(わざとらしさというのは神さまのみ心に通じていない)
わざとらしさというのは神さまのみ心に通じていないのです。神さまのみ心と一つになるとわざとではなくて、自然にニコニコする。自然に明るい感じがする。おのずからになる。
おのずから、というのは天からのものでしょ。みずからというのは自分のものですね。おのずからとみずからが一つになって、ぴったりして天地一体になって行ないが出てくるわけです。
汝の敵を恨まないのでも、恨んじゃいけない恨んじゃいけない、と心臓をバクバクさせてやっている。そうすると自分の中にぐっと詰まってくるでしょ。潜在意識に入るからどこかで思わないところで爆発してしまうんです。ですからその時パーッと出してしまったほうがかえって楽なくらいです。だからわざわざやるというのは私のとるところではないし、私の教えはそういうものではない。自然にニコニコしてくる。自然に明るい心が出てくる。自然に他人に愛を行ずる。そういうものでないと、幽界霊界へ行っては通用しない。あの世へ行ったら抑えているものでは駄目です。必ず出て来ますからね。自然な愛情、そういうものが大事なことなんです。
(テキストP17)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
五井先生の教えでないもの
×わざとらしさ。
×わざわざやる。
(例)光明思想徹底行
感謝行
五井先生の教え
○自然にやる――自然法爾(じねんほうに)
(例)自然な光明的発言
自然な感謝行
自然な愛行
(祈り心を根本にして当たり前な生き方をするのが、世界平和の祈りの生活)
そして祈り心を根本にして当たり前な生き方をして行けばいいのです。そうすれば自然に良い生活が出来てくる。神のみ心、神の子の姿がそこに必ず現われてくるわけです。それを私が教えているのだし、それが世界平和の祈りの生活なんです。
(テキストP24)
(理論的には人間は神の子である。しかし、そこが問題だ。)
何故ならば、誰に救ってもらわなくたって、人間は神なのだ。本来が神の子なのだ。だからそのまま光り輝いているものなのですよ。理論はそうなのです。そうなのですが、さて、そこが問題なのです。ああ、理論じゃそうなのだ、私は神の子で光り輝いている、と本当に心の底から思える人があったならば、五井先生もいらない、なんにもいらないんだ。そのまま救われている。そこを生長の家などは言ったのですよ。(テキストP33)
(積もっている神さまから離れた想いを、どうやって消すのか?)
人間は完全円満で神の子なんだ、と言うのです。ところが実際には、自分は神の子で完全円満なのだ、と本当に心の底から思える人がいないのです。思えないから不幸も出てくるでしょうし、貧乏も出てくるでしょう、病気も出て来ますね。どうして完全円満な神の子に病気や不幸が現われるか。ここで疑問が出てくるんですよ。そうすると、この完全円満な神の子に不完全な姿が現われたのは、お前の心の影なのだよ、と言った。完全円満な神の子が“お前の心が悪い”という、その悪い想いはどこから出て来たのか、ということですね。
それは神さまから離れた想いがそうなのだ、と言います。神さまから離れた想いがだんだん積もってくる。積もってきたものをどうやって消すのか。自分でなくすのか――ここへくるんですよ。そうすると、もうどこの宗教もどうにもならなくなる。ここでつまっちゃう。
(テキストP34)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
古い光明思想 |
「あなたは神の子だ」 |
←→ |
「お前の心が悪い」
(心の法則――
善因善果・悪因悪果) |
矛盾する二元論 |
「悪は無い」
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五井先生の光明思想 |
「あなたは本来神の子だ」 |
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「悪(不完全)は消えてゆく」 |
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心の法則はいらない |
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(観念論など、三文の値打ちもない)
完全円満な神の子に何故悪いものがあるのか?悪い心があるのか?悪い運命があるのか?このように世界が悪いのか?そうするとそれは神を離れた想いがマイナスとなって業になって来たからという。そこまではいい、そこからが大事なのです。その神を離れた想いが現われて来た時に、私のように、それは消えてゆく姿なのだ、とやれば問題はないでしょう。
