(世界平和の祈りは、個人人類同時成道の易行道)
己が幸(さち)願ふ想ひも朝夕の世界平和の祈(の)り言(ごと)の中
それが世界平和の祈りとして、個人人類同時成道の易行道として、多くの共鳴者を得ることになったのです。(テキスト序文)
(いかなる欲望的想念も、神を想いつづければ必ず消え去る)
どのような姿で、どのように業(カルマ)が現われようと、それは、そのまま想いを動かさずにいれば消え去ってゆくのですから、その業(カルマ)に対抗的になったり、無理に消し去ろうとすることはありません。黙って、守叢霊、守護神の加護を念じつづけているだけでよいのです。(中略)いかなる欲望的想念も、神を想いつづければ必ず消え去るもの、これは私が体験から得た事実なのであります。(テキスト28頁)
(業想念波動の転回は烈しいので、生半の意思力では跳ねかえされてしまう)
業想念波動の転回は、幽体(潜在意識)から肉体(顕在意識)へ、肉体から、幽体へと烈しく廻っているので、幽体(潜在意識)にひそんでいた想念(おもい)が、他の人や事件の同じような想念にふれると、ひよこつと肉体意識に顔を出して、怒りの感情がこみあげてきたり、悲しくなったり、妬ましくなったり、高慢になったり、各種の欲望となったり、意地悪い感情が現れたりするのです。そして、こうした感情は止めようとしても、生半(なまなか)の意志力では跳ねかえされてしまう程、烈しい勢いをもっていて、肉体の言語動作に現われてしまうものなのです。たまたまこの感情を意志力で抑えきることが出来ても、それはその感情が消え去ったのではなくて、中(潜在意識)に抑圧されただけであって、後から後から突きあげてくる想念の為に、いつかはその数倍する力で肉体の言語動作に現われたり、またそれをも抑圧していると、その業想念は、運命の不孝、病気や、事業の失敗として現われてくるのです。(テキスト29頁)
(守護霊、守護神への感謝に想いをかえれば、業想念の渦から抜け出ることができる)
守護霊、守護神への感謝に想いをかえることにするのです。これはたゆみない想いの訓練が必要ですが、他の如何なる宗教的教えよりも、早く、楽に業想念の渦から抜け出でることが出来、本心(神の心)の中に、いつでも自己の想念を一つにしていることが出来るようになるのです。(テキスト30頁)
(人間には、本心と業の、2つの心がある)
二つの心、はっきり申せば、一つは、神の心とつながっている本心。つまり、神から分れた生命そのものとなり、神の目的達成の為に、この人類世界を動かしてゆこうとする肉体発生以前からの心。一つは、意識、想念、仏教でいう、識、業(カルマ)、ということになるのであります。(テキスト35頁)
(浄土門の開祖、法然上人)
浄土門の開祖法然上人は、その頃の修業者の大多数が通つて来た聖道門(自力)の修業をしつくし、学問知識は、当代で並ぶ者もない程の碩学(せきがく)でありましたが、それだけでは、どうしても上人の心は和みもしなければ、安心しきることも出来ず、悶々とした末、悟りへの道は、学問知識をいくら積んでも、如何なる荒行をしても到達出来るものではない。悟ろうとする想念と、悟りという境地が、二つに離れていては、いつまでたつても、悟れるわけがない。悟ろうなどという気持を、すっかり捨て切って、すべてを阿弥陀仏(本心)に任せきってしまわなければ駄目なのだ、と自己の脳裡に去来する想念を、阿弥陀仏(神、本心)と一つにする為、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と一瞬の想いの隈もない程に、阿弥陀仏を呼びつづけたのでありました。
このことは、実に偉大なことなのであります。何故かと申しますと、法然ほどの深い学問知識があり、修業も積んだ坊さんが、その学問知識も、今迄の修業方法も、すべて捨て切って、まだ誰も見たこともない、行ったこともない、阿弥陀仏の存在を信じ、西方極楽浄土の存在を信じきったことなのであります。
これは出来そうで、なかなか出来るものではありません。これが無学文盲であったり、貧乏であったり、重病であったりする場合ならば、案外なんでもなく飛びこめることでしようが、法然のような立場では、実に思いきったこと、という他はありません。
