1.正しい祈り方
(ゴタゴタした頭の中の業想念を、神さまの中へ入れちゃえばいい)
「私は世界人類の平和を唱えてから、うちの者の名前をいちいら全部云うんです。それからまた親類縁者の全部を呼んでいるんです」と云うんです。呼んだっていいですよ。だけど本当は呼ばなくたっていいんだ。世界人類の中に全部入っているんだから。ということは、いわゆるゴタゴタした頭の中の業想念を、神さまの中へ入れちゃえばいいんですね。それを教えているんです。種もしかけもないんですよ。(テキストP93)
(世界平和の祈りが一番いい)
短い言葉よりも長い言葉のほうが神さまがよく聞けるだろうと、長い長い唱えごとをするのがあります。「めじをはるかに眺むれば、なんとかでかんとかで・・・」とたくさん祈りを教えるんです。一体どれやっていいかわからないんですね。それよりは、いつでも決まったもののほうがいいですね。心がなれて、リズムに乗ってくる。そうすると知らないうちに、その人たちは本当の世界に入っちゃうんです。だから世界平和の祈りが一番いいですよ。楽でしょ。みんな覚えちゃったでしょ。覚えちゃったということは、自分の中へ入っちゃったことです。(テキストP104)
(『神様のみ心のままに私を使って下さい』 『神様にいのちを捧げます』)
「神様のみ心のままに私を使って下さい」と投げ出すんですよ。「神様にいのちを捧げます」というんですよ。そうすると、この一念――これが一念の念仏なんです――をしたら、もうあとはいいんです。(テキストP179)
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〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
法然上人 :百万遍の念仏
親鸞上人 :一念の念仏
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(神様に全部まかせると、神様のほうから自然に動かされる)
よく「神様にまかせろ、といったって、まかせはするけど、どうやって生きていいかわからない」という人があるけれど、それはウソです。神様に全部まかせると、神様のほうから自然に動かされます。私がその体験者だからね。(テキストP162)
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〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
業想念があるうちは、業想念が邪魔をして、神様のほうから自然に動かされない。
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(世界人類が平和でありますようにと、日日瞬々生活していると、神さまのみ心の中に入っていく)
(世界平和の祈りの中に)すっぽり入るためにはどうしたらいいかというと、たまたま思ったって、そんなものは力になりません。お金をためるにしたってそうです。たまに、一年にいっぺんぐらい百円位入れたって溜まりません。貯金箱に毎日毎日百円入れれば溜まります。それと同じように、想いというのもそうなんであって、祈り言葉に高めあげて、世界人類が平和でありますようにと毎日毎日、日日瞬々をそれで生活していると、自分の想いはいつも、自分の業を持ったままで神さまのみ心の中に入っていくわけです。
(テキストP202)
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〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
一日に祈る、具体的な時間の目安としては、(ながらの祈りを含め)1時間ぐらいが良い。
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(『守護霊さん守護神さん』と思って守護霊守護神の中へ入ってゆくと、三界(因縁因果の法則の世界)を超越して、運命の修正が行われる)
そこで守護霊さん守護神さんがついている。前にやった悪いことが、たとえば一万なら一万の悪いことをしても、その人が「守護霊さん、守護神さん」と思って、守護霊守護神のほうへぶつかって入ってゆくと、このグルグル回っている業想念の潜在意識まできて、そこをくぐって守護霊守護神の中へ入っちゃうんです。そうすると、業想念の三界をこえてしまって、神さまの世界へ自分の想いが入っているんです。グルグル回っているものも、ちょっとふれるぐらいで、たとえば一万も千万も借りがあっても、それが百か十かで済んでしまうもんです。それを運命の修正というんです。
(テキストP34)
(業を消してくれるのは、守護霊と守護神です。自分が消そうとすると、それが我になって、自力になるから苦しくなっちゃう)
うちの教えの一番の特長は″消えてゆく姿″という真理を徹頭徹尾やっていることなんです。消えてゆく姿をはたから応援して、どんどん業を消してくれるのは何かというと、守護霊と守護神なのです。自分が消すわけじゃない。自分が消そうとすると、それが我になりまして、自力になるんです。自力になるから苦しくなっちゃう。「私はこんなに消そう消そうと思っているのに、いつまでたっても消えない」とかね。それは自分が消すんじゃないんです。自然に消えてゆくんです。ということは、守護霊守護神が消してくれていることなんです。神さまが消してくれている。(テキストP73)
4.観念的実相論の欠陥
(無い、ない、無いではわからない)
ところが無い、ない、無いではわからないでしょう。どうしてわからないかというと、いろんな想いがあるからです。悲しい想いもあれば、恨みの想いもあれば、妬みの想いもあれば、病気もあれば、貧乏もあります。そういういろんな想いがあるんだから、無いではわかりませんね。
人間の頭というのは微妙なものでして、本当の真理からすれば、無いということも、消えてゆく姿ということも同じなんですけど、消えてゆく姿のほうが無いというよりも、ずっと手前にあって、しかも空(くう)につながってゆくわけです。自然で無理がないんです。たとえば病気が現われているのに、生長の家は″ない″という。嘘ではない、本当のことなんだけれど、病気が現われても「それは無いのだ」と云うんです。貧乏なように見えても「それはないのだ」悪が現われても「それはないのだ」と云うんです。それはそうです。般若心経は「ない、ない」と云っているんですから。
(テキストP11)
(悪は無い、と教わると、自分を責めることになってしまう)
たとえば「病気は無い」と教わるとします。病気はない筈なのに自分が病気になったとすれば、或いは人が病気になったとすれば、どこかに間違いがあるということになります。「あなたの心の中に間違いがあるから、病気になっているんだ」となる。ない貧乏をしているわけですね。ない不幸になってるわけでしょ。ない不幸があるとすれば、それはその人が間違ってることになるでしょ。そうすると自分で自分を責めることになっちゃうんです。「あゝ自分の心に何か間違いがあるから、不幸になったんじゃないかしら」と思う。大体どこの宗教でも、自分を責めることを専一にしているんですね。
(テキストP106)