1.正しい宗教と誤てる宗教
(宗教家で、言葉ではいいことを説く人がいるが、そんな人は、年中人を責めている)
例えば宗教家で(行いはいざ知らず)いいことを説く人がいます。そのいい言葉にひっかかって、あの人は立派だな、ああいう人のところへお嫁にいきたいと思うかも知れない、いざ結婚してごらんなさい、災難だから。せめられてばかりいるから。そんな人ばかりがいるとは限りませんが、おおむねお前の心が悪い、と年中せめられてしまうことになります。ちっとも愛してくれやしませんから。
(テキストP35)
(人を責める心が倍加したり、自分を責める想いがたくさん増えたりするような宗教だったら、一切やらない方がいい)
いつもいつも人の欠点ばかりさがして、ああじゃない、こうじゃないというような、そういう宗教は、この世からもういらないのですね。それは宗教的カルマというのです。宗教をやりながら、人を責める心が倍加したり、自分を責める想いがたくさん増えたりするような宗教だったら、そんな宗教は一切やらない方がいいですね。それは宗教でもなんでもない。(テキストP45)
(医薬をみだりにけなさぬ事)
お医者さんをけなしたり、薬をけなしたりすることはいけないんです。それで私は幹事心得の中で、医薬をみだりにけなさぬ事、と書いたのです。(テキストP105)
(強制することは、神様のみ心にかなわない)
それは強制ということになって、あまり神様のみ心にかなわないんです。神様は強いることを好まない。己れの生きる道をそのまま生かしながら、知らない間に業を消していこうというのが、神様の行き方なのです。(テキストP105)
(入らなければ罰が当る、などと、人に強制することは、神様のみ心にかなわない)
自分の所へ入らなければ罰が当る、出りゃなお罰が当る、でしょ。ああいうように人に強制をして、人を強制的に自分に従わせようとすることは、神様のみ心にかなわない。(テキストP106)
2.心の法則の欠陥
(この世は想い通りになる世界なんだから、すべてお前のせいだ、では宗教が役に立たない)
この世は想い通りになる世界なんだ。自分が悪い想いを起せば自分に悪い報いが来るんだ。自分が良いことをすれば良い報いがくるんだ、というわけです。これは嘘かというとやはり本当なんです。本当だけれども、そうなると、お前が今苦しんでいるのはお前のせいじゃないか、お前が貧乏しているのはお前のせいだ。お前の勝手なんだから好きになさい。お前が病気しているのはお前が悪いんだからお前の好きにしなさい。オレの知ったことじゃない、ということになるわけですね。それでは宗教が役に立たない。
(テキストP155)
(人間は神の子なんだ、悪は無い、なんていったらば、心の法則は一切いらない)
人間は神の子なんです。みんな神様なんです。神代なんです。神代から始まっているのだから、神代のことを説くのが神道です。初めから日本では人間は神の子なんだ、神だといっているわけなのです。それが今改めてハッキリ説かれているのです。ですから私の話していることは、神道らしく話さないけれど神道なんです。法華経なのです。法華経を超えて神道なのです。それをやさしく説いているのです。
人間は神の子なんだ、光明燦然としているものだ、悪は無い、なんて、いったらば、もうお前の、心が悪い、心のかげだよ、なんて心の法則は一切いらないのです。それがあったら人間は神の子でなくなって、悪魔の子にさがっていくのです。ところが宗教はみなおかしい。
お前は神の子だ、光明燦然としているんだと、教えていながら、お前が悪いとこういうのです。お前が悪いというのは一切いらないのです。お前が悪く見えるのも、私が悪く見えるのも、すべてみんな過去世の因縁が現われて、消えてゆく姿で、今のその人は悪くないんだ、という見方をしませんと、本当に人間の世界は幸福になりません。(テキストP118)
3.正しい祈り方
(しまった、もう再びすまい。ごめんなさい、世界人類が平和でありますように)
“しまった、もう再びすまい。ごめんなさい、世界人類が平和で……”と祈りに入ってしまって、観の転換をするのです。
(テキストP9)
(「私達の天命が完うされますように、有難うございます」だけでも立派になってゆく)
だから「私達の天命が完うされますように、有難うございます」だけでもね、その人は立派になっていきます。天命を信じることが第一番。(テキストP44)
(守護神さん有難うございます、よろしくお願いします、)
責任は守護神の方にあるわけです。だから守護神さん有難うございます、よろしくお願いします、といえば、守護神の方でうまくやってくれるのです。(テキストP85)
(息子のうしろの守護霊さん有難うございます、息子の天命を完うせしめ給え)
守護霊さん守護神さんに、有難うございます。どうかこの人の天命を完うせしめ給え、と祈らせるのです。たとえば息子が不良でしようがないとすれば、神様って拝めませんね。そしたら息子のうしろの守護霊さん有難うございます。息子の天命を完うせしめ給え、とやるんです。夫なら夫が道楽者だとする。夫の守護霊さん、ああご苦労様ですね、こういう業の固りをよく守って下さいまして有難うございます、とやるんです。(テキストP133)
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〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
対話形(奏上形)で、祈るのが良い。
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(自分勝手なことを神さまに願うのは、祈りではない)
日本が勝ちますように、と神社におまいりした、お寺にお参りした。国民が全部総力をあげてお参りしているのに、どうして負けたんだろう、神も仏もないじゃないか、という論がありました。そして無神論になって、唯物論になった人がたくさんあるのです。
それは祈りということを全然知らなくて、自分の勝手なことを願ったからです。どういう願いをしたか? 敵をやっつけ、相手を殺したってなんだってかまわない、敵を倒して自分のほうが勝とう、というのでしょう。(テキストP139)
(おなかが痛い五井先生!頭が痛い五井先生!夫が乱暴です五井先生!)
