(生長の家の教えは、人間は神の子である、と説き、周囲に現われている悪なる姿は、それは間違った心の影なのだ、という現象論で精神分析指導をする)
問9 生長の家の教えと、先生の教えの相違点をご説明下さい。
答 生長の家は万教帰一と銘うつているように、神道、仏教、キリスト教はもとより、心霊科学、精神分析等々、各種の教を混合させて、こちらでわからなければ、あちらで、そちらが駄目なら、こちらで、というように、実に知識的に複雑多岐なる説き方をしているのでありますが、その教の根本は、人間は神の子である、であるから、この世界には、悪も、不幸も、貧乏も病気も無いのである。物質は無い、肉体は無い、という実相論と、現象に現われた病気も貧乏も、あらゆる不幸な出来事は、みな、あなたの心が間違っているからである。夫が悪く現われているのも、子供が悪く現われているのも、あなたの周囲に現われている悪なる姿は、みんなあなたの間違った心の影なのだ、という現象論で(中略)精神分析指導をするのであります。
(悪 も不幸も病気も無い、という実相論、つまり法華経の教は、実行不可能に思われる)
この現象世界には、悪や不幸や病気が充満しているのに、実相は完全円満で、悪も不幸も病気も無い。この肉体も、すべての物質もあるように見えるけれども実在ではないのだ。だからいかに相手が悪人と見えようとも、実相完全円満と拝みつづければ、必ずその相手は善なる実相を現わしてきて、あなたと大調和するであろう、という実相論、つまり法華経の教は、頭ではわかる人はいても、実際に行なうには、実にむずかしいことであって、余程の上根(立派な)の人でなければ実行不可能に思われるのです。
(因縁因果の分析に傾き、罪人意識に把われてしまうか、神の子完全円満を、口先きだけの唱え文句にして、反省なき偽善者になってゆく人が多い)
因縁因果の分析の方がやさしいので、衆生(普通人)はその方に重点が傾きやすいのです。そして、人間は本当は完全円満なのに、どうして私はこのように病気や不幸が絶えないのだろう。私の心は余程悪いに違いない、と折角の実相論、法華経のすべてはみ仏である、という教が、反対に堕落してしまって、罪人意識に把われてしまう人が出来たり、また一方、自己以外のすべての人を精神分析的に観て、その人たちの不幸や病気を、あなたはこういう心があるからそのような不幸になり、そうした病気になるのだ、と相手を常に責め裁き、痛めて、自己を相手より優位に置くことに専念し、自己は、神の子完全円満を、口先きだけの唱え文句にして、反省なき偽善者になってゆく人もかなり多いのです。
(実相論には敬意を表するが、折角の法華経を、精神分析論で、めちゃめちゃにしてしまった愚かさを、谷口教祖のために非常に惜しむ)
私は、法華経をあんなにやさしく説かれた実相論には万腔の敬意を表するのですが、折角の法華経を、精神分析論で、めちゃめちゃにしてしまった愚かさを、谷口教祖のために非常に惜しむものなのです。これも大神様の神意の中にあったことなのでしょうから、致し方がないと思うのですが、何故実相論一本槍で通さなかったかと再び惜まれてくるのです。
(現象はすべて心の影という心の法則論(因縁因果)だけでは到底真実の救いに入ることが出来ない、と思う)
現象はすべて心の影という心の法則論は、昔からいわれている、因縁因果のことで、業(カルマ)の流転のことです。それを新しい言葉で、実相論に並べて現象論として説いたところが生長の家なので、これはどう云おうと、これ以上に説くことも、変えることも生長の家としては今では出来なくなっているのです。ところが、これだけでは到底真実の救いに入ることが出来ない、と私は思ったのです。これでは、入門二三年は、実相論で心がくるりと変って、ちょっとした救われに入る人があるでしょうが、年がたってゆくうちに、頭の鋭い人や良心的な人なら、この教団の教や、教団の講師諸氏の教えと実生活(実際行動)との差異の甚しさがわかってきたり、教の中の矛盾に突き当ったりして、悩んできますし、頭のあまり秀れぬ人達は、偽善的な生活に気づかず、人間神の子円満完全と、自己の魂の在り場所も知らずに、他人の欠点を裁いたりして得意になっているでしょう。
