間96 因緑ということがよくいわれますが、因縁とはどういうことでしょうか、お教え下さい。
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
因縁因果には2種類ある。
業因縁因果(業因を原因とする結果)
本来因果 (本心を原因とする結果)
(心の法則を、自分を責めたり、人を裁いたりする道具として使っていると、いつの間にか、宗教の本質が外れてしまう)
因縁という言葉と同じような言葉に、心の法則という言葉があります。あなたの想いがこうだったから、こうした不幸が出来たのだ、という式の言葉です。心の法則を知り、因縁因果のことを知るのもよいのですが、こうした言葉を、自分を責めたり、人を裁いたりする道具として使っていると、いつの間にか、宗教の本質が外れていってしまって、外道(げどう)と呼ばれる、神のみ心から離れたところに自分の心を置いてしまいます。(テキストP34)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
心の法則には欠陥がある。
心の法則 ≠ 真理の法則
心の法則 = 業の法則
問101 人間が神の子であり、神が完全円満ならば、なぜこの世に悪や不幸が生じたのでしょうか、なるべくくわしくやさしくお教え下さい。
(私〔五井先生〕は、いかなる悪も不幸も消えてゆく姿としている、完全光明思想)
答 (中略)この世の思想は、昔から性善説と性悪説とが入り乱れておりますが、両説ともに肯づけるものをもっているのです。私はどちらの説かと申せば、勿論性善説であり、しかも徹底した性善説、つまり、人間神の子説なのであります。人間神の子説にも種々の説き方があるようですが、私は徹頭徹尾、人間の性の善なることを認めて、いかなる悪も不幸も消えてゆく姿としているのであります。いわゆる全くの光明思想なのです。
(精神分析的な教え方をしている宗教者は、悪や不幸を認めているので、中途半端な光明思想)
他の宗教者の中には、折角人間神の子完全円満と説きながら、その口の下から、人間の心の悪を把えて、おまえの心が悪い、おまえの心の影として病気になったり、不幸になったりしているのだから、おまえの心を直さなければいけない、と神の子であるべき人間の心を責め裁いているむきもありますが、こうした神の子論光明思想は中途半端なもので、ある時は神の子になり、ある時は悪の子になってしまい、人間は果して神の子なのか、悪の子なのかわからなくなり、ついには、人間は善悪混交の子として、神と悪魔の両性の子となってしまうのであります。その教えがいかに悪はないのだ、不幸はないのだ、悪魔はないのだ、と一方では説いていても、罪や不幸や悪を、人間の心として認めて、おまえの心が悪いから相手が悪くなるのだ、という精神分析的な教え方をしているのでは、神の子であるべき人間の心に悪や不幸を認めていることになり、どちらが真実か一般大衆には判然としなくなるのです。
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
「心を直さなければいけない」=「心が悪いものを持っている」
→これは、人間神の子完全円満と矛盾する。
(神は完全円満性であり、神の子である人間には、悪も不幸も病気もなく、悪い心も誤った心も、心の影という暗い影もない。それはすべて消えてゆく姿である。)
誰がなんていおうと、神は完全円満性であり、人間は神の子であることは間違いのないことで、神の子である人間には、悪も不幸も病気もなく、悪い心も誤った心も、心の影という暗い影もないのであります。それはすべて消えてゆく姿であって、神の子としての人間の姿が、真実の姿をこの世に現わすために、未完成の領分が次第に削りとられてゆく、削り屑のようなものであります。 それは前にも申したことがありますが、彫刻のようなもので、神の子像という彫刻像が完成されてゆくに従って、種々な形の切り屑がそのへんにちらばってゆくようなものなのです。
(反省も悔いもない場合には、その人の業想念が消えるはずがない)
問103 消えてゆく姿のみ教えは、腹が立った時、憎いと思ったときに、すぐ消さないと消えないものでしょうか。
消えてゆく姿という教えは、消してゆく姿ではなくして、守護の神霊の光明の中で、自己の業想念を消してもらうのであります。ですから腹の立ちっぱなし、憎みっぱなし、妬みっぱなしでは、そこには少しの反省も悔いもないのですから、その人の業想念の消えるはずがありません。
(業想念を発した直後でなくとも、その業想念は消えてゆく姿になる)
問のように、業想念の起った時に、すぐ消さないと消えないか、というのは、このすぐ消す、というところを、守護の神霊の光明の中、つまり世界平和の祈りの大光明の中に祈り言と共に、そうした業想念を入れてしまうというふうにすれば、業想念を発した直後でなくとも、気持の落ちついた後でも、その業想念は消えてゆく姿になります。
(消えてゆく姿は、神霊の光明の中、世界平和の祈りの中に、おのずと消えてゆく姿となり、本心が開発されてゆく、他力行)
