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世界人類が平和でありますように
ようこそ!全託道場へ
 五井先生の真実の法に帰依すると言った場合、その法とは一体どのような法なのでしょうか? 
 私の個人的な経験も手掛かりに、「森島メソッドはプロ仕様」の観点から、一見レベルが低く見える唯一会の教え方こそが真に一般向きの優れた教えなのだということを証してゆきます。
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森島メソッドは単純明快矛盾なし[目次] 第2章☆目の付け所が低い教え〜唯一会は五井先生の教えよりも低い
世界平和の祈りに全託してゆくことが、今日の世界にとって、一番大事なのです。
(五井先生最後のお言葉)
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 Explanation★ 私たちの《信条》

世界人類が平和でありますように



 森島メソッドは単純明快矛盾なし

〜これぞ真実の五井先生のみ教えだ!〜




序文へ〜宗教の目的とは〜 【序】  信仰を拾い直した私と唯一会〜本文を読まれる前に〜

第一章へ〜五井先生との出会い〜第1章 狭い教え〜唯一会は五井先生の教えの一部しか説いていない


冒頭ライン2:世界人類が平和でありますように


第二章 目の付け所が低い教え
       〜唯一会は五井先生よりもレベルが低い


【目次】

【一】.はじめに
【二】.目の付け所が低い教え〜本当のことを教えると素人に莫迦にされる
【三】.素人が持つ誤った自負心〜感謝行を例にして〜
    【A.感謝行に潜む欠陥】
    【B.自分をも騙す虚栄心】
【四】.素人受けしない教え〜森島メソッドはプロ仕様
    【A.肝心なことを教えない世間受けした教え】
    【B.立教者の持つ限界〜一般向けに教えを説いた五井先生】
    【C.「素人向けの教え」と「素人受けする教え」】
【五】.最後に・・・


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 大象(たいぞう)を執(と)りて天下に往けば、往いて而(しか)して害あらず。安平大(あんへいだい)なり。楽と餌(じ)とは、過客(かきゃく)(とど)まる。道の口より出づるは、淡乎(たんこ)として其れ味(あじわい)無し。之を視れども見るに足らず。之を聴けども聞くに足らず。之を用うれば既(つ)くす可(べ)からず。

(老子道徳教・第三十五章)

現代語訳:
 道に従って天下をゆくならば、何ものも、これを障碍することは出来ない。それは絶対の安全であり、平穏であり、安らかさである。楽しい音楽や美味な食物は道行く人の足を止める。しかし道から出た言葉は、まことに淡くて味も何もない。これを見ても見るに足らないし、これを聴いても聴くに足らない。けれども、若しこれを用うるならば、以下に用いても用いつくせない、大きなはたらきがある。(※前出:伊福部 隆彦訳)


【一】.はじめに


 前章でも書いたことですが、
 余りにも単純で幅広く感じられない森島先生の教えの説き方(=森島メソッド)は、五井先生の教えの一部のみを掴んでいて、一見すると恰も欠けているように見えるかも知れないが、真実は完成している教えであったのです。



×       ×       ×

 前章は森島先生の教えの特徴について森島先生が日頃教示下さっている事柄を私なりにアレンジしてまとめた原稿を下にしたものですが、本章では多少視点を変えて、私が日頃感じていることを中心にまとめてみたいと思います。



 (なお本章で書くことは、「一道専心のこころ」と題した私のエッセイと一部重複または関連する内容です。具体例など内容的には重ならないように配慮しましたので、興味のある方はどうぞそちらもお読み下さい。「一道専心のこころ――これぞ奥義なり!」 ) 


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【二】.目の付け所が低い教え〜本当のことを教えると素人に莫迦にされる


 いささか私事にわたって恐縮ですが、父が前に財テクをしていたことがあり、その関係で私も10年ほどその道の先生が主催する研究所の会員になっていたことがあります。その先生は評論家ながらプロの相場師で、評論家にしては珍しく相場の売買で利益を出している方でした。その相場の先生が、ご自分が出された機関誌や書籍の中で次のようなことをよく云っていました(※相場の話をするのが目的ではないので、余り詳しい内容には入りません)。