人類が争っているのは、争っている想いがあるから、その争っている想いをなくせばいい、敵をやっつける想いをなくせばいい、あなたの怒りの想いをなくせばいい、恐怖の想いをなくせばいい、人を疑う想いをなくせばいい、人間は完全円満で、実相は神の子だから、人を悪いと思う想いをなくせばいいとこう言うんです。
誰がそれをなくすの?誰が?なくすのは自分でしょう。さて、自分でなくせますか?自分は泥の中へ入っちゃって、ぶくぶくしていて救えますか?焦れば焦るほど抜けなくなります。そこが生長の家などの間違ったところなのですね。生長の家とか修養というものを長くや
っていると、ますます自分が苦しくなってくる。初めは神の子完全円満である、とパーッと嬉しくなるけれども、さてだんだん深く入ってくると、神の子が何故不幸になっているか、という疑問がわいてくる。そこで本当に悩まない人は、自分でごまかしているだけなのです。頭の中でごまかしている人は悩まない、悩まないけれど悩んでいるんですよ。悩まないように見せているだけなのです。知識で、観念でもって、神の子だ、完全円満だ、と慰めているだけなのです。それでは運命もよくならないし、本当に悟れやしない。
何故悟れないかというと、業をそのまま置きっ放(ぱな)しだから。それで頭の中で、ただ神の子完全円満だ神の子完全円満だとやっていて、どうして救えるものか。世界が悪いのは、アメリカやソビエトが争いの想いを出しているからだ、だから争いの波をなくせばいいと言う。一体誰がなくすのか。ソビエト自身、アメリカ自身がなくさない以上なくならないでしょう。誰が勧告しにゆくの。双方になくせ、と言ったってなくならないでしょう。そういうのは観念論というのです。言葉のあやにすぎない。そんなものは三文の値打ちもない。なくせないから。(テキストP35)
(悪や不幸は無いというのは間違ってはいないが、一寸ゆきすぎである)
そうした宗教団体でも一番いいのは″生長の家″なのです。人間は神の子であって、完全円満な本体を持っているんだ、ということをズバリと言っているのは生長の家なのです。病気というものも、不幸というものも、災難というものも、そんなものは無いんだ、というのは一寸ゆきすぎなのだけれど、真理なのです。一つも間違っていないけれど、少しゆきすぎただけなのです。それで「お前の心の影なんだ」と心の法則が出て来た。それは生長の家ばかりでなく、PLや天理教だの何々教だのがそれなのです。お前の因縁なんだ、お前の心なんだ、というのはどこの宗教にもあるのです。
生長の家はそれをやらなければよかったんだ。そうすれば神の子だけが生きたんだけれどもね。人間は完全円満な神の子なんだ、肉体は無いんだ、と言った。ところが肉体があります。病気もあります、貧乏も出て来ます。そこで、神の子なのにどうして悪があるんだ、貧乏があるんだ、病気があるんだ、貧乏が出たのはどういうわけなんだ、と突っ込まれます。そうすると困ります。今度は実相の世界には病気は無いんだ、実相の世界には貧乏は無いんだ、と言い換える。それで現象として現われている世界の貧乏や病気や不幸などは、お前の心か悪いんだ、とこうなって来たのです。メンタルサイエンス、精神科学というのです。そこから生長の家の間違いが始まってくるのです。
私のように、本来そうなんだから、今現われている業や悪や不幸や貧乏や争い事は、今のあなたが悪いのではなくて、過去世の因縁、つまり過去世で神仏(真理)からはなれていた想い、人間は神の子だと思わなかった想い、人間と神とは別々だと思っていた想いが、そのマイナスが今現われて来て、病気や不幸や貧乏になって現われて消えてゆくところなのだ、とこうやればよかった。そうやらなかった。それは私の役目だから仕方がない。私のために神さまがとっておいてくれた。
(テキストP58)
(実相は完全円満、現象はお前の心の影だと教え、矛盾する二元論になってしまった)
谷口先生は何をやったかというと、無いということをやった。現象というものは、思う通りになる世界だから、お前たちの思う通りになるんだから、病気もお前が作る、貧乏もお前が作るのだし、不幸もお前が作るんだ――これは本当なのです。そうすると神の子の完全円満が本当なのか、貧乏や病気を作るのが本当なのか、どっちがどっちだかわからなくなってしまった。こっちは実相でこっちは現象というのですが、実際には現象に生きているのでしょう。肉体のAならAを見て、BならBを見て、何々さんはいい人だな、何々さんは悪い人だ、なと言うわけですね。