消えてゆく姿の教えは、あくまで、消えてゆく姿であって、肉体人間の側からは、決して消してゆく姿としてはいけないのです。このことは間違いやすいことなのですが、非常に大事なことなのですから、よくよく覚えておいて下さい。自己の意思力や、思念で消そうとするのは、これは自力行であって、余程意志力の強い上根の人でないとできないことであるのですが、消えてゆく姿は、神霊の光明の中、世界平和の祈りの中に、おのずと消えてゆく姿となり、本心が開発されゆく他力の行なので、どんな凡夫にも、老人にも幼児にもできるのであります。
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
守護の神霊に消してもらう。自力行では“消してゆく姿”になってしまう。
(私〔五井先生〕の教えは、絶対他力から入って絶対力になる教えであって、自力のような力みは不必要)
自力のような力みは、私の教えには不必要なのです。力むことは、そのものごとに想いがひっかかっている状態から起っているのですから、把われの想いであって、由由な心になり得ません。私の教えは絶対他力から入って絶対力になる教えであって、しかも何人にも迷いなくやさしくでき得る方法なのです。
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
他力行即絶対力。これを知らないから、真理の宣言行などをして、無理な生活をして、自分を苦しめてしまう。
(絶対力の境地)
自分と守護霊とは一体なのだ、守護霊と守護神とは一体なのだ、自分は大神様のみ心の中で、大慈愛の中で生活している者なのだということを、世界平和の祈りの日常生活の中から、いつとはなく確認してゆけるのが、私たちの宗教なのであります。
(76ページ)
(守護神、守護霊に、死後のことまでもお願いしていれば、これ程安心なことはない)
自己の身近に守護の神霊がいらっしゃって、自分たちの睡っている間も守りつづけていて下さるのだ、ということは、どんなにか安心できることでしょう。この守護の神霊は、その守られている人々が、生れる時から死後の世界までもついていってくれるのですから、守護神、守護霊に、死後のことまでもお願いしていれば、これ程安心なことはないのです。(92ページ)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
「守護霊様、守護神様、死後のことまでお願いします」 と祈ればよい。
問110 自殺しようとする人には、守護霊、守護神はついていないのですか。ついているなら、なぜ自殺などしないように導いてもらえないのでしょうか。
(過去世からの業想念の層があまりに厚すぎると、業想念のままに運命を決してしまう)
答 いかなる人にでも、守護の神霊がついていないということはありませんが、過去世からの業想念の層があまりに厚すぎますと、いかに守護霊、守護神が光の波を送って、その業想念波にその人が巻きこまれぬように注意しても、その人に感応しないで、業想念のままに運命を決してしまうのです。
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
業想念は厚くてあなどれない。「守護霊さま、守護神さま、お守りください」と求めてゆく。
(すべての想念行為を、世界平和の祈りの中へ入れきった生活をしていると、自己の生命を有意義に働かせ得ることができるようになる)
すべての想念行為を、世界平和の祈りの中へ入れきった生活をしていますと、自分でほ考え及ばぬような、智慧才覚が、おのずから、ひょっこり浮んできて、神はからい、神もよおしの想念行為となって、自己の生命を有意義に働かせ得ることができるようになるのであります。(テキストP108)
(地球人類は、未完成の神の子)
神様のみ心は完全円満であられたとしても、この現われの世界はまだ未来にむかって進行中でありまして、完成されていない世界であることがわかります。完成されていない途中の状態では、どんな物事でも、完全であるわけはありません。地球世界は未完成であって、完成へ向っての過程にあるわけなので、地球人類は神の子でありながらも、未完成の中にあって、その完全なる姿を、いまだに現わし得ないでいるわけです。ですから、本来は完全円満である神の子である人間が、この地球界において、その本心本体を現わしきらずにいる過程に現在は在るわけなのです。
間116 私は目下罪悪の問題で混迷中です。生長の家では、罪本来なしと悟れば罪なきなり、といっていますが、実際に過去一切の我々の罪悪が滅尽するのでしょうか、それとも観念論にすぎないのでしょか、お教え下さい。
(実際問題としては、罪本来なしと、悟れるものではない)
答 罪本来なしと悟る、ということは、口や筆では楽にいえますが、実際問題としては、なかなかどうして悟れるものではないのです。
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
人類無罪宣言。
