〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
般若心経は、釈尊が舎利弗(しゃりほつ)に対して説いたものだということが大事。
内容が宗教の一般者向けではなく、舎利弗のような優秀な高弟に対して説いたものなのである。
『色即是空、空即是色』の原理が分からないから、世界平和の祈りから、自力行や念力行に走ってしまう。
(仏教の一番の極意が「色即是空、空即是色」という言葉で表現されている)
或る日、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)が深般若波羅蜜多(じんはんにゃはらみった)、つまり深い統一に入りました時の悟りの言葉なのです。というよりお釈迦さまの悟った言葉が般若心経という経文になっているわけです。仏教の一番の極意、根本思想が「色即是空、空即是色」という言葉で表現されています。
(テキスト10頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
色=色素、物質、想念
(空というのは、仏教の極意ですが、空になることは実に難しい)
色(しき)は空(くう)に異(こと)ならず、空(くう)は色(しき)に異(こと)ならず。〜(中略)〜
空というのは、仏教の極意の言葉でして、坐禅観法(ざぜんかんぽう)をするのは、空の心境になるためなのです。ところが空になることが実にむずかしい。(テキスト12頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
全ての物質は空なのだ、無いのだ。
(空というのは、自分の想いが全くなくなってしまうこと)
空というのはどういうことかといいますと、わかりやすくいうと、自分の想いが全くなくなってしまうこと。自我、自我欲望、個人という自分が全部なくなって、大我(たいが)、大生命、いわゆる大神さまの中に溶けこんでしまった人を空の人というのです。
(テキスト14頁)
(肉体人間は、光の波と業想念の波がまざっている)
光の波と自我欲望のカルマというものがまざったものが、肉体に現われている。だんだん浄まり、悟りに近づけば近づく程、その肉体の波は光一元(ひかりいちげん)になってくる。しかしふつうの人は光の波と業想念の波がまざって肉体となっている。
(テキスト16頁)
(想いを神さまのほうに全部投げ入れてしまうと、業想念をきれいに浄めてもらえる)
それが統一会などに来て、想いを神さまのほうに全部捧げてしまう。全部投げ入れてしまうと、神の大光明のほうから光が流れて入って来て、知らない間に業想念をきれいに浄めてくれるものだから、統一(祈り)したあとなどは、光一元になって、きれいな心になり、きれいな魂になり、きれいな体になって帰るわけです。
(テキスト16頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
空は体験しないとわからない。
空になると神様の大智慧大能力が現れてくる。
色即是空の、色は、光の波と業の波の混合したもの。
空即是色の、色は、空になった後の光の波。
(私〔五井先生〕の宗教は、「守護霊守護神さん有難うございます」から始まった)
祈りはいろんな方法があるけれども、どうしたらよいかというと、私が一番初めに考えたのは、守護霊守護神さんに感謝する祈り″守護霊守護神さん有難うございます″だった。こっちは一日の三分の一は眠ってしまうのに、守護霊さん守護神さんは寝もやらず、必死になって守って下さっている。有難うございますという感謝です。これから私の宗教は始まっています。(テキスト23頁)
(想いを、世界人類が平和でありますように、というような大愛慈愛にまでひろめた)
それからその感謝だけではなくて、もっと自分の想いを拡げて、世界人類のために、世界人類が平和でありますように、日本が平和でありますように、というような大愛、慈愛の想いにまでひろめるようにしたわけです。それで世界平和の祈りというのが出来上がったわけね。(テキスト23頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
五井先生の方法=守護霊守護神にまかせることで空になる方法
(自分が神さまのみ心のままに働いている時には、なんにも思わない)
心臓がちゃんとなんでもなく動いている間は、心臓のことは何も思わない。肺のことも思わない。なんにも思わないで働いています。結局、故障が出た時に、今日はどうかなって、思うわけでしょ。それと同じように自分が神さまのみ心のままに働いている時には、なんにも思わないですよね。スースー働いているわけです。(テキスト24頁)
(守護の神霊への感謝の心をもって、世界人類が平和でありますように、と祈りをすると、守護霊、守護神の柱を通って神さまの中に入ってゆく)
自分はいいかな、悪いかな、不平不満がある、いろんな批判がある時には、もう神さまのみ心から外れているんだから、その想いを守護霊さん守護神さん有難うございます、という心をもって、世界人類が平和でありますように、という大きな祈りをするわけです。そうすると、その想いが守護霊守護神さんの柱を通って、神さまの中に入ってゆくわけです。そこでちゃんと軌道に、神さまのみ心にのせてくれるわけです。(テキスト25頁)
