(今日までの世界観では、人類滅亡の戦争が起こってしまう)
何処の国も言うであろう。「相手が武力を増強しているのに、我が国だけ武力を捨てるということなどできる筈のものではない」と。今日までの世界観からすれば、理の当然であって、尤なることである。
ところが、そうした心の状態でいたのではいつ迄も平和は達成されないし、やがては、地球人類滅亡の戦争が起こってしまう。痛しかゆしなのである。(テキスト序文)
(国民にしっかりと国家を守る自覚を持たせるのがよい)
政府として、何故真正面から、国家は国民全体が守るもので、国民が真剣に国を守る気にならなければ、政府の力だけでどうなるものでないことを、はっきり言明して、国民にしっかりと国家を守る自覚を持たせないのでしょうか。(テキスト15頁)
(私〔五井先生〕は絶対他力をして、大きな力として甦り、人々に光明を与える立場になった)
私が絶対他力として、自分の肉体身の力を捨てきって、神霊の世界の中に身心を投げ出した時、私は大きな力として甦(よみがり)り、多くの人々に力と光明を与える立場になることができたのです。(テキスト25頁)
(他力に徹して、神々のみ心に祈り心で結ばれてゆくならば、大きな力を神々から与えられる)
日本が今、他力に徹して、神々のみ心に祈り心で結ばれてゆくならば、武力を制し、天変地変を鎮める大きな素晴しい力を神々から与えられるであろうことを、私は深く信じております。
(テキスト25頁)
(他力行即神我一体の道が、今日から開けてゆく)
その一員として皆さん、是非是非世界平和の祈りを祈りつづけて下さい。法然、親鸞の、個人的他力行から、人類そのものの他力行即神我一体の道が、今日から開けてゆくのであります。
(テキスト25頁)
(自己保存の本能は、一口に善いとか悪いとかいえることではない)
この肉体身を護ろうとする、自己保存の本能は、神性をすっかり現わしきっている人以外は、何人(びと)といえどもっているものでありまして、この本能の故に、文明文化の華も今日のように開いてきたのでありますから、一口に善いとか悪いとかいえることではありません。(テキスト46頁)
(知性的に考えた自己保存の生き方でなければ、万物の霊長たる人間の生き方ではない)
自己を護るからには、単なる本能的な自己保存の気持を一歩脱(ぬ)けでて、智慧にうったえ、知性的に考えた自己保存の生き方でなければ、動物の自己保存の本能と同一の軌道を歩いていることになります。それでは万物の霊長たる人間の生き方とはいえません。(テキスト47頁)
(祈りの集団がしだいに拡大してゆくことにより、肉体身の自己保存の本能が、神の光明による、神の守護の力に変化してゆく)
一人の祈りが、しだいに集団の祈りになり、その祈りの集団がしだいに拡大してゆくことによりまして、地球世界を蔽っている、業想念波動はしだいに浄められていき、肉体身の自己保存の本能が、神の光明による、神の守護の力に変化してゆくのであります。神我一体の人類の護り、ということになってくるのであります。
(テキスト57頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
集団で祈ることで、大きな力が発揮される。
(世界平和の祈りこそ、個人が人類に貢献する唯一無二の祈り言)
世界平和の祈りこそ、個人が人類に貢献する唯一無二の祈り言であるのです。(テキスト58頁)
(宗教者が敵を認めたり、武力の拡充を唱えるようであっては、宗教の本質を逸脱してしまう)
宗教者が敵を認めたり、武力の拡充を唱えるようであっては、宗教の本質を逸脱してしまいます。宗教者はあくまで絶対平和論者であって、人類の殺傷沙汰を未然に防ぐ方向に人類全員を導いてゆかねばならぬ天命を担(にな)っているのです。
(テキスト??)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
上の文章は、S教団の教祖のことをいっている。
(祈りによる観の転換)
“あの人の天命が完(まつと)うされますように”(中略)
私とあの人の想いが調和致しますように。(中略)
これは一つは自己の観の転換方法でもあり、実際には、現在の地球人類の住む世界よりはるか高次元の世界の大光明波動圏にこの世の波をひきあげてゆく祈りでもあるのです。(テキスト63頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
争いの波⇒(転換)⇒神
(世界平和の祈りに徹した生き方が、真実の世界平和をつくり出す唯一の道)
世界平和の祈りに徹した生き方こそ、真実の世界平和をつくり出す唯一の道だと説きつづけているのであります。(テキスト74頁)
(キリストは、神殿の道にある店をこわして歩いた時でも、人を殺傷したりしていない)
