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世界人類が平和でありますように
ようこそ!全託道場へ
 世界平和の祈りに全託を このページは利用者同士がコミュニケーションを図るために設けた掲示板の過去ログのページです。
 07年9月〜08年9月までの1年間の書込みをバックアップ、過去ログファイルとして編集の上、UPしてあります。
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世界平和の祈りに全託してゆくことが、今日の世界にとって、一番大事なのです。
(五井先生最後のお言葉)
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「世界平和の祈り」と私たちの信仰


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BBS☆過去ログ1_07











世界人類が平和でありますように 全託道場掲示板
<過去ログ1_07>





出会いさんへ、 マキト Date:2008年5月15日<木>10時26分

世界人類が平和でありますように

この掲示板の人は出会い系には多分関心ありません。


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植芝先生の思い出 マキト Date:2008年5月13日<火>14時05分

世界人類が平和でありますように

生前の植芝先生には会ったことはないですが、
大学時代の学園祭で合気道部の招きで、吉祥丸先生が来られて彼の演武を拝見しました。

五井先生と親しかった、植芝先生は大本教ですが、
五井先生と出会ってからも大本教→白光に移籍されなかったのでしょうか?

多分、お互いに尊敬しあう関係でしたが、
植芝先生は過去生の縁(えにし)が五井先生より、
出口先生との縁が深かったと思います。

「世界平和」の祈りは否定されませんが、
植芝先生には大本教の行が自分自身には合っていたと、と思われます。


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植芝先生の信仰 マキト Date:2008年5月13日<火>19時13分

世界人類が平和でありますように

植芝先生程の霊的にも人格者の方でも五井先生にも触れた方が、「世界平和」の行、祈りは基本的には日常生活には導入されませんでした。

あくまでも自分自身は大本教の信徒としの信仰生涯を歩まれました。

植芝先生は五井先生の教えを理解できない、おばかサンだったからでしょうか?私はそうは思いますせん。

唯一会の人は他宗教も人よりも霊的にも選らばれた
優れた人だと自認しますか?

どんなに霊的に優れた方でも、過去生縁(えにし)がありますから、どうしてもその道(世界平和の祈りと行)を歩まれない方もいますね。
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世界平和の祈りが世に宏まればそれでよい BOKEMIAN Date:2008年5月14日<水>22時11分

世界人類が平和でありますように

 白光真宏会もそうですが、五井先生の教えを継承する私たちは、従来の宗教団体のように、何も信者や会員数を増やすことを目的として宗教活動をしているわけではありません。私たちの宗教の教えと正しい宗教理念を理解して下さればそれでよいと考えております。
 ですから私たちは、信奉する宗教・宗派は違っても、「世界平和の祈り」の意義を理解し共感して下さる方が一人でも増え、「世界平和の祈り」を祈って下さる方が一人でも多くなってゆけばよいと願って信仰活動をしています。また、全託道場もそのことを願って運営しているので、決して信者数を増やすことのみを意図しているわけではありません。

 なお、「世界平和の祈り」は従来のように一宗教団体の祈りで終わってしまってよいようなレベルの祈りではないと私は堅く信じております。


世界人類が平和でありますように
皆様の天命が完うされますように
IP:61.44.208.80

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昌美先生は五井先生の教え正しく継承していた マキト Date:2008年5月7日<水>06時49分

世界人類が平和でありますように

最近、昔の五井先生、昌美先生の法話テープを聴いていますが、五井先生の存命中の昌美先生は五井先生の教えをやはり正しく継承していた、の印象です。

もし、当時から間違えていたら、五井先生から指摘を受けていた筈ですし、最悪、後継者、講師として相応しくないとその職から外されていたと思います。

但し、会員さんへの指導がいつも正しかった訳ではなく、たまに、法話の中で五井先生から個人指導の仕方で、「相談相手の守護霊の言葉を直に伝えて、厳しすぎる」と五井先生から注意を受けた、とかの告白はありますが、基本的には継承できていたと思います。

