(五井先生の信念の行)
人間の運命に対し不安や恐怖をもつのは、人間は神の生命を生きているんだ、神によって生かされているんだ、という、神との一体観をもっていないからなので、神との一体観というより、神さまがすべてをみていて下さるんだ、という想いを根本にして、あとはその場その時々を真剣に生きていればよいのであります。
人間は肉体ではない、神さまの分生命なのだ、という真理をいつもいつも心に念じるように想って、習慣の想いのようにしてしまうとよいのです。そうしているうちに肉体人間という感じから、神によって生かされている人間という感じになってきます。そうなればしめたものです。神さまは愛なのだ、ということ。神様によって生かされているんだ、ということ。この二つの真理を知っていることは、人間が生活していく上に非常に大きなカになります。
(テキスト12頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
*** 間違いやすいい点 ***
これらの言葉は、神我一体となった五井先生の心境を表現していると考えるのがよい。
五井先生にはなんでもなく実行できる言葉も、我々には実行するのが難しい。
この言葉を実行しようとすると無理が生じて危険な目に遭う可能性もあるので、我々は、対話形式の祈りに変えて祈りの行にするとよい。
[信念の行⇒祈りの行]
神様、私を生かしてください。
神様、私のすべてをみていてください。
神様、神様の力をお与えください。
すると、祈り言から、信念への観の転換がおこり、自然と五井先生の書いている信念が湧いてくる。
(世界平和の祈りは、大字宙そのものの調和を祈る祈り)
世界平和の祈りは、単にこの地球界だけの調和の祈りではなく、大字宙そのものの調和を祈る祈りなのです。(テキスト14頁)
(事件事柄を現在だけのものとして苦悩する想念は、三界を経巡っている)
事件事柄を現在だけのものとして苦悩する想念は、この世の肉体世界、三界(肉体界、幽界、霊界の下層)を超越することができず、いつまでも三界を経巡(へめぐ)っていることになり、運命の波から消え去ってゆかないのです。(テキスト20頁)
※三界の説明については下図参照。
(長いものに巻かれろ式の業想念との妥協を、調和と考えてはならない)
真の調和というのは、根本に深い神への信があり、真理を見極める心眼が開いていて、自然と業想念波を浄め去ってゆく光明波動が備わっている人でないとでき得ない心の状態なのです。長いものに巻かれろ式の業想念との妥協を調和と考えてはならないのです。(テキスト30頁)
(愛と真を行ずるためには、勇気が必要)
愛と真(まこと)のことですが、愛と真を行ずるためにどうしても必要なのは、勇気ということなのです。愛の行為をしようと思う、真の行いをしたいと思う、しかし、周囲の事情でどうしてもそれができない、などということがよくあります。(テキスト67頁)
(「消えてゆく姿で世界平和の祈り」が光明思想)
消えてゆく姿で世界平和の祈りによる光明思想を、自己の全人格として生きてゆくことが大事なのであります。(テキスト93頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
明るい言葉を言う事が光明思想ではない。
(み心のままになさしめたまえ、と祈りなさい)
本心さんお願いします。わが天命を完うせしめたまえ、(神様)み心のままになさしめたまえ、と祈りなさい。(テキスト107頁)
(想いのカを抜きなさい)
力を抜きなさい。想いのカを抜きなさい (テキスト110頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
力を抜かないと全託にならない。
自然法爾
(テキスト112頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
自然法爾=無為(老子の教え)=み心のまま(キリスト教の教え)
(運命を最大に開運し得る方法は、世界平和の祈り一念で生活すること)
ところが、自己の大半定まっているような運命を、最大に開運し得る方法があるのです。それは、常に自己の全想念を神のみ心の中に投入して世界平和の祈り一念で生活することなのであります。(テキスト126頁)
(世界平和の祈りは、自然法爾の生き方)
世界平和の祈り即そのままの生き方、自然法爾の生き方ということになるのであります。(テキスト128頁)
