(人を見て法を説け)
人を見て法を説けであります。(テキスト8頁)
(“彼の人々の天命が一日も早く全うせられますように”と祈ってやること)
人の為に祈れ、それが愛行ひたすらその人々の守護の神霊に心の中で、“彼の人々の天命が一日も早く全うせられますように”と祈ってやることです。(テキスト17頁)
(守護の神霊への感謝の想いが常になければならない)
守護の神霊への感謝の想いが常になければなりません。
(テキスト35頁)
(いかなる暗黒も、どのような悪も不幸も、謀略も、すべて消えてゆく姿)
神は唯一絶対であって、他に在るものなし、という大信念の下に政治を行い、政策を行うのでなければ、国家や世界の経綸を行うわけにはまいりません。
いかなる暗黒も、どのような悪も不幸も、謀略も、すべて消えてゆく姿なのです。なぜならば、神の他に在るものなしが真理なのであって、神の他の悪や不幸が実在するわけはないからです。それは神の姿、神のみ心が、この地球界に完全に現われるための、一時的な現象であり、人類の気づいた人々から、神のみ心にすべてをゆだねる全託の行為をしてゆけば、必ずこの世の不完全の姿はついには、消え去ってゆくのです。(テキスト66頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
「神の他に在るものなし、神の外に悪は存在しない」は真理である。
五井先生は文章の前方では、神の他に在るものなし、神の外に悪は存在しないという真理をおっしゃっている。しかし、“それは”という文章で、悪や不幸の存在を認めている。
<天界の真理>
真理としては悪はない
<地界の真理> (五井先生のお説きになる真理)
現実としては悪は存在する
⇒「消え去ってゆく」
(調和というのは、争うことが嫌な為に、表面上仲良くすることではない)
調和というのは、不平や不満が想念の中にはありながらも、争うことが嫌な為に、その不平不満を底に押しこめて、表面上仲良くするということではないのです。また、自己をみじめな立場に置いて相手を立てる、ということでもないのです。相手も自分も心の底から喜び合えて、和してゆくのでなければ、調和ということはできないのです。
こうした調和の生活というものは、現在の地球世界のように不完全、不調和の波動の蔽っている人類世界では、自己の天来の素質の善さというだけでは、至難なことであるのです。
(テキスト94頁)
(守護霊様守護神様ありがとう存じます、と祈っていれば、守護の神霊が、その人々を守り易くなる)
何処にいて、どんな格好をしていても、守護霊様(祖先の悟った霊)守護神様(直霊の分れの守護の神)ありがとう存じます、と祈っていれば、守護の神霊は、その人々を守り易くなって、大きな災難になるべきものも、小さく消し去ってくれることができるのであります。(テキスト108頁)
(愛と調和といっても、人の非を見すごしたり、業想念に妥協したりすることではない)
宗教信仰の道は、一にも二にも、愛と調和でなければなりません。愛といっても調和といっても、ただやたらに、人の非を見すごしたり、業想念に妥協したりすることではありません。自己の心の中に、相手を責め裁く想いや、相手を叩きつぶすというような想念を持たぬ、相手の本心の開発を心から願っての批判や、叱声であれば、その人やその団体を生かすことであるから、調和精神、愛の心に欠けるものではないのです。(テキスト113頁)
(世界平和の祈りの中から、自然法爾的に、調和の行為や愛の行為が現わされてゆく)
この区別は自己の想いをみつめてみれば、自(おの)ずと判ってくることで、世界平和の祈りのような、神愛と人類愛とが一つに結ばれている祈り心の中からは、自然法爾的に、そうした深い調和の行為や愛の行為が現わされてゆくのであります。
(テキスト114頁)
(神の子観と凡夫観の二つの相異った生き方について、考えざるを得ない)
この地球界の人間は、一体神の子なのか、凡夫なのか、神の子としての自覚を強めながら生きていった方がよいのか、凡夫観に徹底して生きていった方がよいのか、人間というものをつきつめながら生きている人々は、どうしても、神の子観と凡夫観のこの二つの相異ったような生き方について考えざるを得なくなってきます。
人間は神の子であって、本来完全円満なものなのだ、という観点に立って、さて自己をみつめ、人類の姿を眺めますと、どうも甚だ神の子的でない自己や人類が眼についてきます。どうにもやりきれないような自我の想いや不完全、不円満な姿が心にしみついてきます。(テキスト181頁)
