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世界人類が平和でありますように
ようこそ!全託道場へ
 五井昌久先生の著書を下に、五井先生の真実のみ教えについて講義された森島恒吉先生の講義録(レジメ)です。
 本ページは、五井昌久先生の『神への郷愁』をテキストに為された東京集会での森島恒吉先生の講義録です。
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全託道場山門 私たちの《信条》 森島恒吉先生講義録[目次] 神への郷愁
世界平和の祈りに全託してゆくことが、今日の世界にとって、一番大事なのです。
(五井先生最後のお言葉)
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 Explanation★ 私たちの《信条》

世界人類が平和でありますように

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森島恒吉先生講義録21:

五井昌久先生著
『神への郷愁』






<<単純化>>より(P25〜P27)

 先日三越で横山大観展をみて、今更のように感じたことがある。それは、芸術というものは、複雑な美的内容を単純化して現わすものなのだ、ということであった。
 洋画の下手な絵程、くどくどとした色を使い、形もわざと複雑にしたりしてある、これは絵ばかりではなく、詩や和歌や文章の面においてもそうである。
 墨一色で単純化された名画が、観る人の心を洗い清める力をもっているのに、たくさん色をつかい、様々な形を画いたそれらの絵画が人の心を浄化させないのは、画くその人が、その対象の内容をしっかり自己のものにしていないので、その内容が統一されず、ばらばらに表現されるため、やたらに筆を加え、色を加えて複雑な表現になってしまうからなのである。文学の面においても同じことである。
 ところがこれとは全く反対に、やたらに単純化しようとして、点と円と三角で形づけようとするような絵が近代では多くなり、はては自己の頭の中でデッチあげた妄想を、奇怪な色や線や形で表現して、それをもって進歩した近代画であると称し、批評家のほうもなんとなくそうしたものにひきずられて、そうした絵画を讃美したりしている向きもかなりふえているのである。
 これは統一されていない複雑さと共に、的をはずれた単純化であり、自由化である。(中略)
 宗教方面においても、神のみ心をわざと複雑化し戒律化して、神と人間とをかえって引き離してしまっている教もあれば、神のみ心を、物質利益という低い階層にひき下してしまって、信仰の単純化だと思っている人々もある。
 これは両者共実に困ったことである。神のみ心はわざと理論化し戒律化して複雑にする必要もなければ、現世利益的にひき下ろすこともないのである。
 神のみ心は最高、最深のところに置いたままで、容易(たやす)くそのみ心にとどき得るような教の単純化こそ、人間の理想なのである。

〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
 宗教の教えも単純化する必要がある。
 『世界平和の祈り』は宗教の単純化である。



<<自然の風光の中で>>より(P58)

 ただ、つねにやっておらねばならぬことは、神よりおあずかりしている肉体にまつわってくるこの世やあの世の汚れを、祓(はら)い浄めておくことなのである。そうしておかないと、天人の五衰ではないけれど、地上界の人間に舞いもどってしまうのである。
 だからいかなる人といえども、神への全託と同時に、つねに精進潔斎していなければいけないのである。悟ったからこれでよいなどと思いあがったら、その人はたちまち野狐禅(やこぜん)ではないが、迷いの想念に使われてしまうのである。人間はいかなる時でも、神への感謝と同時に、肉体人間としての謙虚な心がないといけないのである。

〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
 これを、悟後の修行という。



<<楽天家>>より(P146〜P147)

 (前略) どうにかなるさ式の生き方を楽天というのではない。真実の楽天家というのは、常に人事を尽しきっているところから生れてくるものなので、そこに心の余裕がもてるのである。人事を尽して天命を待つ、という気持が楽天に通じてくるのである。
 私はそれを、天命を信じて人事を尽せ、というように説いている。何故天命を先きに出して、人事を尽すことを後にしたかというと、まず人間は、自己が生きている、この世に生かされている、ということになんらかの天命のあることを信ずることが非常に生きる上において大事であるからである。自己の天命を信ずる、という信仰的な気持になると、自ずから自分の生き方に張りが出てくる。張りが出てくるとあらゆる事柄に人事を尽したくなる。
 世の中には、何事につけても、消極的で、否定的で、物事を悪いほうに悪いほうにとりがちな人があって、なんとしても楽天的にはなり得ない人がある。こういう人が楽天的になるには、どうしても信仰の道を通らなければどうにもならない。



