(本ものとは、本心そのものを常にその想念行為に現わしている人)
本ものとは、その人の本心そのものをその想念行為に常に現わしている人であり、贋ものとは常に本心をかくして、想念行為につくりごとがある人、ということができます。(テキスト8頁)
(本心のおもむくままと思い違いして、業想念のままに動いている人々がある)
何事によらず、その分野分野において、本心のままに行為している人は本ものなのでありますが、本心のおもむくままと思い違いして、業想念のままに動いている人々が、宗教の世界にも、芸術の世界においてもあるのです。(テキスト10頁)
(宗教の世界では、幽界の生物に肉体を使われてしまっている、贋ものがいる)
宗教の世界においては、神のみ心に通じて与えられた神通力だと思い違いして、幽界の生物に自己の肉体を使われてしまっている、いわゆる贋ものがいるのです。
或るインドの大聖のところに、一人の弟子が、○○という人は、歩いて水の上を渡ることもできるし、象を一瞬にして倒すこともできるし、忽ち起き上がらせることもできる、という聖者です、と話しますと、その大聖は河を渡りたければ、いくらかのお金を出せば船が渡してくれる。また、象を倒したり起こしたりしたとて、人類になんの益もないことである、そういうことで聖なる人ということはできない、といったという話です。(テキスト10頁)
(霊能力はあるが、神仏の道である、愛と調和の心に欠けていたら、贋宗教者である)
これが神仏の道を歩みつづけて、神仏のみ心を体しながら、霊能力がそなわっているとするならば、霊能力者即宗教者ということができますが、霊能力はあるが、神仏の道である、愛と調和の心に欠けていたら、これは宗教者ということはできぬ、贋宗教者であります。(テキスト12頁)
(虚飾を拾て、虚栄の想いを捨てさるにしたがって、本心は現れてくる)
心を飾り、体を飾ったりして、自己を偉大にみせようとしても、そういう飾り心があるだけ本ものに遠くなるので、常に裸の心で日常を生きてゆくべきなのです。裸の心で生きていて、自然と人のためになっている、というような人は、本ものに違いありません。
虚飾を捨てましょう。虚飾を拾て、虚栄の想いを捨てさるにしたがって、本心は現れてきます。次第に本ものになってゆくのです。
(テキスト18頁)
(大人物の特徴)
自分の周囲の人たちにやかましく口小言をいわず、付き合っている人々にも鷹揚な態度で接し、自分を偉く見せようとか、深く見せようとかいう、虚栄の想いがありません。一見して軽くないのか、ものがわかっているのか、わかっていないのか、計ることができません。
他人との普通の付き合いでは、あくまで律気で、常識的で、他をおさえて前へ出ようとすることはありません。(テキスト40頁)
(大人物、西郷隆盛の逸話)
よく私は西郷さんのことを例にとって話しますが、西郷さんが参議のとき、宮中の会議が終わって帰ろうとしましたが、ほきものがないのです。しかたがないのでそのままハダシで出てきますと、門衛が疑っていつまでたっても通してくれません。そこへ岩倉具視右大臣が馬声いさましく馬車で近づいてきました。門衛は西郷さんを叱りつけて、そこにひかえさせました。西郷さんは文句もいわず腰をかがめて雨の中にいました。岩倉さんがふと横を見ると西郷さんが門衛のうしろで、雨にぬれて立っているではありませんか。岩倉さんがいぶかってわけをきき「この人はほんとうに西郷参議である…」と門衛をたしなめ馬車にのせて立ち去りました。門衛はびっくりして立ちつくしていたといいます。
現代の大臣や代議士諸公にこのような態度をとれる人が、一人でもいるでしょうか。(テキスト40頁)
(大人物・西郷隆盛の逸話)
また或る時、弟の西郷従道(つぐみち)の家を訪ねると、従道は不在で、しばらく待っているうち昼食時になり、女中が御飯と汁とを出してくれた。西郷さんは喜こんで「うまいうまい」といって喰べていました。そこへ外出先から従通が帰って来て、自分も同じ昼食を喰べ始めました。喰べているうちに従道は、女中に向かってこわい顔をして「こんなうすい水のような味の汁が喰べられるか」と叱りつけました。すると西郷さんは、従道をなだめるように「まあいいじゃないか、汁のからい甘いなどは、どうと言うことはない。人を叱るに値するほどの大事ではない。食物というものは、人間の胃の腑を満たせば足りるものだ」といったといいます。西郷さんは、一生のうちで従僕やお手伝さんを叱りつけたことは、一度もなかったといわれています。(テキスト41頁)
(大人物・白隠さんの逸話)
或る時、檀家の娘が、男にだまされて妊娠し、赤ちゃんを産んでしまいました。娘は、父親に叱られるのがこわさに、白隠さんのような偉いお坊さんの子供であるといえば叱られ方が少ないと思い、実は白隠さんの子であるといったのです。父親は、激怒して、白隠さんにくってかかりました。白隠さんは、その時少しも顔色を変えず、赤ちゃんを産んだご本人が、そういうなら、私の子でしょう、と赤ちゃんを引きとりました。
その話を聞いた村人達が、今まで偉い坊さんだと思って、尊敬していたのに、とんでもないやつだ、とお寺をおいだしてしまいました。白隠さんは追われるままに、何の言訳けもせずに、赤ちゃんをだいて村を出て行きました。後に、娘が真実のことを白状して、白隠さんの冤罪(えんざい)が晴れ、また再び寺に帰ることになり、白隠さんの名望は更に一段と上がったのであります。