釈尊の教典の中の大無量寿経に、法蔵菩薩の誓願(弥陀の本願)という教えがあって、法蔵菩薩が、正覚を得たら、西方極楽浄土に在って阿弥陀仏となり、自分の名を称える者は、必ず救うと誓願した、と書いてあるのですが、釈尊は、その頃実在していた人でもなく、仏典は釈尊自身が書いたものでもないので、そのことが事実であるかどうかはわからないのです。これが理論的な、哲学的な経文ならば、これこれ、しかじかで成る程と肯定出来るのでしようが、この教文は、只単なる話なのですから、信用する棍拠はないのです。ですから信ずるだけということになるのです。
法然上人のように学問的な頭の、いわゆる碩学が、どうして、深い学問の末に、この教えに全生涯をかけたのでしよう。
今、私が法然上人の心を推しはかってみると、その時の上人の気持がよくわかるのです。それは、その当時の僧侶の中にあって、自分の学問知識が、かなり上位にあったこと(他からみれば傑出していた)は、法然自身でも知っていたでありましよう。その自分でさえ、悟った安心した気持で生きてゆかれないのに、自分より知識の低い、身分の貧しい、大多数の庶民たちが、どうして安心立命して、この世の中を生き通してゆけるであろう。こんなことでは、とても人を救うことは出来ない。どうしたらよいのであろう、と思いつめた挙句(あげく)、大無量寿経に書いてあった弥陀の本願を、ある著書を読んでいるうち思い出したのであります。 その時、霊感的に、これだ、と思ったのです。そうだ、一般庶民を救うには、この弥陀の本願を教えるより他に方法はない、と思いが定まったのです。
この気持になったのも、求めて求めて求めぬいた、最後の決着であったからなのです。仏典という仏典を学びつくして、もう日本では学ぷものがない、という最後に、弥陀の本願を想い出したのです。最後の決着ですから、もう、右にも左にも想いが動かないのです。ぴたりと弥陀の本願、つまり南無阿弥陀仏に想いが集中したのです。その時から、法然の全身全霊は、南無阿弥陀仏になり切ってしまったのです。現代の言葉でいえば、神と我れとは一体である、我れは神の中にある、と思いが定まったわけです。
(テキスト39頁)
(親鸞は、全く、少しの自力もない絶対他力)
これが親鸞になりますと、もう一歩、自己の想念を捨て去り、業想念の方で何を思おうと、何をしようと、一切お構いなしに、阿弥陀仏(神)に、すべてを任せきってしまったのです。他力になりきってしまったのです。法然の方は、自己が初めて、他力の南無阿弥陀仏を称え出したのですから、それを称える為の努力が必要でありましたが、弟子の親鸞の場合は、尊敬する師が現実に存在するのですから、その教えそのままを実行する信だけあればよいのです。ですから、最初に信じたそのままに、南無阿弥陀仏の中に生命を投入してしまったのです。全く、少しの自力もない絶対他力であったわけです。(中略)
それからの親鸞の宗教には、力みもなければ、研鑚もありません。悟ろうという想念(おもい)も、悟らなければいけない、という想念(おもい)もありません。(テキスト42頁)
(人間は、欲望を失くせといわれても、なかなか失くせるものではない)
人間という者は、欲望を失くせ、といわれても、なかなか失くせるものでなく、恐怖するな、怒るな、哀しむな、執着するなといわれても、その性情が容易なことでなおせるものでもありません。
(テキスト44頁)
(只ひたすらに南無阿弥陀仏と称名さえすれば、極楽浄土に救われてゆく)
法然、親鸞は、そうした性情をなおせなどとは少しもいいません。私たちも、貴君方もそうした肉体人間の想念感情においては、同じことなのだ、そのような想念はどうでもよい、怒ったら怒ったまま、泣いたら泣いたまま、只ひたすらに南無阿弥陀仏と称名なさい、称名さえすれば、貴君がたは、極楽浄土に救われてゆくのだ、と教えているのです。(テキスト44頁)
(本心をそのまま阿弥陀仏と一つにしてしまう為の称名念仏)
これは、法然、親鸞が、肉体想念(業生)と、本心(仏心)とをはっきり区別して知っていたことを現わしています。
肉体想念というものは、余程上根の者でない限り、自己の力で消し去り得るものではない。それより一度、そうした肉体想念をすべて離して、輪廻する想念はそのままめぐらして置いて、本心をそのまま阿弥陀仏と一つにしてしまう為の、称名を、ひたすらつづけることを実行したわけです。(テキスト44頁)
