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世界人類が平和でありますように
ようこそ!全託道場へ
 世界平和の祈りに全託を! 果たして五井先生は私たちに何を訴え続けてお亡くなりになったのでしょう?
 五井先生がお亡くなりになる直前に書かれた文章につき紹介しました。五井先生は私たちに対して最期に何をお諭しになったでしょうか? 
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五井先生の遺言[目次] 第三章☆五井先生の《願い》――五井先生の絶筆をめぐって
 だから皆さんは、私に会える間はかまわず私に浄めてもらい、もし会えなくなれば世界人類の平和だけ祈っていればいいのです。
(五井先生のお言葉)
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 Explanation★ 私たちの《信条》




 五井先生の遺言

〜五井先生が最後に遺した言葉〜



序文へ〜宗教の目的とは〜 【序】  はじめに――本文を読まれる前に

第1章へ〜五井先生との出会い〜第一章 邂逅――世界平和の祈り(=五井先生)との出会い

第2章へ〜晩年の五井先生〜第二章 晩年の五井先生――衆生病む故にわれ病む


冒頭ライン2:世界人類が平和でありますように



第三章 五井先生の《願い》
    
      ――五井先生の絶筆をめぐって


【目次】

【一】.あのお苦しい息の中で・・・
【二】.最後の原稿――五井先生の絶筆
【三】.五井先生のご遺教(ゆいきょう)――世界平和の祈りに全託を
【四】.最後に――五井先生の《祈り》


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 アーナンダよ、修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか? わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳
(にぎりこぶし)は、存在しない。「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか、あるいは「修行僧のなかまはわたくしに頼っている」とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は「わたくしは修行僧のなかまを導くであろう」とか、あるいは「修行僧のなかまはわたくしに頼っている」とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。・・・

(中村元訳『ブッダ最後の旅』=岩波文庫=より)



 前置き的な話がいささか長くなってしまいました。(^_^;) 



【一】.あのお苦しい息の中で・・・

 立教の初期の頃から、五井先生は「我が名を呼べ」と言って、会員さんの業をその身に肩代わりされてお浄めされていらっしゃいました。これはいわゆる「お振替え」というもので、五井先生でなければそうそうお出来にならない業(わざ)でしたが、そのために五井先生が以前から喘息症状の痰などに悩まされていたことは講話集などを読めば誰にでも直ぐ分かることです。しかし、ご逝去前の約5年間の五井先生のお苦しみは、人類の業を浄める働きがそれに加わって、先にも書いたように筆舌に尽くしがたいものがあったようです。(ちなみに、その原因については上記の如く五井先生が自ら説明されていましたが、或いはそれは全て会員数の急増に伴う会員さんの業によるものだったのかも知れません。みんなを心配・躊躇させまいとの愛念から、五井先生はそれを「人類の業を浄めるため」と嘘をおつきになっていらっしゃったのではないか。私はそんな感想も抱いております。) 


 とにかく、一人で歩くこともままならず、講話も満足にお出来にならない。そんな状態でありながら、五井先生は毎月の『白光』誌にご法話と巻頭言を欠かさずお書きになっていらっしゃいました。晩年の法話を拝読すると、私も若干の文体の乱れなどを感じることはあるのですが、しかし、内容面ではいささかの論理的な破綻もない。いつも通り理路整然とお書きになっていらっしゃいます。もちろんこれも確認したわけではありませんから、もしかすると口述筆記であった可能性もないではありませんが、何れにせよ毎号欠かさずにきちんとした内容のものを準備されたことは、あのお身体(からだ)の状態を考えれば実に驚くべきことと言わざるを得ません。


