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世界人類が平和でありますように
ようこそ!全託道場へ
 世界平和の祈りに全託を! 果たして五井先生は私たちに何を訴え続けてお亡くなりになったのでしょう?
 私が入信した最晩年の頃の五井先生のお身体の状態についてかなり詳しく述べさせていただきました。肉体身の五井先生をお慕いするのではなく、五井先生が私たちに示された“法”に随うべき時がついに来たのです。
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五井先生の遺言[目次] 第二章☆晩年の五井先生――衆生病む故にわれ病む
 だから皆さんは、私に会える間はかまわず私に浄めてもらい、もし会えなくなれば世界人類の平和だけ祈っていればいいのです。
(五井先生のお言葉)
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 五井先生の遺言
〜五井先生が最後に遺した言葉〜



序文へ〜宗教の目的とは〜 【序】  はじめに――本文を読まれる前に

第1章へ〜五井先生との出会い〜第一章 邂逅――世界平和の祈り(=五井先生)との出会い


冒頭ライン2:世界人類が平和でありますように


世界人類が平和でありますように第二章 晩年の五井先生
        ――衆生病む故にわれ病む



【目次】

【一】.初めての聖ヶ丘――五井先生のいらっしゃらない統一会
【二】.五井先生のお写真
【三】.五井先生のお身体(からだ)
    【イ.熟睡することも殆ど出来ない】
    【ロ.お話し(講話)も思うままに出来ない】
    【ハ.一人で立って歩くことも出来ない】
【四】.あまりにも早く・・・
【注記】

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さればアーナンダよ、なんじらは、ここに自らを燈明とし、自らを拠所として、他人を拠所とせず、法を燈明とし、法を拠所として、他を拠所とすることなくして住するがよい。
(大般涅槃経)


 ちょっと話が脱線しました。

 私の個人的な話にもう少しお付き合い下さい。


【一】.初めての聖ヶ丘――五井先生のいらっしゃらない統一会

 私が五井先生の本を初めて読んでから間もなくのことです。既に年は明けて1975年になっていました。
 守護霊様のお導きか、通学途中のある朝、家の近くのあるお店の軒先に置いてあった「世界平和の祈り」の新聞を、そしてそのしばらく後には機関誌の『白光』を私は偶々見つけたのです。当時「光のプレゼント」と称していたと記憶していますが、とにかく私がそれらを喜んでいただいてきたのはもちろん言うまでもありません
(^^) 

 私はその白光誌を舐めるように読みました。当時は詳しい住所などが記載された「集会案内」が白光誌の後ろに載っていました。当然それも詳しく見ていたところ、藤沢集会責任者で湘南支部長の尾崎弘先生
(故人)の連絡先が自分の通っている高校の近くだということが分かりました。
 もちろんあの感動があったためでしょう、本からだけではなく、どうしても直接教えに触れたいと私は強く願っていました。で、いま考えると私もずいぶん思い切ったことをしたと思いますが、私は学校帰りのある日、尾崎先生のお宅を電話もせずにお訪ねしてしまったのです。その時はあいにく尾崎先生はご不在でしたが、とにかくそんなことから尾崎先生にご縁を得た私は、その年の3月頃から藤沢集会に、その後しばらくしてからは鎌倉集会にも毎月参加するようになったのです。



 もっともそうは云っても、お山(当時は千葉県市川市にあった本部・聖ヶ丘道場)には中々伺うことが出来ず、何とか市川の本部道場にゆけたのは、その年の暮れも押し迫った12月の最終日曜日でした。ところが、何とその日の統一会には五井先生がお出ましになられなかったのです。
 五井先生が地球世界の業
(カルマ)を一身に引き受けてのお浄めをなされたのは大体この頃からのことで、それは五井先生のお身体(からだ)が大変で統一会を一時お休みになっていた時期のようでした。その後は五井先生が統一会をお休みになられることはなかったと記憶していますが、とにかく五井先生のご逝去前の約5年間は、五井先生のお身体がそれは大変な時期だったのです。