当時の昌美先生を否定することは五井先生を否定することにも繋がります。

と、最近感じました。



IP:59.190.6.197
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どちらも純粋な五井先生の教えではありません BOKEMIAN Date:2008年5月7日<水>21時09分

世界人類が平和でありますように

 マキトさん
 貴重なご意見をありがとうございます。

 おっしゃる通り、五井先生絶対主義の立場に立てばそのようなことになるでしょうね。


 さて、五井先生の教えの中には、読みようによっては「真理の宣言行」を肯定しているかのような箇所もあります。もちろんその反面で「真理の宣言行」を否定している箇所もあるわけです。
 そのため、五井先生の教えのどこを・どう強調するか、どのように発展・継承するかによって、後継者の教えは如何様にも変化します。

 そこで、これは森島先生が使われた表現ではありませんが、
 私は現・白光=昌美先生の教えを「Goi_Masami Doctrine」、一方で唯一会=森島先生の教えを「Goi_Morishima Doctrine」と呼んではどうかと考えています。

 私たちは唯一会=森島先生の教えが正しいと信じておりますが、どちらも五井先生の教えの解釈の違いから生れた教え方です。要するに五井先生の教えには、そのように解釈の違いを生み出すある意味で曖昧な要素があったわけです。

 私はそのように理解し、その上で森島先生の教え方(森島メソッド)が真実に正しい教えであると理解し信仰しているのです。
IP:61.44.199.199

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真理は単純で美しい マキト Date:2008年5月9日<金>08時50分

世界人類が平和でありますように

五井先生の教えを難しくしているのは、「幼子のように」なりきれないところがあると思います。

かつての妙高人のように、教養の低い人が意外と真理を悟って念仏一念で信仰生活が出来てました。

また、「キリストが幼子のように神の国と義を・・・」と言われたよう当時も学のない、幼子や
娼婦が優先して救われてました。

昌美会長は残念ながら、途中から「五井先生の祈り一念では個人も世界も救われない」と感じてか、自己満足からか種々の行を信徒さんに課していますね。
IP:59.190.113.70
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森島メソッドに帰依しています BOKEMIAN Date:2008年5月2日<金>02時04分

世界人類が平和でありますように

 かさぞさん
 ご質問ありがとうございます。


> 五井先生の本の中に「世界平和の祈りのひびき」が祈りを唱えてなくても鳴り響いている、鳴り響くようにならないと…と言うような事が書かれていたのですが、

 ひとたび信心して、一回でも本気で世界平和の祈りを唱えれば、その時から世界平和の祈りを殊更に言葉で唱えなくとも、本心の中で既に祈りの響きは鳴りひびいていると、私も堅く信じています。
 そして、強いて言えば自然法爾の状態が祈りが鳴りひびいている状態なのでしょう。ただそこまでゆかなくても、信仰が深まればその状態も感覚的に何となく分かようになるのではないかと思います。


 さて、話は変わりますが、
 実は五井先生の教えの説き方は中々難しくて、感情的には非常に納得のゆくところが多々あるのですが、いざ五井先生のみ教えを心底理解しようとすると中々手強いところがあって、却って迷ってしまったりするのです。
 それは、たとえば「祈りは肉体人間側の意志で祈らなくても守護の神霊が祈っていて下さる」「本心で鳴りひびいている」などと他力信仰的に説かれたかと思えば、一方では「鳴りひびくようにならないといけない」、或は「鳴りひびかせなければいけない」などと自力的な説き方をされたりといった具合で、一見すると矛盾しているかのようにも取れる箇所がたくさんあるのです。

