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世界人類が平和でありますように
ようこそ!全託道場へ
 五井昌久先生の著書を下に、五井先生の真実のみ教えについて講義された森島恒吉先生の講義録(レジメ)です。
 本ページは、五井昌久先生の『生きている念仏』をテキストに為された東京集会での森島恒吉先生講義録の講義録です。

全託道場山門 私たちの《信条》 森島恒吉先生講義録[目次] 生きている念仏
世界平和の祈りに全託してゆくことが、今日の世界にとって、一番大事なのです。
(五井先生最後のお言葉)
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全託道場 Contents
 Explanation★ 私たちの《信条》

世界人類が平和でありますように

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森島恒吉先生講義録01:

五井昌久先生著
『生きている念仏』




(浄土門の念仏を、もう一歩易行道にし積極化した)
私はそれをもう一歩易行道にし、積極化して、消えてゆく姿で世男平和の祈り、という教にしてきているのである。(テキスト3頁)

(肉体人間の無力さ)
一般大衆は、右にも左にも一理あるようだし、どれもこれも不安で、一体どうしてよいのか、どういう政策に協力してよいのか、全く頭が混乱して、ノイローゼになりそうであります。(テキスト10頁)

その為には一度、肉体人間の無力さということを改めて皆さんに知って頂かなければと思って、今迄の事実を書いたわけなのであります。(テキスト12頁)

(肉体人間の力を全否定し去った者の神仏信仰は、全託の境地になり得る)
肉体人間としての自己の力に依存している者にとっては、神仏の力は余分のものであって、神仏の方に想いをむける余地はないのであります。ですから、自己の力の無能なることを知る程度が強ければ強い程、神仏に想いをむける程度が強くなってゆくわけで、肉体人間の力を全否定し去った者の神仏信仰は、全託の境地になり得るのであります。(テキスト13頁) 

神仏を知る為には、一心に神仏の中に入りこむ練習をしなければなりません。(テキスト14頁)

(神仏を知るのには、聖道門と浄土門の二つがある)
業想念で出来ている肉体頭脳でいくら考えめぐらしても駄目なのであり、科学的に外界から調査しても判りはしないのであります。神仏を知るのには、只神仏の中に自己の想念を投入することだけなのです。その方法には聖道門と浄土門の二つがあるので、聖道門とは自力門といわれているように、哲学的学問や様々な修業、統一行によって自己の内部の神仏を開顕せしめる方法であり、浄土門とは、阿弥陀仏(神)の称名のみで、他に何等の自力の行を附加しないで神仏と一つになる方法なのであります。 
(テキスト15頁)

(他力門である浄土門から、妙好人といわれる人々が多くでている)
浄土門の信徒の中に、妙好人といわれる人々があります。(テキスト15頁)

妙好とは、もと蓮花の美わしさを歎称しての言葉であるが、それを人間に移して、その信仰の美わしさに喩(たと)えたのである、と鈴木大拙博士がいわれていますが... (テキスト16頁) 

このような妙好人が、自力門といわれる天台や禅宗からは出ずに、他力門である、浄土真宗から多く出ている...(テキスト16頁) 

(他力を通じて絶対力が現れる)
〜(妙好人 才市の仮名文字より)〜
  ほどけが、ほどけを、をがむこと (意味:自分自身内部の仏が外部の仏をおがんでいる)
  なむがあみだに、をがまれて
  あみだがなむに、をがまれて
  これが、帰命(きみょう)の、なむあみだぶつ。 (意味:真実、南無阿弥陀仏と一つになる)
  やみが、つき(月)になるこた、できぬ
  つきに、てらされ、つきになる
  さいちがほどけになるこた、できぬ
  名号ふしぎに、 てらしとられて、
  なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。(テキスト17頁)

ここまで参りますと、自力も他力も全くなくなって、絶対力が、そのまま、南無阿弥陀仏となって、才市の生活に生き生きとしてくるのであります。(テキスト20頁)

〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
 他力 ⇒ (想念の転換) ⇒  絶対力 = 神我一体力 = 「私は神である」

(世界平和の祈りをなすところに救世の大光明が輝やく)
そうした私の心に、直覚的に、天から声があって、念仏の代りに、人々に、世界平和の祈りを実行させなさい。世界平和の祈りをなすところに救世の大光明が輝やく、救世の大光明の輝やく人々の周囲は自ずから浄められる、という神示が与えられたのです。(テキスト23頁)

(世界平和の祈りは、個人人類同時成道のただ一つの方法)
自己をも世界をも同時に救う方法、それは世界平和の祈りによる他はないと思うのです。(テキスト25頁)