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【二】.五井先生のお写真

 さて、五井先生も翌年からはいつも通り統一会にお出ましになられるようになったのですが、その時のお姿があの行者風の長いお髭姿の五井先生でした。私の記憶では、その数ヶ月後には、確か「お孫さん(養女の昌美先生のお嬢さん)が髭を引っ張って痛くてしょうがないので……」という理由で折角のお髭を剃ってしまわれました。よく本などに載っている眉毛が伸びた五井先生のお写真は、確かこの頃のものだろうと思います。とても素敵なお姿だとは思うのですが、眉毛が伸びるのは老化現象で、やはりそれほどに五井先生のご病気が大変だったことの証左でしょう。

 事実その頃から五井先生のお顔が短期間にどんどん変わってゆかれるのが、月々の白光誌のお写真を拝見していて私にもよく分かりました。当時の白光誌をご覧の方はご存知でしょうが、日毎にやつれてゆかれるのです。いや、やつれるなんて通り一遍の表現ではすまされない、それはもう目を覆いたくなるほどのものでした。私の母なぞは、当時の五井先生のお写真を見て「何この人?」と言いました。60歳代前半の人にはとても思えない、というわけです。

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【三】.五井先生のお身体

 もっとも当時の五井先生に関しては、私も実はそれほど詳しいわけではありません。
 そこで、五井先生のお身体
(からだ)の状態について私が聞いた範囲で書いてゆくことにします。


 イ.熟睡することも殆ど出来ない

 古い会員さんにはよく知られていることですが、晩年の五井先生は人類の業を浄めるためのご病気で喘息症状の痰に非常に苦しまれていました。夜中はその喘息が特に大変だったそうですが、五井先生ははたの者を慮(おもんぱか)って夜は人を下がらせ、痰を吐き出す大量のちり紙を枕元に置いてお一人でお休みになっていらっしゃったそうです。1〜2時間くらいしか眠れない日々も多かったという話です。
 多分この喘息が五井先生の体力を奪っていったのでしょう、それはたとえば上に書いたお写真の変化で見ることができます。当時の白光誌をお持ちの方はご覧になって見られるのもよいかも知れません。


 ロ.お話し(講話)も思うままに出来ない

 私がお山に伺うようになった頃の五井先生は、五井先生御誕生祝賀統一会(現在の御降誕感謝祭)などの大きな集まりで数分間もお話しされればよいくらいで、それも年を追う毎に難かしくなってゆかれたようです。普段の統一会では、「皆さん、お早うございます」のご挨拶と統一指導中の柏手のみ、という状態でした。講話も当然かなり早い時期から不可能になり(昭和49年5月に「人類の未来」と題して行なわれた講演が五井先生の最後の講演会でした)、五井先生のご講話は録音テープで流されていました。その講話も確か過去の録音テープによるものだったと記憶しています。

 ハ.一人で立って歩くことも出来ない

 当然のことでしょうが、両親は私の宗教活動に反対していましたし、また、私が高校生だったこともあって、統一会には余り頻繁にはゆかれませんでした。それでも大学生になってからは、私も3〜4ヶ月に一回くらいはお山に伺うことができるようになりました。

 いつの頃のことだったかは覚えていませんが、偶々伺った ある日の統一会でのことです。
 五井先生が最後の統一指導でお出ましになられる時、聖壇の椅子まで歩かれるその五井先生の足許が大変覚束ない様子だったことがとても印象に残りました
。(その時は私も「あゝ大変なんだなぁ」と思っただけでしたが、五井先生は当時すでにc〔いく〕修庵から聖壇まで担架で運ばれて来ていたようです。) そしてその数ヶ月後に私がお山に伺った時には、五井先生がお出ましになられる直前に聖壇にカーテンが閉められるようになっていたのです。
 なお後日法友から聞いたところでは、これは私がお山に伺っていない時期のことですが、その時は二人の青年に両脇を抱えられて五井先生がご登壇になられたとのことでした。そのような五井先生のお姿を一般会員にお見せするのは心苦しいというので、会の判断で五井先生のご登壇前に聖壇のカーテンを閉めるようになったのでしょう。そしてそれ以後、五井先生が聖壇上の椅子に着かれると聖壇のカーテンが開かれるようになったのでした。


×       ×       ×


 とにかく五井先生のお身体がどんどん悪くなっていったことを先に書きましたが、
 たとえば4ヶ月ないしは半年ほどの間に五井先生のお身体が上記のように悪くなってゆかれたのです。