 森島先生はかつて、「ある道で達人になった人は未熟だった過去の修業時代のことを忘れて、レベルの高い教えを直ぐにでも出来るかのように弟子に説いてしまうことが多いが、五井先生も同じなんですよ」と説明して下さったことがありました。
 その時は目から鱗が落ちる思いがしましたが、その意味で対機説法がメインの五井先生は、大概は凡夫の立場で教えを説かれたのですが、時には非常に上根の人向けの教えを為さる時もあって、その辺をうまく切り分けて理解しないと、五井先生が説かれた上根の人向けの教えを好んでやってしまい、結果的に自分に合わない間違った道を行ってしまう恐れがあるのです。
 それに、五井先生の教えには霊的な話しもたくさんあって、そのような枝葉の教えと根本の教えとが五井先生の教えには混在しています。それは神様からの神示が常時あるような教えの創唱者には無理からぬことなのですが、何れにせよ、その辺の切り分けはは森島先生に教えていただくまでは私には全く理解できませんでした。

 その意味で私たちは、五井先生のお説きになられた全ての教えに帰依しているのではなく、森島先生によって整理され解説された限りでの五井先生のみ教え(=森島メソッド)に帰依しているのです。


 かさぞさんの質問には的確なお答えになっていないかも知れませんし、また、何だか余りうまく書けませんでしたが、ご参考になりましたでしょうか。
 なお、この辺の詳しいことについては、全託道場内の私のエッセイ「森島メソッドは単純明快矛盾なし」をご参照下さい。

http://zentaku-prayer.com/principle/m-method/index.html
IP:61.44.199.215

http://zentaku-prayer.com/

返信ありがとうございます。 かさぞ。 Date:2008年5月2日<金>13時49分

世界人類が平和でありますように

BOKEMIANさん、返信ありがとうございます。

さっそくリンク先を読んでみました。

根本の教えと、枝葉の教えが混じっていると言うのは
私にとっても目から鱗でした!!

ちなみに「何が根本で」「何が枝葉か」と言うのが分からない私だったりするのですが・・・(^^;;;;

根本と言うのは『消え行く姿で世界平和の祈り』と言う事ですか?

消え行く姿も非常に奥深く感じますし、世界平和の祈りを行ずる事自体も奥の深さを感じます。

この中でもさらに根本になるような部分があると言う事でしょうか?

質問ばかりで申し訳ありません。

そのくらいの理解力しかないのですが、森島先生教えが勉強できるようなHPなどありましたら教えていただいて宜しいでしょうか?

一度そこをじっくり読んだ方がBOKEMIANさんの時間を取らずにすみそうです(^^;;

私事なのですが、森島先生がされてた合氣道をほそ〜ぼそとですが、10年程やっております。
2000年前後に検索して掲示板で唯一会の存在は知ってました。
それから合氣道つながりで五井先生を知って、
同じ流派つながり唯一会に辿り着いたのは何か縁を感じていたりします(^^)

失礼します。
IP:220.151.140.82
Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows NT 5.0; .NET CLR 2.0.50727)


HPで辿れそうです。 かさぞ。 Date:2008年5月3日<土>01時12分

世界人類が平和でありますように。

BEKIMIANさん、HPを良く調べずに質問してしまい失礼しました。

唯一会のHPの法話集のところに「根本と枝葉」のページがありました。
また、唯一会のHPの「初めての方へ」のところに色んな資料へのリンクがありました。

とりあえず上記のリンクで読めるものをコツコツ読んでみようと思います。

一通り読んで、分からないことがあったらまた質問させてくださいm(__)m

失礼します。
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Mozilla/5.0 (Windows; U; Windows NT 5.1; ja; rv:1.8.1.14) Gecko/20080404 Firefox/2.0.0.14


それはよかったですね BOKEMIAN Date:2008年5月3日<土>01時22分

世界人類が平和でありますように

 かさぞさん
 それはよかったでですね。

 今日は時間が取れなくてお答えできませんでしたが、お答えはかさぞさんが気がついたと同じことをレスするつもりでした。

 何か疑問などあればいつでも質問して下さい。

 では、お休みなさい。
IP:61.44.199.215

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父の思い出 マキト Date:2008年5月2日<金>08時38分

