以前、当ホームページのトップにて、「世界平和の祈りは真の白道である。」という文言を掲げさせていただいておりましたが、この《白道》という言葉をご存じない方も大勢いらっしゃると思いますので、ここで簡単に説明しておきたいと思います。
※なお、ここで言う白道は、「はくどう」ではなく「びゃくどう」と発音し、「浄土に通じるただ一本の白い道」を意味します。これは、唐代における中国大乗教の大成者で、浄土真宗七高僧の第五祖・善導大師の論著『観経疏』[注:かんぎょうそ。浄土三部経の観無量寿経の解釈書]の「散善義」中
に説かれた譬え話で、一般に「二河白道(にがびゃくどう)」の譬とか、「水火二河(すいかにが)」「貪瞋二河(とんじんにが)」の警譬とも言われます。
専門の事典なり検索エンジンなりで調べれば詳しい説明を見ることができますので、ここではその譬え話の大意を述べ、そのこころを簡単に解説しておきたいと思います。
ある人が西(浄土を暗示)に向かって無人の原野を独り旅していると、忽然として一本の川が出現して旅人の行く手を遮る。川幅は僅か百歩ほどでありながら深くて底が無く、南北に果てしなく続いている。その川のちょうど真ん中に一筋の白い道がついているが、しかし、その道を挟んで、旅人の左手すなわち南側は紅蓮の火の川、右手すなわち北側は怒濤逆巻く水の川、しかも道幅十数センチのその道に絶え間なく火と水が押し寄せてくる。旅人が進みあぐねていると、さらに悪鬼野獣や盗賊たちが旅人の命を狙って背後から迫って来る・・・といった状況。進むも危険、退くも危険。旅人が二進も三進もゆかなくなったその時、こちら側すなわち東の岸から「その道だ、その道をひたすら尋ねてゆけ」と勧める声が、西側の向こう岸からは「安心して直ちに来たれ、私が護るから大丈夫だ」と叫ぶ声が聞こえる。お釈迦さまと阿弥陀さまの声だ! 一歩でも踏み外そうものなら火と水の川の藻屑となって消えてしまうであろうその道、頼りなく見えるその細くて白い道を、「危ないから戻れ」と言う盗賊たちの声を無視して旅人が思い切ってまっしぐらに進むと、そこは極楽浄土の入口であった。
――と、大略このようなお話だそうです。
※ちなみに、昨年(’02年9月)の唯一会・京都講演会の翌日、観光がてらに立ち寄った西本願寺で求めた親鸞聖人の『浄土真宗聖典・一念多念証文(現代語訳)』(本願寺出版社刊)の注解には、
火の河は衆生の瞋憎(しんぞう)、水の河は貪愛(とんあい)、無人の原野は真の善知識に遭わないこと、群賊は別解(べつげ)・別行・異学・異見の人、悪獣は衆生の六識・六根・五蘊(ごうん)・四大に譬える。白道は浄土往生を願う清浄(しょうじょう)の信心であり、また本願力をあらわす。東岸の声は娑婆世界における釈尊の発遣(はつけん)の教法(きょうぼう)、西岸の声は浄土の阿弥陀仏の本願の召喚(しょうかん)にたとえる。
とあります。(p.66)
不思議なことに、五井先生はご著書でもご講話でもこの「白道」の話には触れてはおられないようです。しかし、この「二河白道の喩え」は真宗などではかなり知られたお話で、たとえば法然上人も『選択集』で白道の譬に触れていると言いますし、また、親鸞聖人に至っては、信徒に向けた御消息(お手紙)の中でしきりにこの譬を用いておられたのだそうです。ちなみに、比叡山での百カ日回峰行における常行堂での念仏三昧もこの白道を暗に意識していると聞いたことがあります。
ところで、私がこの「白道」という言葉を始めて知ったのは、確か五井先生ご逝去の数年後ぐらいのこと、新聞の評論か何かであったと思います。当時、私が大学時代より私淑していた市井の教育者・和田重正先生が晩年にお書きになったものにもこの「白道」に触れたものがあり、そのために深く記憶に残ったのでしょう。
上述の通り確かに五井先生のご本には書かれていなかったけれど、白道とはまさに『白光への道』であり、「世界平和の祈り」は白光(真如)に至るただ一本の道であると言えるとその時に思った次第です。そして今回、白道(救われに至る唯一の道)をゆくにしても、加護はあるにしても“決して道を踏み外してはならない”というあたり、唯一会の基本信条である「世界平和の祈りは唯一最高の行」ということとも共通点があり、「全託道場」HPに相応しいフレーズだと考えた次第です。
ちなみに、善導大師は白道の譬の中で「水火二河を顧みず」とお説きになっているそうですが、これは「水火二河」に譬えられた煩悩を相手にせず、という意味なのだそうです。要するにこれは、「肉体人間には何事も為し得ない」と、煩悩(業=消えてゆく姿)を相手にせず、この私たちの小我のはからいを放下(ほうげ)して神(仏)さまの御心にすべてをお返してゆく道こそが現代における「白道」のこころなのだと理解することが出来るでしょう。そしてその道こそが、五井先生によって初めて人類に示された真の易行道、すなわち「消えてゆく姿で世界平和の祈り」の唯一道なので、この一道をひたすら尋ねてゆくのが人類に残された唯ひとつの道なのです。現代の白道とはまさに「世界平和の祈り唯一行」なのであり、「世界平和の祈りは現代のお念仏だ」と言われる所以であります。
私はこのように了解(りょうげ)し、信仰しております。
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