(祈り心と念力とは違う)
「祈り心と念力は違う」
祈り心と、念力とは違います。祈りとは、神の生命のひびきに、肉体の想念が一つになって、本心をひびきわたらせようとする、その方法であり、念力とは、自己の思念のカを集中することであります。
ですから祈りは、神のみ心を、常にそこに現わすものですから、その結果は調和したものでありますが、念力は、神とは関係なく、自己の想念意志の力をそこに現わすのでありますから、その人の念力の達成が神のみ心に反する不調和なものであることが多々でてくるのです。
祈りは常に自己の想念を、神のみ心の中に投げ入れて、つまり神のみ心に人間の想いを全託して、神のみ心にすべてをゆだねる方法です。(テキスト117頁)
(念力は、神のみ心が働くのではなく、想念のエネルギーが集中してそそがれる)
念力の場合は、神のみ心である本心が働くのではなく、幽体に蓄積されている想念のエネルギーが、集中して或る目的にそそぎこまれるので、そのエネルギーのカによって、目的が達成されるのですから、他の人や他の集団が同じ目的にそのエネルギーをそそぎこめば、両者の念力合戦になってしまい、両者が傷つくのであります。(テキスト118頁)
(宗教者が、念力を人々にすすめるとしたら、それは邪法であると思う)
宗教的な悟りの境地とは反対の方向のカで、宗教者が、念力を人々にすすめるとしたら、それは邪法であると思うのです。
(テキスト118頁)
(神仏のなんたるかを知り、無明を消滅させれば、業生の因縁因果は消滅する)
真実の神仏の存在のなんたるかを知り、無明を消滅させれば、業生の因縁因果は消滅するということになります。(テキスト143頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
宗教の目的は因縁因果をこえることである。因縁因果の想念(=心の法則)は三界(肉体界・幽界・霊界の下層)の法則であり、祈りによって三界をこえることができる。
(法然上人は、業生の因縁因果の世界から解脱することのむづかしさを悟り、念仏一念の易行道を開いた)
そこで、昔から、腫々な聖賢(せいけん)が現われて、因縁因果を解脱(げだつ)する方法を教えたのであります。しかし、そうした聖賢でさえも、苦心惨胆(さんたん)の未に解脱し得たのですから、そうした特別な意志のある人以外は、真の解脱ということがなかなかできなかったのです。そこに日本では法然(ほうねん)上人という方が現われて、浄土門易行道を開かれたのです。(中略)
その法然上人でさえ、業生の因縁因果の世界からの解脱、つまり正覚を得ることのむづかしさを悟って、念仏一念という易行の道を開いたのであります。(テキスト144頁)
(徹底した消えてゆく姿で念仏行(世界平和の祈り行)まで来ないと、因縁因果の法則を超えることができない)
(法然上人は)そこで自分というものの身心も生活も、阿弥陀様に託して、念仏一念の生活の中で、阿弥陀様から真実の生活を頂き直すのだ、という教えを自分が先頭に立って行じたわけなのです。私流に申せば、この肉の身も幽の身も、その想念行為も、すべてこの業生の因縁の消えてゆく姿であって、真実存在するものものは、神仏と一つになっている、自分の本心、本体のみなのであるから、念仏を通して、自己の本心、本体と一つになるのだ、ということなのです。
ここまで来ないと、この世的原因結果も、あの世をも通した、過去世から未来世にも通じる因縁因果の法則を超えることができないのであります。(テキスト146頁)
(神々の平和そのものの光明カが、働きかけてきている)
神々の平和そのものの光明カが、そうした肉体人類の因縁因果の波を消滅させて、人類本来の神の子的、調和な姿を、この世に導き出そうと、働きかけてきているのです。(テキスト148頁)
(神様を自分のほうにひきよせ、自分の望みを叶えてもらおうという信仰の人は、信念のカや念力の活用に興味をもって、神様を捨てても、そのほうに走ってゆくかも知れない)
宗教の道に入りながらでも、自分の利益のためには、神様を自分のほうにひきよせ、自分の望みを叶えてもらおう、というのがあります。本来は、神様のみ心のほうに自分のほうから精進潔斎して昇ってゆくべきなのに、自分の道に神様を引きこもうというのですから、誤った信仰なのですが、意外と、こんな信仰の人が多いのです。こういう信仰の人は、信念のカや念力の活用に興味をもって、神様を捨てても、そのほうに走ってゆくかも知れないのです。
(テキスト162頁)