このことは、私が講師として生長の家教団にいて、はっきり確認し、自己も味わった生活であるのですから間違いはありません。神様は私にわかりやすく、行じやすい真理を説かせるために、各教団の勉強をさせたものなのです。
(教祖自ら教が生活に現わせないことが、生長の家の教えは、教に無理があることを如実に示している)
生長の家の教えとよくくらべて下さい。生長の家だと、実相完全円満の人間が、どうしてこのような不完全な悪や不幸に満ちた人間世界をつくったのですか、の問に対して答えることが出来ません。谷口教祖は『悪は無いから、無い悪を探すことは出来ない』式の答をしているのですが、谷口教祖の実際言動、実際生活は、すべてを実相完全と拝み、誰れの悪をも認めない、という実相論を踏みはずすこと数段の生活言動をしているのです。その例は枚挙にいとまはありません。教祖自ら教が生活に現わせないのです。それは教に無理があるということを如実に示しているのです。
(地上世界の人間には、悪い想念はあるにきまっているので、それをいったん認めて、認めた瞬間、これで消えてゆくのだと、その掴んだ想いを、守護の神霊への感謝の祈りに変えてゆく。そうすれば偽善者的無理をせずに、実相の世界、安心立命の生活の中に生々と働くことが出来るようになる。)
地上世界の人間には、多かれ少かれ、悪い想念はあるにきまっているので、それはそれではっきり認めてよいのです。いったん認めて、認めた瞬間、これで消えてゆくのだと、その掴んだ想いを、守護の神霊への感謝の祈りに変えてゆくのです。そうすれば、悪は無い、病気は無い、と本当は心から想えるわけでもないのに、想ったようなふりをする偽善者的無理をせずに、三界の迷妄から自然にぬけでて、実相の世界、安心立命の生活の中に生々と働くことが出来るようになるのです。守護の神霊を実相界に昇る梯子として使うのが私の教です。
(生長の家の教えは、実相は完全円満で悪も不幸も無い、肉体も物質も無い、と説く。しかし現象に現われた不幸や病気を、因縁因果説、心の法則に落してきて、悪や迷い、つまり業 (ごう)をはっきりと認め、矛盾した二元論になっている。)
生長の家と私の教との相違点を二言にして云えば、生長の家は、最初に頭ごなしに、人間の実相は完全円満で悪も不幸も無い、肉体も物質も無い、だから病気も無い、という素晴しい真理の言葉で読者や信者に喝(かつ)をくわせて、この現象界を問題にせぬ立派な態度を見せながら、今度ほ現象に現われた不幸や病気を、因縁因果説、心の法則に落してきて、あなたの心が間違っているから、そうした不幸や病気が現われるのだ、とその人々の心の迷いのなせる業(わざ)だ、と改めて、人間の悪や迷い、つまり業(ごう)をはっきりと認めている二元論なのです。はじめの一二年は、法華経(実相論)の喝のききめで病気がなおり、家庭が調和したりするのですが、しばらくたって、その教の矛盾つまり、完全円満の実相人間から、どうして迷いの多い人間が出来てきたのであろう、ということに気づきはじめ、時折り現われた実相が、次第に現象の心の分析の影にかくれてしまって、人間は本来完全円満である、という真理を知っていることが、かえって自己を責め裁く、という反対現象を起してくるのです。それは、実相と現象をつなぐ梯子がないのに、現象の迷妄の中に喘ぐ人々に、実相はここだ、昇ってこい、と高い理念の世界から呼びかけてくるので、いち早くそこ迄昇ろうと、焦りもだえて、現象の自己の力弱さ、低さを歎き哀しむか、あるいは、自己を偽瞞してしまうかしてしまうのです。
(私〔五井先生〕は、実相と現象との間に、守護霊、守護神という梯子をかけ、実相と現象を一本 につなぎ、病気も不幸も悪想念も、すべて過去世からの誤った想念行為の消えてゆく姿、消え てゆくに従って、人間の本心〔実相〕が現われてくるのだ、と説く)
