〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
☆『日本の心』の本の内容で共通する所☆
自分自身の欲望の為に生きたのではなく、日本の発展の為に生きた人について書いてある。
日本の為に自分の生命を投げ出そうとした時に、キリストになることができる。
一日一分間でも世界平和の祈りを祈れば、一分間はキリストになれる。
我々が世界を平和にするのだと決意する。これは、五井先生が教えてくださった。
世界平和の祈りをすれば、大人物になる。
(祈りによる世界平和運動は、人数が増してゆくごとに、大きな力になってくる)
心の汚れは少いという健全なる精神の持ち主たちが、一つの目的をもって結集してゆくことが必要だと思うのです。
一人一人の力では弱いし、それ程乗り気になれぬ運動でも、二人三人、十人二十人と数が増してゆくごとに、力が非常に強くなって、大人物並の大きな力になってくるのです。私はそれを、祈りによる世界平和運動として、実行しているのであります。
自分では人物ともなんとも思っていない人が、一つの目的のために働いているうちに、意外と思われる程、あらゆる面での能力を発揮してくることもあり、いつの間にか大人物に成り上っている場合もあるのでして、自己の素質が、いつどこで大きな力を発揮するかわからないのです。(テキストP19)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
自分一人で祈っていれば良いという人は、本物ではない。
五井先生の教えが本当にわかったら、結集して祈りましょうと、集まってくるはず。
(吉田松陰はイエスのごとく、自分の信念を曲げず、私を公に殉じさせた)
この映画を観ていますと、松陰の日本を守り、日本を立派にしようとする公の心が、観る者の心に痛い程沁みてきて、涙がにじみ出てきます。ちょうどイエスの歩いた歩き方そのままの気がします。自分の信ずる歩み方をどんな迫害にあっても、いささかも曲げようとしなかったイエスと、松陰とには一脈相通ずるところがあるのです。それは私を公に殉じさせたその生き方にあったのでしょう。(テキストP45)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
〜学ぶべき点〜
信念を曲げない。世界平和の祈りが最高の祈りという、信念を曲げてはいけない。
(純粋素朴なたゆみなき神への感謝が、私(五井先生)を神界の住人にせしめた)
私が今日の私になったそもはじめの行は、あらゆる物や、物事に、神のみ心をみまして、寝ても醒(さ)めても、歩いていても立止まっていても、心の中では瞬時かかすことなく、神さまありがとうございますの一念で生活したわけなのです。そうした神との素朴な交流が、私に神の子である本心を開顕させたのであります。高(こう)まいな宗教理論でも、神霊界の知識でもなく、たゞ純粋素朴なたゆみなき神への感謝が、私を神界の住人にせしめたのです。
(テキストP97)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
『神さまありがとうございます』だけで悟れる。我即神也などとやらなくてもよい。
私達は五井先生を信じるだけでよい。しかし、信じることが難しい。
世界平和の祈り以外の行をしている人は、五井先生を信じていないことになる。
お釈迦様は、ご自身が入滅後は法によって生きなさいと言った。我々は五井先生の説かれた、世界平和の祈りという、法によって生きることが大事。
(良寛さんの逸話)
ある名月の夜のことでした。良寛さんは輿に乗って、芋畑の中をあちらこちらと名月を眺めながら歩いていました。その姿を畑の持主がみつけまして、すわ畑荒しと思いあやまり、やにわに鉄拳をふるって良寛の頭を打ってきました。
そして、それだけで気がすまずに、とうとう彼を縛って木の枝に吊しておいて、あり合せの棒で滅多やたらになぐりつけたのです。それでも良寛さんは少しも逆らわなかったのですが、しまいにとうとう耐えられなくなって、実は自分は良寛であるとその人に申し出ました。そして、自分は芋などを盗む気はさらになかったが、月がいいのでぶらぶら歩いていたのだと告げて、畑を荒したことを詑びました。
首姓は始めてそれを知り、大いに恥じ入って深く罪を謝したのですが、良寛は少しも相手を咎(とが)めなかったばかりか、むしろ気持よさそうに笑って、左の如き一首の古歌を口ずさみながら飄然とそこを去ってゆきました。
打つ人も打たるる人も諸共に 如露亦如電(にょろやくにょでん)応作如是観(おさにょぜかん)
(テキストP110)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
我々は良寛さんの真似はしなくとも良い。
〜言葉の説明〜
