〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
このご本は“理想と現実を説いた本”である。
今回の講義は、質問形式で行われました。
- (質問1) 理想(キリストや老子の言葉)はすぐに実現できるか?
- (質問2) 真理の言葉はすぐに実現できるか?
- (質問3) 消えてゆく姿の教えは消極的か?
- (質問4) 真理の行為とはどんな行為か?
- (質問5) 実相論で業を否定できるか?
- (質問6) 中庸の生き方とは何か?
(キリストの真理の言葉)
「我なんぢらに告ぐ、何を食ひ、何を飲まんと生命のことを思ひ煩ひ、何を著んと体のことを思ひ煩ふな。生命は糧にまさり、体は衣に勝るならずや。空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之よりも遥かに優るる者ならずや。汝らの中たれか思ひ煩ひて身の長一尺を加へ得んや。又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、労せず、紡がざるなり。然れど我なんぢらに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その服装この花の一つにも及かざりき。今日ありて明日、炉に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装ひ給へば、まして汝らをや、あゝ信仰うすき者よ。さらば何を食ひ、何を飲み、何を著んとて思ひ煩ふな。是みな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天の父は凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。まづ神の国と神の義とを求めよ、然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦労は一日にて足れり。(マタイ伝第六章二五−三四)」
(テキスト9頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
異邦人とは、キリストの福音を信じない人のこと。
(キリストの真理の言葉)
「われ地に平和を投ぜんために来れりと思うな、平和にあらず、反って剣を投ぜんために来れり。それ我が来れるは人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑より分たん為なり。人の仇はその家の者なるべし。我よりも父または母を愛する者は、我に相応しからず。我よりも息子または娘を愛する者は、我に相応しからず。又おのが十字架をとりて我に従わぬ者は、我に相応しからず。生命を得る者は、これを失ひ、わがために生命を失ふ者は、これを得べし。
汝らを受くる者は、我れを受くるなり。我をうくる者は、我を遣し給ひし者を受くるなり。預言者たる名の故に預言者をうくる者は、預言者の報いをうけ、義人たる名のゆゑに義人をうくる者は、義人の報を受くべし。凡そわが弟子たる名の故に、この小さき者の一人に冷かなる水一杯にても与ふる者は、誠に汝らに告ぐ、必ずその報を失はざるべし」(10・34〜42)
(テキスト112頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
ここでキリストの言っている平和とは、偽善的な平和のこと。
(老子の真理の言葉)
「吾の大患有る所以の者は、吾、身と有とする為なり。吾、身を無とするに及びては、吾に何の患(わずらい)か有らん。故に貴びて身を以て天下と為せば、以て天下を寄す可し。愛して身を以て天下と為せば、即ち以て天下を託す可し。」 (老子道徳経第十三章)
(テキスト137頁)
(無い無い、といったり想ったりしているだけでは、悪い波が無くなることはない)
光明思想家は、無明など神の光のささぬ、はじめから無いものだから、こういうものは相手にせず神の光から生れた神の子としての人間だけを真理として生きてゆこうというのであります。そうすれば、人間の世界に、悪や争いや不幸などはなくなってしまう、というのです。本当にごもっともな話であり、私などもこういう例の人間なのでありますが、実は困ったことに、今日の世界は、あまりにも長い間無明から生れた業をつかみすぎていまして、悪や不幸を強く意識しすぎているのであります。