私はそこに守護霊、守護神という梯子をかけ、実相と現象を一本につなぎ、一元的にして、現象無しというところを病気も不幸も悪想念も、すべて過去世からの誤った想念行為の消えてゆく姿、消えてゆくに従って、人間の本心(実相)が現われてくるのだ、と分析の代りに、消えるという言葉で業生(カルマ)の幕をひらいてゆくのです。こうすると虚勢を張らぬ裸のままで素直に、自分を赦し、人を赦して、伸びやかな大らかな生活が出来てくるのです。要するに迷いの想念を分析的につかわず、一直線に守護霊、守護神、直霊(本心)の方に感謝全託の想念として振りかえてしまわせる教なのです。
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
・生長の家は、矛盾する二元論となっている。
・すなわち、矛盾する2つの異なった原理をもとにした思想となっている。
人間は神の子完全円満(実相論) <=> 悪は無い(原理)
悪なる姿はあなたの間違った心の影(因果の法則)
<=> 悪は有る(原理)
(どうすれば平静な、そして温かな態度で病人に接することが出来るのか?)
問39 病気も業も消えてゆく姿だと、知識ではわかるのですが、私自身も病人に対しても、すっきりと割り切れないのです。私は情に把われすぎているのでしょうか、どうすれば平静な、そして温かな態度で病人に接することが出来るでしょうか。
答 この問題は、光明思想の普及者の一度は通らねばならぬ関門であります。生長の家などでは、病気は無い、今直ぐ立て、と云っていまして、神の創り給うた完全な人間に病気などあるわけがないと云い切っているのであります。これは真理であり理論としても領けるのでありますが、実際問題としては、なかなか実行し難い教であって、精神力の弱い人の喝にはなりますが、その反面、それをうのみにして、自分自身に行なうのならまだよいのですが、雇人や、お嫁さんなどにその教の通りを実行させようとしている人がかなりあるのです。
先日も、私のところに来ている人の知人が、嫁の身で肺をわずらったのであります。当人は体がだるく、呼吸も苦しいのですが、その姑さんが、生長の家の信仰に厚く、「病気は無い、今直ぐ立て」を、お嫁さんに実行させるので、お嫁さんがいくらだるくとも、苦しくとも寝ることも出来ず、次第にやつれはててしまったのです。見るに見かねたその知人が、私のところに連れてきたのであります。私はそのお嫁さんの体を見てびっくりして、「これはいけない。こんな体で働いていたのではまいってしまう。家では気兼ねで寝ることは出来ないだろうから、病院に入って、暫く安静にしなければいけない」とその人に口添えして貰って入院させたのであります。
私はこのお嫁さん自身が、生長の家の教を信じて、自発的に働いているのなら、そんな注意はしなかったのです。それは信仰の極度に強い場合は、真理がそのまま生きて、働いているままで病気の直ることも、時たまはあることだからです。それには実に深い信仰心のいることであって、それこそ不退転の大決意がなけれは危いことであるのです。ところがこのお嫁さんの場合は、ほとんどそうした信仰がなかったのですから、実に危険なことだったのです。そのお嫁さんは、病院での手当によって今では大分快方に向っているようであります。
(私〔五井先生〕は、生長の家式の病気は無い、は凡夫には危険だと思って、あなたの病気は消えてゆく姿であり、心をおびやかさず、ひたすら守護の神霊への感謝行の方に、不安の想いを投入させて置きなさい、そのうちにあなたの完全性である丈夫な体が、うちから現われて、やがて健康な体に立ちかえるのですよ、と説いている)
私は生長の家式の病気は無い、は凡夫には危険だと思って、あなたの病気は過去世から今生にかけての、悪想念行為の消えてゆくために現われている一つの症状なのだから、心をおびやかさず、ひたすら守護の神霊への感謝行の方に、不安の想いを投入させて置きなさい。痛みが出ても、不安が出ても、懸命に守護の神霊への感謝に、自己の想念のすべてを投げこみなさい。そのうちにあなたの完全性である丈夫な体が、うちから現われて、やがて健康な体に立ちかえるのですよ、と説いて聞かせているのです。
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
真理は危険な時もある。
(世界平和の祈りは、最初で最後の真の祈りであることを確信している)