現代のように自分のしたことでも、人のせいにしてしまう人が多いのに、僧侶としては、最も恥ずべき事柄をおしつけられて、そのままその罪を背負っていたという、白隠禅師の大人物さは、その話をしたり聞いたりするだけで、人々の心を高めます。
どうですか、この三ツの話で、大人物というものが、どういうものか、皆さんにもおわかりになったと思います。お互いに大いに学びたいものです。(テキスト42頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
五井先生が偉いと言った人の、小説等を手元においておくとよい。若い時一度読んでも、年月を経て読むとまた別の読み方ができる。
五井先生は、「私は、白隠禅師のしたことと同じことは、やらないよ」とおっしゃった。理由は、時代が違うから。我々は、五井先生もできなかったことを、むりをして実行する必要はない。
(小人物というのは、愛が薄く、自分勝手で、心の狭い人たち)
ところが、こうした大人物を装った小人物がいるのです。それはどういう人かといいますと、いかにもその態度は鷹揚で、人の話にもものわかりよく、いかにも事あれば頼みになりそうな態度をしていますが、実は、常に自己の利害虚栄を基にして、相手の金品や、地位権力を利用してゆく人間なのです。そういう人間は、大きな利益を得るために小さな投資をします。それが或る時は、自己犠牲の姿にみえたり、無償の愛にみえたりするのです。しかし、少しく長く付き合っていると、その人の業の本質が現われて、真の大人物と違うことがわかってきます。
ここで小人物というものについても説明しておきましょう。小人物というのは、愛が薄く、自分勝手で、心の狭い人たちです。ちょっと自分の感情をそこなったといってはおこり、ちょっと損をしたといっては腹を立てる、自分の利害関係だけが常に心に一杯で、人々の幸せを思ってみる心の余裕がないのです。
大人物の心の反対の人と思えば間違いはないでしょう。
(テキスト43頁)
(人間が大きく生きるためには、他の人のために力を尽すということが大事)
人間が大きく生きるためには、自分一人のことのみに力を尽しているというのではなく、一人でも二人でも、他の人のために力を尽すということが大事なのです。そのことが社会とか、国家とか人類という、より大きな働き場の中で、自分の心が働いていることにもなってくるのです。(テキスト45頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
人のために尽くしていると、だんだん大人物となっていく。
(大人物に近づく第一歩は、自分達は何事もなしえない、と思い定めること)
大人物に近づく第一歩として、親鸞(しんらん)ではないが人間は罪悪深重の凡夫である、自分達は何事もなしえない、ということを思い定めることです。全くその通りで赤ちゃんとして生れた肉体から、その肉体を養ってくれている空気や水や食物からすべて、天地の慈愛からのいただきものです。 そういう事実に思い当れば、いやでも感謝の想いが湧いてくるはずです。そういう感謝の想いを基盤にして、そのおかれた立場で素直に生活していけば、いつもいつも自分の生活のことばかりに汲々としている想いが、天地の慈愛の波で消されてゆき、次第に広い心になってくるのです。積極的に社会や国家のためにという働きをしなくとも、小さな自分の心を大きく広げてゆくことは、この人生にとってやはりプラスになるのです。大人(たいじん)の道への第一歩に違いありません。
(テキスト47頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
神様へ感謝していく。神様と一体になることが、大人物になる方法である。
(ひたむきに世界平和の祈りを行じれば、大人物に近づく)
大人物に近づかせるためには、やはりどうしても、過去世の因縁、つまり過去世からの習慣の想いを脱却させねばなりません。(中略) 法然、親鸞の南無阿弥陀仏の方法と同じように、ひたむきに世界平和の祈りを行じさせればよいのです。そうすれば世界平和の祈りの根源である神界の大光明波動の中で、常に過去世からの習慣の想いが消されてゆくことになり、その人の生命は、業をはなれた力強いものになってゆくのです。(テキスト49頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
世界平和の祈りを祈れば、大人物になってゆく。
(世界平和の祈りを続けていると、心が広くなり、見るものすべてが、美しく見えてくる)
日々その光明波動である世界平和の祈りをつづけていれば、当然明るい余裕のある人柄になってくるに決まっています。自分のような者は何をやっても駄目だ、などと思わず、しばらく世界平和の祈りを続けてみてください。自分でも不思議なくらい、心が広くなり、見るものすべてが、美しく見えてまいります。これは世界平和の祈りを実践した多くの人々のいつわらざる言葉です。
(テキスト51頁)