(他力行は、努力も修業もいらぬと思うのは、実にうかつな考え)
易行道浄土門といいますと、他力行で お任(まか)せで、自分で努力したり修業したりすることの少しもいらない道であるように思い違えている人もありましょうが、生死の大事を超える心になり切る悟りへの道を自己のものとするのに、なんの努力も修業もいらぬなどと思うのは、実にうかつな考えであります。(テキスト164頁)
(お任せする努力、全託への修業ということは、やらねばならぬ重大事)
お任せする努力、全託への修業ということは、どうしてもやらねばならぬ重大事です。(テキスト165頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
世界平和の祈りは神様への全託行である。
易行道法華経
(テキスト177頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
神様に任せていると、絶対力(神様の力)になってくる。これを五井先生が易行道法華経と名づけた。
(如何に立派な教えでも、あまり難しいと、中途半端になってしまう)
如何に善い事柄でも、方法でも、あまりむずかしいと一般大衆というものはそれについてゆけませんで、中途半端になってしまいます。ヨガの行法なども、真剣に生命がけでやれば、それは実に深いところまで、心境は高まるに違いありませんし、生長の家の、肉体無し、病気無しでも、立派な教えであるのですが、一般の人々に、すぐにでもできそうに説きますと、これがみんな中途半端になってしまうのであります。(テキスト177頁)
(中途半端になると、上るに上れず下りるに下りられずで、本人は困ってしまう)
中途半端になりますと、そこに種々と障害がでてきまして、丁度山の中途までは背負って上げてきたが、本人がむずがるので途中で下ろしてしまった、本人は上るに上れず下りるに下りられずで、どうにもこうにも自分の身のふり方に困ってしまう、というような状態になってしまうのです。(テキスト178頁)
(消えてゆく姿という言葉は、こういう中途半端な状態にならぬための言葉)
消えてゆく姿という言葉は、こういう状態にならぬための言葉で、あなたの今の怒りも不安もみんな過去世の習慣の想念の消えてゆく姿だから、その想念を世界平和の祈りの中で消して貰ってしまいなさい、世界人類が平和でありますように、私共の天命が完うされますように、守護霊様、守護神様ありがとうございます、という風になってくるわけです。(テキスト178頁)
(「消えてゆく姿で世界平和の祈り」が、易行道法華経)
これが、消えてゆく姿で世界平和の祈りという、易行道法華経なのであります。(テキスト178頁)
(世界平和の祈りは、人類の最大の易行の道)
世界平和の祈りこそ、これからの人類の最大の易行の道なのであります。(テキスト211頁)
(願わなくても、その人に必要なものは与えられる)
神様というものは、お願いしたから、なんでも願い通りにして下さるというものではなく、神様の大愛を信じて生活していれば、自然と、神と一体の心境になり、身心共に平安な境地になり得るのです。自己の願いごとが叶わぬ、といっては信仰を止めているような人がいたら、その人は、普通いう唯物論者よりまだ悪いということになります。 願わなくとも、神様のほうではその人に必要なものを、御存知なので、いちいち細かいことを神様に願わなくとも、自分や自分の周囲の人々の天命が完うされることを祈っていれば、自分が想っているより以上の物事が与えられたりするものです。
(テキスト226頁)
(世界平和の祈りは、難行苦行せず神のみ心を現わし得る、最大の祈り)
こうした祈りこそ、日常生活そのまま、なんの難行苦行もせず、世界平和を念願する想いが、神のみ心を現わし得る祈りの最大のものなのです。
(全託の境地になり得る最もやさしい方法が、世界平和の祈り)
巧まずして全託の境地になり得る方法、その最もやさしい方法、それが世界平和の祈りです。どうぞ、皆さん各家庭で心の閑な時に、想い悩んだ時に、歌を歌うようなつもりで、世界平和の祈りをして下さい。あなたやあなたの周囲の運命は自ずと開いてきます。そして、そのこと自体が世界人類の平和に役立つことになるのであります。(テキスト229頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
世界平和の祈り≡光明思想≡最大の易行道