世界平和の祈りは、最初で最後の真の祈りであることを私は確信しているのであります。(テキストP173)
(五井先生は、お前が悪い、お前の心を直せ等とはおっしゃらない)
問42 先生はご指導に当たって、お前が悪い、お前の心を直せ等とは絶対におっしゃらないのですが何故悪いところを指摘して直させるように指導なさらないのですか。
問60 先生は何故私たちの欠点を指摘して叱って下さらないのですか。
(生長の家は、神様が、人間は神の子であり完全円満性のものであるのだから、悪や不幸や病 気などは実体的には無いのだ、と説かせた折角の光明思想を人間の心の中の悪や不幸を認める精神分析にひきさげてしまった)
答 それが人間は神の子であり、悪も不幸も病気も実体のあるものではないのだ、との光明思想を谷口雅春氏をして説かしめたのでありますが、生長の家は、その教を現代の知識人や医学者たちにもわからせようとする意識過剰のあまり、精神科学的な分野に足を踏み入れすぎて、心の法則なる言葉によって、従来の小乗宗教の因縁因果説をもってきて、「こういう病気はこういう心の現われ」このような不幸はこのような心の現われ、というように精神分析的に人々の姿や形や病気や不幸に現われたすべての症状を、心の持ち方に結びつけてしまったのであります。これは天理教あたりでやっている、はいといわぬから肺病になる、というのと同じであり、神様が、人間は神の子であり完全円満性のものであるのだから、悪や不幸や病気などは実体的には無いのだ、と説かせた折角の光明思想を人間の心の中の悪や不幸を認める精神分析にひきさげてしまったということになるので、責め裁かぬための教が、再び人間の心を切りきざむ、宗教を離れた科学の面に入ってしまったのであります。
こういうことを教わりますと、教わったことはすぐに潜在意識に入りますので、自分が病気をしても人が病気をしても、すぐにその法則に照らして、自分や人の心を分析解剖してみて、自分の心を痛め、人の心を裁くような習慣が自然についてしまうのであります。
(神様は、私〔五井先生〕に消えてゆく姿の教一本の教義を説かせられた)
神様はそうした失敗をごらんになって、これではいけないとおぼしめしになり、今度は私に消えてゆく姿の教一本の教義を説かせられたのであります。悪も不幸も貧も病もすべては過去世から今日までの神を離れていた想いの消えてゆく姿である、という教の中には人の悪や誤ちを掴んで責めたり叱ったりする余地がまるでないのであります。(中略)
そして今は、世界平和の祈りを教義の実行面の唯一の行として人々になさしめているのです。
(人間の実相は完全円満だから、人間の悪を見てはいけない、という教えは、根本的には善い教だと思うが、悪をみてはいけない、拝まなければいけない、というものではない)
間63 間の実相は完全円満だから、人間の悪を見てはいけない、すべての人間を神の子として拝まなければいけない、という教えがあります。この教えは本当に善い教えだと思いますが、実際やってみようとすると、どうしても中途半端になってしまって、人にだまされたり、かえって人に憎まれたりしてしまうのですが、先生はこの教えをどうお考えになりますか。
答 私も根本的には善い教だと思います。この教の根本は人間の理想であり、天の心そのものであり、神の子の心そのままのものであるので、人間は本来そうしたものであるのです。そうしたものというのは、悪をみてはいけない、拝まなければいけない、などというようにいけない、というような言葉がついているものではなく、お互いが、善そのもの、真そのもの、美そのものであるということであります。
(いけない、などというような言葉をつけてしまうと、もう人間は本来実相完全円満だという真理が死んでしまって、ただお説教だけがそこに残ってしまう)
そこで、いけない、などというような言葉をつけてしまうと、もう人間は本来実相完全円満だという真理が死んでしまって、ただお説教だけがそこに残ってしまうのです。