 「素人は何事も複雑化したがるが、それは趣味的な気持ちがあるからだ。プロは単純化する、プロは仕事として相場をやっているんだ。」「素人は、難かしい銘柄(取れそうな面白味のある銘柄)を、しかも難しいやり方(面白味のある売買技法)で取ろうとする。一方プロは(自分が確実に取れる)易しい銘柄を易しい(面白味のない)やり方で取る。」 


 これは要するに、「プロは仕事で相場をしているのだから素人の趣味的な売買とは違う、お遊びではないんだ」ということなのですが、私はこれはどの道でも本質的に同じことだと感じています。ところが、素人には中々その辺のことが分かりません。本当のことを教わりながら、素人が懐きがちな誤った自負心や趣味的な気持ちが充たされないために却って反発をしたり、或は自分の力量(適性)に合わない技法を学ぼうとして方向違いの努力をしてしまいがちです。たとえばそのことに関して、上記の相場の先生も、正しい(確実に儲かる)売買法について講義をしたりすると、一番肝心な箇所の説明に入った途端に「目の付け所が低い」などと批判されたり、聴講者がお茶を飲みに行ったりするということを述べていました。また、折角頼まれたので売買の技術について一番大事なことを色々と懇切丁寧に教えているのに、「本当のこと(儲かる銘柄)は教えずに隠し事をしている」などと邪推されて恨まれることも多いと聞きます。実際に素人に本当のことを教えすぎて却って逆恨みをされ、殺されてしまった相場師すらいるそうで、本当のことを安直に教えることには注意が肝要だと、その相場の先生は書いていました。



×       ×       ×

 これはもちろん宗教の世界とて同様なところがあって、殺されはしないまでも、一番易しい正しい行法が一番バカにされてしまうのでしょう。たとえば「神様お願いします」よりも「神様ありがとうございます」の方が高いお祈りだと解釈し、一足飛びにその高い祈りをしようとする態度そのものがまさに真理に執われた素人的で趣味的な態度なのですが、当の本人にはそれが分からないのです。


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【三】.素人が持つ誤った自負心〜感謝行を例にして〜


 さて、話は若干変わりますが、


 前章「狭い教え〜唯一会は五井先生の教えの一部しか伝えていない」の中でも一例として感謝の教えについて触れたので、今回も感謝行に例を取ってこのことを具体的に説明してゆきたいと思います。



A.感謝行に潜む欠陥


 感謝行に関しては、「神様ありがとうございます」と心から祈れる人は何も「神様お願いします」と殊更に思う必要はないので、「神様お願いします」という祈り方は「神様ありがとうございます」と祈れない人のためにあるのだと、森島先生は簡単明瞭にご説明下さっています。他の方からはレベルが低いと見なされがちな唯一会のこの「神様お願いします」のお祈りですが、その一方でレベルが高いと思われている「神様ありがとうございます」のお祈りについては、森島先生は次のような欠点を指摘してご注意下さっています。


 感謝というのは人に見せるためにするものではないので、他人様に自分の心境がさも高いように見せたくて行なう感謝行は「感謝誇り」という虚栄心(業想念)に過ぎない、そんな形式的な感謝行をこれ見よがしにやっている人が真実の感謝の心境に到達することはあり得ないと、五井先生も森島先生も等しく戒めておられます。これは真理の言葉の宣言の場合も全く同様で、ただ形式的に真理の言葉を唱えるのは、これも「自分の偉さを人に見せたい」という虚栄心から来ているのです。だから、形式的にこんな行をやっていると、虚栄癖という業想念が厚くなってゆくばかりで本心からは却って遠ざかってしまうと、森島先生はこのように真理に執われた行法に潜む欠陥を事ある毎に指摘して下さっています。


B.自分をも騙す虚栄心


 もっとも「真理の宣言」などの行法には否定的な向きも、「感謝行ならば地に足がついていて自分たちのレベル合った行法だ」などと考えがちな面もあるかも知れません。しかし、先にもちょっとと触れましたが、これも素人の趣味的な気持ちを満足させる、その意味で真理に執われた態度に他ならないのです。これは私の経験から言ってもそうですが、そういう人は(プロの技術は意外と地味なものだということを知識としてだけでも知っている向きは特にそうですが)、「真理の宣言行よりも地に足のついた感謝行をやっている自分はプロ的なやり方をしているんだ」などと自負している可能性が高いと思われます。