世界人類が平和でありますように

車での事故のニュースを聞くたびに車での仕事がメインだった父を思い出します。

亡き父は、長年大手企業の重役らの専属ドライバーでした。退職してからも車とは仕事上ご縁が切れない状態でした。

危険なことが数回あったのですが、不思議と生涯、車での事故から守られました。
(酒好きでたまに飲酒運転もありました。)

頑固な父でしたが、根底では神を信じ敬っていました。目に見えない形で父に付いていた悟った霊が守っていたと今では思っています。

・・・・・・・
家族4人に車、女児死亡=3人重軽傷、75歳男を逮捕−岡山

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真理は同じですが マキト Date:2008年5月1日<木>10時22分

世界人類が平和でありますように

五井先生の教えは、どの宗派の人でも祈れる「世界人類が・・・」ですが、自分もそのように思いますし、キリストの教えも、老子の教えも真の宗教の教え、求めるところは共通ですね。

でも、実際問題、浄土宗の人も、大本教、キリスト教の人も「世界人類が・・」祈れるでしょうか。祈っている人がいるでしょうか。

自分たちの念仏、行、祈り方を差し置いて、「世界平和」をも祈るということは、自分たちの念仏、祈りに欠点、不足があるということになると思います。

キリスト教の人は、「主の祈り」の中に世界平和の祈りが含有されています、というでしょうし、

真宗の人は、
「南無阿弥陀仏」も個人人類同時常道の念仏です、
と主張するでしょう。


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マキトさんはじめまして。 かさぞ。 Date:2008年5月1日<木>11時45分

かさぞと申します。
祈りと言う事自体の初心者です。よろしくお願いします。

私も、便乗しての質問なのですが(^^;

五井先生の本の中に「世界平和の祈りのひびき」が祈りを唱えてなくても鳴り響いている、鳴り響くようにならないと…と言うような事が書かれていたのですが、
これは自分の心が穏やかな状態、水面に喩えるなら波が鎮まっているような状態を表していたりするのでしょうか?(世界平和の祈りが鳴り響いている状態の一面?)

だったら、何の祈りでも、瞑想でもそのような状態になる為にしているような気もします、その心の状態が鳴り響いて世界に広がるのかなー、なんて思ったりしています。

でも、難しいので私は世界平和の祈りでそう言う心境にいつの日かなれれば良いなー。と言う感じなのですが。。。

でも、五井先生がわざわざ「世界平和の祈りがなりひびく」と表現されているのでまた違ったものなんでしょうか…(上記のような事を含むもっと深いもの?)
これは私自身が世界平和の祈りを続けて自分で確かめてみるしかない問題ですよね。きっと(^^)

まとを得ない書き込みで申し訳ありませんでした。
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求めるところは必ずしもひとつとは限りません BOKEMIAN Date:2008年5月1日<木>21時27分

世界人類が平和でありますように

 マキトさん
 投稿ありがとうございます。

 「真理はひとつ」「求めるところはひとつ」とはよく云われますが、実際はどうなのかは実は分かりません。
 この世に神の国を実現することを究極の目的とした宗教もあれば、或はこの世から離脱して天国浄土に往生することを目的とした宗教もあります。また、その目的の「求め方」も各宗教によって千差万別です。

 ですから私は、山に譬えれば、“同じ富士山に登る様々な道”としてではなく、“登る山はそれぞれに異なっても、登山者であるということに変わりはない”として各宗教の信仰者を捉えるのがよいのではないかと考えております。如何に山(目的)や登山方法(求め方)が違っても、登山者であることに代わりはないので、そういった意味で同じ登山者として各宗教の信仰者を尊敬し合うことは可能だろうと考えるからです。