(守護霊、守護神にそうしてまかせて、自分の本体の中に入ってしまうと、自然法爾に、ひとりでに、神さまの智恵、自分の本心の能力が出てくる)
そこで話が前に戻りますけども、守護霊守護神さんにそうしてまかせて、自分の本体の中に入ってしまうと、さあ今度は何が出てくるかというと、自分が思いもしないのに、自然に物事が出来てくる。自分が考えもしないのに、パッといい智恵が出てくる。自分が書こうと思わないのに、スッといいものが書けてくる。いおうと思わないのに、いい言葉が出てくる―――というふうに、自然法爾(じねんほうに)に、ひとりでに、神さまの智恵、自分の本心の能力が出てくる。そしていろんなことが出来る。それが空即是色なんです。
(テキスト25頁)
(空になると、神さまのみ心の、本心の中から出てくる能力が、あふれてくる)
空(くう)になると(空になるってパッとなるんではない)守護霊守護神さんに助けていただく、力を借りて空になるのだけれども、そうすると、今度は、実在界の真の神さまのみ心の、本心の中から出てくる能力が、フルにあふれてくるのです。それで何をやっても、自然によくなってゆくようになってくるわけです。
(テキスト26頁)
(守護霊守護神の光にのって、神さまのみ心の中に入ってゆくと、空即是色の空から生まれてくる、光り輝く生き方が現われてくる)
私のやり方が悪い、向こうが悪い、これはダメだ、ああだこうだといっている想いで、ぐるぐる廻っているうちは、いつまでたってもぐるぐる廻っている。それを守護霊守護神の光にのって、神さまのみ心の中に入ってゆきますと、「ああ今日あっちへ行ってみたいな」と行く。そこでもって効果がある。今日はあそこへ行こうかな、スーツと行く。何気なく歩いている自分が、必要な人と会う、というふうに、自然に自然に、守護神さんが使って下さって、本体、本心の力をそこに現わしてくる。そうすると、それが空の状態と同じになりまして、空即是色の空から生まれてくる、光り輝く生き方、自分のためにもなり、相手のためにもなるような生活が自在に、そこから現われてくるのです。それが空即是色で、般若心経の極意なのです。(テキスト26頁)
(世界平和の祈りをして、守護霊守護神に感謝さえしていれば、空即是色の空の心境にいつの間にかなる)
お釈迦さまはそれを悟ったわけです。ところが今のお坊さん方はそれがわからなくて、今ここに現われているものも、空になってから現われたものも、同じように考えていて、みんな仮の姿、仮の姿だと、ただいうだけなのです。この世の中には、仮の姿の現われ、消えてゆく姿だけで現われてゆくものもあれば、実在界の姿がそのまま現われているものもある。それを般若心経で説いているわけなのです。皆さんは、世界平和の祈りをして、守護霊守護神に感謝さえしていれば、自分の想いがいつの間にかきれいに洗われて、空即是色の空の心境にいつの間にかなるわけです。
(テキスト27頁)
(空の心境というのは、ズーッと奥の奥の、奥の空がある)
空の心境というのは、いっぺんなったからいい、というものではなくて、空の奥の又(また)奥の、私が「老子」という詩にも書いてありますが、ズーッと奥の奥の、奥の空があるんですよ。どこまで行っても果てしないような空というものがあるのです。というのは、実在の姿、大神さまの姿というのは、神のみ心というのは、深くて深くて、入っても入っても入りきれない深さ、無限の悟りの段階があるわけです。だから面白い。私は悟った、これでいい、というのではないのです。悟っても悟っても、奥の奥があるような、そういう深いものが大神さまのみ心です。(テキスト27頁)
(霊魂なんてないと言う唯物論者が、死んでからゆく世界)
霊魂なんてない、昔の話だ、などという人をみると、私は可哀想だと思う。(中略) 本当に唯物論者の死んだ先は哀れですよ。(中略) 自分だけで野原を歩いている。行けども行けども野っ原、林の中、田んぼの中、なんにもない。そういうところばかり歩いてゆくのです。(テキスト31頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
親類縁者がお線香をあげると、お線香の匂いが幽界に届く。
お線香の匂いに元気づけられる。菊の花等を飾ると、お花畑になる。
大福を供えると、大福が幽界に現れる。物質要素が、なぜか届く。
ご先祖様の好きなものを、お供えすると良い。
5分ぐらいお供えすれば、十分に要素はとどくので、お祈りしている間にお供えすればよい。
祈れば愛念が届く。
幽界からは肉体界の未来が分かる。
亡くなった人を供養するのは大事。
(守護霊様守護神様と呼ばないと、守られにくい)
私は断言します。守護霊守護神はピッタリくっついています。私には形で見れば形で見えます。波で見れば光の波に見えます。一人の人にふつうは守護霊が三人必ずついています。それから守護神がついています。だから守護霊さん守護神さん、と呼んでいれば、必ず守られます。呼ばなくたって守られています。けれど呼ばないと守られにくいのです。(テキスト33頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
