(現実の世界は、いつまでたっても理想どおりになっていない)
人間がこの世における理想としてもっているものは、生きてゆく苦しみ、病気の苦しみ、貧乏の苦しみ、争いによって起る苦しみ、死の苦しみ、といった苦しみのない世界を、この世につくりあげることである。
いいかえれば、個人と人類の完全平和達成ということである。
ところが、現実の世界は、いつまでたっても、この苦しみをなくすことはできないし、かえって昔より苦しみの増しているものさえあるくらいなのである。(テキスト序文)
(理想を現実に実行できる人は、はなはだ少い)
老子の無為(むい)にしても、釈尊の空(くう)の教えにしても、キリストの全託の教えにしても、あまりに理想のほうに近ずきすぎていて、現実に実行するにしては、なかなか手がとどかない、という嫌いがあるのである。
たとえていえば、 汝の右の頬を打つ者があらば、左の頬も打たせよ とか、 下衣を取る者があれば、上衣をも与えよ とかいう、イエスの教えでも、これを実行しようとして、精神を深めてゆく効果はあるが、実行するとなると、できる人がはなはだ少い。(テキスト序文)
(自分を守り、自国を守ることは、悪いことではなく当然のことである)
自己を守り、自国を守るという本能そのものは別に悪いことではなく当然なことなのです。(テキスト18頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
人を傷つけずに守ればよい。自分を守るとともに、人をも守る。
(顕在意識と潜在意識との食い違いによって、アンバランスの状態が現われてくる)
どういうところが自己分裂しているかと申しますと、自分のしたいことが、すべて自分のためになり他人のためにもなる、という心の状態の人がどれだけ存在するでしょうか、ここからまず考えて下さい。表面的意識では病気になりたくないのに、病気になっている人がどれほど多いことでしょう。また、貧乏をしたくもないのに貧乏になっている人。人の上に立ちたいのに人の下に立っている人。災難などにあいたくもないのに災難にあっている人。だれとでも仲良くしたいのに、どうしても好きになれない人がある、という人。こう数えあげますと、自分の表面意識とは違った状態が、自分の生活環境に現われてくることが、この人生には非常に多いのです。
どうして、こう自分の想うことと、現われてくることとに食い違いができるのでしょう。それは、表面意識つまり顕在意識と潜在意識の食い違いによって、こうしたアンバランスの状態が現われてくるのです。だれでも、表面意識で自分や自分の親族知人の不幸災難をのぞむ者はめったにおりませんし、人と争いたいと思っている人もあまり見当りません。それなのに不幸も災難も病気も争いも方々で起っているわけで、神が完全円満なら、何故このように、悪や不幸災難に充ちた世界をおつくりになったのだろう、と神様に不平をいいたくなる人もあるわけです。(テキスト28頁)
(この世の不幸災難も、個人個人の不幸災難も、人間の潜在意識がつくり出している)
だがしかし、この世の不幸災難も、個人個人の不幸災難も、そして悪のように現われている諸現象も、すべては神のみ心によってつくられたわけではなく、人間の潜在意識がつくり出しているものなのであります。
先ほども申しましたように、顕在意識の五%にくらべて、潜在意識層は九十五%というほど、広い大きな範囲に広がっておりまして、顕在意識でいくら思ったとて、念願したとて、潜在意識が、その念願に同調していなければ、とてもその念願は叶わぬことになっております。
それもそのはずでしょう。五%の力と九十五%の力とでは力において格段の開きがあります。(テキスト28頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
顕在意識(表面意識) 5%、潜在意識 95%
潜在意識の底には神意識がある。
圧倒的に潜在意識が強いので、潜在意識を変えないと、人生を変えることはできない。
(潜在意識層の、誤った想念、悪想念所業が、運命を阻害してしまう)
いかに肉体頭脳的に秀れていても、過去世から潜在意識層に積み重ねてきた、自己の悪い想念所業は、一朝一夕どころではない、一生をかけても超え得ることはできませんで、顕在意識の上で、生活上においても、人格においても善くなりたいと願いつつ、その方向に進もうとしていても、潜在意識層から湧き上がってくる、誤った想念、悪想念所業が、その運命を阻害してしまうのです。(テキスト32頁)
(潜在意識をもったまま、神仏の世界に飛びこんでゆく)
どうしても過去世からの潜在意識にある悪想念行為の湧き出てくる力には敵いません。そこで、今度は神仏の助けを乞うのです。神仏の世界こそ、この潜在意識の深い奥にあって、すべてを生み育てるとともに、この宇宙世界に必要でないもの、調和を乱し、完全を損うものを消滅させる絶大なる力をもっている光明世界、実在界であるのですから、その中に潜在意識をもったままでよいから、素直に飛びこんでゆくことが大切なのです。これが唯一最大の救われの道なのです。(テキスト33頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
自力では潜在意識を変えられないので、神仏に助けをこう。
神様は大光明なので、神様の中に飛び込めば、悪い不調和なものが消えてゆく。
(理想をそのまま実行できる人は、この世に殆どいない)
キリストのいうように、上着を取る者があったらみずからすすんで下着をも与え得る人が、この世の中にどれほどありましょうか。(テキスト43頁)
(色即是空 空即是色)
色即是空の色(しき)は、神の光と人間の業想念とが混同して現われている物であり、事柄であり、思想想念なのであり、行為なのであります。しかし、空即是色の色は、光り輝く色であり、ものであり、事柄であり、想念であり、行為なのです。この真理を知っていないと、ただたんなる諦めの世界に人間をひっぱっていってしまいますし、神仏への感謝というところまで人間をもってゆけません。まして、人間は仏子なのである、神の子なのである、完全円満なる神性なのである。(テキスト47頁)