(他力の消極的と見える生き方を徹底して、神我一体の生き方を現わしている)
罪悪深重の凡夫が、阿弥陀仏にすがる一念で生活している、という一見消極的に見える生き方が、 源左のようになると、その生き方そのものが、法華経の生き方と等しい、光明思想、神我一体の生き方として現われてくるのです。

(我は神の子なりと叫んでいても、神の子の姿が行為に現われてくることはない)
我は神の子なり、仏なり、と直覚的に把握して、あらゆる業想念に把われずに生きてゆく、いわゆる法華経的光明思想は素晴しいのですが、これは一歩間違うと、高慢独善的で排他的となり、鼻もちならぬ嫌な人間となってしまいます。自己の業想念をそのままにして置いて、我は神の子なり仏子なり、と叫んでいても、その神の子観、仏子観は、業想念波動の中での観念に過ぎないので、真実の仏の姿、神の子の姿が、その人の行為に現われてくることはないのです。

(我は神の子なりと言っていると、自己反省が足りなくなる)
自己が神の子なり、仏子なりという考え方は、心が明るくなり、その生き方に迫力も出てはきますが、うっかりすると、自己の振りまいている業想念波の悪臭に気づかずにいて、人々に嫌われてしまうことになりかねません。それは自己反省が足りなくなるからなのです。(テキスト36頁)

(念力主義や無反省な生き方は困りもの)
光明思想のはき違えのような、自己の想う通りになるという念力主義や、業想念と真我とを混合させて、神の子だと威張っているような無反省な生き方も困りものです。(テキスト38頁)

(世界平和の祈りは救世の大光明である)
世界平和の祈りは救世の大光明です。その祈り言をするたびに、あなたもあなたの周囲も次第に光明化されてゆき、やがて人類すべてに神の子の姿が現われるのです。(テキスト43頁)

(法然上人)
法然房源空(ほうねんぼうげんくう)は、少年の頃より非凡な才を示し、十三才の時、時の大学林たる比叡山に上ぼって、西塔持宝房源光の下で、出家し、十五才で皇円阿闍梨(あじゃり)の下で勉学し、若くして天台三大部、天台一宗の奥義を極め、後、法相宗、三論宗、華宗と各宗の学問を勉び、幾多の碩学(せきがく)高僧も及ばぬ碩学者であったのですが、大蔵経五千余巻を心読し、遂に善導和尚の観経疏(かんぎょうそ)の経文に心を打たれ、浄土門の開祖となるわけなのです。(テキスト100頁)

(親鸞上人)
まして、親鸞にとっては、宗教界はじまって以来の新しい生活様式を、自己がはじめて踏み出したものであって、諸方の迫害や蔑視(べっし)の眼も烈しかったのであります。その上妻子運が悪く、最初の妻には死に別れ、三度び妻を迎えているのです。しかも娘は遊女になり、息子は自分の教を離れた道を進んでいる、といった工合に、親鸞の家庭づくりは不成功に終っているのです。(テキスト102頁)

(常不軽菩薩)
常不軽菩薩品(じょうふぎょうぼさつほん)では、誰も彼もが、皆仏様なのだ、といっているのです。(テキスト134頁)

(五井先生の教えは、人間神の子観にも、業因縁にも把われない教え)
人間神の子とか、仏とかいって、神の子、仏に把われ、空といって空に把われ、業因縁をいって、業因縁に把われるのが、肉体人間の想念の習慣であります。私はこの把われを放つことに重点をむけ、すべての想念を一度び消えてゆく姿として見送らせると同時に、その想念を神仏(守護の神霊)の方に転じさせて、把われなき生活をこの世に顕現せしめようとしているのであります。これは親鸞と全く等しい方法なのであります。(テキスト147頁)

(自己の想念を世界平和の祈り言に入れきる生活をつづけていれば、神霊の世界に住みついていることになる)
三界の業想念波動を超えた、神の世界に自己の想念を、世界平和の祈り言にすがって入れきる生活をつづけていることは、いつの間にか、自分が守護の神霊との一体化を為し得てしまうことであり、自分が神霊の世界に住みついていることになるのであります。(テキスト155頁)

(世界平和の祈りは観念論ではない)
例えば、二人の人が同じような病気で、病床に臥していたとしても、一人が世界平和の祈りを祈り、守護の神霊に感謝しており、一人は、病気の不幸をぐちりながら臥せっていたとしたら、前者は身は病みながら、神霊の世界に住み、地球人類救済の一役を買っていることになり、後者は、肉身に在りながら、死んでいる生活をしている、ということになるのです。
 これは単なる観念論ではないのでして... (テキスト155頁)

