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世界人類が平和でありますように
ようこそ!全託道場へ
 五井昌久先生の著書を下に、五井先生の真実のみ教えについて講義された森島恒吉先生の講義録(レジメ)です。
 本ページは、五井昌久先生の『愛・平和・祈り』をテキストに為された東京集会での森島恒吉先生講義録の講義録です。
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全託道場山門 私たちの《信条》 森島恒吉先生講義録[目次] 愛・平和・祈り
世界平和の祈りに全託してゆくことが、今日の世界にとって、一番大事なのです。
(五井先生最後のお言葉)
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全託道場 Contents
 Explanation★ 私たちの《信条》

世界人類が平和でありますように

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森島恒吉先生講義録04:

五井昌久先生著
『愛・平和・祈り』




(神は愛なり)
神は愛なりといって、愛の心そのものが神そのものである、とさえいい切っている人もあるのです。愛というのほ、合(あい)、相(あう)という言葉と同じ意味をもっておりまして、自と他とが一つに合する働きをする時に起る心の状態であります。(テキスト7頁)

(愛の心から、憎悪の想いは生じるわけがない)
愛と憎しみとは裏表だ、愛の強い人は憎しみもそれだけ強いのだ、などという人もいますが、それは誤りでありまして、愛と憎しみとは、全然種類の異なった想いで、愛は神のみ心の本質的な心であり、憎悪は、神の中には無い、いわゆる実在的でない想いであり、やがてはこの地球界から無くなりきってしまう、消えてゆく姿的な感情想念であります。
 ですから、愛の心から憎悪の想いは絶対に生じるわけがないので、愛の心は常に光に充ちているのです。ところがどうも、あんなに愛していたのに裏切った憎い奴、という式に、自分の愛が充たされぬと、相手を憎んでしまうのが、世の常の人の想念には多いようです。これは愛する、ということが、光を他に与えることである、という神のみ心、つまり原則を知らないからなのであります。(テキスト8頁)

(愛が恨みに変化したとしたら、それは愛ではない)
如何程愛して裏切られたとしても、裏切られたことは、自己の過去からの業想念の消えてゆく姿として起ったことであって、相手を恨む何ものもないのであります。愛が恨みに変化したとしたら、その愛は、愛と呼ぶべき性質のものではなく、自我欲望の想念行為であったというべきです。(テキスト10頁)

(“愛することは”という詩)
私の詩集「いのり」に″愛することは″という詩があります。あの詩の中で、

愛することが哀(かな)しい時があっても
友よ 愛しとつづけてゆかなければいけない
あなたの愛がたとえ地上に燃える焔であっても
神はあなたの愛が天上界のものであることを知っている
 という一節があります。(テキスト10頁)

(完全なる神のみ心を現わすには、正義心と寛容の美徳との両方が必要)
正義心というのはやはり神のみ心の現れで、この世を善いものにするためには、絶対に必要な心なのですが、正義心の他に真の愛の心の現れの一つである寛容という美徳を兼ねそなえないと、この地球界に完全なる神のみ心を現わすことができないのであります。

(正義の心と寛容の心とが、うまく調和して現わされなければならない)
正義心というのは、とかく裁く心を伴いやすいのですが、寛容という心も、ともすると、悪や不正を見逃しがちになります。そこで、この正義の心と寛容の心とが、うまく調和して現わされなければならないということになるのであります。(テキスト12頁)

(寛容の心は、愛の心の一つの現れ)
 寛容というのは、一口にいって、広く容(いれ)る心寛大な心、というわけですが、この心は愛の心の一つの現れなのです。愛の心は、おもいやりという風にも現われますし、覚容、赦しというようにも現れます。(テキスト12頁)

(思いやりの心)
 思いやりの心は、愛の心が細かい心遣いになって、相手の想いの波に同調しながら光を入れてゆく、ということですから、こちらから相手の心の中に入ってゆくわけです。

(覚容の心)
覚容の方は、相手の心の波、想いの波を、こちら側に受け入れて、自己の心の中で昇華させてしまうことであります。
(テキスト12頁)


〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
寛容心と正義心はどちらか片方だけではいけないが、世界平和の祈りを祈りつづけることによって、寛容心と正義心のバランスのとれた人になることができる。
(参考:寛容心<->正義心。良心は自分の内面へ向かう心、正義心は自分の外面へ向かう心。)

(赦しは愛の心の一つの現れ)
赦しというのも、実は愛の心の一つの現れであるのです。しかし、こう二通りに書き現わさぬと、はっきりわかりませんので、二つに分けたわけです。(テキスト14頁)