(煩悩即菩提)
病気や貧乏の姿を過去世の業因縁の消えてゆく姿として、神様の光明の中、自分の本体の中へ投げ入れてしまって、病気と現われ貧乏な環境として現われてきた業想念を、光明心、神のみ心と入れかえてしまわなければならないのです。それが仏教でいう、煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)なのです。(テキスト54頁)
(守護の神霊の絶大なる加護がなければ、空になれない)
自己の体験として守護の神霊との交流をしていない宗教学者などが、守護霊だとか守護神などにかかわっていてはいけない、宗教の目的はただ空になることによって達せられる、というようなことをいっていますが、空になるためには、守護の神霊の絶大なる加護援助がなければできぬことを、その人々はご存知ないのでありましょう。(テキスト56頁)
(一度に急速に、真理を実施しようとする態度そのものが、真理に反すると思う)
私は、根本原理が、いかに真理であるとしても、一度に急速に、それを実施しようとする態度そのものが、真理に反すると思うのであります。
一時から二時になり、春から夏になるように、この世の動きには、すべて順序というものがあるのであって、表に真理そのまゝが現われるということはないのです。(テキスト64頁)
(真理は、押しつければ、真理ではなくなってしまう)
如何なる真理といえど、押しつければ、それは不自由となり、真理ではなくなってしまうのです。
真理とは常に自由に行われるものなのであります。(テキスト65頁)
(他人に強要された感謝は、内容が死んしまう)
天地万物に感謝する、ということでも、天地万物に感謝すること、その真実は、最高の真理への行為であり、それが日常行える人は、実に幸福な人であり、真の人間であります。
ところが、この立派なことが、一度(ひとた)び、声に出る言葉となって、他人に強要された場合は、この内容が、まるで死んでしまうのであります。また強要した人も、もはや感謝の人ではなくなっているのであります。(テキスト65頁)
(感謝は、人に強要されることではなく、人に強要することでもない)
感謝ということは、人に強要されることではなく、人に強要することでもないのです。内部から、自然に湧きあがってくる想いであり、感情であるのであります。(テキスト65頁)
(感激を売り物にしていたら、感謝の本質が消え去り、形だけの贋ものが残る)
ですから、感謝感謝と、感激を売り物にしていたら、感謝の本質は、全く消え去ってしまって、感謝という形だけの贋(にせ)ものが、残っているだけになってしまうのです。(テキスト65頁)
(人間は神の子であるという真理は、文字の上や、声に出る言葉でいうべきものではない)
人間は神の子である、という真理でもそうなのであります。人間は神の子であり、神そのものでもあるのは真理なのでありますが、それは、文字の上や、声に出る言葉でいうべきものではなく、その人の全人格、言語動作、全行為に現われるべきものであって、文字や、発声による言葉でいうのは、ただたんに、その真理につなげるための、一つの動作であるのです。
それを、ことごとに人間は神の子なのだ、円満完全なのだと、他人の立場やおもわくを無視してしゃべりまくって、自らの想いを満足させているような者があるとしたら、その人は、ゆきすぎた人というべきなのであります。(テキスト65頁)
(現世の人間は、まだ神の子であると大見得を切るほど、光明化してはいない)
現世の人間は、神を内部に蔵して、その僅かの光を外部に発光しているものであって、まだ神の子である、と大見得(みえ)を切るほど、光明化してはいないのであります。(テキスト67頁)
(自己の心が弱いために、なんにでも妥協する人は、調和主義者と呼ぶことはできない)
調和主義のようにみえていても、常にその人が、自己の心が弱いために、なんにでも妥協して、調和した生活者のように見せている場合もあります。これは自己の光が弱いために、相手の業想念に抑圧されて、相手の業想念と妥協している姿なのですから、こうした人を真の調和主義者と呼ぶことはできません。それは闘争の波とはまた違った業想念の世界の人であるからです。(テキスト97頁)
(私(五井先生)は、誤った思想行為を、それは誤りであると厳しく批判することもある)
誤った思想行為を、それは誤りであると厳しく批判することもありますし、手をつないでゆこうとの申出があっても、知らぬ顔で聞き流してしまう時もあります。(テキスト101頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
五井先生も、批判をする。
宗教をする者は批判をしてはいけないと言う宗教者がいるが、それは大きな誤りである。
(神のみ心の地球界における最大の現われが、世界平和の祈りである)
私は神のみ心の地球界における最大の現われを、世界平和の祈りとして、その世界平和の祈りのもつ大光明思想の中から、すべての物事、事柄をみつめつづけているのです。(テキスト102頁)
(宗教の教えは、あまりむずかしくても、分裂してもいけない)
宗教の教えはあまりむずかしくては民衆がついてゆけませんし、多くの教えが入り交じっていてもいけません。
教えは分裂してはいけません。(テキスト107頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
- 人間神の子、悪は無い、と説いている光明思想家 (テキスト121頁)
→S教団の宗祖のことを言っている。
- いゝ加減な神の子観念、浅い光明思想 (テキスト121頁)
→S教団の光明思想のこと
- 天津神(あまつかみ):天の神様
国津神(くにつかみ):国の神様。古事記では、国とは地球全体、地上をさす。
→日本や各国を守っている神様は、神道的には、国土神というのが正しい。 (テキスト126頁)