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世界人類が平和でありますように
ようこそ!全託道場へ
 世界平和の祈りに全託を! 果たして五井先生は私たちに何を訴え続けてお亡くなりになったのでしょう? 
 ご臨終間際の五井先生のご様子などについてかなり詳しく紹介しました。五井先生のみ教えは“何千年たっても変わらぬ永遠の理法”です。
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全託道場山門 私たちの《信条》 五井先生の遺言[目次] 第四章☆永訣――法に随うべき時
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 だから皆さんは、私に会える間はかまわず私に浄めてもらい、もし会えなくなれば世界人類の平和だけ祈っていればいいのです。
(五井先生のお言葉)
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全託道場 Contents
 Explanation★ 私たちの《信条》

世界人類が平和でありますように




 五井先生の遺言
〜五井先生が最後に遺した言葉〜



序文へ〜宗教の目的とは〜 【序】  はじめに――本文を読まれる前に

第一章へ〜五井先生との出会い〜第一章 邂逅――世界平和の祈り(=五井先生)との出会い

第二章へ〜晩年の五井先生〜第二章 晩年の五井先生――衆生病む故にわれ病む

第三章〜五井先生の絶筆〜第三章 五井先生の《願い》――五井先生の絶筆をめぐって


冒頭ライン2:世界人類が平和でありますように



第四章 永訣――法に随うべき時


【目次】

【一】.はじめに――永遠に変わらぬ法
【二】.青天の霹靂(へきれき)
【三】.五井先生のご臨終――聖ヶ丘統一会の録音テープより
【四】.最後に――私たちの報恩


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アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこう思うかもしれない、「教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ」と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである。
(中村元訳『ブッダ最後の旅』=岩波文庫=より)



【一】.はじめに――永遠に変わらぬ法

 五井先生がお亡くなりになって間もなくのことだそうですが、
 白光真宏会理事長・瀬木庸介氏
(故人)に対して、五井先生の奥さまが次のように言って来られた、とのことです。――


 五井先生は本当に永遠でいらっしゃいますよね。また、先生の説かれたみ教えというものは何千年たっても変わらない不滅のものですよね。それならば、先生がここに肉体身で私どもの前においで下さろうと下さるまいと、変わりはないではありませんか。誰しもが先生を仰いで、そして先生を讃えて、先生のみ教えを実践して、そして広めてゆく、ということには何も変わりはないではありませんか。何か差し支えがおありになりますか? ・・・それでは何も変えることはないではありませんか。
(五井先生他界直後の統一会での瀬木庸介氏のお話より)



 五井先生がいのちを削ってまで私たちに示して下さった“何千年も変わらぬみ教え”とは一体何だったのでしょう? 

 その問題に直接お答えする代わりに、本章では、五井先生のご臨終間際の様子などについてなるべく詳しくお話しすることで本編を取りあえず終わりにしたいと思います。


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【二】.青天の霹靂(へきれき)

 五井先生のみ教えに触れることで宗教心に目覚めた私は、色々悩んだ末に都内の仏教の大学に何とか進学することが出来ました。本を買うお金が欲しかった私は、大学生になって間もなく掃除のアルバイトを始めました。最初は土曜日のみ月1〜2回の仕事でしたが、そのうち日曜日にもアルバイトをするようになりました。
 私が中々思ったように聖ヶ丘道場の統一会に参加出来なかったことを先に書きましたが、実は日曜日にもアルバイトをするようになって却って統一会に参加しやすくなったのです。というのも、そろそろお山に伺いたいという思いが強くなると、バイト先には事前に休みを申し入れ、家族にはいつものようにアルバイトにゆくような顔をしてお山に行ってしまうのです
(^^) そのため、そのことで余り気に悩まなくてすむようになり、お陰で年に数回はお山にゆけるようになった次第です。



×       ×       ×


 さて、五井先生が逝去されたことを私が知ったのは、五井先生がお亡くなりになってちょうど一週間後のことでした。私は大学4年生になっていました。
 ちなみに、私はその数週間前にお山に伺ったばかりだったので
(それが正確にいつのことだったか今でははっきり覚えていません。もしかすると五井先生ご生前最後の統一会だったかも知れません)、その時はお山への思いが一時的に薄らいでいたのでしょう、五井先生が死去されるなんてことは、だから私も全く予想だにしていなかったのです。


 8月24日の日曜日、私はその日も都内のビルで掃除のアルバイトをしていました。そのとき同じ大学の友人が近くに寄ってきて、「五井さん、亡くなったね」と言うのです。いきなりのことだったので友人の言葉がにわかには信じられず、「嘘だろ?」と言ったきり、私は何だかへらへら^^;笑っていました。
 家に帰って、私が慌てて新聞の死亡広告欄を調べたのは言うまでもありません。確か朝日新聞の8月19日
(火曜日)付夕刊に五井先生死去の死亡広告が載っていました(読売新聞では写真入りの記事だったそうです)。やはり、友人は嘘をついていたわけではなかったのです。