(良心は自己を責め裁きがちになる)
この良心という心は、正義心が他を責め裁くという欠点を伴いやすいと同じように、自己を責め裁きがちになるのです。良心の強い人は、ちょっとした誤ちでも自分を責め裁いて、自己の心を措くします。(テキスト16頁)


〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
宗教的な赦しと寛容とは同じ。
許しとは上司が部下に許可するといった場合に使用する文字。

(消えてゆく姿であるとして、自分を愛し、自分を赦す)
すべての業想念は、人間の神性が現われるための、不要なる波の消えてゆく姿であるとして、その消えてゆく姿を縁にして、いよいよますます深か深かと神のみ心の中に入ってゆくのでなければ、自分を愛し、自分を赦すことはできません。(テキスト22頁)

(煩悩即菩提を容易に実現させるのが、祈り)
煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)という仏教の言葉を、容易に何気なく実現させるのが、祈りであるのです。(テキスト22頁)

(世界平和の祈り一念で生きてゆくことが、唯一無二の生き方)
今、世界平和の祈り一念で生きてゆくことこそ、唯一無二の賢明なる生き方となるのです。(テキスト23頁)

(聖書ルカ伝十章)
聖書ルカ伝十章に教法師とイエスとの次のような問答があるのを皆さんもご存知でしょう。
−視よ、或る教法師、立ちてイエスを試(こころ)みて云ふ『師よ、われ永遠(とこしえ)の生命(いのち)を 嗣(つ)ぐためには何をなすべきか』 イエス云ひたまふ『律法(おきて)に何と録(しる)したるか、汝いかに読むか』答へて云ふ。『なんぢ心を尽し、精神を尽し、力を尽し、思を尽して、主たる汝の神を愛すべし。また己のごとく汝の隣を愛すべし』イエス云ひ給ふ『なんぢの答は正し。これを行へ、さらば生くべし』彼おのれを義(ただしくせん)としてイエスに云ふ『わが隣とは誰なるか』イエス答へて云ひたまふ。『或人エルサレムよりエリコに下るとき、強盗にあひしが、強盗どもその衣を剥ぎ、傷を負わせ、半死半生にして棄て去りぬ。或る祭司たまたま此の途より下り、之を見てかなたを過ぎ往けり。又レビ人も此処にきたり、之を見て同じく彼方を過ぎ往けり。然るに或るサマリヤ人、旅して其の許にきたり、之を見て憫(あわれ)み、近寄りて油と葡萄(ぶどう)酒とを注ぎ傷を包みて己が畜(けもの)にのせ、旅舎(はたごや)に連れゆきて介抱(かいほう)し、あくる日デナリ二つを出し、主人(あるじ)に与へて「この人を介抱せよ。費(ついえ)(費用)もし増さば我が帰りくる時に償(つぐの)わん」と云へり。汝いかに思ふか、此の三人のうち、いずれか強盗にあひし老の隣となりしぞ』かれ云ふ『その人に憐憫(あわれみ)を施(ほどこ)したる者なり』イエス云ひ給う『なんぢも往きて其の如くせよ』−
(テキスト24頁)

(ちょっとした隣人愛でさえ、実行できる人は、あまりいない)
第三のサマリヤ人のやったようなことは、して出来ぬことでもなく、自分の生命や地位や名誉に傷つくことでもないのであって、ただ時間的な犠牲と、金銭的な損失だけで出来る隣人愛であるのですが、この程度のことでも、なかなか面倒くさくて、第一、第二の人々のように、知らぬ顔して行き過ぎてしまうのが殆んどの人であるようです。(テキスト26頁)

〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
『心を尽し、精神を尽し、力を尽し、思を尽して、主たる汝の神を愛すべし』とは、誠心誠意心から神様を愛しなさい、ということの強調表現である。

(真理を実行するのは、容易ではない)
ルカ伝のイエスの教えは真理であり、心のひきしまる想いが致しますが、出来るか、といわれれば出来兼ねるというのが普通人の正直な答でしょう。(テキスト33頁)

(不完全なるものまで神の姿の現れであるとするのは、馬鹿気きった教え)
不完全なるものまで神の姿の現れであるとして、その不完全な姿に対して感謝せよ、という誤った教えをしている人があるのであります。これ等は実に馬鹿気きった教えであつて、一般の人にはとても実行出来得ぬものであります。(テキスト29頁)

(宗教というものは、誰にでも判り易く、行い易いものでなければならない)
宗教というものは、どうしても、誰にでも判り易く、行い易いものでなければならないのです。(テキスト30頁)