呼ばないと守られにくい。
重大事件にまきこまれるような人は、守護の神霊が゛護ろうとしているのだけれども護りきれない。
守護霊さまに常々加護を願っている人は必ず護られる。守護霊さまに常に加護を願っていることが大事。
(すべてこの世に現われているものは空なんだ、と断じ切った時、はじめて本当の 光り輝くものが現われる)
一遍空(いっぺんくう)にしないと、空と断じ切らないと、本当のものが現われてこない。だから目に見えるもの、耳に聞こえるもの、鼻にかぐもの、すべてこの世に現われているものは空なんだ。そして空だと断じ切った時、はじめて本当の光り輝くものが現われる。五官に感じられ、六感に感じられるものはすべて空なんだ、それに把われてはいけない。あるものではなく、あるように見えていて、空なんだ、と空と断ちきって、それに把われなくなると、空の奥に神仏の実体があるので、空から本当のものが現れてくる。空から現われてくるものが本当の光であり実体なのだ、そこで色即是空、空即是色と並べてあるわけです。(テキスト39頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
空とは虚無ではない。
(空とは虚無だと考えている人が死後に行く世界)
肉体がなくなって、霊界へ行った時には何もないのです。真っ暗な虚無の中を、虚無のあらしが吹きすさんでいる。虚無といったって実際はあるでしょ。あるんですよ、実際は。 そこで何が現われてくるかというと、虚無、光のない闇がそこに現われてくるんです。だから闇の中をトボトボ虚無だ、ないんだ、何もないんだ、虚無虚無って歩いている。のまず食わずで歩いている。のむものも食うものも何もない所を歩くようになるんです。(テキスト40頁)
(空の中から現われてくるものが本当の人間だ、とお釈迦さまは説いている)
空の中から現われてくるものが本当の人間であり、本当の光である。実体が現われてくるんだとお釈迦さまは説いているわけです。
(テキスト44頁)
(霊障というのは、迷った想念が肉体にかかり、おぶさっている状能をいう)
「霊障(れいしょう)の病いと長いこといわれてきましたが、どういうものなのでしょうか」という問いに答えましょう。
霊障というのは、迷った想念が肉体にかかり、おぶさっている状能をいうのです。余計に荷物(迷った人の想い)を背負ったようで、そこだけ重いわけです。それが頭に来れば頭が変になるでしょう。肺へ来れば肺病になるでしょう、というようにさわっている。それが霊障というのです。(テキスト48頁)
(執念深く何十年来もついているのは、一遍や二遍ではとれない)
私たちがそれを見ますと、ああ誰々がいるな、というので気合をかけたり、柏手を打ったりして浄めるわけです。ところが執念深く何十年来もついているのは、一遍や二遍ではとれない。うっかりとると、その人まであの世へ逝(い)ってしまうことになるのです。だから少しずつ少しずつはなし浄めてゆくのです。新しくついたものなら、パッと浄まります。(テキスト50頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
先祖代々から特殊な病気になる、或る年になると同じような事件などが起こるような時には、恨み等のカルマが浄まっていなくてずっと残っていて、子や孫やひ孫の代に現れてくることがある。カルマと縁を切るには、守護霊守護神に祈って、霊を浄めることが大事。あるいは自分が世界平和の祈りを祈って魂を浄めることが大事。
(世界人類が平和でありますようにと願うと、自分のほうに返ってくる)
だから与えよさらば与えられん、で先に自分から与えて、世界人類が平和でありますようにと願うと、自分のほうに返ってくる。
(テキスト56頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
与えよさらば与えられんは、生長の家の谷口先生の造語。
人の為に与えることが大事。与えると返ってくる。世界平和の祈りをいのることは一番簡単であり、世界平和の祈りをいのれば、愛の祈りで与えることができる。
(「・・・だからだめだ」 という叱り文句は、三界の無明の中)
「お前の心が悪いから」 といえば、それは三界です。無明(むみょう)の中です。「お前の心が悪いから、直さなきゃだめだ」 「お前が夫を拝まないからだめだ」
「夫が妻を拝まないからだめだ」 「夫を立ててないからだめだ」 と″・・・だからだめだ″という叱り文句、小言、″こうしなければならない” というやり方、修養は、やらないよりはいいに決まっているけれど、逆の場合もずいぶんある。それはあくまでも転倒夢想(てんどうむそう)した人間を、実在とみて、迷いのある、不幸のある、悪い心を持っている人間、悩みを持っている人間を、そのまま実在だとみて、「お前が悪いからこうしなきゃいけない」
「ぶつぶついうからおできが出来た」 「その家にいたくないから痔が悪くなった」ということになる。(テキスト66頁)