 9月1日(第1月曜日)の統一会に、私はもちろん勇んで参加しました。(千葉県市川市に本部道場があった頃には統一会が月4回開催されていました。そして、月3回の日曜日の統一会の他に、日曜日の統一会に参加出来ない人のために第1月曜日にも統一会が開催されていたのです。) 当日は高橋英雄先生や昌美先生による五井先生の最後のご様子などについてのお話しがありました。私のまわりですすり泣きをする方が多くいらしたのが記憶に残っています。
 それはともかく、先にも書いたように前回お山に行って間もない時期だったので、五井先生のご逝去がなければ私もこの時の統一会には多分参加しなかったでしょう。その意味で、五井先生が他界されたことをあのとき友人が教えてくれていなければ統一会への参加そのものが不可能だったわけで、いま考えるとこれも守護霊さまのご配慮と言わざるを得ません。


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【三】.五井先生のご臨終――聖ヶ丘統一会の録音テープより

 前置きはこれくらいにしましょう。(^^;) 


 当時お金が余りなかったこともあって、私は五井先生の講話テープなどは殆ど購入しませんでした。それでもこの時ばかりは、五井先生ご帰神当日と白光真宏会会葬による告別式(8月23日、土曜日)、そして上記9月1日の聖ヶ丘統一会の録音テープ3巻を私は思い切って購入しました。それまでもその後も、私が聖ヶ丘統一会の録音テープを購入したのはこの時だけでした。

 それはともかく、今回本論を書くに当たって私はそれらの録音テープを聴き直してみました。過去に1〜2回くらいしか聴いていないテープでしたが、私の記憶は大体のところ正確でした。



×       ×       ×


 さて本節では、五井先生他界直後の統一会における白光誌編集長(当時)・高橋英雄氏のお話を下に、五井先生のご臨終間際の様子を なるべく詳しく書いてゆくことに致します。

 いささか長くなってしまいましたが、どうかご容赦下さい。m(_ _)m 



 高橋先生(以下、敬省略)のお話によると、――


 五井先生の肉体的な危機は過去にも2〜3回あったが、今回も7月中旬頃から五井先生の身体(からだ)にむくみが出てきた。実際7月の第4日曜日や8月の第1月曜日の統一会での柏手は、はたの者が聞いても分かるくらいにひびきが弱々しいものだった。そこで今回は、五井先生の奥さまと昌美先生とが相談されて、とにかくお医者さまに診ていただこうということになり、そのことを昌美先生が五井先生に嘆願された。それまで五井先生は、会員さんが下さるどんなお薬も栄養剤も決してお受けになることはなかったし、また医者[注:歯医者を除く]にかかることもなかった。けれども今回は、五井先生も「みんなの言う通りにするよ」とおっしゃって医者にかかることを快諾された。
 医師は五井先生を診断して
(当然、医者は会員の中から然るべき方が選ばれた)、「想像していたよりはお元気なので安心しましたが、血液の栄養失調が認められます。通常こういう場合は点滴というものをするのですが、如何なさいますか?」と五井先生に聞かれた。「テキと付くものは何でも嫌いだ(点滴には敵が付くから…)」と五井先生はこんな時にも冗談を言ってみんなを笑わせ、点滴治療をお断わりになられた。そこで医師は、「それではその痰を何とかしましょう」と言って子供用の飲み薬を処方してお帰りになった。
 五井先生は医師の指示に忠実に従って数日間はきちんと服薬されていたが、「お陰で胸のつかえは取れたけれど、どうも胃がムカムカする」とおっしゃって、ついにある日、大量の吐瀉をされた。でもそのお陰で却ってお元気になられ、とても心身爽快になられた。その翌日、高橋氏が五井先生のところに伺うと、五井先生が「もう薬は飲まない、医者にもかからないよ。お医者さんにもそう言っておいてね」と言われたので、高橋氏が後日その旨報告にゆくと、お医者さまもそれを聞いて諒とされた。
 五井先生はこの日から大変お元気になられた。特に8月10日の統一会では柏手の音がいつも通りの力強いものに戻られ、聖壇でも何度も「お早うございます」と挨拶された。さらに、「喉の調子もよくなったので、11月のお誕生会ではお話しもしますよ」とまでおっしゃって、とにかく大変お元気な様子であられた。しかし、そのお元気も残念ながら一週間程度しか続かず、五井先生のお身体の具合がまた悪くなられ、五井先生の身体にむくみが出てきた。
 会員さんの相談の手紙に対する指示をいただくために、『白光』誌9月号の校正刷りなどを持って8月14日
(木)に高橋氏が五井先生をお訪ねしたところ、むくみのために五井先生のお顔がとても腫れていて大変お辛そうな様子であった。で、その時はどういう意味か分からなかったが、五井先生は高橋氏に対して、「もういいよね。もういいよね」とおっしゃった。
 その翌々日、相談の手紙がたまったことを口実に、「今日は仕事を放擲して五井先生のお身体をおさすりしよう」と心に決めて高橋氏が五井先生のところに伺った。通常は1分もすると「もういいよ」とおっしゃる五井先生が、この日に限り「ここをやってくれ、こっちもやってくれ」とおっしゃるので、高橋氏が心ゆくまで五井先生の足などをおさすりしたところ、五井先生の身体が少しは柔らかくなってきた。で、夕方になったので、「夜も来てよいでしょうか?」と尋ねると、「いいよ。私はそんなに弱くないよ」と五井先生がおっしゃるので、高橋氏も安心してその夜は帰宅した。
 その翌日の早朝、五井先生は危篤状態となられた。
 五井先生がお亡くなりになる前の数日間は、それこそ一睡もお出来にならない状態が続いていた。それでも、ご逝去当日の朝方には五井先生が珍しく安らかな寝息を立ててお休みになっていらっしゃるので側近の者たちもひとまず安心していた。ただ、五井先生は毎朝8時半頃には決まってc
(いく)修庵から奥さまに電話をされているのだが、その時刻が近づいても一向にお目覚めになられるご様子がない。で、近くの者が心配して五井先生をお呼びしたが、その時は既に手遅れであった。寝息こそ立ててはおられたし、また一旦は「はいよ」というお返事もなさったそうだが、しかし、五井先生がお目覚めになられることはついになかった。当日の朝、高橋氏が緊急に電話で呼び出された時は既に上記の状態で、その時には昌美先生始め多くの方々がc(いく)修庵に集まっておられた。
 五井先生は誰にもサヨナラを言わず、あっという間に逝ってしまわれた。・・・