“如露亦如電 応作如是観” は金剛般若経の中の文である。
『露のごとくはかなく消える。雷が一瞬のごとく消えさる。すべての現象について消え去る。私はこのように感じている。』という意味である。
(聖者の行為は一朝一夕で、できるようになったのではない)
ただ問題になることは、こうした聖者の行為は一朝一夕で、できるようになったのではないことです。聖者になるような人には、勿論生れながらの素質というものもありますが、素質を生かす、たゆみない努力精進というものが大事になってきます。白隠なぞは、ひどい肺病になりながらも、なお難行苦行をして、それだけの行為のできる白隠になったのですし、良寛にしても、宗忠にしても、それ相当の修業の末の自由解脱なのであります。(テキストP118)
(我々が立派になるには、まず、祈りによって自我を無くすことからはじめなければいけない)
ですから、修業中の皆さんが、すぐにも、白隠や良寛や宗忠のような行為ができるわけではありません。修業しながら、徐々に立派になってゆくわけなのです。一度に聖者の真似をしようとしますと、かえって中途半端になって、自分がみじめになったりしますので、まず、自我(小我)を無くすことからはじめなければいけません。小我を無くす方法が、祈りなのです。小我を無くして本心を開発する方法が祈りなのです。(テキストP119)
(祈りの一番やさしい方法は、日々瞬々の神さまへの感謝行)
祈りの一番やさしい方法は、ただひたすら、神様ありがとうございます、と日々瞬々神への感謝行で明けくれることなのです。私がこうなったのも、ひたすらなる神への感謝行であったのです。
(テキストP119)
(一歩進んで、神への感謝行に加えて、世界平和の祈りを日々瞬々行っていると、いつのまにか 自我が減少し、聖者に近い無我の祈りができるようになる)
そして一歩進んで、神への感謝行に加えて、世界平和の祈りの、世界人類が平和でありますように、から、私たちの天命が完うされますように、迄の祈りになります。世界平和の祈りを日々瞬々行っておりますと、いつの間にか、自我が減少しまして、聖者に近い無我の祈りができるようになるのです。
宗教の道では、焦(あせ)りが一番の禁物です。焦るとつい誤った道に入ってしまいます。じっくりと、大地を踏みしめてゆくつもりで、世界平和の祈りを祈りつづけてゆくのがよいのです。
(テキストP119)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
聖者の真似をしない。一度に聖者の真似をすると、偽善者になったり、心苦しくなったりする。
祈りの一番やさしい方法は、ただひたすら、『神様ありがとうございます』。
もっと易しい祈りは、『神様お願いします』。
五井先生はご利益を説かなかったが、世界平和の祈りが最もご利益のある祈りである。
(素朴純粋なる平和の祈りへの人々の結集こそが、日本を救い、世界を救う唯一の道)
米国を敵としブルジョアを敵とするのでもなく、ソ連中国北鮮等の共産主義陣営を敵とするのでもない。ただひたすらなる素朴純粋なる平和の祈りなのです。完全平和達成の願望を祈りにまで高め上げて、多くの人々を結集させてゆく、という道こそ、日本を救い、世界を救う唯一の道なのです。(テキストP194)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
我々に敵はいない。
(真理の世界は、因果応報の世界を超えた絶対界である)
因果応報というのは、想念の世界の定まりでありまして、京都行きの汽車に乗れば京都に、新潟行に乗れば新潟につくようなもので、自分の発した想いや行為は自分の行先きを決めた乗り物に乗っているようなものなのです。
しかし、真理の世界は、そういう因果応報の世界を超(こ)えた絶対界でありまして、それが真実の人間の住む世界であり、すべては神のみ心によってつくられている世界なのです。そこはこの因果応報の世界と同時にあるのですが、神のみ心のみが実在であるのです。そして、その他は現われては消えてゆく夢幻にすぎないのです。現在の人類のように、消えてゆく姿のみを追い求めて、国家の安泰を計ったところで、国家の幸福は生れてきません。国家の幸福は、その国家がいかに神のみ心に合致した生き方をしているかによって決定されてゆくのです。神のみ心は大調和です。(テキストP195)
(祈りによる世界平和運動の道は、宇宙法則にのっとった道である)
宇宙法則にのっとった道、天地の理法に適った道、それが祈りによる世界平和運動の道なのです。(テキストP196)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
世界平和の祈りが宇宙の法則である。
因果の法則を超える方法が、世界平和の祈りであり、世界平和の祈りが実在界である。