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【二】.最後の原稿――五井先生の絶筆

 さて、五井先生の没後初めて出版された法話集は、昭和56年5月刊の、その名もズバリ『世界人類が平和でありますように』というご本でした。そして、この頃から初出の『白光』誌の年号などがご著書に記載されるようになりました。
 で、2年ほど前にその『世界人類が平和でありますように』を何の気なしに見ておりましたところ、この本の最終章「世界平和の祈りに全託を」の『白光』誌発表号が昭和55年9月号となっていることに私は偶々気がついたのです。昭和55年8月17日の聖ヶ丘統一会の当日が五井先生のご命日で、それに9月号といえば8月下旬には発刊されていたはずですから、これが五井先生の最後の原稿
(ご法話)であることに間違いはないでしょう。
 ちなみに、五井先生の絶筆は「嘘について」と題するご法話で、残念ながらご著書には採録されていないと森島先生は過去にお書きになっておられますが、これは森島先生の記憶違いで
(森島先生には既に確認済みです)、正確には、“「嘘について」の内容を含む五井先生のご法話”でした。興味のある方は是非お読みになって下さい。

 また、これは最近のことですが、本論を書くに当たって、私は講話集を中心に様々な五井先生のご著書を調べていました。そんな中、これまた偶々見ていた随筆集 『行雲流水』
(昭和57年刊)の中の「天然現象と祈り」と題する文章の末尾に「昭和55年9月号発表」と記されているのを私は発見したのです。『白光』誌発表号の日付から、当然こちらも五井先生の最後の原稿(巻頭言)であることが分かります。


※ もっとも絶筆が二つもあっては本来は困るのですが、どちらが最後に書かれた原稿なのか知りようがないので、五井先生の原稿には「ご法話」の絶筆と「巻頭言」の絶筆の二つがあると取りあえずは考えておけばよいと思います。(その辺の事情について詳しいことをご存知の方は是非お知らせ下さい。) 


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【三】.五井先生のご遺教(ゆいきょう)――世界平和の祈りに全託を

 五井先生の絶筆の内容については件の文章そのものを実際に読んでいただければよいので、ここでは余り詳しくは書きません。(本HPの目次ページ冒頭には、「五井先生最後のお言葉」として2〜3ヶ月前よりその一部を引用してありますので、その一文を既にご覧になった方もいらっしゃるでしょう。) 


 とにかく五井先生は、その二つの絶筆に当たる文章の末尾を、

《世界平和の祈りに全託してゆくことが、今日の世界にとって、一番大事なのです。》
《一人でも多くの人が、世界平和の祈りを祈って下さることを念じているのである。》

 と、それぞれ結ばれています。
 要するに、これこそが五井先生のご遺言・ご遺教であり、ご遺志なのであります。



×       ×       ×


 もっともこれ以上私がくだくだと説明しても仕様がないので、上に触れた五井先生の絶筆の中から、その締めくくりの文章を以下に引用することに致します。(なお、引用文中のゴチックは引用者によります。) 
 皆さんもご自分で読まれて、ご自分の頭でお考えになって下さい。



 まずは、「ご法話」の絶筆から――


 人の心で地球の情勢をみていますと、とても真実の平和の世界が生れ出るように思えません。しかし、神様は、地球世界もやがては完全平和になる、といっていらっしゃるし、宇宙人たちも、そういう状態を現わして、今は地球人類の救いに起っておられるのですから、必ず地球も真実の平和の世界を現出することになるわけです。そのためには、そういう平和な心、愛と誠の心をおしかくしてしまうような業想念波動を消してしまうよりしかたがないわけで、積極的に愛と調和の働きをすることは、勿論よいことなのですから、その働きを容易にできるように、業想念波動を消えてゆく姿で、世界平和の祈りの実践によって、達成してゆくことが必要なのです。
 人類の想いは、むりむり愛を行じようとしても、調和になろうとしても、なかなかなれるものではないのですから、あせらず、騒がず消えてゆく姿で、世界平和の祈りの真理を行じ続けてゆけば、いつの間にか、その人々は愛と調和に満ちた人々になってゆくわけです。
 私どもの同志には、そういう人々が多いのです。あまり一度に世界情勢を変えようとすると、どうしてもあせり心が出ますから、人の想念行為を根本的にあらためてゆく、世界平和の祈りに全託してゆくことが今日の世界にとって一番大事なのです

(「世界平和の祈りに全託を」 昭和55年9月号『白光』誌発表、
『世界人類が平和でありますように』所収、p.165)



