(宇宙人は、人類も動物の範疇に入れて研究する、と言った)
私達が宇宙子科学を始めた頃、宇宙人の最初言った言葉は、人類も動物の範疇(はんちゅう)に入れて研究する、という、地球界の唯物的科学者の言うのと同じことを言ったのであります。
(テキスト24頁)
(宇宙人は、観念的に人間神の子と想おうとしていることの愚かさをたしなめた)
これは光明思想の宗教者というものが、あまりにも人間を神格化しようとして、現実の実際面に現われているものを直視しようとはせず、ただ観念的に人間神の子と想おうとしていることの愚かさをたしなめたのであります。(テキスト24頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
ここで言及されている光明思想家とは、S教団の宗祖のことをいっている。
(人間が神の子というのは、業想念波動に把われていない時の心や姿をいう)
人間は確かに神の子であります。光明燦然たる神の分霊(わけみたま)です。しかしそれは、業想念波動に把われていない時の心や姿をいうのであります。(テキスト24頁)
(欲望をそのままにしておいて、人間神の子といくら叫んだところで、神の子の真の姿を現わすことは無理)
そういう欲望をそのままにしておいて、人間神の子といくら叫んだところで神の子の真の姿を完全に現わすことは無理なことです。
(テキスト25頁)
(私〔五井先生〕は、業想念に把われたままでよいから、世界人類の平和を祈願する祈り言の中に入れてしまいなさい、と説いている)
そこで私の教えでは、人間のすべての業想念は消えてゆく姿だ、だからその想念に把われたら把われたでよいから、その想念を宇宙神のみ心である、世界人類の平和を祈願する祈り言の中に入れてしまいなさい。そうすれば、世界平和のために結集して働いている大救世主を中心にした神々の大光明が、その人の本体神の子の姿を現わして下さるのだ、と説いているのであります。
(テキスト25頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
欲望を、本心からの望みへの変換方法 |
欲望 |
⇒ |
「神様のみ心でしたらば〜となりますように」と祈りのなかに入れる |
|
⇒ |
これを繰り返しつづける。すると欲望が本心からの望みに変換される。 |
(心の法則、因縁因果ということを、人々に恐怖を与えつつ説いたり、人の心の自由を縛るような説き方をしてはいけない)
心の法則、因縁因果ということを、人々に恐怖を与えつつ説いたり、その人の心の自由を縛るような説き方をしてはいけない、と主張し続けているのです。私はそのため、現在のその人の心や他の人の心を責め裁くような、その人の心に負担を負わせるような説き方はしないのです。(テキスト87頁)
〔森島恒吉先生のコメント&解説〕
因縁因果とは過去世からのことも考慮にいれたもの。
心の法則は今生のみのことをいう場合が多い。
心の法則(因縁因果)の欠点。
?@人の心に恐怖を与える。
?A人を責める。
(私〔五井先生〕の説くのは守護神宗教)
私の説いている守護神宗教であります。(テキスト88頁)
(世界平和の祈りの中に、自らの業想念を昇華させ、地上の人類と、救世の大光明とをしつかり一つにつなげることだけが、唯一無二の地上人類の救済)
世界平和の祈りの中に、自らの業想念を昇華させ、地上の人類と、天界の守護霊守護神達、並びに救世の大光明とを、しつかり一つにつなげることだけが、唯一無二の地上人類救済であり、地上天国の実現の方法である、と私は叫び続けているのであります。(テキスト88頁)
(守護の神霊と、肉体人間との光の交流を業想念の黒雲が妨げているので、業想念波動のままの運命が転回されてゆく)
人間には誰にでも、守護神、守護霊がついているのですが、そうした守護の神霊と、分霊(わけみたま)の肉体人間との光の交流を業想念の黒雲が妨げているので、業想念波動のままの運命が転回されてゆくので、不幸災難がそこに現われてくるのです。
(テキスト121頁)
(病気や不幸という消えてゆく姿が現われることもある)
病気や不幸という消えてゆく姿が現われることもあるのです。
(テキスト121頁)
(宗教者が病気治しを本職のようにしているのはおかしなこと)
宗教者が病気治しを本職のようにしているのはおかしなことなのです。(テキスト125頁)
(私〔五井先生〕が、病人の家族に大丈夫ですよと言った時、相手がどうとるかは別問題)
私など度々出会う問題なのですが、その人はもう死ぬに定まっているという運命を持った人の家族が、急病ですから、と私に頼みにくるのです。私は大きな仕事で忙しくて行かれませんので、遠隔から祈ることにします。(中略)
しかし、家族に対して、その人は死ぬよ、とは言えません。(中略)私はそんな時、まず魂を救うための光を送ります。そして、大丈夫ですよ、と軽く言うのです。この大丈夫は、魂を迷わせない、ちゃんと往くべきところに往かしめる、という、大丈夫なのですが、相手がどうとるかは別問題です。(テキスト126頁)
(最後の一歩手前で、医師に看せることを薦める)
そして、最後(さいご)の一歩手前で、医師に看せることを薦めるのです。それは、無駄なお金をかけさせたくないことと、病気の苦痛によって払えるだけの宿業(しゅくごう)の借財を払わせてしまい、魂の汚れを少しでも軽くして、あの世に往かせてあげたい、と思うからなのです。(テキスト127頁)
(肉体人間が一瞬にして真の救われを体得する方法は、空になること)
肉体人間が一瞬にして真の救われを体得する方法が、空(くう)になり、無為になる方法なのであります。(テキスト157頁)
(空になると、様々な奇蹟が行なえるようにもなり、安心立命の境地になる)
(空になると)肉体人間ではとてもなし得ない、様々な奇蹟が行なえるようにもなり、想念が何ら惑うことがなくなり、安心立命の境地になるのであります。(テキスト158頁)