(三界の迷いの中で、心をよくしようと思ったってよくならない)
三界という迷いの中で教えているわけですが、迷いの中でいくら教えてもだめなのです。迷いの中で、心をよくしようと思ったってよくならないんです。一段や二段は上ります。しかし天上界までは上れません。何故かというと、いつも業(ごう)を追いかけ業に追いかけられるからです。(テキスト66頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
三界(心)の法則は、悪を実在とみているので、いつまでたっても天上世界に上れない。
(因縁因果の法則では、救いにならない)
「お前の心が悪いから、よくしなければいけない」 「お前は妬(ねた)みがあるから妬みを直さなければだめだ」 「恨み心を捨てなければだめだ」 とか
「恐れる心があるから、恐れるものはみな来るから、お前は不幸になる」 といわれます。
すると逆になって、気の弱い善人という人は 「私は恐れる心があるから、不幸が来るに決まっている」 「私はどうやっても恨み心がとれないから、だめな人間だ」
「私は短気でしようがない。ああ一生だめなんだ」 というようになってしまうのです。皆さんも経験があるでしょ。
そういう教え方は、三界(さんがい)の転倒夢想(てんどうむそう)した、逆(さか)さまの想いの中の、業(ごう)の中のやり方であって、それでは救いにはならない、と私はいうのです。(テキスト66頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
因縁因果の法則の欠点が書いてある。想念の法則などでいくら良くしようとしてだめ。
(三界のだめだ、だめだという想いは、みんな消えてゆく姿)
ではどうしたらいいかというと、そういう三界のだめだ、だめだという想いは、みんな消えてゆく姿なんだ。人間は神の子で、完全円満なる分霊なんだから、悪いことがありようがない。病気なんかありようがない、不幸なんかありようがない、貧乏なんかありようがない、妬み心も恨み心もありようがないんだ。あるというのは、今あるのではなく、今″神さま!”と思っている自分にあるのではなくて、前の世、前の世からの想いがたまって、今出ているのです。借金したものを、今借金を返しているんだ。返しさえすれば減(へ)ってゆくわけです。返すということはどうすることかというと、神さまの中へ入ってゆくことです。そうすると神さまが返してくれるのです。
(守護の神霊に対して、世界平和の祈りを祈っていると、過去世からの想いが消える)
「守護霊さん守護神さん、世界人類が平和でありますように」とやっていると、神さまのほうから、光明というお金が降ってきて、借金をどんどん返してくれる。
そういう教えを私はするわけです。(テキスト68頁)
(三界の中で、いいとか悪いとかいっても、解決にはならない)
この三界(さんがい)の苦しみに満ち、戦いに満ちている、争いに満ちている、不調和に満ちている想いの中に入っていて、いくらその中で、いいとか悪いとかいって、ぐるぐる廻っていても、解決にはならない。
(テキスト69頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
三界から抜け出ることが大事。
(「ああ、それは消えてゆく姿だな。どうか守護霊さんお願いします」 と祈る)
たとえば「あいつはだめだな」と瞬間的に思う時があったら、「ああ、それは消えてゆく姿だな。あの人は神さまの子が今現われてないんだから、現われるように、どうか守護霊さんお願いします」と何故、祈ってやらないのかと思う。そういうように祈らなければいけないのです。(テキスト73頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
このように祈ることが大事。
(私〔五井先生〕は、天の理想を地の現実に結ぶ方法を考えている)
それを理想としては(中略)と思うかもしれないけれど、実際にはできやしない。それを私はよくわかっているのです。 そこで天と地を、天の理想を地の現実に結ぶ方法を考えているのです。
(テキスト81頁)
(「世界人類が平和でありますように。どうぞ神さまお願いいたします。」と祈る)
「ああ、これは自分じゃどうにもならないんだ。世界人類が平和でありますように。どうか隣の人をお救い下さい。どうぞ神さまお願いいたします。守護霊さん、守護神さん有難うございます。私どもの天命を完(まっと)うせしめ給え、隣の人たちの天命を完うせしめ給え」というように祈るのです。(テキスト83頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
これが祈り方である。
五井先生は文語的な表現をしている。
空になるためには、守護霊さま守護神様お願いします、と神様の中に入ってしまえばよい。
色即是空になれば自然法爾の行動がとれるようになる。
色即是空になる方法。
- 神様有難うございます。 又は
- 神様お願いします。 又は
- 世界人類が平和でありますように。 又は
- 天命を完うさせたまえ。 又は
- あの方の天命を完うさせたまえ。