(少しでも自力の想いが入ってくると、他人の行ないを見て、その行ないを非難し、自己の行ないに対しても、己れを裁く地獄の生活にひきこまれてゆく)
真実に法然、親鸞の心をくんで、称名念仏した人は、必ずその生活に本心の光、仏の光が現われていたことでしようが、これに少しでも自力の想いが入ってくると、他人の行ないを見て、その行ないを非難し、自己の行ないに対しても、己れを裁く地獄の生活にひきこまれてゆきます。(テキスト45頁)
(自力が入ると、救いの効果を薄くしてしまう)
自力が入ると、どうしても、人を責め裁く想いに把われやすいのです。肉体の自分が悟ろう、と思うのでは、折角の阿弥陀仏の救いが、その効果を非常に薄くしてしまいます。(テキスト46頁)
(心を仏に合せつづけているときには、仏の完全円満性がその人に現れる)
真に弥陀への全託の称名をなし得た人ならば、信から行へ、真実の道、仏の道を、過ちなく踏み行なっていったに違いありません。
何故ならば、心をそのまま仏に合せつづけているときには、仏の完全円満性が、必ずその人の心その人の生活に現れるに決まっているからです。(テキスト46頁)
(法然の教えでは、地獄に落ちるかというと、そんなことはない)
日蓮のいうように、法然の教えでは、地獄に落ちるかというと、これは日蓮の一人合点で、そんなことはありません。(テキスト48頁)
(念仏一元になってからの法然は、神我一体の境地になっていた)
念仏一元になってからの法然は、完全な悟道に入っていて、今でいえば神我一体の境地になっていて、人々の心の中まで、鏡にうつすように見通していたようです。(テキスト50頁)
(日蓮の教えは、自己を仏として実相の世界から、南無妙法蓮華経と唱える)
日蓮の教えは、法華経、簡単に一口でいえば、人間は、本来皆仏であって、迷ったり嘆いたり、哀しんだり、恐れたりするものではないのだ、迷っているような相(すがた)、恐れ哀しんでいるような相(すがた)は、迷夢迷妄に過ぎない。自分たちは、火にも焼けず、水にも溺れぬ、自由自在なる仏である。南無妙法蓮華教、南無妙法蓮華経というわけです。ですから、意気高らかで、実に高揚したひびきをもっているのです。
この教えは、自分が救って貰えるとか、これから悟りの道に入るなど、という下から上へ昇ってゆくような、他の力にすがってゆくようなものではなく、はじめから、自己を仏として、実相(完全な)の世界から、南無妙法蓮華経と唱えるものなのです。
(テキスト50頁)
(五井先生の教えは、三界から遁れるために、守護の神霊の力を借りる)
潜在意識、顕在意識として転回している想念行為は、肉体界、幽界、霊界の低い層、つまり三界を輪廻(りんね)しているのであって、三界を超えた世界は、その軌道外になるのです。
その軌道外にいち早く出る練習をすることが必要なのです。私は、どういう風にこの波から遁れさせるかといいますと、皆さんが、もうすでに充分ご存知のように、三界の軌道外にある、守護の神霊
のカを借りることにしているのです。(テキスト60頁)
(自分は久遠実成の仏であると信念しようとすると、仏の姿が現われてこない)
それを法華経の理念通りに、自分は久遠実成の仏であると、信念しようとすると、その信念する想いが邪魔になって、仏の姿が現実に現われてはまいりません。真実は、人間はすべて久遠実成の仏であるのですが、その仏を顕現しようとして、かえって気張ってしまって、常識はずれの変な人間が出来上がることも時折りあるのです。(テキスト62頁)
(世界平和の祈りの効果)
現われてくる悪や不幸に把われなくなってくる。
怒りや妬みや、焦りの想いがへってくる。
自分自身の存在価値を、いつの間にか、強く認識している。
自分自身の生活が悪くなりっこない、という確信がっいてくる。
本心と業想念の区別がはっきりついてくる。
(テキスト79頁)
(世界平和の祈りをしていると、いつのまにか四苦が超越できる)
生きる苦しみ、老ゆる苦しみ、病む苦しみ、死の苦しみ、この四苦が、いつの間にか超越出来る迄に心境が澄んでくるのです。
(テキスト79頁)
(絶対力とは、神仏そのものから、そのまま出ている行であり能力)