実相は完全円満、現象はお前の心の影と別々に分けた。そうすると実相と現象の二元論になってきた。(テキストP60)
(人間は完全円満なのだ、で入ってゆくと、自分は神の子だと威張りながら人を見下すようになるか、私はダメな人間だなと思って自分を責めぬいてしまうことになる)
人間は完全円満なのだ、で入ってゆくと、その中でも二つ出来てしまう。一つは、なにがあっても神の子なんだから、なんでもないんだ、俺は神の子だ、とやる。青年にはよくあるのです。
病気をしている人があると「神の子が病気していることがあるか、神の子は完全円満、病気なぞない、ふとんをたたんですぐ起きなさい」とやるんですよ。病人は苦しくてハアハアいっている時にね。これが姑と嫁さんになると大変。姑が生長の家で、完全円満を知っている。嫁さんが病気で苦しい、熱があって、ねている。すると、嫁の中に病みたい心があるから、働きたくない心が病になって現われて寝ているんだ、起きなさい、病気は無いんだ――こういう話が随分あるんです。
姑さんにそう言われるものだから、嫁さんは苦しいのに起きているうちに、大病になってしまう、というようになったりする。
自分は神の子だ神の子だと威張りながら、人を見下して、それは神の子を知らない奴だ、と自分だけ偉くなったような気がして、他の者はみんなバカに見えて、他の宗教をやっている者はみなバカに見える――そういう形になってゆく。
それからもう一つは、人間神の子だ、と頭でわかった。それでたとえば失敗をします。あるいは悪い想いが出てくる。あるいは病気をすると、自分は神の子だと知っていますから、どうして病気をするのか、どうしてこんな悪い想いが出てくるのか、私は神の子私は神の子と言いながら、私はダメな人間だな、ダメだダメだと思ってしまう。心が行かないで、頭だけ神の子の中へ行ってしまったから、私はなんて悪いやつだろうと自分を責めて責めて、責めぬいてしまう。それで病気が重くなったりしている。(テキストP60)
(心の法則は始末に困る。これを他人に向けると、人をやっつけることになる。)
この世は想いの世界だから、あなたの思う通りの世界が出てくるんだ、あなたがこれは出来ると思えば出来るんだ、出来ないと思うから出来ないんだ、お前さんの中に痛む心があるから痛むのだ、お前さんの中に貧乏な心があるから貧乏になるんだ、とこうやる。これは生長の家ばかりではありません。他の教団もあなたの因縁ですよ、とやっています。
これは始末に困るのです。たとえば病気になる。そうすると私の心のどこが悪いのかしら、私のこの病気の原因はどこだろう、とさぐり始める。
私ならば、病気が現われたら消えてゆく姿だ、これでよくなるんだ、とやるでしょう。さっぱりしますね。それを、消えてゆこうとする想いを追いかけて、原因を追求しようとするのです。私はどうして肺病になったのかしら、私狭い心があったかしらとやる。まだ自分を追いかけているうちはいいんだ。こんどは人をやっつけることになるのです。(テキストP60)
(心の法則は、人を偽善者にする)
そういう霊覚がないから、形式だけの思う通りになる世界、心の法則で、お前の心が悪いというほうに持っていってしまうのです。そうすると言われた方も言う方も苦しんでしまう。病気が出てくると、なんの心の現われかと思う。ですから生長の家の仲間たちには本当のことが言えないのです。たとえば私がこの間熱を出して、どこかが痛くて、と言いますと「あなたは神の子でしょう、病気は無いんです」とこうやられるでしょう。そう言われると、いかにも自分は程度が低くて、心境が浅いように見えますね。だから親しい友だちにも病気の話はあまり出来ないのです。病気すればあなたの心が悪いから、あなたが足らないから、と言われるでしょう。貧乏すればあなたが足りないから、失敗すればするで、あなたの心が足りないから、とやられます。だから一寸古くなると、もうなんにも訴えられない、何も言えない。だんだん偽善者になってくる。
自分の心をいつわって、本当は姑と嫁が仲が悪かったり、夫とうまくゆかなくても、うまくいっているような顔をしている。顔だけですよ。心は違っている。心の中に自分の想いを押しつめて、いかにも私は悟っています、てな顔をしなければ付き合いが出来ない。そうなってゆくと偽善者になる。私のところに来ている生長の家の人たちは、みんなそういう苦しみからぬけて来たのです。
(テキストP65)
(世界平和の祈りは世界最高の祈りである)
平和の祈りは世界最高の祈りなんだから、人類が平和になるということは神さまのみ心だから〜
(テキストP55)