻く水の川、しかも道幅十数センチのその道に絶え間なく火と水が押し寄せてくる。旅人が進みあぐねていると、さらに悪鬼野獣や盗賊たちが旅人の命を狙って背後から迫って来る・・・といった状況。進むも危険、退くも危険。旅人が二進も三進もゆかなくなったその時、こちら側すなわち東の岸から「その道だ、その道をひたすら尋ねてゆけ」と勧める声が、西側の向こう岸からは「安心して直ちに来たれ、私が護るから大丈夫だ」と叫ぶ声が聞こえる。お釈迦さまと阿弥陀さまの声だ! 一歩でも踏み外そうものなら火と水の川の藻屑となって消えてしまうであろうその道、頼りなく見えるその細くて白い道を、「危ないから戻れ」と言う盗賊たちの声を無視して旅人が思い切ってまっしぐらに進むと、そこは極楽浄土の入口であった。
 ――と、大略このようなお話だそうです。



ちなみに、昨年(’02年9月)の唯一会・京都講演会の翌日、観光がてらに立ち寄った西本願寺で求めた親鸞聖人の『浄土真宗聖典・一念多念証文(現代語訳)』(本願寺出版社刊)の注解には、

 火の河は衆生の瞋憎(しんぞう)、水の河は貪愛(とんあい)、無人の原野は真の善知識に遭わないこと、群賊は別解(べつげ)・別行・異学・異見の人、悪獣は衆生の六識・六根・五蘊(ごうん)・四大に譬える。白道は浄土往生を願う清浄(しょうじょう)の信心であり、また本願力をあらわす。東岸の声は娑婆世界における釈尊の発遣(はつけん)の教法(きょうぼう)、西岸の声は浄土の阿弥陀仏の本願の召喚(しょうかん)にたとえる。

とあります。(p.66)




 不思議なことに、五井先生はご著書でもご講話でもこの「白道」の話には触れてはおられないようです。しかし、この「二河白道の喩え」は真宗などではかなり知られたお話で、たとえば法然上人も『選択集』で白道の譬に触れていると言いますし、また、親鸞聖人に至っては、信徒に向けた御消息(お手紙)の中でしきりにこの譬を用いておられたのだそうです。ちなみに、比叡山での百カ日回峰行における常行堂での念仏三昧もこの白道を暗に意識していると聞いたことがあります。

 ところで、私がこの「白道」という言葉を始めて知ったのは、確か五井先生ご逝去の数年後ぐらいのこと、新聞の評論か何かであったと思います。当時、私が大学時代より私淑していた市井の教育者・和田重正先生が晩年にお書きになったものにもこの「白道」に触れたものがあり、そのために深く記憶に残ったのでしょう。
 上述の通り確かに五井先生のご本には書かれていなかったけれど、白道とはまさに『白光への道』であり、「世界平和の祈り」は白光(真如)に至るただ一本の道であると言えるとその時に思った次第です。そして今回、白道(救われに至る唯一の道)をゆくにしても、加護はあるにしても“決して道を踏み外してはならない”というあたり、唯一会の基本信条である「世界平和の祈りは唯一最高の行」ということとも共通点があり、「全託道場」HPに相応しいフレーズだと考えた次第です。

 ちなみに、善導大師は白道の譬の中で「水火二河を顧みず」とお説きになっているそうですが、これは「水火二河」に譬えられた煩悩を相手にせず、という意味なのだそうです。要するにこれは、「肉体人間には何事も為し得ない」と、煩悩(業=消えてゆく姿)を相手にせず、この私たちの小我のはからいを放下(ほうげ)して神(仏)さまの御心にすべてをお返してゆく道こそが現代における「白道」のこころなのだと理解することが出来るでしょう。そしてその道こそが、五井先生によって初めて人類に示された真の易行道、すなわち「消えてゆく姿で世界平和の祈り」の唯一道なので、この一道をひたすら尋ねてゆくのが人類に残された唯ひとつの道なのです。現代の白道とはまさに「世界平和の祈り唯一行」なのであり、「世界平和の祈りは現代のお念仏だ」と言われる所以であります。
 私はこのように了解(りょうげ)し、信仰しております。





世界人類が平和でありますように


 【参考資料】

 白道について、また、この譬え話と五井先生のみ教えの共通点については、もちろん他にも色々と書けないこともないのですが(ホントかな?^^;)、取りあえずはこのへんで止めて、以下に参考として関連文献よりの引用を示して終わりに致します。

 読者の方もそれぞれでお考えになって下さいね。



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念仏者は無碍の一道(むげのいちどう)なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祗も敬伏(きょうぶく)し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報(ごっぽう)を感ずることあたはず、諸善もをよぶことなきゆに無礙の一道なりと、云々。

『歎異抄』第七条 = 金子大栄校注・岩波文庫版より =
※WEB表記の関係上、漢字を一部新字に改めました。)


【現代語訳】

 念仏者は、何ものにもさまたげられないただひとすじの道を歩むものです。それはなぜかというと、本願を信じて念仏する人には、あらゆる神々が敬ってひれ伏し、悪魔も、よこしまな教えを信じるものも、その歩みをさまたげることはなく、また、どのような罪悪もその報いをもたらすことはできず、どのような善も本願の念仏には及ばないからです。
 このように、聖人は仰せになりました。

