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五井先生の真実の法に帰依すると言った場合、その法とは一体どのような法なのでしょうか?
五井先生とは違う森島先生の教えの特徴について、詳しく解説しました。唯一会の教えは一見すると欠けているように見えるかも知れないが、真実は完成している教えなのです。 |
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世界平和の祈りに全託してゆくことが、今日の世界にとって、一番大事なのです。
(五井先生最後のお言葉)
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森島メソッドは単純明快矛盾なし
〜これぞ真実の五井先生のみ教えだ!〜
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第一章☆ 狭い教え
〜唯一会は五井先生の教えの一部しか説いていない〜
【目次】
【一】.はじめに〜森島先生の教えに帰依する私たち
【二】.広すぎた教え〜五井先生の真実の教えを理解できなかった私たちと唯一会
【A.五井先生のみ教えには根本の部分と枝葉の部分がある】
【B.対機説法〜縦横無尽すぎた五井先生の教え】
【C.森島メソッド〜森島先生によってアレンジされた五井先生の教え】
【三】.世界平和の祈り唯一行〜世界平和の祈りに一本化した唯一会の教え
【四】.唯一会の教え〜狭いけれど、真実は完成された教え
【A.唯一会では五井先生の教えの一部しか説いていない】
【B.完成された五井先生の教え】
【五】.【最後に・・・】
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大成(たいせい)は欠くるが若(ごと)くなれども、其の用は弊(つ)きず。大盈(たいえい)は冲(むな)しきが若くなれども、其の用は窮まらず。大直(たいちょく)は屈の若く、大巧(たいこう)は拙の若く、大辯(たいべん)は訥(とつ)の若し。躁勝てば寒、静勝てば熱。清静(せいせい)なれば、天下の正と為る。
(老子道徳経・第四十五章)
現代語訳:
真に完成しているものは、一寸見にはどこか欠けているように見えるが、それでいてこれを用いて見ると不完全なところは一つもない。真にみちているものは、一寸見にはうつろのようであるが、それでいてこれを用いて見ると不自由で困るというようなことが一つもない。真に廉直なるものは、一見卑屈なもののように見え、ほんとうに巧みなものは、却って拙なるもののように見え、真の雄弁者はかえって訥弁に見えるものである。人為の燥(則ちさわがしく体を動かすこと)は寒に勝つことは出来るが、しかしそれはしばらくのことである。無為にまかせた静は、真に暑熱に勝つことが出来る。これによって見れば、清静(則ち無為を守ること)であることは、天下の正をなすことが出来る。
(伊福部 隆彦『無と人間――老子思想への開眼』=近畿大学出版局=より ※改行位置変更)
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それでは、早速本論に入りましょう。
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【一】.はじめに〜森島先生の教えに帰依する私たち
序章でも書いたように、本論は、私たちが信じる五井先生の真実の教えを明らかにするために、五井先生と森島先生の教えの違いについて詳しく解説してゆくことを目的としてまとめたものですが、まず最初に結論を言ってしまえば、大略次のようになります。――
五井先生が提唱された「世界平和の祈り」には、今までの宗教の統一行のような難しい呼吸法も観想法もなく、それは、ただ単純に神様を信じて「世界人類が平和でありますように」と唱えているだけでよいといった行法です。ご存知の通り五井先生のみ教えはとてもシンプルで、その教えは誰にでも理解でき、簡単に行じられる現代の易行道です。そして、その五井先生の教えをさらにシンプルにまとめ直されたのが唯一会の主宰者・森島恒吉先生の教えなのであります。要するに、なるべく複雑化せずにシンプルに行なうのが五井先生の教えの特徴であり、また、森島先生の教えの真髄でもあるのです。
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そんな訳で、私は30年以上にわたって五井先生のみ教えに帰依してきたわけですが、
そのことに関して、以前私は、「今まで私は森島先生の解説される五井先生のみ教えに帰依していたのですね。そのことがハッキリと認識出来ました。森島先生の教えが、すなわち私たちが信じる正しい五井先生のみ教えなのです」と、森島先生に感想を申し上げたことがあります。私たち唯一会の会員は森島先生を通して示される五井先生の教えに帰依しているので、その点が五井先生のご本から五井先生の教えを直接学ぼうとしている人々と異なる点なのだと、そのとき森島先生からお返事をいただいたことを憶えています。
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【二】.広すぎた教え〜五井先生の真実の教えを理解できなかった私たちと唯一会
それでは、“生前の五井先生の教えを継承すると言われて来た森島先生の教え”と“実際の五井先生の教え”とは一体どこがどう違うのでしょうか?