 次に「巻頭言」の絶筆より――


 ここでよくよく考えなくてはならないことは、人間の根本的な宇宙観のことである。人間という者は、単なる自然の力によってこの世に生れ出ているものであり、神とは全然別個の世界にいるものであって、人間が神になることは不可能なのである、というのか、それとも常に私が申しているように、人間は神の子であって、常に神との一体観をはかっていれば、自由自在にすべてに調和して生きていけるものであるのか、という二つの宇宙観である。
 前者の考えでは、次第に人類は天変地変と戦争とによって亡びてしまうであろうことは、少し自然のことを考え、世界状勢をみつめていれば、はっきりわかってくることである。しかし、私たち光明思想家が、説きつづけているように、人間神の子観の生活を自分たちのものにしていけば、神は絶対者であり、大宇宙を調和させている存在者であるのだから、自分の生命の分霊である人類を亡ぼすことはないという真理である。
 だから人類の一人一人は、その個人のためにも、人類社会すべてのためにも人間神の子の実体を示して、生活してゆかねばならない。
 この世の中は、人類の想念の波でできているのであるから、人類が今日のように神をはなれた物質宇宙観でいる限りは、だめなのである。そこで、何よりもまず、神と人間とが一体であるという宇宙観に立って、自分たちの生活を、神の愛のようにしてゆかねばならない。
 そのための世界平和の祈りであって、世界平和の祈りによって、今日までのように、神のみ心をはなれた不調和の想念波動を消滅して下さる守護の神霊や宇宙人の光明心と一帯になって、生きてゆかねばならないのである。
 朝夕情緒そのもののようにないているカナカナの声を聞きながら、私は深い神の愛を感じつつ、一人でも多くの人が世界平和の祈りを祈って下さることを念じているのである

(「天然現象と祈り」 昭和55年9月号『白光』誌「巻頭言」、
『行雲流水』所収、p.96〜8)


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【四】.最後に――五井先生の《祈り》

 繰り返しになりますが、以上のことから、五井先生は最後の最後、《世界平和の祈りに全託してゆくことが、今日の世界にとって、一番大事な》ことなのであって、《一人でも多くの人が、世界平和の祈りを祈って下さることを》心より願っていらっしゃることを――そして、そのことだけを――あのお苦しい息の中で私たちに訴え続けられてお亡くなりになったのだ、ということが分かります。



×       ×       ×


 もっとも五井先生のご著書を読めば誰にでも分かる通り、五井先生が口を酸っぱくして言ってこられたことは「祈り以外に人類を救う道はない」ということです。ここは大事なことですが、世界平和の祈りだけではダメなのである、つまり世界平和の祈りは不完全な行法なのだとは、五井先生は一言もおっしゃってはいらっしゃらないのです。

 確かに五井先生は、宇宙子科学が完成しなければ地球世界は救われないという意味のことを屡々言っておられます。また、上に引用した巻頭言でもそうですが、「神
(=守護の神霊)との一体観」の必要性を五井先生が何度となく強調されていることも事実です。けれども、その宇宙子科学の完成も神との一体観も、これはひとえに世界平和の祈りあってこそのことだ、ということは決して忘れてはなりません。
 詳しいことはこれ以上書きませんが、とにかく世界平和の祈りは今より未来永劫にわたって祈られ続けてゆく完璧な祈りです。世界平和の祈りが廃れては全てがお終いなのです。
 皆さんも、そこのところをよくよくお考えになって下さい。


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貴方もあなたも、今から速やかに世界平和の祈りを、祈りはじめて下さい。それ以外に人類を救う道はないのです。しっかり考えて下さい

(「祈りによる平和運動の在り方」 昭和55年3月号『白光』誌発表、
『世界人類が平和でありますように』所収、p.32)


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第4章〜法に随うべき時〜第四章 永訣――法に随うべき時

跋文へ〜私達の誓い〜 【跋】  私たちの誓い――世界平和の祈りは永遠なり!


2004.4.8
2006.4.7レイアウト改訂
2007.8.18タイトル改題
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