(『浄土真宗聖典・歎異抄(現代語訳)』本願寺出版社刊
※現在は文庫本も刊行されています。)



 親鸞聖人の著作より:


 『法事讃』[注:ほうじさん。善導の著。二巻]に、「致至使凡夫念即生(ちしぼんぷねんそくしょう。凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す)」といわれているのは、・・・ 

 (中略)

 「凡夫」というのは、わたしどもの身には無明煩悩が満ちみちており、欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起り、まさに命が終わろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもなく、絶えることもないと、水火二河の譬に示されている通りである。このような嘆かわしいわたしどもも、二河(にが)にはさまれた一すじの白道すなわち本願のはたらきの中を一歩二歩と少しずつ歩いていくなら、無碍光仏(むげこうぶつ)と示された光明のお心に摂(おさ)めとってくださるから、必ず浄土に往生することができる。そうすれば、浄土のさとりの花に生れ、阿弥陀如来と同じく、この上ないさとりを開かせていただくのである。このことを根本としなさいというのである。これを、「致至使凡夫念即生」(ちしぼんぷねんそくしょう)といわれているのである。水火二河の譬の中に、「一歩二歩と行く」とあるのは、一年二年と過ぎていくことをたとえているのである。

(前掲『一念多念証文』、p.35〜38)


 和田重正先生の著作より:


 これはむろん譬話に違いないが、全くうまい話だと思う。ぐるり中が競争相手であり警戒を怠ったら持ち物は勿論、一つしかない命までも奪われるかと思い 戦々恐々として生きている人間が救われる唯一の道を的確に示した話だ。
 この話の真意を悟り得ず白道の存在にも気づかず、その手前で右往左往しているのが、今日の世界各国を支配している実力者集団であり、日本の指導層である。彼らに悪意はないが、要するに愚かなのだ。その愚かさのおつき合いをし、悪鬼悪獣の餌食になる庶民はたまったものではない。

 (中略)

 白道とは闘争と恐怖不安の世界から、平和と希望に満ちた真実の世界、実在の世界への通り道であり、いのちへの直通路だとも言える。

(和田重正著『自覚と平和――国家エゴイズムを超えて』
くだかけ社刊・1987年、p.164)


 五井先生の著作より:



 何事もその道に徹しなければいけません。徹するということは、把われるということではありません。今日こそ一つの道に徹し切るよい時期なのであります。もう一つの道しかなくなってきているのです。

(五井昌久著『純朴の心』p.137より ゴチックは引用者)


 今日まで人類が歩いていた道は、穢く汚れてしまっておりまして、しかも行き止まりになってしまっているのです。それを何となく知っておりながらも、昔からの惰性で他の道を求めようともせず、足をひきずりひきずり、体中傷だらけになりながら、歩き続けているのです、
 ですから人類は、新しい道をみつけ出して、その道を進んでゆくことが絶対必要なのです。心ある人は、新しい道を見つけようとして他の方向に足をむけようとするのですが、前の道に蔽い茂っている雑草に足をすくわれ、余程意志強く何度でも何度でもその道を求めなければ、新しい道に足を下ろすことができないのでした。あまり無理をして新しい道にゆきつこうとすると、大怪我をして、新しい道に足をつけたと同時に、肉体の生命は終わってしまったりするのでした。キリスト者や仏教者や先覚者たちの受難はみんなそうしたものなのです。それはまだ、新しい道につづく分れ道がきていない時に行なったからなので、その人々は本当に大変だったと思います。
 しかし今は、新しい道への方向がはっきり定まっております。今日までの道を進んでゆけば、行き止まりがくることもかなりはっきりしてきました。多くの人々がもう道を変えなければと思いながらも、まだ新しい道を見出せずにいるのです。
 私はその新しい道を、求めつづけて、ついに見出して、先ず自分がその道に入ってみました。入ってみると、何という美しい明るい道なのでしょう。その道は天まですっきりとつながっている道です。天と地がはっきりとつながっている道だったのです。神々の姿や祖先たちの姿が、はっきりとうき出してみえます。平和な気が四方に充ち充ちています。
 その道に易しく入る方法も教わりました。それが消えてゆく姿で世界平和の祈りだったのです。
 個人も国家も、どうしてもこの新しい道に入ってゆかなければ、その存続が失われます。絶対にもう道を変えなければならないのです。日本は霊(ひ)の本(もと)の大和の国の本質を、この道の上で現わさなければならないのです。そういう道案内を私はしてゆこうとしています。
 過去の因縁は、昔通った汚れた道は、もう遠くに消え去っていったのです。今新しい世界、平和の道が、天と地がすっきりとつながった、七色に光り輝く美しい道が、私たちの前に全世界の人々の一日も早く来り集うのを待っているのです。

(五井昌久著『世界人類が平和でありますように』、p.101〜103)

2003・5・25
2006.1.2一部改訂



♪己が幸(おのがさち) 願う想いも 朝夕の 世界平和の 祈り言(のりごと)の中♪

 ♪世界平和 祈るは神の 御心の ひびきにあれば 祈る楽しさ♪
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