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【A.五井先生のみ教えには根本の部分と枝葉の部分がある】
私が初めて森島先生にお会いしたのは今から8年ほど前のことでしたが、
新宿の喫茶店で森島先生の講義を初めてお受けした時に、「五井先生の教えには根本の教えと枝葉の教えとがある」と森島先生から教えていただき、目から鱗が落ちる想いを懐いたことをよく憶えています。要するにご著書などに混在する五井先生のみ教えの根本の部分と枝葉の部分をキッチリと区分けすることが、五井先生のみ教えを理解するための“勘所”であったのです。それ以後6年以上にわたって五井先生のみ教えの根本義についての講義を東京集会において森島先生より繰り返しお聞きして、私たちは次第に五井先生のみ教えに対する理解を深めてまいりました。
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【B.対機説法〜縦横無尽すぎた五井先生の教え】
五井先生の教えの特徴のひとつとして、その教えの説き方が「対機説法」であったことが挙げられるでしょう。対機説法とは、《病に応じて薬を与えるように、教えるべきものの機根(素質)に適した教え説くこと》(中村元
監修『新・佛教辞典』)を言い、一般にお釈迦さまの説法の特徴として挙げられます。五井先生もお釈迦さまと同じように、色々な人々に合わせて様々な表現で縦横に教えを説かれていました。お釈迦様の説法はとても巧みであったそうですが、五井先生の教えの説き方も同じく大変魅力的なものがありました。しかし、実はそこに大きな落とし穴があったのです。
というのも、宗教の説法の醍醐味はこの対機説法にあることは論を俟ちませんが、しかしその反面、対機説法には論理的な一貫性を欠くという欠点もあるのです。実際、違う機根の者が聞けば、同じ教えでも道を間違えてしまう危険性もあるわけです。
このように、五井先生の教え方が対機説法で縦横無尽すぎたために論理的一貫性を欠き、教えを受ける者に根本の教えと枝葉の教えとの区別をつけにくくさせてしまったのです。従って、五井先生のご著書の表面的な字句だけに執われると、それら一つひとつが矛盾しているように感じられて、中には混乱してしまう読者もいるはずです。――もっとも私などもそうなのですが、多くの人は、五井先生の教え方が余りに巧みであったことも手伝ってその“矛盾”に気づかずにいたのが実情です。実はかく言う私も、五井先生の教えの中に一見すると矛盾するかのように感じられる部分があることに森島先生の教えを受けるまではよく気がつかなかったものです。
× × ×
何れにせよ、このように私を含め多くの人が五井先生の真実の教えを理解できずに終わってしまった理由のひとつが、上記で書いた五井先生の教えの根本の部分と枝葉の部分の区別をつけることができなかったことにあります。そして五井先生の教えに散見される矛盾点も、それは五井先生のみ教えの根本の部分と枝葉の部分との違いに他なりません。
このように、五井先生の教えは一見すると大変分かりやすい反面、いざ実践しようとするととても難しい面があるのです。
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【C.森島メソッド〜森島先生によってアレンジされた五井先生の教え】
さて、唯一会は五井先生の教えを忠実に実行している会だと従来から云われて来ました。しかし、実際は唯一会は五井先生の本をコピーして教える会ではありません。正確に云えば唯一会は五井先生の根本の教えを実行しているので、唯一会では必ずしも五井先生の教えの全てを伝えているわけではないのです。従って、五井先生の教えの全てを学びたのであれば五井先生のご本をそのまま読めばよいのですが、ただ、「五井先生のご本を全て読んでも、五井先生のご本に書いてある教えを全て知っても、五井先生の教えが理解できず、行じ方が分からない」と悩む人々のために唯一会は存在しているのです。唯一会の存在意義はそういった人たちのためにあるので、五井先生のご本を読んで理解できる人や自分一人で独習できる人には唯一会は必要ないのです。
そのような訳で、五井先生の著書にある表面の字句の全てを実行しようとすると却って難しくなってしまう私たちのような人々のために、唯一会では、凡夫である私たちが混乱しないように、森島先生が五井先生のみ教えを噛み砕いて、より分かりやすく整理して教えて下さっているのです。すなわち、唯一会は五井先生の教えの全てをそのままの形で伝えているのではなく、森島先生の体験を通して五井先生の教えを整理・分類し、矛盾が感じられてしまったり誤解されやすい枝葉の教えはこれを大胆に削って、初心者から上級者へと段階的にステップを踏んで道を進めるように順序をつけ、五井先生の教えをより簡素化した教え方にして説かれているわけです。なお、そういった意味で唯一会では森島先生が創られたメソッドによって五井先生の教えを森島先生流にアレンジして教えていただいているわけで、傍からは唯一会が五井先生の全ての教えを伝えていないように見られるかも分かりませんが、それはそれで仕方がないことでしょう。
なお、そういった意味で唯一会では森島先生が創られたメソッドによって五井先生の教えを森島先生流にアレンジして教えていただいているわけで、傍からは唯一会が五井先生の全ての教えを伝えていないように見られるかも分かりませんが、それはそれで仕方がないことでしょう。
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【三】.世界平和の祈り唯一行〜世界平和の祈りに一本化した唯一会の教え
さて、具体例を示さず、いきなり「五井先生の教えには一見して矛盾していると受け取れるような部分がある」と書いてもピンと来ない人も多いでしょう。そこでその実例のひとつとして、ここでは守護の神霊への感謝の教えについて取り上げてみます。