(肉身の父母を呼ぶような気持で、守護霊さまと心の中で呼ぶ)
肉身の父母を呼ぶような気持で、守護霊さんと心の中で呼んで、いつも護って貰っていて有難う、と感謝を捧げるのです。
(テキスト36頁)

〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
有り難うと感謝が思いにくい人は”守護霊様いつも守りください”とお願いしていると、想念の変換によって”守護霊様いつも守ってくれてありがとう”という感謝の思いに変換される。

(人間の理想を現す一番の近道が、世界平和の祈り)
人間の理想が現実世界に現れてくるのです。その一番の近道が私の提唱している世界平和の祈りであるのです。自分が善い、人が悪いもすべて世界平和の祈りに切り替えて、日常生活を送ってゆくことが、あなた方の救れの道であり、人類を救う、菩薩業でもあることを、確く信じて頂きたいものであります。(テキスト39頁)

(守護霊さまにお願いする)
自分がとやかくいわなくとも、その(子の)守護霊さんにお願いしてさえいれば、子の守護霊さんが、子のためにも自分のためにも万事都合の良いように導いてくださるのだ、と信ずることなのです。
(テキスト46頁)

〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
『守護霊さんお願いします』とお願いしていると、このように自然に信じることができるようになる。

(「神よ、この者たちを赦し給え」)
イエス・キリストが、十字架上にはりつけになった時、自分をはりつけ迄に追いやった人のために、 ″神よ、この者たちを赦し給え、彼等は真理を知らざるがためにこの罪を犯したのですから″という意味の言葉をいっています。(テキスト50頁)

〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
祈りのサンプルとなるので、このような対話型の祈りを知っておくと良い。

(肉体人間を、「神の子」そのものであると思ったりしても駄目)
肉体人間を、神の子そのものであると思ったり、菩薩級であると思ったりして、自分が真理であると思っていることを、頭ごなしに理解させようと思ったりしても駄目なものであるのです。私は長い間の体験で、それをよく知っております。(テキスト54頁)

(「神よ、善き智慧、善き能力を与え給え」)
真に神の膝下にひれ伏して、国家民族の幸福、世界人類の平和のために、善き智慧、善き能力を与え給え、と誠心祈りつづけている人を、私は知らないのです。(テキスト69頁)

〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
このような文章は、祈りのサンプルとなる。

(世界人類は、神のみ手にすがるより方法のない極限にきている)
今こそすべての感情をすてて、神のみ手にすがるより方法のない極限にきているのです。(テキスト70頁)

(色即是空・空即是色)
深般若波羅密多(じんはんにゃはらみった)を行ずる時というのは、深い最高の統一に入って、神と一つの大智憲を獲得した時ということで、その境地に入ったら、五感に見え、六感に感ずるすべてのものは皆空(くう)であることがわかって、一切の苦しみを解脱(げだつ)した、というのです。(テキスト77頁)

〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
色即是空の初めの色とは、本心と業想念の混ざり合った想念行為であり、空即是色の色とは、業想念の無い、光り輝く本心行為をいうのです。このように般若心経では、「悟りを得るには、空になればよいのだ」と教えているのです。その空の境地になる最もよい方法は、現代では「世界平和の祈り」なのであります。

(正しい道を歩いてゆかなければ、天命を完うすることはできない)
個人でも国家でも、ずるい、こそくなことをしてはいけません。如何なる場合でも、正しい道を歩いてゆかなければ、その個人も国家も自分の天命を完うすることはできません。(テキスト136頁)

(日本が総力を挙げてやらねばならぬ唯一絶対なる大仕事)
霊性開発の上に立つ世界平和運動、これこそ日本が総力を挙げてやらねばならぬ唯一絶対なる大仕事なのであります。これが実行出来なければ、日本の天命はないのですから、日本という国の存在価値はなくなってしまうのです。(テキスト143頁)

(日本が国を挙げて行うべき唯一の道)
あらゆる主義主張も一切ひっくるめた、大らかなる平和運動こそ、日本が国を挙げて行うべき唯一の道なのであります。
(テキスト144頁)

(世界平和を大調和の心になって絶叫した時こそ、神々の人類への救いが実現される)
日本は今こそ勇気を奮い起こして、あらゆる対立抗争の想いを捨て去った、世界平和の心になって、世界平和を、世界人類に向って絶叫しなければなりません。真実大調和の心になって絶叫した時こそ、神々の人類への救いが実現されるのです。
(テキスト145頁)