 その意味で、キリスト教の人や浄土教の信者が自分たちの祈りに「世界平和の祈り」を包含しても何の問題もありません。私たちも自分の信仰を信じて同じことをやっているわけですが、上の譬えのようにお互いに尊重し合う姿勢を堅持していれば特に問題はないと思います。

 もちろん私たちは「世界平和の祈り」を唯一最高の祈りだと信じています。けれども、他の宗教の祈りを祈っている人たちに対して、かれらの祈りに「世界平和の祈り」を包含させようとしたり、「世界平和の祈り」を強要しようとしたりする意志はまったく持っておりません。
 事実、森島先生は以前から「世界平和の祈りの黙祷」を唱えていて、特に各宗教者が集まってお祈りする折は、言葉に出して祈るのではなく、各宗教の固有の祈りで構わないから世界平和を黙祷の形で祈り求めることをお説きになっていらっしゃいます。

http://www.yuiitsukai.org/houwa/20031211.html


 この問題は論じれば中々面白いのですが、今回はこの辺で終わりにします。
 なお、かさぞさんの投稿は趣旨が少しばかりずれるので、後ほど別スレッドでお答えいたします。
IP:61.44.199.215

http://zentaku-prayer.com/




辛いことの後にいいことが マキト Date:2008年5月1日<木>07時57分

世界人類が平和でありますように

昨年、詐欺に会ったり、本業がNGになったりで「踏んだり蹴ったり」の辛い体験が多くありました。

祈りが足りなかったからか、業因縁の消えてゆく姿か、分かりません。(詮索しても仕方がありません)

ですけど、祈りある者には嫌な出来事の後には神はきっと良いことを準備して居られる、と信じています。
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仕方がないのでしょうか マキト Date:2008年4月30日<水>02時12分

清掃やタクシーの運転、警備の方は世に必要ですが、その方たちは生計のためであって、多くの人は仕方なしです。

その方と会話したこともありますが、中には楽しんでしている人もいるかも知れませんが、
大半の方が「他に雇ってくれるところがなく仕方ない。自分の仕事には誇りも楽しみもない」とのお返事でした。

自身の天命ができずに、そのような仕事を余儀なくされる人々は過去生の業因縁が故でしょうか。

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霊的なことは私に聞かれても困ります BOKEMIAN Date:2008年4月30日<水>22時22分

世界人類が平和でありますように

 マキトさん
 お返事が遅くなり、申し訳ありません。

 折角のお訪ねですが、私にそのようなことを聞かれてもお答えできません。

 もちろん通りいっぺんのことは私にも書けなくはないですが、マキトさんだって私と同じく古くからの白光の会員さんで、五井先生の本もたくさん読んでいらっしゃるはずです。ですから、マキトさんも大体のお答えは分かっているはずなのに、霊能も何もない私に何故そんな質問を何度もなされるのでしょうか? 

 何れにせよ私には、別の掲示板での過去の書き込みも含めて、マキトさんが底辺で厳しい労働をされている方を引き合いに出して、結局はご自分の不幸を嘆いているだけのように感じられてなりません。

 もうこれ以上、自分の人生の失敗や不幸を直視せずに、「神の御心にかなわなかったから、失敗の結果を与えられた」などと神様に逃げないで下さい。


> 自身の天命ができずに、そのような仕事を余儀なくされる人々は過去生の業因縁が故でしょうか。

 「天命が出来ずに」という表現によく表われていますが、前にも書いたように、あなたは「天命」を恰も御利益か何かのように捉えているようです。
 繰り返し書きますが、「天命」とは「神からの問いかけ」であって、神様へ御利益を得るような気持ちで願い求めるものではないはずですよ。

 もっとも、あなたが自分のことではなく底辺で苦しむ人に関心があるのだというのならば、こんなところで質問しているよりも、炊き出しでも何でもして奉仕活動をした方がよっぽど自分のためにもなると思いますよ。