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五井先生の本を読むと、たとえば「守護の神霊に感謝しているだけでよい」というような記述が多く見られます。その部分だけを読むと、「世界人類が平和でありますように」よりも守護の神霊への感謝の祈りの方に重点が置かれているような印象を受けます。或は「世界人類が平和でありますように」と同時に「神様ありがとうございます」という祈り言も同じくらい繰り返して祈らなければならないように受け取る人もいるでしょう。しかし森島先生によれば、これは、自分の幸せだけを考えるのが精一杯で世界平和などには関心もないというような人を思いやった教え方で、ある意味ではこれも、「最低限はこれだけでもよい」という五井先生の方便の教えだったと言ってよいのかも知れません。
確かに「世界人類が平和でありますように」と祈るよりも「神様ありがとうございます」の祈りの方が身近に感じられるため、こちらの方が易しそうに見えるところはあります。けれども、神様への感謝行にも実は中々難しい面があるのです。
たとえば現在の白光の教えを批判されていた森島先生に対して「森島恒吉即神也」とは言えないと正直に言った白光真宏会の幹部の方がいるそうですが、それと同じで、「神様ありがとうございます」と口先では唱えていながら、その一方で他人の悪口を言っている人がいたりします。そういう人は本当は神様に感謝している心境になってはいないので、このことからも分かる通り、「神様ありがとうございます」と祈って真実の感謝の心境に到達することは実はとても難しいことなのです。世界平和なんて言わないから易しそうに見えるけれど、このように実際にはかなり難しいわけです。
それに対して、「世界人類が平和でありますように」というのは余りにも大きくて広くて自分とは全然関係のない祈り言のように感じる人が多いのですが、面白いもので、こちらの方がより易しく神への全託ができて、「神様ありがとうございます」と祈るよりも早く神への感謝の心境に到達できるのです。そのように私たちは教えていただいております。そこで唯一会では「世界人類が平和でありますように」の方に重点をおいているので、五井先生(白光真宏会)よりも唯一会の指導法の方がより単純で明快になっているわけです。
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【四】.唯一会の教え〜狭いけれど、真実は完成された教え
そのことと関連して、「五井先生の教えの全てを唯一会では正しく伝えていない、唯一会の教えは狭い」という意見も一部にはあるようです。ここではこの問題について解説しておきたいと思います。
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【A.唯一会では五井先生の教えの一部しか説いていない】
当然のことながら唯一会は五井先生の教えの根本を実践しているわけですが、
五井先生の弟子としての森島先生の永年の経験から、「これは言わない方がよいだろう」「これは省いた方がよいだろう」と判断されたことは、たとえ五井先生のご著書に書かれてある五井先生の教えであっても言わぬようにしているのだと、このように森島先生はご説明されています。そうした森島先生独自の教え方(=森島メソッド)が、たとえば「五井先生の教えの全てを唯一会では正しく伝えていない」「唯一会の教えは狭い」といった批判を生むのでしょう。
確かに唯一会では五井先生の教えの中から根本的な基本的な教えしか教えませんから、唯一会では五井先生が書いたことの一部しか説かれていません。しかし森島先生によれば、五井先生の教えの根本を理解し、一番大事な行法をやっていれば、何れは五井先生の教えの全てが自然に理解できるようになるので、実は五井先生の教えの全てを網羅する必要はないのです。永年学んできた五井先生のみ教えが理解できずに道を踏み外してしまった人も多くいるわけですから、実際は五井先生の教えだからといって網羅しない方がよいのです。
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【B.完成された五井先生の教え】
《唯一会の教えは五井先生の教えの全体を掴まずに、その一部のみを掴んでいて、あたかも欠けているように見えるかもしれません。しかし、「大成(たいせい)は欠くるがごとくなれども、その用は弊(つ)きず」という老子の言葉のように、唯一会の教えは、一見すると欠けているように見えて、真実は完成しているのです。》と、森島先生は掲示板の中で以前お書きになっておられました。要するに世間に先んじて森島先生が「世界平和の祈り唯一行」を発表されたことによって五井先生の教えが真に完成されたのです。
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【五】.最後に・・・
「私の説き方は余りにも単純で幅広く感じないかも知れません」と森島先生はよくおっしゃいますが、とんでもない、一見単純で幅広く感じられない森島先生の説き方こそが凡夫である私たちにとっては是非とも必要な教えだったのです。
このように森島先生の教えこそは、単純にして明快、そして矛盾のない、その意味で完成された教えだったのです。私たちはそのように理解し信仰しております。
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涅槃は正しく存し、涅槃にいたる道があり、わたしは導師としてあり、しかも、わが弟子の中には、あるものは涅槃にいたることを得、またあるものはいたることを得ないが、それを、婆羅門よ、わたしがどうするということができようか。婆羅門よ、如来はただ道を教えるのである。
(算数家目ケン連経)
(増谷文雄『阿含経典による仏教の根本聖典』大蔵出版・1983年、p.193)
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2007.8.20 |
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