そこが、この教の問題点となって、あなたのような質問がでてくる原因になるのです。私も人間は神の分霊であって、神が完全円満性であると同じように、本来は完全円満なのだと説いているのですが、だからといって、この地上界の人間の悪をみずに、神の子として拝まなければいけない、などとそうなんでもなさそうに神の子として誰れをも彼れをも拝ませるような導き方はしていないのであります。
何故そうしないかと申しますと、私はこの地上界、肉体界の人間の業生、業想念の波の層の容易ならぬ根深さを知っているからです。いと簡単に人間の悪をみてはいけない、神の子として拝め、と云われて、そう簡単に拝めるものではないので、そう教えている先生方さえその教を実行し得ているとは云えない状態であるようです。またその教を鵜呑みにして、相手を善とみて商業取引をして、相手にひっかかった人を私は多く知っております。ひっかかっても、ああこれで自分の業が一つ消えていったのだ、と想えるような人々なら、すべてを善とみてひっかかっても、それが神の道への近道になるのでしょうから結構なことであり、そうした人は真実の神の子を体得している人なのであります。
ところが大半の人はそうではなく、そうしたひっかかりが出来ると、折角教わった、人間の実相は完全円満である、という真理に、その時から後向きになってしまって、今度は非常に疑い深い人になってしまったりするのです。
(私〔五井先生〕は、やたらに人を善とみることを教えずに、人間には本心と業想念とがあるのだから、人々の本心と業想念をよく区別して、相手の業想念の中に自己をひきずりこまれてしまってはいけない、と説く)
私はそのことを体験として充分知っていましたので、やたらに人を善とみることを教えずに、人間には本心と業想念とがあって、本心のまわりを業想念が取り囲んでいるので、人間は神の子でありながら、その神の子の本心が、業想念の波動を破って本来の光を放ち得ないでいるものなのだ、だから、やたらに人を信じてよいというものではない、やたらに人のいう通りに行動してよいというものでもない。その人々の本心と業想念をよく区別して、相手の業想念の中に自己をひきずりこまれてしまってはいけない。
(私〔五井先生〕は、本心と業想念の区別をつける最もよい方法は、守護の神霊へ常に想いをむけていることであり、更によい方法は、世界平和の祈りであると説いている)
そうした本心と業想念の区別をつける最もよい方法は、自分の先祖の悟った霊である守護霊さんと、その上にいて常にその守護霊に光を送っている守護神さんとに常に想いをむけていて、つまり感謝の想いを送っていると、守護の神霊の側から、その人の心にむけて、その区別を直感的にか、他の人をもって知らせるかして、必ず知らせて下さるものである。もしそれでもだまされたり、ひっかかったりする時は、それこそ過去世からのその人との業因縁が、そこで消え去っていったもので、それも、自己の本心を輝かすための必要なことであったのだ、というように説いているのであります。しかしそれよりも更によい方法は世界平和の祈りであると説いているのです。
(肉体人間の業想念を無視した神の子論、実相論には、どうしても無理がある)
なんでもかんでも悪をみてはいけない、となりますと、他の人や、事柄を悪とみる度びに自分は神の子でありながら、なんていつまでも悪い想いがなくならないのだ、というように、自分の心を責めさいなむ想いになったり、相手の悪を認める想いを充分にもちながら、いかにも悪をみぬように、自ら自分の心をだまして相手の悪をみまいとするのであります。これは偽善と云いまして、自己の心に不正直なやり方で、次第に潜在意識に自己に嘘つく想いがたまってしまって、それがついには習性のようになり、その人の人格的雰囲気が汚れてしまうのであります。
肉体人間の業想念、つまり利害得失で動きやすい人間性というものを無視した神の子論、実相論には、どうしても無理があるので、自己を偽るか、他を偽るかしないと、一般の人々はそうした教についてはいけないのです。
(教義『人間と真実の生き方』を根本にして、世界平和の祈りをする時、いつの間にか真実善なる人になってゆく)