マキトさんの天命が完うされますように
マキトさんが幸せでありますように
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神を信じるものは最終的な勝利者の人生 マキト Date:2008年4月30日<水>22時43分

世界人類が平和でありますように

確かに祈っても分からないことが世には多いですね。あれだけまじめに働いていた方がリストラ、倒産の苦境に立たされたり。

あれだけ、いい加減な人生の人が、結構な贅沢が出来ているとか、ありますね。

不合理なことは自分の人生にもいえます。

ただ、嫌な出来事は消えて行く姿で神を信じて前進しかないということですね。

神を信じるものは最終的な勝利者の人生だと、思います。
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救国 仙人 Date:2008年4月29日<火>13時49分

悪政を施く政治こそが災害や飢饉といった天変地異

を呼びこんでおる 手遅れにならぬうちに この国の

政治を正さねばこの国は滅んでしまうのじゃ わか

らぬのか。
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もはや祈りしかない BOKEMIAN Date:2008年4月30日<水>22時33分

世界人類が平和でありますように

仙人さん
投稿下さり、ありがとうございます。


> わからぬのか。

 はい、全く分かりません(笑)

 というより、いくら悪い政治体制だからといってその政治体制だけを変えても、意に反して世の中はよくなりません。それは歴史の教科書をちょっと繙けば直ぐに分かることです。

 この相対的な肉体世界では、ユートピア実現の夢は必ずディストピアの悪夢となって現われるのです。
 ですから、政治を正す前に肉体人間の心を何とかしなければなりません。しかし、それは凡夫である肉体人間には不可能なわざですから、どうしても神様の力に全てを託さなければならないことになります。そして、そのための方法が「世界平和の祈り」であるのです。
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はじめまして。 かさぞ。 Date:2008年4月25日<金>13時11分

世界人類が平和でありますように。

BOKEMIANさんはじめまして。かさぞと申します。

五井先生の本は何冊か読んでまして、
個人的に世界平和の祈りをしております。

その中で疑問があるのですが、こちらで質問させて頂いて宜しいでしょうか?

と書きつつ長い質問だったりするのですが・・・(^^;;;

・世界平和の祈りは空念仏のようになったりしても大丈夫。(自分の本心、守護霊様は祈っててくれる)
・もう列車に乗ったようなもので行き先には必ず着くのだから、列車の中で言ったり来たりするような事をしなくても大丈夫。(やる人はやっちゃうけど)
・努力、工夫、練習の積み重ね?は必要。

と言うような事を本で読んだのですが、これは

結果は必ず良くなると分かってるのだから、気持ちはあせらず落ち着いて、ただ努力、工夫は積み重ねつつ行じていきましょう。

と言うような捕らえ方で大丈夫でしょうか?


また、上手く喩えられないのですが、自分の本心や守護霊様が祈っててくれると言うのは内側から外に向かって穴を掘ってくれてるような感じで、自分で努力、工夫をすると言うのは外から内側に向かって自分で穴を掘って行くようなイメージで思ってるのですが、このような考え方で大丈夫でしょうか?

そして、最後の質問なのですが、自分がレベルに応じた正しい努力、工夫を行っているか?と言うことを判断するにはどうすればよいでしょうか?
唯一会の集会などに出てみなさんとお祈りをすればわかってきたりしますか?

突然の書き込みで失礼しました。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

IP:220.151.140.82
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努力や精進も自然法爾に BOKEMIAN Date:2008年4月26日<土>16時43分

世界人類が平和でありますように

 かさぞさま、ご質問ありがとうございます。
 中々お答えが難しいテーマなのですが、頑張ってお答えしてみたいと思います。


> ・世界平和の祈りは空念仏のようになったりしても大丈夫。(自分の本心、守護霊様は祈っててくれる)
> ・もう列車に乗ったようなもので行き先には必ず着くのだから、列車の中で言ったり来たりするような事をしなくても大丈夫。(やる人はやっちゃうけど)
> ・努力、工夫、練習の積み重ね?は必要。