(人間は神の子なり、といい切るには、この現象界の姿は汚れ過ぎている)
人間は神の子なり、完全円満性なりといい切るには、どうもあまりにもこの現象界の姿は汚れ過ぎておりまして、頭の中では神の子なりと認識しながらも、社会生活に一歩足を踏み入れると、忽ち業生の仲間入りしてしまうことになってきます。(テキスト183頁)
(人間神の子なりの生き方は、うっかりすると口ばかりの、偽善者的な行動をしてしまう)
このように、人間神の子という実際行動に入るには容易なことではないのです。頭で一寸想うことと、実際行動として実行することとは、大きな開きがあるのです。そこでうっかりすると、口ばかりの、偽善者的な行動をしてしまうことになりかねないのです。
(テキスト184頁)
(人間神の子だと口でいっても、実際行動が不完全では、かえって人間神の子の完全円満性を傷つけ損ねてしまう)
人間神の子だ、人間は完全円満だ、といくら口やペンでいってみましても、その人の実際の行動が神の子らしくなく、不完全なものを多分にふくんでいましては、かえって、人間神の子の完全円満性を傷つけ損ねてしまいます。人間神の子とか、完全円満だということは、いたずらに口でいうことではなく、各人の行動の中に自然法爾的(ひとりで)に現われてくることなのであります。そこのところがなかなかむずかしいのです。(テキスト184頁)
(知性的な人々は、人間神の子観より、凡夫観の方により真実なものを見出す)
それではいっそのこと、神の子だなどとはいわずに、人間は罪の子なのだ、罪悪深重の凡夫なのだ、というところに根抵を置いて生きていった方が、より現実的であり、謙虚な生き方でもあってよいのではないか、と思ってみたりします。この考え方の方が、知性的な人たちには受けるのです。何故かといいますと、この現実の生活は、どうにも動きのとれない不調和不完全の相(すがた)で展開しているのがこの人たちにははっきりわかるからなのです。この現実の眼や耳で確めたこの世界の姿は、どうしても罪悪深重の凡夫の集りがつくり出した世界のように見えるのです。それは一寸考えてもわかりますように、戦争をしたくないのにお互いに武器をつくり合い、滅びたくないのに、滅亡に至る核兵器の生産に血道をあげているという様相は、何んといっても、神の子のやることではありません。
こうした眼に見え、耳に聞える事実の上に立って物事を考える習慣を、インテリ層というものはもっているのですから、インテリ層即ち知性的な人々は、人間神の子観より、凡夫観の方により真実なものを見出すわけなのです。(テキスト184頁)
(人類を罪悪深重の集りと認めたら、どんなことをしてもされても、罪の報いであって致し方のないこと なのだから、み仏にすがって生きてゆくことしか方法がない)
自己が罪の子であり、罪悪深重の凡夫であれば、他からどんなに馬鹿められようと、さいなまれようと、自己が罪の子で悪いのですから仕方がないと諦めて頭を垂れていればよいわけなのですが、そうはいきません。「何を、馬鹿にするな」とか、「こんなひどい目に会わせて」とかいう、反撥心や怒りの想いが必ずといっていい程湧きあがってきます。
それは罪の子観、罪悪深重の凡夫観に徹していない証拠なのであります。自分を罪の子と認め、人類を罪悪深重の集りと認めていたとしたら、どんなことをしてもされても、罪の報いであって致し方のないことなのですから、ひたすらに神に詫びつづけ、み仏にすがって生きてゆくことだけしか方法がないわけなので、自己が怒ったり憤ったりすることはないわけです。パウロや親鸞のようになりますと、流石に偉いので、その観に徹していまして、遂いに罪の子や罪悪深重の凡夫の境地を脱しきって、神の子、仏子の姿を、はっきり自己の姿としてしまったのであります。(テキスト186頁)
(普通の人の信仰心では、パウロや親鸞のような“罪悪深重の凡夫観に徹して、遂いに、その境地を 脱しきって、神の子の姿を自己の姿としてしまった” 境地までは、な かなかなれない)
しかし普通の人の信仰心ぐらいでは、なかなかここ迄の境地にはなれないのです。かえってあべこべに、罪の子だから、罪悪深重の凡夫だから、怒ったり妬んだりするのが当然なので、そうした想いを超えられぬからこそ罪の子であり、罪悪深垂の凡夫というのだ、という人もあるでしょう。