<<批判と悪口>>より(P216〜P219)

 悪口をいわぬことを善しとするのは普通一般誰しもの心であるが、人の悪口をいいつづけることによって人気を博している人々もある。そうかと思うと、悪口と批判とを同一視してなんでも他のいうことを無批判に肯定しようとしている人々もある。
 口で悪口をいっていても、心に悪のない人はその悪口が妙に親しみをさえ感じさせられるが、心に諸々(もろもろ)の不浄がありながら、口では人をほめちぎってばかりいる人には、空々(そらぞら)しい感じを抱いて、近寄ってゆく気になれないものである。
 人間というものは面白いもので、口では善いことばかりいおうと考えて、声に出る言葉で善いことばかりいっていても、かならずしも想念がそれについてゆけるものでもなく、悪口ばかりいっていても、想念がいつもきれいでいる人もある。
 だから、声に出る言葉ばかりで人を批判したり、その人の人格を評価したりしていると、真実のものがわからなくなってくる。
 人間の善悪や人格の高低は、その人の常に抱いている想念と、自ずから行われているその人の行為によって判断さるべきであるが、普通では、この判断ができかねるのである。そこで直感的なものが必要になってくる。
 その直感はどこからくるかというと、自分の心を常に澄み清まらせているところからくるのである。澄み清まらせるためにはどうしたらよいかというと、寝ても覚めても神を想いつづけて、常に神のみ心の中に自己の想いを入れておくことである。
 今までの宗教の欠点は、ああしてはいけぬ、こうしてはいけぬ、と戒律のようなことばかり教えていて、いつの間にか神の子人間を、業想念(ごうそうねん)の渦の中にひき下してしまっていたのである。
 悪口をいってはいけぬ、ということでも、批判と悪口と全く一つにしてしまって、なんでもかでも人の悪を見るな、実相を観(み)よ、というように、あの人の行為はあれではいけないのだ、と心では思いながら、その心を自ら抑えてしまって、無理にその人の善いところを観ようとして、いつしかかえってその人の悪い波にひきこまれてゆき、自らもその悪念波の渦の中に入っていってしまったりして、常に自己欺瞞(ぎまん)して生きていく習慣がついてしまうのである。
 この生き方は自己の直感力を、自己の小我の想念で抑圧している状態であって、真実の宗教信仰者のとるべき態度ではない。真人(しんじん)というものは、悪と観えるもの、善と観(み)えるものの両面ともに、はっきり自己の心にうつし出して、その悪と観える事柄も、善と観える事柄も、すべて消えてゆく姿であり、そのすべてが消えてゆく姿であると観ずる想いも消えてゆくものである、とまで直感できる本心の座に住んでいるのである。
 自分は普通人である、凡夫であるから、真人のようなそんな境地にはなれぬ、と思う人もあるだろうが、人間は誰でも本来は真(神)人であるのだから、そのように自己を否定する想念をまず消えてゆく姿と想いつづけることから、しだいに本来の自己(本心)が開顕されてゆくのである。
 宗教の道とは、ただ無批判に、なんでも善なりと観ることではない。宗教の道に入れば入るほどはっきりした批判力が出てくるのであって、心が馬鹿のように無批判になるのではない。直感的批判力をはっきりもちながら、その批判力さえも消えてゆく姿と観じてゆくところに、はじめて空なる境地が展(ひら)けてきて、空即是色(くうそくぜしき)といわれる、真実の世界がその人の世界となってくるのである。
 人の悪口をいわぬことは勿論よいことだが、一切の批判力を失わせるような宗教を、私は是(ぜ)とするものではない。智と直感とが全く一つになってこそ、真実の世界があらわれてくるのである。

〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
 悪口:憎しみの感情から言う。
 批判:底に愛情がある。



<<心の窓をあけよう>>より
(P227〜P229)