(時間を定めた平和の祈りは、非常に有意義)
そこで、時間を定めた平和の祈りが必要になります。一瞬一瞬には悪い想念を起こしたり、嫌な想いのテレビやラジオを見聴きされたりしても、一定時の祈りの時に、そうした想念をすべて消えてゆく姿として、祈りの中に入れてしまうことは、非常にその人々にとって有意義のことであるのです。(テキスト161頁)

(祈りによる想念の転換で、いつの間にか安心立命の境地になる)
 想念の習慣が、いつの間にか、神と一体の想念の流れとなってしまい、自然に人格が高くなってくるのです。
 念仏一念の人たちが、はじめはお寺の和尚さんの話をきいて、ほうほう、と感心しながら、死んだら浄土に行けるようにぐらいの軽い気持ちで念仏をやっているうちに、いつの間にか、うちから湧き上がってくる念仏になってきて、不幸も死も恐れぬ、安心立命の境地にいつのまにかなって... (テキスト163頁)

祈りの力による想念の転換というものはたいしたものだと思います。(テキスト163頁)

(世界平和の祈りは、世界人類の業想念を浄め去る唯一の祈りである)
真実の生き方をする為に、皆さんどうぞ世界平和の祈りを根本にした日常生活をして下さい。世界平和の祈りは、あなたの心を平安にし、世界人類の業想念を浄め去る唯一の祈りであるのです。
(テキスト164頁)

(神様はすべてのすべてである)
神は大生命であり、すべてのすべてであり、あなたになくてならぬものは知り給うているのであります。すべてのすべてであり、すべてを知り給う神にあなたは何故不信の心を抱くのでしょう。(テキスト169頁)

(理想の押し付けによる弊害)

  • 或る人々は、俺には出来ない、といってその教を離れてしまう。
  • 実際の行為にはその教を現わすことが出来ない。
  • 自己の良心の痛みを感じて、自分の心を傷つけ痛めつける、ということになるのであります。
  • それは虚偽と虚言の化(ばか)し合いとなってしまって...
     (テキスト170頁)

(業想念を、守護霊様、守護神様に消していただく)
自分が意気ばって、業想念を消し去ろうと思わなくも、守護霊さん、守護神さんお願いします、と業想念を守護の神霊の光明の中へ想いとして送りこんでしまえばよい。(テキスト179頁)

いっそう早く消え去りますように、という気持で、世界平和の祈り言に託して、救世の大光明によって、すべての業想念を消し去って貰いましょう。(テキスト 193頁)

(ああこれは消えてゆく姿だな、と世界平和の祈りをする)
愛と調和にそむいた想念が出た場合には、ああこれは消えてゆく姿だな、神様どうぞ、一日も早くこういう誤った想いは消し去って下さい、というような気持で、世界平和の祈りをするとよいのです。そうしますと、無理なく気張らず、自分の想念が、愛と調和に充ちたものになってゆくのであります。(テキスト197頁)

(森島恒吉先生のコメント&解説―用語解説)

テキスト頁 用語 意味
テキスト35頁 恒沙: はかり知れない宇宙
テキスト95頁 定聚(じょうじゅ): 菩薩のこと
かならず滅度にいたらすむ: 業が滅して悟りに入る
テキスト96頁 和讃:
虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて: 行いがまったく正しくない
テキスト97頁 こころは蛇蝎(だかつ)のごとくなり: へび・さそりのように醜い
無慚(ざん) 無愧(ぎ゛)のこの身にて: 罪を犯しても恥じない
廻向(えこう): 功徳を他人にまわすこと
テキスト135頁 浄土部三経 : 大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経


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森島恒吉講義録
【目次】

『生きている念仏』
『光明をつかむ』
『愛すること』
『愛・平和・祈り』
『平和を呼ぶ声』
『霊性の開発』
『本もの贋もの』
『空即是色』
『白光への道』
『祈りのある生活』 
『聖なる世界へ』
『運命を恐れるな』
『これからの文明文化』 
『信仰と直観』
『純朴の心』
『直言・提言・進言』
『人類の未来』
『日本の心』
『宗教問答(正)』
『続 宗教問答』
『神への郷愁』
『心貧しき者は幸いなり』
『魂が大きく開く時』
『天命を信じて人事を尽くせ』
『私に荷物を預けなさい』
『質問ありませんか?』
『高級霊は上機嫌』
『責めてはいけません』
『自由解脱への道』
五井昌久講話集・第一巻
『生命光り輝け』
五井昌久講話集・第四巻
『明るい心』
五井昌久講話集・第五巻
『不動の心』
『行雲流水』
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2003.6.18
2008.9.15移動&改訂
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  貴方様が幸せでありますように
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