神にそむくものは打ち滅ぼしてもよいのだ、神を信ずるものは、悪を憎むべきだ、などといっている人々は、イエスが神殿の道で商売をしている人々の店を、片っばしからこわして歩いたことを例にして、キリストでも神を穢すものは、打ち叩いて歩いた、というのでありますが、キリストが店をこわして歩いたのは、神殿は浄いところであって、不浄な行をするところではないことを知らせるために、少し強くその教えを行為にして現わしただけであって、その人たちを殺傷したりしたわけではないのです。(テキスト80頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
聖書のこの部分を拠り所として、悪に対抗する為に、軍備拡張しようとする政治家が、西洋にはいる。しかし、イエスは人を殺傷したことは一度も無い。
(悪を嫌うことはよいが、悪を憎むのは、神の調和のみ心に反する)
悪を嫌い、悪をなくそうとする気持は当然なことであり、そうあることによって、この世が善くなってゆくのでありますが、憎むという気持は、その憎しみの感情というものが、自分自身の心を傷つけ痛める感情なので、うちなる本心、神のみ心を傷つけることになって、その感情そのものが、神の調和のみ心に反することになるのです。
そこで、悪を嫌うことはよいが、憎むという感情になると、その憎むという感情が、かえって悪になってゆくのですから、やはり憎悪の感情は宗教信仰者にとっては、マイナスの感情であるということになります。(テキスト83頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
悪を嫌うのは良いが、悪を憎むのは、宗教的に良い事ではない。
(自分の心に、人間は神の子なのだ、といいきかせても、自分の心が納得しない)
この現象の世界は、どのように美化してみようとしても、悪や不幸が眼につきます。人間はすべて神の子で、不完全なものはないとか、悪い人はないのだ、といってみても、実際問題としては、良心のまるで無いような悪い人がおりますし、残虐そのもののような人もおります。
個人個人の心をのぞいてみれば、殆んどの人が、自己本位でありまして、自分を護るためには、少しぐらいの他人の不幸や不為には、眼をつむって知らぬ顔していなければ、上手な生活ができないようになっているのが、現象世界の状態です。 これが神の子の姿なのか、と思わずにいられぬようなことが、しばしばあります。ですからいくら自分の心に、人間は神の子なのだ、悪い人はいないのだ、善い人ばかりなのだ、といいきかせても、とても自分の心が納得しません。(テキスト104頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
ここに出てくる神の子観を、観念的神の子観という。
(消えてゆく姿で世界平和の祈りという教えは、観念的な神の子観とは違う)
私の消えてゆく姿で世界平和の祈りという教えは、私の体験を通して生れ出たもので、観念的な神の子観とは違うのです。観念的に人間は神の子であると思おうとしても、業想念の壁がありますと、どうしても、実際生活では人間自体を善悪混交のものとして対してしまっていまして、人間の本質と業想念とをはっきりわけて思うわけにはゆかないのです。そういう観念論的な神の子観の生活は、なかなか神と人間とのつながりを、親と子との間のような実観に結びつけることはできません。(テキスト105頁)
(世界平和の祈りの日々を送っていると、人間神の子の実観ができてくる)
世界平和の祈りの日々を送っていますと、観念論的に人間神の子と思おうとしたり、心の中からでてくる想いを押えつけながら、あの人はいい人なのだとか、あのことはよかったのだとか、無理に善いことに結びつけるようなことをしなくとも、世界平和の祈りの日常生活から、知らないうちに神への親近感が湧き出てくるし、人に対する温かい柔かい愛情がでてくるので、いつの間にか、人間生命と業想念波動とは別のものであることがはっきりわかってきて、罪を憎んで人を憎まずよりも、もう一歩進んだ自然法爾(じねんほに)的な人間神の子の実観ができてくるのであります。
(テキスト106頁)
(人間の誤った想念行為、つまり業想念は、消えてゆく姿と説く)
そこで私は、人間の誤った想念行為、つまり業想念を、一度びはっきり認めさせ、それを現在のものと固定させないで、過去世のものとして現在に結びつけ、流動性のものとして、消えてゆく姿と説くのであります。そしてその消えてゆく姿を、神の救済の光明心の中で消し去って頂くよう祈るのであります。(テキスト108頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
今は、業は存在する。⇒ (業は、時間とともに消えてゆく)⇒未来においては、業は無い。
(易行道浄土門的法華経)
(テキスト220頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
五井先生の教えは、易行道浄土門的法華経である。これは、他力行即神我一体と似ている。世界平和の祈りで他力をしていると、いつのまにか神の子の本質が現れてきて、世界が平和になる。他力の心境がすすむと、法華経の境地(『我は神(仏)なり』)が、自然法爾に現れてくる。