”私のやっている宗教は絶対力ですよ”などと平然としていっている新宗教の信者がいたりします。絶対力とは、自力にしても他力にしても、その道の奥義に到達した者のみがいい得る言葉であって、そうやすやすといえる言葉ではありません。何故かといいますと、絶対力とは、神仏そのものから、そのまま出ている行であり能力であるのですから、私のやっている宗教は絶対力です、といい得る人は、仏そのもの、神そのものに成りきった人でなければならないわけです。(テキスト81頁)
(宗教の目的は、絶対力を自己の言行に現わすこと)
宗教はいずれも、絶対力(神仏の力そのもの)を自己の言行に現わすことに窮極の目的をもっているのでありますが、その絶対力に到達する方法として、自力で行く者、他力で行ずる者の二者があるのです。そして、この自力門の最たるものが禅宗であり、他力門の代表が浄土宗なのであります。キリスト教は勿論他力門であります。(テキスト81頁)
(世界平和の祈りの中に全想念を傾けて、日常生活をつづけてゆくのが、現今における最も善い宗教的方法)
「純粋他力行を通して絶対力に」悪い自分も、悪い他人も、それはすべて消えてゆく姿、自分は只、世界平和の祈りの中に全想念を傾けて、日常生活はそのままつづけてゆくのであります。これが他力行から入った絶対力になってこの地上界に天国浄土を顕現する、現今における最も善い宗教的方法であると、神は私を通して宣言し教導しているのであります。(テキスト92頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
絶対他力をすると、絶対力(神仏そのものの力)が現われる。
(煩悩即菩提)
(テキスト108頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
「即」とは通常の意味は、「イコール」のことですが、ここでは煩悩が菩提に「転換」するということを意味する。
(『世界人類が平和でありますように』の祈りの言葉の中に、大神さまが含まれている)
ただ、単に神さまという場合には、大神さまということでありまして、これは世界人類が平和でありますように、という祈りの言葉そのものの中に、もうすでに含まれているのであります。
(テキスト132頁)
(常に守護の神霊への感謝行をつづけることが必要)
いつも申しますように、人間は肉体人間としての人間だけではなくて、分霊魂(わけみたま)としての自分と守護の神霊とが一つになった時に、神の子的本来の人格ともなり、神の子的能力も発揮できるので、常に守護の神霊への感謝行をつづけることが必要なのです。
ですから、前生的因縁として、貧しい家に生れ、才能も少く生れたとしても、そうした業生の自己を世界平和の祈りのような、大光明波動の中に、常に守護して下さっている神霊への感謝の想いをこめて、日々想念を投入していれば、いつの間にか、自分では思いもかけぬような才能が現われてきたりするのです。
(テキスト157頁)
(守護の神霊との交流を怠らずつづけていれば、その人の運命人格が向上する)
この世の有様ほ、今にも破壊しそうな業想念行為の波の中にあるので、とても善い世界幸福な世界だとは申せません。しかし、人間の本住の地である神界では、大調和の波、大光明の波の平和そのものの世界がくりひろげられているのですから、その世界の姿をそのまま、真直ぐにこの世にうつし出せば、この世はたちまち大調和の世界になってしまうのですが、現実はそのようにはまいりません。そこで、一度にそうしようとは思わないで、うまずたゆまず、一人一人が各自の守護の神霊との交流を怠らずつづけていれば、まずその人自体の運命人格が向上してきます。これはかならずそうなりますから、それを信じてやって下さい。(テキスト157頁)
(大調和の姿をうつし出す、一番やさしく人類的であるのが、世界平和の祈り)
その一番やさしくしかも広く人類的であるのが、世界平和の祈りなのです。世界平和の祈りをする時には、神界がそのまま、その人の身近かに降りてきていると同じなので、その人はその時神界の住者となっているのです。
そしてその祈りをつづけていますと、自分ではそう深くやっているつもりでもないのに、心が安らかになってきて、自分の運命に確信がもてるようになってくるのです。これは多くの人の体験ですから間違いはないのです。(テキスト157頁)