 歎異抄の第1条冒頭にも、《弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念佛まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち、摂取不捨の利益にあずけしめたまふなり》(阿弥陀仏の誓願の不可思議なはたらきにお救いいただいて、必ず浄土に往生するのであると信じて、念仏を称えようという思いがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、その光明の中に摂め取って決して捨てないという利益をお与え下さるのです)とありますが、かさぞさんもご存知の通り、これとそっくり同じようなことを五井先生も『宗教問答』等の中でお書きになっておられます。
 ですから、かさぞさんや私が五井先生のお説きになられた教えを信じて、心から世界平和の祈りを祈ってゆこうと決心したその時に既に救われが決定しているので、後は四の五の悩む必要は何もないのです。私は以前からそのように固く信じております。

 しかし、ここで問題になるのが肉体人間側の努力・精進の問題です。
 私は救い、すなわち霊性開発を速やかならしめようとして、肉体人間側の小知才覚でわざわざ行なう類の努力や工夫は却って無益なことが多いと考えております。
 だからといって、全く怠惰で何もしなくてもよいかというとそうではなく、たとえば親鸞聖人や蓮如上人などが信心決定した後は報恩感謝の念仏を称えよと教えられているように、私も日頃からのたゆみない世界平和の祈りは大事だと思っています。五井先生もそのことに関して、日頃の世界平和の祈りはスイッチの確認だという意味のことを言っておられました。要するに、気をつけてラジオの周波数を合わせるくらいの、すなわち、正しい信仰心を維持しているかどうかの日頃の確認の努力くらいは必要なのでしょう。この問題については、私はこのように理解しております。


> また、上手く喩えられないのですが、・・・

 以下の文章は私にはいまひとつピンと来なかったのですが、
 書き込みを読んで、私は啐啄同時(そくたくどうじ)という言葉をまずは連想しました。
 ご存知とは思いますが、この言葉は「鶏の雛が卵から産まれ出ようとする時に殻の中から卵の殻をつついて音を立てるのと同時に、その時すかさず親鳥が外から殻を啄んで破る」という意味です。お答えにはなっていないかも知れませんが、守護の神霊側の祈りと私たち肉体人間の精進努力というのは、それと同じく共時的に起こる事柄だと思います。


> そして、最後の質問なのですが、自分がレベルに応じた正しい努力、工夫を行っているか?と言うことを判断するにはどうすればよいでしょうか?
> 唯一会の集会などに出てみなさんとお祈りをすればわかってきたりしますか?

 これは私にも正確な判断は難しいですが、その努力や精進・工夫をすることが嫌々でなく、伸び伸び生き生きと為されているのならば、そして、その努力や精進が努力とも何も感じられずに自然に為されるのであれば、その努力や精進・工夫はホンモノではないかと思います。

 それと、宗教信仰上のことはやはり同信の仲間があった方がよいのはその通りで、かさぞさんも唯一会に限らず五井先生の教えを伝えている会合に一度出向いてみるのもよいかも知れませんね。


 以上、適切なお答えになっているかどうか分かりませんが、私なりに考えていることを書いてみました。少しは参考になりましたでしょうか? 


※本文中に付記した歎異抄の現代語訳は、本願寺出版社刊の文庫版『歎異抄 現代語訳付き』を利用しました。
※今は時間がないので、あいさん他の皆さまへのレスは後ほどさせていただきます。
IP:61.44.208.151