(ただいたずらに、罪本来なし、などといっているのは、観念論ということになる)
ただいたずらに、罪本来なし、肉体なし、病気なし、などといっているのは、あなたのいうように観念論ということになるのです。深い真理を易しく説くことはよいのですが、あまりに、現実から飛躍してしまいますと、言葉としては易しく聞えるが、実際としては手がとどかなくて、その中間に立って、上にも下にも自己の居場所が無くなってしまうような心の状態になってしまうのです。罪本来なし、ということは全く真理なのです。神の完全性の中から、不完全な人が生れるわけがないからです。しかし、これはあくまで、本来なし、本質として無いということでありまして、その本来性、本質が、この地球界に現われるためには、或るこの世的な時間経過が必要になってくるのです。
(いくら自己にいいきかせたところで、単に自己の想念をごまかしているだけで、本質が開いてきているわけではない)
罪本来なし、病気なし、貧乏なし、といっても、自己の奥底の心からそう想わなければ、その罪も病気も貧乏も消えてはゆかないのです。いくら自己にいいきかせたところで、単に自己の想念をごまかしているだけで、本質が開いてきているわけではないのです。そこで、真理を知ると、かえって自己の心が、知らない時以上に悩んだり苦しんだりしてしまうのです。自分は駄目だ、自分にはできない、という工合にです。
(神の子の真実の姿が現われるまでの掛け橋が、消えて行く姿)
神のみ心、神の本質、神の子の真実の姿が現われるまでの掛け橋として、消えて行く姿、という言葉を中にはさんだのであります。
(不完全のように見える姿は、あくまで、神の子の完全性が現われるために、あらゆるものごとの消えてゆく姿なのだ、と説いている)
この地球界に、神の子の光明がすっかり現われきるまでの途中経過としては、途中経過としての当然なことである、完成されていない現実が現われでているので、その不完全のように見える姿は、あくまで、神の子の完全性が現われるために、次第に不必要になってきている、あらゆるものごとの消えてゆく姿なのだと説いているのであります。
問122 キリスト教系の雑誌に(中略)離婚は罪だと牧師さんが説いています。先生はどうお孝えですか。
(もって生れたままの性質なり、想念行為では、過去世からの因縁の運命をくつがえすことは不可能)
過去世からの因縁というものは、そう簡単に消滅するものではなく、再婚なら再婚の運命にあるものは、もって生れたままの性質なり、想念行為では、その運命をくつがえすことは不可能なのです。
(またたく間に失敗してしまうような結婚に、業想念の波の中にもっていってしまわれる)
結婚適令期になり、またたく間に失敗してしまうような結婚に、業想念の波の中にもっていってしまわれます。
(相性の善い妻なり夫なりが自己に選ばれますように、守護霊守護神の加護を願うことが必要)
結婚はなんといっても一度で済むに越したことはありません。そうした結婚生活に入るよう、相性の善い妻なり夫なりが自己に選ばれますように、守護霊守護神の加護を願うことが必要であります。
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
「守護霊さま、お願いします」と祈っていればよい。
(相性の悪い夫婦は、離婚させて、お互いにもっと相性のよい、異性と結び合わせるようにはかってやることが、必要であると、私〔五井先生〕は思っている)
相性の悪い夫婦は、離婚させて、お互いにもっと相性のよい、異性と結び合わせるようにはかってやることが、人生指導者としても宗教者としても必要であると私は思っているのです。そうしてやることによって、一挙に四人の男女の生活が正しいものになり、社会人類の波が、それだけ調うことにもなるのであります。
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
五井先生は、離婚をゆるしている。
問127 空というのは、自分の意識が全然なくなってしまうものなのでしょうか、忘我状態とは違いますか。
(空になった瞬間から、本心の光が、肉体をもったままの人間から、ほとばしり出でる)
空になった瞬間から、真実の自己、本心の光が、そのまま、その肉体をもったままの人間からほとばしり出でるのです。
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
空即本心光顕現
空即実相光顕現
(業の消えてゆく姿が、一日も早く、痛み少く消え去ってゆきますようにと、世界平和の祈りの中で、祈りつづけていればよい)
業の消えてゆく姿が、一日も早く、痛み少く消え去ってゆきますようにと、世界平和の祈りの中で、祈りつづけていればよいのであります。
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
消えて行く姿 = 業
現れてくる姿 = 本心
(業が消えて本心が現れてくる。)
煩悩消滅即菩提発現 つづめて 煩悩即菩提。
「必ずよくなる」
「必ず幸福になる」
「必ず世界は平和になる」