初夏の国電内の息苦しいほどの蒸し暑さの中で、しかも満員に近い車内であるのに、どこの窓も閉ざしたままでいる。私は車内の中ほどに立って、暫くは人いきれと蒸し暑さにじっと耐えていた。しかし誰一人として窓を明けようとする者がない。
 私は思わず前の青年に「窓を明けたら」と小声でいった。青年はちょっと首をこちらにむけたが意味がわからなかったらしく無言でいる。私は再び声をかける気もしなかったので、少しづつ腰掛けのほうに足をにじり寄せて、窓に手のとどくところまでいった。窓に手をかけて明けようとすると、先程の青年がちらっと私のほうをみて手伝ってくれた。
 窓が明くと、戸外から新鮮な空気がさっと流れ入ってきた。「いい気持だね」と青年にいうと、「そうですねえ」とニコニコ顔で青年が答えた。
 傍(そば)の人たちも、みんなほっとしたような顔をしている。新鮮な空気といっても、東京都内でのことなので、澄み切った新鮮さではない。だが、人いきれでにごり切った空気とはまるで違った清浄さだ。
 人間というものはおかしなもので、ちょっと手を伸ばせば運命が即座に開けてくるようなことでも、誰かが先立ってやらなければ自分から進んでやろうとはしない。祈りによる世界平和運動でも少し心の窓を開いてやれば、誰にでもできる運動だし、それがいつかは世界中を動かす力になることなのに、誰もが、たまたま心の中で想っている程度で、形の世界に現わしてみようとはしない。
 そこで私は、世界人類が平和でありますように、私たちの天命が全うされますように、という、意味がそのまま言葉になりきっている祈り言を提唱して、人々の日常生活の汚れ乱れている想念を、この一つの祈り言に結集させて、人間の社会生活をそのまま意義あるものにしてゆこうとしているのである。
 人類すべての大悲願であり、大目的である世界平和ということは、国と国とが相対的な感情でお互いの利害を考え合って行おうと思っていたのでは駄目なのだ。純粋に素直に世界平和を念願する気持を形の世界に現わすことが大事なのである。
 それは国と国とでできることではなく、一人一人の人間がやることなのである。一人一人の人間が心の窓を少しづつ開いて、世界人類が平和でありますように、と日常生活そのままの中でやればよいのである。そうした一人一人の祈り言は、純粋で純朴で右にも左にも中立にも片寄らぬ、本心からの叫びになっているのである。そういう一人一人が人類にとって至極大切なのである。

〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
 “自分から進んで実行する勇気”が必要。
 良いと思う、神様の声と思えるようなことは、どんな小さなことでも実行するのが良い。



<<真実の光明思想>>より
(P232〜P234)

 光と闇とどちらを人間が好むかというと、誰しも闇より光を欲っする。太陽にしても月にしても星にしても、人間はすべて光り輝くものに心をひかれる。何故かというと、人間は本来光そのものであり、神の分生命であるからだ。
 そこで、人間の本心本体をそのままこの世に顕現しようというのが、いわゆる光明思想なのである。
 この世には光の世界と闇の世界がある。愛の行為、真善の行為は光の行為といい、誤った行為、悪の行為を闇の行為という。人を憎む行為、争う行為を、光の行為という人は誰もいない。
 だから、光明思想、光明波動の中には、人を憎んだり、人を傷つけたり、人を破滅させたりする行為がある筈はない。それは個人的にいっても国家人類という大きな場面においても同じことである。
 そういう想念行為は、光明思想からいえば神の子の心ではなく、消えてゆく姿というのである。
 真実の光明思想の中には、決して敵があってはならないし、ましてや人や国を憎む想いや争いの想いがあってはならない。しかしこの世の人間はすべて完全ではないのだから、そういう想念行為が全然ないというわけにはゆかない。そこで私たちは、そういう想念行為は、いけないもの、あってはならぬものとして、そういう想念行為の現われる度びに、反省し、悔い改めて、再びそういうことのないようにと、救世の大光明の中に、世界平和の祈りを通して、消えてゆく姿として消し去ってしまうのである。
 ところが、同じ光明思想家の中に中共の存在を恐怖し、憎み、北ベトナム爆撃は道徳的爆撃では駄目だ、米ソが協力して国連軍をロケット部隊にして、敵対するものがあったら、原水爆砲撃を加えてしまえ、という軍部でもちょっと口に出さぬようなことを機関誌に書いている人がある。その人は常に日本の軍備の強化を唱えている人であるが、今度は日本の軍備を強調するのをためらったのか、米ソだけが軍備をもって、後の小国は軍備を放棄せよといっているのである。彼は米ソが神力なのであり、米ソだけが正義の使者だと思っているのであろうか。
 光明思想家でない人が、いくらこういうことをいっても、別にその人の考えであって、そういう考えもこの世においては、あえて不思議ではないので、私たちが兎や角いう必要はないのだが、これが光明思想家をもって任じている、しかも敵をみてはいけない、敵をみる心が敵をつくるのだ、と常に法話で教えている人なのだから、どうしても一言いわずにはいられない。
 真実の光明思想家でも、心の表面では、この世の波動につれて、瞬間的に恐怖や怒りの想いが出ないとは限らない。しかし、それは常に消えてゆく姿として否定し去ることが正しいのである。光明思想家が、闇の想念行為を把えて放さないようでは、その人は本物ということにはならない。

〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
 光明思想とは人の心を明るくする思想である。



<<人間の愛らしさと憎らしさ>>
(嘘をつかぬ正直光明思想)より
(P240〜P242)

 人間神の子というのが、私たち光明思想家の常に唱えているところであるが、人間神の子と思いこむのがなかなかむずかしいし、神の子そのままの想念行為で、この世の日常生活を送ることはなお更に容易でない。
 この世における肉体人間というものは、愛らしい面と憎らしい面とを持っていて、神の子と思いこもうとしても、とても思いこめない憎らしい嫌らしい人間がかなり多く存在するのである。
 日頃は愛らしいと思っていた人が、何かの拍子に実に憎らしい嫌らしい面をむき出しにしてくることもある。
 こうした憎らしい嫌らしい面をその人たちにみながら、その人をそのまま神の子として、善なる人とみるということは、実にもって至難なことである。ここに光明思想家の陥し穴があるのである。
 何故かというと、この世の人間というものは、どうしても好きなことと嫌なことがあり、美しいものと、汚いものとを見分けて、嫌なもの汚いものから離れたい、という気持がどんな人にもあるのである。こうした気持は一面この世を住みにくくしているとともに、この世を立派な美しいものにしてゆこうとする運動ともなるのである。
 光明思想、神の子思想は、何も糞(くそ)も味噌も一緒にし、美醜の判別をしてはいけないというのではない。嫌なものは嫌、悪いものは悪い、という判別の心があって、その嫌な面、悪い面を、神のみ心にはないものとし、実在するものでないとして、消えてゆく姿であると思い、その悪や不幸や憎しみを、祈り心をもって、神様のみ心の中で消していただくのである。この点を間違えて、なんでもかでもみな善しとみて、そのまま神の子、神の世として拝むには、まだこの世の姿が未完成であり過ぎるのであるから、実行不可能なこととなるのである。そうしたことを知らずにただ神の子神の子とやっていると、いつの間にか、自分の心を偽(いつ)わってしまい、人をも騙(だま)してしまっていることになり、偽善者のような形になり、自分を苦しめ、人までも誤った道にさそいこんでしまうのである。
 だから、光明思想には、必ず、消えてゆく姿という、自然に、真実でない実在でないものを否定してしまう言葉や想念が必要なのである。それと共にその消えてゆく姿を、消し去って下さる神のみ心の大光明の中に、自分も人も入れきってしまう、世界平和の祈りのような、縦横十字の大調和をそのまま表現した、祈り言が必要となってくるのである。

〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
 相手を「神の子」として拝むのは、自分を偉く見せたいからである。
 心から自然に相手を「神の子」として拝んでいる場合は別である。
 しかし、心から自然に相手を「神の子」として拝んでいるか、形だけなのかは、区別が難しい。




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森島恒吉講義録
【目次】

『生きている念仏』
『光明をつかむ』
『愛すること』
『愛・平和・祈り』
『平和を呼ぶ声』
『霊性の開発』
『本もの贋もの』
『空即是色』
『白光への道』
『祈りのある生活』 
『聖なる世界へ』
『運命を恐れるな』
『これからの文明文化』 
『信仰と直観』
『純朴の心』
『直言・提言・進言』
『人類の未来』
『日本の心』
『宗教問答(正)』
『続 宗教問答』
『神への郷愁』
『心貧しき者は幸いなり』
『魂が大きく開く時』
『天命を信じて人事を尽くせ』
『私に荷物を預けなさい』
『質問ありませんか?』
『高級霊は上機嫌』
『責めてはいけません』
『自由解脱への道』
五井昌久講話集・第一巻
『生命光り輝け』
五井昌久講話集・第四巻
『明るい心』
五井昌久講話集・第五巻
『不動の心』
『行雲流水』
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2003.6.18
2008.9.15移動&改訂
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