そういう観点に立っての罪の子観、凡夫観は、これはもはや宗教心以前の考えで、一度び宗教の道に入った人は、こういう考えに定着していてはいけないのです。いけないというより、その人が次第に駄目になっていってしまうのです。(テキスト186頁)
(宗教の道というのは、神仏と一つになり得る道であり、人間の本心の開顕される道)
人間神の子観から入っても、罪の子観から入っても、宗教の道というのは、神仏と一つになり得る道であり、人間の本心、本性の開顕される道なのであります。(テキスト187頁)
(只、観念的に人間神の子といったとて、罪悪深重の凡夫といったとて仕方がない)
どうして神の子と罪の子が同じなのか、と問われる方があるかも知れませんが、神の子と罪の子が同じであると私はいうのではありません。神の子観でいっても、罪の子観でいっても、真実徹底してその考えを実行してゆけば、等しいところに到達するというのです。だが、その考えを人類の幸福というものに至らしめるためには、只、観念的に人間神の子といったとて、罪悪深重の凡夫といっていたところで仕方がありません。(テキスト187頁)
(神の子の人間が、人と争ったり、怒ったり、恐れたりしたのでは、おかしな話となる)
人間神の子観でゆくなら徹底して神の子になりきる方法を行じなければいけません。神の子の人間が人と争ったり、怒ったり、恐れたりしたのでは、おかしな話になります。
神のみ心は大調和であり、愛であり美であり真であります。そうした神のみ心を実現してゆく者が神の子であるわけです。愛にそむき、美にそむき、真から外れていては、神の子を口にする資格はありません。ですから、只単に人間神の子だといっているだけでは、とても真の神の子を現わすことはできないのです。
(テキスト188頁)
(罪の子的、罪悪深重の凡夫観の側に立ったら、神様に救いあげて頂くより方法はないという、謙虚な信じ仰ぐ姿となってくる)
そこで今度は、罪の子的、罪悪深重の凡夫観の側に立って、この人生をしっかりとみつめますと、自己をはじめ全人類のこうした業想念は、自分たち肉体人間ではどうにもならぬ業生なので、誰方(どなた)か、この業生の渦を超えた御方に救って頂かねば、人類は永劫にこの業生の輪廻の中を変滅してゆかねばならない。どうぞ尊き御方様お救い下さい、という形で、み仏の慈愛にすがってゆく、という生き方、キリスト教的にいえば、イエスやマリアの御名の下に神様に救いあげて頂くより方法はないという、謙虚な信じ仰ぐ姿となってくるのです。(テキスト189頁)
(人間神の子という時は、肉体人間の現在の想念行為の中の我れをいうのではない)
人間神の子という時は、一躍真性の我れの中に入っていうことであって、肉体人間の現在の想念行為の中の我れをいうのではありません。
(テキスト190頁)
(人間は本来神の子なのだが、罪悪深重的な凡夫の自己も、想念の中には共存している事実をはっきり認め、罪の子的自己を神のみ光の中で消し去って貰わなければ、神の子としての自己だけがそ こに残るわけがない)
人間は真性としては神の子なのですが、現れの面としては、業生に蔽われているのですから、真実は神の子なのだが、罪悪深重的な凡夫の自己も、想念の中には共存しているわけなので、その事実をはっきり認めて、罪の子的自己を神のみ光の中で消し去って貰わなければ、神の子としての自己だけがそこに残るわけがないのです。(テキスト190頁)
(神の子人間と罪の子としての自分とを、一緒にして世界平和の祈りの中に投入してしまい、改めて、 神のみ心の中から生れ変った神の子としての自分になって、日常生活をしてゆけばよい)
ですから、一度は神の子人間と罪の子としての自分とを二つに分けてみて、この二つをまた一緒にして、その一緒にした自分を、世界平和の祈りの中に投入してしまい、改めて、神のみ心の中から生れ変った神の子としての自分になって、日常生活をしてゆけばよいわけなのです。(テキスト190頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
真性=本性 |
<五井先生の教え> |
現実を認める |
⇒ |
正直。無理がない。 |
悪は時間とともに消え去っていく |
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方法は 『守護の神霊を通して世界平和の祈りを祈る』 |
(消えてゆく姿の後から、神の子の本質が、現われ出でてくる)
消えてゆく姿の後から、神の子の本質が、はっきりと現われ出でてくるのです。(テキスト197頁)