×       ×       ×

 なおこのことに関連して、「自分の心境を高く見せたい」という虚栄心は、何も他人様ばかりではなく自分自身に対しても働くものだと私は考えております。これは先のプロの先生の云う素人の「趣味的な気持ち」と同根の事柄でしょう。そして、これは(当人は気がつかないかも知れませんが)往々にしてよくあることで、危険なのは多分こちらの虚栄心の方だと思います。


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【四】.素人受けしない教え〜森島メソッドはプロ仕様


 形式的な感謝行に潜む欠陥について上で解説いたしましたが、
 真実の感謝については、自然法爾に湧いてくる感謝こそ真実の感謝であるので、それは声や口先ではなく、黙っていても行為になって現われて来るものだと森島先生もご説明下さっています。すなわち、五井先生も説かれている通り、先祖霊を含む守護の神霊の加護を願い、守護の神霊に世界平和を祈ってゆけば、形式的=偽善的な感謝行を繰り返さずとも自然に感謝の光が現われてくるのであります。



A.肝心なことを教えない世間受けした教え


 さて、話しを戻しましょう。


 件の相場の先生は次のようなこともよく云っていました。

 「ものの本には、安きを買い、高きを売れといった“こうすれば儲かる”という話は幾らでも書いてある。しかし、“どうすれば”安きを買い、高きを売れるのかといった一番肝心なことがひとつも書かれていていない。」 



×       ×       ×

 この話も私にとっては大変印象に残っている話ですが、実はこれも相場の売買に限った話ではないようです。


 どの分野でもそうでしょうが、一般向けの書籍には、“こうすればよい(儲かるなど)”という話はいくらでも書いてあるのに対して、“こうすれば”を実現するには具体的に“どうすれば”よいのか、といった一番肝心な事柄がごっそり抜け落ちているのが通例です。たとえ書いたとしても、「目の付け所が低い」などと批判されるのが落ちで、本も売れないからです。それは、一般の読者は大半が趣味的でプロ意識が欠如しているからに他なりません。出版社も商売ですから、これはこれで仕方がないことでしょう。



B.立教者の持つ限界〜一般向けに教えを説いた五井先生


 ちなみに、株式にせよ商品にせよ、いわゆる評論家で相場の腕前もプロ並みという人は数えるほどしかいないと言われています。百歩譲って、その本の著者がたとえプロ級の腕前を持っていたとしても、諸般の事情から相場の売買には余り役立たない本を一般向けに書かざるを得ない、或は一般受けするようにゴーストライターによってリライトされてしまうといったことも多々あるそうです。これは相場の世界に限らず、どんな分野でもプロと素人のある世界ではあり得る話しのようです。そして、こういったことは当然ながら宗教の世界でも同様なのではないかと私は思うのです。


 さて前章でも書いた通り、森島先生の解説によれば、五井先生の感謝の教えも「世界平和の祈り」など祈る心境にないような人たちに向けての教えだったそうで、その意味で言えば、五井先生の教えも素人向けの趣味的な教えだったのだと理解することも可能です。たとえば法然上人もその教えに実は数々の矛盾点があったそうですが、法然上人と同じように五井先生も新しい教えを多くの人に説かなければならぬ天命があったので、これは仕方のないことだったのでしょう(法然上人も相手を見て法を説く対機説法だったようです)。要するに五井先生と森島先生の違いはある意味で法然上人と親鸞聖人の関係と似ていて、森島先生が新たに教えを説かれる必然性が五井先生の立教の当初よりあったのだと理解してもよいのかも知れません。私はそのように思っています。



C.「素人向けの教え」と「素人受けする教え」


 以上色々と述べてまいりましたが、要するに分かりやすく言うと、
 宗教の教えにせよ何にせよ、世間には「素人向きの教え」「素人受けする教え」とがあって、この二つは基本的に相容れないのです。



×       ×       ×

 前章でも充分に触れたので特に繰り返しませんが、
 森島先生の教え方(=森島メソッド)は、五井先生の教えを森島先生が私たち「素人向け」に改訂して下さった教えです。しかし上で説明した通り、逆説的に聞こえるかも分かりませんが、実は森島先生の教え方こそはまさに「プロ仕様」の教えだったのです。