(宗教に入っている人の中には、偽善的で不自然な生活態度の人が、かなり多い)
宗教に入っている人の中には、(中略) やたらに合掌したり、感謝の言葉をのべたり、悟ったような話や態度をしてみせたりする、いわゆる偽善的な行為をする、不自然な生活態度の人がかなり多く生れてくるのです。(テキスト56頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
宗教に入っている人に限って、偽善的な人が多く生まれている。自分をごまかしては、いけない。
合掌や感謝の言葉も、心の中から自然に生まれたものなら良いが、形式だけで、無限なる感謝などと言うのは、偽善である。
(形の上だけの感謝では、自分で自分の行為を誤解し、真の救れの道には至らない)
感謝もしていないのに、形の上で現わしているだけで、心もそれにともなっているものと、自分で自分の行為を誤解してしまうのであります。これは恐ろしいことでありまして、それでは自己の心はそれ以上深まらず、真の救れの道には至らなくなるのです。そして、人々からは、なんとなく、疎(うと)まれる存在者となってしまうのです。人々はその人の態度にはっきりはしないまでも、偽善を感じて、快く思わなくなってくるからなのです。(テキスト
57頁)
(神の前で、裸の心でいても、人々に恥ずかしくない人間になるように心がけるべき)
宗教の道に入ったら、神の前で、常に素裸の心を出して、裸の心でいても、人々に恥ずかしくない人間になるように心がけるべきなのです。(テキスト 57頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
偽善者にならないようにすることが大事。
(自分に正直である、ということも大事)
人間はいい古されている言葉ですが、正直なことがよいことです。人に正直なこともそうですが、自分に正直である、ということも大事なことです。(テキスト58頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
自分に正直だったら、自分が神様になってもいないのに、自分は神である、などとは言えない。
(上徳というのは、自然と行為に現わした物事事柄が徳になっている)
老子の言葉に「上徳は徳とせず、是を以て徳有り。下徳は徳を失わず。是を以て徳無し」というのがあります。上徳というのは、徳を積もうと思って徳をするのでもなければ、徳を積んだと自分で思っているわけでもない。自然と行為に現わした物事事柄が徳になっている、というのであります。 (中略) 上善は水のごとし。
(テキスト80頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
上徳というものは、人為をもってするのではない。
(見せかけの善行為)
善いことをしなければいけない、と追われるような心で善行為をしたり、人に見せかけのための善行為だったり、いちいち誇ってみせる善行為だったり(後略)
(テキスト83頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
誇ってみせるような善行為は、本当の善行為ではない。善行為をしない人よりは良いが、聖人には遠い。
(五井先生のご病気の話)
ところが、十年程前ぐらいまでは、一日約六、七百人の人々に面接しお浄めして休む日とてはありませんでした。
(テキスト91頁)
(五井先生のご病気の話)
だが、肉体をもっている人間にはどうしても限度というものがあります。人々の業の浄めの残さいと、肉体的な疲労とで、体内に痰がたまり、喘息(ぜんそく)のような状態になってまいりました。その様子を見かねた妻や娘や側近の者が、私に否応いわせずその頃本部であった新田道場から、中国分(なかこくぶ)の?c修庵(いくしゅうあん)かほうに私をうつしてしまい、何人(なにびと)も面会謝絶というようにしてしまったのです。 そして、一年二年とたつうちに、痰がたまり、咳になる原因がはっきりしてきたのであります。最初の原因は、勿論働き過ぎの疲労にあるのですが、それまで肉体にまで寄せつけず浄めさっていた、地球の業や人々の業が、肉体の疲労につれて、肉体のほうにまで押し寄せてきたわけで、それが痰のようにたまって内臓を圧迫し、呼吸困難にまでせめたててくるのでありました。そのため、夜など一睡もせず痰を吐きつづけている日が多く、一日千枚もの紙をつかう日もある程でした。
(テキスト92頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
これは、五井先生が晩年に書かれた文章。この頃、個人指導がなくなった。
五井先生は神我一体で悟っているので、業想念がきても全然平気と考えがちだが、五井先生でも、業因縁が消えてゆく姿として消えてゆくことがある。
五井先生が普通の人と違うのは、病気でも病気にとらわれていないことである。五井先生は、三界を超えているので、肉体を抜け出た瞬間に、業因縁をきれいさっぱり抜け出せる。普通は、業因縁をあの世まで持っていって、子孫に同じ病気が出たりする。本来、祈りで業因縁を消せば、業因縁は子孫に引き継がれないはずである。