※ 上記以外にも、たとえば五井先生は近眼で眼鏡を使用されており、また特に左目の視力が悪かったようです。さらに飛蚊症の症状もあったとのことです。ただしこれらに関しては、必ずしも晩年の五井先生に直接関わる事柄ではないので、本文での特別の言及はあえて省略いたしました。

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【四】.あまりにも早く・・・

 昭和55年(1980年)8月17日(日曜日)、午前8時15分、
 五井先生は、長いお苦しみから解放されて永眠されました。
 享年63歳、死因は急性心不全と新聞には発表されました。お誕生日
(11月22日)より3ヶ月も前のことでした。


×       ×       ×

 直接聞いたわけではありませんが、五井先生は85歳まで生きるよと、常々おっしゃっておられたそうです。しかし、それよりも遙かに早く 五井先生は逝ってしまわれました。
 五井先生は、時が来たれば 病いも癒え、活躍して廻わりますよと 日頃からおっしゃっておられました。それを聞いて、私はその五井先生のお言葉をそのまま信じていました。五井先生のご病気が早くよくなられることを願い、五井先生のご活躍を心よりお待ちしていたのです。85歳まではまだ20年以上もあるので、私は 安心し切っていました。
 五井先生はご自分が近く他界するであろうことをご存知であったのか、或いは全く知らなかったのか、それは今はもうどうでもよいことです。私たちを心配させまいとのご愛念から、五井先生はきっと嘘をついておられたのでしょう。

 何れにせよ、5年以上もの長きにわたって五井先生は自らのいのちを削って私たちにみ教えを示して下さいました。そのことを忘れてはならないと思います。


 《自燈明・法燈明》と仏典にもあるように、今までのように肉体身の五井先生をお慕いするのではなく、五井先生が私たちに示された“法”に随うべき時がついに来たのです。そのことに変わりはありません。

 それでは、私たちが帰依すべき五井先生の“法”とは一体何だったのでしょうか? 
 五井先生の教えの《根本》とは何なのでしょう? 

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【注記】

※1 森島先生の過去ログによると、五井先生は80歳まで生きるとおっしゃっておられたとのことですが、私の記憶では85歳でした。最近も偶々古い方からお聞ききしたところでは、五井先生の寿命は80歳とも85歳とも言われていたとのことですので、要するに両説あったのかも知れません。ちなみに、五井先生他界直後の統一会第4章参照のお話しの中で昌美先生が「85歳」と明言されていることですし、今回は私の記憶に従って記述いたしました。なお、ここで言う五井先生の寿命(80歳)とは、多分「定命(じょうみょう)」のことであったのだろうと私は個人的に解釈しております。

※2 一般に五井先生の没年は64歳とされることが多いように思います。私も最近まで五井先生の没年を64歳と思い込んでおりましたが、これは五井先生の没年と生年を単純に引き算したことから来るミスです。上記で書いたように五井先生はお誕生日前にお亡くなりになっているので、正確には五井先生の享年は63歳(昔風に数え年で言えば65歳)ということになります。

※3 中には上記のような考証を無意味なこととお感じになる方もいらっしゃるかも分かりません。確かに森島先生がいみじくもお書きになっておられるように、《五井先生が、64歳で他界しようと80歳で他界しようと、そんなことは、どうでもいいことなのです。予言をして、人の運命を当てたりすることも、どうでもいいことなのです。「世界平和の祈り」以外のことは、すべて枝葉であり、どうでもいいことであるのです》(PEACE NIFON1 No.933「五井先生の真実と嘘のお話」より)。まったくもってその通りなのですが、今回は正確な記録を心がけた関係もあり、あえて煩雑を厭わず、私の分かる限りの範囲で正確を期しましたことをここにお断わりしておきます。


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第3章へ〜五井先生の絶筆〜第三章 五井先生の《願い》――五井先生の絶筆をめぐって

第4章〜法に随うべき時〜第四章 永訣――法に随うべき時

跋文へ〜私達の誓い〜 【跋】  私たちの誓い――世界平和の祈りは永遠なり!


2004.4.8
2006.4.7レイアウト改訂
2007.8.18タイトル改題
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