 ――と、大体こんなところです。



 ちなみに五井先生が亡くなられた当日は聖ヶ丘統一会の開催される日で、「五井先生と昌美先生は深い統一に入っていてご登壇は出来ません。c(いく)修庵より皆さまにお光りを送っておられます」とのアナウンスの下、西園寺夫妻と五井先生不在のまま通常通り統一会が開催されました。
 私が初めて参加した統一会で五井先生が不在であったこと、また、その後は五井先生が統一会を休まれることはなかったことを先に書きました。そしてまた、五井先生の死去された日が聖ヶ丘統一会の当日で、五井先生不在の下、統一会が通常通り執り行なわれたことに私は何か不思議な縁
(えにし)といったようなものを感じます。


※ 五井先生は医師の往診をお受けになったものと私は今まで思い込んでいたのですが、録音テープを聴く限りでは、五井先生は医師の往診を受けられたのか、それとも五井先生が病院まで出向かれて医師の診察をお受けになったのか、いまひとつ定かではありません。取りあえず本章では、五井先生が医師の往診を受けられたとの仮定の下に話を進めさせていただきました。


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【四】.最後に――私たちの報恩

 さて、五井先生他界直後の統一会における瀬木理事長のお話しによると、五井先生のお通夜の席で、五井先生の奥さまが側近の方々にぽつりと「みんなそれぞれに愛していただいたものねぇ」と述懐された、とのことです。
 さらに私は、五井先生が高橋先生に「もういいよね。もういいよね」としきりにおっしゃったということがとても印象深く感じられてなりません。


 何にせよ、五井先生は最後に私たち会員の願いを受けてお医者さまにかかって下さいました。また 死去される前日、高橋先生に心ゆくまでご自分の体をさすらせて差し上げて、このようにして五井先生は私たちが思いを残すことのないよう 配慮して下さいました。
 側近の方ばかりではありません。信者の方のすべてに対して五井先生は心から慈愛を示して下さったのであります。

 その五井先生のご慈愛に対して、私たちはどれだけお応えして来たでしょうか?
  



 《よく法を知り、よく法にしたがって行ずる者こそ、如来を最上にあがめ、尊び、供養する者である》と仏典にもあるように、五井先生の“遺志”を自らの“意志”として私たちが五井先生のみ教えに従って生きてゆくことが――そして、それこそが――五井先生に対する私たちの最高の《報恩》になるものと信じます。



×       ×       ×


 では、最後に皆さんにもう一度聞きます。

 五井先生の“遺志”とは一体何だったのでしょうか? 
 私たちが随うべき五井先生の法、すなわち五井先生がいのちを削ってまで私たちに示して下さった“永遠に変わらぬ法”とは一体何だったのでしょう? 


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アーナンダよ。いかなる修行僧、尼僧、在俗信者、在俗信女でも、理法にしたがって実践し、正しく実践して、法にしたがって行なっている者こそ、修行完成者を敬い、重んじ、尊び、尊敬し、最上の供養によって供養しているのである。アーナンダよ。それ故に、ここで〈われらは理法にしたがって実践し、正しく実践し、法にしたがって行なう者であることにしよう〉と、お前たちはこのように学ばねばならぬ。アーナンダよ。

(中村元訳『ブッダ最後の旅』岩波文庫・1980年、p.127)


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跋文へ〜私達の誓い〜 【跋】  私たちの誓い――世界平和の祈りは永遠なり!


2004.4.8
2006.4.7レイアウト改訂
2007.8.18タイトル改題
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