返信ありがとうございます かさぞ。 Date:2008年4月27日<日>15時22分

世界人類が平和でありますように。

BOKEMIANさん、丁寧な返信ありがとうございます。


> 歎異抄の第1条冒頭にも、《弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念佛まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち、摂取不捨の利益にあずけしめたまふなり》(阿弥陀仏の誓願の不可思議なはたらきにお救いいただいて、必ず浄土に往生するのであると信じて、念仏を称えようという思いがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、その光明の中に摂め取って決して捨てないという利益をお与え下さるのです)とありますが、かさぞさんもご存知の通り、これとそっくり同じようなことを五井先生も『宗教問答』等の中でお書きになっておられます。
> ですから、かさぞさんや私が五井先生のお説きになられた教えを信じて、心から世界平和の祈りを祈ってゆこうと決心したその時に既に救われが決定しているので、後は四の五の悩む必要は何もないのです。私は以前からそのように固く信じております。
> しかし、ここで問題になるのが肉体人間側の努力・精進の問題です。
> 私は救い、すなわち霊性開発を速やかならしめようとして、肉体人間側の小知才覚でわざわざ行なう類の努力や工夫は却って無益なことが多いと考えております。
> だからといって、全く怠惰で何もしなくてもよいかというとそうではなく、たとえば親鸞聖人や蓮如上人などが信心決定した後は報恩感謝の念仏を称えよと教えられているように、私も日頃からのたゆみない世界平和の祈りは大事だと思っています。五井先生もそのことに関して、日頃の世界平和の祈りはスイッチの確認だという意味のことを言っておられました。要するに、気をつけてラジオの周波数を合わせるくらいの、すなわち、正しい信仰心を維持しているかどうかの日頃の確認の努力くらいは必要なのでしょう。この問題については、私はこのように理解しております。
私が一番知りたかった事は上記のことでした。
なるほど、毎日の世界平和の祈りがチャンネルにあってるか?スイッチが入ってるか?と言う意識だと
何か余計なことをし始めて間違った方向に突き進んで行かずに済みそうです。
とても分かりやすく説明していただきありがとうございました。

>> また、上手く喩えられないのですが、・・・
> 以下の文章は私にはいまひとつピンと来なかったのですが、
> 書き込みを読んで、私はPU啄同時(そくたくどうじ)という言葉をまずは連想しました。
> ご存知とは思いますが、この言葉は「鶏の雛が卵から産まれ出ようとする時に殻の中から卵の殻をつついて音を立てるのと同時に、その時すかさず親鳥が外から殻を啄んで破る」という意味です。お答えにはなっていないかも知れませんが、守護の神霊側の祈りと私たち肉体人間の精進努力というのは、それと同じく共時的に起こる事柄だと思います。
こちらの話もなるほどと思いました。

>> そして、最後の質問なのですが、自分がレベルに応じた正しい努力、工夫を行っているか?と言うことを判断するにはどうすればよいでしょうか?
>> 唯一会の集会などに出てみなさんとお祈りをすればわかってきたりしますか?
> これは私にも正確な判断は難しいですが、その努力や精進・工夫をすることが嫌々でなく、伸び伸び生き生きと為されているのならば、そして、その努力や精進が努力とも何も感じられずに自然に為されるのであれば、その努力や精進・工夫はホンモノではないかと思います。
> それと、宗教信仰上のことはやはり同信の仲間があった方がよいのはその通りで、かさぞさんも唯一会に限らず五井先生の教えを伝えている会合に一度出向いてみるのもよいかも知れませんね。
なるほど、生き生きとしているかどうか?と言うのは間違いない判断のようですね(*^-^*)
私は横浜に住んでるので機会があったら唯一会の東京集会に参加できればなーと思っております。
(折原さんにもメールで問い合わせて親切な回答を頂いたりしておりますので参加したいと思ってるのです)
子供が小さいのでどう言う機会の巡りになるか分かりませんが、ご一緒できることがありましたら宜しくお願いします。

> 以上、適切なお答えになっているかどうか分かりませんが、私なりに考えていることを書いてみました。少しは参考になりましたでしょうか? 
すごく回答がツボにはまっていて、返事が少なくなってしまいました(^^;;;
すごく参考になりました。

どうもありがとうございましたm(__)m

失礼します。
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