この教義(注『人間と真実の生き方』)を根本にして、世界平和の祈りをする時、悪と見えるものを、強いて悪ではないなどと自己の心をだまして、完全円満と思おうとするような、そんな無理なことをしなくとも、自ずから、自己の神性へ(本心)の輝きが外に現われて、悪と見えている人々も自然と、その業想念が消え去ってゆき、拝み合いなさい、などという言葉を超えていつの間にか真実善なる人になってゆくのであります。
(天の真理を地上に開顕するためには、どうしても、守護霊、守護神という光の柱と、消えてゆく 姿という真理の言葉が必要)
天の真理を地上に開顕するためには、どうしても、守護霊、守護神という光の柱と、消えてゆく姿という真理の言葉が必要なので、ただ、神の子完全円満という観念の言葉だけでは、どうしても、その後に、こうしなければいけない、という説教の言葉がでてきてしまうのです。
天の理想を地の現実に現わすために、今日まで幾多の聖者、賢者が、種々と教を説いていたのでありましたが、その教は、天の方を主にして説いたり、地の方のいわゆる修養して天に昇ってゆく方法を説いたり、無為とか、空とかいう教で説いたりしていたのであります。そして今日では、天と地が十字交叉する丁度中心に位する教が現われなければならなくなっているのであります。
その中心の位になる教というのは、天の真理を、最も無理なく、誰れにも容易に行じ得るものであって、それを行じることによって、自己も救われ、人類も救われる、というような教であるわけなのです。
(理想にも片寄らず、地の現実にも片寄らず、悪は悪とみて、それも消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投入してしまうことの方がより自然で実行しやすい)
理想に片寄っては行じにくくなり、行じているようでもそこに無理が生じ、地の現実に片寄っては、いつまでも相対的な利害関係を離れ得ぬ、その場その場のものになってしまいます。そこで私は、世界平和の祈りという、わかりやすく、行じやすくそして自己の浄化と人類社会の浄化が同時に出来る方法を神様から広めさせられているわけなのであります。無理に悪や病気をみぬようにするより、悪は悪とみて、それも消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に投入してしまうことの方がより自然で実行しやすいのであります。
(私〔五井先生〕の横の教えは、いわゆる消えてゆく姿として、何ものにも何事にも想いを把えさせないようにしてあるので、横の教と云いながらも、業生をつかんだ横でなく、縦の教の光り輝く状態と同様になっている)
間71 白光誌新年号に生長の家の教との相違点というご法話の中で、生長の家の縦と横の二元論を私はすっぱりと縦一元に割りきってしまったのです。と書かれていらっしゃいますが先生は常に、あなた方も縦と横との十字交叉の中心の器にならなければいけない、と説いておられるご説と違うように思われますが、この点はどう考えたら宜しいでしょうか。
答 この世の中は、勿論縦の線と横の線があって存在しているのでありますから、私の教も実は縦横の大調和を説いているのですが、私の横は生長の家の教のように分析的ではなく、いわゆる消えてゆく姿として、何ものにも何事にも想いを把えさせないようにしてあるので、横の教と云いながらも、業生をつかんだ横でなく、縦の教の光り輝く状態と同様になってまいるのです。
ですからひとまず消えてゆく姿を、横の教として、いかなる業想念(怒りや恨みや妬み等々)が出てこようと、どのような病気や不幸が出てこようと、みな過去世からの業因縁の消えてゆく姿であって、消えてゆくに従って、縦の教である、人間神の子の本心が光り輝いて出てくるのである。と説いているのですから、横の教もやはり、神の子人間としての人間を観じての教なのであります。ですから生長の家の横の教と誤まられないように、縦一元に割り切って、と云ったのであります。消えてゆく姿を横の教として、消えてゆく姿なのだと説いた時には、もはやその横の線は縦の線の光明の中に吸いこまれてしまっているので、その瞬間に縦横が大調和して、天地を通した円光になっているのであります。
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
(図解)