ですから、この世には悪や不幸や災難が一杯で、そんなものは無いのだよ、といっても、現象生活でいろいろと苦難にあっています。理論的に頭で光明主義が判っていましても、現実に、自他の苦難にぶつかりますと、どうしても、そういう苦難をつかまずにはいられなくなってしまうので、無明は無いのだから無い、といっても無明から現われた不幸や苦難が、自分にも社会にも押し寄せておりますと、無い無い、といったり想ったりしているだけでは、そういう悪い波が無くなることはないのです。 (中略) この世の善悪混交の不幸災難を認めざるを得なくなって、徹底した神の子という観念がゆらぐのであります。(テキスト127頁)
(人間を神の子である、と想おうとして、無理な想いがそこに働く)
それはどうしてそうなってしまうのかと言いますと、この世の人間界に、悪や不幸が無いと言いきろうとするところに無理があるのでして、人間は光そのままの神の子であることに違いはありませんが、この五感、六感で生活している地球世界に悪も不幸も争いもないなどとはとてもいいきれませんで、人間を神の子である、と想おうとしての無理な想いがそこに働いているわけです。(テキスト129頁)
(真の光明思想では、悪や不幸を認めはしても、その状態を実在とはみずに、いつの間にか消滅してしまう方法を知っている)
この世には悪や不幸があることは、光明思想からみても認めざるを得ないことです。しかし真の光明思想では、その悪や不幸を認めはしても、その状態を実在とはみずに、いつの間にか消滅してしまう方法を知っているのであります。(テキスト130頁)
(悪も不幸も争いも無いのだ、と想いの世界だけで否定しても、そこは無理がある)
この現実の世界で現象的に現われております、悪や不幸や災難を悪も不幸も争いも無いのだ、というように実相論の想いの世界だけで否定しようとしても、そこは無理がありますので、心が納得しません。したがって、悪や不幸や争いが無くなるわけはありません。(テキスト130頁)
(私〔五井先生〕は、悪や不幸を一度は認め、『消えてゆく姿してあるのだ、消えてゆく姿として、神のみ心の中に投げ入れてしまえばよいのだ』 と説く)
ですから私はどうしても一度は認めて、そしてこの悪や不幸は、人間の本質の神の子である本体から離れて、物質界に住みつこうとしている、過去世から今日までの誤った生き方自体の消えてゆく姿としてあるのだと、この姿は実在ではないので、消えてゆく姿として、神のみ心の中に投げ入れてしまえばよいのだ、と説いているのです。(テキスト130頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
五井先生のみ教えは、中庸光明思想。
(“病気はない”という、すごい真理の言葉で病気が治るのは、最善の方法とはいえない)
この世は仮の姿であって、この肉体も実はあるようにみえるけれどないのだ、だから肉体なしである。そこで無い肉体に病気があるわけがないので、病気もないのである、と病気を治している宗教もあるけれど、これはすごい真理の言葉で、一時その場のくもりがひそんでしまって、病気が治るようになるのであります。けれども実際に悟って治ったのではなく、一時的なショックで治ったので、最善の方法というわけにはいかないのです。(テキスト141頁)
(頭で自分の本体は神の光と想おうとしても、行動は肉体人間の自分の行為になってしまう)
しかしどうも、人間はあまりにも肉体に把われ過ぎておりますので、頭で自分の本体は神の光と想おうとするのですけれど、実際の行動はやはり肉体人間としての自分の行為になってしまう、というのが現状です。(テキスト168頁)
(自分は神の子だと、頭で想うだけでなく、祈り心になりきって、神の光の中に想いを入れきってしまうことが必要)
そこで、その把われを超越する為に、祈りというものが必要になってくるのであります。自分は神の子だと、頭で想うだけでなく、祈り心になりきって、神の光の中に想いを入れきってしまうのです。(テキスト168頁)
(『世界人類が平和でありますように』の唱え言の中で、いつの間にか、神の子人間の自己が現われてくる)
「世界人類が平和でありますように」の唱え言の中で、いつの間にか、肉体人間の感覚を超え、神の子人間の自己が現われてくるということになるのであります。(テキスト170頁)
- (回答1) 理想は、すぐに実現できない。
- (回答2) 真理の言葉は、すぐに実現できない。
- (回答3) 消えてゆく姿の教えは、中庸の教えである。
- (回答4) 真理の行為とは、イエスキリスト、老子の言っている言葉である。
- (回答5) 実相論では、業を否定できない。
- (回答6) 中庸の生き方とは、理想にも現実にもかたよらない生き方である。