 さて、森島先生の教え方に対して反発する方が実は意外に多くいるのですが、
 それは、要するに五井先生の教えが「素人受けする教え」(=玄人っぽい教え)だったのに対して森島先生の教えが「プロ受けする教え」(=素人くさい教え)であるために、「素人向けの教え」であるのにも拘らず「素人受け」せずに却って反発されてしまう、といったことが起こるのではないでしょうか。そしてこれも、先に触れた“自分自身に対しても自分の心境を高く見せたい”といった虚栄心(業想念)が邪魔をして、折角自分たちに合った「素人向けの教え」に出会いながら却って反発をしてしまう、このような素人的な間違った自尊心や自負心を図らずも形成してしまっているということが原因だろうと考えられます。何れにせよ、森島先生の教えにはそういった素人好みの間違った自尊心を期せずして否定して壊してしまう面があるので、森島先生に対して反発心を懐く人が多いのもこれは已むを得ないことなのかも知れません。その意味で、先のプロの先生が「相場師は安直に本当のことは教えないものだ」と云うのもまさに至言と言ってよいと思います。
 私は個人的にそのように理解しています。


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【五】.最後に・・・


 最後になりましが、森島先生は、合気道の達人として有名な「氣の研究会」の主宰者である藤平光一先生の内弟子の経験があり、合気道の免許皆伝だそうです。そのような長年にわたる合気道のプロの経験も手伝って、森島先生は五井先生の教えをさらにシンプルにまとめ直すことを得たのだろうと思います。そのプロとしての森島先生の経験が、一部の人には反発を呼ぶほどの徹底的な五井先生の教えの単純化によって、森島メソッドとして私たちの前に示された次第です。
 私はそのように理解し信仰しております。

 誤った仏法修行者について、道元禅師は《生(しょう)をうくるに為法求法(いほうぐほう)のこころざしなきによりて、真法(しんぽう)をみるとき真龍をあやしみ、正法(しょうぼう)にあふとき正法にいとわるるなり。》(正法眼蔵・谿声山色巻)と述べておられますが、何れにせよ私たちは、幸いにも上で触れたようなイタズラな反発心を起こさずに森島先生の教え(=森島メソッド)を信受することを得ました。このことに対して、私たちは守護の神霊に対して深く感謝しなければいけないと思います。



×       ×       ×

 なお、近日中にあと1〜2章ほど補足的な論考を追加UPの予定ですが、
 以上で大体のところは言い尽くしたと思いますので、これをもって、いちおう森島先生によって開示された「真実の五井先生の教え」についての私なりの解説を終わらせていただきます。


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 静かに憶(おも)うべし、正法(しょうぼう)世に流布せざらん時は、身命(しんめい)を正法の為に抛捨(ほうしゃ)せんことを願(ねご)うとも値(お)うべからず、正法に逢(お)う今日の吾等(われら)を願(ねご)うべし、見ずや、仏の言(のたま)わく、無上菩提(むじょうぼだい)を演説する師に値(あ)わんには、種姓(しゅしょう)を観ずること莫(なか)れ、容顔(ようがん)を見ること莫れ、非を嫌(きろ)うこと莫れ、行(おこない)を考(かんが)うること莫れ、但(ただ)般若を尊重(そんじゅう)するが故に日日三時(にちにちさんじ)に礼拝(らいはい)し、恭敬(くぎょう)して、更に患悩(げんのう)の心を生(しょう)ぜしむること莫れと。

(修証義・行持報恩より)

現代語訳:
 静かに思い廻らしてみよ。正しい法が世の中に遍く伝わっていない時には、たとえこの身この命を正しい法のために投げ捨てることを願ったとしても、その機会を得ることは出来ない。幸いにして正しい法に出逢うことの出来た今日の私たちの、その機縁をこそまずは願うべきである。
 それだから、しっかりと認識しておくがよい。お釈迦様も次のように教示しておられる。「この上なき悟りの智慧を述べ伝える真実の師に巡り逢う機縁を得るためには、その師匠の生まれ〔出身カースト〕を問うてはならず、容貌の善し悪しなどその外見を気にしてはならない、また、その人の人間的欠点を批判してはならぬし、その行ないの是非・善悪を云々してもならない。その師匠の説かれる真実の智慧そのものをひたすら尊重するが故に、朝も昼も晩も日々に礼拝し心から敬って、さらに師の心を少しでも煩わしめるようなことがあってはならない」と。


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跋文へ」〜私たちの誓い〜【最後に】 単純化への不安や抵抗を超えて


2007.8.20 このページのトップへ


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