(世界平和の祈りをすることが、日本人に荷せられたる天命)
世界が平和になるためには、まず自分の心を平和にしなければなりません。自分の霊性をひらくことが、日本の霊性をひらくことであり、日本が平和になることは、世界人類が平和になることです。平和になるためにほ霊性をひらかなければならない。霊性をひらくためには祈ることが第一の重要事です。そこでこれをすべて一くるめにして、世界平和の祈りをすることが、私たち日本人に荷せられたる天命であるということになるのであります。日本の世界平和運動は、世界平和の祈りにつきるのであることを私はここに確言するのであります。(テキスト147頁)

(自己を、神霊のみ心の中に、祈り心をもって投げ入れてしまう)
つまり諸行無常だなぁ、という想いになった瞬間に、今そう考えている自己を、神霊のみ心の中に、祈り心をもって投げ入れてしまえ、と説いているのです。消えてゆく姿で世界平和の祈りというのはこういう理論からはじまっているのです。(テキスト159頁)

(世界平和のためになる、唯一の方法は、祈りである)
私たち個人個人が、国家のためにも世界平和のためにもなる唯一の方法は、自分自身が、自分自身の業想念波をぬけ出しての日常生活をすることにあるのです。その方法は祈りより他にないのです。祈りとはいつも申しますように、自己の真性の中、つまり神のみ心の中に融けこんで、真性の自己としての生命の働きを為し遂げる方法なのです。神と一つになる方法なのです。そして、その祈りが、はっきりとした目的をもった祈り言として現わされたのが世界平和の祈りなのであります。(テキスト163頁)

(世界平和の祈りの日常生活をつづけてゆくことが、唯一絶対の道)
私たちの実体は神と一つのものであるのだ、私たちが世界平和の祈りをしていることは、私たちは勿論、世界人類のすべてに、大光明の浄めがひびきわたっているのだ、私たちは常に神々に守られつづけているのだ、ということを、私たちは信じつづけて、世界平和の祈りの日常生活をつづけてゆくことが、唯一絶対の道なのです。個人人類同時成道の光明の歩みは、個人個人の世界平和の祈りによってなされるのであります。(テキスト165頁)

(洗礼とは教会で水をつけることではなく、霊の浄め、洗霊である)
洗礼とは何もカトリック教会で水をつけることではなく、霊体を浄めるということなのです。霊体を浄めるとはどういうことかといいますと、本心と業想念をひきはなして、業想念を消えてゆく姿として消し去り、本心(霊)を輝かせることをいうのであります。いいかえれば、業想念所業、悪い想いに把われないようにさせることが、霊の浄め、洗霊であるのです。(テキスト176頁)

(世界平和の祈りは、神人になる最も近道であり、最短距離の方法である)
世界平和の祈りは、こうした真人(神人)になる最も近道であり、世界人類の真の姿を現さしめる、最短距離の祈りの方法なのであります。 (テキスト182頁)

〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
逆にいえば他の方法は最短の方法ではないといえる。

(肉体人間の余計な想念は神のみ心を邪魔するだけで何んの益もない)
 肉体人間の余計な想念は神のみ心を邪魔するだけで何んの益もないのであって、そうした想念を全託した時にはじめて、真実光り輝く神のみ智慧としての想念行為が、その人その国の行為として現われてくるのであります。(テキスト197頁)

(世界平和の祈りは、思念の力ではない)
 ですから私共の世界平和の祈りは、思念の力で神の光を地上に流れ入らせるというようなものではなく、本来の神性を邪魔する想念の一切を神様の光の中で消して貰って、本来の神性を素直にこの地上界に光らせようというのであります。(テキスト197頁)

(祈りの他に、真理を現わす手段方法があると思うのは誤り)
祈りの道の他に、祈り心の他に真理を現わす手段方法があると思うのは誤りなのです。(テキスト203頁)



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森島恒吉講義録
【目次】

『生きている念仏』
『光明をつかむ』
『愛すること』
『愛・平和・祈り』
『平和を呼ぶ声』
『霊性の開発』
『本もの贋もの』
『空即是色』
『白光への道』
『祈りのある生活』 
『聖なる世界へ』
『運命を恐れるな』
『これからの文明文化』 
『信仰と直観』
『純朴の心』
『直言・提言・進言』
『人類の未来』
『日本の心』
『宗教問答(正)』
『続 宗教問答』
『神への郷愁』
『心貧しき者は幸いなり』
『魂が大きく開く時』
『天命を信じて人事を尽くせ』
『私に荷物を預けなさい』
『質問ありませんか?』
『高級霊は上機嫌』
『責めてはいけません』
『自由解脱への道』
五井昌久講話集・第一巻
『生命光り輝け』
五井昌久講話集・第四巻
『明るい心』
五井昌久講話集・第五巻
『不動の心』
『行雲流水』
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2003.6.18
2008.9.15移動&改訂
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