おなかが痛い五井先生!頭が痛い五井先生!夫が乱暴です五井先生!とやると、それはみんな私に来るんです。
(テキストP145)
(百万円どうしてもほしいと思ったら、百万円も世界平和の祈りの中へ入れてしまう)
お金が欲しいと思ってもですよ、百万円どうしてもほしいと思ったら、百万円も世界平和の祈りの中へ入れてしまうのです。そうすると、世界平和の祈りの中から、その人に与えたほうがその人のためになるものなら、与えるし、与えてためにならないものなら与えてくれないのです。(テキストP147)
4.祈り・統一の効用
(統一をしておりますと、守護霊や守護神の注意がすみやかにわかるようになる)
統一をしておりますと、肉体的人間というより霊的人間になる。非常に感受性が強くなる。運命の危険なども避けることが出来るようになる。守護霊や守護神の注意がすみやかにわかるんですよ。頭でパッとわかるかどうか、それはわかりません。自然にパッとさけられるように、危機というものをさける力が強くなる。
(テキストP114)
5.正しい信念
(世界平和の光り輝く中に入っているのだ、世界人類のために働いているのだ)
世界平和の光り輝く中に入っているのだ。世界人類のために働いているのだ、という信念をもって下さい。もつように自然になりますけれどね。(テキストP28)
(自分には不幸はない)
大信念というのが必要です。人間には大確信というのが必要ですよ。自分には不幸はない。(テキストP70)
(自分は完全円満に決っているのだ、もし不完全なものが出て来たら、それは過去世の間違いが現れて消えてゆく姿なんで、私は一寸も間違っていない)
自分は神から来ている生命だから、神は円満完全なのだから自分は完全円満に決っているのだ、もし不完全なものが出て来たら、それは過去世の間違いが現われて消えてゆく姿なんで、私は一寸も間違っていない、いう素晴しい信念にならなければダメですね。
それには「ない」じゃなくて、消えてゆく姿がつかなければダメですね。(テキストP70)
(世界は平和になるんだ、地上天国は出来るんだ)
世界は平和になるんだ、地上天国は出来るんだ。
(テキストP126)
6.その他
(どんなに相手が悪くても、どんなに悪い環境にあっても、上機嫌でなければだめ)
自分にどんな理屈があって、どんなに自分がよくて相手が悪くても、またどんなに悪い環境にあっても、上機嫌でなければだめなのですね。不機嫌になること、怒ること、暗くなることは一切消えてゆく姿なのです。いつも気分を明るくしている。誰があっても、あああの人はなんて明るくなんて気持のいい人だろう、と相手にいい気持を与えなければね。それは顔の問題ではありません。
(テキストP10)
(明るく機嫌がいい、どんなことがあっても気分がこわれない、といった心が一番大切)
根本をいえば、明るく機嫌がいい、どんなことがあっても気分がこわれない。どんなことがあっても自分の心が暗くならない。自分の心が怒りにみちない。いつでも明るくやわらかく朗らかになっていられる。そういう心が一番大切なのです。それが神様のみ心なのです。(テキストP10)
(世界平和の祈りをしたら、あとなんでもつけたしたらいい)
それで守護霊さん守護神さん有難うございますって、それじゃなんか物足りない、南無妙法蓮華経をつけた方がよい、それじゃつけなさい。南無阿弥陀仏をつけてもよい、ナムカラタンノトラヤーヤーでも、なんでもつけなさいというの。世界平和の祈りをしたら、あとなんでもつけたらいい、安来節でもなんでもつけたらいいと思うのですよ(笑)なんでも好きにつけたらいい。実際は同じことだかから。(テキストP75)
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〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
五井先生は、人には世界平和の祈りの後に何でもつけたして良い、とおっしゃっていたが、五井先生ご自身は、世界平和の祈りに、なにもつけたしてはいなかった。世界平和の祈りの中心者である五井先生などの立場と、世界平和の祈りに何かを付け足したい人とは、立場が違う。
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(授かる)
運命は決まっているんだ、天命として自分に授っているんだと、肯定的に考えたらいいですね。(テキストP99)
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〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
授かるという、謙虚な姿勢が必要。
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(日本さんお立ちなさい、私があなたの靴の紐を結びましょう、なんてアメリカはいわない)
オンリー・ワンで、一番になりたいのです。自分が下座について、さあ日本さんお立ちなさい。私があなたの靴の紐を結びましょう。なんてアメリカはいわない。(テキストP126)
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〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
オンリー・ワンの使用方法: |
利己主義(エゴイズム)の意味で使用している。
唯一とは使用方法が異なる。 |
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(常不軽菩薩)
神様以外に何もないのです。人間をみていて、みんな人間が神様に見えて来たら、それは常不軽菩薩です。法華経に出ていますね、あなたは仏様だ、あああなたは菩薩様だって拝んで歩いたお坊さんがいたんですね。そう拝まれた人が、何!オレが菩薩であるものか、このヤロウッて石をぶつけるのです。ぶつけられると逃げながら、あなたは仏様です、あなたは菩薩です、と真実の人間の姿を拝んだというのです。お釈迦様の前生ということになっています。そのように、人間そのまま神様!って拝めるようにならなければいけないんですよね。ところが、あんなヤロウ神様なもんか、嫌なヤロウだ、なんていうことが多いです。顔をまともに見ては神様だとは思えない。それは消えてゆく姿の方を見ているんです。いつまでたっても神様のほうを見ない。(テキストP132)
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〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
常不軽菩薩の真似をして、形式的に相手を『神の子』と拝んでも、常不軽菩薩のような心境にはなれない。
⇒代わりに、我々は『あの人の天命が完うされますように』と祈ればよい。
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