(世界平和の祈りから、自分の生命を礼拝し、他人の生命を礼拝する心が湧き出てくる)
自分の生命を礼拝し、他人の生命を礼拝する、そういう心が自然とこの世界平和の祈りから湧き出てくるのです。 (中略) 皆さんも世界人類を救う一人として、世界平和の祈りを祈りはじめましょう。人類が万物の霊長である実際の姿を、自分を尊び他人を尊び、世界人類の平和を祈りつづける姿の中で、大宇宙にひびかせてまいりましょう。(テキスト23頁)
(神さまのみ心の中に、すべてが備わっている)
神はすべてのすべてであり、人間の生命の根源であって、すべてはそこから生まれでてくるのですから、あなたに必要なものは、すべて神のみ心の中に備わっているのです。ですから、あなたの願っている望み事より、更に更に深い高い、尊い望み事を、適(かな)えてくださることになるのです。(テキスト37頁)
(私(五井先生)も、世界連邦の宗教者会議に、代表者の一人として出席してきた)
先日、世界連邦の宗教者会議が、鶴見の総持寺でありましたので、私も代表者の一人としてまいりました。(テキスト39頁)
(人間は、地球霊王の体の上で生かされている)
事実、この地球は地球霊王の体でありまして、地球霊王の体の上で我々肉体をもった人間は生かされているのであります。(テキスト46頁)
(神の名にこだわらぬほうがよいと思う)
いちいちその神の名にこだわらぬほうがよいと思うのです。(テキスト56頁)
(必要なものは自然と神のほうから与えられる)
智慧の必要な時、物の必要な時、その人に必要なものは自然と神のほうから与えられるようになっているのですから、自己を誇ることもなく、人をさげすむこともなく、ただ、ひたすらなる神への感謝で生きつづけられるので、こんな安心なことはないのです。
(テキスト73頁)
(私〔五井先生〕には、肉眼で見えないテレビに映ってくるようにわかる)
ちょうどそれは、肉眼では見えぬテレビがあって、それに全体が映ってくるようにわかるのです。これは、そうした立場に立たぬと、説明だけではわかりにくいものです。(テキスト74頁)
(一生一代の有意義な平和運動に自己の全力を挙げてもよいと思う)
真に自分を愛するならば、一生一代の有意義な平和運動に自己の全力を挙げてもよいではありませんか。(テキスト92頁)
(祈りによる世界平和運動によって、日本が世界平和の中心国として仕立てあげられてしまう)
世界平和の祈りのひびきが、家々にひびきわたり、家々の軒に、邸の堀に、世界人類が平和でありますようにのポスターがはられ、ラジオやテレビから、絶え間なく世界平和をひびかせる音楽が奏せられているようであったら、 (中略) いやでも日本を世界平和の中心国として仕立てあげてしまうのです。(テキスト93頁)
(自分が喜ぼうとする前に相手を喜ばせようとすることが愛)
自分が喜ぼうとする前に相手を喜ばせようとする、そしてその相手の喜びが自分にかえってくる、ということが愛なのであり、その愛がもっと根本的になると、相手の本質を生かし、相手の生命をいきいきとさせ、相手の人格がおのずと立派になってゆく、というところまでくるわけなのです。
(執着は、相手の生命を縛って、相手の運命を駄目にしてしまったりする)
子供でも夫でも妻でも恋人でも、愛していると、常にその人のことが気がかりになり、いつも想っていなければいられなくなる。これが執着になってゆく。愛する人のことを想いつづけるのは当然なのですけれど、いつもいつも執着しているようですと、相手の生命をあべこべに縛ってしまうようなことになって、相手の運命を駄目にしてしまったりすることがあります。(テキスト100頁)
(私〔五井先生〕の霊体は、同時にどこにでも現われる)
肉体を纒った人間というものは不便なもので、同時に東と西の人に逢うわけにはゆかないものです。ところが霊体は同時にどこにでも現われます。私など常にそうした状態にあって、人々の力になっているのであります。(テキスト104頁)
(世界人類の平和を祈ることは、だれにもやさしくできる人類愛の行為である)
寝ている病人でも、八十過ぎの老人でも、小さな子供でも、たゆみなく、世界人類の平和を祈る、世界平和の祈りをしていれば、しだいにその想いは神の世界、本心の世界につながって、その人の身心が光明化してゆき、世界を平和にしてゆく、光明の伝導体になってゆくのである、というのであります。
これは正しく大愛の行為なのです。だれにもやさしくできる人類愛の行為なのです。(テキスト107頁)
(願望達成法によって叶えられたものは、神のみ心によって叶えられたものではない)
個人的の想いなら、人の一念岩をも徹す、というように、想いが叶うことが随分とあります。しかし、これはあく迄念力でありまして、業を浄めた祈りによって叶えられたものではありません。
宗教によっては「欲しいものがあったら、その欲しいものを頭に画いて、この願いが叶えられる叶えられると一心に想いなさい、そうすればそれは叶えられます」という念力の願望達成の方法を、祈りとして教えているところもありますが、それはあく迄念力でありまして、神のみ心によって叶えられたものではありません。
(テキスト177頁)
(私〔五井先生〕は、我は神なり、といった態度で、尊大ぶって人に接することはない)
ですから私は、世の教祖のように、我は神なり、といった態度で、尊大ぶって人に接することはありません。(テキスト214頁)
(人間は神の子である、と口で言ってみたりしても、神仏の行為になるわけがない)
頭の知識だけで、人間は神の子である、病気だの不幸だのというもののない完全円満な存在だ、と知っても、これは真実心の底から知ったわけではないので、口で人にいってみたり、自分で一生懸命、表面の心にいってきかせたりしても、当人の想念そのものは、神界ではない、三界を経巡っているのですから、実際の行為としては、神仏の行為になるわけがないのです。(テキスト227頁)
(人間は神の子であると想いつづけても、神との一体化ができようはずがない)
しかし当人たちは、そこの宗教でそう教わったのですし、そう想ったほうが心が明るくなるし、勇気も湧いてくるので、そう想いつづけようとします。だがどうも、それは、そう想おうとするだけで、地上にいて天の星にさわろうとするのと同じで、自己の行いがすべて、肉体生活に附随した、肉体生活を基盤にした行いなのですから、神との一体化ができようはずがありません。(テキスト227頁)
(人間神の子観と、因縁因果の教えとが一緒に組まれた教えは、二重の把われの道となる)
まして、前者の教え(人間神の子観)と、後者の教え(因縁因果の教え)とが一緒に組まれた教えについた人などは、或る時は完全円満論、神の子論者になり、或る時は精神分析論者になって、二重の把われをもって宗教の道をいかねばならなくなります。
(人間神の子完全円満を唱えるなら、肉体的人間の願いごとなどあるはずはない)
人間神の子完全円満を唱えるなら、自己が宇宙と一つになる程の気持で、神の完全円満性の中へ、自己をぶちこんでしまわねばなりません。そこには肉体的人間の願いごとなどあるはずはありません。何故ならば、その時から、その人は、完全円満でなければならぬ筈だからです。(テキスト231頁)